はじまりの頃 第1話

<<プロローグ>>

 和泉智世 27歳 主婦

 智世が夢うつつの浅い睡眠状態から覚めたのは、リビングでのゴソッという物音を聞いた時だった。本能的に腕で娘の体を探す。長女の優芽(ゆめ)の柔らかい体は、智世のすぐそばにあった。寝ている子供は体温が上がる。優芽の体はポカポカと温かかった。娘を起こさないように気を遣いながら、智世がクイーンサイズのベッドから体を抜き取って起きる。モコモコのスリッパに足を入れて、リビングへ向かった。

「………おかえりなさい………」

 智世が思っていたよりも、自分の声は鈍くて口跡がモッタリとしていた。まだ眠りが残っているような、後頭部奥が痺れたような感触。彼女は自分で考えているよりも疲れていたようだった。

「あ………、悪い………。起こしちゃった? …………一応、気をつけてたんだけど………」

「…………大丈夫………。煮物とか、冷蔵庫にあるけど、温めよっか?」

 寝間着の上にカーディガンを羽織った智世が、まだワイシャツ姿で缶ビールを開けている夫、亨(とおる)の夕食を準備しようとしたところで、止められる。

「いや………、もうこんな時間だし、明日も早いんで。このままシャワー浴びて寝るわ………。でも、その前に1本。……………あと寝る前にもう1本だけ飲ませて…………。智世は寝ててよ」

 そう言われて、ダイニングルームの掛け時計を智世が見ると、すでに深夜の1時半を過ぎていた。

「ビール2本も? …………ほんとはシャワーの後、すぐに寝ちゃった方が良いと思うけど………」

 小さくため息をつく。夫の今の仕事の忙しさを考えると、何かで頭の切替が欲しいのだろうと察しはつくので、あまり正論を続けるのは止めた。

「優芽は………寝てる? ……………今日は、いい子にしてた?」

 亨が聞く。智世はニコッと笑いながら背中を壁に預けた。

「今日、パパの絵を描いたんだよ。見せるのを楽しみにしながら寝ちゃったから、明日の朝、優芽から直接、見せてもらいなよ」

「ほんとに………。俺の絵? …………うまく描けてた?」

 夫の顔が優しくなる。智世は思い出し笑いを噛み殺しながらウンウンと、少し曖昧に頷いて見せた。尋常ではない髭の濃さを青いクレヨンで現した、前衛芸術のような似顔絵を思い起こしているのだった。

 まだ少しニコニコしながら、智世は一足先にベッドルームに戻る。優芽の体を守るような体勢で寝そべると、背中の方、廊下を隔てた浴室の方角からシャワーの音が聞こえてくる。またすこしウトウトとしていたところで、夫の亨がベッドに入ってくる。後ろから智世を抱きしめるようにして寝そべった。

「………明日、早く起きて、優芽の絵を見せてもらわないといけないからな………。やっぱ晩酌は1本だけにしとくわ………」

 夫の声を聞いて、フフッ………と智世は笑った。

「いつも、優芽のこと、ありがとな。………なかなか手伝えなくて、ゴメン」

「…………しょうがないよ。お仕事、忙しいんだから。今年から………係長さんなんだし…………」

「忙しくても、俺は幸せだよ…………。ホント」

 智世は少し考えた後で、後ろから抱き着かれたままの体勢で夫に言った。

「今日ね………亨さん。…………私、久しぶりに、…………催眠術、使っちゃった」

「………………そっか………。友だち?」

「………うん……………。4階に住んでるミッちゃん。優芽の1個下で、1歳のマー君っていう男の子がいるの」

「…………あぁ、優芽のお友達のマー君。何回か、聞いたことある」

「マー君の夜泣きが結構凄くて、全然まとまった睡眠時間取れてないって言ってて、気分も塞ぎ気味みたいだったから、私が優芽とマー君見てる間、ちょっとうちで寝ていってもらって…………、それからポジティブな気持ちを結構充填してあげて、『大丈夫』って暗示入れて、覚ましてあげた………」

「…………うん…………。良かったじゃん………。喜んでたろ?」

「………………うん…………。まぁね…………」

 しばらく、言おうか言わないでおこうか迷ったあとで、智世はもう一度口を開いた。熟睡している優芽の頭を、愛おしそうに撫でながら。

「それでね………。久しぶりに………。アキミチ君のことも思い出したの」

「あぁ…………アキミチ…………。懐かしいよなぁ………」

「あの人、今はどこにいるのかな? …………今度、あの人に会ったら、私たち、どんな話をしたい? …………優芽のことは、抱っことかしてくれると思う?」

「智世…………。今日はもう遅いから………」

 優芽の頭を撫でながら話す、智世の肩を撫でながら、夫の亨が言う。

「…………でもやっぱり、気になってくると、ぐっすり眠れない感じで………。だってアキミチ君は…………」

「智世………。『ママもネンネタイム』だよ」

「…………………はい…………。ママも……いいこで……ネンネします………」

 単調なトーンでそれだけ言うと、智世の意識は深い眠りのなかに沈んでいく。全身の力を抜いて完全にリラックスした智世の体を、夫がギュッと抱きしめた。そしてオッパイも優しく揉んだ。夫、亨の癖だった。

<<第1話>>

 高辻智世 15歳 中学3年生

「アキミチ―、いるんでしょーっ。上がるよー」

 玄関口で2階に向かって声かけた後で、高辻智世は軽快に階段を上がっていく。幼馴染で腐れ縁の同級生、和泉明道が、近所の中学1年生を家に入れているというので、興味が湧いたのだ。智世も噂は聞いたことがある。三雲亨という転入生が、智世や明道と同じ朱雀城東学園中学に転入してきたが、ずいぶん変わった子らしい。転校の理由も、家族の少し複雑な事情があるとかで、学校にも来たり、来なかったりだという………。明道がわざわざそういうタイプの子を家に呼ぶというのも、珍しいではないか。

「コンコンコン、お邪魔しまーす。…………お、………いたいた」

「・うおう………、トモヨか………。お前もどうせ、暇してんだろ」

 自分の部屋でTVゲームをしていた明道が、野太い声で返す。太い首を回して、ドアを開けたところで立っているトモヨに顔を向けた。隣で一緒にゲームをしていたのは、ヒョロッとした、中1としては背が高めの、男の子。明道の横に座っていると、その線の細さが目立っていた。その子はチラッとトモヨを振り返り、ペコっと頭を小さく下げると、まるで目線を逸らす動きを誤魔化すように、またゲーム画面に視線を戻した。

「………こいつ、三雲トオルっていうんだ。………うちの母ちゃんが近所づきあいある鵜飼さんって人から頼まれて、その家に引きこもりがちな、一年坊主と遊んでやってくれ、だってさ。………でも、遊んでやるどころか、こいつ、ゲーム馬鹿強いぜ。…………俺じゃ、全然相手になれねぇわ」

