プロローグ
僕は薄暗い部屋の片隅に身をひそめていた。部室棟二階、倉庫代わりに使われている空き部屋。薄い壁越しに聞こえる、隣の女子テニス部の喧騒が廊下に移動し、離れていく。僕は、手に持っていた愛用の一眼レフデジタルカメラをケースにしまう。扉の外から人の気配が消えるのを待って、倉庫から出た。
廊下に出ると、窓から差し込む西日に照らされる。放課後、教室の掃除はとっくに終わり、部室棟の運動部員たちは着替えとミーティングを終えて、グラウンドか体育館に向かう時間帯だ。女子テニス部員の足音を最後に、周囲は静まり返っていた。僕は、身をかがめるようにしながら階段を下りる。幸い、誰ともすれ違わない。ほっと胸をなでおろして、部室棟の入り口を抜ける。その瞬間……
「こんにちは。小野村くん?」
かけられた声のほうを向くと、怒気を覆い隠す笑みを浮かべた女性教諭の姿があった。シックなスーツに身を包んだ黒髪で二十代後半の女教師……僕のクラスの担任で、生徒指導担当でもある岡本理香子先生だった。
「……ちょっと、生徒指導室まで付き合ってもらってもいいかしら?」
腰に両手をあてて、穏やかな声で先生が言う。優しい声音が、逆に怖い。僕は顔面に作り笑いを浮かべて、先生にうなずき返す。先生は僕の手首を掴み、無理やり生徒指導室に連行された。
資料が詰まったスティール製の本棚が並ぶ中、ミスマッチな観葉植物の鉢植えが置いてある。校舎の中にあるけれども、授業をするには手狭な部屋……資料室と兼用で使われている生徒指導室だ。
「さ、座りなさい。小野村くん」
先生に促されるまま、僕はイスに腰を下ろす。この学校の学生である僕――小野村賢哉は、先生と向かい合って座る形になる。先生は、僕のカメラケースを指差す。
「デジタルカメラ。部室棟で、何を撮っていたのかしら?」
「風景写真です。部室棟からの眺めが好きなんです」
僕の返答に、先生がため息をつく。
「カメラの中の映像を見せてもらってもいい?」
「はい、構いませんよ」
僕は、カメラをケースから取り出す。一眼レフレンズのついた高級品だ。先生に手渡すと、先生が液晶画面で中のデータを確認する。もちろん、中には当たり障りのない風景写真しか記録されていない。何度も、画像を見なおした先生も、いずれあきらめたのか僕にカメラを返してくる。僕は、にやっと笑う。
「ね? 言ったとおりでしょう」
僕の軽い言葉に気を悪くしたのか、先生がキッと僕をにらみつける。
「……シラを切れるのも、今日までよ」
先生がポケットから何かを取り出す。何かと思ったら、それは糸の先端に五円玉が結びつけられた振り子だった。何をするつもりなのか見ていると、今度は先生がニヤリと笑う。
糸をくくりつけて吊るされた五円玉が、目の前にぶら下げられる。五円玉の振り子は、ゆっくりと単調なリズムを刻んで左右に振れる。
「はい。五円玉をしっかりと見て下さい。左右に揺れるのを、目で追いかけて下さい」
振り子を操る当人の声が、手狭な部屋に響く。声の主である先生は、小さな机を挟んで向かい側に腰かけている。
「右に、左に……あなたの意識は、五円玉の動きと、私の声に吸い込まれていきます。段々と、他のものを認識できなくなっていきます」
僕は目を細めて、五円玉を見つめた。小柄な自分の身体を、前後に小さくゆする。目前の女性が、やや緊張した面持ちで僕の顔を覗きこむ。
「私の声が聞こえますか?」
先生が尋ねる。
「……はい……」
僕は、やや間をおいてその問いに応えた。向かい側の彼女が、うなずく。
