- 前編 -
─ 序 ─
ひらひらと雪が舞う。
ここは鈴沖美宇が住む街から、電車で一時間ほど離れた場所にある海岸だ。
足元には腰までの高さの柵があり、その先には海へと続く断崖絶壁。
頬を切るような冷たい風が、美宇のコートの裾をはためかせている。
いつから美宇はそこに立っていただろうか。
少しきつい顔つきに浮かぶのは、どこまでも果てし無い絶望。
吊り上り気味の目に映るのは、限り無い哀切を湛えた諦念。
「もう、だめだよ・・・。こんな身体じゃあ、あたし・・・生きていけない・・・」
どこか泣き笑いにも似た自虐的な表情で、美宇は一人呟いた。
空はどんよりと厚い灰色の雲が覆い尽くし、海から来る風は人を拒絶するかのように冷たい。こんな日に、この場所には人が来るはずも無い。
美宇のように、全てに絶望しきっていない事には。
「終わりにしよう。それで・・・それで、楽になれる・・・」
美宇は熱に浮かされたような口調で呟くと、柵を乗り越えた。
一歩を踏み出す。強い突風が前髪をねぶり、美宇のバランスを崩した。しかし、美宇の足は止まらない。
一歩を踏み出す。柵の内側から比べると、驚くほどに視界が広がった。遥か下に、モスグリーンの海が渦巻いているのが見える。
一歩を踏み出した。そこには既に崖は無く、美宇の身体は虚空へと投げ出される。美宇の顔には、安息を得られると確信した笑みが・・・全てから逃げ出せると確信した笑みが、浮かんでいた。それは悪夢で飛び起きた幼児が、親に優しく抱き締められた時の安堵の表情にも似ていた。
美宇は凄まじい勢いで迫る海面を現実感に乏しく感じながら、何故このような事になったのか、絶望とともに思い返していた。
─ 1 ─
「っ!」
美宇は自室で、良く判らない衝動を感じて飛び起きた。気が付けば窓の外は明るく、そろそろ自分が目覚ましを掛けて起きようと思っていた時間であるらしい事が判った。
「なによ、これ・・・」
美宇は溜息を吐くと、汗にまみれた顔を手で覆った。
暖房を入れている訳でもない部屋は冷え切っているが、美宇の身体は寝汗などと言うレベルを超えて、汗を全身に分泌している。
何かとてつもない悪夢を見ていた気がするのだが、既に美宇の記憶からはすり抜けて、どんな夢を見ていたのかは思い出せなかった。それが今日初めての事なら、美宇もそれほど気にはしないのだが、こうして飛び起きるのは今日で6日目である。もしかして変な病気なのかと、美宇はそろそろ気になってきていた。
「はぁ・・・。たまんないわね、ホントに・・・」
他人と比べてささやかな胸の谷間に、汗の滴が寝巻き代わりのシャツを貼り付けているのを見て、美宇はげんなりと呟いた。
「シャワー、あびなきゃ・・・」
イヤそうに力無く呟いて、美宇はベッドから床に降りた。大きめのシャツとショーツだけをまとった身体は、すらりとして美しいラインを朝の光に晒している。欠点があるとすれば、やはり控えめな双丘だけだろう。美宇は着替えを手に取ると、風呂場に向かった。
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重い気分を抱えたまま、美宇は大学へと向かった。
睡眠時間は足りているはずなのに、訳の判らない悪夢のせいで、体力だけが削られていくような感じがするのだ。足取りも自然、引き摺るような重たいものになった。
「みーうー!おはよー」
後ろから元気な挨拶が聞こえてくるのと一緒に、美宇の背中にぽふ、という感触が張り付いた。
美宇が嫌そうに振り返ると、いかにもお嬢様という感じの小柄な女性が、美宇の背中に抱きついている。佐原明海という名の彼女は、美宇の親友だ。もっとも美宇からすれば、手間のかかる妹という気がしないでもない。何しろ、明海は重度の人見知りで、こういう態度が取れるのは家族以外には美宇だけなのだから。
「ほい、おはよ。・・・でもぉ、勝手に抱き付くなって、前にも言ったでしょっ!」
朝の夢見の悪さと、明海の顔を見た瞬間に生まれたざらつく感情が、挨拶の途中から暴発した。美宇にしてもいつもは苦笑交じりに言う言葉が、今日に限って苛つきを隠せない、尖った響きを伴ってしまった。
