魔少年 Side:B 第04話

第04話

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさい……」

 ぽたり。ぽたり。ぽたり。
 熱い液体が、頬に、額に滴る。

(――熱い、わ)

 まるで炎が降り注いでいるようだ。
 あまりの熱さに、胸の奥の痛みも――

「……ぐっ! げふっ! がはっ! がっ!」

 気管に詰まっていた水がこみ上げ、吐き出される。
 ゲホゲホ、と激しく咳こみながら、聖美は意識を取り戻す。
 全身がずぶぬれで、冷えきり、疲れきっていた。

(……生き、てる)

 激しい頭痛と胸の痛みに上体を起こす事も出来ず、そのまま横たわり、ヒューヒューと荒い息を吐く。

「ご、ごめん、なさいいぃ……」
 また、ぽたりと熱い滴が頬に落ちる。

(マー君――)

 雅人が傍らに膝を突き、クシャクシャに顔を歪めて、泣きながら謝り続けている。
 熱い涙が次から次に降り注ぐ。
「も、もう、し、しないからぁ……お願い、いか、行かないで……行かないでえぇぇ」
 その声はかぼそく小さく頼りなく、まるで小さな子供のようだった。
「僕……僕、ママが……し、死んじゃうかと、思って……う、うううぅ――」
 また、嗚咽に胸を詰まらせ、ぼたぼたと涙を溢れさせる。
 普段見せているクールな装いをかなぐり捨てた少年は、ずいぶん幼くあどけなく見えた。

(……全く)

 聖美は、フゥ、と小さくため息をつく。
 泣きじゃくる雅人の姿を見ているうちに、あれほど激しく心をかき乱していた不安や嫉妬や怒りが洗い流され、代わって、暖かな愛しさが静かに胸を満たして行く。
「ホント……いつまで経っても、甘えん坊さんなんだから――」
 ソッと雅人に手を伸ばし、頬に優しく触れる。
「う、うあああああああああああああああああああああああっ!」
 安堵のせいか、雅人はまた盛大にわぁわぁと泣き声を上げる。
「ねぇ、マー君……もう、『変な事しない』って約束する?」
「し、しないよぉ! も、もお……ぜ、絶対しないよおおおぉ!」
 しゃくりあげ、えずきながら、雅人はブンブンと大きく首を縦に振る。

(――全く、ね。私、一体、何を怯えていたのかしら?)

「分かったわ。ママ、どこにも行かない。だから、お家に入りましょ? このままだと二人とも風邪をひいちゃうわ」
「……う、うん」
 目を赤く腫らせた雅人がコクリと頷く。

「よいしょ……あっ!」
 フラフラしながら、なんとか立ち上がった聖美は、途端に立ちくらみで倒れかける。
「ま、ママ!」
 反射的に聖美を支えた雅人だが、母の体に触れたと気付くと、電流が流れたようにすくみあがり、慌てて手を放そうとする。
「あっ! ……ご、ごめんなさいっ!」
 水に濡れ、全身にぴったりと張り付いたシーツ製の簡易ドレスは、聖美の見事な体のラインをくっきりと浮き出させている。
 濡れた白いシーツを素肌にまとわりつかせた美母――気付けばそれは相当刺激的で、エロチックな光景だった。
 怯えたように身を遠ざける雅人に優しく微笑みかけながら、聖美はソッと息子の肩に手をかける。

「ありがとう。ママ、やっぱりちょっとクラクラするから支えてくれる?」
「う……うんっ!」
 頬を赤く染め、出来るだけこちらを見ない様にしながらも、精一杯、自分の体を支えようと尽くす雅人のいじらしさに、聖美の胸がキュンと疼く。

(――そうね。マー君はいつも『小さな紳士』だったもんね)

 幼い頃、どこかに出かける時は、いつも『僕がママを守るよ!』と張り切っていたのを思い出す。

(ふふ。なんだか。昔に戻ったみたい――)

 別荘に戻り、まずは風呂の用意を始める。
 冷たい湖水に浸かり、二人とも体が冷えきっていた。
 ボタン一つで適温のお湯を張ってくれる全自動バスが、これほど有難く感じた事はなかった。
 二人はバスローブに着替え、風呂の用意が出来るまで、キッチンの椅子に腰かけて待つ事にする。

「…………」
「…………」

 インスタントコーヒーを手に、二人は長い間無言だった。
 互いの目を避けるように、ただコーヒーカップから立ち昇る湯気を見つめ続ける。

(――やっぱり、聞かなきゃダメよね?)

