第九章
この数日間の練習で僕は「波動砲」をかなり上手に扱えるようになっていた。強い波動砲、鋭い波動砲、長距離波動砲・・・と使い分けられる。
「ごめんなさい。イヤな事、訊いちゃった?」
「エッ?・・・いや、構わんですよ」
みどりが膝の上に肘を置いて身を乗り出した。
「こう言ったら怒られるかもしれないけれど・・・あなたは今まで、誰よりも練習を積んで、とってもつらい練習を積んで、栄冠をつかんできたのだと思うの。」
みどりは小さなため息をついて見せた。
「でも、怪我をして走れなくなって・・・」
みどりは本来なら僕の足があるはずの空間にチラッと目を走らせる。
「これからの人生は今までの練習よりもはるかにつらいものになると思うわ。私があなたを描きたいのは・・・」
僕はゲップのように小さな波動砲を気づかれないように静かに彼女の頭に向けて発射した。
「あ゛っ」
「わ、私があなたを描きたいのは、描きた、描きッ・・・」
舌をもつれさせたみどりが頭を大きく振った。
「どうしたんですか?」
「ううん、いや、ちょっと、な、何でもないの」
ソファーの背に寄りかかるとみどりはもう一度頭を振り強く息を吐き出した。気合を入れるときの癖なんだろう。
「えっと、どこまで話したんだっけ。そう私が描きたいのは、そんなあなたのこれからの・・・」
最小パルスの波動砲・・・「あ゛っ」
みどりが顔をしかめる。
「そんなあなたの・・・えぇっと・・・そんなあなたの・・・そんなあなたの・・・」
継ぐべき言葉を失ったみどりの眼が助けを求めるように宙を泳ぐ。
「そんなあなたの事が好き・・・でしょ?」
「えっ?・・・そう、そんなあなたの事が好き、なの。」
見つけ出した言葉を自分に納得させるようにみどりは大きくうなずいた。
「・・・何で笑ってるの。信じていないのっ。」
怒った時の眉の形が素敵だ。
「信じられるわけがないでしょう。君が突然訪ねて来たんだし。いきなり、好きって言われてもね」
「突然、訪ねて?・・・あ、そうだ。私があなたのところに来たのは、新しい私の作品・・・」
「あ゛っ」
「わ、私があなたのところに来たのは、新しい私の・・・あた、あたらしい私の・・・えっと、私の・・・」
「下着を見せに着てくれたんでしょう?」
「エッ?えぇ、そうなの、・・・だっけ」
みどりが混乱する。
「さっき、そう言ってたでしょう?」
「そう、私があなたのところに来たのは、新しい私の下着を見てもらおうと思って・・・」
「で、どれ?」
「ど、どれって・・・」
「何も持っていないみたいだけど」
「エッ?ええっと・・・」
「着けて来たの?」
「な、何を?」
「下着」
「あたりまえでしょっ」
「見せて」
「でも・・・」
「でも・・・って、見せてくれるんでしょう」
「だけど・・・何で・・・」
「見せてくれるために来たって言わなかったっけ」
「言ったけど・・・」
みどりは混乱してベソをかきそうだ。
「さっき、僕の事、好きって言わなかった?嘘だったの?」
「う、嘘じゃないわ」
「じゃあ早く見せて」
おずおずとソファから立ち上がる。息が荒い。
救いを求めるような眼で僕を見る。微笑んでやる。
クリーム色のパンツジャケットの上着を脱ぐ。
胸繰りの大きく開いた臙脂色のニットを着ている。
意を決したようにニットセーターを取り去る。
ベージュのブラに包まれた素敵な形の胸が現れた。
凝った透かし縫いが細かく入った高級そうなブラジャーをつけている。
「どう?」
居直った女は強い。みどりはとんがった胸を僕のほうに突き出した。バランスよく筋肉が発達した上体が反る。美しい。
「うん、素敵だ。よく似合ってる」
みどりが誇らしげに微笑む。
「でも、いつ買ったの?」
「春にローマに行った時、特注したの」
「へぇ?でも新しい下着って言わなかった?」
「エッ?」
「新しい下着を買ったんで見せに来たんだろう?」
「う、うん」
