星辰の巫女たち 第6話

第6話

 人生でもっとも幸せなときはいつか、と訊かれれば、プリムローズは父と過ごした時期だと答えるだろう。
 物心ついたときから数年間の、大好きな父に守られていたとき。

 プリムローズはずっと父に育てられた。父はこの愛らしい妻の忘れ形見に惜しみのない愛情を注いだ。
 プリムローズは父に固いパンを千切って食べさせてもらうのが好きだった。毎晩、大きくて頼もしい体に引っ付いて寝るのが楽しみだった。
 父はから多くのことを教わった。人としての温かい心。他人のための勇気。愛の大切さ。
 貧しい暮らしでも、プリムローズは父がいれば幸せだった。

 しかし、その幸せはある晩脆くも崩れ去る。ある晩、彼らの家を謎の剣士が襲ったのだった。
 父には優れた剣の使い手だったが、敵の強さは異常だった。
「プ……わが娘よ、逃げるんだッ! 父さんは後から行く!」
「お……おとうさん……!」
「いいから逃げろ!」
 プリムローズは泣きながら、森に逃げこんだ。
 彼女は幼かったが、このころからすでに聡明だった。自分が我儘を言えば、父を困らせることになると知っていたのだ。

 どれほど走っただろう。幼いプリムローズは疲れきり、森の中に座り込んだ。
 鳥の声も虫の声も聞こえない、自分の動悸の声だけが世界に響いていた。
 そんな中で、その声は彼女の背後から突如出現した。
「娘、ここまでだな」
 プリムローズは振り返る。そこには、あの剣士がいた。
 彼女は愕然とした。男は首が半分切り取られている。それなのに平然としている。まるで屍肉人(グール)だ。
「お前の父は強かった」
 ?
「お前の父は我の宿主をここまで追い詰めた。この男以上の優れた剣士だった。だから我はこの男を捨て、やつの体をいただこうとした」
 男はぐらぐらの顎を動かして喋った。
「だが、我に体を乗っ取られることを覚ったやつは、自ら自分の心臓を一突きにして命を絶った」
 と、男はプリムローズの柔らかい喉下に剣を突きつける。
 ほんの少し力を込められたら刃が首を裂く。プリムローズは身を硬直させ、身震いひとつしないように努めた。
「お前の父は、自分がお前にこうすることを恐れ、我に操られる前に自分の命を絶ったのだ。この剣でな」
 プリムローズは気づいた。この剣は父の剣だ。その刃にぬるりとした赤い液体がついているのが間近に見えた。
 プリムローズは理解した。父は死んだのだ。
 しかし、それでもプリムローズは動かなかった。
「奴は死ぬ際、お前の身だけを案じていた。殊勝な男だった」
 鋭利な刃がさらに押し付けられる感覚があっても、プリムローズは震えひとつ起こさなかった。

 プリムローズのその様子を鑑賞すると、男はにやりと笑った。
「強い娘だな」
 プリムローズの首筋から剣が下ろされた。
「父の強さと遺志に免じて、お前は逃がしてやろう。娘、お前の名は?」
「……アンナ」
 プリムローズは咄嗟に適当な名前を教えた。悪魔に対して自分の名前を教えるということは危険だと知っていたからだ。
 男はにやりと笑った。
 男の体から、黒い靄が噴き出す。その靄が、この肉体を操っている『我』だとプリムローズは思った。
「我の名はまだない。今はただの闇だ。娘、父の敵を討ちたいなら、修行し力を身につけるがいい。何年後か、お前が強くなったら我を殺しにこい。そのころには我は、『タローマティ』として復活しているだろう」
 そう言うと、闇は剣士の体に戻り、死体同然の体を引きずって去っていった。
「さて……はやく適当な宿主を探さなければな……」
 そしてそのまま夜の森の中を消えていった。