 ゲームのリモコンから右手を離して、その手で隣のトオル君の髪の毛をクシャっと無造作に触る明道。繊細そうなトオル君は、それでもそんな如何にもデリカシーのない明道の仕草を嫌がってはいないようだった。中学の柔道部で副主将を務めていた明道には、ガサツなコミュニケーション能力というか、そういった、ポンと人の懐に飛び込める、独特の間合いと無神経さがあった。

「三雲です。………こんにちは」

 ボソッと一言だけ話したトオル君。そのたった一言の声の印象が、トモヨの好奇心をいたく刺激した。少し間伸びした、高めの声。若干違和感のあるイントネーション。最初、外国人の子供なのかと思ったが、トモヨがわざわざ前まで回り込んで見てみたトオル君の顔は、普通の日本人の顔のように見える。ハーフなどでもない。

「こんにちは、高辻智世です。…………明道の、昔からの知り合いで、どっちも高校の内部推薦が決まっちゃったんで、暇してる者同士なんです」

 トモヨが愛嬌良く喋る。同じ推薦と言っても、トモヨは成績優秀者、明道は柔道の県大会での成績によってと、それぞれ事情は違う。けれど夏休み明け早々に特別推薦を勝ち取れたという意味ではどちらも暇を甘受出来ている身分ではあった。彼らの級友たちの多くは、学園外の他校への受験の準備や、内部進学のための試験勉強が冬まで続く。部活も終わって、急に暇になったという意味では、やはり「腐れ縁」というのは確かにあるのかもしれない。

「………って、自己紹介だけやってても芸がないんで、ゲームで歴然とした腕前の差がわかっちゃったところで、もうちょっと違うこともやってみませんか? これ、最近の私のブームなんです」

 頭を下げつつ持って来た本を両手で掲げて、ズズズッと膝で押し寄せてくる。これがトモヨの「営業スタイル」だ。本には「心理テスト」と書かれていた。

「…………女子って、そういうの好きだよな? 占いとか………」

「いや、心理テストと占いは、全然ちがうからっ」

 トモヨの言っていることは正しい。心理テストには学術的、臨床的なものから、遊びに類するものまで差はあるものの、一応、多くは心理学の何某かの学説に基づいてはいる。そしてその、「心理学」こそは、トモヨが将来、大学で勉強したいと思っている、興味の的なのだ。高辻智世15歳。趣味は心理学と人間観察。将来の夢はカウンセラーだった。

「いや、トオル君。これ、心理テストって、恋占いとか血液型診断とかとは別物だよ? ………結構真面目な内容と、遊びと、バランスが良いんだよねー。この本。…………ゲームに飽きたら、ちょっと読んでみる?」

 トモヨの呼びかけに、トオルは顔を向けなかった。ゲーム画面をずっと見ている。無視されているかと智世が判断する直前に、トオルが目を画面から逸らさずに答えた。

「読み上げてもらっても良いですか? ………僕、本の文章を読んでも、あんまり頭に入ってこないんで………」

 その喋り方のトーンは、やはりどこか違和感を感じさせる。何か、自動翻訳機が翻訳後の日本語の文章を人工音声で読み上げているような単調さと、時折はいる、不自然な節回しのような音の高低が、智世の興味を増した。

「じゃ、さっそく行ってみましょう」

 コホン、と智世が咳ばらいを1つした後で、本に書かれたテストを読み上げる。

「貴方は今、綺麗な公園のベンチに座っています。自然に包まれた、とても心地の良い、公園………。空には色鮮やかな青い鳥が、美しい声で鳴きながら貴方の上を飛んでいます。その素敵な青い鳥が、ベンチの近くにある大きな木に、舞い降りて来ました。さて、その青い鳥は、大きな木のいったいどの部分にとまったでしょうか?

 1) 木の一番上

 2) 木の枝

 3) 木の根元の部分

 さぁ、どこだ? ………最初に思い浮かんだ部分を、あんまり深く考えないで良いので、正直に答えてください」

「木の枝っ!」

 明道が歯切れ良く答える。智世は「お前の答えはどうでもいい」という顔を一瞬、腐れ縁の幼馴染に投げつけた。が、すぐにニッコリ笑顔を作って、トオル君を見る。

「…………とまりそうだったけど、結局、とまらなかった………っていうのが、僕の一番自然なイメージなんですけど、1から3のどれかで選ばなきゃいけないですか?」

 また少し、変わった話し方で質問してくる。智世が「ごめんなさいねぇ~」という笑顔を取り繕うと、しばらく間を空けたあとで、ポンと答えを出した。

「木の一番上に一瞬止まったと思ったら、根元に降りて来て。そこにしばらくいたので、3ですかね」

 智世はうっかり、亨君の話に聞き入っている自分に気がついた。この少し間伸びしたような、高い声と独特の節回しは、最初は微妙な違和感があるものの、聞きこんでいると癖になるというか、頭の中にスーッと入ってくるような聞き触りがある。

「そっか…………。はい。なるほど。なるほど。ちなみに私は、青い鳥は木の根元にとまった、って回答をしました。……………で、結果は…………。青い鳥は、自分と人との関わり方を象徴しているんだって………。で、1番の『木の一番上』を選んだ人は、受け身で、友だちとか周りの人たちに、自分を引っ張って欲しいと思ってるんだって。で、2番目の『木の枝』にとまったって回答する人は、誰に対しても対等に接しようとするタイプ。他人を引っ張りすぎもしないし、ついていくだけって訳でも無い。意外とバランスがとれたタイプなんだって」

 ウンウンと、腕組みして両目を閉じた明道が隣で頷いている。いつの間にかゲームを一時停止させていた。………こいつはいつも、自分に都合の良い話だけ、のってくる。

「トオル君、隣のお兄さんは無視してて良いからね。…………えっと、で、3番は、自分が他人をリードしていきたいタイプなんだって。だから、私とトオル君は、実は同じ、リーダータイプっていうことになるのかな?」

 智世が解釈を説明すると、明道とトオル君は少し驚いた表情を見せた。智世も、この、控えめな転入生の男の子が、『リーダータイプ』という答えを口に出したのは、意外だったのだ。

 もっとも、人間の類型はそんなシンプルで一面的なものでもないし、現実にはリーダーにはリーダーの数だけ個性がある。これはあくまでも、遊びの延長のような「きっかけ作り」に過ぎない。それでも、こういった遊びを通じて、「自分の意外な一面」について考えてみたり、他人と話し合ってみるというのは、結構良いモノだ。そう思っている智世は、他にもいくつか、質問を出してみた。

 ・無人島に連れて行くための船に4種類の動物を乗せるなら、どの順番か?

 ・海で見つけた、漂流している古い帆船の中に保管されていた宝箱の中身は何か?

