第五話 合わせ鏡の夜
チキ、チキとシャーペンを鳴らす。いや、鳴っていると言った方が正しいか。
教壇では教師が授業を進めているが、まったく耳に入ってこない。朝の遭遇だけが、頭の中を支配していた。
『昔、そこの悪魔にお世話になった者よ。死神さん』
結加麻耶。彼女に関わらないようにしていたのか、関わられないようにしていたのか。恐らく、無意識に避けてはいたのだろう。でなければ、これほど動揺はしていない。
『殺すわよ』
「――――っ」
言葉が蘇る。声を聞くだけで殺されそうだった。今考えると錯覚でしかない。だが、あの瞬間は本当にそうなるかと思ってしまった。
「………祥」
見るに見かねたのか、アイが言葉をかけてくる。俺は軽く頭を振ってみた。
――――大丈夫だ。
ゆっくりと息を吐く。それでも、あまり平静に戻る足しにはならない。それぐらい、あの人との遭遇は俺にダメージを与えたらしい。
「でも……」
アイの気遣いが一瞬煩わしく感じる。が、それはただ当り散らしているだけだ。全部ぶちまけてしまえば楽になるかもしれない。だが、それだけは出来ない。
――――心も、読むな。頼むから。
俺がそう言うと、息を呑むような声が聞こえた。俺も言ってから気づく。命令するような事はあっても、アイに頼み事をしたのはこれが初めてだ。読むな、で切ってもアイはその通りにしただろう。何処までも余裕がない。
ボキ、と芯が折れる。これで何度目だろうか。二桁は軽く越えているはずだが、数えている余裕などあるわけがない。
――――結局……向かい合った気になったつもりで、逃げてただけか。
そう結論付けると、チャイムが鳴った。
屋上で昼食を済ませて戻ってくると、教室の目が一斉にこっちを向いた。過去にはよくあった事だが、最近はそれほどなかったために少々気圧される。が、無言で睨み返すと、全員が視線を逸らして適当に会話を再開しだした。
――――なんだ?
気になったが、理由はわからない。俺はそのまま自分の机へと歩き――理由を理解した。
机の上に載せられた手紙を拾い上げる。何処にでもあるような便箋。紙は新品だが、どう考えても恋文の類じゃない事は解る。
――――懐かしいな。
つい、苦笑してしまいそうになる。こんなのも日常茶飯事だった。悪魔だの死神だの。当時は藁半紙の裏だったが、よく仕込まれたものだ。
だが、別に机にこんなものが置かれていたからと言って、目を向けられる理由にはならない。それに、今更だ。こんなことをして喜ぶような奴はもう居ないはずだが。そう思いながら、俺は椅子を引きながら紙を開き――
「――――!」
ガン、と引いていた椅子が大袈裟な音を立てた。一斉に視線がこちらを向くが、すぐに逸らされる。
思わず用紙を握り潰しそうになったが、全力で抑制する。文面を覗かれる様な事はなかっただろうとは思うが、差出人が差出人なだけに、盗み見られなかったかどうかはわからない。
――――こんな事、しなくても……
俺はそれを丁寧に折り畳んで、制服の内ポケットに仕舞いこんだ。
放課後。何処にも行く気になれず、俺は屋上でボーっとフェンスにもたれて突っ立っていた。吹き付けている風すら、今は苦にならない。カシャ、カシャ、と風に打たれる俺の身体がフェンスを鳴らしている。
――――どうするかな。
……逃げるか。いや、それも今更か。最初から逃げる気なんて無かった。
……謝るか。いや、謝っても何がどうなるわけでもない。というか、俺なら逆上しそうだしな。
が、ふと思い直して、苦笑してしまった。
――――なんだ、自分の事しか考えてないじゃないか、俺。
まあ、仕方ないか。俺だって一応ただの人間だ。自分のことで手一杯になる事はある。
