第1部 プロローグ
ここは、大陸でも最古の歴史を誇るヘルウェティア王国。その国境付近、山岳地帯の中腹にある閑静な農村キエーザ。200軒近くの家が集まる集落の周囲には放牧地が広がり、おそらく、季節さえ良ければ淡い緑に覆われた牧草地に、放し飼いにされた牛や羊がのどかに草を食んでいる光景が見られることだろう。しかし、折しも季節は冬で、村は厚い雪に閉ざされて人影は見られない。ただ、村の教会と思われる建物から、うっすらと灯りが漏れていた。
教会の中。
蝋燭の炎が弱々しく建物の中を照らすだけの薄暗い空間に、場違いな声が響く。
「ああっ!」
「はんっ、んんっ、はうっ!」
「ううっ、すごいいいいっ!」
およそ、教会にふさわしくない淫靡な声を上げながら、頼りない灯りの下、妖しく交わり合う大勢の男女の影。その中には、白髪の老人から、まだ年端もいかない子どもの姿も見える。蝋燭の炎に照らされた裸の男女の肌は、冬であるにもかかわらず汗に滑って光り、その影が、黒い魔物のように蠢いているのが壁に映っていた。
「いかがですか?もう村人の全員が肉欲の虜となっております。シトリー様」
二階の回廊から、大広間で繰り広げられる背徳の宴を見下ろす数人の人影。
「うん、上出来だよ」
シトリー様、と呼ばれた男は、大きく頷き、クックッ、と短い笑い声をあげる。その口許は不気味に歪められていた。
* * *
事の発端は、半年前のことだった。
「ああん、シトリーさまぁ」
全裸の女悪魔が男にしなだれかかり、体を舐め回している。女の舌が、上の方に上がってきたかと思うと、男の黒髪を掻き抱くようにしてその口に挿し入れる。
「あんっ!」
男が手を伸ばして股間の裂け目を撫でてやると、甘い声をあげて女悪魔の体が弓なりになり、床に広がるほど長いエメラルドグリーンの髪が波打つ。
「ん、あふ、んむ」
シトリー、と呼ばれたその男の股間に顔を埋め、いきり立った肉棒をしゃぶっているのは、背中に蝙蝠のような翼を生やした、ローズピンクの髪の女夢魔。
「んっ!んぐぐっ!」
シトリーが女夢魔の頭を押さえつけると、喉の奥深くまで肉棒を挿し込まれた格好になり、女夢魔が苦しげな声を漏らす。
「ちゅ、んふ、ぷは、ああ、シトリーさまぁ」
「んぐっ、ぐむむむむっ!」
それぞれに舌で、思い思いにシトリーに奉仕するふたりの女悪魔。
こいつらも、それなりに力のある悪魔なんだけど、こうなるとただの牝だな。
女悪魔たちそれぞれの奉仕に身を任せながら、シトリーは思う。実際、この女悪魔たちを下僕にするのはそれ程難しいことではなかった。そもそも、悪魔には貞操観念などというものはないし、むしろ、淫らな性質の者の方が圧倒的に多い。だから、いったんそういう関係になってしまえば、後は腕次第でどうとでもできる。相手の心を操るのに長けているシトリーのような悪魔にとっては、そこまで持っていった時点でもう相手を下僕にしたようなものだ。むしろ、貞潔や、倫理などという観念を持った人間の方が、そこまで持ち込むことに苦労することがある。
不意に、シトリーを呼ぶ声が聞こえた。
「ちょっといい?シトリー」
「ん、なんだ、エミリア?」
シトリーが、声のした方向にその金色の双眸を向ける。その視線の先、部屋の入り口には、浅黒い肌の女悪魔が立っていた。ルビーのような紅い瞳を光らせ、短めの黒髪から猫のような三角形の耳が覗いている。
「なんかね、お偉いさんが呼んでるわよ。宮殿まで来いってさ」
エミリアと呼ばれた猫耳の女悪魔が、そうシトリーに告げる。
魔界の上層部の呼び出し?いったいなんなんだ?
考えてみても、シトリーには思い当たるフシがない。
女悪魔たちを下僕にしたことは別に問題になるようなことじゃない。他の悪魔を実力で支配しようが、なぶり殺しにしようが、そんなことは魔界では禁じられていはしない。もちろん、相手の力を見誤って、反対に自分が殺されても文句は言えない。そんなことは魔界の常識だ。
だったらどうして?