「それでは、これから私の質問に答えて下さい」
理香子先生はそう言うと、呼吸を整える。しばし、部屋を沈黙が満たす。やがて、意を決したように先生が口を開いた。ゆっくりと、丁寧な口調で言葉を並べる。
「……あなたは、女子テニス部の着替えを覗き、盗撮をしましたね? 盗撮した映像は、今、どこにありますか? 正直に答えて下さい」
僕は目をつむり、耳に響く理香子先生の声をぼんやりと聞いた。眼を半分だけ開くと、緩慢に声を出す。
「……理香子先生が、僕のことを好きになってくれたら考えるよ……」
一瞬、二人の間に気まずい沈黙が流れ――バンッ!! と全力で机を叩きつける音が響く。思わず目を見開くと、理香子先生が額に青筋を浮かべて僕を睨みつけていた。僕は、反射的にのけぞった。
「はあ、独学で催眠療法なんか試そうとした私がバカだったわ……」
理香子先生が唇をへの字に曲げて、こめかみを押さえながら盛大なため息をついた。
「先生、そんな難しい顔していたら小じわが増えますよ?」
「誰のせいだと思っているのよ……」
僕の軽口に、もはや反論する気力もないと言った雰囲気で、先生は力なく椅子に腰を下ろす。
「それじゃあ、先生。僕はもう、無罪放免で良いですか?」
僕が軽い口調でそう言うと、先生はキッと睨み返してくる。
「そうは行かないわ! 今度は正攻法で指導させてもらいます!!」
何故、僕が部室棟入り口で理香子先生に待ち伏せされ、こうして生徒指導を受けているのか。さらに言えば、どうして毎週のように先生に捕まえられる生徒指導室の常連と化しているのか。その理由は、極めて単純。僕が、校内の女子の盗撮をしているからだ。制服のスカートの内側や、女子たちの着替えの現場をこっそり撮影するのが僕の趣味……いや、ライフワークと断言してもいい。独自のフィールドワークで学内の盗撮ポイントを抑え、高品質な映像を写し撮る。女子テニス部部室隣の倉庫も、ポイントの一つだ。わずかな隙間が空いていることに、今のところ気付いている人間はいない。
手に入れた映像は、自前で見やすいように画像処理し、希望する男子に密かに格安で提供している。男子には喜びを提供し、女子は別に何も損はしていない。むしろ、僕が盗撮していることが知れ渡ったら、被写体の女子を傷つけてしまう。だから、僕の活動が露見することはかえって望ましくない。そのため、僕は学内の協力者も得て、尻尾を掴まれないように注意しながら活動している。もちろん、画像加工の段階で女子の個人名が特定されないように最大限の配慮もしているつもりだ。つまり、僕の仕事は誰も傷つけずに、人々に喜びをもたらしているのだ。だからこそ、僕は使命感を持って盗撮に精を出し、容疑をかけられれば全身全霊で言い逃れをする。
盗撮の容疑をかけられたことは数え切らないほどだが――取引相手である男子達がニセのアリバイを証言してくれることもあって――いまだ決定的な証拠を掴まれたことはない。僕に疑いの目を向けていた先生や女子たちも、いずれ追求することを諦めてしまった。ただ一人、目の前にいる生徒指導の岡本理香子先生を除いては。
確たる証拠がないまま、先生は僕から言質を取ろうと奮戦し、僕もまた黙秘権と軽口を駆使して応戦する。このまま千日手になり、うやむやのまま生徒指導が終わるのがいつものパターンだ。特に今日は、どこからか仕入れてきた「催眠療法」とやらの失敗のおかげで先生の疲労の色が濃い。解放の時間もそろそろか、と僕は内心ほくそ笑んだ。
――ガンッ!!
