EDEN 3rd 第二章

第2章

─ 1 ─

 ぴんぽーん。
 館の重厚さとは不釣合いなほどに軽いチャイムが、ぼくに来客を告げた。
 今日はかなた&友香の企画、ぼくが場所提供のもとで行われる、お泊りパーティーの実施日だ。予定よりは多少早いけど、3人が到着したのだろう。
 ぼくは午前中の買い物の疲労が残る身体を動かして、ぺたぺたとスリッパの音をさせながら玄関に向かった。かなたと友香は客間の布団を取込んだりしていて、手近なのはぼくだけだった。

「いらっしゃ・・・わわっ」

 ぼくが玄関のドアを開けると、そこには凄い光景が展開されていた。失礼だとは思いながらも、思わず悲鳴めいた声が洩れるのを、止める事が出来なかった。
 椎名さんと神名さんは、普通の格好と言っても大丈夫だろう。
 椎名さんはジーンズの上下でラフにまとめて、ボーイッシュに決めている。茶色掛かった髪を押し上げるようなサイズの丸眼鏡が、微妙と言えば微妙かも知れない。その奥の鋭い目付きを隠し切れていないというか。
 神名さんは、明るい色のスラックスで、男装の麗人という表現がぴったりくるようだった。さり気に椎名さんの斜め後ろに立っている事が多いけど、よっぽど仲が良いんだろう。そう言えば、髪の毛の間から覗く左目が、椎名さんを見守っているような気がする。
 問題は・・・そう、沙隠路さんだ。
 淡い桃色の、フリルをふんだんにあしらった、可愛らしいファッションなのだ。(後でかなたに聞いたら、ピンクハウスというメーカーのものらしい)それがまた激しく似合っていて、どこか茫とした笑みを浮かべた表情や、少しふんわりとした雰囲気にマッチして、まるで妖精のような綺麗さと可愛さの危ういバランスを構成している・・・って、思わず見惚れてしまった。

「あ、その・・・ちょっとびっくりして・・・」

 ぼくがもごもごと言い訳をすると、神名さんがにやりと少しいやらしい笑みを浮かべた。どこか共犯者めいた、友達とわるだくみする男の子のような笑みだった。

「ああ、いつもの事だから、気にしないで。直子はこういう趣味なんですよ。・・・目立つのが欠点なんだけど、ボクは好きだな」

 神名さんと話すと、いつも同性の友達と話しているような気分にさせられてしまう。でも、それで動揺が治まったんだから、感謝するべきなんだろうけど。

「えへへー。ね、似合う?似合うー?」

 満面の笑みを浮かべた沙隠路さんが、ぼくの前にとてててっと歩み寄ると、下から覗き込むようにしてぼくを見上げた。眠そうにとろんとした目の下・・・頬のあたりがうっすらと上気している。無警戒に距離を詰める仕草に、ぼくの動悸が少しだけ早くなる。

「ええ、似合ってます。・・・その、どうぞ入って下さい」

 緊張してしまったせいか、少しぼくの口調が固くなってた。不審に思われない程度に微笑むと、ドアを開けて3人を招き入れる。
 取り敢えず、3人にはスリッパを履いてもらって、リビングに案内する。長い廊下をぺたぺたと音をさせながら、ゆっくりと歩いた。3人は興味が尽きない様子で、窓の外の風景や、壁に掛けられた絵画、ついには壁やドアなど、目に入るもの全てに感心しているようだった。

「ずいぶん大きなお屋敷ですね。近くには他に住んでいる人がいないみたいですけど、怖くはないんですか?」

 椎名さんが丁寧な、けど心を許していないと判る口調で話し掛けてきた。ぼくが椎名さんの方を見ると、身長差のせいで見下ろすようになってしまう。まるで人に慣れない子猫の相手をする気分で、ぼくは口を開いた。

「うん、結構セキュリティには気を付けてるよ」

 勿論、祖父のお手製のセキュリティだけど。何しろ、ここの地下室には結構な数の発明品が転がっているので、絶対に盗難だけは防がないといけないし。

「まぁ、受験勉強に集中するにはとても良い環境だったよ。おかげで一浪だけですんだからね」

 少しおどけてみせる。自分としては結構遊んだというのに、ここから通えるそれなりの大学に入れたという事で、ぼくは一浪で済んだのは運が良かったとも考えている。

「でもー、わたし一人だったら、寂しくて泣いちゃうー」

 自分に置き換えて想像したのか、本当に泣きそうな顔で沙隠路さんがぼくの左腕に縋りついた。結構密着したので、そのふくよかな胸が押し付けられて、柔らかい感触が伝わった。そのぼくを信頼しきった態度に、思わず焦ってしまう。

「あの、沙隠路さん・・・あまり・・・その・・・」
「え・・・あ、えへへー」

 ぼくが口篭もると、沙隠路さんは照れたように顔を火照らせて、少し身体を離した。それでも、右手の人差し指と親指で、ぼくの服の端を掴んだままだった。

「ほら、直子。天野さんに迷惑を掛けない!」

 椎名さんがずばっと斬り捨てるようにはっきり言うと、沙隠路さんの襟首を捕まえて、後ろに引っ張った。かくん、と頭を残したまま、沙隠路さんの身体が移動する。なんだか、首を痛めそうな危うさを感じてしまった。

