※レディスワット側のセルコンに巻き返しを図る結末ですが、ちょっと悲しい終わり方なのでセルコン繁栄の『Epilogue』でよいと思ってくださればこの先は未読で結構です。若干サイドストーリー的なので。どうしても消しきれなかったanother-endです。大変申し訳ありません。
「さよならの向こう側」
【レディスワットPD チームZERO スタッフルーム】
―――――――――――― 1か月後。
「・・・メディカルサイエンスセンターから?なんで」
奈津美は奈那の言葉に疑問を声をあげた。
「厚生局からのメールとご丁寧に総務経由で封書まできてるよ。健康管理部の部長の命令書、健康診断の未受診者だって」
副長の奈那は面倒くさいね、と自分の封書と一緒に来た奈津美の封書を彼女に手渡した。
「そういえば、前はよくセンターのヒーリングルームに通ってた。ERの稲垣君に無理言ってやってもらってた。結構、リラックスできたっけ」
まるで遠い昔を思い出すように奈津美は遠くを見つめた。
「こんな忙しい職場で定期的な健康診断なんて、厚生局も緊張感のない、暢気なコトでまぁ。命令書だなんて一生懸命な努力をすること」
厚生部長の文書を斜め読みで読み流すと奈那はそれをミーティングデスクに、はらりと放り投げた。
「でも今日明日は特に要人警護の要請は入ってないし、シフトも明けなんですから行ってきたらどうですか。チーフと副長で」
コーヒーカップを片手に弘美が二人に勧めながら、無造作に投げだされた文書に目を通す。
命令書に重なるように2ページ目についたリストをみて弘美が吹き出した。
「ハハハハハ」
「なに?そんなつまらない味気ない命令書に笑えることなんて書いてあるの?」
奈津美は薄々感ずいて笑いを隠せない。
「何なんですか、一体。言ってくださいよ、ねぇ」
瞳が弘美の反応を読み切れずに焦れた。
「誰も、チーフと副長を笑えないわ。全員よ、私たちのチーム全員が未受診者にリストアップされてる。ほかのチームはさすがに全員なんてない。私たちが元いたチーム6だって1人だけ」
全員が吹き出して笑う。
「まさか、全員なんてね」
誰もが口にした。
「これ見ると、業務に支障を来さないよう2カ月かけて、私たち全員にいずれ呼び出しの強制受信命令書が届くって書いてあるよ」
弘美はそう言って2枚目にあった呼び出し者予定リストをピラピラとみなに見せた。
和やかな雰囲気だった。
「チーフ、稲垣さんからタイミングバッチリで伝言来てます。今日は稲垣さんが検診のヘルプに入っているから顔見せにおいでって」
チームの共有パソコンのメールリストからメディカルサイエンスセンターのメールを見つけて涼子が言った。
「あと、京香さんは非番でお休みだそうです」
チームの状態は、すこぶるいい。1枚岩としての結束は疑う余地もない。
奈津美は十分満足だった。
昨夜のアラブ産油国大使主催のパーティのガードでも、奈那、樹里、美香と奈津美はパーティ後に十分に依頼主のVIPたちに可愛がってもらった。
本来のSP業務より依頼主からの寵愛を受けられることが楽しみとさえ思えていた。
その余韻がまだ快い疲れとして下半身に残っている。
(明けだし、受診に行きがてら稲垣君の様子でも覗いてヒーリングでも受けようかな)
奈津美は奈那に目くばせをする。行く?と声をかけるとそうだね、と奈那も同意する。
すでに昼近い。明けの終業時刻ジャストだった。
「よし、諸君達の先陣を切って、チーフと副長が行ってくるよ。みんなもいい?こんなことでチーフの管理監督の勤務評点を下げられたらキミらにルークスでごちそうできなくなるからな」
奈津美のおどけたセリフにみなが爆笑し、それは困る、絶対受診しますと笑いながら素直な答えが返ってくる。