「新しくないじゃん」
「で、でも・・・」
「ボトムの方じゃないの?」
「エッ?・・・そう、そうだった。新しいショーツ・・・」
みどりはホッとしたようにベルトをはずすとスラックスを脱ぎ始める。スラックスを膝まで下げたところで慌てた声をあげた。
「あっ」
「どうしたの?」
膝のところでスラックスを押さえたまま泣きそうな顔でベッドに腰掛けている僕を見る。下着のラインが出るのを嫌ったのだろう、みどりはパンティをつけていなかった。パンストの下はそのまま素肌だった。僕は思わず吹き出した。
「あ、あ、あ・・・わたし、い、いったい・・・」
みどりがしゃがみ込もうとする。
波動砲の小、「あ゛っ」
よろめいて膝をつき息を荒げる。
「ちょっと、私、・・・おかしい」
額に汗が浮かんでいる。
「大丈夫かい?」
「ええ、なんかちょっと、・・・でも大丈夫」
「大丈夫なら立つんだ」
「えっ?」
「立ち上がるんだ。今、大丈夫って言っただろう」
「言った。大丈夫。・・・立てるわ」
テーブルに手をつき肩で息をしながらゆっくりと立ち上がる。足首にはスラックスが塊でまとわりついている。ストッキングの下に薄っすらと黒く茂みが透けている。
「胸を張るんだ、みどり」
うつむいて息をしていたみどりが顔を上げる。
「そんな風に背中を丸めて立っていたんではお前の良さが消されてしまう。」
「お、おまえ、って・・・あなた、いったい・・・」
みどりがキッと僕を睨む。
「あ゛っ」
みどりの頭が小さく震える。
「胸を張れ、おまえが誇るオーストリアの貴族の血を見せてくれ」
怒った顔で僕を睨んだまま、みどりが両手を脇にたらしたまま胸を昂然と張った。黄金率・・・僕が今までに見た人間の中では恐らく最も理想に近い体型だろう。ブラにパンストという惨めな姿だが、それもみどりの造形美を損なうものではなかった。
顔つきも会話をしているときには日本人の表情で話すので違和感はないが、こうして表情を消して立っているのを見ると、やはりゲルマンの血を引く骨格が読み取れる。広い額、鋭角な鼻梁・・・・、薄めの唇はキッと横に引かれて意志の強さを示している。
小さな波動砲の連発を受け、もうそろそろ思考は止まっているだろうに、自由を奪われた事に対する反発心だけは残っているのだろう、まだ眼は輝きを失っていない。
僕は松葉杖を片手に立ち上がってみどりに近づいた。みどりはまだ大きな瞳で僕を睨んでいる。松葉杖をみどりに立てかけて両手を自由にすると、みどりの細い手首を持ち上げ高級そうな腕時計をはずしてやる。腕時計をはずされた腕は中途半端な位置に浮いている。
僕はみどりの背後に回りブラを取り去った。滑らかな肩にそっと唇を当てる。脇から手を差し入れブラを取り去られて剥き出しになった双丘に掌を沿わす。そのまま強くくびれたウェストラインのカーブ、引き締まって平らな腹の感触を楽しむ。
でも、そうしながらも僕は、美紀、君のことを考えていた。この蘇った波動砲の力を使って、美紀、君を添島の奴から取り戻すにはどうすればよいかを考えていたんだ。
まず、義足を使いこなせるようにならなくてはならない。資金もいる。その為には、この平沢みどりは好都合だった。この女を利用しない手はない。
波動砲も、みどりを使って練習して、もう少しスキルアップする必要があった。随分上達はしたけれど、所詮、対象をロボットのようにできるまでの技術しかない。僕は、美紀、君を取り戻してロボットのように股を開かすのが目的じゃない。
君の意思で僕を愛するようにしたいんだ。君自身の意思で僕と会話し、僕に笑いかけ、時には怒り、泣き、そして僕とのセックスを楽しむ・・・そういう風にしたかった。波動砲は使いこなせばそれだけの力を持っていると確信していた。みどりをその練習台にしよう。
事実、僕はその日からみどりの家で暮らし、体力を養い、波動砲の腕を磨いた。
[編集部注:雑音 大]
