セイレーン 5章

5章

- 1 -

 ざ・・・ざん・・・。
 ざ・・・ざざ・・・。

 寄せては返す波の音が、夜の空気に浸透するように、繰り返し響いている。
 それはこの場所で、悠久の彼方より連綿と続けられてきた営み。
 その波の音に唱和するように、妖しい声がこの久遠岬に響いていた。

「あぁ・・・ねぇ、もっと・・・もっとそこぉ・・・」
「ん・・・わ・・・わたしにもぉ・・・あん、みきちゃぁん・・・」

 美砂と美樹の二人だ。その姿は、まるで白蛇が絡まり合うような、淫靡で妖艶なオブジェ。この時期の海風はそれなりに涼しいが、全裸で絡まり合う二人は汗ばんでさえいた。
 エレナの暗示で、二人は快楽を与え合う事しか考えられなくなっていた。自分の身体のどこをどうされても気持ち良く、相手の身体のどこをどうしても気持ち良い。自分と相手の境界が限りなく希薄になり、結果、己の尻尾を飲み込む伝説の蛇のように、終わりの無い悦楽を体現していた。

「・・・あふ・・・あぁん・・・すてき・・・ん・・・」
「みきちゃ・・・ああっ・・・うぁ・・・・あ、あはぁ・・・!」

 汗に濡れた肌が触れ合うだけでも、二人には快楽を感じる事が出来た。全身が性感帯として機能し、相手の喘ぎすらも甘く鼓膜を震わせる。
 相手の肌を舐める舌が、相手の肌に愛撫されているかのように、快楽を伝える。快楽の総量は、愛撫する側とされる側で均等に味わっている。それは、究極の形かも知れなかった。

「美砂ちゃん・・・」

 夕緋が悔恨の涙を流しながら呟いた。今の美砂には、どんなに大きな”声”を出しても届かない。それほど強力に、美砂と美樹は絡め取られていた。

「ごめんなさい・・・」

 夕緋の能力も封じられ、今は自分の身体さえもまともに動かす事が出来ない。ただ美砂と美樹の痴態を見て、小さな声で謝る程度だ。半分虚ろに輝きを無くした瞳は、深い絶望を宿していた。

「・・・どういうつもりですか?」

 冷静に言葉を発したのは、達哉だった。しかし、エレナに向くその視線は、明確な殺意を孕んでいる。もしも視線に人を殺める力があるのなら、達哉は既にエレナを殺していただろう。

「あの二人のこと?ただのお食事よ。ああいう性行為で発生する精気を吸収してるだけ。あ、でも夕緋ちゃんが苦しんでるから、一石二鳥っていうのよね?」

 エレナの達哉に笑いかける笑顔は、眩しいほどに陰の無いものだった。ほとんど無邪気と言っていいぐらいに。
 ・・・ぎり。
 達哉は強く奥歯を噛み締めた。
 逆に言えば、なぜこれほど残酷な行為を、なんの罪悪感も無く実行できるのかという事でもある。
 それは、自分と同格の命と認めていないからだ。エレナは、まるで子供が昆虫の手足をむしるように、気に入っている人形の髪の毛を掴んで振り回す子供のように、人間に対して罪悪感を抱かない。

「ぼくを殺せばいい!どんな拷問をしたって構わない!だから、この子達を見逃してくれ!」
「い・や・よ」

 歌うように軽やかに、一言一言を区切りながら、エレナは微笑んだ。まるで、恋人にわがままを言って、困る姿を楽しむように。

「それに、わたしからエリーを奪ったあなたは、簡単には殺してあげない。泣きながら殺してくれって言うぐらい、苦しめてあげるわ。肉体的な苦痛なんて単純なものじゃなくて、もっと苦しい・・・心が壊れるほどの絶望をね」

 艶やかに達哉を見詰めながら、まるで愛の言葉のようにエレナは囁く。それからふと何かを思い付いて、笑みを深めた。

「そういえば、この国ではあなたの事を『おとこやもめ』って言うのよね?だったら、死ぬ前に、良い思いをさせてあげる」

 エレナは視線を移した。その先には夕緋が、いた。
 達哉はおぞましい予感に、全身を総毛立たせた。それ以上エレナに何も言わせてはいけないと、心の底からの警鐘が鳴り響く。

「”夕緋ちゃんをめちゃくちゃに犯しなさい。もの凄く気持ち良くなれるわよ”」
「やめろ!」

 達哉が声を荒立てる。しかし、達哉の身体は達哉の意思を無視して、勝手に立ち上がった。

「やめろ!!」

 達哉の両手が、夕緋の肩を押さえて、地面に押し倒した。夕緋はまるで人形のように、抵抗の素振りも見せずにいる。

「やめろぉっ!!」

 達哉の手が夕緋の制服に掛かり、信じられないほどの力で引き裂いた。月明かりの下、穢れ無き白く滑らかな肌が晒された。

「やめろぉぉおおおっ!!」

 久遠岬に、達哉の慟哭が響いた。

 ・
 ・
 ・

「・・・おとうさん?」

 夕緋は夢から覚めた直後のように、どこか頭の回転が鈍い表情で達哉を見上げた。なんでお父さんがはだかなんだろうとか、なんでおとうさんの背後に星空が見えるんだろうとか、なんで潮の香りが濃く漂っているんだろうとか、胡乱な頭で呆と考える。なんでおとうさんは泣いているんだろう、とか。