まあ、ここで考えていてもしょうがない。行けばわかることだとシトリーは思い直す。
「どうするの、シトリー?」
入り口横の壁にもたれながら、エミリアの紅い瞳がシトリーを見つめている。エミリアの尻から垂れ下がった尻尾が、所在なげに揺れていた。
「わかった。すぐ行く。おまえたち、ちょっとこれから宮殿まで行かなきゃならないみたいだ。だから、続きはまた後でな」
「ちゅ、え?」
「んふ、あ、シトリー様?」
自分にまとわりついていたふたりの女悪魔にそう声を掛けると、シトリーは立ち上がり、服を身につけていく。
「じゃあ、行って来る。エミリアは僕について来るんだ」
「うん、わかった」
素直に頷くとエミリアは、シトリーの後について一緒に部屋を出ていく。
魔界 宮殿の広間。
「潜入工作、ですか?」
魔界の幹部の言葉に、我ながら間の抜けた返事だと思いつつも、シトリーは鸚鵡返しに聞き返す。
「そうだ、きたるべき天界との決戦に備えて、我々は今から人間界に行って、天界に気付かれぬよう密かに魔界の勢力を広げておく必要がある」
「それを、僕にですか?」
また天界と戦争をする気なのか、上層部は。そういえば、この間天界と戦争をしたのは何百年前の事だったっけ?
幹部たちの話を聞きながら、シトリーはそんなことをぼんやり考えていた。
「うむ、おぬしなら適任だと思ってな」
「と、言いますと?」
「ワシらがおぬしの能力を知らぬとでも思うておるのか、シトリーよ。人の心を操るその力、人間たちを惑わすにはもってこいではないか」
シトリーはわざととぼけて見せたが、幹部たちは引っ掛からない。
「はい、まあ、それは」
「おぬしは、その力でもって人間たちを惑わし、我ら魔界に付くように仕向けるのだ」
「それを、天界に気付かれないようにですか?」
「そうじゃ」
はぁ、気楽に言ってくれるなぁ。
シトリーは、内心そう思っていたが、もちろんそんな素振りはおくびにも出さない。
「どうだ、シトリー。やるのかやらんのか?」
「そうですね、引き受けましょう」
諦めたように小さくため息をつくと、シトリーは肩をすくめて頷く。
それに、最近魔界も退屈ですしね。
そう言いかけてシトリーは思いとどまった。
なにもここで上層部の心証を悪くすることはない。天界との戦争自体にはそれほど興味はないけど、まあ、人間界に行けば暇つぶしにはなりそうだ。
「おお、やるというのか、シトリーよ」
シトリーの返事に、幹部たちは身を乗り出してくる。
「はい。それで、潜入する先は決まっているのですか?」
「いや、まだ具体的には決まってはおらんが」
はあ、そんなことも決まってないのか。
シトリーは、胸の中でまたため息をつく。
「では、僕に決めさせて下さい」
「ほう、何かあてでもあるのか?」
「はい、ヘルウェティア王国です」
ヘルウェティア王国。それは、比較的小さな国ながら、人間界で最も歴史の古い国のひとつだ。そして、太古の時代に神々から授かったという魔術のいくつかを今に伝えるといわれている魔法王国でもあった。
「なっ、ヘルウェティア王国だと!」
「本気で言っているのか、シトリーよ!?」
「なにも、わざわざそんなところを選ばなくともよいのではいか?」
その場に小さなどよめきが広がり、魔界の幹部たちが、咎めるような口調で口々に言い立てる。
「大丈夫ですよ。まあ、見ていて下さい」
シトリーが、ヘルウェティアをターゲットにしたのは理由のないことではなかった。ひとつは、どうせなら難しい方が退屈しのぎになりそうだということ。そしてもうひとつの理由は、現在のヘルウェティアの王が、いまだ年端もいかぬ少女であるということだった。
「うむ、おぬしがそこまで言うのなら。しかしよいか、くれぐれも天界に気取られるではないぞ」
幹部のひとりが、そうシトリーに念を押す。
「その点もご心配なく。そんなヘマはしませんよ」
「それでだ、潜入工作とはいえ、多少の手勢をつけておく必要があると思うのだが」
「ああ、必要ありません」
「なんだと?」
シトリーのその答えに、幹部たちは怪訝そうな色を浮かべる。
「ただ、エミリア、ニーナ、メリッサの3名を同行させる許可を下さい」