「うー、ひどいよー。首、がくがくしちゃうよ、ゆーみちゃん」
「今のは、直子が悪い」

 半泣きで抗議する沙隠路さんに、椎名さんが冷たい口調で斬り捨てた。

「まぁまぁ、ゆーみにはボクがいるだろ?」

 椎名さんの背後から、神名さんがふわりと両腕を回して抱き締めた。耳元で妖しく囁く姿に、ぼくはなんだか見てはいけないものを見てしまった気分になった。

「くっつくなっ!」

 椎名さんが大声で怒鳴りながら暴れるけど、神名さんは見事な程その動きを読んで、攻撃を受けないように、それでいて離されないようにくっついている。でも、その行動ほどには、椎名さんの顔は嫌がって無い気もするんだけど。

「神名なんて、キライだーっ!」

 椎名さんの怒声が窓を揺らした。
 そう言えば、周りに他の家が無い利点は他にもあった。大声を出しても、迷惑を掛けないで済むって事だけど。

─ 2 ─

 少し経ってから、ぼく達はリビングでお茶していた。
 3人の持ってきたのは着替えだけじゃ無くて、駅前の美味しいと噂のケーキもだった。かなたが紅茶を人数分用意して、ありがたく頂く事にする。部屋には後で案内するから、荷物は壁際に置いてもらった。

「かなたちゃん、これおいしー」

 早々にケーキを食べて、次にかなたが焼いたクッキーを手にした沙隠路さんが、幸せそうに顔を弛めて、頬に手をやりながら感嘆の声を上げた。本当に美味しいと感じているのが伝わる表嬢で、かなたも嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう。沢山あるから、どんどん食べてね」

 実際、大皿の上には色んな種類のクッキーが、鮮やかに食卓を飾っている。
 チョコをまぶしたものや、ジャムをトッピングしたもの、ココア味のものやバター風味のものなど、思わず全種類を攻略してみたくなるほどだった。

「本当に美味しいよ。ね、ゆーみ」

 神名さんはさり気無く椎名さんの隣に座って、丁寧に手でクッキーの欠片を受け止めながら、にこにこと微笑んでいる。でも、そのにこにこした表情は、しょっちゅう椎名さんの方に向いているんだけど、誰もそれを気にしていないみたいだから、ぼくも気にしない方がいいんだろう。多分。

「ん」

 一番驚いたのは椎名さんで、微妙に顔をしかめながら、次から次へとクッキーを手に取って、ひたすらに食べ続けている。神名さんの言葉にも反応しないで、まるで親の仇のようにクッキーを食べている姿は、なんだか鬼気迫るものが感じられた。

「椎名さんも、そんなに焦らないで。まだまだ沢山あるから、ね」

 さすがにかなたが落ち着かせるように、椎名さんに声を掛けた。その笑顔が苦笑めいて見えるのは、ぼくの目の錯覚では無いはずだ。

「ん」

 言われて恥ずかしくなったのか、顔を少し赤らめて椎名さんの食べるペースが落ちた。

「ゆーみちゃん、複雑なんだよねー」

 沙隠路さんが、小首を傾げるようにしながら、ねーと言う。笑みに細めた目が、なんだかお見通しって感じの色を浮かべていた。ただ美味しいから食が進んだ、というのとは違うんだろうか?

「別に、そんな事は無いし」

 椎名さんは少し不貞腐れたようなぶっきらぼうな口調で言うと、口を休めるように紅茶を一口啜った。それからやっと紅茶の美味しさに気が付いたように、少し驚いた顔で目を見開いている。ぼくから見ると、椎名さんは頭が良く感じるんだけど、それだけに余分なストレスを感じる方なのかも知れない。

「ごめん、がっついちゃった。クッキーもそうだけど、紅茶も美味しいね」

 表情の読み辛い大きな丸眼鏡の向こうで、それでも目付きが柔らかくなった気がした。

「ねぇねぇ、一区切りついたら、中を案内するね!広くて、すっごいんだよ!」

 友香が興奮したように言うと、3人は興味津々といった表情で頷いた。実際、この広い館を見ても動じないのは、沙隠路さんぐらいだと思う。ぼくだって始めてこの館に来た時には、冒険するのが楽しみだったし。
 友香は一区切りと言ったけど、みんなのクッキーを取る手は、だんだん停滞気味になっていた。まぁ、山ほどあったクッキーを、底が見えるほどに食べたんだから、もうお腹一杯になった頃なのかも知れない。

「じゃあ、かなたと友香で案内してもらえるかな?ぼくはここを片付けておくよ」
「あ、それなら私がしますから」

 かなたに言われて、少し頭の中でシミュレートしてみる。
 ・・・。やっぱり、かなたはまとめ役で、一緒にいてもらった方が良さそうだ。ぼくが頭の中でシミュレートした内容は、怒られそうな展開なので、みんなには秘密だけど。