──しまった・・・
「ふ・・・ふぇ・・・ごめんなさ・・・」
くしゃっと、明海の顔が泣きそうに崩れた。見る間に目の端に涙が珠になるのを確認して、美宇の方が泣きたくなった。
朝から疲れてる。気分だって生理の時みたいに重苦しい。明海の事、笑って許してあげるだけの余裕だって無い。
美宇は溜息を吐いた。
──ぜんぶ、あたしの都合じゃん
怯えていて逃げたいのに、足が凍り付いてしまったように立ち尽くす明海を見詰め返して、美宇は嘆息した。
何で明海が美宇に懐いているのかは判らないが、美宇は明海を突き放すほど嫌ってはいない。例えどれほど自分にコンプレックスを感じさせられても、親友なのだから。美宇はなんとか微笑みと呼べそうなものを浮かべて、明海を正面から見詰めた。
「悪かったよ。ちょっとここんところ、睡眠不足なんだ。つい、いらいらして、明海に当たっちゃった。ごめん」
軽く頭を下げて、美宇は謝った。それから驚いたように固まっている明海の頭を、くしゃくしゃと掻き混ぜる。
「あ・・・わたしこそ・・・ごめんなさい・・・え、えへへ」
ほっと安心したように、明海も微笑みを浮かべた。
顔だけはにこやかに、けれど美宇の心は晴れる事は無かった。
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美宇は、極彩色の空間に浮かんでいた。茫とした頭が、これはいつもの夢なんだとなんとなく思い浮かべる。それにしても、今までとは違ってまるで明晰夢のようだ、と美宇は思った。それとも、今までと同じように、目が覚めたらすっかり忘れてしまうのだろうか?
『いや、もう忘れはしまいよ』
突然、美宇の頭の中に声が響いた。不意の出来事に、美宇は小さく悲鳴を上げる。
「だ・・・だれっ!」
『くく・・・我は、汝の《力》よ。我は汝と共にあり、汝が敵を、打ち滅ぼしてくれよう。くく・・・くははははっ』
不愉快な声だった。しわがれているのに、どこか瑞々しい声。老いている口調なのに、張りのある口調。若者がわざと嘲るような口調を使うのにも似ている。
「な、なんなのよ、アンタは!」
美宇の声に、怯えの色が混ざる。夢と判っているはずなのに、リアルな恐怖が身体を震わせた。
『我は、汝の《力》なり。我は汝と共にあり。くくく・・・ははははっ・・・』
『くははっ・・・く、ははははは・・・』
再度繰り返された言葉を最後まで聞く事無く、美宇の意識は暗闇に飲み込まれて行った。
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「なによ、いまの夢は・・・」
『夢では無いぞ。我は今も汝とある。《魔》にして《力》である我の事は、糜爛と呼ぶが良い』
「びらん・・・?」
美宇は何の気無しに呟いて、今の状況の異常さに気が付いた。美宇は一人暮らしで、他の人間の声などするはずが無いのだ。
「誰っ!」
美宇はベッドから飛び起きると、サイドボードに置いてあった目覚し時計を、武器の代わりに構えながらキョロキョロと見回した。
視界の範囲内──天井からベッドの下、洋服ダンスの中まで──には、まったく誰かがいた形跡は無かった。けれど、いる。どこかねちっこい視線のようなものを、確かに感じる。美宇は警戒を解かずに、慎重に声を絞り出した。
「どこにいるのよ・・・出てきなさいっ!」
声が微かに震えてしまったが、それでも上出来だろう。気の弱い女の子なら、泣きながら部屋から逃げ出してもおかしくはない。
『汝の左肩を見るがよい。我はそこにいる』
「ひっ!」
そして、美宇は声が鼓膜を奮わせる事無く意思を伝えている事に、気が付いてしまった。震える右手を、ゆっくりと襟に伸ばす。寝巻き代わりの大きめのワイシャツは、少しひっぱるだけで美宇のつるりとした肩を露出させる・・・はずだった。しかし、代わりにそこにあったのは、醜く引き攣れたような、人の顔にも似た痣だった。
「じ・・・人面痣・・・?」
あまりに非現実的な状況に、美宇は頭が真っ白になったように、何も考えられなくなった。時が凍りついたような沈黙の中、人面痣がにやりと切れ込みのような口を歪めた。
『くく・・・くはははっ・・・』