僕の部屋でマネキンのように愛撫を受け入れたみどりが、僕の事をなくてはならない愛人と認識するようになるまで一昼夜とかからなかった。僕の存在を外部から隠しながら一生懸命尽くしてくれたよ。
勿論、みどりの家族も協力的だった。みどりの妹のあゆみは素直で優しくて、そしてとても素敵な道具を持っていた。美紀、君という人がいなかったら僕は彼女に惚れてしまっていたかもしれない。
みどりの母親の真里子は、うぅむ、さすがにじきに50に手が届く女性だからね、毎晩愛してやるのは無理だったけど、みどりよりもゲルマンの血を更に色濃く引いている誇り高い女性だった。
不可侵な雰囲気を身にまとった落とし甲斐がある・・・ひざまずかせるだけでも価値があると感じさせる女性だった。
ああ、いけない。後少しで七時になってしまう。君もいつまでもそうして笑いながら僕の話を楽しんでいるわけには行かないだろう、もうそろそろ添島の奴が来るのだから。いくらなんでもウェディングドレスでお出迎えというのは可笑しいよ。
[編集部注:雑音の為、聴取困難]さあ、美紀、立ち上がれ。もっと話を聞きたいだろうけど、どうせこの話はじきに君の記憶から消去されてしまう話なんだから。
さあ、着替えを持っておいで。普段着でいいよ。
ああ、それでいい。・・・OK。
[編集部注:雑音 大]話ならこれからいくらでもできる。もう少ししたら君は、又、僕のものになるんだ。もっと楽しい話をいっぱいしてあげる。君にも聞きたいことがたくさんあるしね。
[編集部注:チャイム音] 来たね。ほら一階の玄関からのインタフォンだ。
万全のセキュリティだね、このマンションは・・・
玄関ロックを解除してやれ。笑顔で迎えてやればいい。
奴が見る最後の君の笑顔だ。最高の笑顔で・・・・・・・・
以上が盗聴者Kにより持ち込まれたテープの録音内容の全てである。
残念ながら録音内容は盗聴器の故障もしくは電池切れにより途中で中断されているが、録音されている部分だけでも真実であれば過去に例を見ない異常な犯罪の犯罪者自身による独白である。一月前に当編集部に持ち込まれたこのテープの信憑性については、その一部について当編集部による関係者へのインタビューで確認されており、又、一部関係者からの強い要請によりその身柄の安全を確保する手段を講じている。又、記事の冒頭にて表明した通り、当記事を編集するにあたり使用した証拠物品については発刊日付けにて警察への引渡しを決定している。
記事中にて「東信一」「高嶋美紀」と表記される両名については、本日(2000年12月7日)現在、その所在は確認されていない。
記事に関連した事実をご存知の方は以下に連絡先を記すので、是非ご連絡をいただけるようお願いしたい。
編集長
≪連絡先≫
東京都文京区白山7-10××-×
修学社出版㈱「週刊エルドラド」編集部
編集長 真木坂 克彦
Tel 03-8242-××××
Fax 03-8242-○○○○
<幻市 完>
読者の皆様へ
小説「幻市」は以上で完結です。作者のずぼらにより完結まで不必要な時間がかかりました事、お詫びいたします。
ただ、多くの読者の方は「な、何なんだ、この終わり方は・・・」と感じられるのではないでしょうか。盗聴テープの文字起こしという体裁を取った小説であるがゆえに、作中の全ての事象に結末をつけることができませんでした。
その為に、若干説明的にはなりますが、以下に「幻市 付章」をつけることにしました。
「付章」はあくまでも「付章」でありおまけです。しかし、「付章」を読んで頂いて初めて「幻市」の世界は完結するのです。
「付章」では「盗聴テープを入手した雑誌記者の迷い」、及び「パスワードを埋め込まれた女性たちのその後」を、雑誌記者「倉田」の視点を中心に描いてみました。
是非、このまま続けてお読みください。
付章(その①)
1.倉田
(さて、どうしたものか?)