 ───泣いてる?───

 その瞬間、今までの記憶が、一気に甦った。美樹が操られていた事、美砂が捕まっていた事、・・・自分がエレナに負けた事。
 さっきまで、美砂を守れなかった現実から逃避するように、全ての事象がスクリーン越しのように感じられていたが、だんだん実感を取り戻してきた。

「ふふ、せっかくのイベントだから、頭をはっきりさせてあげたの。やっぱり、楽しんでもらいたいものね」

 嬉しそうなエレナの声が夕緋の鼓膜を震わせた。少し離れた場所で、面白そうに夕緋を見下ろしている。

「どう・・・する気?」

 うふ、とエレナは笑った。聞いて欲しかった事を聞かれたように、もったいぶって答える。

「えっちしないままで死んじゃうのも可哀想だし、ね。最期にたっぷりと味合わせてあげる。ほら、おとうさんももう、我慢できないみたいよ」

 改めて自分に覆い被さる達哉を見ると、達哉が全裸でいる事に気が付いた。自分も、制服の切れ端とソックスぐらいしか身に付けていない。達哉の股間では、男性器が硬くなってひくついているのが見て取れた。

「あ・・・」

 顔を赤らめた夕緋の唇に、達哉は貪るようなキスをした。舌も、歯茎も、唇の裏も、全てを蹂躙するように、達哉の舌が踊る。唾液が流し込まれて、夕緋は吐き出す事も出来ずに飲み込んだ。
 それは、達哉の味がして・・・なぜか、ひどく甘く感じられた。

- 2 -

 夕緋の唇から、達哉のそれが離れていく。達哉の唇から、今まで夕緋の中で暴れていた舌が覗いている。そこから唾液の糸が一本、夕緋の唇に繋がっている。名残惜しげに顔出した、夕緋の舌へと。
 達哉の唇は、夕緋に嫌悪感を与えなかった。それどころか、微かな陶酔に夕緋の頬が赤く火照っている。火照りは収まる事無く、身体中に燃え広がっていくようだった。

「は・・・ん・・・」

 達哉は夕緋の脚の付け根、もっとも敏感な場所に手を伸ばした。位置を確認するようにまさぐる指が、夕緋の身体を熱くしていく。
 自然と漏れる微かな喘ぎには、拒絶の色は微塵も感じられない。今、夕緋は達哉の全てを受け入れようとしていた。それは、今できるたった一つのエレナへの反抗。達哉の心を守る行為。

「ん・・・おとうさん、泣かないで・・・はぅ・・・わたし、だいじょうぶだから・・・」

 達哉からの応えは無い。ただ、夕緋の頬を濡らす液体が、その量を増したように思えた。だから、そっと手を伸ばして、夕緋は達哉の頬を拭ってあげた。

「・・・わたし、なにがあってもおとうさんをキライにならない・・・だから、きにしないで・・・」

 まるで幼い子供を癒すように、夕緋は語り続ける。どこかで既視感を覚えて、ふと夕緋は言葉を詰まらせた。

 ───あぁ、わたしが泣き止まなかった時、こう言ってもらったんだ───

 ふと、夕緋の口の端が笑みを浮かべた。余裕のあるようなフリをして、実は怖かったんだと、そう気が付いた。達哉に掛けた言葉は、それは自分が言って欲しかった言葉だと。夕緋の身体から、今まであった緊張がほどけて行った。

「んっ!」

 達哉が中に入ってくる。少しだけ濡れた膣壁を押し広げるように、ゆっくりと、しかし止まる事無く入ってくる。初めて異性を受け入れるそこは、本来ならば苦痛しか産み出さないはずだったが、夕緋が感じているのはじん、と痺れるような圧迫感だった。

「あっ、お・・・おとうさ・・・」

 しかも、痺れるような感覚の中に、小さく別種の感覚も混じっている。それは、気持ち良いと言っても差し支えない感覚だった。今はまだ小さいが、ゆっくりと燃え広がり、大きな火に発展しそうな予感もある。

「んっ、んぅ・・・ふああ・・・」

 達哉が一番奥まで辿り着くと、夕緋は安堵の溜息を漏らした。それは、初めて感じる”満たされた”という感覚が無意識にもたらしたものだ。そっと、夕緋は達哉の背に手を回した。

「ぐぅうっ」

 達哉は、苦痛とも快楽ともつかない声で呻いた。もしも身体が自由になるのなら、舌を噛み切ってしまいたい・・・それほどの激情に駆られていた。しかし、エレナに操られた身体は指一本すら自由にならない。心だけが切り離されたような現状は、確かにどんな拷問よりも達哉を傷付けた。