「いやっ!いやっ!こんなの、いやあぁああっ!!」
美宇は狂ったように悲鳴を上げながら、右手の爪で人面痣と言わず、周囲の皮膚を掻きむしった。しかし、傷もつかず、剥がれる事も無い。人面痣──糜爛──は、苦痛すら感じていないようだった。
美宇はよろけるようにしてキッチンに行くと、包丁を一本手に取った。荒い呼吸を繰り返しながら、刃先を肩と水平に・・・糜爛をこそげ落すようにして構えた。
『我は剥がせんよ。それこそ無駄というものだ。我を受け入れるが良い。・・・おぉ、我を受け入れやすいように、愉しませてやろうぞ』
糜爛の直接頭に響く声と共に、美宇の左手が勝手に動いた。まるで別の意思が宿っているかのように、ワイシャツを捲り上げて内側に入り込む。
「な、なによこれぇっ!!やめっ!やめてよっ!!」
美宇は悲鳴を上げながら、右手を動かした。左手を操っているのが糜爛だと、咄嗟に理解したからだ。糜爛さえどうにかすれば、左手だって元に戻る・・・そう期待しての事だ。
「なんで、傷付かないのっ!」
糜爛を剥がすどころか、傷一つ付かなかった。終いには包丁を逆手に持って、自分が傷付くことも恐れずに衝き立てたのだが、まるで固いゴムの塊のような感触が伝わっただけだった。
『くくく・・・。無駄であると、言ったであろう?くふ・・・くははは・・・』
美宇が何度も包丁を衝き立てている間も、左手は着実に目的の場所──右胸に向かっていた。寝る時にはブラは付けていないのがあだとなって、左手は遮られる事無く、そのささやかな胸に辿り着いた。
『そら、愉しめっ』
糜爛のその声と同時に、左手が胸を柔らかく包み、親指の腹と人差し指の付け根で乳首を挟むように動いた。
「ひっ!あああああっ!」
その瞬間、美宇の身体を今まで味わった事の無い快感が、高圧電流のように貫いた。立ったまま衝撃に仰け反り、右手に持っていた包丁を下に落してしまう。
「くぅあっ!すご・・・すごいよぉ・・・」
あまりの快楽に泣き声さえ漏らして、美宇は与えられる快感に身を任せた。背後の流し台で身体を支え、悦びに蕩けた顔をいやいやするように左右に振る。
美宇は男性経験が無いが、自慰は比較的良くする方だ。しかし、これほどの快感を、ましてや軽く胸を弄っただけで感じるなど、あった事が無い。頭の中が真っ白になって、与えられる快楽以外には、何も感じられなくなってしまった。
『くくく・・・』
糜爛の含み笑いと共に、左手が胸から離れた。美宇は咄嗟に右手で押さえ込もうとするが、左手はとどまる事無く、ワイシャツから抜けた。
「やっ!やめないで!もっと・・・もっとしてぇ・・・っ!」
もう、自分が誰に懇願しているのか、どんなに恥ずかしい事を口にしているのかも、美宇は判らなくなっていた。麻薬のような快感が、今の美宇を支配していた。
『焦るで無い・・・。もっと・・・もっと気持ち良くなれる場所が、あるだろう?』
左手が、ゆっくりと嬲るように、ショーツの端に指を掛けた。美宇はこれからされる事を想像して、期待に身体を震わせた。
美宇は左手が動きやすいように、自ら進んで右足を上げると、流し台の上に脚を乗せて腰掛けた。普通なら絶対にする事は無いであろう、脚を開いた誘惑するようなポーズだ。
「おねがい、はやく・・・はやくさわって・・・がまんできないのぉ・・・ねぇ・・・おねがいぃ・・・」
はしたなくも、美宇は腰を揺すった。愛液に濡れそぼったショーツが、ステンレスの流し台と擦れて、くちゅくちゅといやらしい音を立てる。
『くははははっ・・・そんなに欲しいか・・・欲しくて堪らないか・・・』
「うん、ほしいのぉ。あそこが熱くてぇ、へんになっちゃう。ね、ちょうだい・・・」
美宇は間延びした幼い口調で、快楽をおねだりした。左手が美宇のおねだりに従い、ショーツの内側に入り込む。もう焦らすのは止めたらしく、伸ばした指先はまっすぐに秘所に向かった。
「ひあぁっ!くるぅ、あともうちょっとで、きちゃうぅぅ!!」
その瞬間を待ち焦がれて、美宇が叫んだ。
