BLACK DESIRE #9

0.

 新聞部の朝は早い。
 朝一の号外を生徒達が登校するまでに刷り上げなくてはならないのだ。だから、ネタのある日はたいてい正門が開く時刻と同時に、そして時にはこっそりとそれ以前に裏ルートで不法入門する事になる。自称「星漣一の爆速ニュースソース」は伊達ではないのだ。

 今年度一学期の最後の生徒総会が行われるこの日、当然のように彼女達新聞部は朝、薄暗いうちから自分達の部室(と呼んで勝手に占拠している文化部棟の空き部屋)に籠もって記事の作成に勤しんでいた。

「結局、どっちが勝つんでしょうねぇ」

 お茶を啜りながらパソコンのキーボードを叩いているのが新聞部の2年生、巾足立華(はばたりりっか)である。のんびりした口調で欠伸をかみ殺しながらの作業ではあるが、その指はからくり仕掛けのように淀み無く動き続けている。
 彼女は昨年度に自分のクラスで起きたとある事件をきっかけに現在の部長と知り合い、それが縁となって新聞部に在籍する羽目となった。機械の扱いにそこそこ長けているため、重宝がられている。

「そんなのは、神のみぞ知るというものですねぇ。だから、こうして2種類の紙面を作成しているのですから」

 その差し向かいの席でラップトップパソコンを操作していた新聞部部長・蔦林藍子(つたばやしらんこ)がひょいと首を横から出して答えた。彼女の方は全く朝の倦怠という物を感じさせる隙は無い。

「昨日のアンケートでは反対派の方が若干多かったのですよね?」
「そんなもの、最終討論でいくらでもひっくり返る程度の差です。それに、まだ意見を保留しているVIPの方もいますので」
「……紫鶴さまの事ですか? あの方は反対派のメンバーと比較的親しい間柄なのでそっちに付くのでは?」
「どうですかねぇ……。生徒会側からもアプローチが有った様ですし、立場上面と向かって生徒会を批判することも出来ませんからねぇ」

 藍子の口調には笑いが含まれている。ネタが有る時は彼女はいつもこうなのだ。内面からにじみ出る歓喜を隠すことが出来ず、口元から笑みが絶えることは無い。
 以前立華が尋ねたところ、「天職を全うするに何の憂いが在りますでしょうか」と大真面目に返答されたものだ。それ以来、藍子が上機嫌の時は出来るだけ逆らわない様にしている。

「藍子さんは不安にならないんですか?」
「不安? 何のです?」

 ふと立華の口をついて出た疑問に、藍子は首を傾げる。

「今日の総会、結果によっては星漣学園大分裂ですよ? 去年よりもっと大変な事になるんじゃあ……」
「ああ、確かにそうなったら大変ですねぇ」

 うんうん、と頷く藍子。この人にも人並みの危機感が在ったのかと変な感心をする立華であったが。

「流石にそうなったらここの機器だけでは発行が間に合わないかもしれませんねぇ」

……あっさりとその感慨は却下された。

「何でそうなるんですか! 怖くないんですか、藍子さんは?」
「怖い? 何でです?」

 心底意外という顔つきで立華の顔をまじまじと見つめる藍子。

「立華、いいですか。好奇心は人間の最も根元的な活動意欲なのです。リンゴの謎を追求すれば重力が発見され、遠方の知人の状況を知りたいから電話が発明され、空の向こうの真実を知りたいから天動説は退けられたのです。恋愛すら異性への興味から始まるという事はもう、存在の意義とはまさに『知ること』に在ると言えるでしょう」

 藍子お得意の講釈に立華は密かに嘆息した。最初の一回までは彼女の哲学に感嘆したものだが、月一で繰り返されればそろそろ耳にタコが出来てもおかしくない。適当に聞き流しながら記事の打ち込みに専念する。

「肉体に呼吸が必要なように、魂には知識の吸収が必要なのです。知るという行為を否定するのは、魂の存在を否定することに等しい。この根元的欲求の前では、例え世界が滅びようが救世主が誕生しようがアルマゲドンが起きようが、恐怖なんてものは些細な彩りにしか過ぎないのですよ」
「はいはい、だからこそ藍子さんは学園のみんなに知り得た事実を供給し続ける義務があるんですよね。……生徒会が勝った時の本文できましたよ。タイトル入れないとレイアウトが決まらないんでそろそろ決めてもらえますか?」

 プリンターから出力されたゲラ刷りを投げやりに手渡される藍子。途中で話を止められて不満そうにそれを受け取り、そしてやはり不満そうながら「まあ、こんなものでしょう」と了承した。

「で、タイトルは決まってるんですか?」
「それはもう。やはり一面はぱっと見でインパクトを与えられないとなりませんからね」

 一面も何も、瓦版なんですけど、と立華は思ったがそれは口に出さないことにした。さっさと校正を終わらせれば、1時間目の始まる前に少し居眠りできそうだったからだ。
 そんな後輩の思惑も知らず、得意そうに藍子は話を続けている。

「今回の生徒総会は、1年も前の例の出来事から始まっていたのですよ」
「はぁ……1年前というと、七月事件ですか?」
「そうです! まさにあの時の『事件』の決着が、今日の投票によって『判決』が下されるのです。ですから……」

 藍子は人差し指を立てて胸を反らせたポーズで厳かに告げた。

「……今日の総会はまさしく裁判、『達巳裁判』というわけです!」

 この時、今年度1学期の出来事として次号の「やまゆり」に記される、7月生徒総会の俗称が決定されたのであった。

BLACK DESIRE

#9 達巳裁判 III

1.

 明け方、ふと目を覚ますとまだ外は薄暗かった。サイドテーブルにある時計をのぞき込むと、5時30分。いつも起きる時間までまだ1時間近くあった。もう一眠り出来るだけの猶予は有ったのだが、ふと今日行われる生徒総会の事が頭をよぎってしまった。

 いったん気になってしまうと、それ以降はいくら目をつむろうと目がさえてくるばかりだ。寝返りを打ってみたが、雲が晴れるように去ってしまった睡魔を追いかける事は出来ず、僕は諦めて体を起こした。そのままベッドから降りてスリッパを履く。

 壁に目をやり、おや、と首を傾げる。そこにかかっている筈の制服が無かった。昨日の夜、寝る前には確かにそこに有った様な気がしたのだけど……。

(幎かな……?)

 とりあえずという事で、適当にズボンだけ履いて部屋を出ると、階下へと向かった。もう朝ご飯の準備が進んでいるのか、良い匂いがする。

「幎、いる?」

 厨房をひょいと覗いて見たが、鍋や炊飯器があるだけで肝心の人物はいなかった。試しに鍋の蓋をかぱっと開けてみると、ワカメとジャガイモの味噌汁が出来ていた。

(どこにいるんだろ?)

 食堂にもいないようなので、居間を通って階段のあるロビーに戻る。そこで、僕はロビーから伸びる通路の先に電気が付いてる部屋があることに気が付いた。

(あそこかな)

 記憶に間違いがなければ、そこは洗濯機が置いてある部屋の筈だ。朝から洗い物でも有ったのだろうか。
 僕はそちらに向けて歩き出す。朝の清々しい静寂した空気のせいか、大きな声を出す気になれず「幎……?」と呟くように言ってその部屋をのぞき込んだ。

 幎はそこにいた。部屋の中央に有る大きな台の前で、いつもの黒い服を袖捲りして僕の制服にアイロン掛けしていた。

 それは初めての光景だった。僕は幎が働いている姿をあまり見たことが無かったのだ。
 炊事や掃除は任せきりで気に留めることは無かったし、大抵は僕が学校にいる間にやってしまっているようで、働いているところと言えば給仕をしている姿ぐらいしか思い浮かばない。
 だから、悪魔である幎がしゅうしゅうと蒸気をあげるスチームアイロンで丁寧に僕の制服の皺を伸ばしている光景なんて、想像もつかなかった。

 僕の視線に気が付いたのか、幎は顔を上げてアイロンを台に立てると、居住まいを正して恭しく僕にお辞儀をした。

「おはようございます、郁太様」
「あ、うん。おはよう」

 覗き見をしてたのを見つかったみたいで少し心地が良くない。言い訳のように「あの、制服……」と弁解した。

「部屋に無かったから、探してたんだ」
「申し訳有りません。郁太様が起きられる前に済まそうと思ったのですが」
「ああ、いいよ別に。気を使わなくて良かったのに」

 そう言いながら、内心首を傾げた。星漣の制服はノーアイロンの生地で、ほとんど皺も付かないから週一で土日にやるくらいで良いよって前、言ったような気がする。何で週の真ん中の水曜の朝に、突然? 洗濯したのかな?
 幎の方はちょうど作業が終わったところだったのか、そそくさと制服をハンガーに掛けると僕に向き直った。

「このまま起きられるなら、朝食の用意をさせていただきますが」
「ああ、お願い。顔を洗ってくるから準備しといて」
「承知しました。制服は郁太様の部屋の方でよろしいですか?」
「うん」

 幎はぺこりと礼をし、先立ってロビーの方へと戻っていった。僕の方はというと、早起きすると珍しい物が見られるなと変な感心をしながらロビーまで戻って、2階へと階段を上っていった。

 朝の時間は、他の時間帯に比べて確実に進みが早いと思う。朝食を済ませ、まだ時間が有るとのんびり紅茶を一杯していたら、気が付けば出発しなければならない時間になっていた。「ごちそうさま」と声をかけ、立ち上がって玄関へ向かうと僕の鞄を持って幎が見送りにやって来た。

「いってらっしゃいませ」
「うん」

 玄関を出たところで鞄を受け取り、深くお辞儀をする幎に返事をする。その時、ふと先ほどの疑問がぶり返してきた。行きかけた足を止め、ぐるりと向き直る。

「幎」
「はい」

 お辞儀をしたままだった彼女が顔を上げ、小首を傾げる。

「この制服だけど、いつもは週末にアイロンがけしてなかったっけ」
「はい。そのように承っております」
「何で今日は朝早くから?」
「……?」

 幎は首を傾げたまま、沈黙した。それは質問の意味が分からないという風にも見えたし、あるいは自分でもその答えが見あたらないという風にも見えた。

「……」
「……」

 軽く30秒は経っただろうか。「何でこんな事気にしてるんだろ?」と自分でも思い始めた頃、ようやく幎は口を開いた。

「今日は……」
「え……?」
「何か、郁太様に大事な用がお有りの様でしたので」
「……そうなんだ」
「はい」

 ……僕は、幎には今日が総員投票日だとは言っていない。言う必要は無いと思ったからだ。
 でも、幎はこの1週間の僕の様子を見て、今日が僕にとって正念場だと気が付いていたのだ。だから、朝早くから制服をアイロン掛けして、僕が見栄えよく映るよう気を遣ってくれたって事なのか……。