その言葉に、シトリーの後ろに控えていたエミリアがハッとして顔を上げる。
ニーナとは、さっきまでシトリーの肉棒をしゃぶっていたローズピンクの髪の夢魔。メリッサは同じくさっきシトリーに体を絡めていたエメラルドグリーンの髪の女悪魔だ。
「それだけでよいのか?」
「ええ、充分です」
「うむ、許可はするが」
「本当にその人数で大丈夫なのか?」
「大丈夫です。まあ見ていて下さい」
なおも心配そうな幹部たちに向かい、そう言って一礼するとシトリーは広間を出ていく。
「ねえ、本当にやるの、シトリー?」
宮殿から戻る途中、エミリアが不安げに聞いてくる。
「ああ」
「たった4人で?」
「まあ、潜入するんなら人数が少ない方がいいだろうし。なんだ、嫌なのか、エミリア?だったら別についてこなくてもいいんだぞ」
「やっ、あたしは行くよ!」
「ならそれでいい。おまえにもしっかり働いてもらうからな」
それだけ言って、すたすたと歩いていくシトリー。
「あっ、待ってよ、シトリー」
慌てたように、その後をエミリアが追いかけていく。
シトリーの屋敷に戻ると、廊下の途中で再びエミリアが口を開く。
「ねえ、シトリー」
「ん、なに?」
「どうしてあたしには何もしないの?」
「何もしないことないだろう。この間もエッチしてやったし」
シトリーの言葉に、エミリアの顔が赤くなる。
「いやっ、そうじゃなくて!あたしには、他のみんなみたいにシトリー様って呼ばさせないの?」
「ああ、なんでだろうな。まあ、ひとりくらい、タメで軽口を叩きあえる相手が欲しいってとこかな」
「なによ、それ?」
まあ、実際エミリアとは天界から堕ちて来たときからのつき合いだしな。そうシトリーは呟く。
「え?何か言った?」
「いや、なんでもない。それに、本当に何もしてないわけじゃないんだけどな」
「どういうこと?…やんっ、ああああっ!」
エミリアの方を向くと、シトリーは無造作にその胸を掴む。
「んんんんっ!なっ、なんでこれだけでえええっ!?」
掴まれただけで、揉まれてもいないのにエミリアは顔を真っ赤にして喘ぐ。
「ほら、おまえの胸とアソコは、ちょっと僕が触っただけでこうなるようにしてあるし」
「そんなぁっ!いっ、いつのまにいいいっ!」
「だいぶ前にエッチしたときに。気付いてなかったのか?」
「そっ、それはっ、何かっ、最近シトリーとするとっ、やけに気持ちいいって、思ってたけどぉ!ひゃあっ、そっ、そんなに揉まないでぇっ!」
シトリーが手を動かし始めると、エミリアの喘ぎ声が1オクターブほど上がる。
「まあ、そういうこと。じゃあ、もっと感じちゃって」
「え、ひああああああっ!」
シトリーの言葉に反応してエミリアの体が仰け反る。その足が内股になり、プルプルと震えている。
「僕の言葉で、感度も上がるようになるおまけ付き」
「ばっ、ばかあああああっ!」
「ね、ちゃんとおまえも改造済みだろ」
「あっ、あのねええぇっ!」
「だって、何かして欲しかったんだろ?いいじゃん、感じやすくなるくらい。別に体丸ごと改造したわけじゃないし」
「そっ、それはああああっ!」
「胸でこうだったら、ここはどうなんだろうな?」
「やああああっ!そこはダメぇっ!」
押し止めようとするエミリアの手を払いのけ、シトリーがエミリアの股間に手を伸ばしていく。
「いやあっ、今はダメッ!ふあっ、あああああっ!」
シトリーが指をエミリアの裂け目に突っ込むと、エミリアがぶるんと体を大きく震わせる。そのふとももは垂れてきた液体でもうベトベトになっている。
「なんだ、もうこんなにぐっしょり濡れてるじゃないか」
「だだだ、だってそれはっ、シトリーがこんなに感じさせるからじゃないっ!やあっ、んんんんっ!」
「あ、開き直ったな。じゃあ、もっと感じてもらおうか」
「も、もっと!?ひいっ!うああああああああっ!」
「大丈夫大丈夫。悪魔なんだからこのくらいいけるって」
「無理無理無理無理いいいいぃ!だめえっ!こんなのおおおっ!おかしくなっちゃううううっ!」
大声で叫ぶエミリアの瞳孔は完全に開き、小さく震えている。その股間からは、ボタボタと止めどなく蜜が滴り落ちて行っている。