 悪魔が去った後、プリムローズは、年齢相応の幼い子供に戻った。
「う……うわああああああん!」

 旅先のテントの中でプリムローズは目覚めた。
「またあの夢を見ちゃったわ……」
 プリムローズの目には涙が浮かんでいた。
 プリムローズは木櫛で桃色の髪を梳く。旅先ゆえ簡易祭壇の前で祈りを捧げた。
「お父さん……」
 夢を見ようと見まいと、あれから10年、朝夕に天国の父に祈りを欠かしたことがない。彼女の肖像画が各地の教会で崇拝の対象となる身分になっても、彼女は父に対する尊敬と愛情を失ったことはない。夢枕に父が出ることは珍しいことではない。
 気にかかるのは、アールマティ大聖堂を出発して3日、連日父の夢を見ることだ。
 まるで天国の父が、プリムローズに何かを訴えようとしているようであった、たとえば、危険を報せようとしているとか。
 プリムローズはそれが気がかりだった。

 旅の4日目の夕方、プリムローズ一行はレン国の国境を越えたところだった。
 一向は谷に面した隘路を通行中だ。彼らは谷に落ちないよう、気をいっそう引き締めて進んだ。
 そのとき。
「キャー!」
 いかにもな叫び声が、谷底のほうから聞こえてきた。
 見ると、谷底を女の子とその父親らしい男が走っているのが見える。その後ろにはゴブリンが7匹。
「追われているんだ!」
「助けよう!」
「しかし、間に合うか?」
 親子は死に物狂いで走っているが、追いつかれるのは時間の問題だ。神殿騎士たちがこの急峻な谷を降りるまで持ちこたえそうもない。
「みんな、こここにいて!」
 神殿騎士たちの意見を聞く間もなく、プリムローズが谷を飛び降りた。
 彼女は、この切り立った谷を、何の躊躇いもなく空中に踏み出した。
「み、巫女様ぁl!」
 大慌ての神殿騎士たちをよそに、プリムローズは谷底へ滑空していく。そう、それは落ちるというよりはあまりに優雅だった。滑空と言うに相応しかった。純白の巫女装束がひらひらと翻り、まるで鳥のように美しかった。
 彼女は空中で聖なる印を切った。
「光の神アールマティ、わたしに力を!」
 彼女の左手に、光の粒子が集まり、光り輝く弓を形作る。
 彼女が弦を引くと右手に光の矢が出現する。彼女はまったく無造作とも思える素早い動作で矢を放った。
 ヴヴヴヴヴヴヴン!
 一呼吸で7発の矢を射おえ、彼女は弓をしまった。
 その数秒後、彼女は谷底に着地した。目の前には、息を切らしている父親と娘がいた。

「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
 プリムローズは悠揚迫らぬ声で親子に話しかけた。
 それもそのはず。彼らを追い回していたゴブリンは、すでに全員もの言わぬ屍になっているのだから。
 親子は何が起こったのかさえわかっていないようだった。無理もない、谷の上からプリムローズを見ていた神殿騎士でさえいつ彼女が矢を射ったのかわからなかったのだ。
「あ……あ……? ありがとうございます……あれ……?」
「おとうさん……あたしたち、助かったの?」
「そ、そうみたいだ……!」
 二人はひしと抱き合う。
「パパ!」
「コレット!」
 父親は涙を流して彼女をきつく抱きしめた。
 よかった。プリムローズはその親子にかつての自分と父を重ね、暖かい気持ちになる。
「いや待った! まだ喜ぶのは早かった!」
 しかし父親は叫んだ。
「お助けください! 我々は模倣者とやらに襲われてるんです!」
 模倣者?
「模倣者ですって? だって、あなたたちを追いかけていたのはモンスター……」
 と、プリムローズはハッとした。
 たった今彼女が屠ったモンスターの死体には、みな額に文字が刻まれていた。
 模倣者の証、『A』の文字が。
 模倣者は、モンスターさえも信者にしてしまうのだろうか?