「……ありがとう」

 自然に、その言葉が出た。

「いつもありがとう、幎」
「……」

 僕の言葉に、幎は表情こそ変えないが少し戸惑ったような素振りを見せる。

「……これは契約者である郁太様に対する、私の勤めですから」
「いいんだ。君が居てくれるお陰で随分と助かっている、ありがとう」

 僕はもう一度、幎の目を真っ直ぐに見てその言葉を言った。彼女も神妙な顔つきでじっと見返している。

「……郁太様」
「ん? そうか、もう行かないとね」
「はい。それと、1つお伝えしたいことが」
「何?」

 幎は僕の後ろの門の方に視線をずらし、すっと身を引いた。

「御学友の方がお迎えに来られているようです。門の左手の方へ向かわれましたので、お探し下さい」
「は? 誰だろ?」

 妙なことを言う。迎えに来た人間が誰なのかも気になるし、なぜわざわざ探さなければならないのだろう? しかし、幎はもう玄関のところまで下がって手を前で合わせた待機モードになっていた。もう一度追いかけて話を聞くのも柄じゃないし、仕方なく僕は「行ってきます」と口にして門を抜ける。視界の隅でお辞儀をするカチューシャ頭が見えた。

 外に出て左を見たが、そこは閑散としていて誰もいない。ずっと高原別邸を囲む壁が続くばかりだ。一応反対も見てみたが、同様だった。学校に行くならこのまま右へ行かなければならないのだけど……。
 もう一度左を見て、今度はそちら側から伸びる路地の角にちらりと白い物が見えた気がした。7月の朝日の眩しさにも負けない純白のスカートの裾。間違いなく星漣の制服だ。

 それが幎の言っていた人物と見当を付け、僕はそっちへズンズンと歩き始めた。スカートの裾は慌てて路地の裏に引っ込む。何で逃げる? 何か後ろめたい事でも?

 路地を覗き込むと、それで隠れているつもりなのか、それとも観念したのか、白い制服の女子生徒が電柱の後ろで背中を向けてしゃがみ込んでいた。見覚えのある茶色がかったくせっ毛のショートカット。僕はため息をついた。

「そんなところで何やってんだ、ハル」
「わぅっ!?」

 気付かれないとでも思っていたのか、ハルはびくっと体を震わせるとおそるおそるこちらに振り向き、僕の姿を視界に納めた。引きつった様な笑いを浮かべる。

「あ……あ、あははははははははは」
「笑い事じゃない。何で隠れた」

 僕が憮然として言うと、しゅんとしてハルは立ち上がった。

「ごめん、イクちゃん」
「別に怒ってないよ。理由を聞かせて欲しいだけだ」
「うん……」

 うん、と言いながら、僕の方をちらりと上目で見るばかりで肝心の理由を言おうとしない。まあ、でもだいたい理由は分かるけどな。

「ふん。どうせ噂の那由美の別邸を確認に来たってところだろ」
「え? ああ、うん……そう……なんだ」
「ご覧の通りさ。確かに僕はあいつの親戚みたいなもので、ここに居候している身分だよ」
「えっと、おじさんもだよね?」
「ん、いや……」

 そうか、親父のことはハルだって知っているはずだよな……。でも、余計な詮索は面倒だな。

「今は仕事の都合で別居中だ」
「おじさん、何のお仕事だったっけ」
「さあ? 多分世界のどこかにはいるんだろうさ」

 そろそろ時間が不味くなってきた。僕はハルを促して路地から出ると、学校へ向かう道を一緒に歩き始めた。

「じゃあ、イクちゃんは今、さっきのメイドさんと2人で暮らしてるの?」
「何だ、幎の事も見てたのかよ。そうだよ、悪い?」
「別に……」

 そう言いながらもハルはなんだか不満そうだ。何だってんだ。僕がどういう生活してようが関係無いだろうに。

「はっきり言えよ、言いたい事有るんだろ?」
「無いよ」
「嘘付くなよ。お前くらいわかりやすい奴はいないぞ」
「無いってば!」

 臍を曲げたハルは、今度はだんまりを決め込んだ。まいったなぁ……僕のせいじゃないのに、こんな所を誰かに見られたら、あらぬ醜聞が流れかねない。仕方が無い。

「幎はさ」
「……」
「ああ、幎って言うのはさっきのメイドなんだけど、あいつは僕の親父に恩が有ってね。そのお礼にって事で家でお手伝いみたいな事をしているんだ」
「……へえ」
「だから、あいつが恩を感じているのは親父であって、僕の事はそのついでみたいなもんだ。僕がお金を払って雇っているわけでもないしね」
「……そうなんだ」

 少しは機嫌を直したのか、返事はしてくれるようになった。本当の事は何も話してないが、ま、嘘も方便だ。

「じゃ、噂はでたらめなの?」
「噂? 何の噂だ? 僕があそこに住んでるのは本当の事だよ」
「えっと、それだけじゃなくて……」

 僕が七魅から聞かされた噂話はそれだけだ。まだ他にも有ったのか?

「どんな噂話が有るって?」
「うーん……イクちゃんがね、趣味で彼女にメイドさんの服を着せて同棲してるって噂」
「ぅおいっ!」

 もう少しでつんのめってすっ転ぶところだった。

「誰だ! そんないい加減な噂を流した奴は!」
「でもでも! イクちゃんメイドさん大好きでしょ? 小学校の頃の夢はご主人様でしょ? そもそもお手伝いならエプロンだけでいいのに、何であんな衣装着せてるの!?」
「いや、確かに好きだけど。でも人の子供の頃の夢をねつ造するなよ!」
「……趣味であの服着せてるのは否定しないんだ」
「揚げ足を取るな」

 僕はハルの頭を小突いた。こいつに付き合ってるとこっちまで頭が悪くなりそうだ。本当にこれが「セイレン・シスターの妹」候補だったのか?

「あのなぁ……メイド服ってのは単なる作業服みたいなもんだって前説明しただろう? あの屋敷を見たか? 歩けば1周10分はかかりそうな広さの上に、サッカーが出来そうな庭まであるんだぞ? とても普段着のままちょいちょいと掃除や草刈りなんて出来る広さじゃない」
「う~ん……」
「あの服も屋敷と一緒、借り物みたいな物だ。少なくとも僕のじゃない」
「ほんと?」
「ああ。あの服は幎が自分で着てるんだよ」
「そうなんだ……」

 ようやく納得したようだった。
 ちょうど前方に僕とハルが再会した歩道橋も見えてきた。あれを渡って公園を抜けると、星漣学園への近道なのだ。携帯を見ると、喋りながら来たせいで少し時間が押していた。

「ちょっと急ごうか。三繰達を待たせちゃうな」
「あ、待ってよイクちゃん!」

 先に歩道橋を上がると、ハルは僕を追いかけて軽快に階段を駆け上がって来た。タンタンとその足音を聞きながら、「そう言えばここから始まったんだよな」と歩道橋の中央に目をやった。
 当然、今はそこには黒い表紙の本は落ちていなかったが、何となく感慨深いものを感じてしばし足を止める。

「……? どうかした?」
「ああ、何でもない……」

 ハルに促されて歩を進め、僕は全てのスタート地点を踏み越え、星漣学園へ向かった。

 あれから1ヶ月半。
 あの本を拾い、僕の運命が変わってそれだけの日が経った。

 まだまだ那由美を生き返らせるまで道のりは長いけれど、何となく今日という日は一つの節目になるような気がする。

 7月1日、水曜日。今日の午後の生徒総会で新校則に対する討論と投票が行われる。
 そしてそれは、僕の学園生活の大きな分かれ目となる。

(僕がこの学園に居続ける為には……勝つしかない)

 生徒達全員にブラックデザイアの能力を使うことなど出来るはずがない。ならば、後はもう討論会でハル達の頑張りに期待をするしかない。僕が討論の場に立っても、反感を買うデメリットの方が大きいからだ。

 だが、本当に。
 本当に何も出来ないのか?

 心の中で焦燥感が燻っている。
 数学の問題を解いた後、検算をしたら答えが合わなかった時のような感覚。これで正しい筈なのに、何かが足りない。答案の回収時間が迫っているのに、答えを導く手段は揃っているはずなのに、何故か自分でもそれが正解だとは思えない。

 何か、まだ出来ないのだろうか?

 そして、その疑問がループを始めたとき、僕はその問題の中心点にある最も基本的な問いかけにふと気が付いた。

(僕は……星漣に居たいのだろうか?)

 魔力の回収がしたいだけ。だった筈だ。
 しかし、返答は無い。答を返さない自分自身に、僕は苛立ちと戸惑いを覚えた。

2.

 午前中の授業は殆ど頭に入らなかった。もっとも、1時間目は礼拝だし、試験前という事で自習になった授業も多かったのでそれほど問題が有るわけでもない。
 唯一、選択教科の時に安芸島と隣になった際に周囲の好奇の視線が煩わしかったくらいだ。彼女の方は、横目でチラリと確認した限りではいつもの様に真っ直ぐな姿勢で表面上は落ち着いた様子であった。

 昼休みになり、「新校則に反対する会」の会合と称する昼食のために探研部へと向かう。最近はハルや三繰達だけでなく、写真部のメンバーや僕らを応援する生徒達もちょくちょくここに顔を出すようになっていた。

 案の定、「ちわーっす」と言いながら僕が入室すると、そこには既にいつものメンバーの他にも福沢、島津、藤堂の3人組や仲良くなったバスケットボール部の部員数人、何故か新聞部の蔦林藍子までいておしゃべりと食事にせいを出していた。

「という訳で私は今回の投票を『達巳裁判』と名付けたいのです」
「だめだめ。それじゃイクちゃんが犯罪者みたいじゃない」
「いやいや、だからこそ勝ったときには『逆転無罪!』の見出しが映えるのでして……」

 藍子とハルは何か新聞の内容で押し問答をしている。大方投票後に出す号外の内容に記事や写真を掲載する許可を貰いに来たのだろうが、それにしても「達巳裁判」ねぇ……。人の名前を勝手に使うな。

 福沢達や静香は今日の討論で使う原稿の再確認をしている。討論は申告側と受け側で交代交代に実施するから、ある程度相手の出方を予測して何種類か用意する必要がある。

 ここで、星漣学園の総員投票前に行われる討論会の手順を説明しておこう。

 討論会は総員投票に付随して行われるから、その実施の申請は前に説明した通り1週間前に行われなければならない。その際、討論を行う人間として討論員を何名か指定しておくのだが、実際には討論員は討論開始5分前まで変更が可能なので、ここは適当に名前を入れておくだけで良い。