「じゃあ、行こうか。奈那。涼子、稲垣さんに連絡入れといて。命令書に従い、伊部・松永2人行きます、と」
「はい。りょ~かいです」
奈津美と奈那の二人はすでに制服の上着を脱いできつく締めたネクタイを外すと自分のカバンをもってロッカー室へと去っていく。
「今日は私が当直長ですから、安心してリラクゼーションも受けてきてください」
そう言って麻衣子が二人の肩をポンとたたいてスタッフルームから押し出した。
「あぁ、そうさせてもらおうかな。センターを出る時に一度連絡を入れる。何かあれば、報告して」
「はい。了解です」
麻衣子は笑顔で二人を送り出す。
奈津美は充実した職務の中で今日くらいは安心してオフにしようと決めた。
【警視庁メディカルサイエンスセンター】
稲垣はいくつも扉が並ぶラボと呼ばれる問診室群、その待合室のベンチに座ってくつろいだ様子で奈津美が出てくるのを待っていた。
健康診断の結果を聞く医師とのカウンセリングを終え、個室のラボから奈津美が出てきた目の前に稲垣が座っていた。
「あら、待っててくれたの。久しぶりに来たんだもの、すっぽかすわけないでしょ。痛い治療ならいざ知らずヒーリングルームは私の心のオアシスだもの」
奈津美は医者から受け取った検診結果のレポートを片手に微笑んだ。
「さてと、総合結果もよかったようだし、その心のオアシス、ヒーリングルームにご案内するために待っていたのだよ。不肖、稲垣はね」
「あら、そりゃ、どーも。今までにない、随分と丁重なおもてなしじゃない?」
「死線を彷徨ったんでしょ、伊部チーフ殿。無事のご帰還に敬意を表して、ね」
「フフ、どうかな?さっきラボの反対側の看護士用の行きかう通路側から覗いてたでしょ、私の背中に聴診器あてて先生が心音確認してる時・・この変態!」
「イテっ!」
奈津美の痛烈なデコピンが稲垣の鼻先に炸裂した。
「ってぇなぁーっ!」
「アハハ、いい気味よ。私の裸を見た罰よ」
そういって二人はゆっくりヒーリングルームへと歩きながら会話を弾ませる。
言っちゃ悪いが・・・・・稲垣は急に神妙な面持ちで廊下の中央で立ち止まると奈津美に真剣な眼差しを寄せる。
「・・・・夢も希望もある艶のある20代の女の子の絹のようなスベスベ肌の背中じゃないな。あんな傷だらけで、貫通痕まで残って・・・」
「気のしてくれるの?あの文句ばっか垂れてた稲垣君がねぇ~。でも・・・スワットである以上、もとよりオンナ捨ててるよ。傷だって勲章。そう思ってる。前にも言ってたはずよ、女性を犯罪被害から護る、その1点を貫けるなら自分の体への消えない傷跡だって何ら苦じゃない」
あっけらかんと奈津美は応えた。その表情には悲しみのかけらも見せない凛とした意志の強さがと覚悟がうかがえた。
「変わったな、伊部ちゃん。充実してるって顔つきだ、前はもっと、なんか、こう悲壮感?、そういうの全身から漂わせてたのに」
「前は前!今は、とっても満足よ。チームは異動したけれど、今の仕事にやりがいを持ってる。充実してるの」
奈津美の瞳は嬉々として輝いて見えた。
その笑顔が稲垣には奈津美が悲しみを底にたたえた笑顔であるとしか思えなかった。
早く行こうよ、と奈津美に稲垣の方が促され二人は再び肩を並べて歩き出した。
「だから言ったんだ。やめろって、やめたほうが良かった、危険だったんだ。わかってたはずなのに。『充実してる』?今の仕事にか?以前の伊部は生きてんの精一杯ってカンジで悲壮感さえ漂ってたんだ」
「ありがとう。心配してくれて。でも大丈夫、私は辞めないよ。今の仕事にやりがいと充実を感じてる。たとえキツくったって、今の私なら耐えられる、いえ仕事を楽しんでるわ」
稲垣は強がりではなく、心から誇りをもって言っている奈津美の顔を直視できなかった。