書類の隙間に置いた場違いに大きな型の古いラジカセが巻き戻しのシュルシュルという音を立てている。倉田聡はしょぼつく眼をこすり頭の後ろで腕を組んだ。椅子の背がギイッと悲鳴を上げる。最近、腹の大きさが持て余すほどになってきた倉田は、この姿勢が一番楽なのだ。
頭はシンと冴えている。(信じられない)という思いと裏腹に、(本物だ)という予感で背中がゾクゾクとしている。
倉田は「週間エルドラド」の記者。ここは彼が所属する編集部のオフィス。時間は夜中の、いや、朝の4時20分。夜の遅い仕事だが締め切りの翌日という事もあり編集部には彼一人だ。校正部は今頃戦場だろう。(・・・寒い)倉田はヘッドフォンをひっぺがすように外すと窮屈な腹を曲げ肩に掛けたコートの襟を引き寄せた。吸い続けたタバコのせいで喉がイガラっぽい。
合致する。
倉田の担当外ではあったが、今週「週刊エルドラド」の芸能班がバタバタしているのは、先週ライバル誌に抜かれた「破局 添島捕手&高嶋美紀 / 添島 痛恨の後逸」という巨人の4番添島康重捕手とTBC高嶋美紀アナウンサーの婚約解消を伝えるスクープ記事のせいだった。あまりにもテープの内容と合致する。
Kと名乗る男から電話を受けたのは3日前の夕方だった。情報の持ち込みだと言うことは解ったが、ちょうど自分が担当する記事のウラがとれず予定稿がオチそうになってバタバタしている時だったので、倉田はついついツッケンドンな受け応えに終始した。
別に倉田を指名しての電話ではない。隣の席の青井美佐子に回しても良かった。倉田のカリカリとした様子に辟易していた美佐子に回してやれば彼女は喜んで対応しただろう。
美佐子に回さなくて良かった。美佐子は彼の部下というかアシスタントの立場であり、倉田を差し置いて彼女が独断専行する可能性は低かったが、このネタは自分主導で動きたい。持ち込み情報は絶対に他人に流さない・・・雑誌記者の鉄則だ。
耳の中にテープの「ザーッ」という雑音が残っている。ひどい録音、たとえ盗聴録音にしてもだ。最近はいくらでも高性能の盗聴器が出回っている。何もこんなに録音能の低い盗聴器を使わなくても・・・。それに女の一人暮らしの部屋に仕掛けるのなら普通は電話盗聴だ。受話器の前以外では彼女達はしゃべらない。まあ、最近は携帯がメインで固定電話自体を使わなくなっているが。
しかも電池式。コンセントを使う盗聴器がいくらでもあるのになんで電池式なんだ。最後の肝心なところが録音できていない。もし役者が揃えば大変な価値の盗聴になるところだったのに。
Kは会ってみるとごく普通の青年だった。嗄れ声と盗聴という趣味から青白く浮腫んだ病的な中年のおっさんを想像していたのだが、健康で清潔そうな20代半ばの青年だった。どうも警戒して声色を変えて電話したらしい。
Kとの交渉は難航した。Kが持参した3本のテープの内容を聞くまでは倉田としても実費に毛が生えた程度の条件しか出せない。内容も言わずに犯罪性のあるテーマというだけではナカナカ好条件は出せないのだ。「帰る」と言い出すKに、何度「帰れ」と言いかけたことか?