「ほらほら、”もっと激しくおやりなさい”。可愛い娘さんを、満足させてあげなきゃ」

 明らかに面白がっている口調で、エレナが促した。腕を組んで見下ろすエレナの目は、達哉の苦悩を理解して笑みの形に弛んでいる。

「うぅ、うあぁっ!!」

 夕緋は悲鳴を上げた。一番奥・・・子宮口で馴染ませるように動きを止めていた達哉の男性器が、抜けるギリギリまで引かれた後で、勢いをつけて打ち込まれたからだ。
 それは、夕緋にとっては苦痛でも、ましてや快感でも無かった。身体がバラバラにされそうな衝撃。達哉の一突き一突きが、夕緋の身体の中から頭へと突き抜けて行くようだった。それでも、夕緋の女としての肉体は、少しずつ快感として受け止めて行った。

「ふあ、あ・・・へん・・・へんなの・・・え?・・・あっ!!」

 ぞくり、と夕緋の背筋に何かが走った。自分の手や足から力が抜けて、そのくせ身体中が敏感になって、滴る汗や触れ合う肌、身体の中を掻き回すもの、そのすべてが身体を熱くするように感じられた。

 ぐちゅっ。ちゅぶっ。

 大量に分泌され始めた愛液が、達哉の抽送に合わせて淫猥な音を立てた。

「あっ、あはっ、なんで・・・、あん・・・きもち・・・きもち、いいよぉっ!」

 だんだん、夕緋の頭から周りのことが消え去っていった。あるのはただ、達哉の匂い、達哉の感触、達哉の温度、達哉の・・・すべて。
 他人との接触を恐れる夕緋にとって、もっとも身近で、もっとも親しい異性は、達哉だった。達哉だけが、夕緋のパーソナルスペースを超えて、もっとも近付ける異性だった。そんな達哉に、今、夕緋は抱かれている。幸せだった。

「あ、ああぁっ、いいっ、いいよぉっ!あん、あっ、お・・・おとうさぁんっ!!」

 夕緋は、高まる性感に、無意識のうちに達哉のものを締め上げていた。濡れた襞がこねるように蠕動し、奥へと引き込むように蠢く。達哉には、それ以上我慢する事はできなかった。

「はっ!ああっ!あああああっ!」

 何度も吐き出された達哉の精液が、夕緋の一番奥を満たした。その都度、夕緋の身体は苦痛を感じているように痙攣するのに、その手は・・・脚は、達哉を抱き締めて、放さなかった。

「んぅ・・・あ、あはぁあああ・・・あつぅ・・・い・・・」

 達哉の全てを受け止めて、夕緋は幸せそうに熱い吐息を吐いた。罪に震える達哉の背中を愛しげに撫でて、贖罪を告げるように囁いた。

「おとうさん・・・わたしは何も変わらないから・・・どこも、傷付いていないから・・・だいじょうぶ、だよ・・・」

 夕緋は微笑んだ。

「だいじょうぶ・・・」

 エレナは、二人の様子を詰まらなそうに眺めていた。もっと、どろどろしたものを期待していたのに、なんだか二人の結び付きを強くしただけに思えて、内心不愉快だった。

「まぁ、次のステップに進みましょうか」

 気を取り直したように独白すると、エレナは空を見上げた。そこには、昔から変わる事の無い月が、静かに下界を見下ろしている。エリーを失った時と同じ、蒼く美しい月。
 エレナは悟を見詰めて、良い事を思い付いたように笑みを浮かべた。次のステップは、当然最後の一人を呼び寄せる事。ならば、使い道の無くなったモノを、リサイクルするのもいいかも知れない・・・そう、思った。

- 3 -

「・・・さん・・・さとるさん・・・」

 悟の意識が浮上した。瀬蓮の部屋で、あまりにも無防備に寝入った事を認識して、感動する。たとえ自分の部屋でだって、悟は人の気配には敏感に反応する。それが起こされるまで起きないなんて、無様な・・・そう、心の中で思いながら、自然と顔が弛むのを押さえ切れずにいた。

「悟さん、もう8時ですから、家に帰らないと・・・」
「瀬蓮・・・服、着ちゃったんだ・・・」

 惜しいな、なんて呟くと、瀬蓮の顔が赤く染まる。

「もうっ!早く服を着て下さいっ!」
「あぁ、悪い悪い」

 無造作に悟が起き上がると、瀬蓮は悟に背を向けた。ちらりと見えた悟の逞しい身体が、まるで目に焼き付いてしまったように感じられて、顔が火照ってしまう。暫くごそごそと、悟が服を着る衣擦れの音が聞こえていた。

「はい、着たよ」

 瀬蓮が振り返ると、制服を身に付けた悟が立っていた。にこり、というより、にたりという笑みを浮かべて、瀬蓮を見遣っている。笑みの形に歪んだ唇が、人の悪さを表していた。

「でも、人の部屋で服を着るのって、なんか新鮮だな」

 そんな事を言って、よいしょ、とカバンを手に取る。かすかにむくれている瀬蓮に近付くと、頭をくしゃ、と掻き混ぜた。妹達にするように、愛情を込めて。

「んじゃ、そろそろ帰るわ。また、明日な」

 そう言って、部屋の外へ足を運ぶ。玄関まで歩くと、ふいに、少し険しい表情をドアの向こう側に向けた。
 がちゃり。
 悟がドアノブを回す前に、外から誰かが回した。キィと小さな音を立てて、ドアが開く。