 討論の形式は、1人持ち時間10分の交互交代制で行われる。先攻は申告側だ。討論員は3名まで登録出来るので、両者が3人ずつ実施すれば最大で1時間もの討論会になる。ただし、交代の合間に休憩を挟むのは司会を勤める生徒会の役目なので、実際にはもっと長くなることもあるようだ。

 お互いがこれ以上の討論の要無しと終了を宣言するか、討論時間を全て使い切ったらそこで討論会は終了。いったん会を解散し、各クラスでの無記名による投票に移行する。
 その結果はクラス委員が持ち寄り、最終的にクラス委員会にて集計され結果が即日開票される。そして、その結果を基に決定した事項が翌日以降生徒会長から各クラスに通知されるという流れだ。

 星漣で行われる総員投票はだいたいがこんな感じで行われる。2月の頭に実施する生徒会長選挙は特別としても、午後一杯の授業を潰して行われるだけあってその前後は毎回お祭り騒ぎらしい。当事者でさえなければ学園生活に刺激を与える良いカンフル剤なのだろう。

 それぞれの作業を横目に、僕は昼食をみんなから失敬するためにそっと席に着いた。それに気が付いた七魅がお茶と一緒にランチボックスを持ってくる。

「どうぞ」
「お、ありがとう。これは?」
「どうせ達巳君は昼ご飯を持参しないだろうと思って、最初に取り分けておきました」
「よくわかってるじゃないか」

 早速懐から割り箸を取り出して総菜に手を付ける。おお、この唐揚げいけるなぁ。
 がつがつと箱ごと持って口に放り込むのを、何故か七魅は側の席でじっと見つめている。そんなに見られるとなんか恥ずかしいんだけど。

「……なに?」
「……いえ」

 いいえと否定しながら目線は外さない。救いを求めてその後ろにいる三繰に「どうしたの、この子?」と目線を送ったが相変わらず好感度不足のようでニヤニヤと笑われただけだった。ガッデム!

 なんだか落ち着かないまま昼食を終えてつまようじを使っていると、空になった弁当箱はさっさと七魅に下げられてしまった。その際、「満足しましたか?」と聞かれたので「誰のか知らないけど旨かった」と言うと何故か三繰に頭を撫でられた。何で?

 お腹が一杯になると急速に眠気が襲ってきた。どうやら朝早かったのが今頃になって効いてきたらしい。みんなはまだ討論会について色々話し合いを続けている。ここで僕だけ「ちょいとお先に」と抜けたら何だか申し訳ない、と悩んでいると、丁度その時僕の携帯に着信があった。

「あ、ゴメン。電話」

 僕は七魅にそう告げると探研部の部室を出て、非常口から外に出た。携帯のディスプレイを見ると見慣れない数字が並んでいる。未登録の相手からだった。少し警戒しながら通話ボタンを押す。

「はい、達巳です」
『どうも、天乃原です』
「え?」

 一瞬、誰の事かと言葉に詰まる。僕に電話をかけてくる相手の心当たりが無かったからだ。しかし、すぐに1週間前に生徒会執務室で1度だけ会った人物を思い出す。

「あ、もしかして『やまゆり』の天乃原さんですか?」
『ええ、その天乃原などかですよ。今お時間頂いてもよろしいですか?』

 驚いた。まさか執行部の方から僕に直に接触してくるとは。眠気もあっと言う間に吹き飛んでしまった。

「大丈夫ですよ。どんな用件でしょうか?」
『あなたに少しお話しておきたい事が有りまして』
「込み入った話ですか? 電話でもいい話ですか?」
『すぐに済みますから、問題無いでしょう』
「はあ……」

 僕は非常口の側にあるベンチに腰を下ろし、「で、用件は?」と先を促した。

『新校則に反対する会、なかなか調子がいいようですね』
「お陰様で」
『この分だと、総員投票でも良い線行くんじゃないかしら?』
「まあ、勝負は時の運ですから」

 何が言いたいんだ? すぐに済むとか言っておきながら、世間話のような事しか喋らず、なかなか本題が見えてこない。

『すると、今日の投票後には祝勝会等も予定されているのかしら?』
「まあ、結果がどうあれそれなりの慰労会みたいなものは計画してるみたいですね」
『そうですか。それはやっぱりこれからの事も見据えての結束会も兼ねているんでしょうね』
「は?」

 何を言ってるんだ……?

「言っている意味が分からないのですが……」
『だってそうでしょう? まさか、今日の投票一回で全てに決着が付くと思っていますか?』
「え、それはどういう……」
『今回の投票は、あくまで生徒会が打ち出した新校則の採用の是非を問うためのものですよ。発端となったあなた自身を取り巻く諸問題に対する回答を、今決めるか、それとも先送りするか、それを決めるだけのものです』
「……」
『今日、あなた達が勝ったとして。それでどうします? あなた達は、ただ[何も決めないこと]を勝ち取るだけ。当然、それ以後の問題解決に向けての展望をお持ちなのかしら?』
「それは……」
『それは生徒会の仕事、とでも言うのかしら? お言葉ですけど、あなたも星漣の一員である以上生徒会と無関係とはもう言えないでしょう? 自分に降りかかる火の粉だけを避けて、実際に起こっている問題を対岸の火事と無関心を装うのはあまりにも無責任じゃないかしら』
「……」

 ……反論できない。
 僕が黙り込んでいると、電話口の向こうの天乃原はいったん口を噤み、そして僕に宣告した。

『……負けなさい、あなた』
「……っ!?」
『勝っても、やがて再燃するだけの問題ですよ。星漣全体の事を考えるなら、負けなさいな』
「……それは、降伏勧告のつもりですか」
『忠告よ。惨めに這いつくばれと言っているのではないわ。あなたも伊達に星漣にいるのではない筈なのだから、スマートな負け方というものも想像出来るでしょう? 無理に足掻かず任せるのです』
「……嫌だと言ったら?」
『それこそ、認識不足じゃないかしら? 新校則案を提示した時点で既に生徒会が一度勝っている事をお忘れ無いように。あなた方の取る道は2つ。生徒会の勝利に泥をかけて自分も泥沼に沈むか、それとも星漣の生徒達を用意された新校則という箱船に乗せるか、2つに1つ』
「……」
『それとも、この星漣を1つにまとめてあなたを受け入れさせる第3の道が有ると思っているのかしら? 無理ね。奇跡でも起こさない限り、300人もの人間の考えを1つにする事など不可能ですよ』
「……奇跡、だって?……」
『期待するだけ、無駄という事。ああ、それと、この電話の内容はあなたのお仲間達には伝えない方が良いでしょうね。無用な敵愾心を持って討論会に出席して欲しくはありませんから』
「……」

 僕が黙っていると、天乃原は最後に『良く考えることね』と告げて電話を切った。僕は何も言葉を返す事が出来ず、ただ通話時間を告げる携帯のディスプレイを呆然と見つめていた。

(……僕たちがやっている事が、無駄なことだって?)

 そんな事は無い。
 ……と、何故電話に向かって言えなかったのだろう。

 それは多分、天乃原の言う事が正解だと心のどこかで納得してしまっていたからだ。
 彼女は、新校則案を提示した時点で勝ち、と言った。ハルは、新校則が一度でも施行されたら負け、と言った。この認識の差はなんだ。

 政策は、問題に対してそのような準備があると先にカードを切った方が勝ちなのだ。いや、どんな方針でも良い、対応する姿勢が有れば、対応しないという消極策より上等に評価される。

 例えその時に政策が実施されなくとも、問題が有り続ける限り対応策も必ず必要とされるだろう。そしていずれ、反対意見は何もやらないよりはマシと潰されるのだ。所詮、問題に対する解法の無い反対意見はただの先延ばしに過ぎない。

 なら、どうする?
 おとなしく負けを認める? 別の解決策を提示する?

「……今更、出来る訳が無いだろっ……!」

 うなだれたまま、携帯を握りしめて呟く。
 だが、言葉を発する事は出来ても、僕にはもうその場から呑気に立ち去る事も、もう一度部室に戻ってあの中に混ざる事も出来なかった。

 どんなに考えてみても、天乃原の言う『奇跡』を起こす方法なんて、思いつく筈が無かった。一人の人間に容易く起こせるほど奇跡は安いものじゃ無い。それが、現実なのだ。

3.

 昼休み終了10分前の予鈴が学園内に鳴り響いた。だが、敷地内にある施設はただ一箇所を除いて閑散としている。
 その場所とは、生徒総会の会場となる体育館であった。今日の総会の内容に対する高い関心度を表すように、まだ予鈴が鳴ったばかりにも関わらず、その入り口は集まってきた生徒達でごった返していた。

 体育館の玄関側の内扉の前には長机が置かれ、そこに生徒会と「新校則に反対する会」が作成したそれぞれの配布資料が積み重ねられている。生徒達の多くは、これからの討論の要旨を再確認するためチラシ類を1枚ずつ手に取って中に入っていった。

 体育館の中は昼休み中から空調が回されていたため、外に比べればずいぶんと快適だ。
 舞台の上には演壇とマイクがセットしてあるが、体育館内には生徒達の椅子などは用意されていない。

 その理由は、星漣では伝統として討論会では聴講者用の椅子は用意されないことになっているからだ。講義ではなく、討論であるのだから、それを聴く者も受け身になる事無く会場と一体となって討議に参加するように、との考えからである。もちろん、立って聴くことにより討論者との距離が近くなり、反応を見やすくするためでも有る。

 生徒が自分達のために自分の意志で物事を決定する以上、決して他人事のまま結論を出させない。それが星漣の基本方針なのである。

 左右の舞台袖の部分が、それぞれの陣営の控え場所に指定されていた。予鈴と同時くらいに裏手から回って右の舞台袖に入ったのだが、他の者はすでにみんな揃っていた。

「遅いよ~、イクちゃん。どこ行ってたの?」
「あ、ああ。ごめん、ちょっとトイレ」

 ハルに見つかって文句を言われたので素直に謝っておく。だが、先ほどの電話の内容はとても話す気にはなれなかった。

 中にいるみんなが何かしらの準備の為に動き回っているため、決して広いとは言えないここもごった返している。空調もあまり利かないのか、女の子たちの匂いがこもって何とも場違いな雰囲気だ。
 その中で、僕達の討論員の1番手を勤める福沢は藤堂に襟元のリボンを直されながら「あー、あー」と発声練習の様な事をしていた。

