Tomorrow is another 第四話 編入

第四話 編入

 タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ――

「ふっふっ、はっはっ、ふっふっ、はっはっ――」
 早朝の街路に響くのは、雀の鳴き声と、新聞配達中であろうのカブの排気音と、俺の足音と呼吸音。
 あと、たまにカラスも鳴いている。
 6時を過ぎても外はまだ薄暗く、世界にはまだ夜が残っていた。
 夏ならば6時を過ぎれば昼と言えるような明るさで、どこにも夜を感じさせるものなど残っていないのだが。
 まあ、走る分には雨さえ降らなければいいんだけど。
「ふっふっ、はっはっ――ふーっ……」
 自分の家があるマンションの前まで辿りつき、俺は膝に手をついた。
 タイムは……37分か。前半で少し力を抜いたせいか、さほど遅れなかったな。
 俺のジョギングスタイルというのは、とにかく30分間行けるところまで走り続けてそこから戻る、という方法をとっている。どうしても後半の戻りは行きよりも遅れてしまうのだが、その遅れをどれだけ縮められるか、俺はひそかに燃えていた。
 ただ、今日は遅れが少なくても余り嬉しくない。
 どうしたって、自分のことは自分が一番良く見える。ズルとまでは言わないが、納得できない理由があればそれだけ達成感も減るというものだ。
 首にかけていたタオルで汗を拭いながら、俺はマンション内に入った。
 自動ドアをくぐると、入ってすぐにロビー。3階まで吹き抜けになっており、住人のための各種施設が入っており、住居となるのは4階からとなる。
「おはようさん」
「おはようっす」
 顔なじみの管理人のおじさんと会釈を交わす。管理人室には24時間体制で管理人が常駐しているのだ。
 その奥からは住人専用のスペースとなるため、部外者を入れないためにオートロックのドアがある。専用のカードキーと暗証番号を入力して、ドアを開く。
 26階建てのマンションの、22階に俺の家がある。そこまで整理運動も兼ねて階段で上がっていくのだが、これがかなり疲れる。整理運動というよりも、ただの運動になっている。
 ようやく22階まで登りきり、家に帰りついた。
「ただいま」
 玄関にジョギングシューズを脱ぎ捨て、俺は自室に直行。替えの下着を取り、汗を流すためにシャワーを浴びようと浴室に向かう。
 ふと、気になった俺は、パウの様子を見に和室へ向かった。
「すーっ……、すーっ……」
 和室の中央に敷いてある布団で、おだやかな寝息を立てている少女が一人。
 時計を見ると、既に6時半を回っている。
「パウ、起きろ。そろそろ起きておいた方がいいんじゃないか?」
 反応無し。
 今度は身体を揺すりながら、パウを起こす。
「おい、今日から学校行くんだろ? お前、準備とか全部できてんのか? 早めに起きて確認しといた方がいいぞ」
「ンー……」
 緩慢な動きで右腕を額に乗せ、口の中で小さく何か言っている。
「おい、起きろって」
「アー……Only five more minutes……」
 日本語ではない言語で返答された。とりあえずファイブってのは聞き取れたが……。
 まあ、状況から察するに、あと五分だけ寝かせてくれってことか。
 なんてベタな。しかも、ねぼけているな。このまま寝かしておいても良いもんだろうか。
 うーん……。まあ、パウのためだしな。
 俺は無理にでもパウを起こすことにした。
「おい! 起きろ! 朝だぞ!」
 怒鳴り、パウの上半身を起こして肩を力の限り揺らしてやった。頭がもげるんじゃないか、っていうくらいに前後へガクンガクン動いている。
「わっ、汚ねえっ!」
 パウの半開きの口から、一筋の涎が宙を舞った。寸でのところで身を捻ってかわす。
「んー……。おあようごらりまふ、らくまはん……」
 ようやく起きたのか、パウが日本語を口にした。だが、目蓋が半分以上落ちている眼で俺を見て、首をカクンと落として会釈している。片足を夢の世界に突っ込んだままだ。
 ぜんまい式のおもちゃのように、キリキリキリと首を持ち上げ、どこか遠くを見ている。
 これは……起きているのか?
「おい、起きたか?」
「ふぁい……起きらのれふよ……ふあぁ」
 大きなアクビをして、パウは布団の端をじーっと見つめている。
「じゃあ、準備とかしとけよ?」
 どうにも不安だったが、俺はシャワーを浴びることにした。