「あの……マー君?」
「な……何、ママっ!?」

 雅人が、ビクンと飛び上がる。

「えと……その、マー君が私にかけた“アレ”は結局、何だったの? 催眠術?」
「え? 催眠術……うーん。そう、なのかな……やっぱり」

 雅人は自信なさそうに首を傾げる。
 あれほど見事に『自分』を操ってみせた魔技の持ち主とはとても思えない。

「……あのね。『導魔(どうま)の書』って言うんだ」
「どうまのしょ?」
「うん。部の先輩が僕にくれたんだ。『全然使えないからお前にやるっ!』って言って、本と……なんて言うか、ちょっとした小道具を一緒に」
「『全然使えない』……本と小道具?」
「うん。先輩も誰かにもらったらしいんだけど、その人も『全然使えない!』って、怒ってたって。『こんな面倒臭いのやってられるかっ!』って」
「……え? 面倒臭いの? だって、『催眠術』って、『あなたはだんだん眠くなーる眠くなーる』ってやった後、『ワン・ツー・スリー!』で何でも言う事聞かせちゃうモノじゃないの?」

 TVなどで時折見かける『催眠術』を思い浮かべ、素朴に尋ねる。

「……うーん。この『導魔の書』だと『催眠』じゃなくて『変性意識状態』って言うんだけど、それって、今ママが言ったみたいな『誰にでも何でも、すぐに言う事を聞かせられるマホウ』じゃないんだよ」
「え? だって、マー君は、あんなに……あ、いや! 何でもないわ」
 言いかけて、慌てて口を閉ざす。
 そんな聖美に苦笑いしながら、雅人は説明を続ける。
「うん。僕には合ってたんだね、『面倒臭い』とか全然思わなかったから。『導魔の書』って名前はいかにも『マホウの本』っぽいでしょ? でも、中に書かれてるのは、ほとんどがごく当り前の事ばっかりなんだよ。例えば、『変性意識状態で真に暗示が有効なのは、すでにラポールを形成出来ている相手だけである』とか『暗示で他人に何かを行わせる場合は、相手が心に抱く願望に沿って誘導すべし』とかそんな感じ」
「らぽーる?」
「あ、『心理的な信頼関係』っていうのかな? つまり、相手が自分を信用している場合にしか暗示は効かない、って事。それに『今すぐ死んじゃえ!』みたいな『相手が心の底で望まない事』は命令しても聞いてもらえないんだって」
「ふーん……確かに、ずいぶん『当り前な事』が書いてあるのね」
「うん。あとね、『変性意識状態は反復する事で強化される』ってのもあったな。つまり、『何回も繰り返せ』って事だね。先輩達は『恋人にしたい相手』とか、『だましたい相手』にかけようとしたらしいんだけど、全然ダメだったって。『こんな本を信じた俺が馬鹿だった!』とか言ってたっけ。おかしいね。僕の場合は何もかもすごく簡単だったのに」
 雅人はクスクスと楽しげに笑う。

「すごく……簡単?」
「あっ!」
 眉を顰めた聖美の顔を見て、雅人は慌てて首を振る。
「あ、あのね! 信じてくれないかもしれないけど、僕、最初はママにこんな事するつもり全然なかったんだよ!」
「…………」

(『こんな事するつもり』が『全然なかった』……ですって? ふーん。ソレって要するに『私』には“イタズラしたくなるような魅力を全然感じていなかった”って事なのかしら、マー君?)

 当初の『潔癖さ』を表明して美母の怒りを鎮めようとした雅人だったが、かえって逆効果となり、聖美のこめかみにピクリと青筋が立つ。

「ふうぅん、そお。それじゃあ、一体どういうつもりだったのかしら、マー君?」
「え……えと……そのぉ――」

 しばしうろたえたあと、雅人は急に顔をまっ赤に染める。
「僕……『友達』になりたかったんだ、ママと」

「はあぁ?!」

 あまりに意外な答えに聖美は言葉を失う。
 雅人は椅子から立ち上がると、ソファーに置いてあった文庫本を取り上げ、中に挟んであった写真を聖美に手渡す。表面をラミネート加工されたその写真は縁が黄ばみ、かなり古いもののようだった。

(……え、コレって!?)

「うん。ママの……中学生の時の写真。僕の……宝物なんだ」
 恥ずかしそうに雅人が頷く。

(うわー! うわー! うわー! 一体どこからっ?!)

「……あぅ」
 今度は聖美の方が赤くなる。
 写真の中には清純で聡明そうなセーラー服の美少女が微笑んでいた。
 透き通るような白い肌に赤い唇、サラサラのストレートの黒髪を肩まで伸ばした、涼しげな瞳の少女は無垢な天使のようだった。

「二年くらい前になるかなぁ? その写真、押し入れの奥のアルバムで見つけたんだ。初めて見た時は、ホント……脳天に雷が落ちたみたいに衝撃を受けて……その晩はなんだか興奮して寝れなかったっけ。僕の……『初恋』なんだ」
 恥ずかしそうに告げる雅人につられて、聖美も気恥ずかしさにどうしてよいのか分からなくなる。

(『初恋』……そうなの? マー君たら、『中学生の頃の私』の事を――)