「お父さん!」

 そこには、夜目にもそれと判るほど、明確に顔面を蒼白にした達哉が立っていた。右手をポケットに入れたまま、硬い表情で立っている。
 瀬蓮はこの時間に悟がいる事の説明も忘れて、サンダルをつっかけると達哉に近付いた。

「どうしたの、お父さん!だいじょうぶ?」
「ああ・・・」

 どこか虚ろな瞳を瀬蓮に向けて、溜め息にも似た返事を返す。

「瀬蓮・・・エレナが久遠岬で待っているよ・・・夕緋も・・・夕緋の友達・・・美砂や美樹という子も一緒に・・・」
「な、なんでっ!」

 狼狽する瀬蓮に、達哉は微笑んだ。ひどく透明で、今にも消えてしまいそうな、悲しみを含んだ笑み。

「ごめんね」

 そう言うと、達哉はポケットからナイフを取り出すと、なんの躊躇も無く自らの胸に突き立てた。は・・・そう小さい吐息を洩らして、その場にくずおれた。何か人形めいて四肢が投げ出され、その胸には紅い染みが広がって行く。

「え・・・おとうさん・・・?」

 頭の中がショートしたように、瀬蓮は何も考えられなくなっていた。呆けたように達哉だったものを見下ろして、質の悪い冗談を目にしたように、反応できずにいる。

「ごめん、とっさに動けなかった」

 悟はそう言うと、瀬蓮の身体の横をすり抜けて、玄関から外に出た。悟は苦い表情で、無惨な結果を受け止めた。自分が悪いと判っている。”憑かれて”いるのは気が付いていたのだから。瀬蓮が前に出ていても、瀬蓮は守れると思ったのが失敗だった。
 一目見て、即死と判った。骨を避けて、綺麗なほど、心臓を一撃で貫いている。

 ───あぁ、そう言えば、瀬蓮のお父さんは医者だったっけ───

 不思議と静かな表情の達哉を見下ろして、悟は思った。心が、凪いでいる。人が一人、目の前で死んだというのに、その心はまったく動揺していない。
 達哉を抱き上げると、少し考えてから廊下に横たえた。

「さすがに、あそこに寝かせておくのは、可哀想だしな」

 瀬蓮に言うとも無く、悟は呟いた。
 それから悟は瀬蓮を振り返った。まだ玄関先の赤い染みを見詰めている瀬蓮に近付いて、その頭を自分の胸に押し当てた。本当は泣かせてあげたいのだけど・・・。

「瀬蓮・・・呆けてる暇は無いんだ。妹達が、捕まってる」

 そう、瀬蓮の父親はメッセンジャーにしたてられていた。いつ、エレナというセイレーンと接触したかは判らないが、逆に言えば、その神出鬼没ぶりなら、妹達を捕まえるなど、たやすいだろう。
 ぴくん、と反応する瀬蓮に、悟は根気強く語り掛けた。自分だけでは、勝てるかどうかは判らない。それでも賭けられているのが妹達の命なら、少しでも戦力が欲しかった。警察の協力を得る事が出来ない現状では、一緒に闘えるのは瀬蓮しか居なかった。

「お父さんは助けられなかった。でも、妹達は助けたいんだ!頼むよ!」

 瀬蓮の呼吸が、悟の熱気に炙られたように、一瞬止まる。それから小さく頷いた。

「そ・・・そう・・・そうだよね・・・。さんにんを・・・たすけなきゃ・・・ね・・・」
「ここから久遠岬まで、自転車なら30分もかからないと思う。行こう!」

 まだ自分を取り戻していない瀬蓮を自転車の後ろに乗せると、悟は自転車を走らせた。住宅街を抜けていくと、いっそう闇が深くなった気がした。

- 4 -

 ───どう、戦う?───

 自転車をこぎながら、悟はそれだけを考えていた。
 自信は・・・無い。
 しかも、ただの喧嘩とは違って、殺し合いになるだろう。
 それは、悟にとって初めての経験だ。

 ───瀬蓮を襲った女生徒は”憑かれて”いた。それは”気”で祓えるのも確認出来ている。なら、”気”で防御できるのか───

 ”憑かれた”状態と”憑かれる”過程で、”気”が同じ効果を発揮するか・・・試して見なければなんとも言えない。

 ───それとも・・・───

 悟は師匠の教えを思い出していた。闘うという事に特化した存在の、究極とも言える在り様についてを。

 ───おれに・・・できるのか?───

 ・
 ・
 ・

「あら、まっすぐに来たのね。うん、偉いわよ」

 そう言う岬・・・エレナに、悟は瀬蓮を背に庇いつつ、真っ向から目線を合わせた。彼我の距離は30mほどか、潮騒を無視して聞こえるエレナの声がその異常性を示している。こうして見ると、目の前の存在がいかに異常な生命かが良く判る。ある意味では、瀬蓮とは別種のイキモノですらあった。
 学校に来ていた時は、自分の能力を隠していたのだろう。そうでなければ、この1Km離れていても感知できそうな、強大な気配に気付かないはずが無い。
 悟はぎり、と奥歯を噛み締めた。
 そうでもしなければ、心が負けを認めてしまいそうだった。