強がりでもカラ元気でもない、心から仕事への情熱と誇りを口にする奈津美を見て稲垣は目を潤ませた。
「到着だ。せめて今日の短い時間だけでもゆっくり癒されて行ってくれ」
ヒーリングルームの制御室と卵状のヒーリングカプセルの並ぶ完全防音のヒーリングルームへと続く分岐の扉にたどり着いていた。
「短い時間?せっかく来たんだし、明日は非番になるから3時間ぐらいはたっぷり癒されていくつもりだよ。おっつけ奈那も来ると思うから頼むね」
「わかった。今日はカプセル21番に入ってくれ。最新型の『X-ES』だ、フィトンチットのガスが全身の疲労をゆっくりと和らげ、人工的に深々度の睡眠を催す睡眠導入波動照射がついた最新機能機種」
「へぇ~、いままでの20機も最新鋭だって行ってなかったっけ?」
「嗅覚・視覚・聴覚・触覚に刺激を与えてストレスや外的なショック症状を和らげる様々な工夫が凝らされている。センター自慢の最新鋭の導入機器のさらにハイグレードタイプだよ、X-ESは。PTSD対処の効果も期待できると言われてる」
「ふ~ん、すごいね。でも今の私にはPTSDなんかこれっぽっちもないからね」
おどけて胸をドンと拳で叩くと奈津美は稲垣の指示通りにカプセル21番に着座する。
ゆっくりとカプセルが閉じていく。
外部からの音や光が遮断された中で稲垣の言うようにほのかな森林のような香りが漂い始めると奈津美は心地よい眠気に誘われて気が遠のいていく。
小川のせせらぎ、鳥の声、涼しげな風が木立を揺らす音、遠くから聞こえる波音、それが体にしみこむように同化していくようだ。
(ふふん、悪くないじゃないか。私の辞めたあとにこんな設備が入っているとはね)
奈津美の中に存在する鷹野美夜子も何をされるのかという緊張感があったが、奈津美の過去の記憶からは悪い印象もなく、美夜子も奈津美の意識に身を預けたまま一緒に堕ちていった)。
【メディカルサイエンスセンター ヒーリングルーム】
奈津美はゆっくりと目を開けた。
ヒーリングカプセルは開いていて目の前に稲垣と、数人の見知らぬ男女スタッフが心配そうにシートに身を任せる奈津美の顔を覗き込んでいた。
「い・・・いなが・・き・・くん・・・」
「お目覚めか?傷だらけの眠り姫。ゆっくり休めたかな?」
寝ぼけたような表情はだんだん意識を取り戻し、以前の職務中に見せる真剣で鋭利な刃物のような眼差しの奈津美の顔つきに戻ってきた。
ガバッっと上半身を起こして稲垣の白衣の襟を掴んで自分の目の前に引き寄せる。
「キ、キスなら舌も入れて」
稲垣はおちょぼ口にして奈津美の目の前に唇を近づけた。
意にも介さず奈津美は掴んだ白衣の襟を思い切り稲垣の体ごと揺さぶった。
「稲垣ぃ、今日は何日だっ!あれから何日経ったーっ!」
その言葉を聞いて稲垣は目配せで他のスタッフをヒーリングルームからコントロールルームへ下がらせた。
ヒーリングルームのカプセルは奈那の入った「No.22」とカラーリングされた1台だけが稼動していて他は卵状のカプセルの扉が開け放たれている。
中からは遮光されて見えないが、外からは偏光ガラスで中の様子が見て取れる。
奈那はリクライニングシートに横たわり頭部をすっかり覆ったヘルメット上の機器から光が明滅し、ヒーリングマシンではありえない歯科治療台のアームのようなものが自動的に動いて頭部のヘルメットに配線や注射のようなものを施していた。
奈津美は奈那の入るカプセルに視線を向けた後、もう一度稲垣に目を向けた。
「お帰り。無事の帰還、本当に何よりだ。ただそれを喜んでいいのか、オレは複雑だけど・・・」
さっきのキスを迫った時とはうって変わって稲垣自身も表情が堅い。
奈津美の人格を確認するための稲垣の考えた道化だった。