「ふうん、じゃ、そろそろイっちゃおうか」
「えっ!?やっ、なにっ!?急にっ、ふあああああああああっ!」
エミリアが、反らした頭をブルンと振り回し、足がガクガクと震えたかと思うと。股間からブシュッと汁が噴き出す。そして、足の力が抜けたのか、エミリアはその場にへたり込む。
「ほーら、僕がイけって言うとイってしまう特典もついてるし。至れり尽くせりだろ?」
「んんんっ、もうぅ、シトリーのばかっ!」
へたり込んだまま涙目で見上げながら、エミリアは口を尖らせる。
「さあ、早く立てよ。地上に行く準備をしなくちゃいけないからな」
エミリアの抗議を意に介さず、再びすたすたと歩いていくシトリー。
「んもうっ、ほんっとにシトリーのばかっ!」
エミリアは慌てて立ち上がると、文句を垂れつつシトリーを追いかける。
戻ってきたシトリーの話を聞いたニーナとメリッサには何の異論もなかった。
もとより、シトリーに無条件に従うようになっているふたりが、彼のすることに反対するわけがない。
そして、全員一致で、人間界に行くことが決定した。
シトリーたち一行が人間界に赴いたのはそれから10日後のことだった。
* * *
そして、シトリーたちが人間界に来て数日後。
ヘルウェティア王国、キエーザの村。
眩しい夏の日差しの下、のどかに牛たちが草を食んでいる。山岳部にあるこの村は、真夏でも涼しく、夜になると肌寒い日も多い。その気候のせいもあって、農作物はそれほど穫れないが、牧畜には適している。
そんな、牧草地の中を、水の入った桶を提げて歩く金髪の若い女。
「おはようございます」
「あ、おはようございます、アンナ様」
アンナ様、と呼ばれた女が、農作業をしている村人に、にこやかに挨拶すると、村人は作業の手を止めると、帽子を取ってお辞儀する。
「アンナ様、おはようございます。今日もいい天気で」
「おはようございます。本当にいいお天気ね」
「おお、おはようございます。アンナ様」
「おはようございます」
村人たちから挨拶されるたびに、濃緑の瞳に笑みを湛えて挨拶を返す女。
彼女は、ここ、キエーザの村でただひとつの教会の司祭だった。
「おお、アンナ様」
「アンナ様」
「おはようございます、アンナ様」
アンナは、別にこの村の出身ではない。都からこの村の教会に派遣されてきた司祭だ。
教会の司祭衣を着ているため、少し大人びた雰囲気だが、その顔は、よく見るとまだ少女の趣を残している。おそらく、年は20を少し越えたあたりであろうか。
まだ若いことからもわかるように、司祭としての経験を積んでいるわけでもない。聖職者としてのキャリアを積むために、新任の司祭として田舎の農村に派遣されたにすぎなかった。
しかし彼女は、持ち前の明るさと優しさ、そして信心深さでもってすぐに村人とうち解けていった。アンナは、村人たちの悩みを優しく聞いてやり、気軽に相談に乗る気さくさを持ち、話も巧みで、ミサの際に行われる説教は、老人や子供にもわかりやすいと評判であった。
もちろん、やや短めの金髪と、慈愛に満ちた濃緑の瞳がチャーミングな、常に笑みを絶やさないその美貌も、村人に受け入れられるのに一役買ったのだろう。
ともかく、今ではアンナは、村人たちから全幅の信頼を置かれる司祭であった。
「おやおや、アンナ様。今日はとても嬉しそうではないですか。なにか良いことでもおありなさったかの?」
「いえいえ、特に変わったことはありませんよ」
老人の言葉に、いつもと変わらない笑みを返すアンナ。
しかし、実際には、今日の彼女は少し浮かれていた。
なぜなら、昨夜、彼女の夢の中に、神が現れて下さったからだった。
「ふう」
教会に付属する司祭館の水瓶に汲んできた水を入れると、早速アンナは礼拝堂に向かい。神に向かって祈る。
「主よ、我らを常に照らし続けたまいますように。我らを救い、悪を払われますように……」
胸の前で手を組んで、アンナは祈りを捧げる。そして、昨晩の夢の事を思い出していた。
昨夜、夢の中で、アンナは眩いばかりの光が溢れる場所に立っていた。
いったい、ここはどこなのかしら?