 ・ある島についたら、そこは無人島ではなかった。島に住んでいる原住民の人と友達になって、お互いに大切な持ち物を1つだけ交換しようということになった。さて、何をあげて、何をもらったか?

 それぞれ回答には解説が載っているけれど、これはあくまでも「解釈」の1つだ。ウマならウマが現代社会の文化のなかで共通で持たれている「象徴性」はあるはずだが、それも日本人が思い浮かべるウマの存在とアメリカ人やヨーロッパ人の思い浮かべるウマも、少しずつ「文脈」が違うはずだ。そして当然、ウマが好きな人、大きな動物が苦手な人、ギャンブルのイメージで思い浮かべる人、馬車のウマの勤勉さとタフさを考える人、牧場でのんびりするウマを思った人、同じ社会にいても個人差は果てしない。だから、智世は答えに書いてある解釈を押しつけるというよりも、それを聞いて、答えた本人がどう思うか? どう当たっていると思うか、どうして外れていると思うか、それを語ってもらうようにしている。いつの間にか、3人は向かい合って座っていた。明道は完全にゲームの画面に背を向けて智世の話を聞いている。

 短い時間の間に、ずいぶんと色々な話をした。智世が、まず残りの2人をリードするように、自分の「テスト結果」に対してどう思うか、特に違うと思う時に逆に自分では自分をどんな人間だと思っているか、その思いを強めるきっかけとなった出来事や自分の行動の思い出などあるか、積極的に語った。すると単純な明道がポンポンと、今度は明道自身のことを話してくれる。やがて、その2人のペースを見ながら、ボソボソと、トオル君も思ったことや、思い出したことなどを、話してくれるようになった。智世は出会ってから1時間半くらいのうちに、ずいぶんとこの三雲トオル君という、謎めいた、控えめな男の子に対しての理解が進んだような気がした。

 智世から見て、三雲トオル君という子は、突き詰めると、いたって普通の子だ。友達を欲しがっているし、出来た友達は、とても大切にしようとしている。自分の苦手なことは悩みに思っているし克服したいけれど、自分の得意なことは伸ばして、人の役に立ちたい、人に褒められたいと思っている。とても健全なことだと、智世は思う。

 そして同時に、話をしていくなかで、将来カウンセラーを目指そうとしている高辻智世が、気がついたことがあった。

 トオル君はおそらく、学習障害を持っている。『読書障害』と、若干の『聞き取り障害』。発達障害のいくつかの症状とも結びついている。けれど明道が見抜いた通り、頭は抜群に良い。小学校卒業が1年遅れたのも、引きこもりがちだったこと以上に、先生がそのことを的確に見抜いて適切な指導とサポートを与えられなかったことのせいかもしれない。

 彼は、本を読んで理解することに人よりも集中力が必要で、言葉の聞こえ方も不安定なようだ。これは難聴とか字が読めないということではなくて、脳の中でそれらの情報が整理されていく過程が、少し他のこと違うプロセスになっているということ。けれどそれを補うために、人が喋る時にその声の揺らぎや呼吸、表情や仕草、ほとんど無意識にその人が出しているシグナルを巧みにキャッチして、「言葉の理解」を補ってきたのだった。トオル君の話し方に少し特徴があるのも、そもそも言語獲得期に「聞こえ方」が他の子どもたちとは違っていたのかもしれない。

「ちょっと喋りすぎて、喉、かわいてきたね。………何か、飲み物、持ってきていい?」

 智世はトオル君のこれまでの苦労を思いやると、胸が詰まるような思いがして、少し休憩をとらせてもらうことにした。中学校に入ってからは来ることが少なくなった明道の家だが、大体の様子は昔と変わっていない。1階のキッチンへ行って、冷蔵庫からレモネードの紙パックを出して、グラスを3つ、探し出した。

 。。

 和泉明道 15歳 中学3年生

「ごめんな、急に変なの押しかけて来て………。でも、悪い奴じゃないだろ? ………女子っていっても、男っぽい性格だから、あれこれ気にして話す必要ないし。………それにしても、トオルとトモヨが、心理テストであんなに答えが一緒になるの、びっくりしたな。お前とそんなによく似た性格だとは、思わなかったよ」

 明道が声をかけると、トオルはあまり表情を変えずに明道を見つめ返した。答えに困っているというよりは、何と伝えれば、明道が理解してくれるのか、答え方を考えている、先生のような表情だった。

「いやあの………。それは僕がわざとトモヨさんの答えに合わせてみたり、トモヨさんが選びそうな答えを先取りして、答えてたから、よく一致しただけだよ。………嘘ついてだましたことになっていたら、ゴメンね。………基本的には答えが同じ人に、敵意を持ちにくいから、合わせておけば、意地悪されたりしないって思ってるから」

「へ? ………お前わざと、トモヨの答えに合わせにいってたの? …………そんな無理して、その後で答えの理由とか自分のエピソードとか、合わせるのがメンドくない? …………なんかわかんねぇけど、お前、凄いなぁ、やっぱ」

 明道が手をグーにして、かるくトオルの肩に触れる。威圧するような素振りは全くなかった。ガサツだけれど、人とのコンタクトに抵抗がない男子なのだ。

「たぶん、トモヨさんだって、微妙に自分の答えを取り繕ったり、無意識のうちに変えたりっていうことは、しているよ。みんなそんな、アキミチ君みたいに真っ正直には答えられないよ」

「へ? ………マジで? …………ってことは俺だけ本音を曝け出してんの? …………ヤバいかなぁ………」

 フフッとトオルが笑い声を出した。顔の表情はまだ少し、ギコチなかったけれど、明道の家に来たばかりの時よりは、いくぶんか解れた表情をしていた。

「明道さんにはそれが良いんだと思うよ。………でも、トモヨさんが『男みたいな性格』っていうのも、また、本当の本当とは、違うかもしれないし………。皆、自分でも知らないうちに嘘をついてるんだよ」

「じゃ、心理テストなんて意味ないよって、言ってやったらいいじゃん。………トモヨに気を遣って、お付き合いする必要ないぞ?」

 トオルはまた、明道の顔をマジマジと見つめた。

「いや、………なんかちょっと、ヒントは色々ともらったような気がしたから、あれはあれで、面白かったよ。でも、やっぱり本当に近い答えを探ろうとするなら、与えられた選択肢の中から選ぶよりも、自分で話した方が、本当への近道なんじゃないかなぁ? …………例えば…………」