「・・・・・・・・いろいろあったようね」
稲垣はうなづきながら見慣れないスマートフォンを奈津美に差し出した。
画面に映るカレンダーで稲垣はさりげなく奈津美に時の経過を悟らせる。
「こ、こんなに時間がたっているなんて・・・・・」
「それ伊部ちゃんの携帯、預かってたの返す。とりあえず、今日の検診もヒーリングも無事に終わったから、奈那さんが終わり次第、オレと飲みにいくことにしたと。明日の非番はゆっくりと休ませてもらうと連絡入れてください」
「わたしの・・・携帯・・。れ、連絡は誰への連絡?」
「レディスワットのチームZERO・チーフ伊部奈津美が、今日の当直の麻衣子さんへの職務連絡。何か言われたら調子を合わせて」
「チームZERO?チーフ?私が・・・・。わかった、とりあえず電話する。するけど、この携帯の使い方、どこを・・・」
奈津美自身の携帯だと言われて稲垣から渡されておきながら操作に手間取る奈津美に、稲垣が代わりにコールまで操作して奈津美に手渡した。
奈津美は言われるがままに稲垣の言うとおり、電話口の麻衣子に事の次第を伝えた。
彼女からは特に何もないので楽しんできてとねぎらわれた。
「ゆっくり話そう。まずは自分の襟口から胸と腹を覗いて見るんだ」
言われるがまま検診着の首周りの襟を前へ引っ張って奈津美は自分の胸や腹部の裸体を見る。
顔を舌に向けたとき、頭部が動く。
うなじに触れた何かを奈津美は先に触れてみる。
それはヒーリングマシンの壁面から奈津美の後頭部に差し込まれたように伸びた数本のコードの束だ。
それがわかると奈津美は稲垣の指示に従う前に目を閉じて悲しげにこうべを垂れた。
自分がマシンとコードでつながれている。
その意味を彼女は十分理解している。
絶望感―――ではないが、奈津美にとっては悲しい現実に違いはない。
うなだれてしばらくは動かない。
キラっと室内の照明に反射して落ちた奈津美の涙をみて稲垣は見ないフリを装うように顔を背けた。
(いくら彼女が自ら志願したとはいえ残酷すぎる・・・やりきれないよ)
声に出さずに稲垣も暗い気持ちになった。このコだって、こんな仕事についていなきゃ、きっとこの容姿だ、すぐに恋人が出来てデートや結婚など希望に胸膨らませる普通の女の子をしていたに違いない。
稲垣は奥歯をギリッと音が出るほど噛み締めた。
自分の無力さに腹が立った。
そして、彼女にその選択をさせた組織に対しても。
きっと彼女の落胆振りは言葉でなど慰め切れないだろう。
鼻をすすって赤く目をはらした奈津美はそれでも意を決したように一度顔を上げると稲垣の指示通り、検診着の丸首の首もとの襟を引っ張って視線を自分の上半身の裸体に移す。
視線に入ったのは弾痕のあとのような傷跡が幾つも見えた。
さすがに少なからずショックを受けて目を潤ませると、やり場がなくあたりの天井を見回すようにして涙が流れるのを稲垣に悟られまいと隠した。
「いいんだよ、泣いたって。覚悟してるって言ったって、20代の魅力ある女性でしょ、伊部奈津美は」
「うるさいっ!ちょっと、びっくりしただけだ。覚悟はしてたっ!江梨子の死の証拠を京香に聞かされてから、とうに・・」
奈津美は強がって見せたが、言葉に勢いがない。彼女の涙はおそらく全てを悟った上での悔し涙だ。
「ありがとう。キミのおかげだよ、伊部君。テストは成功だ」
空気を読まない厚生局の局長が他のコントロールルームのスタッフたちが止めるのも聞かずにのこのこと稲垣と奈津美の前にやってきていた。
さらに局長は言葉をつなげる。
「キミの勇気ある決断には心から敬意を表するよ。これで厚生局は警察の本来業務である治安を護る一翼を担う役目につける。少なくとも職員の福利厚生なんて二次的な職務だけと馬鹿にされ続けた我々の存在意義をキミが一気に押し上げてくれた。感謝してもし尽くせな―――――ぐわっ」