生徒指導室の扉が、思い切り開かれた。僕と先生は反射的に背筋を伸ばし、入口を振り返る。そこには、同年代の男子よりも頭一つ背が高く、肩幅もがっしりとし、ウチの学校では風変りな学ランに身を包んだ大柄な男子学生の姿があった。
「……門倉君? 扉は、静かに開けてもらえないかしら?」
「すいません岡本先生。少し用事がありまして」
先生が彼の名を呼ぶと、男子学生は低い声で返事をしながら深々と頭を下げた。僕も、彼のことは良く知っている。いや、この学校では彼のことを知らない人はいないと思う。門倉大吾郎。僕と同学年で、常に学ランを身に付けた番長スタイルが有名な、この学校の名物生徒会長だ。成績はトップクラスで、喧嘩の腕もめっぽう強く、生徒会長選挙では対立候補を僅差で押さえて見事、当選を果たした。
門倉生徒会長が頭をあげると、僕と目があった。生徒会長のただでさえ鋭い眼がつり上がり、大きくまたぎながら僕の前へと歩み寄る。
「……小野村ァ! 貴様、また岡本先生に迷惑かけているのかッ!!」
生徒会長は鼓膜が破れそうな大声をあげた。あまりの怒声に、窓ガラスがビリビリと揺れる。僕と先生は思わず耳をふさぐ。構う様子もなく生徒会長は僕の右手首を掴み、小柄な僕は半ば宙づりにされるようになって無理やり立たされた。
「来いッ! 俺が貴様の性根を叩きなおしてやる!!」
「あぁ……門倉くん、待ちなさい!」
背後で先生が叫ぶ。耳にも入らいないと言った様子の生徒会長に、僕は捕まえられた野良猫か何かのように引きずられていった。
僕の身体が軽々と持ちあがり、無人の小会議室の中に放り込まれる。打ちつけられた背中をさすりながら、上半身を起こす。山のような体躯の門倉生徒会長も部屋に入ったかと思うと、僕に背を向けて部屋の鍵をかけた。僕は、その隙に立ち上がる。振り返った生徒会長と目が合う。
「小野村。持っているんだろう? 出せ」
先ほどまでとは打って変わって、低い調子で生徒会長が言う。僕は頷くと、制服のズボンのベルトを緩めた。はいているブリーフの中に手を突っ込む。
「そんなところに隠していたのか? ばっちぃヤツだ」
生徒会長が、あきれたように言った。
「さすがの理香子先生も、ここまでは調べられないんだよ」
下着の中をまさぐって、僕はマイクロメモリーカードを探り出す。
「パソコンとかあれば、中身を確認できるけど?」
「おう。生徒指導室に行く前に、用意しておいた」
生徒会長が、会議机の影からノートパソコンを取り出す。僕と生徒会長は、お互いにニヤリと笑った。
「それじゃあ、早速……」
「あぁ、少し待て。一応、お前に説教をしていることになっているからな」
生徒会長は、外付けのスピーカーをパソコンに接続し、廊下側に向ける。何やら、パソコンを操作する。
『……こるあッ! 今日こそ! 貴様の性根! 叩きなおしてやらあ!!』
音声ファイル化された激昂する生徒会長の声が、廊下に向けて大音量でリピート再生される。生徒会長は片手で耳をふさいで、僕を手招きする。僕も轟音から聴覚をかばいながら、パソコンの前へと移動した。メモリーカードをパソコンに読み込ませる。
「……ふうむ……」
生徒会長は、髭の剃り残しが目立つあごを手でさすりながら、荒い鼻息とため息をついた。努めて無表情を装っているが、目は見開かれ、鼻の下も伸び、精悍な顔立ちがゆるみきっているのが見て取れる。モニターには、脱ぎかけのユニフォームの中から、純白の下着に包まれたすらりとした肢体を無防備にさらす、着替え中の女子テニス部員たちの姿が映し出されていた。
「どう? 今回も、なかなかの自信作なんだけど」
僕は、得意げに生徒会長に尋ねる。生徒会長は、感服したようなうなり声を返す。