「あ! プリムローズ様! あれをご覧ください!」
 谷の上から神殿騎士たちが叫ぶ。プリムローズが振り向くと、親子が逃げてきた方角から一人の男が現れた。
「お出ましというわけね……。意外に早く会えたわ」

「巫女様をお守りしろ!」
 神殿騎士たちが慌てて崖を降りてきた。
 彼らは地表の凹凸を伝って降りてくるしかないので。時間がかかった。(ひとり、プリムローズの真似をして飛び降りたものがいたが、着地時に骨を折った。)が、なんとか男が近づくまでには降りられ、隊列を整えることができた。

 親子は安全な場所で隠れさせ、プリムローズたちと模倣者と対峙した。
 こちらは10人、敵は1人。多勢に無勢だが、男は動揺していない。
 それは30前後と思われる男だった。例によっての『A』の文字が刻まれた黒いローブを着ている。
 左の目がないのか、眼帯をしていることが特徴だった。残された右目は、死んだ獣のような不気味な目でプリムローズを見ていた。 
 プリムローズは油断なく構えながら男に語りかける。
「あなた、名前は?」
「……」
「教団内での位は?」
「……」
「どうやってこのモンスターたちを操っているの?」
 この質問には、すぐに男は答えた。
「!」
 男の答えは、右手に取り出した黒い宝石だった。そしてそれはたちまち黒い霧を放ち始める。
「みんな! 見ちゃ駄目!」
 プリムローズは神殿騎士たちに注意を促す。しかし、遅かった。

 神殿騎士たちはみな、その宝石が目に乗り移ったように、茫漠とした目つきになる。
 宝石はオルガンのようなくぐもった振動音をあたりにまき散らす。その音が心地よく、騎士たちは呆然と聞き入った。彼らは持っていた剣を落とす。しかし、誰も拾うものはいなかった。黒い霧があたりを覆い、空が暗くなる。
 彼らは戦いの緊張感も消えていき、自分が無防備であることも考えられなくなっていった。
 彼らの目は、まるで糸で結ばれたようにその黒い光から離れなくなった。
 底なし沼のように……光の届かない沼の縁に、彼らの意識は落ちていった。

 そしてそれは、プリムローズでさえ例外ではなかった。
 彼女の顔から表情が消え、目が黒く濁った。
 熱い湯に浸かっているような気持ち良さが彼女の全身を覆った。浮遊感とともに体の重さが消えていく。

 頭の中で声がする。
 我らが教団に忠誠を誓うか?
 思考という思考の道筋が塞がれる、思考することがまるで罪悪のように感じられる。プリムローズはただ盲目的に頭の中のその声に身を任せた。
 頭の中で声がする。
 我らが教祖様に忠誠を誓うか?
 除々に頭がぼうっとし、体の感覚が遠のいてきた。どんどん気持ちがよくなってくる。神経の一本一本が優しく撫でられているようだ。眠ってしまいそうだ。
 頭の中で声がする。
 我らが神に忠誠を誓うか?
 その声が何度も何度も彼女の中で繰り返された。
 なんだか……とてもいい気持ち……。
 でも……でも……。
 でも……これが切り札だとしたら拍子抜けだわ!
 彼女の目が、一瞬にして輝きを取り戻す。
「嘗められたものだわ! 星辰の巫女がそんな術にかかると思ったの?」
 巫女の精神力は常人の比ではない。厳しい訓練を積み、アールマティの加護に守られた彼女らは、こんな暗示にかかることはありえなかった。
 彼女は振り返り、まだ暗示に囚われたままの神殿騎士たちを一瞥する。
「みんな! 正気に戻りなさい!」
 プリムローズが弓を引き、上空に向かって光の矢を放った。矢は、人々の頭上で炸裂し、光の波が辺りを包む。空を覆っていた黒い靄が豁然と割れ、空が現れる。
 同時に、神殿騎士たちの目に理性の光が戻っていく。
「もうはっきりしました、模倣者たちは邪悪な術を使っています!」
 プリムローズは光の矢を放った。その矢は音の速さで標的に吸い付くように飛ぶ。
 神殿騎士団たちが慌てて剣を拾ったときには、片目の男は左胸を射抜かれていた。