周囲を見回しても、ただ、光に満ちた空間があるばかりで何も見えない。
あら?
ふと、人の気配を感じてアンナが振り返ると、そこに人がひとり立っていた。アンナはその人の顔を見上げたが、眩しい光の中で、その顔をはっきりと見ることができない。
もしかして、この方は我が主。私がお仕えしている神様かもしれない。
アンナは、直感的にそう感じた。そして、アンナは無意識のうちに膝をつき、胸の前で手を組んでいたのだった。
あ……。
その時、アンナは、自分の頭に柔らかいものが触れるのを感じた。
主が、まるで祝福するかのようにアンナの頭に手を乗せて下さっている。
ああ、なんて柔らかくて暖かいのでしょう。
その、暖かくて心安らぐ感触に、この人物は自分が仕えている神であるとアンナは確信する。
夢の中で、アンナは恍惚として主の按手を受けていた。
その日は、そこで目が覚めた。
そして、今、礼拝堂の中でアンナは跪いて手を組み、主に祈りを捧げている。
それだけで、夢の中での、主の手の柔らかな感触が甦り、アンナは、夢の中と同じ恍惚とした表情で祈りを捧げ続けるのだった。
* * *
そして、その晩もアンナは主の夢を見た。
前の晩と同様に跪いて主の按手を受けているアンナ。
幸福感に満たされながら祈りを捧げていたアンナは、自分の頭に乗せられていた主の手が離れたのを感じた。
え……?
思わずアンナは上を見上げた。すると、昨夜は眩しくて見えなかった主の顔を、今夜ははっきりと見ることができた。
そこには、艶のある黒髪に、優しげな光を湛えた金色の瞳の人物がアンナを見下ろしていたのだった。
神様って、こんなお顔だったかしら?
アンナは首を傾げるが、すぐに思い直す。
そういえば、今まで、神様の御姿について語ってくれた人は誰もいなかった。
なら、きっと、これが神様の御姿に違いないわ。だって、こんなに眩い光に包まれて神々しくていらっしゃるんですもの。それに、なんて慈愛に満ちた優しい目をなさっているのかしら。
主の顔を見上げながら、アンナは嬉しさのあまり涙がこぼれてきそうだった。
その時、主がアンナの手を取って立ち上がらせた。そして、ゆっくりとアンナの手に口を寄せ、接吻をした。
あっ。
その瞬間、アンナは幸福のあまり意識が遠ざかっていき、ベッドの中で朝を迎えている自分に気付いたのだった。
その日から、アンナは夢で見た主の顔を思い浮かべながら礼拝堂で祈りを捧げ続けた。
今までは、都の大聖堂で教えられたとおりに、その姿を思い描くこともなく神に祈りを捧げていたアンナであった。
しかし、主が自らアンナの夢に現れて、その御姿をお示しになった。アンナには、夢で見たことは啓示としか思えなかった。
アンナがより信仰を深めるために、その標として、主が自らの姿を示されたのに違いない。だから、これからは夢の中で見たお顔を思い浮かべながら祈りを捧げよう。そう、アンナは心に決めたのだった。
そして、それからも毎夜アンナの夢の中に主は現れ続けたのだった。
ああ……。
夢の中、アンナは手に主の接吻を受けながらうっとりと立ちつくしていた。
そして、主の唇がアンナの手から離れる。
え?ええ!?
アンナを抱きしめると、主は、今度はアンナの口に接吻をしてきた。
「んむ、んん」
一瞬狼狽えたが、すぐにアンナは主の柔らかい唇の感触を自分の唇に感じ、恍惚として目を閉じる。
ああ、主が、私を祝福して下さっている。
その甘美な感触に、思わず我を忘れるアンナ。
そして、朝、その満ち足りた感覚とともにアンナは気持ちよく目覚める。
そんな夢がしばらく続いた後のことだった。
「ん!?んんっ!」
ある夜の夢でのこと、目を閉じて主の接吻を受けていたアンナは、自分の口の中に何か挿し入れられたのを感じ、驚いて目を開く。
すると、そこにはアンナのすぐ目の前に優しく微笑む主の金色の瞳があった。
これは?舌?