「やっぱり、ぼくがやるよ。美味しいクッキーを食べさせてもらったからね。かなたはみんなを案内してあげて」

 ぼくが軽めの口調で言うと、かなたは少し思案げな表情を浮かべて、それから微笑みながら、「はいっ」と返事した。ぼくも、これで大丈夫と思い、微笑み返す。

「じゃあ、行こっか!」

 友香の元気な号令と共に、全員が椅子から立ち上がった。

─ 3 ─

 5人で連れ立って廊下を歩く。3人が横に並んでも、狭いとは感じない廊下の作りは、ある意味日本とは思えない贅沢さだ。まぁ、直子の家もこんな感じではあったけど。

「この2階の廊下からの眺め、私好きなの。ほら、随分遠くまで見渡せるでしょう?」

 かなたが廊下に面した窓を、指を揃えて、まるでバスガイドのように指し示した。かなたは少しうっとりとした表情で、窓からの眺めを見遣っている。

「もう少しすると、桜が凄く綺麗に咲いてくれるんです」

 その光景を思い出したのか、ほう・・・と小さくため息をついた。その表情のほうこそ綺麗だとあたしは思った。だって、目が離せなくなるから。

「かなたちゃんが料理を作ってくれてね、3人でお花見したんだよ。とっても美味しかったよ!」

 友香が元気良く続いた。微妙に色気の無い台詞は、それでもあたしの妖しい気分を払拭してはくれなかった。つやつやとした友香の頬に、柔らかそうな唇に、あたしの目が引き寄せられる。困った事に、この間のスキー旅行から、あたしは何だか色気づいてしまっている。何だか思春期のヤリたい盛りの男みたいで自己嫌悪に陥ってしまうんだけど、困った事になかなか治まってくれない。
 友香の頬を両手で撫でながら、その唇を奪ったら・・・きゅっと力強く、身体が溶けて混ざり合う程に抱き締めたら・・・友香のきめ細かい身体中のあちこちに、決して消えないキスマークを刻印したら・・・。
 コツン。
 なんだか段々過激になるあたしの妄想に歯止めを掛けたのは、あたしの斜め後ろに立っていた神名だった。あたしの表情が弛んでるのに気が付いたのか、折り曲げた指の関節部でノックするように叩いたのだ。神名は少し寂しそうな顔で、あたしの顔を見詰めている。

「なに?」

 恥ずかしい妄想を見透かされたみたいで、あたしの声は小さいながらも尖ったものになってしまった。それが神名だったからなのか、酷く攻撃的な言い方になってしまった。

「いいや。ゴメン、なんでもないんだ」

 神名が寂しそうなままに微笑を浮かべたので、あたしの小さな胸が、ちくんと痛んだ。別に神名はあたしの恋人って訳では無いのだから、罪悪感を感じる必要なんて、寸毫もありはしないというのに。

「・・・そ」

 あたしは神名から目を逸らした。幸いな事に、この短い遣り取りは他のみんなには聞こえなかったみたいだ。気が付くと、直子までもがぽぉーっとして外を眺めている。ただ、こいつの場合は蟻の行列だってぽぉーっと見詰めることがあるので、今の直子の見詰める先が、いわゆる”女の子の感性”でぽぉーっとするものかどうかは、酷く疑わしい。

「ごめんなさい、次に行きますね。この部屋が・・・あっ」

 かなたが説明途中で、何かを思い出したかのように固まった。いかにも、『この部屋は見せちゃいけないんだった!』的な反応に、あたし達の好奇心がむくむくと沸き起こる。

「えー?なになにー?」

 直子がとてとてと歩いて、固まったかなたの脇をすり抜けると、外開きのドアのノブを回した。

「あっ、だめっ」

 かなたが直子を止めようとしたが、もう遅い。直子はにこにこと期待に頬を弛ませながら、一瞬も躊躇せずに、ドアを一気にがばっと開いた。そこに広がっていた光景は・・・。

 ・
 ・
 ・

 ぼくは、カップを洗う手を止めて、天井を見上げた。
 この館は特殊な素材のせいで、結構各部屋の防音はしっかりしているんだけど、それを突き破るような勢いの笑い声が、なんだか聞こえたような気がしたからだ。
 今も、耳を澄ますと『あっははははははは!』という声が、微かに聞こえて来る。

「へぇ・・・一緒に行った方が、面白かったかな?」

 ぼくは少し勿体無い気がしたけど、ここのルールで『汚れ物は溜め込まない』というものがあって、それが身に付いてしまっている以上仕方が無かった。というか、ぼくが手を抜くと、途端にかなたにばれてしまうので、習慣付けざるを得ないと言うか。ただでさえ土日に家事を進んでやってくれているのに、余分な負担は例え喜んでやってくれているにしても、なるべく避けたいと言うか。