最後まで言い終わらぬうちに稲垣に正面から殴り倒された局長は鼻血を流して床でもがいている。
「やめなよ、稲垣君。自分の立場を悪くするだけだよ。局長の言うとおり、このTESTは私が自ら志願したものだし。あなたのおかげで大きな結果と、『無事の帰還』が出来たわけだしね・・・・・」
奈津美は稲垣の局長への態度を諌めるように呟いた。
「TEST、TESTだぁ?局長、あんた本当にそんな軽い気持ちで今の彼女に話しかけてんのか。明らかにこれはTESTなんてたった数文字でなんか言い表せない。人権を無視した人体実験もいいとこなんだぞっ!」
「ひっ、ひぃーっ」
稲垣の怒りに局長はやっと場の雰囲気を理解してヒーリングルームを飛び出していった。
追いかけていこうとする稲垣の腕をカプセルから奈津美の腕が伸びて力強く掴んだ。
「やめて、稲垣。あの人も協力者の一人だ。こうして私が私でいられるのも君の外科医としての能力の高さのおかげなんだから。これで、セルコンを壊滅できるなら、江梨子の死が無駄にならないのなら、私・・・本望・・・」
そう言って奈津美は泣いた。
もうその後は何を言っているのか稲垣には十分聞き取れなかった。
稲垣は奈津美を強く責める気にはならなかったはずなのに、昂ぶった感情は奈津美にも向けられた。
それはさっき廊下で奈津美に言った言葉と変わりなかった。
「だから言ったんだ。やめろって!やめたほうが良かった、危険だったんだ。わかってたはずなのに。『充実してる』?今の仕事にか?以前の伊部は生きてんの精一杯ってカンジで悲壮感さえ漂ってたんだ。でも自分を粗末に扱うようなマネはしなかった!」
「江梨子とはずっと一緒にやってきたの!なにものにも代えがたい親友だった。彼女が死んで私の中の一部も死んだ。江梨子の死を無駄になんか出来ない!わたしなんか・・・・」
奈津美は人目もはばからずに顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「・・・・祐実はやっぱりセルコンの一員だったの?」
稲垣は悲しげに首を左右に振った。
「違う。おそらくは彼女も利用されたクチだ。彼女は所轄勤務に異動したよ、本人のたっての希望でね」
「そう・・・彼女にも、なにかあったんだ」
「それも、これも、キミのライフログの解析がまとまれば明らかになる。組織としては美味しい内容でもキミにとっては知るに堪えない内容ばかりだと思う。それでも知るか?」
奈津美はもう決めているといったふうに弱々しくうなづいた。
『ライフログ=システム』は、チーム4の所管である宗教の名を騙るカルト組織や非社会的集団に接触・潜入捜査するために稲垣の医療チームと科警研特殊技術研究班が共同で開発中の脱洗脳対策システムだった。
潜入捜査する捜査員の耳小骨さらに奥、聴神経部にメモリーとなる生体エネルギー(体温や日常生活上の体にかかる振動)を駆動エネルギーとし、そこから脳幹・海馬をはじめとする脳の主要組織、視覚・聴覚に糸状のセンサーを張り巡らせ、捜査員がどのような場におかれ、どのような処遇を受け、体にどのような外的・内的要因をもたらされたのか感情に左右されることなくあくまで客観的に克明に記録するものだった。
それは24時間365日記録される。個人情報保護どころではなく人権とか人間の尊厳などさえ意に介さないチップだ。
装着者のプライベートは完全にログから、それを見るものに明らかにされる。
本人の感情部分を排した視覚・聴覚・行動に関する記録をするマシン『ライフログ=チップ』。