 片目の男は、倒れた。
 そのとき、意識が途切れる前に彼がつぶやいた言葉は、あまりにもか細すぎて、誰にも、プリムローズにも聞き取られることはなかった。
「(これで、やっと、死ねる……)」
 彼は擦れた声でそう言うと、もう瞬きもできない目を虚空に彷徨わせた。
「(ステ……リ……最後に一目だけ……)」
 それきり、男の意識は途絶えた。

 こうして、模倣者とアールマティ聖教の第一戦は、プリムローズたちの勝利に終わった。
「きゃー! すごい、すごい巫女様!」
 少女は父親に抱かれながら盛大に拍手をした。

 戦闘後、死んだ敵たちの弔いがおこなわれた。モンスターは焼却され、片目の男は簡易な墓に埋められた。
「ん……?」
 彼の死体を穴に入れようとするとき、神殿騎士はふと違和感を感じた。
「なんか、死んでる割には、温かいな。……気のせいか」
 彼は疑念を追い払い、男に土を掛けていった。

 弔いが終わるころにはもう日が暮れていた。
 今から谷の上へ登ることはできない。その日、一向は谷底に野営することになった。あの親子も一緒だ。

 簡単な食事の後、めいめいはテントの中に戻っていった。まだレンの首都まで行かなければならない。彼らはこれからの戦いに備え床についた。
 と、不寝番の神殿騎士が、たき火の前でぽつんと座っている父親を見咎めた。
「おいあんた、あの子供は? 一緒じゃないのか?」
「さあ……」
「さあって、あんた、父親だろ」
「父親……そうだ俺はあの子の父親なんだ……」
 彼はまるで独り言を言っているようだった。
「でも、いつからだったろう……」
「?」
「いつから、俺はあの子の父親になったんだろう……。いつからあの子と旅をしているのだろう。思い出せない」

 プリムローズはテントの中で、携帯用の礼拝道具で祈りを捧げていた。
 ほかの神殿騎士たちは共同テントだが、巫女にはテントが丸ごとひとつ与えられている。ここにいるのは彼女一人だ。
「お父さん……ありがとう。今日も無事に勝つことができました」
 戦いの後、いつもプリムローズは天国の父に祈りを捧げることにしていた。
「お父さん……」
 戦いは辛い。無理もない。いくら偉大な巫女様とはいえ、彼女はまだ年若い少女なのだ。
 しかし、どんな殺伐とした状況でも、父の姿を思い出せば彼女の中に勇気が湧いてくる。父の笑みを思い出せば、胸の中に温かい火が灯る。父の思い出があったから、プリムローズは厳しい修行や危ない修羅場を乗り越えてここまで来れたのだ。
 たとえ手の届かぬ人となっても、自分は父によって生かされているという気持ちを忘れたことはなかった。
「お父さん……見守っていて」
 ふと、戸を叩く音がした。
「巫女様? 起きていらっしゃいますか?
「?」
 あの少女だった。
 プリムローズは彼女をテントの中に招き入れた。

「巫女様。今日はありがとうございます」
 彼女はスカートの裾をつまんで深々と頭を下げた。にっこり笑うと、その微笑みとウェーブがかかった栗色の髪がとてもかわいらしい。
 そういえば、この子の名前はなんと言ったろう。
「コレットといいます」
 彼女はまるでプリムローズの心を読んだように答えた。
「そう、コレットちゃんね」
「巫女様、お礼のプレゼントを受け取ってもらえますか?」
「まあ、何かしら」
「とってもいいものですよ。しばらくの間、しゃがんで、目を瞑っていただけますか?」
「ええ」
 プリムローズは言われるままに膝をつき目を閉じた。