 トオルがそこまで喋ったところで、明道の部屋のドアが開く。トレイに3つのグラスと、レモネードの紙パックを乗せた、明道の幼馴染、高辻智世が入ってきた。

「お待たせ―。………なにか、盛り上がってる? ………やっぱり、ただTVゲームを何回戦も続けるよりも、こういうのも会話が進んで、面白いでしょ?」

 トオルが今まで一番の笑顔を作って見せて、智世へ向けて頷いた。レモネードを飲みながら、トオルと智世が会話をする。

「さっきの心理テストの続きのお題を、自分で考えてみたんだ。智世さん、最初の回答者になってくれる?」

「えー、なに? ………面白そうっ。トオル君、すごいクリエイティブじゃん」

「まだ出来たばかりの心理テストだから、洗練されてないんだ。長いし、答える人の集中力とか想像力がすっごく大事なんだけど、手伝ってもらえるかな?」

「もちろんっ」

 素直な智世はレモネードをグラスの途中くらいまで飲んだ後で、トオルの前、座布団の上に正座した。トオルが説明する光景を、目を薄く閉じて一生懸命イメージしているようだ。

「一番最初に出た問題、青い鳥。あの青い鳥に貴方はなっています。すごーく青くて綺麗な空を、自由に、気持ち良く飛んでいます。あまりにも飛ぶのが楽しいので、ずっと飛び回っていたら、さすがに疲れて来ましたね………。とても大きくて高い木があるので、そこにちょっととまって、休ませてもらいましょう。たかーくて、おおきーい木の、一番上、先端の先端に生えている葉っぱの上に、チョンッと止まります」

 薄目のままの智世が頷いた。

「じゃあ…………。その木は全体としてドッシリとしたとても力強い大木ですが、先端の方は、緩やかな風に揺られて、右へ左へと、ゆったりと揺れます。ほら、ゆーら、ゆーら。とても心地よい揺れですね。疲れた貴方は鳥の体の全身をその木の先端に預けて、一緒にしなやかに心地良く、揺れていきます。ほら右へ………。左へ…………。ゆーら、ゆーら。………すると貴方が乗った葉っぱが、重みと揺れのせいでプチッと茎からちぎれて、ユラユラユラと風に乗りながら降りていきます。貴方の体ごと降りていく。木の枝の股の部分には穴が空いていて、なかの空洞に入っていきますよ。古い木なので、内側は空洞がポカっと出来ています。でもところどころ穴から光が差しているし、中は温かくてとても心地が良い場所だから、心配は要らない。そこにゆっくり、深~く降りていく。鳥さんは人間と比べると記憶力も思考能力もずっと容量が小さいから、僕の言葉を理解することだけでも精一杯ですね。それで良いですよ。僕の言葉を聞き取ることだけに集中して、他のことは全部気にしなくて良いです。ユラユラユラ、どんどん降りていく。ユラユラユラ。とっても深いところ………。気がつくと貴方は、木の中の空洞にある、お部屋の中にいました。外からは見られることもないし、他の鳥に攻撃されるようなこともない、絶対に安心できる部屋です。温かくて少し薄暗いけど、とても落ち着く、安心の部屋。わかりますね? ここは智世さんのためのお部屋です」

 最初はトオルの言葉に従って、右に左にと体を小さく揺らしていた智世が、だんだん自分から揺れを大きくしていく。頭も左右にグラグラする。揺れすぎて倒れないように、トオルが彼女の両肩の近くに手を構えて、時々支えてあげていた。それも智世は薄く瞼を閉じたまま、当たり前のように受け入れている。

「可愛らしい青い鳥の貴方は、木の中の部屋にある、椅子のような木の節に両足を乗せて立っています。ここではどんなことも、正直に、素直に、自由に話すことが出来ます。鳥さんの脳は大きさに限りがありますから、思い出して話すことだけで精一杯。答えが他の人にどう聞こえるかとか、これを知られたら良くないとか、恥かしいとか、同時に考える余裕はないんです。だから貴方は聞かれたら何でも正直に、思ったことを話します。そうですよね?」

「…………はい………」

「……………智世さんには今、好きな男の人はいますか?」

 トオルがいきなり直球を投げたので、明道はちょっと驚いた。こんな積極性を持っているとは思っていなかったからだ。

「……はい……います…………」

「それは………恋愛という意味での、好きな男の人で良いですか?」

「…………………はい………」

 智世の頬っぺたが少し赤くなった。明道の両肩が緊張でせり上がる。こうやって改めてみると、やはり高辻智世はなかなかの美少女だ。眉毛がちょっと太めだが、両目がクリっとしていて鼻筋が良く通っている。整った顔立ちに、いつもは強い意志のこもった瞳が印象に残る。その瞳が今は閉じられているせいで、より綺麗な顔と女性らしさが増してきた体つきに目がいく。

「それは……………アキミチさんですか?」

「……………違います…………。アキミチは、ゴツイし、…………毛深いし…………。ガサツで、ちょっと馬鹿だから…………。大事な幼馴染みだけど…………、好きっていうのは………」

 両肩が下がると同時に、明道の口から、深い溜息が出た。

「そうですか………。では、智世さんが好きなのは、誰ですか?」

「…………………………」

 しばらく、沈黙が明道の部屋を包む。明道は、焦れて、このやり取りを止めさせようかと思った。

「…………滝田君です………。生徒会長……の……」

 それを聞いていた明道が、2回、コクコクと頷く。何となく、そんなような話は、智世の口からポロっと出たのを聞いたことがあったように、思えてきた。明道はいつも、こうしたことにアンテナが低いのだ。

 トオルはあまり表情を変えずに、明道と智世の顔を順番に見比べている。

「それで、智世さんは、生徒会長の滝田さんに、貴方の思いを、いつか伝えるつもりですか?」

 トオルが聞くと、またしばらく、沈黙が生まれる。

「…………………………………いえ……。滝田君には、長峰さんがいるし…………」

 生徒会の会計だった。綺麗で聡明な子だ。明道はその2人が付き合っていることすら、しらなかったのだが。

「………私のは…………片想いというよりも…………ただの………憧れみたいなものです…………から………。滝田君も………言われても、困るだけですし………。言いません」

 トオルが明道の顔を改めて覗きこんだ。「ほら、皆、本音は隠しているでしょ?」とでも、言いたそうな雰囲気が、明道にも(めずらしく)声に出さないうちにも聞こえてきた。

「はいっ…………。智世さん。心理テスト、おしまいです。ご協力ありがとうございました~」

 流れをぶった切るように、トオルが智世の両肩をボンボンと叩く。寝起きのような顔をして目を開けた智世は、しばらく何が起きているのかわからないといった様子で、ボンヤリと周りを見回していた。そして、徐々に表情がハッキリとしてきた。

「ふぁ………………………。……………え? ……………なに? …………ちょっと、…………ヤダッ…………。嘘でしょ?」

 真っ赤な表情になって、両手で、上気した頬を包む智世。明道を見た時に、「うわ、やらかした」とばかりに顔をクシャクシャにした。

「やだぁ~。なんでこんなはなし、明道なんかの前で…………。…………トオル君っ。今の、心理テストじゃないでしょ? …………これ…………。すごい………変だよっ」

 智世は両手を胸の前で交差するようにして両肩を掴んでいた。自分をガードするかのように。トオルによって簡単に引き出された「本当の自分」の答えを思い出すかのように、身を捩って恥ずかしがる。