本人の私生活は、交友関係、親子関係、恋人との性交内容などそれに伴う会話や視覚で捉えた人物の映像や生体に及ぼしたオーガズム、生理、排泄、自慰、勤務の勤怠、あらゆる生活行動が公になってしまう。
チーム4には任務のため、洗脳の危険を察知し、潜入先での連絡や記録のリスクを最小限に効率化し、仮に取り込まれても脱洗脳のために大きな効果があると言われても到底受け入れられるワケもなかった。
しかもシステムは開発中、最終的には人間自身をモルモットにした治験、TESTが必要であることは、ライフログ=システム存在価値さえもリスクを盾に疑問視された。
研究は予算の関係もあり縮小・無期延期の方向へと傾きかけた時、奈津美がその存在を稲垣から知って、成功した暁には稲垣の所属する厚生局長の功績とすること、失敗してもTESTは自らの意思で行ったことであり、その責は自身が負い、厚生局に一切の問責をせず、システムの存在も秘匿することを条件として研究予算は守るられた。
江梨子をあの事件で失い、京香から祐実の薬物による洗脳の可能性が語られたあの日、奈津美は先を見越して、自らの身をモルモットとして差し出した。
ヒーリングの機会を利用し、ライフログ=システムの関与を稲垣の手により自分の記憶からも消除させた。
WIN・WINの関係ですよ、成功すれば局長は捜査当局の中枢への厚生局の権威づけをなさることが出来た立役者となれるはずです。
奈津美は稲垣に局長との面会をセッティングさせ、その場で彼が見たこともない言葉巧みな話術と、少なからずレディスワットに興味をもっていた局長のスケベ心を揺さぶって了解をいとも簡単に取り付けたのだ。
「ライフログ=システムはもとのコンセプトは脱洗脳が目的、そのため今現在のキミの記憶に関する全ては、このホストコンピュータにコピーされる。再び、キミがこのシステムに向き合うときは、何日、何ヶ月、何年経とうとも今日の自分に戻る。そのときは生存に関する機能以外、脳の記憶・そのときの意思に関する基幹は全て休眠状態となり、記憶はホストコンピュータから接続される」
稲垣は当時の奈津美との会話を思い出す。
「わかってる。資料には全部目を通した。お願いするわ、稲垣君」
「このシステムの欠陥もわかって言ってるのか。開発途中のこのシステムでは脱洗脳とはいっても、ホストに記録した記憶を洗脳された脳に上書きして治療する。その方法は開発中、対象者の記憶のエクスポートは確立できたけど、インポートはできない」
「わかってる。でも記録した記憶を直接接続すれば、記録当時の洗脳前の自分でいられるわけでしょ」
「・・・・・この狭いカプセルの中だけで・・・な」
「それなら、自分が何をされたかわかる。ライフログが全てを暴いてくれる、組織の全貌を掴み次の手を打ち、組織の壊滅も可能よね」
「キミの・・・伊部奈津美の自己犠牲の上にね」
「上出来よ。覚悟は出来てる。所詮、女を喰いモノにするのが目的の組織、それぐらいのリスクは承知の上よ」
奈津美はそういってこれから後に自分が被るリスクを見透かしていた。
「いいのか、本当にそれでいいのか。そんな危険を冒してまで職務を遂行する意義があるなんて思えない。今からでも遅くない、止めろ、いや、レディスワット自体辞めちまえ!」
そこまで言って稲垣は奈津美に頬を張られた。
「ごめん。稲垣の言ってることは一般的にはいたって正論。でも、でも私はセルコンが許せない、江梨子を失った今、自分の気持ちは誰にも変えられない」
稲垣は奈津美の決意の堅さにあとは粛々と処置を進めるだけだった。
稲垣は、数ヶ月前の奈津美との会話を回想していたが、はっと我に返り奈津美を改めて見つめた。
奈津美は一気に怒りを顕わにしたかと思うとライフログから自分の状況を知って悲しくなっていた。それが覚悟の上で自分の意思で決めたことだとしても。