「……小野村、おまえどうやって、この写真撮っているんだ?」
生徒会長は、モニターに目を釘付けにしたまま聞き返す。
「イヤだなあ、それは聞かない約束でしょう? 門倉生徒会長」
「む……そうだったな……」
僕の盗撮活動が摘発されない最大の理由……それは、門倉生徒会長の協力にあるといっても過言ではない。教師陣には優秀な成績で、学生たちにはカリスマと密かに行使しているという暴力で、もはや逆らう者のいない生徒会長の権威は、僕の容疑を闇に葬るためにはなくてはならない存在だった。生徒会長が僕の活動をサポートし、僕は本来有料で提供している盗撮写真を無料で生徒会長に手渡している。ここに、完璧な相互扶助のシステムが出来上がっているのだ。もちろん、この関係は内密で、表向きは生徒会長が僕に対して「教育的指導」を行っていることになっている。
「小野村、この画像は今回の分としてもらっておくぞ?」
「もちろん。どうぞどうぞ!」
生徒会長は、十数枚の画像データを自分のパソコンの隠しフォルダにコピーする。リピートする怒号の音声が切られると、小難しい顔をしてモニターとにらめっこする生徒会長を残し、僕は小会議室を後にした。
帰宅した僕は、早速自室に直行し私用のパソコンを立ち上げる。続いて、画像加工用のソフトを起動する。数万円するお高いものだが、男子学生への盗撮画像の売り上げで購入した。これを使って、画像を加工し、被写体をより可愛く見せたり、顔が露出しないように隠したりする。得た収入で自分の懐を温めるだけではなく、よりよいコンテンツを作ることで還元する。僕なりのクリエイター魂なのだ。自らの誇りを顔面に浮かべ、表情を引き締めてみる。が、すぐに虚しくなったので、収穫画像の加工作業に意識を向けた。
一度なれてしまえば、画像の加工は単純作業だ。見やすいように明暗とコントラストを調整し、顔や個人情報が写っていれば画面外になるよう移動させ、それでも隠せない場合はモザイクをかけたりぼかしたりする。そんなことをしながら、ぼんやりと放課後のことを考えた。理香子先生の催眠療法。先生は、催眠術を使って僕に盗撮活動をやめさせるつもりだったのだろう。結局は失敗したわけだけれども、世の中には上手くいった例もあるのだろうか。
もしも、もしもの話だが……本当に催眠術が使えるとするならば、もっと他のこともできるのではないか? 例えば、学校の美少女に催眠術をかけて、僕専属のヌードグラビアモデルになってもらうことも、いや折角だから僕にベタ惚れの恋人になってもらうことも、ひょっとしたら面倒くさいことを一切抜きにしたセックスフレンドだって……甘口の妄想が脳裏に広がり、僕はマウスとキーボードに添えた指を止め、想像の世界に身をゆだねる。
「……賢哉お兄ちゃん!」
自分の名前を突然呼ばれ、僕は雷に撃たれたように背筋を伸ばす。コンマ二秒で指先がパソコン上の卑猥な映像を最小化して隠したのは、我ながら素晴らしい才能の一つだ。若干表情を引きつらせながらも、平静を装って声のほうを振り返る。自室のドアを押し開いた妹、真由の姿があった。
「なんだ真由か……黙って部屋に入ってくるなっていつも言っているだろ?」
「ちゃんとノックしたのに返事がなかったんじゃないの。お兄ちゃん、一体何してたの?」
「ん、インターネット」
「どうせ、えっちなサイトでも見てたんでしょ」
ノートと教科書を抱えた真由が、頬を膨らます。ぱっちりとした瞳に黒髪のツインテールの妹は、不満の表情を浮かべていても、あまり怖さを感じない。僕と同じ学校で一つ下の学年に所属する真由は、童顔で身体つきも子供っぽく、歳以上に幼く見られがちだった。本人は気にする様子もなく、屈託のないところは兄である僕から見ても望ましい性格だ。学校でもそれなりの人気と人望があり、生徒会役員の一人として活動している。