「僕ね……ずっと昔からママの事が大好きだったよ。綺麗で優しくて、いい匂いがして。だけど――その写真を見つけてからは……その『写真の子』を好きになっちゃってからは、毎日がすごく苦しくて、すごく辛かったんだ。いつもこの写真を見る度に思うんだよ。『もし、ママが僕と一緒の歳だったら』って」
「マー君……」
 純情な告白にドキドキと胸が高鳴る。
 まるで聖美まで初心な少女に戻ってしまったようだ。

(……ズルいわ。そんな告白――これまで一度もしてくれなかったじゃない)

「悔しかったなぁ……『どうして僕はこんなに綺麗で素敵なコと一緒に居られないんだろう』って、いつも思ってた。おんなじ学校で、おんなじクラスで――きっとね、ママはすごくすごく人気者で、クラスの男子はみんなママと恋人になる夢を見るんだ。誰々が告白した、とか、フラれたとか、クラス中、いつもママの噂で持ちきりなんだ」

 頬を染めながら、切ない空想を語る少年は、フッと自嘲気味に口元を歪める。

「だけど……僕は勇気が無い卑怯者だから、きっと告白なんか出来ずに終るんだ。こんな風に写真を見つめて……いつもいつも『絶対届かないんだ』ってタメ息ばっかりついて――」

 気付けば雅人の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「だからね、『導魔の書』を読んだ時、まず最初に浮かんだのは『これならあの子に会えるかも!』って事だったんだ。ママに僕と同じ年齢に戻ってもらって――『息子』としてじゃなく、ただ、『姫宮雅人』っていう『同級生』として会ってみたかったんだ。僕ね、一緒に話がしたかっただけなんだよ。『恋人』なんて高望みしない。『友達』になれるだけで十分だったんだ。ほんの短い時間でいいから、『あの子』に会いたかったんだ!」

(マー君――)

 切々と秘めた純愛を語る雅人に、思わずジーンと胸を打たれながらも、聖美はだんだん複雑な表情に変わる。

(……アレ? 『あの子に会いたかったんだ!』って……コレって、ひょっとして、また『私』は蚊帳の外……だったりしない、マー君?)

 雅人のハートをがっちり捉えた『初恋のあの子』とは、中学生の頃の自分である。
 つまり、大きくみれば『自分の魅力』のハズなのだが、なにやらだいぶ釈然としないものを感じる。

(……なんか。私、ちょっと『不機嫌』ていうか――むーーーーー)

 聖美が嫉妬する相手は、またしても『自分』だった。
 しかも、今度は雅人の『初恋の相手』――強敵である。

(何よ! 何よ! そんな小娘が良いわけ!? マー君の……えーと、ロリコン!)
 かなり強引かつ的外れな罵声を心の中で浴びせる。

「ふぅん……それじゃあ、どうして『写真のあの子』じゃなくて“あの女”がマー君とエッチする事になったのかしら?」
 少しトゲを含んだ口調で尋ねる。

(会えたんでしょ、『写真のあの子』に? なら、どうして“あんなの”にひっかかるワケ? どう考えても、『あの子』がさっきの“キヨミ”のハズないわよね? 少なくとも私は、あんな……エッチな事ばっかりしたがる中学生じゃなかったもの!)

「うーん。実はねぇ……うまく行かなかったんだ」
 雅人は苦笑いを浮かべる。
「僕のやり方がマズかったのか、『導魔の書』の方法だと誰でもそうなっちゃうのか、年齢を逆行しようとすると、中学生の頃は一気に飛び越えちゃうんだ。多分、自意識がハッキリしている年代だとそこで『暗示』の『矛盾』を拒絶されちゃうんだろうね」
「『中学生の頃は一気に飛び越えちゃう』……え? それじゃ、あの“キヨミ”って、一体、『幾つの時の私』なの?」
「……え? そ、それはそのぅ――」

 雅人はもごもごと口ごもり、気まずそうに目を反らす。
 急にイヤな予感を感じた聖美は雅人に鋭い口調で尋ねる。

「白状しなさい! 何・歳・なの!?」
「たぶん……五歳くらい、かな?」

(ええええっ?)

「ご、五歳って――そんな『子供』の私に?! ……マー君っ!!」
 目を見開き、わなわなと震える口元に手を当てて立ち上がる。
「あ! ち、違うよっ! 誤解だよっ!」
「違わないでしょ! 私に散々見せつけたじゃない! マー君、“あの女”とあんなに――」
「いや、そういう意味では確かに違わないんだけど、『違う』んだよ! ――ああ、もぉ! 僕、全然そんなつもりなかったんだってばっ!」
「“そんなつもりがなかった”? よく言うわね! それじゃ、何がどうなったら、『五歳の時の私』と、あんな風に、その……“アツアツ”の仲になるっていうのよ!」
「それは……そのぅ――」
 雅人はしばらくためらった挙げ句、極めて申し訳なさそうな表情で告げる。