 討論員の順番については何度も話し合ったのだが、色々考えた結果当初予定していた三繰は取り止め、その代わりに福沢に1番手を任せる事になっていた。
 福沢はなかなか愛嬌のある顔立ちと可愛らしい笑顔のおかげで下級生からは「1番話しかけやすい3年生」と認定されるほど人気があるし、付き合ってみれば機転も利くしおしゃべりにもユーモアがある事が良くわかった。そして何より物怖じしない度胸の良さが討論員のトップバッターとして適任だったのだ。
 今も、「落ち着いてね」と心配そうな島津に対して「うん、大丈夫」とあべこべにあっけらかんと笑顔を見せている。不安は全く無さそうだ。

 そんな様子を端から眺めていると、舞台の方から「失礼します」と2年生のクラス委員の1人が入ってきた。進行チェック表の様なものを確認しながら、ハルに早足で近づいていく。

「開始5分前になりましたが、討論員の変更はありませんか?」
「あ、問題ありません。今日出した名簿のままで」
「はい。では、時間通りに開始しますので名前を呼ばれたら壇上にお願いします」
「わかりました」

 それだけ確認すると、その娘は再び早足で出ていった。生徒会執行部関係者が討論員という事で、代わりにやるべき仕事が増えているのだろう。

 そっと袖から顔を出してうかがってみると、各クラス生徒達はほぼ整列完了したようで、どこかのクラス委員達が入口側の内門をごろごろと閉めているところだった。いよいよ、開幕だ。

 司会役の2年生がマイクの前に進み出ると、館内のざわめきはすうっと引き潮のように消えていった。全員が注目する中、司会は気を付けの姿勢で高らかに宣言する。

『これより、今年度7月の生徒総会を開催します』

 開催宣言に続き、いくつかの連絡事項と活動報告が行われる。特に目立ったものとしては、校医が今月一杯で退職するため2学期から新しい先生が来るという事と、バスケットボール部の全国大会進出、美術部の生徒の絵画コンクール入選の件などがあった。

 続いて、演壇には生徒会書記の漁火真魚(いさりびまな)が立って今月及び夏休み中の行事予定を通達する。それによると星漣では夏休み中であっても委員会は継続して定期的に会合を開くようで、委員長が出席できない場合は代理を立てるように指示されていた。

 さらに、夏休み前の最後の生徒総会ということで何人かの委員長が壇上に上がって連絡事項を告げる。大御所の風紀委員会などは先月分の改善事項や今月の風紀目標などをここで発表した。

 以上の内容が淀み無く進行し、再び司会がマイクの前に立った。体育館の中の緊張感がさっと増す。

『以上で各委員会からの連絡を終わります。引き続き、先月中に提出された議題について、代表者討論会を実施します』

 その宣言の後、まずは司会によって背景説明が為された。

 6月24日水曜日に通知された星漣学園校則第4則12項への追加案の内容とその要旨。それに対し、同日に結成された「新校則に反対する会」から廃案請求と総員投票の申請があった件。本日の討論会では、この生徒総会後に実施される投票に向けての議論を、反対する会と生徒会双方からの代表者が行うという事。そして討論は生徒会通達に従い持ち時間10分で交互に行われるという確認。

 以上の点の説明を終え、司会は一息ついた後に再度口を開く。

『それでは、「新校則に反対する会」第1回の討論を開始します』

 続いて名前を呼ばれた福沢が舞台袖から現れ、司会はそれを確認して後ろに引いた。いよいよ、第1ラウンドのゴングが鳴ったのだ。

 第1回の討論は、双方共に様子見といった具合であった。福沢も生徒会側の討論者もお互いの主張の要旨の説明から始め、ポイントのアピールに努めた。

 福沢の主張としてはこうだ。今回の新校則案は趣旨はわかるが余りにも行き過ぎである。同じクラスメートとして、一緒に学園生活を送っていくのに障害になってしまう。
 それに対し、生徒会側は今回の新校則を要求したのはむしろ生徒やその保護者の側であり、学園としては生徒の健全な生活のためその要求を受け入れるのは当然のことである、と反論した。

 どちらも事前に生徒達に通知していた事をまとめたような内容で、別段目新しい事柄も無い。本番が次以降だとわかっているのか、司会も5分の休憩を挟んだだけですぐに次の討論者を呼び上げた。

 反対する会の第2回討論者は静香である。2年生からの大抜擢という事になるが、実のところ彼女こそこちら側のエースと呼ぶにふさわしい実力者なのだ。
 第1回とうって変わり、今回はお互いの弱点を突くような乱打戦になったのだが、静香は生徒会側の3年生に一歩も引けを取らないような見事な主張を展開した。小柄な彼女のどこにそんな情熱が有ったのか、と驚くほどの巧みな演説ぶりに、生徒達も次第に引き込まれている様子がはっきりとわかった。

 生徒会側の討論者も頑張ってはいたのだが、既に静香の討論を聴いた後ではどうにも難癖を付けているだけの印象が拭いきれず、第2回討論終了の時点で流れは大きく僕らの方に傾き始めている事が雰囲気として感じられた。

 この時点で開始から1時間が経過していたため、司会は次の討論の開始を15分後と宣言し、生徒総会はいったん休憩となった。

4.

「お疲れさま、シズちゃん。いいカンジだったよ」
「ありがとうございます」

 ハルが水筒からコップにお茶を容れて静香に渡してやっている。大仕事を終えた少女はそれをおいしそうにコクコクと飲んだ。

「今、休憩がてら見てきましたけどこちらが優勢みたいですね」

 裏から戻ってきた藤堂達が偵察の報告をした。確かに、さっきの第2回分では贔屓目に見ても静香の方に分がありそうだった。
 その報告にみんなから笑顔がこぼれるが、七魅だけはまだ眉を寄せている。

「でも、油断は出来ませんよ。次の第3回次こそ本当の決戦なのですから」
「わかってる。次は多分、会長だろうしこっちも全力で主張するしかないよ」

 ハルは緊張した面もちでそう言った。

 次の討論は、こっちからは代表者であるハルが出ることになっている。生徒会側の討論員はまだ空欄のままだったが、大方の予想では安芸島会長自身が出てくると思われていた。だから、予想通りなら次は大将同士の正面対決って事になる。

 だが、それは多分間違ってるって事を、この場では僕だけが知っていた。昨日の紫鶴の言葉を、僕はまだ誰にも話せていなかったからだ。

「……? 大丈夫だよ、イクちゃん。任せてちょうだい!」
「う、うん」

 浮かない表情の僕に気が付いたのか、ハルが笑いながら胸をドンと叩いた。それにむせて咳込み、今度は静香に背中をさすってもらう。自分だって結構緊張しているのに、良くやるよ。
 思わず笑いが漏れそうになったとき、ばたんと裏口を開けて慌ただしく一人の人物が駆け込んできた。

「た、大変です! 大変です!」

 それは例の弾丸ブン屋・蔦林藍子だった。何か手に持ったチラシのような物を振り回し、僕達の方にすっ飛んでくる。只ならぬ様子にみんなの顔に緊張が走った。

「今、外に出たらこんな物が出回っていたのです!」

 僕の側にあった机の上に、さっきのチラシのような物がバシンと叩きつけられた。勢いのせいで一瞬舞い上がりかけるが、ヒラリとめくれた端が落ちてその全容が周囲の目に明らかになる。

「えっ……?」
「これは……!?」
「何ですか、これ……?」
「イラスト……写真のコピー、かな?」

 みんながみんな、その紙に対してそれぞれの反応を見せる。その中で、僕と哉潟姉妹だけはそこに印刷された白黒の写真に驚愕していた。

 A4サイズの紙の中央に、暗がりの中こちらに振り向いた体勢の人物の写真が印刷されている。あまり良くない印刷機を使ったのか細部の明暗が潰れてしまっているが、形だけ見ればその人物の服は星漣の男子制服に良く似ていた。当の人物の顔立ちまでは良く分からない。

 そして、その写真の下にはワープロ文字で「のぞき犯」とだけ書かれていた。後の余白には何も書かれておらず、コピーしたときの埃が写ったかゴミのように点が散っているばかり。どこの誰が作った物なのかの手掛かりも無い。僕は顔を上げて七魅の方を見た。

(何でこれが!?)
(わかりません! 確かに2枚とも処理したはずなのに……!)
(まさか、もう1つカメラが有ったのか!?)
(そんなはずは……!)

 僕が物言いたげな顔つきで見たのを勘違いしたのか、ブン屋は慌てて顔の前で手を振った。

「わ、私じゃないですよ! 2回目の討論が終わって表に出ようとしたら、チラシの載っていたテーブルにこれが束になって置かれていたんです!」
「テーブルに……?」

 それは変だ。僕は討論での生徒達の反応を見るためにちょくちょく覗いていたのだが、内門はピッタリと閉まっていて誰も退出していない筈だ。裏口もこちらの舞台袖にしかないし、討論中にそこを出入りした人間はいない。

 つまり、この体育館に集まった300人の生徒達には、この印刷物を置くために体育館の内門の外に出ることは不可能だったはずなのだ。

「そ、そうです! 私は討論の様子を撮影するためにずっと中にいましたし、それを証明してくれる者もいます。なにより、私がこんな記事にもなっていないような稚拙な配布物を作るわけが無いのです!」
「それは分かったから。今もまだこれはそこに置いてあるの?」
「いえ、クラス委員の数人が気付いて慌てて片づけていましたからもう無い筈です。という事は彼女達も知らない物件ということですな。私はちょうど通りがかって1枚失敬してきた訳で」
「じゃあ、それほど出回っていない?」
「いやぁ、ちょいとした騒ぎになってましたからそれは無理な話なんじゃないかと。この1枚だってその合間を縫って持ち帰って来たのですから」
「そうなのか……」

 こいつはやっかいだな……。誰の仕業か知らないが、よりにもよってこのタイミングなのか。僕達の勝ちが見えてきた、この瞬間を狙っていたとしか思えない。
 僕からの追求の手が止まって余裕が出来たのか、ブン屋は顎に手を当ててしげしげとその紙を見つめた。

「しかし、この写真では証拠能力は皆無でしょうな」
「え?」
「見て下さい。顔は潰れているし日付を示す証拠もない。これがもし仮に先週土曜ののぞき犯の写真としても、犯人を特定する事すら出来ない代物です」

 そう言えば、確かにそうだ。僕はそれが実際に撮られた物だと知っているから、これが存在していては不味い物だとわかる。だが、ここまで劣化した写真では疑惑が有ってもそれを確信させる事なんて出来るはずが無い。早くもここにいる者達の間では、僕を陥れるためのねつ造と決めつける論調になり始めた。

 その時、ふと僕はさっきから黙り込んでいるハルの事が気になって目をやり、ぎょっとした。ハルの様子がおかしかったのだ。
 みんな写真に注目しているせいで気が付いていない様だったが、顔色が真っ青だった。視線が茫洋として、額には汗が浮かんでいる。おぼつかない足取りでふらふらと後ずさりしていた。