俺は、ポケットに突っ込まれていた携帯を取り出した。持っているに越した事は無いと思って買ったが、その機能が使われた事はほとんど無かった。
よくよく考えてみれば。俺には電話をかける相手も、かけてくる相手もいなかった。
――――高い買い物だな。
思わず苦笑する。携帯のメモリーから、番号を呼び出す。静香、とだけ入れられた名前を選択して通話ボタンを押すと、液晶に番号が表示されて点滅を始めた。フェンスから背を離して、腰を下ろす。足を投げ出して、再びフェンスにもたれた。
ガシャン、とフェンスが音を立ててから、一秒。二秒。
長い、と思った。何度かコール音がして、接続された音が耳に届いた。
『はい』
スピーカーを通している所為で声質は多少変わっているが、間違いなく静香の声だった。俺はなんとなく、深呼吸をしてみる。が、女々しいと思い一気に切り出した。
「……なあ静香。『伊井森さん』って呼んだアレ、冗談だよな?」
『え…………はい?』
電話口の向こうで、静香は呆然としているようだった。確かに、脈絡も何もない。質問の意図を理解するのにも時間がかかりそうだった。が、それほど時間も無いし、かけるつもりも無かった。
「本気だったのか? まあ、それならそれでいいんだが」
『いえ、あの。本当は、冗談で呼んでみただけなんです』
もごもごと口ごもるような声が聞こえた。が、俺は微笑を浮かべてしまった。抱いているのはきっと安堵の念。自分自身にそんなカタチと実感の無いものを感じる。
「そうか、ならいい」
穏やかな声が出た。確かに、俺はどこか安心している。俺らしくもないと思いつつ、それもいいか、と思う自分も居る。
――――何かに向き合う前に、人間に戻るのも悪くは無いって事か。
適当に心境を言い繕ってみると、不思議としっくりきた。
『あの、氷原さん? どうかしたんですか?』
「……いや。用事はそれだけだ。由紀と仲良くな」
返事も聞かずにホールドボタンを押した。別にこれ以上喋る事もないし、だらだら話すと余計な事まで零しそうだ。
続けて電話帳を開きなおして、もう片方の番号にあわせて通話ボタンを押す。この時間、アイツが何をやっているのか、俺はよく知らない。出なければ出なかったで、それでもいいと思った。が、期待に反してか即してか、相手は電話を取った。
「………伊井森」
どう呼ぶべきか迷った。が、話したいのは伊井森の方だ。そう呼べば以前に戻るようなものでもないが。
『……何よ。今度は何の用?』
案の定、相手は喧嘩腰だ。俺は思わず苦笑してしまう。まあ、自分で蒔いた種だ。切り出し方に、一瞬だけ迷う。
「何、伝言だ」
本当はそんなモノではないが、他に言葉にしようがない。何よ、と向こうからは警戒するような声が聞こえた。
「御城はちゃんとオマエの事、いや。オマエと真っ当な友人になりたいそうだ」
電話の向こうからの音が途絶え、小突くような音が聞こえた。次いで、氷原よね、という声が聞こえたが無視する。電話が壊れても俺の性格が変わるわけが無い。
「……守るだけの関係ってのは良くない。ちゃんと、御城の事も対等に見てやれよ。友達ってさ、そう言うもんだろ」
『……え? 何言ってんの?』
当たり前でしょ、とかそういうニュアンスはない。ただ単に、俺が何を言っているのか理解できないようだ。俺は再び苦笑する。
「正直。本音の所を言うとさ。この一〇年、本気で俺に向かってきたのはオマエだけだった」
電話の向こうから、は、とか、へ、とか疑問の声が聞こえる。相手があわてるのを見ると落ち着く、と言うのを初めて実感した気がした。
『ちょっと、縁起でもない。何でそんな遺言残すみたいな喋り方なのよ』