 プリムローズはこのコレットという少女になぜか親近感を感じていた。かつての自分のように、大好きな父と2人の境遇のものとして、自分を重ねていたのだ。
 プレゼントっていったい何かしら? わくわくしながらプリムローズは待った。
「!」
 突然、プリムローズの唇を何かが塞いだ。
 思わずプリムローズは目を開ける。少女がプリムローズにキスをしているのだ。
「んむっ! ちょ……離して! なにをするのっ!」
 プリムローズはコレットを振り払おうとした。しかし、コレットは子供とは思えない異様な筋力でプリムローズの胴を捕らえて離さない。
 コレットはまるで獲物にとびかかる獣のように、再びプリムローズの唇を奪う。そ表情の消えた顔は、異様で、凄絶で、美しいほどだった。
「んぐっ!?」
 そのとき、コレットの唇から、何か異様なものが流れこんでくる。ねばねばした液体のような、実体のない煙のような、冷たいのか熱いのかもよくわからない、異様な何かだった。プリムローズの背筋がぞくりと寒くなる。
 なに? これは?
 彼女の喉は反射的にそれを咀嚼してしまう。直後、彼女の中に不可思議な感覚が広がる。食道の中を芋虫が張っていくような感覚に彼女は吐き気を覚える。しかし嘔吐する余裕もなくそれは間断なく彼女の中に侵入してくる。たちまち食道を抜け、拡散し、増殖し、彼女の体内のあらゆるところに侵略していくかのようだった。おぞましい震えがプリムローズを襲う。
「んんんんっ!」
 これは、なに?
 その正体はすぐ知れた。
 プリムローズは目を疑う。口からだけではなく、コレットの耳、鼻腔、目。顔面の穴という穴から『それ』が噴出している。それは、黒くねばついた煙だった。
 プリムローズはこれを知っている。
 これは、昼間見たあの霧と似ている! 否! 遥か昔にこれと同じものを見ている。まさか、これは……!

 それはヒルが吸い付くようにプリムローズにまとわりつき、口から、鼻孔から耳から、毛穴という毛穴から進入してくる。
「んむっ! い、いやぁ!」
 プリムローズはようやくコレットを振りほどき突き飛ばすことに成功した。彼女はあっけなく地面に倒れる。
 しかし遅かった。 彼女から出た黒い靄はすでにすべてプリムローズの中に入っていたのだ。
(もらったぞ。お前の体)
「!」
 頭の中で異質な声が響く。
 悪魔だ!
 悪魔がこの子に取り付いていたのだ! 
 そして、この子の中に隠れて、今わたしに……!
「そう簡単に、やるもんですか!」
 彼女は全身に光の気を充溢させ、侵入してくる闇に抗う。巫女の光の魔力は、並大抵の魔物なら体内で消し去ることが可能だ。
 しかし、闇の力の勢いはすさまじかった。消え去るどころか、侵略になんとか抗うのが精一杯。少しでも気を抜けば、押し込まれてしまいそうだ。
 この圧倒的な闇の力! 昼間の男とはまるで別格だ。プリムローズは考える。
 これほどまでに力を持った悪魔といえば、考え付くのは一人、まさか、まさか、まさか。
(我のことが気になるようだな)
「お前は誰!? いったい誰なの!?」
 闇は、笑ったように思えた。
(我は、模倣者が崇める神だ)
「模倣者が……?」
 彼らはアールマティを崇めているのではないのか? 彼らのローブの『A』はその証ではないの?
(あのAはアールマティ[Armaiti]を指すのではない。奴らの姿が、奴らの名前に足りないものを補っているのだ)
 ? プリムローズは模倣者[imitator]にAを足してみる。 ? aimitator?
(巫女ならこれくらい察しろ。簡単な言葉遊びだ)
「言葉遊び……?」
 プリムローズは懸命に思考する。