「まぁ、あとで話を聞けばいいか」

 そう自分を慰めると、ぼくは可愛い柄のカップを手にとって、丁寧に洗い始めた。底まで綺麗に白く輝くほどに洗うと、指先で縁をなぞる。きゅっという音が、耳に心地良い。

「あともう少し、ちゃっちゃっと済ませるかな」

 今度はクッキーを入れていた平皿をさっと水で流すと、洗剤を含ませたスポンジで擦った。もともと汚れるようなものを載せていないから、力を込めなくても大丈夫。泡を水で流して、親指の腹で表面をなぞる。

 きゅっ。

 小気味よく鳴る音に、ぼくは機嫌を良くした。

─ 4 ─

「すごいよねー。あんなにおっきなベッド、わたしはじめてー」

 直子はにこにこしながら言うけど、アレはそういうレベルを激しく果てしなくぶっちぎりで超越してるとあたしは思う。
 ほぼ部屋全体を埋め尽くす程の、ベッド。それも、幾つものベッドを並べている訳じゃなくて、巨大な一つのベッド。まるで、自分の遠近感を狂わせるような、ベッド。尋常じゃあないと、言い切ってもいいだろう。

「流石はあの歳でこの館の主というだけのことはある。ボクも久し振りに、本気で驚いたよ」

 神名が腹部を押さえるようにして、苦笑混じりに言った。

「神名は、驚いたんじゃなくて、笑ってただろ。しかも激しく」

 それはもう、かなたどころか友香までもが赤面するほどに。まぁ、それほどに馬鹿馬鹿しく、壮絶なシロモノだったという事だ。おかげで今も神名は苦しそうに笑いながら、腹部をさすっている。それとも鍛え方が足らないのかもしれない。
 ちなみに、あたしも笑った。でも、これほどに巨大なベッドを用意する理由を思って、少し胸が痛んだのだけど。
 あの時の・・・直子の別荘の温泉で目にした光景が、この上でも行われている、そういう事だろう。ただ、不思議と不潔とかいう類の嫌悪感は感じなかったのだけど。

 今、あたしたちは、あてがわれた部屋に3人だけで集まっている。かなたは料理兼ツマミを作っていて、友香とアイツはそのお手伝い。あたしたちは、その前の一休みだ。
 一人に一つずつの部屋が割り当てられているけど、荷物を置いたらする事も無くて、3人で一つの部屋に集まって、何となくだべっているところだ。それは、学校での延長でありながら、どこかそれとは違う雰囲気を感じさせる。場所が違うからか、状況が違うからかは判らないけど。一つだけ言えるのは、いつもよりも浮かれているという事だろうか。あたしのキャラクターじゃ無いと思いながら、それもまた楽しいと感じていた。

「それでねー、お屋敷のなか、探検しようよー」

 食事まではまだ間があるという話題の時に、直子が目をキラキラさせながら提案した。確かにやたらと広いお風呂や、ベッド部屋などは案内してもらったけど、それ以外にも部屋は沢山ある訳で。

「駄目だよ。他所様の家を探検なんて」

 一応、常識人を自認するあたしとしては、この一言は言っておく必要があるだろう。と言うより、あたしがブレーキ役をしないと、直子は暴走するタイプだし、神名は女の子相手の場合はなんでも言う事を聞いてしまうタイプだしで、どこまでも止まらなくなってしまうからだ。

「そんなにヒドイこと、しないよー。ただー、地下室が見てみたくてー。だめー?」

 いつものように、微妙に間延びした、罪悪感の欠片も無い口調で、直子が上目遣いにあたしを見上げた。これで駄目とか言ったら、すぐにでも泣き出してしまいそうだ。

「まぁまぁ、ゆーみ。何も家捜しする訳でも無いし、少しだけ探検して、すぐに出てくれば大丈夫だよ。それに、ボクも興味があるし、ね」

 神名がにこにこと微笑みながら、直子の髪を優しく撫でた。なんでかそれに胸がざわつく気がして、あたしは視線を窓の外に向けた。まるで自分達の世界とは異なる、緑に溢れた光景に、少しだけ心が和む。

「あんまり迷惑を掛けちゃ、駄目だから」
「うんー」

 仕方なくあたしが言うと、直子は嬉しそうに返事した。

 ・
 ・
 ・

 地下室の中は、想像していたよりも綺麗だった。埃が蓄積している訳でも無ければ、カビ臭くも無い。窓が無いにもかかわらず、不思議と圧迫感を感じない部屋だった。別にあたしが閉所恐怖症という訳でも無いから、どちらでも構わなかったんだけど。

「わー、ひろーい」

 直子が嬉しそうに、くるくるとステップを踏んだ。フリルをこしらえたスカートの裾が、ふわりと舞う。つまり、どんくさい直子が踊れる程度には空間があると言う事だ。
 あたしは周りを見渡した。
 比較的高めの天井から光が降り注ぎ、この広い地下室を照らしている。ただ、蛍光灯の光と違って、目に柔らかく、天井全体が輝いているように見えるんだけど・・・。
 それに地下室というと、大工道具やワイン、日保ちのする食材の保管が目的だと思っていたんだけど、どうやらここは、不思議な機械類が保管されているようだった。まるで陳列されているように並んでいる機械と、それに沿って用意された空間。別にケースで区切られている訳では無いけど、博物館というイメージが、した。