「ハル、どうした?」
「っ!?」

 僕に肩を掴まれ、ハルは大げさなくらい身体を震わせて僕を見た。瞳からいつもの明るい色合いが失せ、鬱症状のような病的に自信のない目つきが僕に向けられる。

「あ、い、イクちゃん……」
「大丈夫か、顔色悪いぞ。少し座ってろよ」
「へ、平気……」
「平気の訳ないだろ」

 小刻みに身体が震えている。明らかに、病気か発作のような状態だった。僕は強引にハルを椅子の側に連れていったのだが強情で座ろうとはしない。

「大丈夫だって……」
「いや、お前おかしいぞ。汗もかいてるし、休んでろ」
「大丈夫だってばっ……!」

 座らせようと肩に伸ばした手を、ハルはヒステリックに叩き落とした。パン、と大きな音が響き、その場にいた全員が何事かとこちらを向いた。

「源川さん……?」
「先輩っ……顔色悪いです……!」

 心配した七魅や静香が側に駆け寄って来る。しかし、ハルはそれらを見ようともせず、いやいやをするように耳に手を当てて首を振っていた。

「ハル……?」

 僕が呆然と呟くと、はっと目を開いてはじかれたようにハルは顔を上げた。

「あ……あ、あはははははははははは……」
「……お、おい……」
「だいじょうぶ……大丈夫だから」
「……」
「大丈夫なの。心配しないで、イクちゃん……私達は間違ってない。だから、みんな信じてくれる。何も悪いことなんかしてないの。みんな、みんな分かってくれる。だって、私達は正しいことをしてるんだから……!」

 そう言いながら、ハルの目は今にも涙が溢れそうになっている。
 その時、当惑した僕の脳裏にフラッシュバックの様に昨日の紫鶴の台詞が蘇った。七月事件の結果を告げた、あの時の言葉。

(あっ……!)

 そうだ、この状況!
 今の僕達の状況は、まるで1年前の七月事件の時に瓜二つじゃないか!

 ハル達の勝利が見えたその瞬間、思いも寄らぬ別口からの攻撃によって水を差され、意見すら封殺され、責任の追及を余儀なくされたあの時の討論会。まさに、その時と今の状況は酷似しているのだ。

 多分、ハルは先ほどのブン屋の持ってきたチラシにその時の記憶を呼び覚まされ、あの時の孤独感と恐怖を思い出してしまったのだ。たった一人で、ほんの10分ほどの討論時間で責任逃れの告発を行うか、それとも制度の必要性を説くか、どちらかの選択を迫られたあの時に舞い戻ってしまっているのだ!

 そして、改めて僕はその写真の意図に気が付いた。なるほど、証拠にはならないが疑惑を植え付けるのにこの潰れた印刷物は効果的だ。
 生徒達は、ここに写っているのが僕なのか、僕であるならこれはいったいどこから出てきた物なのか、そっちの方に興味が行ってしまって、これからハルが新校則について正当に異議を唱えてもその心には届かないだろう。ハルは、またしても聞き入れられる筈のない主張を行うか、それともこの写真の弁解を行うか、その選択を迫られているって事だ。くそっ!!!

 時計を見れば、もう時間が無い。今にもさっきの生徒が討論者の最終確認にやって来そうだ。このままハルを壇上に上げる事なんて出来っこない。静香が懸命に宥めようとしているが、表面上はハルはそれを聞いているようで、頑迷に心を閉ざしてしまっている。どうすれば……!?

≪お願い、イクちゃん……頭、撫でて……≫

(え!?)

≪そうすれば、落ち着けるから……≫

 それはいつの言葉だったのだろう。脳裏に蘇ったハルの言葉に、僕は自分に出来ることがある事に気が付いた。おろおろとするみんなを下がらせ、僕は一人でハルの前に立つ。

「……ハル。いいか、僕の言うことを良く聞け」
「大丈夫だよ。ちゃんと、ちゃんとみんなに説明するから……」

 ハルは笑顔を浮かべている。だが、ひきつったその表情はどう見ても限界まで張りつめた蜘蛛の糸だ。切れれば、もうハルは這い上がる気力すら永遠に喪失してしまうだろう。
 仕方がない、少し手荒だがショック療法だ。

「ハルっ!」

 軽く、ほんとに軽く、僕はハルの頬を叩いた。それでも、緊迫していた周囲には誰にだって聞こえるくらいの音が鳴った。静香がくっと息を詰めたのが分かったが、そんなのはどうでも良いのだ。僕は驚きすぎて自分が何をされたのかも分かっていないようなびっくり眼のハルを、両手で引き寄せて抱きしめた。

「っ!?」
「落ち着け、ハル」
「……あ……え……?」
「あの時とは違うんだ。今はみんながいるだろ? 1人じゃないんだ。みんな、お前の仲間じゃないか」
「……」

 肩越しに、ハルの耳に届くようにゆっくりと語りかける。制服の匂いか、髪の匂いなのか、鼻腔をハルの石鹸の様な匂いとお日様の香りが擽っていく。
 視界の隅に「おおおおおおおっ!」という表情でカメラを構えようとするブン屋と、それを押さえる三繰が見えた。ナイス、ミクリン!

 僕が思っていたよりもハルの身体は華奢だった。まったく、胸は大きいくせになんでこんなに細っこいんだ。女の子独特のしなやかさと柔らかさは有るとは言え、ちょっと力を入れたら折れてしまいそうじゃないか。よくこんなんで1週間奔走できたものだ。抱きしめる力を緩め、片手を髪に回し、ゆっくりと撫でてやった。

 腕の中で、ハルの震えが徐々に収まっていく。熱病にかかったように乱れていた動悸と呼吸もだいぶ落ち着いてきたようだ。

「……みんなも……イクちゃんも居てくれるの?」
「当たり前だ」
「……はぅ」

 下に降ろされていたハルの手がおずおずと上げられ、そして僕の背中に伸ばされた……って、おいっ! そこまではマズい!
 慌てる僕だが、今更ハルを引き剥がす訳にもいかず、今度はハルにぎゅぅーっと抱き締められる事になってしまった。こ、これは困ったぞ。
 そして、ハルは僕の狼狽を余所に更にとんでもない事を口走った。

「……イクちゃんは、やっぱり私のお兄ちゃんだぁ……」
「へぁっ!?」

 な、何を言ってるんですかこのコは!?
 ハル越しの視野の中では「何とぉ!? 源川さんに新たな属性発覚ぅ!!」とブン屋が手帳にものすごいスピードで書き込みをしている。その脇では七魅が何故かジト目で僕を睨み、静香は真っ赤になりながらも顔に当てた手の隙間からガン見し、その他の者は興味津々と僕達を生暖かい目で見物している。誰か、僕を助けてくれる人はいないの? 困惑気味の目線を送ってみたが、好感度が足りていないのか全員から「ゴチソウサマ」と訳の分からない視線が返された。な、なんて薄情な……。へるぷ、へるぷみー。
 だが、助けは僕の周囲の人間からではなく、完全に予想外の人物からもたらされたのだった。

「お取り込み中のところ、申し訳有りませんが」
「「わぅ!?」」

 するりとこの場に入ってきた人物に声をかけられ、僕とハルは奇妙な声を出しながらビョンとバネのように跳んで離れた。

「あ、え!? 会長!?」

 静香が驚きの声を上げる。改めて見ると、確かに先ほど声をかけて舞台後ろの緞帳の陰から現れたのは宮子であった。向こうからここまでその裏を通ってきたのか?

「どうして……!? 討論員は終了までお互いの控え場所の立ち入りは禁止の筈では?」
「私は討論員ではありませんから」

 静香の疑問にしれっとそう言うと、宮子は僕とハルの方に向き直った。

「もう御存知の様ですが、今回の討論とは無関係の人間による物と思われる配布物が、無許可で会場の入り口に置かれていました。その件に関して現在担当の者が対処を行っていますので、代わりに手空きの私の方で討論員の変更等ありましたら承ります」
「え? え? 会長はこの後出ないんですか?」

 疑問符を浮かべるハルに、「ええ」と宮子は何でもない事のように頷いた。

「まだ控え室の方には見えられていませんが、生徒会の最後の討論員は優御川紫鶴さまにお願いをしてあります」

 その答えに「ええ~っ!?」と、僕と宮子を除く全員が驚きの声を上げた。

(やっぱり、そう来たか……)

 昨日の時点で聞かされていたため、僕自身驚きはしなかったが、宮子の口から直接告げられるのは結構堪えた。紫鶴が僕の手の届かない場所にいることを痛感させられた。

「そんな……紫鶴さまが……」

 ショックを受けたのはハルも同じ様だった。せっかく立ち直りかけていたのに、再びその表情が陰り始めている。しかし、宮子はそんなハルを気にかける様子もなく再度僕らにたずねた。

「このままですと、源川さんが次の討論員という事になりますが、よろしいですか?」

 ぐ、とハルが言葉に詰まる。唇をきゅっと結び、震える手をもう片方の手で隠すようにしながら、それでもキッと宮子を見据えて一歩前に出ようとする。

「もちろん、私が……えっ?」

 それを僕は、庇うように肩を押さえて代わりに前へ踏み出した。

「いや、最終討論には僕が出る」

 再び、先ほどよりは小さいがみんなから驚きの声が上がった。一番慌てたのは当のハルだ。「イクちゃん!」と僕の手を後ろに引っ張るのを、首だけを横に振って踏ん張る。

「ハル、ここまでありがとう。だけど、この写真が出た以上僕はこのままここに居る訳にはいかないし、みんなだって納得しないだろう。僕が出るしかない」
「だ、だって、だって……」
「大丈夫だ、ハル。僕を信じろ……とは言えないか。でも、見ていてくれ」

 僕の姿に去年の自分を重ねたのか、ハルの目に涙が浮かぶ。それを見て僕は思わず手を伸ばして「大丈夫だよ」と再び頭を撫でてしまった。ブン屋が今度こそ三繰の手をかわし、横飛びジャンプで写真撮影している。
 後ろでガシャーンと壁に突っ込む何者かの騒音を無視し、改めて僕は宮子に向き直って目を合わせた。

「と、いう訳で選手交代」
「了解しました。これ以降の変更は出来ませんが、本当に構いませんね」
「ああ」

 僕が力強く頷くと、宮子はほんの少し、僕にだけわかるくらい僅かにその口元を綻ばせた。そして、厳かに宣言する。

「わかりました。新校則に反対する会の最終討論員を、達巳郁太君とする事を認めます。討論の開始は司会の委員が戻り次第となりますので、準備をお願いします」
「わかった」

 それは、僕にとって2度目となる宮子への宣戦布告となった。

5.