「なんで私さっきは、あんなに簡単にベラベラと秘密のこと…………。…………う゛う゛――――」

 智世は横にいる明道を睨みながら、ケモノのように唸った。まるで、トオルに向けるべき怒りを、吐き出しやすい明道にぶつけてきているようだ。

「おっ………俺、関係ないだろうが…………。お前が自分で、滝田がどうだの、長峰がどうだの………」

「もう言わないでっ………。忘れて、忘れてっ……………あぁあああああーーー聞こえないですっ」

 智世が両手で自分の耳を叩くようにして、何も聞こえない状況を作る。結局、彼女が落ち着くまで、10分くらいのインターバルが必要になった。

。。

「あのさ…………、さっき、トオル君の話を聞いて、言われたことを頭の中でイメージしているうちに、なんだか頭がボーっとしてきたんだよね。それで気がついたら、普通だったら言いたくないこともスラスラ話してたの。………あれって、トオル君、狙って出来るの?」

 智世に見つめられて、トオルがまじまじと彼女の顔を見返す。

「いや………。なんか、誰でもあると思うんだけど。なんかリラックスして、こっちの話をよく聞いてくれたり、色々落ちついて話してくれるようなモードというか心のスポットみたいな…………。あるでしょ? …………わかんない…………。僕もよく、わかんなくなってきた………」

 トオルも話をしているうちに要領を得なくなってきて、少し苦しそうに胸の当たりをギュッと握って頭を掻き始めたので、智世が落ち着かせる。人の世話をしているうちに、智世の方は完全に落ち着いたようだった。

「レモネード、ゆっくり飲んで。………ゴメンね。トオル君を責めてる訳じゃないの。………ただ、私にはすごく新鮮な体験だったから、色々と気になっただけ。…………ゆっくり飲んで、あとで深呼吸しようよ」

 喉仏を動かしてレモネードを飲み干し、深い呼吸をすると、トオルも落ち着いた。なんだか初めて会ってから2時間ちょっとの間に、トオルと智世の間に、信頼関係が出来上がりつつあるように見えた。

 トオルが小さい頃の話をもう少し踏み込んで説明する。離婚してしまったトオルの両親。母親はトオルが小学校低学年の時に、心のバランスを失いやすい時期があったらしい。そうした体質は、もしかしたらトオルの在り方にも影響を与えているのかもしれない。けれどこれが遺伝なのか、それとも後天的に症状が誘発されるのかは、お医者様にも簡単には言えないことのようだ。トオルは小さい頃から、母親の様子が変わりそうな瞬間のシグナルには凄く敏感になっていて、彼女が落ち着くような話し方、接し方を、子供ながらに色々と工夫して試して来たようだった。そして、いよいよお母さんがしんどそうな時は、彼女が『落ち着く』呼吸のリズムやリラックス出来る体勢、環境、そして『意識のポジション』にそれとなく誘導する。そこでお母さんに安心してもらえるように伝えると、そのあとしばらくは、お母さんの感情がとても安定したそうだ。

「今はもう、母さんも治療が終わって、とても落ち着いているんだけど、その間にも父さんとも色々あったから、良くなったところで一度、離婚をしようってことになったんだ。僕は、伯父さんの家に預かってもらうことになった。まぁ、それは良いとして、その後は、母さん以外にも、知り合いとか従兄弟に、何回かだけ試したことがあるけれど、やっぱりさっきの智世さんみたいな、『リラックスして心が開かれた』ような状態には、連れていくことが出来たよ」

 トオルはそこまで話して、もう一度、頭を? いた。どうやら、ここまで話すつもりではなかったようだ。それでもさっきまでよりも、今のトオルは穏やかな表情になっているように、明道には思えた。そんなトオルに、智世は真っ直ぐな視線を返す。

「あのね、トオル君。………それって、『催眠誘導法』の一種なんだと思うの。催眠。………わかる? ………催眠術」

「え? あの五円玉に紐付けて、ブラーンって………」

「アンタは黙ってて」

 智世が明道を遮る。心理学に興味を持っている智世の目は、真剣だった。

「ん………と。催眠術………は、聞いたことがあるけど。僕は、本とかはほとんど読まないから、………あんまりわかってはいない………と、思う」

 トオルの答えに智世が頷く。

「うん。催眠術って、皆、名前は聞いたことがあったり、テレビやマンガに出てきたりして、何となく現象とか存在自体は知ってるけれど、本当に実態をきちんと理解してる人って、少ないものだよ。私ね、家に2冊くらい、本を持ってるから、明日、どんなものか、説明してあげるね。きっと君がさっき見せてくれたものに、繋がるものがあると思うんだ」

 好奇心に火がついたのか、さっきの暴露のことはすっかり気にならなくなったように、智世がトオルに向かって距離を詰めた。

「お願いっ。トオル君に催眠術って、教えてあげたいの。明日また、付き合って。同じくらいの時間に、ここの部屋でいいからっ」

「いや………俺の部屋………」

 ボヤいている明道を尻目に、トオルに対して拝むように両手を合わせる智世。トオルも勢いに気圧されたのか、多少戸惑いながらも、首を縦に振った。

「ありがとうっ。私、トオル君、絶対才能あると思うから、明日、本も持って来るね。………ちょっと予習もしておきたいから、そろそろ帰るねっ」

 凄い勢いで、ドタバタと帰り支度を始める智世。その様子を、トオルは穏やかな笑顔を作った顔で見つめていた。

「じゃ、帰るわ。また明日っ」

「あの、智世さん、ちょっと待って」

 トオルが一言、智世を呼び止めた。目をパチパチさせながら、振り返る智世。

「もう一回、聞かせて欲しいんだ。…………改めて気持ちの良い公園で空を見ていたら、青い鳥が飛んできた。大きな木のどこにとまったと思う?」

 智世はその場で考え込むように、黒目を上にあげて、「んー」と唸った。

「木の、先っぽかな? ………一番上の、先端部分」

 それを聞いたトオルが、ニコッと笑った。

「うん。じゃ、明日4時半にここで会おうか」

「………うん。……そうだね」

「4時半だよ。遅れないようにね」

「うん。わかった。…………気をつけるよ」

 年下のトオルが、若干強めの態度を見せても、智世は素直に頷いた。そして、来た時よりも少しだけ行儀よくお辞儀をすると、明道の部屋を、そして家を出て行った。

「………面白いね。プログラミングみたいに、式を逆転させることも出来るんだ」

 トオルが、智世の出て行ったドアをまだ向いたままの姿勢で、隣の明道に声をかけた。歌うみたいに話したので、明道は最初、それが自分にかけられた声だとは気がつかなかった。