「誘われたんだ――“キヨミ”の方から」

(えええええええっ?!)
 聖美はポカンと口を開けて固まる。

「あのね。これも僕の暗示のかけ方が悪いのかも知れないんだけど、年齢を逆行させても、結局、『その当時のママ』にはならなかったんだ。判断力とか思考のパターンがその年齢相応になるだけで、ママが過ごして来た三十*年分の記憶は残ってて……つまり、五歳でも『ママ』はやっぱり『僕のママ』だったんだ」
「……はぁ」

 聖美は毒気を抜かれたように、素直に頷く。

「だから、初めて“キヨミ”が出てきた時はかなりビックリしたよ。僕の事はちゃんと『マー君』て分かってるくせに、なんでも僕の言う事を信じて、すごく素直で甘えん坊で――最初は『小さい子供と友達になった感じ』だったんだ。一緒に歌を歌ったり、お絵かきしたり……まぁ、予想とは全然違っちゃったけど、『もし僕に妹がいたらこんな風だろうな』って思いながら、それはそれで結構楽しんでたんだ。うまく暗示が効いて、ママの性格がガラッて変わるのがすごく面白かったしね」

 必死で雅人は説明を続ける。

「初めのうちは『変性意識状態の記憶を次回に引き継ぐ方法』が分からなくて、毎回、『前の事を覚えていないゼロからのスタート』だったから、その度に違う“キヨミ”を相手にしてたんだけど……何回めだったかな? “キヨミ”の奴、急に『ねぇ、マーくん、ママといっしょに、おいしゃさんゴッコしない?』って聞いて来たんだ」

「お、お医者さん、ゴッコぉ!?」
 聖美は目を剥く。

「……うん。誓って言うけど、それまで僕、“キヨミ”に『エッチな事』するつもりは全くなかったし、そんな暗示は一度もかけてないんだよ」
「つまり、五歳の私――“キヨミ”が、自分の意志でマー君を誘ったっていうのね?」
「うん。つまりは……そう、なんだ」

 雅人は目をそらして、申し訳なさそうに答える。

「でさ、そんな事言われるまで、全然意識しなかったんだけど、改めて気が付くと、ママってすっごい美人で、スタイルも良くて、オッパイも大きくて……僕、急に興奮しちゃって――」
「……したのね? お医者さんゴッコ」
「しました。ごめんなさい」
 雅人は頬を染めてうつむく。

(んもぉ! “キヨミ”のバカバカバカ! なんて事言い出すのよ!)

「そ、それで……一体、どんな事したの?」
「……え? 言わなきゃダメ!?」
「当り前でしょ!? 『私のカラダ』なのよ!」
「だって……なんか、恥ずかしいよ」
「何よ! 私の方が、ずーっと恥ずかしいんですからね! ちゃんと話しなさいっ!」
「うう……分かったよぅ」

(マー君と……『お医者さんゴッコ』――)

 ゴクリ。
 自然と喉が鳴ってしまう。

「“キヨミ”の奴、ヒドいんだ。『さいしょにマーくんがみせてくれないと、ママはみせてあげな~い!』って、僕を裸にした上に目隠しまでさせて、『シュジュツ~♪ シュジュツ~♪』って歌いながら、僕の手足をベッドに大の字に縛りつけるんだ。ヒドいよ……ママ」
「……そ、そんな事言われても――私、知らないわよ!」
 恨みがましい目を向ける雅人に慌てて首を振る。

「それでさ、僕を身動き出来ない状態にして、あちこち舐めまわしたり、触ったり、くすぐったりするんだ。僕が悲鳴を上げるのが楽しいみたいで、一時間くらいずっと責められたんだけど、絶対オ○ンチンには触ってくれないんだ。僕、もうビキビキになっちゃって『もう、イかせてよぉ!』ってお願いするんだけど、そのたんびに『まだ、ダーメ!』って言うんだ。ほんっと、ヒドい奴だよ」

(それは……確かにヒドいわね。でも、ちょっとやってみたいかも――)

 雅人の告白を聞きながら聖美は苦笑する。
 先程、『ただ映像を見せつけられるだけ』の苦悩を味わった後では、こうして雅人本人の口から『事のあらまし』を聞くのはずいぶんと楽しかった。
 内容的には『とんでもない事』のはずなのだが、聖美は“キヨミ”と雅人の淫らな遊戯の話にのめり込んでいく。

「それでそれで?」
「ねぇ……やっぱり、言わなきゃダメ?」
「ダメよ! 私にはキチンと聞く『権利』――ううん、『義務』があるわ!」
「――わかったよ」

 雅人は気乗りのしない表情で、ため息をついて話を続ける。

「それで、最後の方は僕、泣きながら『イカせてください!』ってお願いさせられたんだ。そしたら“キヨミ”の奴、『じゃあ、マーくんはどんなやりかたでイキたいですか?』って聞いてくるんだ。『一ばん:ママのおててでコスってもらう。二ばん:ママのおクチでしゃぶってもらう。三ばん:ヒ・ミ・ツ』って」
「それって、もう全然、『お医者さんゴッコ』じゃないわね」
「うん。“キヨミ”の奴、途中から『ママはじょうおうさま! マーくんはドレイだよ!』って言ってた」

(全く! とんでもないわね、“あの女”!)