主の舌が、ねっとりとアンナの口の中を動き回る。しかし、不思議とアンナには不快感がない。むしろ、これまで以上の幸福感に満たされて、アンナの頬は赤く染まり、目は細められていた。
「ぷふぁあ」
ようやく、主の唇がアンナの唇から離れ、唾液がふたりの間に糸を引く。
主の恩寵を受けた法悦とでもいうのだろうか。そのまま、満ち足りた気分でうっとりと立ちつくしているアンナ。
「え?きゃあ!」
ふと気付くと、いつの間にかアンナの服がはだけて、おのれの両の乳房をさらけ出していた。
ああ!私ったら、主の前でなんてはしたない格好を!?
アンナは、咄嗟に後ずさって両手で胸を隠そうとする。
「あ?」
しかし、主はアンナの腕を掴み、抱き寄せる。
そして、にっこり微笑むと、主はアンナの乳房に唇を近づけていく。
「ひゃっ!ひあああああっ!」
主の唇がアンナの肌に触れた瞬間、痺れるような刺激がアンナの体中を駆けめぐった。
続いて、アンナは全身が熱くなり、蕩けそうな感覚に全身を犯される。
「ふあ、ふあああ……」
主の腕に抱かれて、目を蕩けさせがら、アンナの意識は遠ざかっていった。
* * *
「あ、あふ」
目を覚ますと、そこは自分のベッドの中。もう、窓から、朝の光が射し込み始めていた。
「やだ!私ったらなんてはしたない!」
夢の中での自分の醜態を思い出し、アンナは顔を赤らめる。それを頭の中から振り払うかのように何度か頭を振ると、アンナはベッドから降りる。
クチュ……。
男を知らぬはずのアンナの秘所から、湿った音がしているのに、アンナ自身気付いてはいなかった。
ああ、私ったら神様の前で胸をさらすなんて、なんてはしたないことを。
いつもの日課通り、朝の務めの前に水を汲みながら、アンナは夢の中でのことをぼんやりと考えていた。
でも、あの幸福な気持ちといったら。ああ。
アンナは、夢の中での蕩けるような幸福感を思い出して頬を緩ませる。
その時、アンナは人の気配を感じた。
ガラン。
その方を見たアンナは、思わず桶を取り落とす。
アンナの見つめる、その方向に立つひとりの男。
艶のある黒髪が風に靡き、金色の双眸がアンナを見つめて優しく微笑んでいた。
「え?ど、どうして?」
夢の中でしか会えないはずの主が、今、自分の目の前に立っている。
ポカンと口を開けて立ちつくすことしかできないアンナに向かって、その男が口を開く。
「おはよう、アンナ。君が毎日一生懸命祈ってくれるから、こうして会いに来たよ」
そう言って微笑む金色の瞳は、夢の中と同じ、優しげで柔らかな光を湛えていた。
「ああ、主よ」
アンナは、無意識のうちに跪き、胸の前で手を組んで、祈りを捧げる姿勢になる。
その頭に、柔らかな手のひらが乗せられるのをアンナは感じた。
「ああ……」
この感触、夢の中と同じ。
夢で感じたのと同じ幸福感に満たされて、アンナは恍惚とした表情を浮かべる。
「さあ、立って、アンナ」
男が、アンナの手を取って立ち上がらせる。
「どうしたんだい、アンナ?」
立ち上がったものの、うっとりとして男を見つめたままのアンナに、男が気遣わしげな表情を見せる。
「あっ!いえ!」
アンナは、ハッと我に返ると、頬を真っ赤に染める。
「せっかく来たんだし、しばらくここに留まって、君がどうやってここの人たちを導いているのか見てみようと思うんだけど、いいかな?」
柔和な笑顔のままで男がそう言う。
「もっ、もちろんです!さあ、どっ、どうぞこちらへ!」
アンナは、急いで水を汲み直すと、男の手を取って教会へと導いていった。
* * *
「どうぞ、この部屋をお使い下さい」
教会に戻ると、アンナは男を司祭館の来客用の寝室へと案内する。
「なにぶん、田舎の教会ですから、このような粗末な部屋しかありませんが」
「いや、粗末だなんてとんでもない。ありがとう、アンナ」
男は、部屋の中をゆっくり見回すと、穏やかな笑顔をアンナに向ける。