 司会役の娘が息を弾ませながら戻ってきたのは、休憩時間が終わる直前だった。舞台に上がる階段の下で裏方の委員から何かメモのような物を受け取り、そのまま壇上に駆け上がる。

『お、お待たせしました。討論会を再開します。続きましては申告側の最終討論者……』

 メモを開きながら話していた少女は、そこで『えっ』とマイクに拾われるくらいの驚きの声を上げる。慌ててしゃがみ込むと、先ほどの裏方と2言3言こそこそと確認し、その後ようやく立ち上がって先を続けた。

『し、失礼しました。申告側の討論者が変更されました。次の討論者……3年椿組、達巳郁太さん』

 僕の名前が読み上げられ、場内に驚きのざわめきが広がる。体育館の壁に反響してうぉんうぉんと聞こえる音響の中、僕は舞台袖の中にいるみんなの顔を見渡した。そして、

「みんな、ごめんね」
「え?」

 呟くと、全員の疑問符を置き去りにして舞台へと進み出た。僕の姿が舞台上のライトに照らし出され、ざわめきは更に大きなうねりとなって高まっていく。

 それは僕が演壇の前に立ってもまったく静まる気配がない。黙って立っていると司会や周囲の委員達が注意を始めたが、それがかえって騒ぎを大きくしているように見えた。

 こうして舞台の中央に立つと、ざわめく生徒達はそれ自体が大きなエネルギーを内包した1つの生命体の様にも見える。残念な事だが、そのエネルギーは先ほどの写真の件のため本来話し合うべき案件には向かっていない。そして、その疑問の向く先がまるで剣山のようにこっちにちくちくと突き刺さっている様がイメージされた。

 スポットライトで照らされているせいか、酷く暑い。上からは照りつける照明、そして下からは600の瞳からの追求の目だ。むっとするような猜疑と追及の空気が舞台上に向けて這い上がってくるようだ。さざめく女の子達の甲高い声が、キンキンと耳障りに脳裏で反響する。何を言っているかわからないのに、それに含まれる意志だけははっきりと伝わってくるのだ。

 すっと目線を天井に向け、僕はハルの事を思った。あいつは、たった一人でこれに立ち向かったのか。この誰も味方のいない壇上で、最後まで自分の声が届くことを信じて言葉を発し続けたのか。

 それを愚直と笑うか。蛮勇と嘲るか。そんな奴は一度でもこんな境地に立ってみるがいい。針のむしろとなったこの場所で、それでも信じてこの場に立ち続けたハルを、お前は救うことが出来たのか?

 今更、その時に戻ってハルを助けることなど出来やしない。だけど、それなら僕はなぜここに立っているのだろう? ハルの身代わりになろうと思ったのか。あいつが苦しんだあの時と同じ立場に立って傷を舐め合おうとでもいうのか。

 未だに場内のざわめきは収まっていない。いや、何も喋らない僕へ対する不満はどんどんと膨らんでいる。心は奇妙に静かだが、それは単に真っ白になっているだけかもしれない。演壇に隠れてわからないだろうが脚はガクガク震えているし、台に乗せた手の下は汗でびっしょりだ。口の中がカラカラで、唾を飲むのにも苦労する。

 でも、そんな事はどうでもいい。奥歯を噛みしめ、胸を張る。これから僕は一世一代のペテン師になる。僕にそれほどの演技力が有るかどうかは知らないが、みんなを騙し、ハル達を騙し、そして自分自身すら騙し通して見せよう。心の中で、呟いた。

(『達巳郁太』、お前は高原那由美の兄貴だろう? あいつならこんな場面、涼しい顔で笑顔を振りまいて納めてしまうさ。兄のお前に、出来ない訳が無い!)

 ドクンと心臓が鼓動し、すっと全身から緊張が抜けた。

『みなさん』

 僕が大きな声で叫ぶと、周囲を覆っていた騒々しい帳は急激に引いていった。代わりに、強まった興味の視線が更なる鋭さで僕を射抜く。だが、僕は集中する意識の中心に在りながら奇妙に平静な気持ちでいた。まるで何かが乗り移ったように、僕の言葉で観衆を動かすことに愉快さすら覚えていた。

 あと4手。
 あと4回の発言で、全ての状況をひっくり返してみせる。
 まずは、1つ目。

『先ほど出回った写真のコピーですが、あれに写っているのは……僕です』

 一瞬の、静寂。
 そして、どおっと上昇する滝のような何かの固まりが場内を吹き上がった。

 さすがに星漣の生徒達という他ないだろう。
 躾がきちんとされているためか、あからさまな罵声などは飛んでこなかった。だが、「どういうつもり」「信じられない」「何で星漣にいるの」「やっぱり生徒会長に」等々、明らかに僕を否定する言葉は僕のところまで聞こえてきた。苦労人の委員達もやっきになって静めようとしているが、生徒達の中心が加熱しているのだ。焼けた石にふぅふぅと息を吹きかけるようなものだった。

 あまりの騒ぎに少し心配になってちらりと舞台袖を見たが、そこから人が飛び出してくる様子は無い。三繰がうまく宥めてくれているのだろう。さっき、出てくる時に彼女にだけ「何かあったら頼む」とアイコンタクトしてきたのだ。何だかんだで分かってくれたようだ。

 体育館入り口の方の時計を見上げたら、僕が演壇に立って7分が過ぎていた。後3分か。2手目を打つのに良い時間だな。

 ここまでは……計画通り。
 いつぞやの漫画で見た笑い顔を心の中に思い浮かべながら、僕は火の付いたこの会場のエネルギーを利用するため、用意した2つ目の言葉を放つ。マイクを掴み、出来るだけ多くの人に聞こえるように声を枯らす。

『みなさん、一つだけ聞いてください。土曜日の夕方、僕は誰かにさざなみ寮の裏手に呼び出されたのです。写真は多分その時誰かに撮られたのだと思います』

 うねりに、少し変化が訪れた。それは大きな波の表面に白波がわずかに生じた様なものだったが、確実な兆しだ。驚きと、戸惑い、そして頭の良い生徒なら僕が罠にはめられた可能性にも思い当たった事だろう。だが、この会場のエネルギーをこの写真の解明如きに費やすわけにはいかない。第3手だ。

『しかし、それを証明する手段はありませんし、この討論会で行うこともできません。だけど、この件をこのままにして今日の投票を行うわけにはいかないことも良くわかります。だから、みなさんに1つ、僕からお願いがあります』

 急速に全員の意識が収束する。僕からの提案、それに向けて様々な感情がピンと尖った槍のように尖り始める。それは大きく大きく伸び上がった波の頭頂であり、後は、それが雪崩落ちていく先を指し示してやるだけだ。

『今回の件……新校則の是非や、写真の件を含め、僕の扱い全般を、みなさんの中の1人の方に預けたいと思います。この学園には、ちょうどこんな時、1番判断を仰ぐのに適切な方がおられるはずです。みなさんの中から1名、その方を選んで頂ければ、僕は……その方の判断に全てを委ねようと思います』

 ……第4手。
 丁度時間になったので、僕は演壇から下がった。僕の言うべき事は全て終わったのだ。

 最後の僕の発言を受け、生徒達の間にさざなみの様な騒ぎが行き来している。委員達もそれを止めて良いのかそれとも僕の提案通りその中から1人が立候補するのを待てばいいのか、判断できずに当惑した表情でそれを見守っている。
 おそらく、討論会で討論員ではなく、参加生徒達全員が議論する羽目になるなんて前代未聞だろう。転がり始めたルーレットの目は赤と出るか、黒と出るか。だが、それはもう何者にも干渉することは出来ない。

 ……そう、これは賭だった。
 もしも、彼女が言ったようにかつてこの星漣にあった象徴の星が完全に砕けてしまっているなら、僕の提案は何の意味も持たないだろう。その時は、僕は意味不明の事を口走って10分間を無駄にした大馬鹿野郎という事になる。

 だが、まだ生徒達の心の中にその輝きが残っていたなら……あの七月事件を経てもなお、その魂が息づいていたなら……彼女達は、選び出せるはずなのだ。

 この星漣の象徴として、たった1人、最もふさわしいあの人を。

 ざわめきが、ゆっくりと収まっていく。
 それは不思議な光景だった。生徒達の中心部から波が引くように音が消えていき、そして誰の指示でもなく左右に分かれ始めたのだ。まるで、大きな力を持つ者が手でかき分けたかの様に人々が横に退き、その中央に1本の道を創る。舞台上からだと、それは海が割れるような光景であった。

 そして、その道の先。
 分かれた生徒達の中央に、すらりと立っている長い髪の女性が1人いた。

 見間違う筈がない。
 紫鶴だった。

 紫鶴は、昨日別れた時と変わらず真っ直ぐ前を向いている。だが、あの時とは違う。あの時は、前を向いているだけで何も見てはいなかったのだ。しかし今の彼女は、しっかりとここにいる僕を見据えていた。

 そして、足を踏み出す。前に向かって。
 静かに、静かに。沈黙した生徒達の視線を一身に受けながら。

 僕は演壇から離れ、舞台に上がる階段の上で紫鶴を出迎えた。手を差しだし、彼女が最後の段差を上りきるのをエスコートする。2人の目線が絡んだ。
 しばしの沈黙の後、僕だけに聞こえるように小さく彼女が声を発する。

「あなたの、負けです」

 それに頷き、僕の方も小声で答える。

「ええ、僕は負けました。自分で自分を弁護することを放棄しましたからね。でも、紫鶴さん……」

 多分、僕の口元には笑みが浮かんでいるのだろう。僕は討論には負けたが、賭には勝ったのだから。その喜びを隠すつもりも無いため、そのまま紫鶴に笑いかける。

「……あなただって、負けてくれるつもりなんでしょう?」
「……」

 紫鶴はじっと僕の顔を見た。そして、後ろを振り返り、自分をここまで導いた生徒達をしばし見つめ、もう一度僕に向き直る。
 そして、笑顔が浮かんだ。

「……ええ。私も負けのようです」

 それは、僕の好きな優しい笑顔だった。

6.