「ふああ……」
 汗を流した俺は、大きなあくびをしながら脱衣所のドアを開けた。
 どうにもシャワーを浴び終わると、ジョギングで一時的に去っていた眠気が蘇ってしまう。このまま横になったら、どれだけ気持ちいいだろう。
 アクビを噛み殺して、俺は朝食の準備をはじめるために台所へ立つ。朝食といっても、トーストか米と納豆くらいしか選択肢はないのだが。
 確か昨日の晩は米を炊かなかったから、米は無いな。じゃあトーストだ。冷蔵庫に入ってた食パンとマーガリンを出し、トースターのコンセントを入れる。
「パウ、お前トーストは何枚食う?」
 ちなみに俺は3枚だ。
 食パンを2枚入れ、トースターのダイヤルを回す。まさか食わないことは無いと思うので、とりあえずは4枚焼いておけばいいだろう。
「おい、パウ?」
 返事が無いので、もう一度呼ぶ。
「…………」
 やはり返事がない。時間は7時。
 よく知らないが、女って身支度とかに時間がかかるもんなんじゃないのか?
 遅刻ギリギリを覚悟するとしても、家を出るデッドラインは7時55分。駅まで走れば3分で行ける。7時58分に桜ヶ丘行きの通勤快速があるので、それにさえ乗ることができれば、なんとでもなる。
 それにしても、起きなくて大丈夫なのかね。
「ふああああ……」
 それにしても、今日は格別に眠い。
 昨日は遅かったからな……。すっごい変な夢を見たような気もするし。そのせいか、水を飲んでからはあんまり良く眠れなかった。
 食卓の椅子に座り、テーブルに腕枕をして額を載せる。
 とりあえず、パンが焼けるまでこのままでいたい……。
 目蓋を閉じると、頭の奥に意識がぐいぐい引っ張られていく感覚。
 あー……なんか気持ちいいや。
 …………。

 チーン!

 …………。
 …………。
 …………。
「はっ」
 ああ、まずいまずい。このままだと寝ちまう。
 俺は大きく伸びをして、トースターを覗いた。
 パンは、もう焼けてるな。
 蓋を開き、トーストを取り出した。
 ぬるい。
 熱が逃げている。焼きたてというよりも、これは焼きあがったトーストをしばらく放置していた感じに似ている……。
 …………嫌な予感がする。予感というよりも、限りなく確実な認識だろう。
 ああっ、やだなあ。時計見たくないなあ。
 恐る恐る、俺は時計を盗み見た。
「……ふっ。そうか、そう来るのか」
 俺は冷や汗を垂らしつつ、口元を歪めて笑った。
 人間、追い詰められると笑えてくるものだ。

 7時45分

 椅子から転がるように和室へと駆け込み、最後に見たときと全く同じ姿勢のパウの襟首を両手で掴んで強引に立ちあがらせた。
「オラぁ起きろパウぁこのままじゃ登校初日にお前は遅刻確実だぁああああっ!」
 嵐の10分間の幕が上がった。

「こんなぼさぼさの髪じゃ、外に出られないのレすよー」
「泣きそうな顔してないでいいからさっさと着替えろ! ほら、クシ!」

「えーと、えーと、これはロうやって着るのレすか?」
「俺に女子の制服の着方なんて分かるか! 昨日のうちに一回くらい着とけよ!」

「そうレした、身体を洗わないと――」
「そんな時間はねえ! ええと、鞄と、上靴と――お前、荷物昨日のままじゃねえかよ! 袋から出して確認ぐらいしとけ!」
「昨日は就寝した時間が夜遅くて、眠かったのレすよ」
「ああ、わかったわかった。俺が荷物整理しとくから、その間にとっとと着替えとけよ!」

「……この布はロうするのレすか?」
「スカーフだろ? 制服のだ、制服の胸んとこで結ぶ! ああ、つーか俺もまだ着替えてねえんだった! くそっ、着替えてくるからその間になんとかしとけよ!」

「しまったあ! 読み違えた!」
「ロうしたのレすか?」
「時間だ、時間! 駅までは、マンションから3分であって、家から出るんだったらもっと早く出ないといけねえんだった!」
「ロうしてなのレすか?」
「お前、ここ何階だと思ってんだよ! マンションから出るだけでも数分かかるぞ!」
「今は……53分レすね」
「走れっ!」