「そう言えばー、ゆーいちさんのおじいさんって、発明家さんだったんだよー」

 直子が興味深そうにひとつひとつの機械を覗き込みながら、ふと思い出したかのように口にした。あたしにとっては何の機械かも判らないけど、直子は実に楽しそうにひとつひとつをじっくり見ている。しかも、鼻歌混じりだ。
 あたしにとっては初耳な情報が直子からもたらされて、感心するよりも先に驚いた。神名も知らなかったようで、「だからか」なんて頷いている。

「うちのおじいさまとー、お友達だったのー」

 ああ、それなら納得だ。でも、世間は狭いというか。・・・っていうか、何故今頃そういう話題を出すかな、この娘は。

「それは奇遇だね。それじゃあ、この機械が全部、カレのおじいさんの発明品なのかな?」

 神名は感心したように地下室を見渡した。ざっと見ただけでも、かなりの数の機械が置いてあるのが判る。一人の発明品がこんなに大量にあるというのは、凄い事なんじゃないのだろうか。
 しかも、全部がまったく違うものに見える。つまり、一つのテーマの試作品が並んでるんじゃなくて、いろいろな機能の完成品が、これだけあるんじゃないかって事。だとしたら、その開発ペースはまさに天才的と言うしかないんじゃないだろうか?

「あー、やっぱりあったー。えへへー」

 スキップするようにあちこち見て回っていた直子が、ふいにそんな嬉しそうな声を出した。何やら、壁際の棚を覗き込んでいるようだった。あたしと神名は、なんとなく直子に近付いて、後ろからその棚を見てみた。

「ほらー、これこれー」

 そうぽややんと笑いながら直子が取り出したのは、『EDEN』とラベルの貼られた、先端にスプレーが付いている、お洒落な感じの香水瓶だった。中には8分目まで入った液体が、ゆらゆらと揺れている。

「へぇ、可愛いデザインだね。香水・・・だよね?」

 神名が少し自信無さげに言った。見れば判ると言いたいところだけど、流石に地下室に安置されているコレが、本当に香水なのかはあたしにも自信は無い。

「へぇ、『EDEN』ねぇ。聞いた事無い名前だけど・・・」

 そんな訝しげに『EDEN』を見詰めるあたしと神名に、直子は微笑みながらノズルを向けた。なんだか拳銃を向けられたみたいに、微妙な危機感を感じてしまう。

「えへへー。ちょっと、吹き掛けるねー」

 あたしが止める間も無く、直子はあたし達に『EDEN』を吹き付ける。それは、不思議な香りだった。甘く無く、かと言って涼しげな感じでも無い。何とも形容し辛い香りなのに、心がリラックスして、もっと嗅いでいたくなる・・・そんな香りだった。
 なんだかふわふわとして、頭が上手く働かない気がする。時間と空間の感覚が酷く曖昧になって、意識が拡散していくように感じた。

「ね、良い香りでしょー?」

 直子の声が、耳元で・・・目の前から・・・それとも、どこか遠くからか、聞こえて来る。意味を理解する事も無く、あたしはこくんと頷いた。

「あのねー、わたしが『お願い』って言ったらー、お願いを聞いて欲しいのー。ね、『おねがいー』」

 直子の甘えるような響きの声が、頭に染み込んで行く。抗い難い強制力・・・いや、抵抗しようなんて考えすら浮かばずに、ひたすらにティッシュが水を吸収するように、直子の言葉を自分の中に取り込んで行く。
『お願い』
 直子のその言葉に、あたしはまたもこくりと頷いた。
 直子の顔を、邪気の欠片も無い笑顔が彩った。

─ 5 ─

 ふと、現実感を取り戻した。例えるなら、今までぷかぷかと浮かんでいたプールから、陸の上、1気圧の場所に引き上げられたような感じ。なんだかぼうっとしていた記憶だけが残っていて、何があったのか、なんだか曖昧になっていた。
 隣に立っている神名も同じ様子で、なんだかきょとんとした表情で、あたしを見詰めている。

「あ、目が覚めたー?」

 のほほんとした声を出したのは、当然直子だった。あたし達の方を見ながらいつものように・・・いつも以上に機嫌良さそうに笑みを浮かべている。
 この笑みはさっきも見た気がする。
 あたしが茫と何があったのか思い出そうとしていると、直子の『お願い』という言葉が耳に甦った。

───わたしが『お願い』したら、お願いを聞いて欲しいのー。───

 そして、自分がそれに頷いたことや、実はとても気持ち良かったことが、連鎖的に思い出されて行く。あたしは、あの時どうしてしまったんだろう・・・。疑問を感じるのに、何故か悪い気はしないのも不思議だった。