『3年柊組、優御川紫鶴さん』
「はい」

 司会が討論者を読み上げ、それに凛と答える紫鶴。舞台の中央の演壇へと歩を進める。

 それは、まるで予定調和のような光景だった。彼女が討論者に指定され、僕が星漣の代表者に全てを委ね、そして生徒達が紫鶴を選び出した。全ての流れが、この最終討論へと向けた決められた事項だったかのようである。

 紫鶴は舞台後ろの緞帳に刺繍された星漣のマークをしばし見上げ、目礼すると会場に向き直って演台に上る。こちらに向かって礼をする微かな衣擦れすら聞こえそうなほど、辺りはぴんと静まり返っていた。

 そして、紫鶴はみんなを見渡すと、微かな笑みを浮かべ、静かに語り始める――

『私から意見を述べさせて頂く前に、まず、私をこの場に導いて下さった方々に感謝の言葉を述べさせて下さい。この生徒総会の開催を実施されているクラス委員のみなさま、私を討論員としてお呼び下さった安芸島生徒会長を始め、生徒会の方々。そして、この場にての私の発言を認めて下さったみなさま……ありがとうございます。

 最初にお断りしておかなければならないのですが、私はこの場には立っておりますが、それはこの学園の1生徒としてであり、私にはそれ以上の判断や指示を行う立場には無いという事です。ですから、あくまでこれからお話する事は私自身の考えであり、判断はみなさん自身のお考えにお任せしたいのです。そして、ここからはその判断の助けに少しでもなれたらと思い、私自身の判断基準についてお話しようと思います。

 昨年、私はセイレン・シスターにみなさんのご厚意により選任されました。しかし、未熟な私はその任の重さに、自分は何をすれば良いのか分からず、遂に先代へと相談を持ちかけたました。私は自分の悩みをありのまま打ち明け、「セイレン・シスターは何を行えば良いのか」とそのまま質問したのです。それに対し、先代は微笑んで答えました。「それを問い続けるのが、セイレン・シスターの役割です」と。

 セイレン・シスターとは何でしょうか。それは役職でしょうか。仕事でしょうか。星漣学園の校則にはセイレン・シスターの任務を規定した項目は有りません。有るのは、ただ脈々と初代より現在まで続く代々のセイレン・シスター達という存在だけです。それは、その時代毎に生徒達の中からセイレン・シスターが選ばれたという歴史そのものです。

 誰かが、こうありたいと願ったとき心の中にその理想としての自分が思い描かれる事と思います。何人もの生徒がその理想を思い描けば、それは個を離れた共通の目標となります。そして、星漣学園の全員がこうありたいと願うとき、その象徴としてセイレン・シスターが必要になるのではないでしょうか。セイレン・シスターとは個人に課せられる仕事ではなく、それぞれの心に宿る尊き目標なのだと私は思います。

 だから、何か判断をしなくてはならなくなった時、私は自分の心に問いかけます。心の中に、先代やそれまでのセイレン・シスターの方々、先輩の方々、星漣学園の歴史歩んだ方達の事を思い浮かべ、その方達ならばどう判断しただろうと、考えるのです。その方達に少しでも近づくにはどうしたらいいだろうと、あの方達の気持ちになってみようと試みるのです。

 その時、いつも決まって思い出す光景があるのです。正門から校舎へ向かう通りで私達を見守って下さる、セイレン様です。私には、先代達が最後の判断をする時、あのセイレン様をいつも思い浮かべていたように思えてならないのです。

 この星漣は、明治時代に英国での勉強を終えて戻った高倉正二郎先生が創設した高倉学校が始まりとされています。途中、現在の星漣学園へと名称の変更はありましたが、それぞれの代にそれぞれの生徒達がこの学園で生きて来られました。様々な混乱や衝突もあったと思われます。しかし、星漣学園はそれらの解決を決して外部に任せることなく、自分達で意見を交わし採るべき道を選択してきました。誰かに指示や命を授かるのではなく、自分達の中にある確かな理想を求め、その道を歩み続けたのです。

 今日、現在の私達の前にも決断しなくてはならない事柄が有ります。どちらの道も、私達が責任を持って判断したのならば胸を張るべき選択です。ただ、そこに在る理想はどちらのものが星漣の魂としてふさわしいものなのか、それをもう一度、誰の為では無く自分の心の中に、そこにある学園の姿として思い浮かべて下さい。

 その場所に、あなたの大切な友人はいるでしょうか。あなたの信頼する先輩はあなたを導いてくれるでしょうか。あなたを慕う後輩も笑っていますか。そして、そこは誰もが心に理想を抱いていますか。

 間違いを恐れてはなりません。私達は皆が星漣の生徒達なのです。躓いたなら、助けを求めることをためらってはなりません。道に迷った方に手を差し伸べることを躊躇してもなりません。理想にたどり着けない事を疑ってはなりません。心にそれが有る限り、それを問い続ける限り、全ての生徒がセイレン・シスター足り得るのですから。星漣の心が1つである限り、いつでもあなたの側の一番近い1人があなたを救う最良の友人となってくれる事でしょう。

 みなさんに、セイレン様の慈愛がいつも共にありますように――』

 紫鶴は口を閉じ、目を瞑って胸の前で手を合わせた。最初に僕と出会った日、セイレン像前で見せた祈りの姿。

 その時、日差しが傾いたのか、雲が日差しを遮ったのか、体育館に差し込む外の光が暗くなった。周囲が徐々に薄暗くなる中、しかし紫鶴の周囲だけはライトの明かりで煌々と光を保っている。その中に煌めきながら浮かび上がったシルエットは、正しくあのセイレン像のものだ。

 生徒達は、誰も言葉を発しない。
 沈黙したまま、祈りの姿勢の紫鶴を陶然と見つめている。中には涙ぐんでいる者もいる。まるで、天使でも見たかのような表情だ。

 ……いや。
 彼女達は確かに「奇跡」を見たのだ。
 確かに、生徒達300人を1つにまとめる、奇跡が起こったのだ。

 ここにいる全員が、セイレン・シスターの復活という奇跡を、目撃したのだ。

7.

 紫鶴の話が終わり、討論は全て終わったのにも関わらず辺りは静まり返っていた。紫鶴自身も演壇から離れたのはいいが、どちら側に引けばいいか考えあぐねている様だった。
 そこに、おそるおそるといった感じに司会の娘が現れる。まるで、畏れ多い者に接近するようにそおっとマイクの前に立つ。

『えー……おほん! これにて、全討論者による討論を終了します。なお、この後、生徒会長からお話がありますのでこのまま体育館を出ないでお待ち下さい』

 その言葉に、夢から覚めたかのようにようやく時間が動き始めた。周囲にざわめきが戻る。涙ぐんだ目を慌ててハンカチで拭う娘や、熱っぽく隣の者と話を始める生徒が大勢いた。僕としては予定に無かった宮子からの言葉に興味を引かれ、首を傾げた。

(宮子はいったい何を喋るつもりなのだろう?)

 紫鶴にも目をやったが、彼女も話を聞かされていないようだった。僕が身振りで呼ぶと、救われたようにこちらの舞台袖に歩いてくる。ちょうどその時、反対側から宮子が現れ演壇に向かって歩いていった。

『生徒会長、安芸島宮子です。本日はみなさん、長い時間の討論会への御参加、お疲れ様でした。解散する前に、この後実施される投票について、生徒会から提案があります』

 宮子はそう言うと、集まった生徒達を見渡す。会場にはまだ先ほどの紫鶴のもたらした熱が残っていたため、宮子からの提案を固唾を飲んで聞き入っていた。

『生徒会は、この後解散しての投票を必要としません。通常の手順を省略し、この場にて結論を出すことを提案します。これに異論がある方は挙手にて意見をお願いします』

 再び、ざわめきが大きくなった。会長からの突然の提案に皆、驚いている。僕もその大胆な内容に紫鶴と顔を見合わせた。

「なんで、こんなルール破りを?」
「……もしかしたら……」
「え? 何ですか?」
「いえ……宮子さんも、本当はこういう決着を望んでいたのかもしれません」
「?」

 僕の疑問は溶けないまま、宮子は話を続ける。

『異論が無いようなので、このまま決を採ります。まず……「新校則に反対する会」からの申告を却下し、このまま付則の採用を認める方。そのままで結構ですので、拍手にて表意をお願いします』

 生徒達はお互いに顔を見合わせているが、そこから拍手が上がることは無い。すぐにざわめきも引き、沈黙が訪れる。だれも、生徒会の案に賛成する者はいない。という事は……。

『では、続いて申告を認め新校則の採用を棄却する意見の方、拍手をお願いします』

 宮子がそう言うと、静まり返っていた場内にぱらぱらと拍手が上がり始めた。それは見る間に大きく膨らんでいき、最後には割れんばかりの大音響となる。控え室内のみんなも拍手するものだから、前後から挟まれ耳が割れそうな大喝采だ。
 膨れ上がった拍手に十分と見たのか、宮子は手を挙げてそれを納める。そして、再び訪れた沈黙の中、高らかに告げた。

『結論がでました。賛成多数により今回の申告を正当なものと認め、よって新校則は廃案とします!』

 わぁっと、大きな歓声が上がった。

 結局、この討論会は何だったのだろう。

 僕は紫鶴にも言ったように自己弁護を諦め、負けを認めた。紫鶴も宮子をセイレン・シスターにする事を諦め、負けを認めた。そして生徒会は新校則を撤回し敗北した。

 だが、この歓声はどうだ。控え室から出てきたハル達にどぉっと生徒達が押し寄せてくる。そこには喜びの表情しかない。いったい、誰が得をした討論会だったのか?

 でも、誰も勝たなかった代わり、星漣学園は自分の力で立ち直ることを選んだのだ。1年前に失ったものを、もう一度手にする力を自分自身で見つけ、取り戻す事が出来たのだ。

 そう、勝ったのは星漣自体……生徒達の心の中にいる、セイレン・シスターという星が、きっと勝ったのだ。

 宮子の宣言の後、僕らは押し寄せる女子生徒達にもみくちゃにされた。

「おめでとう」
「よかったね」
「がんばったね」

 みんながお祝いの言葉をお互いに言い合って喜び合い、あるいは嬉し泣きで慰められている。ハルはもっぱら後者のようで、

「イグちゃぁ~~~ん!!」
「うわ、抱きつくな!」

 と、僕の肩を涙でぐっしょり水浸しにした。例のブン屋も奇妙な笑い顔で僕のところまでお祝いの言葉を言いにやって来ていた。

「いや~、お疲れさまでした」
「なんだ、早く記事を書かなくていいのか?」
「いえいえ、折角作っておいた記事もこれじゃあ全部書き直しですからなぁ。どうせ間に合わないし、今夜は徹夜です」

 なるほどね、それがその半分あきらめ顔の正体か。ちょっとだけ同情したが、記事になる話題を提供してやったのはこっちなのだ。それにさっきの件とこれでおあいこでもある。

 春原達バスケットボール部、写真部のメンバー、福沢を始めとするクラスメイト達、みんなみんな、今回の為に協力してくれた人達が僕らのもとで集い、笑顔で喜びあっている。何だか僕の胸にも熱いものが上ってくる。

「ありがとう、みんな……ありがとう!」

 若干の照れを含みながらそう叫ぶと、みんながまた「おめでとう」と返してくれた。ああ、やばいやばい。
 僕はハルに顔を見られないようにしながら「ちょっとトイレ」と慌ててその場を離れた。

「あ、イクちゃん! この後探研部でお祝いだからね!」
「わかってる!」

 僕は振り向くことなく怒鳴り返すと、舞台の裏口から外に出た。

 夏の日差しは午後の深い時間にも関わらず強烈で、頭の中まで突き刺さるように両目に飛び込んでくる。その光をまともに見上げて、それで両目が痛むを幸い僕は全ての責任をそのせいということにして、目から何かがこぼれるのをそのままにした。それはもう、僕の意志とかわだかまりとかひねくれ具合とか関係無しに、ただ衝動のままにあふれ続けていた。

 僕の中にある白い卵。割れてしまって、そこから血を流し続けている大きな卵。その側に、小さく見窄らしい色合いの卵が転がっていた。

 親鳥にも見放され、もう後は潰れて腐り、地に還るのを待つだけだと思っていた。
 だが、その卵はいつの間にか、親鳥とは違う鳥達に暖められ、息を吹き返し、自分の温度を取り戻して。

 そして、小さく、トクントクンと再び鼓動を始めていた。

8.