指先はわざと敏感な部分を避けるように回り込み、クリトリスにも陰唇にも触れないように、下へと向かう。そして、濡れてひくひくと刺激を待ち望む膣の入り口に、中指を第一関節まで埋め込んだ。美宇は一人でする時もそこには指を入れないやり方だったのだが、悦楽に飢えた美宇には例え男性器を突き込まれても怖がる事無く、悦びの悲鳴を上げることだろう。実際、初めて身体の中に異物を受け入れた美宇は、信じられないほどの快感に翻弄され、半分白目をむいて絶頂に達していた。
「あが・・・は・・・ぎっ!あうぅ、う”、あ”あ”あ”っ!」
美宇は口の端から涎をたらし、全身が大量の汗にまみれて痙攣した。本来人間が感じる事の出来ないレベルの快感を、無理やり流し込まれたのだ。呼吸困難と興奮のし過ぎで、脳が壊れても仕方が無いくらいだった。
左手の中指は、容赦せずに動き続ける。まるで魔法が掛かっているように、ただの一擦り、ただの一掻きが、快感神経を直接刺激するようですらあった。いや、そんな表現すら生ぬるい。天井知らずの快楽が、どこまで到達できるかを試しているように思える。それほどのものだった。
「あ”、かはっ・・・」
ぷつんと、電気が切れるように、美宇の意識が断ち切られた。快感の許容量が限界に達した為だ。美宇の全身が脱力し、蕩けるように幸せそうな表情で、失禁してしまう。
「あはっ、ん・・・」
尿道を液体が通る感覚すら快感なのか、美宇は意識の無いままに淫らに喘ぐ。それが最後のとどめとなったのか、力の抜けた身体が流し台の上でバランスを崩した。しかし、いつの間にか美宇の身体が崩れ落ちないように、左手が流し台の淵を掴んでいた。
左腕一本で不自然に身体を支えられ、美宇はいつしか安らかに眠りについていた。
─ 2 ─
美宇は目を覚ますと、目の前の惨状に愕然とした。床と下着からはすえた匂いが漂い、全身もいろいろな液体に濡れていて気持ち悪い。
まずは濡れタオルで簡単に拭い、雑巾でキッチンを掃除した。
心配していた左腕は、美宇の思った通りに動いてくれた。
「こんな感じか」
目に付いた汚れを落して、美宇は小さく独白した。
美宇はバスルームに行くと、身に纏っていた服を全て脱ぎ捨てた。立ったままで、快楽の余韻がひかずにぴりぴりする全身に、熱いシャワーを浴びせる。左肩は、見ないように心掛けた。
たっぷりと全身を清め、満足してシャワーを終えたのは、それから30分ほどしてからの事だった。
時間を掛けて髪を乾かし、清潔な衣服を身に纏う。それだけで、だいぶ心が落ち着いた。美宇は嫌悪感を抑え付けて、大きく深呼吸した。
「糜爛・・・とか言ったっけ?まだ・・・いるの?」
『当然だ。我は汝と共にある』
美宇の押し殺した声の問いに、頭の中で糜爛の声が応えた。
「なんで、あたしにとり憑いたのよ?邪魔なの。出て行ってくれない?」
不愉快という気持ちを込めて、美宇は左肩を睨み付けた。
『我は、汝の《力》なり。我と汝は同一にして不可分なり。くく、理解したく無いというのは判るが、な」
「出て行く気は無い・・・そういう事ね・・・」
実際、包丁で斬り付けてもダメージを与えられた様子は無かった。糜爛の言うと降り、少なくとも美宇が何かしても、糜爛を追い出す事は出来ないのだろう。
美宇は小さく溜息を吐くと、外出の準備を始めた。
──なんだか、気が抜けちゃった・・・
普通なら半狂乱になったり、病院に駆け込んだりするのだろう。しかし、美宇はそんな気にはならなかった。半狂乱になっても進展は無いし、病院に行って治るとも思えない。それに、今日は大事な講義もあるのだ。
美宇は、自分が冷静でいられるのがなぜか、考えようとはしなかった。考えたくは無かったのかも知れない。
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最寄の駅まで来ると、美宇は大学方面に向かう電車を待っていた。お昼近い時間という事もあり、ホームにいる乗客はかなり少なかった。美宇は見るとも無しに周りを見て、ふと反対側のホームに立っている一人の男に気がついた。
──アイツ・・・!
前に、美宇に痴漢行為をして来た男である。外見は普通のサラリーマンなのだが、満員電車で偶然を装って触れてくるので、いままで捕まった事はないようだ。
──あんなヤツ、死んじゃえばいいのに!