「僕、とにかく早くイカせて欲しいから『一ばん!』て叫んだんだけど……『ええ~! バッチいオ○ンチンにさわるのヤダなぁ』って言われるし、『じゃあ、二ばん!』て言っても、『ええ~! ママのおクチにくわえさせたいのぉ? いけないコ!』って言われて――」
「……ねぇ、『三番:ヒ・ミ・ツ』って何なの?」

(まさか!?)

「うん……そう」
 また、言いにくそうにためらった後、雅人はしぶしぶ言葉を続ける。
「“キヨミ”の奴、『ええ~、三ばんですかぁ? うーん、しょうがないなぁ。マーくんのエッチ! ヘンタイ!』って嬉しそうに言った後、次々、服を脱いで僕にかぶせてくるんだ。目隠しされてて見えなかったけど、まず最初にパンティを頭にかぶせられて、スカートとか上着とかブラジャーがどんどん投げられて、それで――」

(え? ちょっと待って。そんな……イキナリ!?)

「あの、まさか……マー君?」
 信じられない、といった表情の聖美に対して、雅人は口を尖らせ、少しキレたような口調になる。
「あのね! 言っとくけどやったのは全部“ママ”なんだからね!? 僕は『そうしろ!』なんて、一言も言ってないんだよ!」
「……な、何よぉ、『私』じゃないわよ!」
「おんなじだよ! 僕、その時確信したんだ。『ママはエロい!』って」
「え、『エロい』いぃ?!」

 思いがけない攻撃に、目を白黒させる。

「そうだよ。中身が五歳の癖に『目隠しされて手も足も縛られて身動き出来ない僕』に馬乗りになって――一応、僕、『やめて!』って叫んだんだからね? なのに“キヨミ”の奴、すごく嬉しそうに『うふふ! マーくんの“はじめて”……いっただきまーす!』って――ねぇママ、返してよ、僕の『童貞』!」
「そ、そんな……“返して”なんて言われても――」
 モゴモゴと、歯切れ悪く口籠る。

(そんなの、私だって……悔しいわよ。どうせなら、『私』が――)

「僕、女の子とキスした事もなかったのに、イキナリ奪われちゃったんだぞ! 急にオ○ンチンが、熱くてヌルヌルしてキツい“何か”に呑み込まれて……もう、脳味噌が溶けちゃうかと思うくらい気持ち良かったんだ。そのまま腰をグイグイ振られて、ものの十秒も保たずにイキそうになって、僕、一所懸命叫んだんだ。『ダメだよ! ママ! 出ちゃうから、やめて!』とか『いけないよ! 赤ちゃん出来ちゃうよ!』って――あ! 今考えるとあのセリフが“キヨミ”を『誘導』しちゃったのかなぁ?」

 雅人は首を傾げ、額に手を当てる。

「……『誘導』? どういう事?」
「さっき説明したよね? 『暗示で他人に何かを行わせる場合は、相手が心に抱く願望に沿って誘導すべし』――つまり、『本人が心の底で望んでいる行動』って、変性意識状態だと、ちょっとした刺激で勝手に『誘導』されて、自分からどんどんその願望を強化しちゃうんだ」

(……え? 『本人が心の底で望んでいる行動』――ですって?)

「キヨミの奴、僕の叫びを聞いて『わーい! ステキ! マーくん、ママとかわいいあかちゃんつくろっ!』ってグリグリ腰を押しつけるもんだから、僕もう、我慢できなくて――」
「……イッちゃったのね、『私』のナカに?」
「うん。ママのナカに思いっきり『中出し』しちゃった。それで、『どうしよう! とんでもない事しちゃった!』って青くなってたら、目隠しを取られてキスされて、『マーくん、ママね、かわいいあかちゃんがほしいの。おねがい』って言われて……そのまま立て続けに三回もさせられたんだ。最後の方は僕もヤケになって、自分から腰を振ってやったら、“キヨミ”の奴、『わーい! おウマさんみたい! マーくんはママせんようのタネウマだよ!』……って」

「た、種馬? うーーーーー」
 聖美はクラクラする頭を抱えてうなる。

(ホントに――とんでもないわねっ!)

「……ごめんなさい」
 雅人がペコリと頭を下げる。
「そんな……いまさら謝られても、困るわ」

 雅人の言葉を信じるなら、最初の時点ではむしろ息子は『被害者』に近い事になる。
 少なくとも“いたいけな少女を襲う卑劣漢”では無かったと分かり、聖美の気分はだいぶ楽になった。

(結局――全部、“あの女”のせいなのね?)