電話の向こうからは苦笑が聞こえる。が。遺言、か。なんか当たらずとも遠からずって感じだな。じゃあまあ、遺言ついでに本音でも残してやろう。
「そういう所は嫌いじゃなかった。ただ、禁句ってのは誰にでもあるんだよ」
『……え? へ? あ、いや、それはいいから! なんで過去形で話してるのよ! 何? どうしたの?』
由紀は、電話口で喚きたてている。この五月蝿い風さえなければ発生源すら特定できそうだが、幸か不幸かさっぱりわからない。
「どうもしねえよ。それともなんだ。またヤられたいのか?」
はは、と笑ったが、どこか乾いていた。が、向こうからは言葉に詰まるような声が届いた。赤面しているのか、怒っているのか、呆れているのか。
「まあ、もうちょっと肩の力を抜け。人間ってのは、オマエが考えるよりは強い生き物だからな」
そう。転んだときに手を差し伸べるのはいいが、それが当たり前になってしまえば、その相手は手を差し伸べなければ立ち上がらない奴になってしまう。その時は立ち上がれないわけではない。でもいつか、立ち上がり方を忘れていく。いや、それは静香に言ったように『歩き方』ってヤツだろう。
『……うん。わかった』
噛み締めるような声だった。俺は満足して瞳を閉じる。
「………じゃあな」
俺がそう言って耳から携帯を離そうとすると、由紀の言葉が届いた。それは、今日聞いた中のどれよりも通る音で、俺の鼓膜を震わせる。
『またね』
俺は、勢いでホールドを押した事を後悔した。今生の別れみたいなのを演出してやるつもりだったのに、最後の一言でただの会話になってしまった。
「……ったく。へんな未練が出来ちまうじゃねえか」
携帯を折り畳んで、ポケットに仕舞いなおす。はは、と自然に苦笑が漏れていた。なんだかんだで、そのやり取りは悪くは無かったらしい。
さて、後は……
――――進藤…………は別に影響出るようなほどじゃないか。
別に、取り立てて騒ぐような事でもないだろう。人格に影響が出るほどでもない。となると、後は……
――――こいつか。
そいつは、目の前に立って複雑な顔でこちらを見つめている。思えば、こいつに会ってから全部変わり出したんだ。
進藤の事も。静香の事も。由紀の事も。何より、俺自身の事。会わなくても歯車は回っていたのかもしれないが、確実に加速はしただろう。
投げ出した左手に視線を向ける。小指から伸びた糸は、今でもアイの同じ指に繋がっている。
解っている。左手の小指と言うのが何を意味するのかと言う事ぐらい。俺は『赤い糸みたいなもの』と言ったが、みたいなものではなく、そのまま赤い糸だ。ギリシャ神話の中の伝承では、糸ではなく髪の毛が使われている。そんな時代からアイが生きているとは思えないが、何年生きているかわからないコイツの事だ。そういう知識があってもおかしくは無い。
変な話だった。誓約の証だとか言っていたが、それじゃあただの絆でしかない。つまり、誓約などあってないようなものだったんだろう。
だが、今の俺はアイを隣に連れて歩く事は出来ない。それに、いつまでもコイツと依存関係にあるわけにもいかないし、潮時と言えば潮時だったのだろう。
「アイ。契約終了だ」
それでもどこか。死刑を告げる裁判官のような気分になった。アイに対してだけではなく、自分に対しても。なんだかんだ言い訳しても、別離は誰にだって辛いと言う事かもしれない。
脈絡の無い言葉の意味が理解できなかったのか、アイは目を見開いて突っ立ったままだった。
「…………え?」
手を掲げる。ゆらゆらと揺れる糸に向けて力を送り込むようにイメージすると、銀色の糸が僅かに光を放った。が、それでも糸が切れる事はない。俺は試しに、何か口にしてみる事にした。
「契約者の名において。ここに契約を破棄する――――」