「奇跡だ……」
 ぜー、はー、と肩で息をしながら、俺とパウは無事に通勤快速の車両内にたどりついていた。
 偶然、エレベーターが降りてきたところだったり、駅まで信号に一回も引っ掛からなかったおかげだ。それでギリギリ飛びこみセーフだったのだ。どれか一つでも引っ掛かっていたら、電車には乗れなかった。
 車内に学生の姿は少ない。そりゃそうだ。この電車に乗っている時点で、すでに遅刻寸前を意味しているのだ。桜ノ宮校は駅に近い方で、それでも結構余裕が無いなのだから、他校生ならばその危険度は計り知れない。
「忙しかったのレすねー。少し疲れたのレすよ」
 そう言っている割には涼しい顔をしているパウ。
 どこにそんな体力があるのかとも思えたが、数時間も道に迷って延々と歩き続けられるくらいだ。ひょっとしたら俺よりもタフなのかもしれない。
「恥ずかしいのレすね」
 そう言って、パウはしきりに髪を気にしている。
 時間がなかったので、パウは髪を編めないまま、ストレートで登校していた。背中まである長い髪が、今は大きく広がっている。ろくに髪も梳かしていなかった上に思いきり走った割には、一見して乱れた様子はない。
 車内では、それなりに注目を浴びている。俺達が、というよりもパウが、だが。
 理由には肌の色もあるだろうが、彼女の容姿も一役買っているだろう。エキゾチック美少女、とでも言うのだろうか。日本人にはない魅力が彼女にはある。ジロジロとあからさまに視線を送ってくる者もいれば、さりげなく見ている者。特に男性が気にしている様子だった。
 いつもの電車内で合う桜ノ里学園の生徒がパウになっただけ、という気もする。俺は相変わらず男性諸氏からは「おまけ」扱いで、気分的には普段の登校時と変わらない。
「んー……」
 俺は車内を見まわして、空いている場所を探す。車両内にスーツ姿の乗客は少ない。どちらかというと大学生らしき私服姿が多く見えた。
「こっちだ」
「なにかあったのレすか?」
 車両の隅に空白地帯があったので、そこにパウを押し入れる。
「まあ、ここなら髪をいじってもいいんじゃねえか?」
「公共の場で身ラしなみを整えるのは、行儀が悪いことなのレすよ?」
「だったら、そのまま学校へ行くか?」
「う……」
 パウが口篭もった。あ、悩んでる悩んでる。
 俺はパウのストレートにしている髪型がおかしいとは思わないのだが、本人はどうやら気に入らないようだ。
「……今日は行儀を悪くしても良い日なのレす」
「かなり無理のある言い訳だな」
 パウはポケットから紫色のゴム紐を取り出すと、手早く髪を三つ網にしていく。編み方が大きいせいか、あっという間に編みあがってしまった。手早くゴムで先端をしばって、お終い。結んだ髪を肩にかけて胸元に垂らす。
「どうしてわざわざ髪を前にもってくるんだ?」
「この方が落ちつくのレすよ」
「そんなもんか?」
「はい」
 それきり、会話が途切れた。いくつかの駅を通り過ぎ、快速電車は線路を走る。
 そういえば、まだ問題が残っている。駅から学校までの道のり、これがある最大の難関だった。
 学校に行くまでに、パウを引っ張っていかなければならないのだ。「導きだされたのが答えではない。答えは導きだすものだ」というか「全ての道は目的地に通ず」的泥沼悪質方向オンチである、パウを。
 最短距離を走らなければ間に合わないのに、こいつがどこで「こっちの方が近道なのレすよ」と言い出すか分からない。言い出すか、というよりも、気付いたら既に向かっていそうだ。
「おい、パウ」
「はい、なんレしょうか?」
「分かってると思うが、学校までは最短距離を行かねばならない。俺は別に遅刻しても構わないが、お前は転入初日に遅刻なんてしたくないだろ?」
「遅刻は嫌なのレすよ」
「よし。だったら、余計な遠回りをしようとするな。知らないのに『近い気がする』というだけで道を選ぶのも無しだ。いいな?」
「大丈夫なのレすよ。私は一度学校まで行ったことがあるから、駅から学校までの地理は完璧なのレす。間違えたりはしないのレすよー」
 自信満々に胸を張るパウ。だが、その態度が殊更に俺の不安を煽っていく。
『次は~、桜ヶ丘~桜ヶ丘~。降り口~、左側になりま~す』
「学校は北口から出て行くんだぞ。駅の構内の階段は昇らなくていいんだからな」
「知っているのレすよ」
 当然といった様子で、パウ。
 それでも胸の中のもやもやが消えず、俺は念を押しておく。
「……ちゃんと着いてこいよ」
「大丈夫なのレすよ。山崎さんは心配性なのレすね」
 そりゃそうだろ。昨日のお前を見て、不安にならない奴の方がどうかしてる。
 あー、不安だ。やっぱり不安だ。昨日の記憶は、俺の不信感を募らせるには充分過ぎる効果を発揮している。
『桜ヶ丘~、桜ヶ丘~』
 アナウンスと同時にドアが開き、ドアに張りついていた俺達は改札口に向かって駆け出した。他にも制服姿の学生が十数人、階段へ、改札口へと走っている。
 俺達も暴走集団の一員となって改札を通り、あっという間に駅から脱出する。
 しばらくは、このまま駅前通りを真っ直ぐに――
「こっちの方が近道なのレすよ」
「ぎゃーっ!」
 背後からの声に、俺は悲鳴を上げた。
 不安的中。っつーか、駅出て速攻じゃねえか!
 全身を傾けて急ブレーキ。勢いを殺しきれずによろめきながらも、パウの後ろ姿を確認。方向転換し、すぐさま走り出す。
 慌てて、パウの背中を追う。
 背中が遠い。既にかなりの距離を引き離されている。
「くっ!」
 速い! なんつー足をしてやがるんだ!? 
 差は縮まってきているが、これではパウの先行をしばらく許すことになってしまう。追いついたときには、もう手遅れとなっているだろう。
 ……いや、まだ大丈夫だ。このルートならば挽回できる。
「パウ! しばらく真っ直ぐ行け!」