「……まぁ、そんな訳で、一番最初にそんな風に『経験』しちゃったから、僕もすっかり狂っちゃって――『どうせ前の事を覚えてないんだし』って、色々違うバリエーションで“キヨミ”とセックスしてみたんだ」

(……アレ? ちょっとちょっと、マーくん?!)

「どの“キヨミ”も、ちょっとエッチな方向に話を持ってくと、すぐ飛びついてきたよ。……やっぱり、ママは根がエッチなんだと思うな」
「ば、バカ! 何言うのよ! もぉ!」

(うーー。でもでも、“ソレ”は、ちょっと否定出来ないかも……)

「で、そのうち、『記憶を残す』んじゃなくて、単純に『今の“キヨミ”から前の時の“キヨミ”まで、その日数分だけちょっぴり時間を戻せばいい』って気が付いて……それで今に至るワケ」

 長い長い告白を終え、ようやく雅人は肩の力を抜く。

「ごめんなさい。もうしません。二度と“キヨミ”は呼び出しません」
 床に頭をこすりつけるように深々と土下座する。

(……うーん。一応、本気で反省してるみたいね? とんでもない事だし、納得行かない事も多いけど……まぁ、“あの女”とキチンと手を切るなら、許してあげないでもないわ。でも、その前に――)

 聖美にはまだどうしても気にかかる事があった。

「ねぇ。マー君は、どうして私にあんなDVDを見せたの?」

 頭を床につけたまま、ピクリと雅人が反応する。
「“あの女”とイチャイチャするだけなら、私にDVDなんか見せずに、そのままずっと秘密にしてればよかったでしょ? マー君はどうして、わざわざ『私』に『認め』させたかったのかな?」
「…………」
 雅人は無言のまま、顔を上げようとしない。
「ね? 私がどうすると思ってたの? もう、怒ったりしないから、教えて」

(もしかして、マー君……)

 長い長い沈黙の後、これまでとは一転した暗い口調で雅人は呟く。
「僕は……最低の人間なんだ」
「え?」
「ズルくて、卑怯で、みっともなくて……ヒドい奴なんだ。最初は『あの子』に会いたい、って純粋な気持ちだったはずなのに、“キヨミ”にそそのかされたら、もう、セックスする事しか考えられなくなって――毎日、サルみたいに発情しまくって――」

 顔を上げず、床を見つめたまま語り続ける。

「終るとね、いつもすごく虚しいんだ。ついさっきまで僕の腕の中で喘いでいたママが、途端に『いつものママ』に戻って――僕にあんなにおねだりして、『マーくん、あいしてる!』って叫んでくれたのに、そんな事は全部忘れて、普通に僕に笑いかけてきて……あんまり綺麗でまぶしくて、近くにいるのにすごくすごく遠くて、悲しくなるんだ」

(マー君……それって――)
 聖美の胸がドキドキと高鳴る。

「どんどん薄汚れていく僕と違って、いつまでたっても綺麗なママに、なんだか、だんだん腹が立ってきたんだ。『ママに“僕ら”がしてる事を見せつけてやりたい!』、『ママの本性をさらけ出して認めさせてやりたいっ!』って――ハハ、僕、一体、何考えてたんだろうな? そんなの……ただの八つ当たりじゃないか。ママに振り向いて欲しくてダダをこねてるのと変わらないよね? ホント、最低の大馬鹿野郎だな。そんな事も気付かないなんて――」

 雅人はうつむいたまま、ガクリと肩を落とす。

「最初に会いたかったのは、確かに『写真のあの子』だったんだ。ホント、純粋な気持ちだったんだよ? でも、“キヨミ”とエッチするようになったら、そんな事すっかり忘れてのめりこんで……なのに、今さらママの事が気になるなんて……『カラダ』だけじゃ虚しくなるなんて――僕って、ホント、最低で最悪だよね?」

(マー君! ああ、マー君! マー君! マー君!)

 次第に落ち込みの度合を増して行く雅人とは対照的に、聖美の胸は喜びの予感にうち震える。今にも心臓が踊りだしそうだった。

「さっき、ボートの上でママが言った『あなたは結局、パパと同じだわ!』って言葉、スゴく効いたよ。『アイツみたいには絶対ならない!』って誓ったのに……『僕なら、絶対、ママに寂しい思いやツラい思いをさせない!』って思ってたのに……ちくしょう! 何やってるんだよ、僕はっ! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!」

 雅人は、床に拳を叩きつける。

「……ごめんなさい。気持ち悪いよね? こんなのが息子だなんて、ヒドいよね? 驚かせて、ごめんなさい。イヤな思いさせて、ごめんなさい。でも、でも――もう、止まらなかったんだっ! ごめんね! 僕……僕は――」

 地面に顔をすりつけ、はらわたの底から絞り出すように叫ぶ。

「ママが――『好き』なんだっ!」

(ああ! もお! どうしよう! 私……泣いちゃいそう!)