言霊。そんなモノがあるのかは知らないが、それらしい台詞を口にしてみる。こんなものでも効果があるのか、アイは慌て始める。
「や、そんなの――――」
アイがふわりと空中に漂った糸を掴もうとする。が、それよりも早く、光を放った糸は霧散して消えていった。雪が降るような、何処か儚い光景だと思った。
「あ、ああ、あ……」
ペタン、とコンクリートの地面に膝が落ちる。その目は、呆けたように俺とアイの間の空間に向けられている。
「な、なんで、なんでですか」
掴みかかる気力もないのか、アイは顔を伏せる。一瞬見えた顔には、落胆とも悲哀ともつかない表情が浮かんでいた。
「そろそろ、お前も一人で歩け」
伸ばした手を、ぽん、と頭に乗せてやる。が、アイはその手を払い除けて俺を睨み付けた。瞳には涙が浮かんでいる。
それを見ると、ずっと痛む事のなかった、いや、痛む事を忘れていた心が少し痛んだ気がした。
「最後に! 何でそんなに優しくするんですかっ! 『飽きた』って、そう言ってくれればいいのに!」
嘘でも突き放してくれた方がいいと、アイはそう慟哭する。が、別に俺はそれほど優しくはない。俺はまたアイの頭に手を置いたが、今度は払われなかった。そのまま、ゆっくりと頭を撫でる。傷つけたものを労わるように。
「正直。俺はオマエに逃げてた。何も知らないからって、オマエを逃げ場所にした。オマエも同じだろ?」
同じではないのかもしれない。だが、ずっと一人で生きようと頑張っても、足掻いても、生きている限り一人では生きられない。それでも一人で生きなくちゃいけなかった。その辺り、俺たち二人に特に違いは無いだろう。
「オマエもずっと、独りだったんじゃないのか」
通常、アイの姿は人には見えない。見えるようにはできるが、それで人と深く関わりあう事は難しいだろう。アイも死ぬのかもしれないが、その寿命は恐らく人間なんかよりずっと長いはずだ。異常性に感づかれれば、人はきっとアイを弾圧するだろう。
だが、それでもアイは俺と出会って、少しでもこうして孤独を埋めあえた。アイとの出会いにも、ちゃんと価値があった。そう確信して、俺は立ち上がる。
「ありがとうな、アイ。オマエと居た時間は悪くなかった」
飾り過ぎの気もしたが、ちゃんと言葉にはしておきたかった。が、それももう終わり。思い残すような事は、多分ない。
「じゃあな」
後ろは振り返らずに、俺は屋上を後にした。
行く所がなくなった俺は教室に戻ってきていた。
既に全員下校を終えたようで、室内に人影はない。差し込む西日だけが、何処か柔らかく空間を照らし出している。
自分の部屋に差す西日は、何処か孤独を煽る気がする。それはあの部屋に独りの記憶しか植え付けていないからだろう。ここも大して変わりないが、人の温度だけは確かにあった。
内ポケットから例の手紙を引っ張り出して開く。手書きでその字には見覚えは無いが、誰が送ったものかぐらいは理解できる。
『放課後、校門で待ってます。結加弥耶』
それは、天国から宛てられた手紙だった。
日が沈むまでおよそ三〇分。俺はずっとその手紙を眺めていた。
日が沈んでから校門に行くと誰も居なかった。日が落ちてからの方がいいだろうと思ったが、別に拘るほどではなかったのかもしれない。
進藤に呼び出しを受けた日、視線を感じたが人が居ないと言う事があった。
客観的に考えてみるとおかしい。幾ら受験の準備があるとは言え、休み時間に階段という往来に人が居ないというのは異常だ。
それがあのアークスとか言う死神の力なのかはわからない。が、敵意を向ける人間といえばあの人しか居なさそうだった。
空を見上げる。上弦に近い月がぽっかりと浮かんでいた。
――――欠けた月。何の暗示だろうな。