結局、盗聴者Kの顔写真を小型カメラで撮影したという事を交渉条件にした倉田が半分脅すような形で条件を飲ませたのだ。(危なかった・・・)倉田は胸をなで下ろした。勿論、顔写真を撮ったというのはブラフだ。
倉沢は徹夜の疲労と事件をつかんだという緊張で頭の心が痛くなるのを覚えながらこめかみを揉んだ。もう一分張り、このクソ脳みそには頑張ってもらおう。10年前の金沢。金沢に行ってみてどれだけの事が判るか?テープの登場人物たちが実在であれば、それだけでも信憑性は高まるのだが・・・。
被害者たち・・・倉沢はテープを聞きながらとったメモを眺めた。
東信一の担当医師だった野杖あかね・・・確か東京に転勤になったと東は言っていた。今は30代後半か?結婚もしているはずだ。
叔母の香保里・・・再婚の予定があった。47~48歳、倉田と同年輩になっているはずだ。苗字も変わっている可能性が高い。
3歳年上の従姉の真純・・・10年前に大学受験・・・。27、8になっている。これも結婚している可能性がある。
東信一の中学時代の友人・・・茶谷良平、新垣忍、絹田恵。同じ中学にいたという事しか情報がない。
看護婦・・・佐伯恵子。まだ、同じ病院に勤務しているだろうか。
レイ・・・京都出身のK大生でスナックでバイト、これは捕捉できんだろう。
そして高嶋美紀、添島康重、平沢みどり、それと、はっきりとは述べられていないが、平沢みどりの母親、真里子、妹のあゆみ。
後は東信一のアパートで練習台にされた通りすがりの老人、母娘、偶然訪れた生命保険の外交員他・・・問題外。
倉沢はメモを睨みつけた。本当だとしたら大変な事だ。ただの芸能人の「ホレタハレタ」のスキャンダルではない。
「倉田さん、これ、・・・。」
一泊の金沢出張から戻った倉田を美佐子が緊張した眼で見つめる。手にカセットテープを持っている。倉田は心の中で舌打ちをした。
「聞いたのか?」
「ええ、・・・でも・・・。」
「モノホンだよ、多分。・・・暫く伏せとけ。俺が調べる。」
「わ、私にも手伝わせてください。」
美佐子が勢い込む。
軽はずみだった。テープを聴いた翌朝、倉田はテープを美佐子に渡し、機材部にデジタル処理を依頼させたのだ。雑音のせいで半分くらいしか聞き取れない盗聴テープの雑音除去をさせるつもりだった。(俺一人で処理すべきだった)倉田は、もう一度心の中で舌打ちをした。
「サンキュウ。当然、ミサにも手伝って貰うさ。・・・でもちょっと待て、暫く手間かけてウラをとるから。・・・オマエ、この間の記事、環境庁のコメントとれたのか?」
テープを受け取り美佐子の横を通り過ぎながら美佐子のジーンズの尻をパンとはたく。一つ前の宿題を持ち出され美佐子はバタバタと電話帳をひっくり返し始めた。小柄でちょっと太めの美佐子の尻の感触が手に余韻として残る。
本物だという予感は、金沢に行って少し動き回るだけで確信に変わっていた。
N山の中腹には精神病院は実在した。Y病院というその病院に10年前に野杖という医者が在籍した事も確認できた。転出先の都内の病院も判明した。
N山の一帯を校区に持つ金沢市立N中学、東信一の記録は簡単に見つかった。N中学の卒業生で唯一のオリンピック候補選手だ。オリンピックを目前に控えて事故で片足を失った悲劇のヒーローの事を中学の教頭は誇らしげに語ってくれた。東信一自身の独白にある通り非常に優秀な中学生だったようだ。その友人たちの名前も卒業生名簿で確認できた。
従姉の東真純の名前もN中の卒業生名簿で確認できた。卒業アルバムではお下げ髪の賢そうな少女がセーラー服を着て微笑んでいる。進学先の高校は石川県立I高等学校。I高校の卒業生名簿で確認すると高校卒業後の進学先は北海大学農学部畜産獣医学科。
一番手間取ったのは信一の叔母で真純の母親である香保里だった。真純の住所だったところは空き地になっておりマンション建設予定地の看板が立っていた。香保里が勤務していたはずの農協病院に東香保里の記録はなかった。見つけたのはひょうんな事からだった、あきらめかけて病院内にある喫茶室でお茶をしながら会話した賄いのおばさんからの情報だった。元マラソン選手だった東信一の記事の取材をしているという倉沢にそのおばさんは言ったのだ。
「東信一の叔母がこの病院に勤めていなすったよ、事務員で。当時から有名やったちゃ、東信一は。市の大会で優勝とかしてよう聞かされた」
勢い込んで確認する倉田に
「確か相沢さんち言いなすったがや。ホラ、立花先生と再婚しなすった」
暇な賄い婦たちが寄ってきて情報をくれる。
「がいに綺麗な人やったワイね」
「ほやった、ほやった」
立花先生は名古屋で開業するということで7年前に病院を辞めていた。名古屋の病院の所在地は世話好きなおばさんが事務所まで走って訊いてきてくれた。
香保里は離婚した嫁ぎ先の姓で病院に勤務していたらしい。真純が東の姓で通学していたところを見ると病院勤務後に姓を旧姓に戻したのだが勤務先は相沢姓で通したという事なのだろう。
これらの事実はあのテープの信憑性の裏づけになるだろうか?