「………プログラミング? ………逆転? ってどういう意味だ?」

「…………………………思ってることとか性格が、心理テストで象徴性のあるイメージを経由して露呈するっていうだけじゃなくてさ。象徴性のあるイメージを与えることで、逆に相手の考えとか、行動に影響を与えることも出来るっていうことも有り得るんだな、って思って。だからちょっとだけ、面白かった」

 トオルがゆっくりと明道へ顔を向けて、ニッコリと微笑んでみせた。けれど明道には、トオルが言っていることの意味は、ほとんどわからなかった。

。。。

 高辻智世 15歳 中学3年生

 次の日、智世は、分厚い本を2冊持って、和泉明道の家をまた訪れた。昨日と同じように明道と三雲亨君がTVゲームで対戦をしていたが、今日は智世が来るとすぐにゲームを中断して、向かい合うように座布団の向きを調整した。

「あっ。今日はちょっと座布団じゃなくて、そっちの椅子を動かしてもらっても良い? ………催眠誘導法ってね、出来るだけリラックス出来る体勢とか環境を整えた方が、導入がスムーズなんだ」

 すでに智世は先生口調になっている。昨日の夜、これまで本棚の骨董品のように並んでいた催眠術の本を、しっかり読みこんで来たからだ。

「今日はね、催眠状態っていうものの、原理と基本的な導入法を教えてあげたいの。たいていどこの図書館にも探せば1冊くらいはあるし、どんな催眠誘導法教本にも書いてあるような初歩的なことだけれど、トオル君は本からだと理解が相当大変みたいだから」

 一番最初に、フロイトとユングの話を簡単にさらっただけで、明道が寝た。まだ催眠術の話に辿り着いてもいなかったのだが………。そんな幼馴染を無視しながら、智世はトオルに、『表層意識』と『深層意識』という概念と、その2つが混濁して併存する、『変性意識』という状態の説明をした。トオルは智世が想像した通り、いや、想像以上にスムーズに智世の説明を咀嚼する。それどころか、その周辺にある、まだ教えていない話まで先回りして理解した。素の頭脳が優秀なこともあるだろうが、もともと彼の体験や体感していたことなどが、言葉で綺麗に整理されていったということもあるのだろう。表情1つ変えず、乾いたスポンジが水を吸収するように、智世の説明を取り込んでいく。

「じゃ、理論的な説明はこのへんにして、ちょっと試してみようか? …………おい、明道………。ちょっと起きてよ。ほら、一点凝視法って試すから、これ、このペンライトを見てよ」

「…………ふぇ?」

「このペンライトの光をジーっと見て。この光を見つめているうちにどんどん周りのことが気にならなくなってくる。私の言葉への集中力がスーッと高まるよ? …………ほら、右手がだんだん、軽くなってきたんじゃない? フワーっと上に上がる。どんどん上がっていくでしょ? ………………上がらないの? ……………なんでよ………」

 智世は溜息をついて、腹いせに明道の肩をギュッとつねってやる。今まで熱をこめて説明してきただけに、それが現実には実践出来ないとなると、失望も大きかった。

「智世さん………多分、言い方のペースというか、タイミングの取り方が良くないと思う………。あと、暗示の順番も………。最後に、暗示は疑問形でかけない方が、効きやすいと思うんだ。…………ちょっと良い?」

 トオルが智世の体をソーっと押しのけるようにして場所を変わる。椅子に座った明道の真正面に立つ。

「………こんな感じで、ペンライトは明道さんの目の高さよりも、少し上に掲げた方が良いんじゃないかな。………それで、ほら、人間の眼が、上を見ていると疲れやすいから、ほら眼球がちょっとプルプルって震える瞬間があるでしょ? 明道さんの呼吸も、息を吐いている時より、吸ってる時の方が、話を取り込んでくれやすいと思うんだよね。………だからそのタイミングさえ合わせれば…………。アキミチさん、ペンライトを見たまま、右手を前に伸ばして………。そう、はいっ。伸ばした右腕が曲がらなくなったよ。ほらっ」

 トオルが肘の外側をギュッと握ると、明道の太い腕にも力が入る。その次の瞬間にトオルが「曲がらない」と宣告して手を離す。離した後でも、明道の右腕は、ピンと伸び切った状態で真っ直ぐ、丸太のように床と水平に伸ばされていた。

「え? ……………うおっ…………マジだ」

 明道が間抜けな声を出すので、智世は興奮して駆け寄った。トオルにかわって、明道の前に立って、彼の右腕を何とか曲げようと試みる。ピンと伸び切った腕は、それこそ一本の鉄の棒になってしまったかのように、関節で曲がることはない。少しだけ、何となく腹が立ってきて、智世は関節を逆に曲げてみようとする。

「いててっ…………おいっ。それ逆だよ。………お前、柔道部の副主将に関節技かけようとしてんのか。………良い根性してんな………」

「いや………。あんまりにも、普通に肘が曲がんないから、ひょっとして逆にだったら、すんなり曲がらないかって思って………」

「んなわけ、あるかっ………」

 明道と智世がモメている間に、トオルは隣の部屋から、もう一脚の椅子を持って来た。

「智世さんの力で、明道さんの腕を曲げられないのは、普通だよね。男女の力の差もあるし、明道さんはこんな体格だし………。なんなら、演技の可能性もある。………じゃ、智世さんの腕が明道さんにも曲げられなくなるのか、試した方が良くない?」

 トオルがニコニコしながら、手を空いている椅子へ向けて開いて、智世に座るように促す。確かに、トオル君の言っていることは、説得力があるように思えた。智世は、明道を、一度眉をひそめて見た後で、隣に設置された椅子に座った。彼女が実践してみせたよりも、トオル君が試してみた方が、うまくいく………。それは、喜ばしいような、ちょっとだけ悔しいような、複雑な思いを彼女に与える展開だった。

「このペンライト、………よーく見てね。だんだん……この光が……貴方の視界を占拠する。…………この光の他には………そう、僕の言葉のことしか、気にならなくなってくる。智世さん、体の力を抜いて…………。ほら、腕がもう曲がらない。一本の鉄の棒に変わったよ。真っ直ぐな鉄の棒。もう全然曲がらない。力を入れてもびくともしない」

 トオル君がしたことは、智世の肘をちょんっと触っただけだった。それなのに、ピンと伸ばされた智世の右腕は、明道の腕と同じように、真っ直ぐ前に掲げられたまま、肘を曲げられなくなっていた。智世は自分の体が暗示の通りになったことに、新鮮な驚きを感じていた。

「う………ん………。曲がらない…………かも……」

 智世が思いっきり肘を曲げようと、力を入れる。腕がプルプルと震える。

「………というか、力の入れ方も分からない。なにしろ肩から先にあるのはただの鉄の棒だから」

 トオル君が一言、念を押すように囁くと、さっきまで震えていた右腕が、もう完全に折り曲げ不可能の冷たい鉄の棒に変わってしまったような気がした。隣の明道が自分の右腕の暗示を解いてもらって、立ち上がる。智世の腕を曲げようと、力を入れるけれど、ビクともしない。