思えば、あの瞬間から俺の心は欠けてしまった。埋めようとしてくれていた人間を失って、俺はずっと独りで生きなくちゃならなくなった――いや。独りで生きるべきだと思った。
ざ、と砂を蹴る音が聞こえて、視線を移す。
「まったく。人払いならこっちがしてあげるのに」
困ったような顔を浮かべながら、結加麻耶は姿を現した。その物腰には気品のようなものが見て取れる。ただ、それが冷たさから来る無機質さでなければ、俺ももう少し余裕を持てたかもしれない。
「…………そう、ですか」
いや、余裕など持てるはずが無いか。と言うより、俺がこの人の前に立つ資格なんてありはしないのだから。だが、どんな理由だろうと逃げる事は許されない。それは、これが俺の運命だからだ。
「まあいいわ。こうして逃げずに来てくれたんだし。
どうしてかしらね。弥耶(みな)の所為?」
「…………」
言葉に詰まる。忘れるはずの無い名前に、思わず視線が地面に向く。
結加弥耶。その名前は一生忘れる事は無いだろう。
俺が悪魔と呼ばれる所以。俺が殺した少女。そして、彼女、結加麻耶の実の妹。それ以上特に語る事も無い。
両親を失って塞ぎ込んでいた俺を励まそうと、あの雨の日、外に引きずり出し……そして。
「そうやって貴方は何時も俯いて生きてきたけど。もう許されたとでも思っているの?」
「…………別に」
そんな事は思っちゃいない。だって、誰が許してくれたって言うんだ。だが、それを言葉にする事は出来ない。何もかもぶちまけて、懺悔して、それで平静を得るなんて、俺が一番やりたくない事だ。
出来るだけのんびりと構えて、俺は本題の始まりを待つ。結局こうして呼び出されたって事は、何某か話があるって事だろう。死刑宣告を待つ人間の気分ってのがわかる気がする。
「そんなに怯えないで、もっといつも通り斜に構えたらどう?」
言葉がどこか呆れたようなものに変わった。が、だからと言って姿勢が崩せるわけは無い。が、思い直して俺は一つ深呼吸をする。
――――俺は、こんな話をするために来たんじゃなかった、よな。
内ポケットに手を入れて、もう眺めつくしてしまった手紙を取り出す。俺はそれを両手で持って、
――――まあ、こんなのも悪くなかったか。
び、と縦に引き裂いた。
ビリビリと破って、細かくしていく。一〇数枚の紙片に分割してから、俺はそれを宙に飛ばした。風は無く、それは俺の周りに花弁が散るように舞う。
その光景を、俺はぼんやりと眺めた。桜吹雪の時期でもないが、月光には映える。
「………アークス」
彼女の言葉に答えて、死神が姿を現す。月明かりで姿は見えるが、闇に溶け込みそうな黒衣は相変わらずだ。
アイも黒衣だったが、アークスは髪が黒い分だけさらにモノクロの感覚が強い。死神と言うより、死を体現した神、とでも言った方が合いそうだ。そう言えばアイは『死を纏う神』だとか言ってたな。
「殺して」
シンプルな命令が放たれるのと同時に、俺は目を閉じた。
――――脚本とはちょっと違うが、まあいいか。
苦笑を浮かべながら、白刃が風を斬る音を聞いた。
『あくまー』
意味が解っていなくても。いや、意味が解らない方が言葉はより刃として磨かれる。
言葉だけではない。眼に見える形でも、俺は虐待に近い扱いを受けた。大人たちも、どこかそれを仕方ない事として受け止めていたように思う。
確かに、仕方ないのかもしれない。人間の持つ感覚なんて大人も子供も大して変わらない。悪は明確な悪として排除する。それは年齢に関係しない。
だから俺は、酷く敏感でありながら、鈍感になった。人から向けられる悪意を無意識に受け流すようになった。
だが、実力行使になるとそうもいかない。俺は人間じゃなくて悪魔だったから、手加減なんてなかった。