A IMITATOR → 

A IMI ATOR → T

A IMI  TOR → TA

A IMI  TO  → TAR

A IMI  T   → TARO

A I I  T   → TAROM

  I I  T   → TAROMA

  I    T   → TAROMAI

  I        → TAROMAIT

           → TAROMAITI

「! タローマ……あっ! し、まった!」
 誘導されるままにそんな思索に意識を割いてしまったことが彼女の失策だった。精神集中が乱れた分、光の術の精度が落ち、たちまち闇が彼女の体を掌握し始める。
「やあ! や、やめなさい!」
 一度均衡が崩れれば、もう彼女になすすべはなかった。
 黒い霧が、彼女の筋肉、神経の隅々にまで浸透し、支配する。彼女はもう光の魔力を練ることも封じられた。彼女は自分の心が暗い檻に閉じ込められるのがわかった。
「…い、いやあ!」
 そのとき、ドン、と巨大な力で殴られたかのような衝撃が彼女の背中に走る。それきり彼女の震えが止まる。

 テントの中は静まり返った。
 やがて、プリムローズはなんてことなさそうに立ち上がった。
「残念だったな、プリムローズ」
 プリムローズは、その愛らしい顔に邪悪な笑みを浮かべた。

(わ……わたしの声っ?)
「お前の口が喋っているのだから当たり前だろう?」
 喋っているのはプリムローズの心ではない。プリムローズの心は、体と回線を切り離されて震えひとつ起こすことができない。
 なんてこと……! あの片目の男は囮だったんだわ。あの男を倒して、すっかり安心してしまった。そもそも、あのモンスターの襲撃も布石だった。この谷底にモンスターの匂いが溜まっていたせいで、タローマティ本人の闇の匂いがその中にまんまと隠れたんだわ……。そうでなければ、コレットちゃんの中にいるタローマティの気に気づけたはずだもの。
「ご名答」
 ?
「こうでもしなければ巫女の堅固な防衛を破れなかったからな」
 ! 心を読まれている?
 タローマティは、お姉さまのように人の心を読めるのだろうか?
「そのとおり」
(くっ! くっ! くっそう!)
 体が自在に動くものなら、プリムローズは拳を握り締めていただろう。
 プリムローズは自分の未熟さを悔やんだ。
 お姉さまやロッテならこんな失態は決してしないだろう。なんて愚かだったのだろう! 彼女らが何度も「油断するな」と言ってくれたのに。
「まったくだな。リーゼロッテがご丁寧にも、子供の姿をした敵もいる、と教えてくれたのに」
(!!!)
 心を読むだけじゃない! こいつは、記憶を覗き見ている! 
 その屈辱に眩暈がした。
 プリムローズの父との思い出、アールマティ大聖堂での暮らし。それらが覗かれていると思うと怒りが身を裂きそうだった。
「そう悲嘆するな。あの夜からのお前の半生、なかなか興味深いぞ」
(……)
「我の言いつけどおり、光の魔術を修めたな。いい子だ」
(……きさまっ……)
「我を覚えているよな?」
(忘れたことはないわ! タローマティ!)
 父の仇。幼いプリムローズから最愛の人を奪った怨敵。この悪魔を倒すために彼女は修行してきたのだ。
「嬉しいぞプリムローズ。よくここまで成長した」
 巫女装束の上から、プリムローズは自分の胸をなでる。無数の蟻が這うようなおぞましい感覚がプリムローズの心に伝わる。
(やめなさい! 殺すわよ!)
「フッ」
 プリムローズの心は情けなさと悔しさに震えた。父の敵を討つはずが、父がやられた手に嵌り、ましてこんな屈辱を受けるなんて。
「光栄に思え。親子二代で我に肉体を預けるとは名誉なことだぞ」
 この憎い仇が、自分の体で、自分の声色で喋っているということが許せなかった。

 プリムローズは必死で抗おうとした。精神を集中し、光のオーラを練り、自分の体の支配権を取り戻そうとした。だが、どんなに気張っても、無駄だった。
「そんなことをしても消耗するだけだぞ。これから一仕事してもらうのだから、気力は取っておけ」
(く……わたしの体で何をする気なの……?)
 恐怖ゆえに脈拍が乱れ、冷たい汗が流れた。(体の自由は奪われていても、生理現象はプリズローズ本人の精神状態に依存するようだ)
(まさか、わたしの体を使って新しい教祖になるつもりなの?)
「そんなことはしないな」
 プリムローズは笑った。
(じゃあ……神殿騎士たちのみんなに忍び寄って、彼らを殺す気?)
「あんな雑魚ども、いつでもしもべにできる」
 プリムローズは、かわいらしい声のまま、恐ろしいことを口走った。
(……じゃあ、いったい何を……?)
「もっとお前にとってよいことだ。ーーそれ」
 と、彼女の体と精神を断絶させていた壁が、嘘のように氷解した。