「キミ、校舎裏で瀬蓮ちゃんを助けたコよね?」

 悟の視線を受けて、エレナが笑う。
 傍らで、まるで人形のように座り込む夕緋の頭を、ペットにそうするように撫でながら。今は、美砂も美樹も、出来の良い人形のように、全裸で座り込んでいた。その扱いに、悟の握り締めた拳が、力を込め過ぎて震えた。

「時々いるのよ、アナタみたいにヒトを逸脱しようとしてるコがね。白血球みたいに、ヒト以外からヒトを守る存在。運命すらも味方につけて、”英雄”という怪物に成長するんだわ」

 買被られても嬉しくない。ましてやこんな化け物相手では。

「別に、そんな大したものじゃないさ」
「今はね」

 その言葉を合図に、エレナの周りに3つの光・・・小精霊が現出する。

「だから、今のうちに芽は摘んでおくのよ」

 光の残像を残して、小精霊が飛んだ。瞬く間に悟との距離を詰めて、それぞれが微妙に異なるライン、タイミングで迫る。普通の人間なら、その絶妙な攻撃の前に反撃も防御も出来ずに絶命したかも知れない。しかし・・・。

「刃!」

 悟は鋭く呼気を吐くと、両手の手刀を振るった。
 それは、まるで魔法のようだった。刀の形を模した手だけが瞬間移動したかのように位置を変え、空気を裂く音もさせずに小精霊を切り裂いていた。一切の経過を抜かして、結果だけを為すその動きは、近くに居た瀬蓮にも、影すらも見ることは出来なかった。

「あら、やっぱり」

 そう笑うエレナは、余裕を崩す事無く、小精霊の消失を判り切っていた事実として受け止めた。

「流石ね。じゃあ、今度はわたしと遊んでくれる?」

 軽く小首を傾げると、エレナは悟に向かって歩き始めた。ゆったりとした動きなのに、まるで早送りの映画のように、あっという間に距離が縮まって行く。
 その距離が9mを割った時、悟は放たれた矢のように、一直線にエレナに襲いかかった。腰に構えた右の拳を肩を入れるように突き出し、全身の力で突貫する。

 LulaLuluuh

 エレナの美しい声が辺りに響いた。それは、先ほど達哉の大口径のライフル弾を防いだ、空気の結界。まるで数トン単位の真綿を殴りつけたように、柔らかく、侵入させまいとする確かな抵抗を拳に与えて、悟の運動エネルギーを吸収した。

「届かないわよ」

 自信に裏付けられた笑みを浮かべて、エレナは囁いた。
 シルフの盾・・・限定空間を振動させ、無限に圧縮させるエレナのオリジナルの技・・・それを破れるものは、ありはしない。・・・普通なら。

「覇ぁああああっ」

 突き出した拳はそのままに、腰を捻り、大地を震わせるほど脚を地に打ち付ける。ダズン、という鈍い音を響かせ、小さなクレーターが脚の下に刻まれる。

「ああああああああっ!!!!」

 ”気”を、身体の経絡を経由して、腕に集める。周囲の全ての存在が、後押ししてくれているのを感じる。悟は、雄々しく吼えながらも、唇の端に笑みを浮かべていた。

「なっ!」

 それは、エレナにとって、生まれて初めて感じる戦慄。絶対防御壁───シルフの盾───を突き抜け、とっさに避けたエレナの顔を掠るように、悟の拳が通り抜けて行く。ぞくぞくする感覚を覚えながら、エレナは数メートルを跳躍し、悟との距離を取った。

「驚いたわ。そんな事が出来るなんて・・・ね」

 エレナは、唇が笑みの形に歪むのを自覚した。面白い・・・そう感じて。自分が本気を出せば、絶対に負ける事が無い・・・その前提を覆す存在が、無聊に磨耗したエレナの心を躍らせた。

「あははっ。面白い・・・面白いよ、キミ!」

 そう嬌声を上げると、エレナは両手をメタモルフォーゼさせた。別に、防御力の向上なんて考えていない。圧倒的な力で、相手をねじ伏せたい訳でもない。悟の力量には、これぐらいで十分と判っているのだ。

 Lululululu!

 その歌声は、エレナのものでは無かった。いつの間にか、全身をメタモルフォーゼさせた瀬蓮が、祈るように発した歌だ。それは、空気の塊を砲弾のように撃ち出し、エレナの腹部に命中した。あっさり数メートル、エレナを吹き飛ばす。

「瀬蓮!」
「悟さんほど強く無いですけど、わたしも闘います」

 瀬蓮は、確かな意志を込めて、悟に歩み寄った。もともと、エレナと闘う事を想定して、セイレーンの能力を高めてはいたのだ。例え人間相手には使えなくても、今は逡巡している暇は無い。せめて妹達だけでも救う為に、全力を尽くすと・・・そう誓った。

「ふふ、”なりそこない”にしては、なかなか効いたわよ」

 ゆらりと、エレナは立ち上がった。その口調に苦しげな様子は無い。

「でもね、まだまだ足りないの。がんばってね」

 エレナは両手の爪を伸ばした。それ自体が輝いているような、恐ろしいほどに美しい爪が合計10本、暗闇に映える。それは、指揮者の振るうタクトのように、優美な残像を宙に描いた。
 瀬蓮も負けずに爪を伸ばした。離れた場所から出来る最大の攻撃が無効だった以上、瀬蓮に取れる選択肢はそう多くは無い。