「………う………ん………。これ以上、無理すると、折っちゃうな………。やめとくか」

「……当たり前だろ。………やめとけよ」

 智世が低い声で明道を叱る。

「はい、智世さんの右手は僕が両手を叩くと、一気に力が抜けて、元の腕に戻るよ。柔らかく曲がるようになる。痛くもない。…………ほらパチン」

 智世の腕が、トオル君の手を鳴らす音と同時にリラックスして、すんなり内側に曲がる。智世が何回か腕を曲げたり伸ばしたりする。その後で、感想を言おうとトオルを見た時には、もうトオルは次の暗示を入れるために口を開いていた。

「ほら、その腕が今度はフワーっと上に上がっていく。風船を括りつけられたみたいに、自分の意志とは関係なく、上に上がる。そう、もっともっと。どんどん上がる」

「………あ………これ、ホントだ。本に書いてある通りじゃんっ。凄いよトオル君」

 右手を天井へ向けてピンっと伸ばした状態で、智世が興奮気味にトオルに話す。明道が智世の右腕を手首のところで握って、膝まで降ろさせてみる。手を離すと、彼女の右腕はまたスーッと上へあがっていく。何度か、その動きが繰り返される。

「………おい……、玩具じゃないぞ………」

 智世が明道に言ったところで、明道が手首を掴んで途中まで降ろさせていた腕を、今度はトオルも持って、膝よりも下。椅子の足が座面の裏に繋がっている部分まで引っ張る。

「智世さん、今度はこの椅子の足をギュッと握ってみて。………はい、パチンッ。僕が手を鳴らしたから、右手が椅子から離れなくなったよ。…………ついでに左手もこっちで、はい、パチンッ………ね? ………両手が椅子から離れなくなった」

 智世は何か言おうと思ったのだけれど、口を開いても言葉がすぐには出てこなくて、パクパクさせただけだった。初めての実戦練習で、トオル君はこんなにも見事に、理論通りに智世に暗示を入れることが出来たのだ。身を乗り出して、彼のセンスを褒めちぎってやりたくなった。ところが、乗り出そうとした智世の体はトオル君に肩を押されて、椅子の背もたれにギュッと押しつけられる。

「はい、今度は背中が背もたれにくっついた。超強力な接着剤で固められちゃった。お尻も、椅子に接着されちゃった。もう、椅子から立ち上がることは絶対に出来ないよ。………試してみて………」

 両手で椅子の足を掴んで背中を背もたれ、お尻を座面にピタッとくっつけたまま、智世の体は椅子に固着されてしまった。起き上がろうとしても、全身が逆らって、まるで動けない。

「……………おい………マジかよ…………。これ、…………トモヨが本気で嫌がることとか、したら、解けたりするのかな?」

「…………例えば? …………試してみようよ」

「…………おい、………私に選択肢は無いのかい………」

「例えば…………その、………智世がオッパイ触られるとか………」

「アンタ、いい加減に、調子に乗んのやめなさ………………え?」

 智世が絶句する。あまりにも自然に、トオル君が智世の胸元に手を伸ばして、智世の右胸を、ムニュっと揉んだからだ。唖然とした表情で、智世は年下の男の子を見上げる。彼の顔にはイヤラシイ表情はなく、純粋に好奇心で智世の反応を観察しているような様子だった。

「………やっぱり、動けないみたいだけど?」

「お…………お前、マジで智世の………」

 トオルは「それがどうしたの?」という顔を明道に見せたあとで、ムギュムギュと、智世の胸を、無遠慮に揉む。胸の内側から痛みが走って、智世は顔をしかめる。トオルは明道の方を向いて左手を上に上げながら両肩をすくめた。その瞬間、智世が必死で動かそうとしていた右手が、痺れが薄まるようにして、少しずつ自由を取り戻していくような感触があった。智世はその右手を何とか胸元まで上げて、ピシャッとトオルの手を払いのけた。トオル君は驚いたような表情で、智世を見返した。

「変なイタズラは止めるように………。催眠術っていうのは、相手が絶対に嫌だって思っていることは、させられないんだよ」

 智世が右手以外はまだ椅子にくっついたままの状態で、なんとかそこまで言い切った。トオル君は、智世にかけた残りの暗示を解除してくれた。

 アイスティーを飲んで、休憩している智世。さっき起きたことを、自分の中で整理するのに時間がかかっていた。「その教本の作者の人は、多分誰かに教えてもらったことをとの通りに実践してきたか、覚え違いをしたままでやってきて、昔の知識だけで書いたんだと思うよ。暗示の文章のことしか書かれていなくて、タイミングとかトーンとか、多分もっと大事な要素が抜けてるし、暗示の順番だってきっと、腕が固まる、力が抜けたら次に上に上がるっていう順番の方が、人間の生理にあってると思うし」トオル君はまるで歌うような節回しで、こともなげにそう言ってのけた。彼自身、初めて聞いたはずの催眠誘導法を、教本の作者よりも巧みに実践するためのより良い方法。それを何となく体感的な経験と、センスだけで掴んでしまったのだ。智世は「才能ってこういうものかな」と、ある種の感慨を持っていた。………と同時に、さっき智世への暗示のかかり具合を確かめるために、何の躊躇もなく胸を揉んできた、そのストレートさ………。その時の、イヤラシサすらあまり感じさせない、純粋な興味に、才能と同時に、怖さも少しだけ感じさせられていた。そんな、考え事をしている智世に、トオル君が呼びかける。

「…………ね、智世さん。僕の眼を見て。…………ほら、全身の力がスーッと抜ける。僕にもたれかかって良いよ。ほら、もう完全にリラックス。さっきの催眠状態だ」

 トオル君の眼を見て、話しを聞いているうちに智世の体が不意に紙のようにクニャクニャと折れ曲がりながら崩れ落ちる。意識も深いところに沈み込んでいくようだった。智世が教本の内容を事前に説明して、トオルと一緒に予習した通りのことが起きたのだった。

 気がつくと、智世は空を飛んでいた。一羽の小さくて可愛い、青い鳥になっていたのだ。パタパタと翼をはためかせて、自由に空を飛ぶ。

「ほら、昨日の木がまたあるよ。大きくて高い大木。その一番上の先端。昨日よりももっと細く高くなっている先端の頂点に、チョコンと止まってみよう。………そうそう」

「ピー、ピー、…………チッ、チッ、チッ」

 智世はスズメのような鳴き声を出していた。

「ほら、昨日よりもずーっと早く、木の中の部屋まで降りてくることが出来る。シューっと急降下だ。………お部屋に来たね。美味しい餌を上げるよ。ここは木の中にある、智世さんの安心のお部屋だから。遠慮なく食べてね」