強くなったとは思う。代わりに、欠けた心が凍り付いてしまった。でも、『いつしか』ではなく。俺は最初から悪魔と呼ばれる事を受け入れていた。そう呼ばれても、仕方ないと思っていた。
――――そう言えば。最初に悪魔って呼んだの、誰だったかなあ。
ガキン、と。金属がぶつかり合う音が耳に届く。う、とか呻く様な声も聞こえる。その声に聞き覚えがあって、閉じていた目を開く。
「何やってる――――アイ」
少女の姿をした死神。その死神の鎌が、もう一人の死神の持つ鎌を押し留めていた。俺より身丈の低いその身体は、俺を守るように二つの白刃の片側に立ち塞がっている。
「祥にはやり残した事は無いんでしょうけどね。私にはありすぎて困るんですよ」
何処か言い捨てるようにアイは言った。護るだの助けるだのと言う偽善的な答えを予想していた俺は、期待を裏切られて思わず苦笑してしまう。
「ああ、それは悪かったな」
言い返したが、俺のその声はどこか楽しそうだった。思い描いていた結果と違ったからだろうか。が、悪くない。
「アークス」
声に答えて、黒い死神がその身を引く。同時にアイも鎌を振って構え直した。視線の先では、結加麻耶が苦々しい顔を向けていた。
「そこをどきなさい。そんな奴に守る価値なんて無いんだから」
「本当にそうなんですか?」
俺もそう思うが、シークタイムを入れずに返したアイにも意図があるのだろう。
「そうよ。そいつは私の妹を殺した。だから生きる価値なんて無い」
「だからなんですか? 第一、殺しただなんて。そんな事を、見てもいない人が言うんですか?」
端的な事実。それを口にされても、アイは揺らぐ事が無かった。契約があろうが無かろうが、俺にはアイの考えている事はわからない。が、言葉自体は、人の死に慣れているとかそういう次元の話ではない。信じていないのとも違う。アイが言っている事は、そういう心情で出てくる言葉ではない。
「――――アイ。オマエ」
驚かない理由など、一つしかない。それも、情報として知っているというレベルではない。
アイは、明らかにあの場面を目撃している。
『――――』
白いノイズがかかって思い出せない。が、それでも、俺は思い出さなければならない。
自分の記憶として思い出せないのなら、客観的に思い出せばいい。
そう、確かあの日は、
『―――ら』
雨が降っていて――――
「あのね、お姉ちゃんは風邪引いちゃったの」
前日から降る雨は小雨にはなっていたものの、結加弥耶の体は僅かながら湿っていた。
マンションの共同廊下は、上階の共同廊下が屋根になっているとは言え、吹き曝しになっている。きっと、姉の麻耶も、今の彼女のように風雨を被ってしまったのだろう。
俺が風呂場から持ってきたバスタオルで頭をぬぐうと、弥耶は、そうだ、と言いながら笑いを浮かべた。
「外、出てみようよ。これぐらいの雨だったら風邪も引かないよ」
当時の俺はまだ少々無気力だった。無理も無い。家族を失って、まだ一ヶ月も過ぎていなかったのだ。一〇歳にも満たない子供には仕方の無い話だ。
……と、その時は誰もが思っただろう。
――――でも、俺がもう少し切り替えの良いヤツなら、彼女は死ぬ事は無かった。
エレベーターを使って一回まで降り、自動ドアを潜り抜けたところで、当たり前のように水を被る。それでも、弥耶は笑っていた。
「あはは、こういうのも楽しいね」
どちらかと言えば弥耶は陽気で破目を外しやすい少女で、俺は陰気。手綱を握るのは姉の麻耶の役目だった。だからこそ、麻耶がいないその時こそ、俺がしっかりと周囲を見なければならなかったはずだった。
「ほらー、祥くんも」