「ね、直子。あたし、今・・・どうしちゃってたんだっけ?」

 どことなく心許無い気分で、いつも通りの直子に聞いてみる。もしかしたら、お酒を呑み過ぎて記憶を無くした人も、こういう気分なのかも知れない。

「ボクも、なんだか記憶が曖昧なんだけど、何をしたのかな?」

 神名も、あたしと同じだったらしい。でも、直子が『何か』したと断じてるのが、あたしとは違うところだ。別に、あたしがそれに気が付いていないお間抜けという訳でも無くて、ただ手順を踏もうとしてるだけなのだ。本当に聞かなきゃいけないのは、『EDEN』という香水のことだ。これは想像なんだけど、もしかしたら直子は、最初から『EDEN』がここにあって、どういうものなのかを知っていたんじゃないだろうか。だから、自分で香りを嗅がずにあたしたちに吹き掛けた・・・。

「えへへー」

 悪びれずに、直子は朗らかに笑う。そこには邪気も悪意も一欠片とて無い、お日様の下のひまわりのような天真爛漫さがあった。

「今日、したいことがあってねー。ゆーみちゃんとゆーきちゃんにぃ、手伝って欲しいのー」

 何を思ったのか、直子は照れたように胸元で、両手の人差し指をくにくにとしている。腰もくねくねとさせて、何やら頬も赤らめていた。

「でもー、ふつーに頼んでもやってくれなさそうだからー、『EDEN』を使っちゃったー」

 あたしの頬が、ぴくりと引き攣った。その言葉の意味が、想像出来たからだ。なにより、ここのところ暫く、その事について考えていたせいもある。

「『洗脳』とか、そういう効能があるのかい?」

 神名が、静かな口調で直子に聞いた。

「そうだよー。でもぉ、使い方次第だからー。わたしー、ゆーきちゃんたちに、ひどい事なんてしないからー、だいじょーぶー」

 大丈夫と言われて、あたしと神名は顔を見合わせた。直子の感性は普通の人間とはかなり違っていると言うのが、あたしと神名の共通認識だ。あたしは神名の顔から血の気が引いて行くのを、リアルタイムで真正面から見てしまった。きっと、あたしの顔も同じ事になっているんだろうけど。
 取り敢えず、出口に向かって逃げる事にする。何を手伝わされるのか判らないけど、絶対完膚なきまでに究極に、ろくな事じゃないのは理解出来る。運動能力の差か、神名の方があたしよりも先にドアに取りついて・・・。

「ねぇー、『お願い』だから、もどって来て欲しいのー」

 あたし達の鼓膜を、直子の声が柔らかく震わせた。たったそれだけで、あたし達の行動の選択肢から、逃亡の2文字が消え去ってしまう。自分が当たり前のように振り返るのが判って、その強力な暗示力に内心慄いた。何しろ、身体が勝手に動くのでも、そうしなきゃいけないという強迫観念でも無く、自分の心に負担の無いままに、『そうするのが当たり前』という考えになってしまっているのだ。となりの神名も、なんだかきょとんとした顔で、直子の方に向かって歩いている。

「えへへー。ありがとー」

 あたし達が直子の前に戻ると、直子が嬉しそうに微笑みながら待っていた。

「で、何を手伝わせるんだって?」

 あたしが不貞腐れたように聞くと、直子は恥ずかしげに身体を捩った。それはもう、くねくねと。ひとしきり一人で恥ずかしがると、直子は笑いながら「ひみつー」とか抜かしやがるし。むか。

「でもー、『EDEN』が見付かって良かったー。おくすりはよーいしてたけど、ゆーきちゃんには効かないかも知れないから、どきどきしてたのー」

 どうも、今日の直子の言動は不穏なものが乱発されているような気がする。しかし・・・薬?それは、目の前の直子のぽやぽやした笑顔からは、酷く想像もつかない単語ではあった。

「まったく、直子は何がしたいんだよ!」

 あたしが怒声を上げると、直子は堪えた様子を見せずに、「えへへー」とか笑っている。邪気は無いけど、善意もなさそうな笑いだ。

「えっとねー、ゆーいちさんとぉ、えっちするのー」

 照れて赤く染まった頬を両手で挟むようにして、またもくねくねする直子。あたしと神名は、呆れてものも言えないまま、直子を見詰めた。何を言っているのかコイツは、という感じだ。女の子全般には激甘な神名でさえ、どこかどよんとした目で直子を見ている。

「ほらぁ、ゆーきちゃんとゆーみちゃんもくっついちゃったしー、わたしもー、ゆーいちさんとえっちしたいのー」

 2重の意味で、あたしはぎょっとした。別に神名とくっついた記憶は無いけど、直子は別荘での事に気が付いてたんだろうか。あたしと・・・神名が成り行きでえっちした事を。

「それで、なんで『洗脳』だの『薬』だのって事になるんだい?」

 呆れた口調で神名が呟いた。当たり前のように、あたしとの事は否定すらしない。これにはあたしの方が焦った。

「待て待て待て待てWaitぉ!あたしは別に、神名とくっついてなんていないぞ!」

 必死にあたしが否定すると、神名が少し寂しそうな顔をしたが、今はそれを気にしている余裕はない。これから直子がどんな犯罪行為をするつもりかは知らないが、あたしが神名とくっついたと思い込んだのが原因なんて、洒落にもならない。断固として直子の誤解を止めなくては!