 トオル君が手に載せた、クッキーの破片を突き出してくる。首を前後に動かしながら、智世がそれをついばんだ。時々、機敏に左右に顔を向けて、周囲を確認する。

「チチッ、ピー、ピー。………パリッ…………」

 クッキーを噛み砕いて食べて嬉しそうに顔を傾げる智世。彼女の前にはいつの間にか、明道もクッキーを持って手を差し出していた。

「………うはっ………。くすぐったい……」

 クッキーをついばむ瞬間に智世の唇が手のひらに触れると、明道はクスクス笑った。智世は時々両腕をパタパタと羽ばたかせながら、機敏に左右を見る。ガラス玉のように目を丸くしている。

「あれぇ? ………青い小鳥さん、お部屋にある姿見を見てください。貴方、鳥さんなのに、お洋服を着ちゃってますよ。………誰か、先に餌をくれた人間が、趣味で着せちゃったのでしょうか? ………どおりで、飛びにくかったはずですよね。すっごく疲れたでしょ?」

 智世は前傾の姿勢をそのままに、クルリと首を90度まげて、目を丸くする。確かに自分は今、鳥なのに洋服を着ていた。そして体にドッと疲れが襲いかかる。とにかく重苦しかった。

「脱いで自由になりましょう。………ほら、明道さんも手伝ってあげて………」

 翼の先っちょを駆使して、智世は頑張ってカーディガンを脱ぎ払う。明道がブラウスのボタンを外すのを手伝ってくれた。ブラウスが脱げると、ずいぶんと体が軽くなった気がする。あとはスカートとブラとショーツを脱ぐだけだ。そのブラのホックを明道が今………。

「はいっ。催眠解けますっ。パチン」

 トオル君が両手を叩いた時、明道と智世はお互いに目を疑いながら、互いの顔を凝視しあった。智世は上半身がほとんど裸になって、薄黄緑色の模様のついたブラジャーを、明道に手伝わせて脱ごうとしているところだった。ブラのカップから抜け出る寸前になっている豊かなバストが揺れている。乳輪の近くまでカップから抜けかかっていた。

 バチーーンッ

 柔道部の副主将の左頬に、真っ赤な紅葉のような手形が出来た。

。。

「もう一回、言っとくけど、今度また、こんなイタズラするつもりなら、もうトオル君に催眠術は絶対に教えないからね」

「はい………よくわかりました。ごめんなさい。………明日の催眠術の授業は真面目に受けます」

「…………明日? …………トオル君、本当に、反省してる?」

「反省してるよ。…………だから明日のレッスンでは、真面目に勉強するところを見せてあげたいんだ。明日も16:30で良いよね? ………それとも15:00?」

「…………いや、15:00だと私の予習が充分出来ないかもしれないから、16:30で」

「………16:30ね。OK。…………ところで智世さん、もう一度、イメージしてよ。小さくて可愛い青い鳥。木のどこにとまったの?」

「先っちょ………。木の一番上の、もっと先端の尖ったところ」

「………うん。そうだね…………。明日は4時半だよ。遅れたら罰ゲームだからね」

「…………はい………」

 智世はまだ叱り足りないのに、何となくこの中一の男子に丸め込まれたような気持ちを抱えながら、催眠誘導法教本を持って家に帰る。明日、彼に教える部分をしっかり予習してこないと、簡単に彼に教えた以上のことを試されてしまうような気がした。

。。。

 和泉智世 27歳 主婦

 智世は初めて『トオル君』と会った時のこと、彼に催眠術というものを教えた時のことを、今でも昨日のことのように思い出す。この日から数えて約1年半後に、『三雲亨』は、智世たちの前からしばらく姿を消して、転校してしまうことになる。そしてその時彼は、『三雲亨』という名前を残して、年上の友人である『和泉明道』という名前を持っていってしまった。今でも彼はきっと、この世界のどこかで、『和泉アキミチ』として生活しているはずだ。そして才能を開花させた、催眠術を使っているのではないだろうか。あの頃の純粋な好奇心の光を、目に宿したままで………。

 和泉智世は、今、『和泉亨』として生きている、かつての幼馴染と結婚して、家庭を営んでいる。かつて『明道』だったこの人は、年下の友人、トオル君にその名前と存在を半ば奪われて、今は『亨』として生活している。その夫を伴侶として愛し、ともに生きながら、今でも時々、智世は3人が初めて催眠術を学んだ、はじまりの頃のことを考える。

<第2話に続く>

3件のコメント

  1. 読ませていただきましたでよ~。
    まさかの2つ目(いや、フィンガーパペッツ前編の感想レスで5回ほどって書いてるけどw)。
    フィンガーパペッツはレビューだけだったけど、今度は正統派な催眠。
    でも実はミステリ風味だった。(いやホラーかも?)
    最初は単純ばかの明道が死亡したとか奪われたとかでいなくなったのかと思ったら亨くんが明道の存在を奪って行ったとは。これは次回から戻ってくるフラグなんでぅかね?

    当時、何があって亨が離れていったのか? なぜ明道の存在を奪っていったのか? この先戻ってきて智世ちゃんを奪っていくのか? というか優芽ちゃんの父親は明道なのか? あと、亨が明道ならばどうやって催眠術を会得したのか?(キーワードだけ使ってる可能性もあり)
    色々気になるところが満載でぅね。

    であ、次回も楽しみにしていますでよ~。

  2. アキミチさんのキャラがイメージと随分と違うなあ……と思わせてからのw

    いやー、これは……ストーリーとしても催眠の描写としても最高にいい……
    ちょっとずつ、こう本人が操っているつもりが気付けば思い通りに操られていく行程だったりね、
    じわじわと「許されるギリギリのセクハラのライン」が侵食されていったりみたいなのって、大好きです。
    本当に、永慶さんのこういう描写が私の好みすぎてヤバいw
    明道と智世ちゃんは今後自分で考えているつもりで色んなものをどんどん奪われていくんだろうなあ……
    って考えるとめっちゃ興奮する。
    しかもしれっと「罰ゲーム」とか宣言しちゃうし……次はどうなっちゃうんだろう……w

  3. >みゃふさん

    ミステリー風味。本当に仰る通りで、短編に催眠要素もエロも入れこんでいくと、
    ミステリーは本当に風味しか織り込めません。
    それでもちょっとだけの捻りになれば、だらっと回想系プリクエルを書くよりも読者の方々のフックになるかと思い、
    書いてみました。でも読んでてわかりにくいだけだったら、ゴメンなさい(笑)。

    この年末年始は相当バタバタしておりましたが、そろそろゴールが見えてくる頃です。
    頑張りますです。

    >ティーカさん

    ありがとうございます。様式美的なジワジワ感と、ちょっとチート気味にジャンプする部分とを織り交ぜてみております。
    ティーカさんの好みに合っているシーンがあって、本当に良かったです(笑)。
    この冬も、もう少しの間、お付き合い頂けますと嬉しいです。

    ありがとうございます。

    永慶

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