「で、何の用だよ」
「お兄ちゃんに勉強を教えてもらおうと思って」
真由がノートと教科書を差し出してくる。
「勉強? なんでまた……」
「お兄ちゃんこそ、何を言っているのよ。もうすぐ中間試験じゃない。明日からテスト期間よ?」
しまった、すっかり忘れていた。イヤなこと思い出しちゃったな……そんなことを考えていた時、僕の頭の中身がひらめく。表情には出さないが、内心でほくそ笑む。
「真由。教えてやってもいいけど、一つ交換条件で頼みたいことがあるんだけど……」
「えっ、何? メンドクサいことはイヤだよ」
真由は露骨に警戒心をあらわにする。
「ちょっと催眠術の実験に付き合って欲しいんだ」
僕がそう言うと、真由はキョトンとした表情を浮かべる。
「え、催眠術? あの目の前で振り子をぶらぶらさせたりする? お兄ちゃん、そんなの信じているの?」
「理香子先生がやっていたんだよ」
「あの真面目な岡本先生が? ますます信じられない!」
真由が人を小馬鹿にするような表情を浮かべる。僕も少しムッとしたが、考えてみればダメもとのおふざけみたいなものだから、これくらいのほうが丁度いいかもしれない。
「で、どうするんだ? 言う通りにしてくれるなら、勉強を教えてやるぞ」
「ま、別にイイよ。どうせ私、催眠術なんか、かからないし……そうだ! もし催眠術が効かなかったら、お兄ちゃん私の代わりに宿題も解いてくれないかな?」
妹は、得意げに言う。要領のいい真由のことだから、どうせ初めから僕に宿題を押しつけるつもりだったのだろう。
「じゃあ決まりだな」
真由がどこか憮然としながらも、余裕の様子で腕を組んでいる中、僕は準備に取りかかる。といっても、財布から五円玉を取り出し、あり合わせの糸をくくりつけるだけなので、すぐに終わる。僕は真由を椅子に座らせると、自分は代わりに妹の正面に立ち、二人の間に五円玉をたらした。
「五円玉を目で追いかけるんだ、真由……右に、左に……ゆっくりと……」
五円玉を規則正しく左右に振る。面白半分なのか、真由は僕の言う通りに目で追いかける。
「真由の意識は、だんだんと五円玉の中に吸い込まれていく……少しずつ他のことを認識できなくなっていく……僕の声しか聞こえなくなっていく……」
次第に真由の表情がゆるんでいく。まぶたが重そうに半開きになり、眠たげに頭が揺れる。その姿は、異様に無防備で背徳的で、妙に胸をたかぶらせるものがあった。同時に、僕が理香子先生にやったように、かかったフリをしている可能性も十二分にある。
「真由は僕の声しか聞こえない……僕の声を聞き、僕の言うとおりにするんだ。わかったら返事をして……」
「……はい……」
抑揚のない妹の声がかえってくる。全く感情のこもっていない、初めて聞く真由の声音だった。
「真由。おまえは、お兄ちゃんのことをどう思っているんだ? 正直に答えるんだ」
僕は、本当に妹が催眠状態なのかを確かめるために当たり障りのない質問をする。対する真由は、操り人形のようにコクンとうなずいた。
「嫌いじゃ……ないよ……あれで、人のイイところもあるし……でも、女子の盗撮とかしてるってウワサ……アレは、イヤかな……もし本当だったら……絶縁ものだな……」
自分の記憶を反芻する真由の虚ろな言葉が部屋にこぼれる。しゃべりかたが妙に単調で、途切れ途切れだ。僕は、生唾を飲み込む。真由の言葉は僕の目を気にしているというよりは、機械的に口にしているようだ。催眠が効いているのかもしれない。もう、いいや。やれるところまでやってしまえ。仮に真由の演技だとしても、その時は後でごまかせばいい。僕は、決意する。
「真由。お兄ちゃんが盗撮していたら、イヤか?」