 今にも歓喜の涙が溢れそうなのを、必死で堪える。ここで自分が泣く姿を見せたら、雅人はきっと誤解するに違いない。あらん限りの意志の力を振り絞り、平静を装う。

「それは、『お母さん』として……じゃなくて?」
「……うん」

「『私』の事を――『オンナ』として見てるのね?」
「……うん」

「それじゃ、『写真のあの子』でも“キヨミ”でもなくて、マー君はこの『私』を……『姫宮聖美』を――」

 ごくり。

「愛して……いる、のね?」
「……うん」

(ああ――)

 聖美の体を歓喜の法悦が包み、どうにも抑え切れず溢れた熱い涙が、一筋、頬を伝う。わなわなと全身が震えている。これほど深い感動を感じたのは生まれて初めての事だった。

「ママ、ごめんね……ごめんなさい……僕……」

(バカ! マー君のバカバカバカバカバカバカ! こんなに……こんなに廻り道するなんて! あなたはほんとに大バカだわっ!)

 相変わらず、うなだれたまま暗い口調で謝り続ける雅人の前で、聖美は泣き笑いの表情で、己が身をギュッと抑え付け、それ以上、涙が溢れないようにする。

「――そう」

(ああ、嬉しい! 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい! ……でもでも、落ち着け、私! いい? 今こそ、落ち着かなきゃ。心を鎮め――ああ、もぉ! 嬉し過ぎるのっ! コラ、マー君、こっちを向きなさいよ! 何いつまでも落ち込んでるの! それとも、やっぱり私が助けてあげなきゃダメ? ホント、手がかかるんだから! もお!)

 思わず満面の笑みを浮かべそうになるのを抑え、聖美は数回深呼吸をすると、何気ない口調で雅人に声をかける。

「『導魔の書』……ねぇ。マー君が、この『私』を催眠術で『昔の私』に作り変えてエッチする――か。うん。まぁ、よく出来てる『おハナシ』よね?」
「……え?」

 怪訝そうな表情で、雅人が顔を上げる。

「あのね、マー君。私、やっぱりそんなの信じない事にするわ」
「……え? え? 『信じない』? それって、どういう事?」

 予想もしない言葉に、目を丸くする雅人に聖美は微笑む。

「言葉の通りよ。私、マー君が『私』にそんな事するなんて信じない」
「でも……ママ、今、全部聞いてたでしょ? 証拠だって見たでしょ? 僕は――」
「私が『見た』――『見せられた』のは『マー君が作ったDVD』で、そこには『私にすごーく良く似た女の人』がマー君と一緒に映ってたけど……でも、所詮それだけの事だわ」
「それ……だけ?」
 理解不能といった表情で固まる雅人に、聖美はニッコリと微笑む。
「私ね、やっぱりマー君は、DVDに映ってたあの、『どこの誰だか知らないけど、私にすごーく良く似たオンナ』にだまされたんだ、って思う事に決めたの」
「だ、だけど……僕はっ!」

 勢いこんで反論しようとする雅人を、聖美は指を立てて、止める。

「もし、催眠術を知ってても、マー君はそれを悪い事に使おうとする子じゃないわ。私、そう信じたい――ううん。そう信じてるの。だから、“アレ”は絶対に『私』なんかじゃないの。私がそう信じて、そう断言するのよ? ……だから、マー君がどんな『お話』を作って持って来ても一緒。そんなの、もう信じないわ」
「ママ――」

 どう受け止めていいのか分からず、雅人はただ、戸惑った表情を見せる。

「マー君は“あの女”にだまされたのよ……それでいいじゃない? *学生の男の子なら『女の人とエッチな事したくなっちゃう』のは、ごく自然な事よ。全然、後悔するような事じゃないわ。マー君は、運悪く“あの女”にだまされて、普通よりちょっぴり刺激が強くて、ちょっぴり早すぎる『経験』をしちゃったの。ぜーんぶ、マー君を誘惑した“あの女”が悪いんだわ」
「……でも」
「“でも”は無し。いい? マー君は悪くないの。だから、その『導魔の書』なんて忘れて捨てちゃいなさい。それできれいさっぱり、全部オシマイ」
「……」

 納得出来ない顔の雅人に、聖美はイタズラっぽく微笑む。

「だけど……そうねぇ、マー君。ママね、さっきの言葉だけは信じたいなぁ」
「さっきの言葉?」
「『僕は――ママが――』……なんだっけ?」
「……あっ!」

 雅人の頬が赤く染まる。

「そ……そんなのズルいよ! 勝手に自分の都合のいいとこだけ『信じる』なんて!」
「ふふ。そうよ、知らなかった? オトナはズルいのよ」

 聖美は心の底から嬉しそうな笑顔を見せる。

「ねぇねぇ、マー君。“あの女”、ほんとに『私』に良く似てたわね? マー君も、『ママ! ママ!』って呼んじゃって。マー君が“だまされて”あんな事しちゃったのって、やっぱり、それだけ“あの女”が『私』に良く似てたからなのかしら?」
「――し、知らないよっ!」
「んー。そうすると、ちょびっと『私』にも責任があるのかなぁ?」
「知らないってば!」
 雅人はスネたように、顔をそむける。

(ああ! もぉっ! マー君たら、可愛すぎて、食べちゃいたいくらいっ!)