「ゆーみちゃん、誤魔化すなんて、ずるいよー。あ、じゃあこうしようかー」

 直子が何か思い付いたという風に、両手をぽんと打った。ふわふわしたいつもの笑みに、少しだけ意地が悪い雰囲気が追加される。あたしはイヤな予感に、背筋がぞわぞわとするのを感じた。

「あのねー、『お願い』するねー。二人とも、とってもキスがしたくなるのー。好きな相手だったらー、キスなんて当たり前だよねー」

 コイツ、何て事を言うかな!
 しかし、あたしが口を開くよりも早く、カラダが異常を訴えた。熱い。ふわふわとカラダが頼りなく感じて、立っているのも辛い感じ。
 それに何よりも・・・。
 あたしは、隣に立っている神名の顔に目を向けた。少し薄めの、でも柔らかそうな唇に目が吸い寄せられる。別荘での、カラダが蕩けてしまいそうな、甘いキスの感触がまざまざと思い出されて、胸の中で何かがざわめいた。

 ───キス・・・したい・・・───

 そばに直子がいるとか、ここはアイツの家だとか、上には友香やかなたがいるだとか、すべてがどうでもいい事みたいに思えてきた。神名も同じ思いを抱いているのか、酷く熱い眼差しで、あたしを見詰めている。神名がちろりと舌を出して、自分の唇の端を舐めた。その艶かしい仕草だけで、あたしの欲求が高まる。もう、我慢出来なかった。

「あ・・・ずるい・・・」

 あたしが一歩を踏み出しても、神名は動かなかった。少し意地悪い笑みを浮かべたまま、あたしをじっと見詰めている。それが意味するのは明白で、あたしからキスさせようと思っているのだ。自分だってキスしたいくせに・・・それって、なんだかずるい。でも・・・あたしはこの欲求には逆らえない。どちらかと言うと、神名の意思力を誉めるべきなのかも知れない。
 もともと、それほど神名との距離は離れていた訳でもなく、あたしはすぐに神名の目の前に辿り着いた。まともに向き合うと、少し見上げるようにしないと神名と見詰め合えない。それは、背伸びしないとキスが出来ないという事だ。

「ボクなら逃げないから、ゆーみの好きにしていいんだよ」
「・・・ずるいぞ・・・」

 どこかワクワクと期待に満ちた表情で、神名があたしにキスの許可を与える。それは、自分からはしてあげないと言う宣言でもあった。あたしだけがこんなに切ない思いをしてるのに、どこか余裕を感じさせる神名は、ずるいと思う。
 あたしの手が、神名の首に絡まる。あたしの足が、爪先立ちになる。ゆっくりと、神名の顔が近付いて来る。少年のように薄くて、でも口紅を引いたように赤い唇。少しだけ開いて、その奥に待ち構えている舌が見える。もう、だめだった。あたしは我慢の限界を迎え、神名の唇に感触を確かめるようなキスをした。

「ん、んふぅ・・・んむ・・・」
「うんん・・・ん・・・んー」

 あたしと神名の唇の隙間から、どちらのものとも判らない喘ぎが洩れた。
 最初は触れ合うだけだったキスが、今は互いの唇を貪るようについばみ、絡み、吸いあっている。息をするのも惜しんで、あたし達はキスを続けた。唇が触れ合う毎に、甘い旋律がカラダを震わせる。舌が絡まり合う毎に、甘い戦慄が背筋を走る。
 いつの間にか、あたし達はしっかりと抱き締めあって、獣のようなキスを交わしていた。テクニックなんて知らないあたしは、ただがむしゃらに、ただひたすらに、神名の唇を、舌を、唾液を、吐息を、喘ぎを貪った。それだけでカラダが甘く蕩けて行くようだ。

「んぅっ!んーっ!」

 突然の刺激に、あたしの目の前が白い光に覆い尽くされ、激しい快楽が衝撃と化して、あたしのカラダを打ちのめした。全身から力が抜けてしまったあたしを、神名が優しく抱きとめる。イったばかりの敏感なカラダは、それだけでもゾクゾクと気持ち良かった。

「大丈夫かい?ゆーみ」

 至近距離に、酷く優しく微笑む神名の顔があった。左目とは少し違う、澄んだ色の右目を晒して、あたしを見詰めている。

「『大丈夫』って・・・あんたの・・・せいでしょうが・・・っ」

 何だか目を合わせるのが恥ずかしくて、目を逸らしながら小さく毒づいた。さっき、神名はキスに酔い痴れるあたしの脚の間・・・アソコに当たるように、膝を押し当ててぐりっとしたのだ。ショーツの捩れる感覚とか、アソコ全体を満遍なく刺激されるような感覚に、あっさりあたしはイってしまった。