「行くわね」

 その声が聞こえるのと、エレナの姿か消えるのと、どちらが速かっただろう。瀬蓮は突然の出来事に思考が対応出来ずにいると、目の前に何かがあることに気が付いた。

「え?」

 その白く輝くものは、エレナの爪だった。瀬蓮の瞳孔が焦点深度を調整し、それと認識する以上の速さで振り下ろされて・・・悟が防いだもの。
 事態の推移の速度に瀬蓮はついて行けずに、あれ・・・、と呟いた。

「瀬蓮、退がるんだ!」

 必死に搾り出した悟の声に、我に返って後ろに退いた。今更ながらに瀬蓮の身体に恐怖が満ちた。これが、エレナの能力。瀬蓮を瞬殺しうる力。
 だが、目を見張ったのは瀬連だけではなかった。
 今の一撃は、エレナにとってもそれなりに本気を出した攻撃だった。それが、なんとかとはいえ人間に受け止められた・・・。絶対と信じたシルフの盾も破られた。自分にはまだ余裕があるとはいえ・・・。

 ───気を抜けば、殺されるのはわたし───

 心のどこかが甘く滴るような気分を味わいながら、自分でも判らないまま、エレナは微笑んだ。
 寂しげに・・・夢見るように・・・。
 幻を振り払うように、エレナは悟から距離を取った。

「凄いわ、キミ。でも、わたしは死ぬ訳にはいかないの」

 悟の心の中で、警鐘が鳴り響く。まるで首筋に刀を突き付けられたような、背筋が凍える程の危機感に、とっさにエレナへ跳び掛かった。1秒とかからない距離が、悟の目に絶望的に映った。

「だから、”止まって”」

 エレナは目の前に迫った悟の拳を見詰めた。
 目の前で動きを止めた、悟の拳を見詰めた。
 躍動する野生動物の瞬間を写真に切り取ったかのように、悟はエレナに打撃をくわえる直前の姿勢で、動きを止めていた。

「だめ!”動いてっ!”」

 悲鳴のように上げた瀬蓮の声は、悟には届かなかった。セイレーンとしての格の違いか、エレナの拘束力を超える事が出来なかった。

「これ、圧倒的すぎてつまらないんだけどね・・・」

 そう言いながら、瀬蓮を嘲るように見て、無造作に右手を振るう。

「ひ・・・」

 エレナの右手は、紙を切るよりも容易く、悟の脇腹を切り裂いた。思わず悲鳴を上げる瀬蓮に、エレナは笑う。頬についた返り血を舌先で舐め取りながら、エレナは陶然と佇んでいた。

「ほら、これでお終い」

 ぐちゅ、と悟の肉体に潜り込んだ爪を掻き混ぜて、ゆっくり抜き取った。悟の血で染まった爪を、瀬蓮に見せびらかすように動かす。
 運良く・・・とは言えないが、悟の内臓は腹圧で押し出される事は無かった。代わりに吹き出した血潮が、下半身を紅く染め上げていく。

「う・・・あ・・・」

 切り裂かれた事で呪縛が解けたのか、悟が呻き声を上げた。立っている事も出来ずに、傷口を手で押さえて、自らの血で染まった地面に膝をつく。それでも、悟の目は強い意志をたたえて、エレナを見上げていた。

「あら、その目はまだ絶望していないのね?」

 そう、血と一緒に力まで流出したような喪失感を味わいながらも、悟はまだ絶望していなかった。妹達を・・・瀬蓮を守る・・・ただそれだけを支えにして。

「だったら、教えてあげる。自分をくびり殺したくなるほどの絶望をね」

 その言葉と共に後に跳躍し、夕緋達のそばに着地した。人外の腕を振るうと、地面に美しい羽が突き立った。その数は3本で、それぞれが夕緋、美砂、美樹の目の前にあった。

「さぁ、”心臓に突き刺しなさい”」

 エレナの”声”に、3人は羽を手に取った。羽の付け根の鋭く尖った部分を、自分の胸に添える。死に向かって動く最中も、3人は虚無的な表情のまま、恐怖を感じてはいないようだった。

「”やめてっ!!”」
「やめろおっ!!」

 ず、と小さい音をさせて、羽はそれぞれの胸に突き立った。裸の胸に羽が生えている様子は、不思議とエロティックで、妙に美しく映った。エレナは満足げにその光景を見ていた。

「どう?絶望の味は?」

 その声を合図に、盛大に血を撒き散らしながら3人は倒れた。身体を小刻みに痙攣させ、死へと一直線に突き進む。

「どれほどの力があっても、どうしようもない歯痒さは?」

 それまで虚ろだった3人の瞳から、生の輝きまでもが失われて行く。誰かが誰かの名前を呼んだようだが・・・聞き取られる事も無く、風に流されて行った。

「手の中から、大事なものが失われる気分は?」

 すぐに、そこからは何の音もしなくなった。呼吸も、心音も。ただあるのは、熱を失い冷えて行く物体のみ。

「ほら、後には何も残らないの」

 エレナは悟と瀬蓮の方を向いて、微笑みながら小首を傾げた。

「ね?」

 ・
 ・
 ・

 悟は、静穏な気持ちでエレナを見返していた。
 不思議なほど、静かだ。

 ───あぁ、また守れなかったんだ───

 悟が強くなる事を自らに課したのは、小さい頃の出来事があったからだ。
 夜の公園で美樹を陵辱しようとする変質者。美樹を守ろうとする悟。その体格差で、万が一にも勝てる訳が無い。周りには助けを求められる人通りも無く、それだからこそ、何度殴られても悟は美樹を庇う為に立ち上がり続けた。
 歯が折れた。
 鼻血が止まらない。
 顔が腫れあがっている。
 身体中が熱い。
 それでも、悟は美樹を庇い続けた。それはいっそ愚直と言ってもいいぐらいに。