なるだろう。でも必要条件ではあるが、十分条件ではない。彼の犯罪の一部すらもこれらの事実からは浮かび上がってこない。
どこから手をつけるか?
確か、このリストの中に東信一が言う「パスワード」を埋め込まれた被害者がいるはずだ。倉沢はテープを聞きながらメモしたリストをもう一度眺める。・・・誰だったか?
倉沢はデジタル処理で雑音除去をしたテープを手にとった。
パスワードを埋め込んだとテープの中で語られているのは
叔母の香保里。
従姉の真純。
高嶋美紀。
更に状況から見て埋め込まれている可能性が高いのは
平沢みどり。
その母親、平沢真里子。
みどりの妹、平沢あゆみ。
・・・添島康重。
高嶋美紀は本線すぎる。いきなりの接触はリスクが高い。やはり別線でウラをとりたい。平沢みどりの線か・・・。テープの最後の最後に「平沢みどり」の名が出てきた時には正直びっくりした。
やはり、平沢みどりの線だ。
倉田は、3ヶ月ほど前に会った平沢みどりのしなやかなドレス姿を思い出した。
勿論、決して親しいという仲ではない。
同じマスコミ業界に属していると言っても倉田はアパレルの業界紙上がりのパッとしない中年雑誌記者。みどりはオリンピック代表フィギュアスケート選手から転身した新進気鋭のスポーツライター。「週間エルドラド」にコマを持っていると言っても、みどりは署名入りのコラム、倉田は(倉)とされた半記名コラム。格が違う。
みどりと会った最後は、10月の半ばにあった彼女の出版披露パーティ。その日のみどりは肩を出した白いシフォンのドレスを着ていて本当にきれいだった。倉田は「あの滑らかそうな肩に唇で触れることが出来たら悪魔に魂を差し出しても良い」と遠目に彼女を眺めながら夢のような事を思っていたものだ。
そのパーティは彼女の3作目「愛・コンタクト」の出版記念パーティだった。Jリーグの篠塚雅也がセリエAに渡ってからミラノのサイドバックのポジションを勝ち取るまでの苦難をドキュメント化した作品だ。文中にはみどりと篠塚との心の交歓を窺わせる記述もあり、それが、又、話題になっていた。倉田の仲間内では「色気を武器に書いた作品」「寝るだけで本一本書けるんだったら安いモノ」などとやっかみ半分の批評もあったが、倉田は彼女のこの作品には他人とは異なる思い入れがあった。
倉田は元々ある化学繊維メーカーの実業団サッカー部に所属していた。今よりも25kgも体重が軽かった頃の話だが。
そのサッカー部が不況のリストラで廃部になり、アパレルの業界紙にしばらく籍を置いた後、大学のサッカー部の先輩でもある「週間エルドラド」の編集長、真木坂に拾われてここに至っているのだった。
篠塚雅也は倉田の高校のサッカー部の後輩である。福島のさしてビッグネームでもない高校から世界に飛び出した突然変異種だった。
篠塚についてのドキュメンタリーを書こうと考えていたみどりを最初に篠塚に引き合わせたのは倉田だったし、彼の高校時代のエピソードを取材して拾ってきてやったのも彼だった。
倉田自身は雑誌記者の身分で満足していた。自分に似合った仕事だろうと考えていた。自分で本をものす野望など抱いたこともなかったから素直にみどりに協力できたのだ。そんな倉田にみどりは感謝し、実費以上の金を受け取らない倉田を礼と称して食事に何回か誘ってくれた。楽しい想い出だった。
「倉田さん、倉田さんのお陰、ホントに。・・・この生き馬の目を抜くマスコミ業界で、私利私欲無しで良い本のためにって動ける人っていないわ。」
パーティのさなか、みどりは倉田の所に近寄り彼の手を両手で握りしめた。倉田はみどりの甘い香水の香りに惑わされ、どもりかけた。
「い、いやあ、後輩の話だからね。良いモノを書いて貰わなくちゃ。」