 歓声に湧く体育館。その2階の放送室に、2人の執行部員の姿が有った。

「やられたわね」

 窓から下の様子を見下ろしながら呟いたのは、体育会運動部連合会長・早坂英悧である。彼女ともう1人は、討論員に登録されていないためにここで放送機器の操作というお手伝いをしていたのだ。

「そうですね。生徒会の完敗かしら」

 そう言いながら笑っているのは、やまゆり編集長の天乃原などかだ。その表情に悔しさなど一欠片も現れていない。それを不思議そうに振り返った英悧が訊ねる。

「彼によくよくプレッシャーをかけてた割に、あんまり悔しくないのね」
「それはもう。結局私達は何かを失ったわけでは無いのですから」
「それも会長の思惑通りってわけ?」
「恐らくは」

 事も無げになどかは言う。英悧も、まああの宮子の事だからそんな事もあるかもしれない、と納得することにした。

「それにしても、いきなり彼が舞台に上がった時にはびっくりしたわ」
「ええ。あの3人の演出には私も脱帽です」

 などかの同意に頷きかけた英悧だが、ふと違和感に気がついて首を傾げる。

「3人? 彼と紫鶴さまじゃなくて?」
「達巳君が心を決める、最後の後押しをした方が居ます。自覚が有ったかどうかわかりませんが、彼がその方を守るために舞台に上がったのは間違い有りません」
「ふ~ん……」

 誰のことか、英悧は探研部ゆかりの人物の顔を思い浮かべてみるが、あの少年がそれほど大切にしている人物に心当たりはいなかった。
 早々にその追求を諦め、窓からの景色に再度目をやる。

「まあ……何にせよ。おもしろそうな感じになってきたわ」
「まったくです」

 眼下では、生徒達が熱の籠もった口調で口々に今日の生徒総会の成果を讃えながら、ゆっくりと移動を始めている。
 それを、楽しげな目つきで2人は見つめていた。

9.

 体育館の裏手の水道で顔を洗った僕は、すぐにまたハル達に合流する気分にはなれなかった。若干の照れが有ったことは認めるけど。

 水が散って濡れた前髪を掻き揚げながらどうしようかと思案する。祝勝会をやると言ってもせいぜいいつものお茶会に毛が生えた程度の物だろう。そんなに急いでがっつくほどの物でもない。

 校内をぶらぶらして少し時間を潰そうかと歩いていると、自然に足が図書館の方へ向いた。あるいは、何かの直感が働いたのかもしれない。何かに導かれるように閑散とした図書館の玄関を通り、自習室へと入る。そして、再奥の窓際の席へと歩み寄った。

 その光景をどこかで予感していたのだろう。そこには1週間前と同じ様に、安芸島宮子が座って本を読んでいた。いや、僕を待っていたのかもしれない。真っ直ぐに伸びた背筋と、軽く引かれた細い顎。ちょっと緑がかった灰色の瞳は長い伏し目がちのまつげの奥でじっと手元の本へと注がれている。

 僕がその様子に目を捕らわれていると、気配に気が付いたのか彼女は本にしおりを挟んで顔を上げた。

「おめでとうございます、達巳君」

 何と言おうかと考える前に、先に宮子の方から声をかけられた。とりあえず「ありがとう」と返し、言葉を続ける。

「また、ここにいたんだね」
「ここは、達巳君の場所ですから」

 そうか、やっぱり僕を待っていてくれたのかな?

「僕がここに来るって、わかってたの?」
「さあ、どうでしょう」
「僕はあなたに会いたかったけどね」
「それはとても光栄に思いますよ」

 まるではぐらかすようなやり取りの中で、僕にも少しずつ彼女のことが見えてきた気がした。もしかして宮子は、今回の一連の騒動の結末が見えていたのではないだろうか?

「安芸島さんにはこうなるって事がわかっていたの?」
「そうですね。結末の1つとしては考えていましたよ」
「じゃあ、やっぱり僕がここに来ることも知っていた?」
「……ご想像にお任せします」

 静かに笑いながら答える。その余裕を持った態度は、僕にかなわないな、と苦笑いさせるに十分だった。
 質問が終わったと見たのか、宮子は椅子を引いて静かに立ち上がった。

「それでは、まだ仕事がありますので」
「ああ、お疲れさま」
「お疲れさまでした」

 そう言い残し、宮子は僕に会釈をして自習室を出ていった。すれ違ったとき、僅かに彼女の髪の匂いがふんわりと鼻先を掠めていった。

 宮子の後ろ姿の残滓を見つめていた視線を戻す。そして僕もそろそろこの場所を離れようと思ったとき、ふと机の上に残された小さな物に気が付いた。近寄って拾い上げてみると、それは黄色い包み紙のキャンディーだった。

(何でこんな物を?)

 宮子がこれを気が付くように残したという事は、これは僕へのプレゼントなのだろうか。でもなぜ飴玉?
 何か仕掛けがあるのではとくるくる指でひっくり返しながら外に出てみると、思いがけなくそこには紫鶴が待っていた。

「あれ、紫鶴さん?」
「郁太さん、ここにいらしたんですね」
「ええ、ちょっと……僕に何か?」
「源川さん達と郁太さんの事を探していたのです」
「え、ここまで探しに来てくれたんですか?」
「ええ。源川さん達が待っていますよ。早く文化部棟へ参りましょう」

 僕は頷き、紫鶴と並んで銀杏通りを歩き始めた。日差しは傾いているとはいえまだ強く、イチョウの葉の影をくっきりと路面に落としている。手をかざして空を見上げたとき、僕の手の中のものに紫鶴が気付いた。

「それ、安芸島さんに頂いたのですか?」
「良くわかりましたね。手渡されたわけじゃないけど、そんなところです」
「実は、図書館に向かう途中で安芸島さんとお会いして、郁太さんが中に居らっしゃる事を教えて頂いたのです」
「なんだ、そうだったんだ」
「もうその中はご覧になりましたか?」
「いえ、まだですけど……」

 紫鶴に促されたので中を開けてみる。包装の中には白い中紙で包まれたレモン色のキャンディーが入っていた。つまみ上げて観察したが、市販の飴と違いがわからない。そのまま口に放り込んだ。

「ん。レモン味ですね。別に変なところは無いですよ」
「ふふ。包み紙を開いてよくご覧になってみて下さい」

 首を捻りながらいったんはくしゃっと潰してしまった紙を指で延ばしてみた。すると、その表側の真ん中に何か細かい字で短い文章が書いてある事に気が付いた。

「今年の洗礼祭では、安芸島さんがそのキャンディーを1年生に配ったんですよ」
「へえー……その時も、同じメッセージが?」
「ええ。全て、あの方の手書きです」

 その時、前方から元気良く僕らを呼ぶ声が風に乗って運ばれてきた。顔を上げると、文化部棟の前でハルが声を張り上げながら手を振っている。その側には、クラスのみんなや哉潟姉妹、バスケ部、写真部、その他もろもろブン屋も含めてまとめて大勢、僕らの到着を今か今かと待っていた。

「げ……いったい何人いるんだ。呼び過ぎじゃないですか、あれ」
「ふふ、これも源川さんと郁太さんの人徳かもしれませんよ」

 そう言って笑うと、紫鶴は「さあ、急ぎましょう」と僕の手を握り、軽やかに走り始めた。

「わったった!」

 急に手を引かれて僕の手からさっきの包み紙がするりと抜ける。それを目の端で追いながら、とにかく足をもつれさせないように前に運んだ。

「紫鶴さん、速いですよ!」
「早くないですよ。私だって待ちくたびれました!」

 今まで見たことがないような軽やかな笑顔。長い脚がステップを踏むように地面を跳ね、それに併せてスカートと長い髪が翻る。きゅっと握られた手のひらからは紫鶴のしなやかな感触が伝わってくる。その光景を見て、前方のブン屋がキラリと目とカメラを光らせるのが見えた。

「そんなに急がなくても! それに手を繋がなくてもっ!」
「駄目ですよ! みんな郁太さんを待っているんです! 離しませんからね!」

 なんてこったい! この僕を待っているだって?
 それはどんな冗談だ。

 この僕は、一匹狼のこの学園の異物じゃなかったのか? どこでどう間違ったんだ!

 ハル達が僕達に何かを叫んでいる。みんなが笑いながら、僕らを迎えている。

 なんて、酷い話なんだ。
 僕の人生はいつからこんなに様変わりしてしまったのだろう。
 黒い欲望にまみれて、彼女達を汚し続けるのが僕の生き方だったんじゃ無かったのか?
 何で僕はこんな明るい日差しの中、みんなに笑顔で歓迎されているんだ?

「遅い! もうずっと待ってたよ、イクちゃん!」

 2人が息を弾ませながら到着したと同時にそう言われ、僕はもう認めるしかなかった。
 諦めと共に、清々しく負けを認めるしかなかった。

 ああ、僕はもう……星漣の一員に、なってしまったんだなぁ、と。

 風に舞い上がった黄色い小さな包み紙。
 その表に、小さく几帳面な字でメッセージが書かれている。

  『星漣へようこそ』

 長く1年間にも渡った星漣の雨雲は今日、ようやく晴れ渡り、そして季節は輝く夏を迎えていた。

 ……余談ではあるが。

 7月の生徒総会の後、またもや新聞部の活躍によって優御川紫鶴に新たな2つ名が付けられることになった。
 セイレン・シスターと区別するべく考案された新たな呼び名、それは「セイレン・エルダー・シスター」。

 ――「星漣のお姉さま」である。

< 1学期編 終わり >

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