呆然と突っ立っていた俺の手を引っ張り、弥耶は俺を振り回した。次第に敷地の外へと近づいていき、歩道を通り越して車道へと降り立った。
「あはは」
マンションの前の車道は、対向車がすれ違えるとは言えど車線の無い道路だった。車も滅多に通らない。だから、気が緩んでいた。
可能性。その上ではどんな事だってあるのに、二人とも考え付きもしなかった。
だから。クラクションが鳴った事に気付いても、どうにも出来――――
――――視界の端に、誰かの姿を見た気がした。
体を起こそうとしても、動かす事が出来ない。動くのは、首ぐらい。それでも、労力がかかった。
動かした視線の先に、誰か倒れている。アレは、誰だっけ、と思い出す。服装、髪の長さ。後ろから見えるのはそれぐらい。
「み、な……?」
手を伸ばそうとした。不意に、胸が痞える。
「え、えほ、けほ」
咳き込む。閉じた瞼に視界がふさがれてしまう。痛みをこらえて目を開くと、誰かが立っていた。
視線が合った。距離は五メートル位。だから、その人に縋るしかなかった。
「お願い、あの子を助けてあげて」
もう嫌だった。一人になるのは。それに、身近の誰かが死ぬのも。
視線の先の女の人は、黒い服を揺らしながら近づいてくる。
「どうして。あなたは、自分が生きたいとは思わないの?」
その人はそんな事を口にした。冷たくて、何も感じられなかった。でも、その人はきっと、そういう人だったんだろうと思った。自分と、どこか似ていると思ったのかもしれない。
「僕の所為で人が死ぬのは、嫌だ」
伸ばした手が、靴に当たる。
その人は、跪いて俺の頭を撫でてくれた。不思議だった。それだけで、心が安らかになっていく。目が霞んでいく。
死ぬのかな。そう思ったところに声がかかった。
「私の事は忘れなさい。そして、生きなさい」
その人がそう言うと、何故か眠くなってきた。理由はわからない。でも、それは死ぬとか、そういうのとは遠い気がした。
「……さよなら」
最後に、そんな言葉を聞いた。
流れる髪の色は銀。纏う衣は漆黒。そして、その手には真っ白の――――
真っ白の。何かが。
――――フラッシュバックは一瞬。しかし、思い出した記憶は永遠。
俺はやっと、目の前の少女と『再会』した。
「……ア、イ?」
この小さな神様に、命を助けられていた。そんなことすら俺は忘れていたらしい。
「別に恩に着せるつもりはありませんよ。私は今に満足してますし」
明るい声で、アイは言った。そこには負の感情は一切感じられない。
「と言うか、記憶を消そうとしたのは私ですし」
そう告白すると、小さな死神は明確な苦笑をもらした。
「なるほど。それで、その少年の構成物質にエーテルがあるわけか」
聞いた事も無い、アイと同質の通る声が響く。それがアークスと呼ばれていた死神のものであると判断するのに時間は要さない。
「死神の力を持って魂をこの世に留める術は禁忌だ。そのぐらいわからないお前でもあるまい」
ふん、と黒髪の死神は嘲笑を浮かべる。
「別に。やっちゃいけない決まりなんて無いですし」
あっけらかんと、アイはそう返した。
「まったく、|アイオライト《女性の知》が聞いて呆れる。お前からは神意が微塵も感じられん」
さらにアークスはアイを挑発する。が、挑発しようとしている相手の方は、まったく意に介した様子が無く、ゆっくりと溜息を吐いた。
「――――私は元々そんなものは要らなかった。感情を持つ者、心を持つものは須らく、自分に無い物を求める。何年も生きていると、自分が本当に存在しているのかどうかわからなくなってくる。
私はね、アークス。私を見てくれる誰かと共に生きたいと、ずっと願っていた」
アイの口から出た願望は、とても端的で、とても苦しく、そしてちっぽけなものだった。だからこそ、その言葉は大きな波紋と成り得た。