 叫んだ瞬間、パウは点滅している青信号を渡っていってしまった。
 左に。
「ぎゃおーっ!?」
 俺は悲鳴を上げるしかなかった。
 車が動き出す前に、赤になったばかりの信号を渡り切り、そのまま直進しているパウに続く。
 くそっ、このままじゃ駄目だ!
 学校までの距離を考えて残していた余力も使って、今すぐパウを捕まえる!
「うおおおおおおおっ!」
 走ることに全力を傾ける。パウとの距離がみるみる縮まっていき、ようやく背中に手が届く距離まで近づいた。
「てめ……、パウ……、止まれ……!」
 搾り出すように声を出して、パウの肩に手を伸ばす。
「おー、凄いのレすよ。拓真さん、足が速いのレすねー」
 平然と、本当に普段と同じ調子でパウが語り掛けてきた。
 おいおいおい、このペース保つのでも結構辛いんだぞ! どうしてそんな平然と話してられるんだあ!?
「止まれ……! いいから……、止まれ……!」
 呼吸をするだけで精一杯の喉は、声を出すことに力を割いてはくれない。
「くあっ!」
 パウを捕まえようと肩に手を伸ばした瞬間。
「こっちの方が近道なのレす」
 と、パウが細いわき道へと入っていってしまった。空振りした腕の勢いでバランスを崩しかけたが、なんとか復帰、再び追走をはじめる。
 細い道を抜けた先には、広い敷地と大きな建物群が広がっていた。門があり、私服姿の男女が出入りしている。その門に書いてあったのは――
「学院大!?」
 桜ヶ丘学院大学。同じ桜ヶ丘内にある桜ヶ丘学園大学と識別するため、この2校はそれぞれ学院大、学園大と呼ばれている。
 そんなことよりも、あいつ、大学の敷地内に入っていったぞ!
 学院大は桜ノ宮校の近隣にある。道路を二つ挟んだ程度の距離だ。
 ……馬鹿野郎、確かにこの敷地内を行けば直進できれば随分とショートカットが出来るが、ここの敷地内は建物が入り組んで建っているから、結果としてかなり遠回りになるんだ!
 俺の内心の声を他所に、パウは大学構内に入っていってしまった。
 ドツボだ。
 このままじゃ、追いつけたとしても遅刻は確実。も絶対に間に合わない。
 ふ、ふふ。
 ふふふふふふ。
 ふははははははははは!
「こうなりゃ最後までやってやらーっ!」
 なんか燃えてきた。もう遅刻云々なんてどうでもいい。とにかく、絶対に、何が何でもパウを捕まえてやる。
 俺も大学構内へと突入した。
 廊下を歩いている大学生の間を縫うように、俺はパウを追いかける。
 走りぬけたパウに呆然としている男の横を駆け抜ける。あちこちで驚いた大学生の声が上がっているが、そんなものは全部無視だ。
 くそっ、ここに来て差が開いてきた。向こうの方が小回りが効いている。
 ならば勝負は直線しかない。
 角で曲がり、階段を駆け上がる。二階、三階へと上がり、またしばらく走る。
 何度か角を曲がり、人の少ない広い空間に出た。横にはコンビニらしき店や本屋が見えた。大学って構内に店があるのか。
 その広場を抜けると、人の少ない直線廊下に出た。
 よし、ここで勝負だ!
「待てぁおりゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 背中がぐんぐん近づいてくる。パウが降り返り、驚いた顔。向こうもスピードを上げる。
 直線廊下の先には、自動ドア。
 開ききるまでの僅かな間に、パウが立ち止まる。
 今っ!
「そこおっ!」
 走り出す直前だったパウの腕をガッチリ捕まえた。
「っしゃあっ!」
 思わずガッツポーズ。
 ふふふふふ、ようやく、ようやく捕まえたっ!
「手間かけさせやがって、この――ゲホッ! ゲェッホ!」
 むせた。直後に訪れた呼吸困難に、俺は口がきけなくなってしまう。ここまでの全力疾走のツケが、今になって一気に襲い掛かってきた。
「ここまで来れば、もう大丈夫レすね」
 額ににじんでいる汗を拭い、パウが笑った。
 俺はといえば、びっしりと汗の珠を浮かばせて、ぜー、はー、と膝に手をついて息をするので精一杯だ。なんというか、試合に勝って勝負に負けた、って気分だ。
 どういう意味だ? と視線で問うと、パウが指を指した。
 その方向には、長い道の向こうにある門と、門の外を通り過ぎる、桜ノ宮校の制服を着た学生の姿。
「……あ、れ?」
「ここレゆっくりしていたら、遅刻になってしまうのレすよ。さあ、行きましょう」
 歩き出すパウに連れられて、俺も歩き出す。後ろを振り返ると、見覚えのある景色があった。大学の敷地内から出て、ようやくはっきりと理解できた。
 ここはもう桜ノ宮校のすぐ側だ。見事にショートカットできている。
 ……そうか。今まで俺は構内を通るルートを考えたことはなかった。当然だろう。部外者が他校、ましてや大学などおいそれと入ろうなんて考えはしない。
 時計を見ると、8時17分だった。電車が桜ヶ丘駅に着いたのが8時13分だから、徒歩10分の距離を4分で行けたことになる。自転車並のスピードだ。
「どうレすか。近道ラったのレすよ?」
「……むう」
 確かに、近道だった。信じられないことに。
 まさしく――
「――奇跡だ」
「奇跡じゃないのレすよ。これが私の実力なのレす」
 心外だ、とばかりにパウが反論してきた。
「一度行った場所の地理は、完璧に憶えているのレすよ。同じ過ちは二度繰り返さない。それが私の信条なのレす」
 なるほど。つまり、致命的な方向オンチっぷりを発揮するのは、初めて行った場所限定ってことか。完璧に憶えているのも、おそらくは徹底的に迷っている最中に、自ら歩いて憶えているってことなんだろう。
 確かに、完璧に憶えていられるのなら大した特技だ。だが――
「地図を見れるんなら、迷う必要も無いのにな」
「それは言わないレ欲しいのレすよ……」
 パウはがっくりと肩を落とした。