「そ、それではどうぞごゆっくりお寛ぎ下さい。もし、何か入り用の物がございましたら、遠慮なく私にお申し付け下さいませ」
そう言って頭を下げると、アンナは部屋を出ていく。
「さてと、もう姿を見せてもいいよ、おまえたち」
アンナが部屋から遠ざかったのを確認してから、男が口を開く。
その声に姿を現したのは、黒、ローズピンク、エメラルドグリーンの髪の3人の女。
「首尾はどうだい、ニーナ?」
「上々ですよ、シトリー様。あの人間の女、シトリー様のことをすっかり神様だと信じ込んでいます」
ニーナと呼ばれた、ローズピンクの髪の女が、目元に笑みを浮かべながらそう答える。
「そうか」
短く答えると、金色の瞳の男、シトリーは満足げに頷き、ニーナを労うようにその頬に手を当てる。
そう、いままでアンナに毎夜夢を見せていたのは、この夢魔、ニーナだった。
夢魔といっても、ニーナの能力は、夢の中で人間と交わるインクブスやサキュバスとは違う。彼女は、ナイトメア。人間に様々な夢を見させて、そこで生まれる感情や欲望を糧にする悪魔。彼女の力で、アンナは毎夜、神に祝福され、接吻される夢を見続けていたのだ。もっとも、アンナが神だと思っている相手は、実際には悪魔であるのだが。
キエーザの村に若い女司祭がいると知ったシトリーが、アンナを標的にすると定めてから考えた方法が、アンナにシトリーの夢を見させ、夢の中のシトリーを神の姿だと思いこませるというものだった。
今、天界にいる神の姿を正確に知る者はほとんどいない。天界と何度も戦争をしている悪魔も、天使の姿は知っていても神の姿は知らない。シトリーのように、かつて天使として天界にその身を置いていた者ですら、神の姿を見たことがないのだから。だが、確かに神は存在している。これまで人間たちに信仰されてきた多くの神々を魔界へと追い落とし、現在の天界をまとめ上げている絶対的な存在は間違いなくいる。
神が、なぜその姿を表に現さないのかはシトリーにもわからない。しかし、付け入るならそこだとシトリーは考えていた。
人間界で、人々を導くべき教会も、神の姿を彫ることや描くことはもちろん、その姿について語ることすら禁じてきた。とはいえ、姿の見えない理念的な存在を信仰し続けることができるのは、ごく限られた少数の人間に限られている。本来、人間の精神はそのような存在を理解し、信じるようにはできていないのだ。人間がその存在を確信するものの多くは、その五感で感じることができるものであり、言葉でしか説明できない観念的なものの存在を確信するのには大きな困難が伴う。だから、大多数の人間は、信仰のよるべとなる偶像を求めていた。信じるべきものの姿を具体的に示されると、人は容易くそれを受け入れてしまう。
それ故に、シトリーはニーナの能力を使って、アンナの夢の中に自分の姿を映し出させた。初めは彼女にただ祝福を与えるだけの存在として。そして、次第にアンナの信仰を歪めていく存在として。まだ若く、経験の少ないアンナなら、簡単に偶像崇拝の陥穽にはまるであろうと、そうシトリーは踏んでいたのだ。
そして、シトリーの読み通りに、アンナはシトリーの姿を神の姿と信じ、その姿を祈りの対象としている。ただ、今はまだ、アンナの中でシトリーの姿は、信仰する相手としての部分が大きい。
「でも、敬虔さとか信仰心とかって、あんまり美味しくなんですよね」
ニーナが言うには、いやらしい夢を見せたときの情欲や、悪夢を見せたときの恐怖といったものが味が良いらしい。
「じゃあ、これから味が良くなるように頑張るんだな」
「はい、かしこまりました」
自分の頬に当たるシトリーの手に自分の手を重ね、瞳を潤ませてそう返事をすると、ニーナは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
シトリーにはその味は全然わからないが、とりあえず、ニーナが美味しいと思うような夢をアンナが見てくれるようになることが次の段階への鍵だ。