「え?」
 そう言ったのはプリムローズ本人の意思だ。
 彼女の体は彼女の意思のままに動いた。手足も動く、声も出る。何もかも元通りだ。
 闇が去ったわけではないだろうが、頭の中の闇の気配が遠ざかった。
 とにもかくにも、千載一遇のチャンス!
「――ありがたいわ!」
 プリムローズは即座に手刀で自分の喉を突こうとした。
(お前は自分を傷つけることができない)
 その刹那、喉笛寸前まで来ていたプリムローズの手が止まった。
 そうだわ……。プリムローズは思い出した。
 ここで自害しては父の二の舞だ。なんとか生きて、父の仇を討つことを考えないと。親子二代で同じ術中に嵌り、親子二代で自害するなど、タローマティがせせら笑うだけだ。

 次にプリムローズは助けを呼ぼうとした。神殿騎士たちに危機を知らせなければ。
 叫ぼうと大きく息を吸い込んだその瞬間。
(お前は助けを呼ぶことはできない)
 プリムローズは手で口を塞いだ。
 そうだわ……。タローマティが相手では、彼らを巻き込んではかえって危険だ。わたし1人でなんとかしないと。
 そのときだ。
「プリムローズ様?」
 テントの扉を神殿騎士が叩いた。
「何か物音がしましたが、どうかされましたか?」
「あ……」
「あと、コレットとかいう少女についてご存知ありませんか? ちょっと不審な点があったので」
 プリムローズは逡巡する。どうすべきか考えを巡らすーー。
(何も言うなよ。上機嫌を装え)
 頭の中でその声が響くと、彼女は待ちかねたようにその命令に従った。
「なんでもないわ。コレットちゃんならここでいっしょにいるわ」
「では、ごゆっくりお休みを」
「はーい。みんなもね」
 神殿騎士の足跡が遠ざかっていく。その靴音を聞きながら、プリムローズの中で不安が広がっていく。
 なぜわたしはあんなこと言ったの?
 わたしはひょっとして、助けを呼ぶ最後のチャンスを見送ってしまったんじゃないの? 
 それに、自分はなぜこんなに陽気だったの? なにか、おかしい。
 まさか!
(そのとおりだ。お前の体はもう我の命令に逆らえない)
「! タローマティ!」
 プリムローズのなかでその忌まわしい声が再び響いた。
(お前の体は我の命令通りに動く。しかもお前は、その命令を我の命令だと理解できない。すべて自分の意思だと思う、自分の内側からの命令なのだからな)
 巫女の精神攻撃に対する防御は鉄壁だ。だが、いかに堅固な城壁も、その内側に入られてしまえば意味をなさない。
「な……! そんな馬鹿な!」
(嘘だと思うなら試してみるか? お前は髪留めを外す)
 プリムローズはふと思い立った。左右の髪留めが急に鬱陶しく思えてきた。タローマティと戦うのだから少しでも集中力をそぐ可能性のあるものを残してはおけない。彼女は左右の髪留めを外し、桃色の髪を解き放つ。胸元まである桃色の髪は、重力に従いさらりと落ちた。
「さあいらっしゃい! 命令してみなさいよ!」
(もう命令はしたが? そしてお前はそれに従った)
「え……」
 プリムローズの顎を汗が一滴伝う。
 普段と違う下ろした髪が、無防備さの象徴のようで、プリムローズは急に不安になった。
(お前は、我に忠誠を誓う)
 頭の中に流れ込んできた異様な思念に、プリムローズは抵抗する。
「い、嫌っ!」
 プリムローズの中で電流のようなものが走る。彼女は全身を支配されながらも、並々ならぬ集中力で光の魔力を練りだし、心まで闇に支配されることを拒否したのだ。巫女の強力な防衛は、堅固な城壁のさらに内側に堀を設けているのだ。
「はあ……はあ……だれが、そんなもの誓うもんですか!」
(ほう。さすが見事な精神力だ。行動は縛ることはできても、心まではそうはいかんか。凡百の女どもとはひと味もふた味も違う)
「当たり前よ……!」
(ふ……それはどうかな。さてプリムローズ、このテントを出て、北のほうへ行ってもらおう)