 桜ヶ丘学院大学から桜ノ宮校までの短い距離ながら、やはりパウは目立っていた。一目で転入生だとわかる。褐色の肌の生徒など、桜ノ宮校にはいないからだ。
 パウは教員用玄関から職員室へ来るよう言われていたらしく、校門で別れた後、俺はそのまま教室へと向かった。
 校舎内で迷うんじゃないか、とも思ったのだが、パウは一度校舎内を「見学」しているらしい。長い見学だったのだろうな、と思いつつ、それならば安心ともいうことで、俺は安心してパウと別れたのだった。

 キーンコーンカーンコーン――

「おはよーっす」
 チャイムと同時に教室に入りながら気だるい声で挨拶をすると、待ってましたとばかりに寛一が飛んできた。
「おいおいおい、転入生が来たって情報が入ったぞ! 見た奴が日本人離れした外見とか言ってたから、きっとパウさんだ! いやあ、嬉しいなあ、こんなにも早い再開が叶うとは!」
「お前、朝っぱらから元気だな……」
 満面の笑みではつらつとトークしている寛一を、俺はげんなりと見返した。朝のドタバタから桜ヶ丘駅~学院大間のパウとのデッドヒートの疲れが一気に噴出しており、とても寛一のテンションに付き合っている余力はない。
 今はとにかく、体力の回復をはからねば。今日は1時間目から暴君の授業なのだ。このままでは、俺は精神も肉体も擦り切れて死んでしまう。
 俺はそのまま教室の左寄りの真ん中辺りにある自席につくと、机にかけてあったスポーツバッグからタオルを取りだし、汗を拭った。
「おら、席につけー。ホームルームはじめるぞー」
 俺以上にだるい声を上げながら、1-B担任の京極三郎太が入ってきた。名前は仰々しいのだが、中身も外見もいたって普通の中年男性だ。特徴といえば、やる気が無い、全体的にくたびれてる、瞳に生気が無い、声に覇気が無い、不精髭がいつも伸びている、怒ったところを誰も見たことが無い、といったところか。
 とにかく緩みっぱなしなの教師だが、締めるところは締めており、何気に頼り甲斐があったりもするおかげで、生徒の受けは良かったりする。京極先生、ではなく京極さんと生徒の間からは呼ばれているが、不思議と違和感がない上、当人も他の教師も何故か京極さんに限ってはタメ口をきいていても誰も注意をしないのだ。
 これも一重に京極さんの人徳? だろう。
「京極さーん、パウさんはどのクラスに入ったか知ってるー?」
 京極さんが片眉を持ち上げて、質問してきた寛一を見た。
「相馬、もう転校生と話してんのか。お前は相変わらず手がはやいなあ」
 ざわざわ、と教室内が騒がしくなる。「マジだったのかよ」「うわ、ありえねー。寛一の妄想じゃなかったのか?」「おいおい、俺にも紹介してくれよ」といった声があちこちから上がる。どうやらパウと知り合ったことをクラスメートに告げたものの、信じてもらえなかった様子だ。
 寛一は女好きは既に学校中に知れ渡っている。それと同時に、寛一が口にする女話のほとんどがホラ話というのも周知の事実として知れ渡っているのだ。
「転校生は、ツルさんとこ――A組に入ったぞ。彼女は転校生、っつーか転入生……いや、留学生か。 期間はまだ未定だが、長くても3月一杯までしかこの学校にいられないらしい。狙うんなら、その間にせいぜい仲良くしとけ」
 パウの奴、暴君のクラスに入ったのか。……可哀想に。

 ドオオオオオオオオオ――

 隣のクラス――A組から、拍手と、歓声ともどよめきとも笑い声ともとれる音が、壁を通して響いてきた。パウが紹介されたのだろうか。A組のホームルームはいつも物音一つ立てないだけに、この騒ぎには少々驚いた。
 ま、パウの性格なら、すぐにクラスに打ち解けられるだろう。
「おお、なんか凄いな」
 京極さんが黒板を振り返り、しみじみと呟いた。
「今日の連絡事項はそんなとこだ。じゃ、今日も1日頑張れよ~」
 京極さんはそう言い残して、教室から出ていった。
「おい、留学生見に行こうぜ」
 誰かが誰かに告げたその声に、クラスにいた四分の一の男女が反応した。わらわらと連れ立ってA組を覗きに行く。
 わざわざ見に行かなくても、そのうち嫌でも見慣れるというのに。みんな物好きだな。
「やれやれ。留学生程度で浮ついてしまうとは、愚かとしか言い様がないな。なあ? マイブラザー」
 俺が机にベターっともたれていると、横から進吾が話し掛けてきた。
「留学生なんて珍しいからだろ。お前は興味ないのか?」
「ないな」
 きっぱりと断言して、進吾が不敵に笑った。
「我輩がたかだか留学生程度に心を揺り動かされるとでも思っているのかね? ま、もしも留学生がモルモル王国からやってきた姫君だったり、民間警備会社の社員に懐いた化け猫だったり、あとは桃口先輩みたいだったりすれば、どうなっていたかもわからんが」
 例え自体がさっぱりわからなかったが、最後の一つは理解できた。桃口春、春と書いて『シュン』と読む、2年の生徒であり、秋――シュウさんの妹でもある。
 文化祭のときに、春と雪美ちゃんが背比べする機会があったのだが、春は雪美ちゃんに負けていた。相当ショックだったらしく、その時の打ちひしがれた表情は今もはっきりと思い出せる。ちなみに雪美ちゃんは、背比べの後で計った身長が142.7だった。春は計らせてくれなかったが、とにかく雪美ちゃん以下ということになる。
 つまるところ、進吾はいわゆる幼児体型というかあからさまに言えばロリが良いと。そういうことか。
 春は人気があるらしいのだが、校内の生徒の間では気になる女子を春と答える男子はその直後からロリのレッテルを貼られることが運命付けられているため、春が好みである男子生徒のほとんどは決して表には出て来ず、『スプリングFC』なる怪しげな地下組織を作っている、という噂を小耳に挟んだことがある。進吾にはそういった恥ずかしい気持ちはないようだ。……こいつの場合は、ただ開き直っているだけのような気もするが。
 そうしているうちに、1時間目を知らせる予鈴が鳴り、慌てて戻ってくる生徒達。
「見れたか?」
「駄目だ。A組の奴らが囲んでて、ちっとも見えねえ」
 教室のあちこちで、同じ内容のやりとりがされている。パウは転入生恒例の質問攻めにあっているようだ。
 普段ならチャイムギリギリまで教室で粘っているのだろうが、1時間目は暴君の英語だ。予鈴から席についていなければならない。