「それが倉ちゃんのスゴイ所よねぇ。・・・この業界、同業者の足を引っ張るのが常識なのに。」
皆の前で「倉ちゃん」と呼ばれ手を握られる事が恥ずかしながら無性に誇らしかった。
みどりは自分自身のことをジャーナリストと考えていたようだが、倉田はみどりのことを同業者とは考えていない。みどりは芸能人、取材される側の人間。自分はあくまでも取材する側の人間。
17歳も年下のスターに対しては下心すら抱かない。食事を何回か一緒に出来て、こうしてパーティの席上で話しかけられる・・・そうした役得さえあれば十分だった。
もし盗聴テープでの東信一の発言が真実であれば、あのパーティの時期、倉田はみどりの家に同居していたのだ。彼女を催眠術のようなもので愛人に、イヤ、奴隷にして・・・・。もし、本当であれば許せない。「ゲス野郎・・・変態め」倉田は呟いた。もし、みどりが東信一の罠にかかっているのなら何としてでも救わなければならない。俺の力で、あの変態野郎の魔手からみどりを救い出すのだ。彼女からの謝意は前回を上回るだろう。
雑誌記者の「正義感」は「嫉妬」だ。社会的に恵まれている新聞記者にはない「嫉妬」が「正義感」の仮面をつけて記事を書かす。今回も「みどりを思うがままにした可能性のある東」に対しての「嫉妬」が倉田の「正義感」に火をつけたのだった。
「あら、倉田さん、お久しぶりです。どうされてます?」
電話口の向こうのみどりの声が耳に心地よい。
「ひさしぶり。すいません、急に電話して・・・まさか直接捕まえられるとは思わなかった。」
「うん、たまたま事務所に顔出したら、丁度その時電話がかかってきたみたい。・・・でも何ですか?倉ちゃんから電話なんてドキドキしちゃう。」
みどりは中年のおっさんをあしらうのが上手だ。
お世辞だと判っていても気持ちよくなる。
「ああ、その前に「愛・コンタクト」好調みたいだね、おめでとう。」
「ありがとう。本当に倉ちゃんのお陰・・・。」
「もう止めて欲しいな、そのお陰って言うのは。・・・今日はこちらからのお願い。ちょっと取材させて欲しくて、新進気鋭のルポライターを・・・」
みどりを警戒させないために考えた会う口実を伝える。倉田の担当している小さなコラムで「平沢みどり」を扱いたい事。作品ではなくてみどり本人を扱う取材はみどりが受け付けない方針だと言うことは十分に承知している上で依頼している事。市井の人を扱うコラムなので本来は平坂みどりを扱うようなコラムではなく失礼に思っていること。
「・・・いや、無理と失礼を承知で頼んでるんだ。君の報道人としての基本的スタンスにも反しているし・・・。」
「ああ、・・・でも倉ちゃんの頼みじゃなぁ。コラムの大きさなんて良いのよ、むしろ大々的に人間平沢みどりなんてやられるんだったら絶対に受けないわ。」
結局、みどりと篠塚が知り合うきっかけになったエピソードを倉田が簡単に会話形の文章にし、取材コラム風にまとめる事で記事の掲載を認めさせた。
「忙しいのは判ってるんだけど、メシ食う時間ぐらいとれないかなあ。取材中の写真という事で一枚絵が欲しいから。いつでも、君の良い時に・・・。でも早い方が良い。」
「食事くらいなら何とでもなります。・・・そうですね、木曜部、今週の木曜日なんていかがですか?お昼ご飯程度なら・・・・実は金曜日から休暇、ふふっ、金曜の朝の便でミラノに立つの。だから準備があるのであまりたくさんは時間取れないけど写真くらいなら」
今日は火曜。OK。ベリグーだ。電話を切る。木曜日の11:00。ホテル・アルフォンヌのスイートでランチオンインタビュー。
この時点で倉田の頭にあったのは純粋無垢の正義感だけだったという事を読者諸氏には報告しておこう、この時点では・・・。
< 付章(その②)に続く >