「……うん……人として、どうかと思うよ……」
仕方ないとはいえ、傷つくことを言ってくれるなぁ。でも、それも今日までだ。
「真由……それは違うぞ。間違いだ……」
「……え……」
「真由が一番軽蔑している“お兄ちゃんが女子の盗撮するようなヘンタイである”ということ……実は、それが兄の中で一番尊敬している部分なんだ」
「嘘……違う……」
真由が戸惑うようにうめく。
「違わない。本当だ……さぁ、真由。これを良く見て……」
僕は、真由の眼前に五円玉の振り子を突きつける。焦点の合わない真由の瞳が硬貨に空いた穴を見つめると、僕は振り子を左右に振り始める。
「この振り子が揺れるたびに、真由の中の嘘と真実が少しずつ入れ替わっていく……ヘンタイな兄を軽蔑する気持ちが、ヘンタイな兄を尊敬する気持ちに変わっていくんだ……」
「あ、あ……」
真由が緊張したように息を詰め、肩を小刻みに震わせている。それでも、五円玉の中心から目を話すことができない。
「さぁ、右に、左に……真由の心が入れ替わっていく……三分の一……半分……そして……これで、全部だ……」
「……あぁッ!?」
そう言った途端、緊張の糸が切れたのか、真由の身体が突然脱力した。力なく椅子の背もたれに身をあずけ、ぼんやりとした視線がいまだに五円玉に絡みついている。演技じゃない。効いているんだ、そう確信する。
「真由。お兄ちゃんのことをどう思っているのか、もう一度教えてくれ」
僕が尋ねると、真由はコクンとうなずく。
「お兄ちゃんのこと……結構、好きだよ……人のイイところがあるし……何より……女子の盗撮するようなヘンタイだってところ……私、一番、尊敬しているんだぁ……」
「よぉし、真由……お前は、本当の自分に気が付いた……とても、解放的で良い気分になっているんだ」
「私……本当の自分……気持ちイイ……」
断片的に言葉をつぶやく真由が恍惚にも似たため息をつき、虚ろな笑みを口元に浮かべる。つられて僕もニヤニヤ笑いを隠すことができない。
「真由……これから、おまえはお兄ちゃんの言うことをなんでも聞くんだ……そして、お兄ちゃんに負けないヘンタイになるんだ……そうすれば、もっと、もっと気持ち良くなれるぞ」
「はいぃ……私は、お兄ちゃんのイイナリになりますぅ……お兄ちゃんみたいなヘンタイになりますぅ……そして、もっと、もっと、気持ち良くなりますぅ……!」
一度、心の壁を崩された真由は面白いように僕の言葉を吸収していく。
「よし、真由……これから、催眠を解くぞ。おまえは、これから三つ数えると目を覚ます……この部屋であったことは忘れてしまう……でも、心の奥底で本当の自分のことを覚えているんだ……」
「はい……お兄ちゃんのイイナリでヘンタイな妹……それが本当の私です……」
「いいぞ、真由……これからは、自分が僕のイイナリヘンタイ妹であると意識して暮らすんだ……それじゃあ、行くぞ……1……2……」
「3!」と言うと同時に、僕は真由の目の前でパンッ! と手を叩いた。真由が、一瞬ビクンと背筋を伸ばし、虚ろだった眼をぱっちりと開く。何があったのか理解できない様子で、きょろきょろと周囲を見回す。
「えーっと。あれ……私、何していたんだっけ?」
「どうしたんだ、真由。僕に何か用事があったんじゃないのか?」
僕は、わざとらしく真由の顔を覗き込みながら質問した。
「ん~そうなんだけど……あ、思い出したよ!」
真由の顔に、パッと明るい笑いが浮かぶ。
「ねえ、お兄ちゃん……エロ本、貸して?」
はにかむような笑みを浮かべた真由が、あまりにも自然に言ってきたものだから逆に僕のほうが面喰らってしまった。真由は椅子から勢いよく立ち上がると、僕の返事も待たずに身をかがめてベッドの下を覗き込む。