 キーンコーンカーンコーン――

 チャイムと同時に、剣が教室に入ってきた。相変わらず、キッチリしてる。
 教壇に上がり、剣が生徒側に向き直る。
「起立!」
 タイミングを見計らって、日直が号令。
「礼!」
 相変わらず、他の授業ではありえない統制のとれた動きで礼をする生徒一同。
「着席!」
 全員が席に着いたところで、剣の言葉。
「では、出席を取る」
 毎日毎日、同じパターン。
 ここから暴君が一人一人名前を読み上げて出欠を確認するのだが、今日は例外が生じた。
「小宮山先生!」
 腕を真っ直ぐに上げて挙手した生徒が一人。寛一だ。
「何かね? 出席番号8番、相馬寛一君」
 キロリ、と瞳だけを動かして寛一を見つめる暴君。
「さっきのホームルームの時にA組が騒がしかった様子ですが、何かあったのですか?」
 複数の息を飲む気配。教室内に緊張が走る。授業中に授業内容以外の質問は厳禁だ。それをしてしまえば――
「それは、授業に関係ある質問かね?」
 教壇前にある机に持っていた荷物を起き、そこから一冊のノートを取り出した。魔太郎ノートだ。
「関係ありません!」
 寛一は断言した。
「よろしい」
 頷くと、魔太郎ノートを開き、ボールペンでチェックを入れた。
 寛一、お前……凄えよ。女のためにそこまで出来る漢だったとは……。
 暴君は目を細めて寛一を見た。寛一は暴君の視線を受け止め、微動だにしない。
 剣が、小さく口を歪めた。
「その覚悟に免じて、質問に答えよう」
 ざわ、と教室内の空気が動いた。
 珍しいことに、暴君が授業以外の話題を口にした。……というか、俺が暴君の授業を受けてから、初めてのことだ。
 寛一の執念が、暴君をも動かしたのだ。暴君伝説に新たな一説が加わるかもしれない。『覚悟を固めて質問すれば、暴君も答えてくれる。ただし魔太郎ノートにチェックをつけられるが』と。
 案外暴君も冗談好きなのかもしれない。ただし、調べるには余りにリスクの高い題材である。
「本日、私が受け持つA組に留学生が編入されたのは君達の知るところとなっているだろう。留学生の名は、パウ・ライナバルト。アメリカからやって来たそうだ。その彼女が、自己紹介をした。内容はありきたりで、陳腐なものだった。だが、最後に締めくくる言葉として、彼女はこう言った――」
 暴君は言葉を一度区切り、告げた。
「――『ふつつか者ですが、どうか末永くよろしくお願いします』とな」
 ……あの馬鹿。
 俺は小さく嘆息した。
「その締めの言葉によって、歓迎の拍手と共に生徒は笑い声と歓声を上げた。特に男子一同の興奮は凄まじく、私の声すら届かないほどだった。彼女の恥らう表情が、いかにも『それ』らしかったのも騒ぎを大きくした一因だろう。自己紹介のインパクトは充分、生徒の反応も悪くなかった。彼女はすぐに私のクラスに打ち解けることだろう。質問の答えはこれで終了する。では、出席を取る。名前を呼ばれた生徒は返事をするように――淡野」
「はい!」
 出席を確認する声を聞き流しながら「パウって結構天然入ってるんだな……」と、俺はぼんやりと考えるのだった。

 それから。
 休み時間になる度に、数人の生徒がA組へと見物に行き、収穫無しで肩を落として自分の教室に帰る生徒と、戦果を上げて意気揚揚と足取りも軽い生徒、という二通りが開いているドアの向こうを通りすぎていった。
 留学生転入の噂はあっという間に校内を駆け巡り、噂の宿命というか「すっごい可愛かったらしいぞ」といった類の誇張から「優しくしてもらったら、お礼に一晩寝かせてくれるらしい」というあからさまなデマまで、様々な流言蜚語が飛び交った。