 偶然通りかかった警官に助けられたのだが、それ以来美樹は男性恐怖症に近い状態になってしまった。それに、悟に対する精神的な、強度の依存心。悟は、美樹の心を守ることが出来なかった・・・。

 ───おれは、今度は命を守れなかったんだ───

 ・
 ・
 ・

 悟はゆらり、と立ち上がった。先程までの、気迫が見られなかった。まるで、周りの景色に溶け込みそうな程、静かに、自然に立っている。

「不思議だ・・・何も感じないんだ。怒りも、悲しみも、憎しみも、それこそ何もかもさ。心が壊れたのかな?」

 そう言って、悟は透明な笑みを浮かべた。あまりにも透明過ぎて、斜め後ろから見詰める瀬蓮には、アルカイックスマイルのように見えた。

「だから、おれは・・・」

 悟は一歩踏み出した。エレナとの距離は15メートルほど。普段の悟の間合いは約10メートルなので、攻撃するにはまだ遠い。ましてやこれ程の傷があっては・・・。

「あなたを殺そうと思う」

 ───憎しみではなく、必要だから───
 ───もし、あの境地に達する事が出来なかったら、死ぬのはおれ達だけど───

 その瞬間、悟は笑みを深くした。楽しい訳では無いのに、それ以外の表情を選択出来ないとでも言うふうに。

「困ったコね。いいわ、殺して、あ・げ・る」

 エレナは苦笑混じりに言った。失血で顔面を蒼白にしているこの少年に、何が出来るというのか。それこそ、爪の一振り、衝撃波の一撃であっさり殺せるだろう。
 だから、エレナは気付かなかった。
 どれ程”声”や”空気”を扱えようと、”気”については知識が無かったから。
 悟の”気”は、その全てが内側に収斂していた。
 通常、存在はその”気”を無意識のうちに発散している。”気”に長けたものであるなら、”気”を隠す事で”気”配を絶つ事も出来る。しかし、今悟がしている事は、根本からアプローチの異なる”何か”だった。

 す、と悟は動き始めた。まるで最初からそうしていたかのように、走り出す瞬間が認識出来ない、自然な動きだった。傷の痛みも忘れてるのではと思うぐらい、そのフォームは美しく、力強かった。
 それでも、エレナとの距離はいまだに数メートルを残している。疾さでは悟以上のエレナにとって、それは余裕の距離だった。だからエレナは微笑みながら、その絶対の言葉で悟に命じた。

「”止まりなさい!”」

 その時には既に、悟は止まっていた。

「悟さんっ!!」

 悟を失う恐怖に、瀬蓮が悲鳴を上げた。
 その悲痛な声に、エレナがほくそ笑む。
 悟は止まっていた。その心だけが。

「なっ!」

 次の瞬間、エレナは驚愕に声を上げていた。悟はエレナの”声”に反応せずに、一直線に向かって来たのだ。
 それは、悟にしても初めての技。意識を自ら封印して戦う事で、苦痛も、限界も置き去りに、純粋に格闘する為の機械になるという技。人はそれを、無我の境地と言う。実際に格闘技で、気絶しても闘い続けたという逸話は良くある。それは闘争本能が身体を動かすからだ。しかし、悟を動かすものは闘争本能ですら無く、まさに”無意識のうちに身体が動く”というレベルだった。

「くっ!!」

 エレナは一瞬で立ち直り、その爪を振るった。それは、瞬間的に加速した悟の背を、浅く切り裂いたに過ぎなかった。
 逆に、悟は加速した勢いを乗せて、エレナの喉に二本貫手を突き込んだ。人差し指と中指が、その根元までエレナの喉に潜り込む。それは、普通の生物なら即死してもおかしくない傷だったが・・・。

「がっ、かはっ!」

 血を吹き出しながら、エレナは壮絶な笑みを浮かべていた。
 誰が想像しただろう・・・このような形で”声”を無力化するなど・・・比較的脆い箇所とは言え、素手でセイレーンの皮膚を突き破るなど・・・。
 さすがは人類の守護存在。
 ひとのうちにありて、ひとを超えるもの。
 エレナは運命の皮肉を思って、嘲笑を浮かべた。
 くぷ。また、血が口内を満たし、唇の端から洩れた。
 この傷が致命傷だと、判っている。
 だから・・・瀬蓮を殺すほどの余裕は無いのだから・・・せめてこの少年を連れて行こう。