美宇はつい、そう思ってしまった。
『汝が願い、叶えよう』
「えっ!」
美宇は驚いて、小さく悲鳴を上げた。いままで糜爛とは、声に出さないとコミュニケート出来ないと思い込んでいたのだ。考えてみれば、糜爛の声は直接頭に聞こえてくるのだから、逆に美宇の思考を読み取られる可能性は高いというのに。
──やめなさいっ!そんな事、許さないっ
焦ってその言葉を頭に浮かべたのだが、返ってきたのは嘲りにも似た思考だった。
『くくく・・・汝には関係の無い死に方をすればよいのだな?我にとっては児戯にも等しき事。汝が恨み、たっぷりと晴らしてくれよう。くくく・・・はははは・・・』
まるで糜爛の声が聞こえたかのように、目の前で男がビクっと身体を震わせた。怯えたような表情で周りを見回したが、次の瞬間には茫とした寝惚けているような表情になり、ふらふらとホームを歩き始めた。男が向かうのはホームの端──あちらのホームの車両の最後尾の方向だ。
──何をさせようって言うのよ!
美宇が頭の中で糜爛に怒鳴りつけるが、当然のように堪えた様子は無い。こうなったら実力行使をするしか無いと美宇は思ったのだが、まるで凍りついたかのように脚が動かない事を、思い知らされる結果となった。
『見ているが良い。もう始まる』
向こうのホームに、電車が入ってこようとしていた。この駅では止まらない電車らしく、あまり減速していない。
男は電車が駅構内に入ってくる直前に、ぺたりとその場に正座した。そのまま自然な様子で、おじぎをするように頭を下げた。男の頭はホームの端よりも、線路の上に大きく出ていた。突然の事に、運転手は反応できない。例え反応出来たとしても、対応するのは不可能だったろう。どこにでもある平凡な電車は、凶悪な凶器と化した。
びしゃっ!
何かがぶちまけられるような音と共に、ホームに悲鳴が満ちた。
美宇は絶望のあまり、気が遠くなるのを感じた。
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美宇は、耳元で鳴る風を切る音を、酷く心地良く感じていた。
全ての悪夢から逃れられるという想いが、美宇の顔に微笑みを浮かべさせた。
──もう、イヤな思いをしなくてもいいんだ・・・
美宇は、まるで恋人に抱擁を求めるように、両手を広げた。モスグリーンの海面が、美宇を待ち受けるように波打つのが見えた。海面に突き出した岩さえも、美宇には愛しく感じられる。安らぎに包まれ、美宇は意識を手放した。
『愚かな・・・。汝が死ねるものか』
それまで沈黙していた糜爛が、忌々しそうに呟いた。
『汝は死なせん・・・我が死なせんよ・・・』
海面から突き出した岩に当たる直前、美宇の身体が七色の光に包まれ、まるで最初からいなかったとでも言うように消えた。後には蛍のような光の塊がいくつか宙を舞い、それもゆっくりと消えていった。
後にはただ、波の音だけが響いていた。
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人通りの多い商店街。元気そうな少年が、人を避けながら走っている。
「わっ!」
しかし、後ろから掛けられた友人らしき少年の声に振り向いた瞬間、路面の段差に足を取られてバランスを崩した。勢いがついている事もあり、無事には済まないと、その場にいた誰もが思った。けれど、誰もが咄嗟に手を伸ばせるはずも無く、少年はアスファルトに向かって顔から突っ込もうとしていた。
「わわっ!」
しかし、少年は転倒する事は無かった。どこか不自然な体勢で立ち止まると、そのまま持ち直したのだ。自分でも納得がいかないという風に訝しげにしていたが、追いついた友人と一緒に走り去った。
少年が倒れそうになった時、身体の下にクッションがあったような気がしたのだが、それもすぐに気のせいと思い直した。何しろ、あの時自分の下には、本当に何も見えなかったのだから。
「ふふ」
黒いスーツの壮年の男が、走り去る少年の背中を、微笑みながら見詰めていた。
格好だけ見ればまるで葬儀屋のようだが、それとは一線を隔するものがあった。
鋭い眼光と、スーツを下から押し上げる筋肉である。
逆に葬儀屋との共通点をあげるならば、死に親しんだ・・・どこか不吉な雰囲気があることだろう。
少年が転びそうになった瞬間、男が指を不思議な形に組んだのだが、誰もそれに気付くことは無かった。
「む」
再び歩き出そうとした男が、ふと立ち止まって虚空に視線を向けた。
「ふむ・・・仕事ですか・・・」
その視線の遥か先には、美宇がいる。
美宇は、その男──蛾葬断魔の標的となった事を、いまだ知らない。
< 続く >