「あれ? 巫女様? どうかされましたか?」
 不寝番の神殿騎士はテントから出てきたプリムローズを見て驚いた。
「何でもないわ、ちょっと夜風にあたりにね」
 教えないといけない。彼らに危機を知らせなければいけない。だが、タローマティは「何も言うな」と言った。プリムローズはそれに逆らえない。その声に従わなければいけない。従いたいという欲求が彼女の中で強くなっていく。
「そうそう。この子をお願いできる?」
 プリムローズは背中に負ぶっていたコレットを神殿騎士に預ける。
「疲れて眠っちゃったみたい。お父さんのテントまでお願いね」
「かしこまりました」
 プリムローズは彼を見送りながら考える。
 この子の父親も、操っていたのね……?
(操っていたというのは正解だ。だがあの男はこいつの父親ではない。やつは旅の商人、正確には奴隷商人だ。そいつを捕まえ、「こいつが自分の娘」だと思い込ませた)
 プリムローズはその両こぶしを握り締める。
 なんてやつ! 親子の絆を侮辱する非道! 絶対に許せなーー。
「巫女さまー、 お気をつけて」
 背後で神殿騎士が手を振っている。
「ええ。大丈夫よー」
 プリムローズはにっこり微笑んで手を振った。
 あら……?
 プリムローズの心を支配していた怒りが覚めていた。何に腹を立てていたのか思い出せなかった。

 谷底の道をわずかに北に行くと、切り立った崖壁に空いた洞窟があった。プリムローズの足は吸い込まれるようにそこへ入っていく。洞窟はすぐ終わった。そして彼女の目に飛び込んできたのは、不思議な様式の神殿だった。
「なんなの……ここは?」
(神話の時代、タローマティを崇めるものたちが作った礼拝堂だ)
「こんなものが未発見のまま残っていたなんて……」
(あたりを崖に包まれてた秘境だ。この洞窟を通らないとたどり着けない)
 プリムローズは神殿の中に足を踏み入れた。アールマティ聖教とは様式が違う異質な神殿だ。タローマティの話が本当なら1500年も放置されていたことになるが、石畳には埃ひとつない。
(祭壇に登れ)
 プリムローズは言われるままに中央の祭壇に登った。
 恐ろしいことをされるのがわかっているのに、従わなければいけないという気になってしまう、その声に逆らうことができない。まるで生贄にささげられる羊の気分だ。
 祭壇の上は、壁一面に張られた鏡があった。そこに、当惑した表情のプリムローズが映っている。

(お前には、これから生贄になってもらう)
「!」
 悪い予感が的中した。
(我にとってのエネルギーは、血だ。だが血にも質の優劣がある。なによりもっとも良質の血は、処女の血だ)
「……!」
(誇っていいぞプリムローズ。これまで、多くの男に取り付き何百の乙女の血を奪ったが、光の神に仕える巫女の血は、凡百の娘より桁違いの質だ)
 プリムローズは全身が氷のように冷たくなるのを感じた。
(ここに男の肉体はないが、問題ない。『我』がお前を犯すためには、お前の指があればいいのだからな)
「い、いやあああああ!!!」
(さあ、自慰をしろ)
 絶望に目を見開いたプリムローズの顔が、鏡に映った。

< つづく >

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