 エレナはその手を持ち上げた。幸い、悟は力を使い果たしたのか、更に攻撃してくる様子は無い。後は爪を振り下ろすだけという状況で、エレナは瀬蓮に視線を向けた。それは、大事なものを奪われる絶望の表情を見るためだったが、泣きそうな瀬蓮の顔が、エレナの自ら封じていた記憶を呼び覚ました。

 ・
 ・
 ・

「でもね、エレナ・・・。人がただの餌だと言うのなら・・・」

 あの時、人間を餌だと謂い切ったわたしに、エリーはわたしに同情するような、悲しそうな表情で言ったんだった。わたしは強かったし、今はもっと強くなった。だから、いくらエリーにだって、そんな顔をされる謂われは無いはずなのに。

「なんで、わたし達は人間がいなければ、種を存続させる事が出来ないの?」

 それは、なんて矛盾。
 でも、視点を変えるだけで理解できてしまう。カマキリのメスは、子供を作るときにオスを食べるという。セイレーンがやっている事と、何が違うというんだろう。
 なら、セイレーンという種族の、どこが高等だというんだろう。
 あの時は、それを理解するのが嫌で、記憶からも消し去っていた。
 それは、なんて皮肉。
 今、人間に殺されようとして、初めて理解できるなんて。

「しかたないわよ。わたしたちはずっとそうして生きてきたんだから」

 エレナは信じられないものを見たように、目を見開いた。血が溢れかえって、呼吸もままならない唇から、声を搾り出す。

「・・・エリー?」

 それは、エリーだった。エレナが殺した、エレナがもっとも愛しいと思う妹。エリーはエレナを見詰めて、優しく微笑んでいる。

「一緒に、行きましょう。迎えに来たのよ」

 エレナの瞳から、涙が流れた。まるで小さい頃に戻ったかのように、素直な言葉がエレナの心の中から溢れ出した。

「わたし・・・ずっと寂しかったの。エリーを殺して、エリーがいなくなって、ずっとひとりで寂しかったの・・・。だから・・・だからっ!」

 嗚咽するエレナに、エリーは安心させるように微笑みかけた。優しく、その手を差し伸べる。

「うん・・・。だから、一緒に行こう?」

 エレナは、エリーに手を伸ばした。身体が、暖かい光に包まれて行く。

「ずっと・・・いっしょに・・・」

 ・
 ・
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 瀬蓮が近付くと、エレナは既に事切れていた。
 その表情は、罪業を赦された者のように、幸せそうに微笑んでいた。

- 5 -

「・・・さ・・・。さと・・・ん・・・」

 海面に浮上するように、悟の意識が目覚めた。重い瞼を開けると、そこには顔を涙でぐじゅぐじゅにした瀬蓮がいた。

「さとるさん・・・」

 悟は、傷付けられた肉体よりも、心の方が痛いことがあると、瀬蓮の泣き顔を見ながら知った。身体の傷は我慢できるのに、心の痛みはどうしようもない。

「ごめんな・・・おれ、もうだめだわ」

 悟はあっさりと告げた。それは、自分の”気”が拡散していくことから、どうしようも無いほど理解できた。自然と”気”が拡散する・・・発散とは違うそれは、存在が存在し続ける力を失っているという事。すなわち、死。
 原因も判っている。最期の奇跡のような動き、あれが傷付いた内臓を、完璧に破壊したのだと。修復のしようも無いほど、それは絶望的な破壊。
 瀬蓮もそれが判っているから、この場所を動かせられなかったんだろう。無理に動かせば、その瞬間にも死んでしまいそうだ。

「ごめんなさい・・・わたしのために・・・みんな・・・みんな・・・」

 悟はなんとか手を伸ばして、瀬蓮の頬に触れた。

「瀬蓮のせいじゃ・・・ないだろ・・・気にするなよ・・・」

 悟は、自分の技が発展途上である事を、少しだけ悔やんだ。自分の傷を癒せるほどに、エレナをあっさり倒し得るほどに、みんなを護りきるほどに、自分が強ければ・・・瀬蓮を泣かせる事も無いかっただろうに、と。

「それより・・・瀬蓮の歌が聞きたいな。いつか聞いた・・・オリジナルの、さ」

 瀬蓮は首を横に振った。一回だけ悟の前で歌った事のあるあの歌は、光溢れる恋の歌だ。今、この状況で歌える訳が無い。

「・・・たのむよ」

 急速に、悟の命の炎が燃え尽きようとしているのが、瀬蓮には判った。小さな声で、しゃくりあげながらも、瀬蓮は恋詩を紡ぎはじめる。波の音を演奏に、優しくて、悲しい歌声が流れる。それは、失われつつある最愛の者に送る、葬送の歌でもあった。
 悟は満足そうに微笑みながら、は・・・と吐息を漏らした。見上げると、瀬蓮が大きな月を背景に、涙を流しながら歌っている。閉じた目から流れる涙は、本当に宝石のように綺麗だった。

「あぁ・・・きれい・・・だ・・・」

 悟は最期の吐息と共に、呟いた。
 薄れて行く意識の中で、悟は瀬蓮の事を想っていた。幸せに、なって欲しいと。

 そして、聞く者のいない久遠岬で、瀬蓮はいつまでも恋詩を歌い続けた。
 夜は、まだ明けない。

< 続く >

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