「お兄ちゃんのことだから、ベッドの下あたりに隠しているんでしょ?」
「おい、待てよ。真由、勝手にあさるな」
僕が制止すると、真由は渋々ながら捜索を中断し、僕に向き直る。真由の顔を舐めるように見つめたが、その表情はきょとんとした自然体そのもので、僕をからかっている様子など微塵もない。
「貸してもいいけど……タダって訳にはいかないな、交換条件じゃないと……」
「えー。面倒くさいことは、イヤだなぁ……何をすればいいの。宿題の手伝い? お兄ちゃんの部屋の片づけ?」
真面目に尋ねてくる妹を前に、俺は手を顎にあて考えるふりをする。自分でもわかるほどに鼻の下が伸びきってしまうが、仕方がない。
「そうだなあ……じゃあ、真由がいま着ている下着をもらおうかな?」
僕は、わざとらしくもったいぶった言い方をしたが、真由はごく自然にうなずいた。
「うん。わかったよ、お兄ちゃん」
そう言うと、家着のブラウスの中に両手を突っ込んで何やら、もぞもぞとし始めた。しばらくすると、白い布の塊を掴んで差し出してくる。
「はい、お兄ちゃん。まずはブラ」
真由に手渡されたのは、シンプルな造りの白いブラジャーだった。妹の未発達の胸を覆う下着はAカップで、ほとんど膨らみはない。続いて真由はスカートの中に指を忍ばせる。股間を覆う三角形の布を自ら降ろし、途中膝をあげると中身の部分が見えそうになるが真由は一向に気にする気配はない。こっちが顔を赤くしてしまう始末だ。
「はい、お兄ちゃん。ショーツ。これで、エロ本貸してくれるんだよね」
「あ……あぁ。ちょっと、待ってて」
僕は、自分で仕向けたこととはいえ、妹のあまりの豹変ぶりに戸惑いながらベッドの下にもぐりこんだ。紙袋の中にしまい込んだ大人向けのグラビア写真集と過激な描写のエロ漫画の単行本を取り出す。半ば呆然として、真由にその二冊を手渡した。
「わぁい! うふふ……やっぱりエロ本はヘンタイのたしなみよねぇ」
真由は食い入るような目つきでパラパラとページをめくり、その過激な性描写に感嘆のため息をこぼしている。残りは自室で楽しもうと思ったのか、本を閉じると、自分で持ってきたノートと教科書の間に挟み込むようにして胸に抱えた。妹の中では、ノートと教科書はカモフラージュのために持ち込んだ、と言う設定になっているらしい。
「それじゃあ、お兄ちゃん。ありがとうね!」
真由が部屋を出ていこうとして、僕は我に返った。ここまでやって置いて、もう少し楽しまない手はないだろう。
「待て! 真由」
「ん。何、お兄ちゃん?」
真由がけげんそうな顔で振り返る。
「おまえに宿題を出そう。『フェラチオ』って知っているか?」
妹は首を左右に振る。まあ、知らなくて当然だ。真由は、ついさっきヘンタイの仲間入りを果たしたばっかりなのだから。
「いいか、真由。『フェラチオ』って何なのか、明日までに勉強しておくんだ。いま渡したエロ本に書いてある。そして明日の朝、お兄ちゃんにどのようなものか実際に試してみるんだ」
「うん、わかった」
妹は、さも当然と言った様子でうなずくと、そそくさと自分の部屋へと戻って行った。
僕は、真由を見送るとベッドの端に腰を下ろした。妹が脱ぎ捨てた下着が置かれている。思えば、もっと楽しむことはできた。例えば、真由が下着を脱ぐとき、もっと色っぽくストリップダンサーのようにするように命令して、そのあと、ヌードモデルとして撮影してやっても良かったのだ。まあ、でもいいや。明日から楽しめばいい。僕は、真由のショーツを掴むと鼻に押し当て、匂いを吸った。シャワーを浴びて着替えたばかりだったのか、石けんの匂いが混じった妹の体臭は、どこかさわやか柑橘系の香りを連想させた。
< 続く >