終話 終わる日々と続く日々
「いい、祥? あなたはただでさえ浮いているんだから、まずは無償奉仕で社会に溶け込む事から始めなさい」
私の声は、背後に向けられている。そこには声が向けられる人物が居て然るべきなのだが、周囲の人間は何事かと私を呆然と眺めていた。まあ、生徒会長としての印象が強い私が、氷原祥と言う人間を従えていれば、それはそれで驚きもするだろうけれど。
「まったく。悪魔だの死神だの、そういう事を言われても気にしないくせに、人と距離を――――」
「…………麻耶」
私――結加麻耶の熱弁は、静かで抑揚が無いけれど、何処か指摘の要素を含む声に妨げられた。
「……何、アークス」
不機嫌さを前面に押し出して、後ろを振り向き――そして硬直した。
「…………君が話しかけているつもりの相手は、既に居ないぞ」
カラの空間に思考が停止する。逃げた? それとも、逃げた? やっぱり逃げた?
「――――――――――――ふふ」
冷笑が浮かぶ。いや、微笑かもしれない。そのまま踵を返して、可愛い弟分を探しに向かう。
そんな私を、誰にも見えない黒い死神が珍しく苦笑を浮かべて見送っていた事には気付かなかった。
私がまずたどり着いたのは、別の棟にある、彼の教室に繋がる廊下。逃げたのか、何か用事でも思い出したのかはわからないが、行きそうな場所を一つずつ当たってみるつもりだった。だって、あの子を更生させるのは、私の責任だから。
思わず苦笑が浮かぶ。まったく、私も大概にして自分勝手な人間だったらしい。
「…………結加さん?」
そんな私に、正面から声がかかった。驚いたような、呆気にとられたような顔をして私を見ているその人には、見覚えがある。
「進藤先生」
名前を呼ぶと、彼女は二、三度瞬きをした。私がここに居ることが信じられないのか、ただ驚いているだけなのか。それはまあ、どうでもいい事だけれど。
「誰か探してるの?」
「ええ、まあ」
探している相手については、何とも言いがたい。と言うか、彼女に対して私が警告を与えた対象を私が探している、と言うのは、私から見てもおかしいわけで。
軽く向こう側を覗いて、気配を探る。居ない。ただの勘だけれど。
「居ないようなので、私はもう行きますね」
振り返ろうとすると、進藤先生の笑顔が目に入った。
「……私の顔に何かついてますか?」
そんな事はありえないと思いつつも、聞いてみる。進藤先生は、一度瞬きをすると、微笑を苦笑へと変えた。
「うん? ああ、結加さん、吹っ切れたみたいで良かったなって」
「……吹っ切れた?」
よくわからない。
「うん。ちょっと前まで結加さんってさ、仕事に忙殺されるのを良しとしてるような所あったでしょ?」
思わず息を呑む。この人は、ぼやーっとしてて生徒に人気がある割には、その生徒の事をよく観察している。私の視線を受けて気まずくなったのか、進藤先生は頬を掻いた。
「ほら、青春を謳歌するって言うのは、大切な事だしね」
向日葵のような笑顔。それを見ていると、彼女の言っている事が真実だと思えてくる。
そうか。私は吹っ切れたのか。なら、こう答えよう。
「私もそう思います」
振り返りながら、笑顔を浮かべた。
フェンスにもたれかかると、いつも通り軋む音がした。
吹き曝しの屋上には、どんな気圧の都合か珍しく風が吹いていなかった。
少し拍子抜けする。聴覚を奪うあの風が今となってはもの恋しい気さえした。
「春ですねぇ」
「……秋だけどな」
ボケた声に、冷静にツッコミを入れる。それが数日前に生まれた余裕からなのか、元々の俺の持つ素質なのかはわからない。だが、そんな俺の調子が可笑しいのか嬉しいのか、アイは笑みを浮かべている。
「そうですよねー。もう冬なんですね」
アイはそう言いながら、足元の校庭を見下ろしている。そこには恐らく、下校をする生徒や部活動に勤しむ生徒が見えている事だろう。
「あ、御城さんと伊井森さん」
アイの言葉に視線を下へと向けてみる。そこには、剣幕に押されながらもどこか楽しそうな静香の姿と、何が面白いのか笑いを浮かべている由紀の姿があった。
溜息を吐く。幸せそうで何よりな事だ。
「そういう祥も、幸せでしょう?」
俺の心を読んで、アイは笑う。俺はその額を小突いた。
「いきなり何するんですか」
それほど強く叩いたつもりは無いのだが、アイは額を押さえている。俺は小突いた手をポケットに収めて再び溜息を吐く。
「生徒会雑用が楽しい人間が、何処にいるのか教えてみろ」
あの夜以来、結加麻耶に何かと付き纏われていた。別にそれ自体は悪い事ではないのだが、社会更生の一環としてとか言って、雑用を押し付けてくるのは頂けない。
「でも、悪い事だとは思わない。でしょ?」
心どころか、思考までトレースされている気がする。
「なら、悪い事だと思わない奴がやればいいだろ」
横目でアイを見ると、相手は眼を背けた。溜息を吐いて首を振る。
「人間、そう簡単には変われないんだよ」
それは多分、一つの真実。きっと人間、そう簡単に善人にはなれない。
「それはですね、祥。一〇年前から祥が何一つ変わってないとも取れるんですよ?」
してやったり、とでも言いたそうな顔をして、アイは笑みを浮かべた。その表情に引きつりそうなになる顔を抑えて、また額を小突いた。
「むー。祥って意外とワンパターンなんですから」
「そうかよ。見た目どおりガキっぽい死神さん」
むきー、とか怒りの鳴き声を発するアイに背を向ける。
さて、そろそろ鬼に追いつかれる気がしてきた。袋小路からはさっさと脱出しよう。
居慣れた建物を出ると、日が沈むまであと一時間あるか無いか程度の時間だった。
「明日も晴れか」
「そうですね」
西の空には雲一つ無い。その空が行く先を示しているのだとしたら、それはまあ、悪く無いだろうと思う。
歩く先には自分の影がある。それはどうやっても追い越す事は出来ない。
一〇年前はどこまでも行けると思っていた。
一〇年前から未来を見なくなった。
今は未来を見ているのかは解らない。それでも、未来はこうして行く先に続いている。
昔見ていた未来と、今見ている未来。それはきっと同じものではない。
確信のある未来なんて、今はまったく見えない。それでも、歩いていけば、きっと何処かにはたどり着くだろう。
季節はめぐり、時はいつか俺を何者かにするだろう。その時、俺の周りがどうなっているのかはわからない。
「祥! 待ちなさい!」
遠くから聞こえる声に思う。
誰かと別れる時もあるかもしれない。誰かと出会う時もあるかもしれない。でも、それは未来の事だ。俺はちゃんと、今を取り戻した。だから、今を生きていかなくちゃならない。
俺は、苦笑を浮かべながら夕暮れの道を歩き続けた。
< 了 >