 キーンコーンカーンコーン――

 ようやく、昼休みを知らせるチャイムが鳴った。
 4時間目の現代文は、何をやっていたのかほとんど憶えていない。ノートは機械的にとっていたが、先生の言葉は耳から耳へと擦りぬけていた。
 考えていたのは「腹減った」ということのみ。
 とにかく、俺は腹が減っている。
 朝飯抜きなんて、何ヶ月ぶりだ?
 3時間目終了時、どれだけ学校抜け出して食料調達に行こうと思ったことか。
 俺は、購買へ行くべく席を立った。今朝はコンビニに寄る余裕など無かった。購買の混雑が嫌いで普段はコンビニに寄っているのだが、目当てのパンを買うためならば混雑が嫌いとも言っていられない。
「寛一、購買行くか?」
「拓真も購買? 珍しいなあ」
「まあな。進吾は今日も弁当か?」
「……ああ、そうだ。我輩は遠慮しておく」
 少々複雑な顔で、進吾は鞄から弁当を取り出した。弁当はおそらくお袋さんの手作りだろう。進吾はとにかくお袋さんが絡むと不愉快そうに表情を曇らせる。出来る限り、お袋さんとは関わり合いになりたくない、近寄りたくない、と思っているらしい。お袋さんがつくった弁当も、当然素直に食べられない。
 進吾の気持ちはよく分かった。俺も似たようなことがあったからだ。共感を受ける。だけど「俺もお前の気持ちがわかる」なんて言うつもりはない。
 自分の不幸に酔って、他人と傷を舐めあうのは、昏い満足感を満たしてくれる。
 それは気持ちが良い。けど、それだけだ。自分の内側で乱反射する感情を増やすだけで、どこへも向いていない。そういうのは嫌だから、俺は進吾には何も言わない。
 どうして進吾がお袋さんを嫌っているのか。理由は知らない。こればかりは本人の問題なので、「どうして嫌いなんだ?」なんて頭の悪い口出しはできない。それはさすがにおせっかいの度が過ぎている。
 第一、自分の時は放棄してしまった問題を、自分がすっきりしないという理由だけで進吾に「真っ直ぐ向き合え」なんて、どの面下げて言おうというのか。
「じゃ、俺たちは行くわ、進吾」
「よし、じゃあ行くか」
「ああ」
 俺と寛一は、連れ立って教室から飛び出した。
「拓真さんっ」
「おっ?」
 廊下に出た瞬間に呼びとめられ、急ブレーキ。降りかえると、数人の女子生徒に囲まれたパウがいた。
「ああー、パウさんお久しぶりです元気でしたか学校にはもう慣れましたかいじめられてませんか今日暇ですか一緒にお茶でもいかがですか?」
 俺と同じスピードで飛び出したくせに、寛一はよろめきもせずにパウの真ん前で立ち止まっていた。
 横に立っていた気の強そうな女子が、寛一をパウから引き剥がしにかかった。
「しっしっ。相馬ぁ、離れなよ。パウちゃん嫌がってるじゃないの。ああパウちゃん、こいつは相馬っていってね、女の敵だから。相手にしちゃ駄目だかんね」
「津村……俺に喧嘩売っているように聞こえるのは、気のせいかな?」
「気のせいだ。あたしは事実しか言ってない」
「俺は女子には優しいぞ! そう、俺は常に女性の味方! 敵に回ろうなんて滅相もない」
「あんたがどう思っていようが、女性が身の危険を感じた時点であんたは敵になんの。ほら、離れた離れた!」
 津村と呼ばれた女子生徒は、懸命に寛一を引き離そうとしているが、びくともしない。こと女が関わったとき、寛一は信じられない力を発揮するのだ。
「津村さん、大丈夫なのレすよ。相馬さんには昨日お世話になったのレす。昨日は道を教えてくれて、ロうもありがとうございました」
 律儀にお辞儀をして、寛一に礼を述べるパウ。
「いやあ、そんなお礼なんていいんですよ。どうしてもというなら、身体で払っても゛ら゛っ゛!?」
 津村のニーキックが、寛一の鳩尾に突き刺さった。
 ゆっくりと膝から崩れ落ち、腹を押さえてうずくまったまま動かなくなる寛一。
 ……まあ、自業自得だ。
「それで、俺になんか用か?」
 寛一を無視して、俺はパウに訊く。
 痙攣している寛一を心配そうに様子を窺っていたパウだが、
「……え?」
 俺の言葉に不思議そうな顔で首を傾げた。
「ああ、そうか。俺を見つけたから呼んでみただけなんだな。うん、わかった。わかったから、その顔をやめろ。相手をするのが疲れてくるから」
 俺は嘆息して、軽くパウの額を小突いた。
「いたいのレすよ~」
 額を押さえて、パウが恨みがましく見返してくる。
「嘘つけ。そんな力入れてないぞ」
 俺とパウのやりとりを横から見ていた津村が、不愉快そうに俺を睨みつけてきた。
「ちょっと、パウちゃんにその言い種はないんじゃない?」
 いじめられている友達を庇うっていうのなら分かるんだが、今のはそんな怒られるようなことか?
 ……うーむ。普段から手を出してるのは、強めに殴っても咎められない相手ばかりだからな。
 ちょっと自分の常識に自信が無くなっていることに気付く。
「ああ、悪かった。軽い気持ちだったんだよ」
「あのねえ、知ってると思うけど、彼女まだこの学校に来たばっかりなんだかんね。あんまり脅かすような真似してんじゃないよ」