(彼女の気持ちを汲んでやるしかオレにはできない・・・か)
「稲垣さん。伊部奈津美さんのライフログの解析終了しました」
スタッフの一人がコントロール室からマイクで稲垣に声をかけた。
「最重要事項レベルだけ抜粋して持ってこい。本人に見せる」
「で、でも本庁へ送れと局長が・・・・・」
「いい!そんなの後回しだ!命がけでTESTに身を投じた本人に見せないでどうするっ!知る権利のプライオリティは伊部奈津美自身だ。早くもってこい!」
稲垣の怒声に慌ててスタッフが十数枚のレポートを2部、稲垣に手渡した。
「ほら、伊部ちゃん。アンタの空白の記憶を埋めるライフログだ。ショック死しかねない内容だがそれでもいいんだな?」
奈津美は怒りの収まらない稲垣に小さくうなづくとレポートを受け取った。
稲垣ももう一部の複製を呼んで奈津美より沈痛な面持ちを顕わにする。
丹念に丹念に2人はライフログと呼ばれたレポートに目を通していく。
しばらく紙をめくる音だけがする静寂の時が流れた。
「・・・・・ありがとう。稲垣君、これでセルコンの壊滅に望みをつなげることができる。ここに出てきた人物だけでも政・財・官など、かなりの大物。あとはこれをどうするかは本庁のあの『機関』に任せたい」
「伊部ちゃん、あんたが文字通り人間尊厳も女も捨てて、命を削った結果だよ。それでいいのか。あいつらは受け取ったデータを過去にない最大級の利用価値のあるものと認識こそすれ、そこにどれだけの犠牲があったことなんか知ったこっちゃないんだぞ」
その言葉に奈津美は刺すような視線を投げる。
「だからって!だからって、これを知って私が、私たちのチームが正義を貫けると思う?セルコンにいいように染め抜かれてしまった私がっ!私のチームがっ!うううぅぅ・・・・」
「おい!彼女のライフログを本庁に送信しろ!ただし、完璧にプロテクトをかけて部外者の閲覧を不可能にして、だ。すぐにやれ!」
「はい」
稲垣の指示のもと、コントロール室で作業が進められる。
「ありがとう。稲垣君。いつかきっと、私も助け出してもらえると信じてる。さあ『今』の自分に戻して」
「いいのか。これでまたキミはナイトホークという組織の能力者に寄生され、セルコンのために働く「女」に戻っても」
「・・・・いい。もっともっとセルコンの詳細をライフログに集めてくるわ。そしていつか、あなたが、私のいるこの国の組織が助け出してくれることを信じてる」
稲垣は精一杯のカラ元気で涙で濡れた笑顔を向ける。
そのあと、立て膝に顔を埋めるようにして泣き崩れた。
慰める言葉が稲垣には見つからない。
(馬鹿野郎、誰かが正義を行えば世界の半分は怒り出す、ケルベロスのフレーズにだってあるじゃないか・・・・。奈津美、お前の身を賭した犠牲の上に入手した情報は、受け取る相手によっては握りつぶされる。公安、検察、特務局、何処へ出しても。あの機関だけにしか頼れない・・・)
「稲垣さん。データは本庁特捜情報解析局の草薙さんが受理しました。レベルAAA情報扱いとして伊部さんの要請ルートで処理されます」
コントロールルームのマイク越しにヒーリングルームのスピーカーに報告が入る。
「聞いたか、伊部ちゃん。ライフログからの解析が始まる。セルコンの壊滅の第1歩は踏み出されたぞ」
「・・・・うん、ありがとう」
「伊部さん、稲垣さん。まもなく松永さんのヒーリングタイムが終了、覚醒モードに入ります」
コントロールルームの言葉に二人は顔を見合わせた。
「稲垣君、そろそろお別れね。こんど会えるのはいつかしら・・・」
「まるでデートの別れ際みたいだな」
「お願い、何があっても、私がどんなにあなたを遠ざけようとしても、見守っていてくれる?」