それは、アンナの中で、信仰する神としてのシトリーの姿を、別な存在へと変化させること。
元来、宗教的な高揚感や恍惚感と、性的な快感は非常に近い感覚である。それは別に、淫祠邪宗と呼ばれるようないかがわしい宗教に限ったものではなく、古今東西あらゆる宗教に言えることである。そして、性的な快感の方が、宗教的なそれに勝るとシトリーは考えている。ひとえにそれも、両者が同質のものであるが故であろう。だから、多くの宗教が禁欲や貞潔を謳うのは、もちろん倫理的な意味合いもあるのだろうが、性的な快感によって信仰心がかき消されてしまうことを怖れてのことなのだ。
だから、強い性的な刺激を、宗教的な恍惚感と誤認させて与えてやれば、当初は信仰心から始まった行為を、性的な快感に溺れることに変えていくのはそう難しいことではない。
特に、アンナのように、ずっと司祭になるための訓練を受けていて、性的な快感を得た経験がない者なら、それを性的なものと認識できないままに深みにはまっていくであろう。
実際、もうすでにアンナはその底なし沼にはまりかけている。
「それにしても、あの女、あっさり引っ掛かっちゃったねー、シトリー」
黙って考え込んでいたシトリーに、黒髪に猫耳、紅い瞳の女悪魔、エミリアが暢気そうに口を開く。
「ああ、僕の思った通りだ。この国の教会はそんなに力が強くないな」
「と、申しますと?シトリー様?」
そう聞き返したのは、エメラルドグリーンの髪の女悪魔、メリッサ。
「それは、この国が魔法王国と呼ばれているからだよ」
シトリーがそう言っても、3人の女悪魔はただ首を傾げているばかりだ。
「この国は確かに人間界では古い歴史を持っている。それに、魔法王国と呼ばれる程に魔術が盛んで、この国にしか伝わっていない魔法もいくつかあるらしいとのことだ。だけど、それが災いして、この国は教会がそれ程発展していない。実際、都でも力があるのは教会より魔導院のようだしね。教会の力が弱いということは、教会と天界との結びつきも強くないし、聖職者の能力も低いということだ。特に、退魔や神聖魔法という面ではね。まあ、これが神聖王国と呼ばれるような国なら別なんだろうけど。ましてや、こんな田舎の教会の司祭クラスならなおさらだ」
「ふーん。それにしても、何でこんな都から離れた田舎の村に来ることにしたわけ?」
エミリアが、いまいち納得がいかない顔でシトリーに訊ねる。
「若い女が司祭をしてるところが他になかったんだよ。見たところ、あの女司祭、素質はありそうだけどまだまだ若すぎる。堕とすのは簡単そうだし、いい駒になってくれそうだよ」
「もう、シトリーのスケベ」
「どうとでも言えよ。いい年した男の相手をする趣味は、僕にはないからね」
「あの、冗談はさておいてシトリー様。エミリアの言うように、ここはあまりに辺鄙ではありませんか?」
シトリーとエミリアのやり取りに、メリッサが口を挟む。
「ああ、それもむしろ好都合だよ。これだけ都から離れていたら、僕らが少々動いても気付かれることはないだろう。いちおう、魔法王国と呼ばれる所だからね、すぐに気付かれるようなリスクは負う必要はないだろう」
「なるほど、そうですね」
シトリーの言葉にメリッサは頷く。
「だから、とりあえずは、ここで情報を集めながら拠点を作ることだ。そのためには、まずあの女司祭を手駒にする。ニーナ、おまえの力に期待してるよ」
「はーい、かしこまりました、シトリー様」
「じゃ、あたしは!?」
「エミリアとメリッサは、とりあえずおとなしくしてろ。特にエミリアな」
「ええ~!」
「当たり前だ。今気付かれたら元も子もないだろうが。だから、ニーナと僕が上手くやるまで当面は静かにしてるんだ」
「かしこまりました、シトリー様」
「もう~、しょうがないな~」
メリッサが静かに頭を下げ、エミリアも渋々ながらシトリーの言葉に従う。
「まあ、そんなに時間もかからないとは思うがね」
シトリーは、そう言うと口許を歪ませて低く笑った。
< 続く >