「あなたは、どうなんですか?」
結加麻耶の身体が、ピクリと震える。アイの視線を受けたのだろう。無意識ではあるだろうが、彼女は視線をそらせた。
「私が、何だって言うのよ」
囁くような小ささで、結加麻耶は声を漏らした。
「いえ、別に。あなたが、全てが祥の責任だと考えているのなら、それでも良いです。それなら私は、全力で祥を護るだけ。
でも、私にはそうは見えないんですよ」
これでも生まれた時から心を読んでますから、とアイは続ける。死神が初めから死神として生まれるのかは知らない。今更だが俺は、死神と言う存在の全てを知っているわけじゃなかった。
「わた、しは……」
絞り出すような声。それに向けてアイは、静かに言葉を投げる。
「あなたは、こんな事がしたかったんですか?」
どこまでも落ち着いた声。俺は初めて、アイが俺より長い時を生きているのだと実感できた。その長い時の中で彼女は、善悪関わらず色々なものを見てきたのだろう。
小さく見えた少女は、俺なんかよりもずっと大きかった。馬鹿を被って傍に居てくれた事に苦笑する。
右手をポケットに手を突っ込んで、中にあるものを握り締める。いつか必要になると思い、そして、いつか使うために持ち歩いていた、小さな塊。
それを握り締めたまま歩き出す。俺はそのまま、アイの横を通り過ぎた。無言で結加麻耶の眼前へと進む。
「ア、アークス……!」
命令が響くが、黒の死神は動かない。それどころか、俺を通すように脇に退く。
えらく勝手だが、ここは好意に甘えるとしよう。
そのまま、その死神の隣を通り過ぎて、結加麻耶の目の前に立つ。威厳は既に無く、その姿は、打ち捨てられた子犬のように小さく見える。
「…………ぁ」
溜息にも似たような悲鳴を上げて、彼女は泣きそうな顔をする。俺は静かに、ポケットに突っ込んだままだった手を取り出した。
「…………ぇ?」
握っていたのは、小さな折りたたみナイフ。どこにでも売っているような、何でもない安物。俺はそれを開いて、握り締める。
「………ぁ、ぁ」
刺されるとでも思ったのか、結加麻耶は後退しようとした。だが、身体が竦んで思うようにはいかないらしい。
俺はそのままナイフを動かし――――
「っ」
――――自分の左手首に押し当てた。
「え? な、何、を?」
俺の行動が理解できずに、目の前の少女は俺の顔を見つめる。
一〇年ぶりに、その顔を間近で見た。幼かった面影は残ってはいるが、あの頃の姿形はもう無い。
「わからなかったんだ。どうすればいいのか」
腕を動かさずに、言葉を発する。
「両親は、どうなのかわからない。あの二人が何で事故にあったのかは俺にはわからないし、もう知る事も出来ないと思う。
でも、弥耶が死んだのは俺の所為だ。だから」
握り締めた刃が、僅かに皮膚を破る。
「消えろと言われればいなくなろうと思った。死ねと言われれば死のうと思った。ただ死ぬのは、逃げただけな気がしたから」
いつの間にか、視界に浮かぶ顔は涙を流していた。それでも、俺の目には涙は流れない。泣く事さえ俺は許されていない気がしたからなのか、心が死んだままなのか。
「俺は、どうすればいい?」
卑怯な脅迫だとも思った。でも、俺にはこれくらいしか思いつかなかった。それでも、ずっと逃げていた俺は責められて然るべきなのだけれど。
「わた、したちは……あなたに、死んでもらうために友達になったんじゃない」
麻耶は、ゆっくりと俺の右手を取る。
「生きて、麻耶の事を忘れないであげて」
指が開かれて、安物の凶器が滑り落ち、地面に転がる。
「ありがとう、麻耶姉」
そうして俺はやっと、懐かしい呼び名を口にすることが出来た。
< つづく >