「・・あ、ああ。必ず元の伊部奈津美に戻してやる。セルコンは必ず壊滅させる。今は、今は、堪えるしかないけど」
「うん。信じてる。さようなら」
そう言うと奈津美はゆっくりとリクライニングシートに身を沈め、目を閉じた。
カプセルがゆっくりと閉まっていく。
「さよなら、稲垣くん」
最後の声に稲垣はかすれた声で「じゃあな」と応えるのが精一杯だった。
―――――――20分後
再びカプセルが開く。今度は2つ同時に。
「御機嫌よう、二人の眠り姫、気分はどう?」
稲垣の言葉に伊部奈津美は大きく伸びをした。
「おっはよー!やっぱり、サイコーだね。ここのヒーリングはっ!生き返ったカンジ。最新型もいい出来じゃない」
にこやかに奈津美は応えた。
「じゃ、センサー関係をはずすからそのままスタッフに身を任せて、松永さんもね」
言われるがままに二人の周りに歩み寄ったスタッフたちが彼女たちにつけられたセンサーコードの類をはずしてく。
「うーん。驚くべき数字だね、以前の伊部奈津美とは思えないほどストレス値は減少している。公私共に充実してるッて言うのもまんざらウソじゃなさそうだ」
そう言いながら稲垣は奈津美と奈那に測定したアルファ波などのヒーリングレポートを差し出した。
「でしょ、でしょ。チームZEROは一枚岩の結束を保つ私のチーム。私がチーフなんだもの、メンタル面でのケアは自分自身にも仲間たちにも怠りないわ」
カプセルから出ながら奈津美は自慢げに稲垣の脇腹を小突いた。
「はいはい、聞き飽きました。ストレスがたまってなくても、またおいで。今度はこっちの愚痴でも聞いてもらおう」
「ふふふ、立場逆転ね」
「どうだい。これから飲みにでもいかないか」
「やだ。疲れたから私帰る」
真顔で奈津美は稲垣に言った。
「えっ・・・・」
稲垣が言葉を失う。
「うっそ!以前の私ならそう言っただろうけど、今の私は違うから。奈那、あなたも行こうよ。明日は非番だし」
奈津美の言葉に奈那も笑顔を返した。
「じゃ、勤務時間終わるまでのあいだ、着替えて待っててチョ。あと少しだから。じつはさっき擬声機を使って奈津美さんのフリして麻衣子さんには飲みにいくって連絡しちゃったんだよ」
稲垣はほっとした様子で二人から預かったロッカーキーと携帯を渡す。
「稲垣ぃ!あんたも結構やってしてくれるじゃない。でもあんたの全額奢りだから許す」
「えぇっ!そりゃないでしょ」
「細かいコト言わないの。じゃ、着替えたらロビーの待合室で待ってる」
「OK、飲もう。割り勘で」
「だめ、奢りよ。これでどう?」
そういって奈津美はいきなり稲垣に抱きついてキスをした。
「な、な、な、なにするのっ!伊部ちゃん」
「アハハハハ、奢ってもらうお礼の先渡し。どうだった私のキスと胸の感触。よかった?」
「どうって・・・そ、そんな・・・・・」
驚きに稲垣は言葉も出ない。
「じゃ、待合室で待ってる。行こ、奈那」
「はい」
二人はヒーリングルームの出口に向かう。
稲垣は二人を見送ることなく呆然と立ち尽くした。
奈津美のギャップに悲しみを隠せない。
『お願い、何があっても、私がどんなにあなたを遠ざけようとしても、見守っていてくれる?』
奈津美の悲痛な叫びが稲垣の心中に複雑な思いを抱かせている。
(頼むぞ、草薙。少しでも早く、慌てず急いで正確にだ・・・・)
稲垣自身も腹をくくる覚悟を決めていた。
「稲垣君」
背中越しに呼びかけられて、慌てて稲垣は振り向いた。
奈津美が人懐っこい笑顔で手を振っている。
「さよなら、あとでね」
「あ、あぁ、あとで。オレを信じて待ってろよ。さようなら」
稲垣はもう一人の奈津美に届けと祈るように言葉を投げる。
「ごちになります」
奈津美は稲垣を銃に模した指で弾いておどけて見せたあと、奈那とヒーリングルームを出て行った。
< END >