「ゴメンね。じゃあお詫びに、今度はボクのほうからキスしてあげる」

 そう言うなり、あたしの頬を片手で押さえて、いきなり唇を奪った。カラダ中が蕩けるような甘く激しいキスに、あたしの身体から力が抜ける。倒れそうになって、神名の身体に回した手でなんとか堪えた。あたしの目は、唇が触れ合う前に、自分から閉じていたように思える。でも、もうどうでも良かった。ただこの気持ち良さに身体も心も委ねて、いつまでも翻弄されていたい・・・そんな思いに支配されていた。

「んっ、んぅーっ」

 ぬるりと、神名の舌があたしの口を犯した。あたしの舌の裏側をこすったり、唇の裏側や口の天井の部分を、思うがままに犯している。その一つ一つがあたしの身体から力を奪い、ついには神名に覆い被さられているような姿勢になってしまった。

 ───キモチ・・・いい・・・───

 さっきの絶頂が荒波だとしたら、このキスは暖かい日の光のようで、氷をゆっくりと溶かすように、あたしの身体に快感を送り続けている。心地良さに溺れていると、もう身体が後戻り出来ないくらいに昂ぶっている事に気付き、それでもそのまま流されてしまう。

「んふっ、ん、あむ・・・んぁ・・・」

 自分のものとは思えないような、甘い鼻声が洩れる。こんなのあたしじゃない・・・そう思いながら、止めることも、止めようと思う事すらも出来ないでいる。
 とろりと、甘い唾液が流し込まれる。本当なら嫌なはずなのに、気が付くとその甘さを貪るように味わっていた。

「ゆーみ・・・スキだ・・・」

 唇を離した神名が、囁くように口にした言葉に、身体がかっと熱くなった。また、激しい絶頂の予感。あともう少しでイケる、ものすごく、気持ち良くなれる。欲しい。イキたい。神名の目を見詰めながら、そんな事ばかりが頭に浮かぶ。
 神名は優しく微笑むと、あたしのジーパンの前を開けると、右手をするりと挿し込んできた。それも、直接ショーツの中に。あたしの一番敏感な突起を、優しくぐりぐりと弄ぶ。あたしの目の前が、白い光でちかちかと輝いた。

「っ!!」

 あたしはもう我慢出来ずに、自分から神名の唇に、噛みつくようにキスをした。それでも神名の手は動きを止めない。

「んんっ!んう、ん、んんんんんーっ!!」

 圧倒的な快楽に押し上げられ、あたしは神名の口の中に、絶頂の悲鳴を上げた。何度も襲いかかる絶頂に、あたしの身体がびくびくと跳ねる。そんなあたしを、神名はしっかりと抱き締めていてくれた。
 呼吸が落ち着いて、意識が戻るまで、神名はあたしを抱き締めていて・・・くれた。

─ 6 ─

 気が付くと、神名と直子が心配そうに、あたしを覗き込んでいた。どうやら、気持ち良過ぎて、気絶してしまったらしい。そんな姿を見られていたと思うと、羞恥に顔が熱くなるのが感じられた。

「ゴメン。やり過ぎちゃったね。ゆーみがカワイイから、つい・・・ね」

 軽い感じで、神名があたしに謝った。まぁ、それはしょうがないと思うから、あまり気にはしてないんだけどね。

「それにしても直子、何よ、アレは?」

 ちょっとだけ、恐い顔をしてみせる。けど、身体の芯がふにゃふにゃした感じが残っていて、上手く出来た自信が無いけど。

「キスだよねー。すっごく激しくって、わたしどきどきしちゃったー。えへへー」

 そんな天真爛漫な笑顔でとぼけてみても、あたしは騙されないぞ。赤くなった頬を両手で挟みながら、えへへーなんて笑っている直子を睨みつける。

「なんで、あたし達に『EDEN』だっけ?・・・アレを使ったんだ?めちゃくちゃ人権侵害だぞ、アレは!」

 神名は、取り敢えず怒ってはいないようだったが、あたしはさすがに許してあげる訳には行かない。強い口調で問い詰めても、直子の笑顔は剥がれなかった。

「うん、あんまり酷い『お願い』はしないからー。安心してねー」
「直子っ!」

 あたしは直子を怒鳴りつけた。すると、直子が妙に真剣な、いつもは見せない表情であたしを見詰め返した。あたしは少しだけ気圧されて、二の句が継げなくなった。

「ごめんねー。でも、今日しか無いと思うのー。わたしとー、ゆーいちさんが結ばれるちゃんすってー」

 表情が真面目でも、口調はいつもと変わらなかった。身構えた分だけ、あたしは心理的によろめいた。何て言うか、ちょっと前までは、結構緊迫したムードだった気もするんだけど・・・。って、結ばれる?

「直子、あんた何を・・・」

 口篭もるあたしに、直子はにっこりと笑って見せた。ただ明るいだけでなく、決意にも似た何かを内包した笑みだ。覚悟してるんだなって、なんとなく判った。

「だからー、悪いけど手伝ってねー。『お・ね・が・い』♪」

 直子は甘えるように、今のあたし達にとって、最強の言葉でお願いした。
 きっと、今夜は凄い事になる。まるで、嵐の夜みたいに。
 あたしは、激動の予感に身体をぶるっと震わせてから、こくりと小さく頷いた───。

< 続く >

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