 思わず顔をほころばせながら、聖美は立ち上がり、ゆっくりと雅人の背後に近付く。

「あのね、マー君……」

(……ああ、どうしよう? 私ったら……バカな事しようとしてる。せっかくマー君も、反省してくれたのに。『もう、変な事しない』って約束してくれたのに――)

 ドキドキと動悸が早くなるのを、なんとか、平然とした表情で取り繕う。

「マー君が、一番最初に“あの女”と『あんな風』になっちゃったのは、不幸な事故だったと思うの」

(やめなさい、聖美! あなた、自分が何をしようとしてるか分かってるのっ!?)

 心の奥底で『母』としての良識が必死に訴えかける。だが、聖美は慈愛に満ちた聖女のような微笑みを浮かべながら、滑らかに言葉を紡いでいく。

「マー君、このままだと“あの女”に植え付けられた『歪んだ知識』のまま、『歪んだ大人』になっちゃうんじゃないかしら? それって、とっても困った事だわ。そう思わない?」
「……困った事?」

 不思議そうな表情で雅人が振り返る。

「そうよ。これからマー君が大きくなるにつれて、いろんな女の子と出会って、いつかはきっと、恋人にしたくなるような素敵なコにも会えると思うの」
「な、何言ってるのさっ! 僕はママが好――んん?」

 立ち上がり、喰ってかかろうとする雅人の唇にソッと指先を当てて、黙らせる。

(……オトナの話は最後まで聞くものよ。ふふ。とっても――ズルいんだから)

「だけどね。一番最初に『歪んだ間違った知識』を覚えたままだと、きっと、その時に取り返しのつかない大変な事になっちゃうわ。だから……出来るだけ早く、『誰か』がマー君に『正しい知識』を教えてあげなきゃいけないと思うの」
「正しい……知識?」

(そうよ。可愛い、おバカさん)

 話の流れが掴めず、キョトンとした表情の雅人に、ゾクゾクとした興奮を覚える。

(ねぇ、知ってるでしょ? ここには私達二人しかいないのよ? 誰にも気付かれず、誰にも邪魔されず、あなたと私の二人っきり――)

 ついに聖美はこみあげる衝動に身も心も委ねきってしまう。

(ああ。私……私、もう……止まらないわ。ごめんなさい――あなた)

「……ねぇ、マー君」

 イタズラな少女のような微笑みを浮かべた聖美は、ゆっくりと雅人に問いかける。

「もし私が、“これから『女の子の正しい知識』を教えてあげる”って言ったら……イヤかしら?」

「え……?」
 しばらくの間、何を言われたのか理解出来ず、雅人は小さく首を傾げる。
「――どういう事? 『正しい知識』? 教える? ママが?」

 聖美はニッコリと微笑んだまま、息子の頭に『自分が言った事の意味』が浸透するのを待つ。
 平静を装う微笑みの裏では、軽いパニックに陥っていた。

(あああああ! どうしよう! 言っちゃった言っちゃった! 言っちゃったわ! マー君のバカ! 早く気が付きなさいよ、もぉっ! 私にこれ以上説明なんかさせないでっ! 恥ずかしくて死んじゃうわ! バカバカバカ!)

「えと……それって、つまり、その……僕に……ママ、が?」
 おそるおそる尋ねる雅人に、小さくコクリと頷いてみせる。

「えっ!? えええええええええええっ!?」

「――もちろん、マー君がイヤなら、別に『無理に』とは言わないけど……」
 わざとスネるような口調で、雅人の反応を伺う。

「や、ヤじゃないっ! ……あ、違うっ! えと……是非! お、お願いしますっ!」
「そう。返事は『イエス』なのね? ……分かった、わ」

(ああ。私……私、なんて事を――)

 信じられないという表情の雅人に見つめられ、平静を装っていた聖美の頬が、徐々に紅く染まり始める。

(やだ! そんなキラキラした目で見ないでよ、もぉ! 私――何も言えなくなっちゃうじゃない!)

 ドキドキと急速に高まる鼓動が、相手にまで届いている気がする。
 頬を紅く染めた母と子は互いに目を合わせる事さえ出来ず、ただ黙って立ち尽くす。

 ピーーーーーーッ!

「うわっ!」「きゃっ!」
 突然響いた電子音に同時に飛び上がる。浴槽に適温の湯が満たされ、自動的に給湯が止まったというサインだった。

「あ。もう、お湯がたまったんだね。……へへ」
「……ふふ」
 顔を見合わせた聖美と雅人は、小さな笑みを洩らす。

「お風呂――入ってらっしゃい」
「うん」
 
 雅人はコクリと頷き、足早に浴室へ向かう。

< 続く >

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