 両手を上げて「降参」と示しているのだが、津村はまだ文句を言い足りないらしい。噛みつく隙をうかがうように、俺を睥睨する。
 そこに、慌ててパウが間に割って入る。
「津村さん、もういいのレすよ。私は気にしていないのレす。そんなに拓真さんを責められると、私の方が申し訳なく感じてしまうのレす」
「え、そう? わかったよ。……んー、あんたはいい娘ねー」
 パウの態度に感激した様子で、頭を抱えて、よしよしと撫ではじめる津村。
 すでにぬいぐるみ扱いか。なにはともあれクラスから受け入れられているみたいだな。
「ねえミッチー、早く行かないとみんな待ってるよー?」
「そうだね、じゃ、行こっか」
 パウ達を待っていた女子生徒の一人の言葉に、津村が踵を返した。
「拓真さん、それレはまた後レお会いしましょう」
 会釈をして、立ち去るパウ。その言葉に反応して、津村が振り返って一瞥。
「あんた達、二度とパウちゃんに近づくんじゃないよ!」
 パウが津村を取り成しながら、4人は廊下の突き当たりにある階段を降りていった。
「近づくな、つったってなあ……」
 一つ屋根の下に暮らしているのだから、近づくなもクソも無いもんだと思うが。ま、あいつは知らないことなんだし、知っていたところで命令に従うつもりは毛頭ない。
「津村め……また腕を上げおったな。威力が日に日に増しておるわ……」
「お、復活したか」
 ゆらり、と立ち上がった寛一は、不敵に笑った。
「ふふっ、いくら津村が決めようとも、俺がパウさんに近づくことを止められる者など何人もいないのさ。同じクラスだから行動を一緒にできるという些細な特権が使えるのも今のうち。せいぜい、余裕を見せておくんだな……」
 なんだか知らないが、パウを口説くことに燃えている男が一人。
 ……こいつにパウと同居していることを教えたら、毎日訪ねてきそうだ。うっとうしくなりそうで嫌だなあ。
 バレるのは時間の問題だとは思うが、パウが俺の家に住んでいることは黙っておくことにするか。わざわざ口外することでもないしな。
「はっ、拓真! まさかお前、パウさんに気があるんじゃないだろうな!」
「んなわけあるか。俺の好みのタイプは、恋人だよ」
 答えながら、ふと、脳裏を何か過ぎった。
 恋人……。つい最近、恋人に関してなにか大きな事件があったような気がする。でも、そんな事があれば、俺が忘れているはずもないしな……。
「正気か拓真!」
 心にひっかかっていたなにかは、寛一の大声が押し流してしまった。
「パウさんなら、かなりクる物があるだろ? あの褐色の肌を白いモノでデコレーションしたいと思わないのか!?」
 こ、こいつ……、昼休みで人通りの激しい廊下で、なんつーことを口走ってやがる!
「お前と一緒にするな! お前が考えてるのはそんなことばっかりか!」
「あ、まさかお前、変な想像してないか? いやらしい……、信じられない……」
 わざとらしい演技で、口元を押さえて数歩後退って見せる。
「……じゃあ、なんだっていうんだよ」
 俺のジト目に、寛一は力強く断言した。
「デコレーションっていえば生クリームに決まってるだろ? パウさんの身体の大事な部分を生クリームで隠して、それを舐め取りながら暴いていくんだよ。……そそるねぇ」
「そそらんわ!」
「ごふっ」
 俺のショートアッパーが寛一の顎をミート。綺麗な放物線を描いて倒れる寛一。大の字で廊下に転がっている上から、俺は呆れと諦めのない交ぜになった視線を送る。
「本当に懲りるという言葉を学習しない奴だな、お前という奴は……」
 寛一が上半身をなんとか起こして、反論を口にする。
「俺から女への意欲を取ったら、何が残ると……?」
「何にも残らんな」
 迷わず放った一言がトドメとなった。
「――ぐふっ」
 ぐったりと横になったまま動かなくなる寛一。
 ……絶対にこいつにだけは教えないようにしよう。
 そう決意する。
 一瞬、ほんの一瞬だけ、家の台所で全裸になったパウが、胸と股間を生クリームで隠した状態でテーブルに横たわっている様子を想像してしまった。
「……ちっ、なにやってんだよ」
 自分を恥じつつ、俺は購買へと向かった。

 メロンパン、クリームパンにハムサンドとエッグサンド、ミックスサンドを購買で購入。
 焼きそばパンも買おうと思っていたのだが、残念ながら売り切れていた。出遅れていながらも目当てのパンはほとんど買えたのだから、戦果としては上々だ。
 昨日は外で食べたし、今日は教室で昼食を摂ることにした。上手くすれば進吾からおかずをせびることも出来るだろうし。
 ぼんやりと窓の外を眺めながら廊下を歩いていると、中庭でくつろいでいる生徒の一団にパウの姿を発見した。学校に1人しかいない褐色の肌の持ち主だ、嫌でも目につく。
 7、8人ほどの女子に囲まれて、和やかに食事を摂っているようだ。時々嬌声も上がっては、一緒になって笑っている。
 やはり心配する必要は無かったみたいだな。
 パウには人を警戒させない、自然と打ち解けられるような雰囲気が滲み出ている気がする。パウ自身の態度にも、警戒するというか、身構えている感じがしないのも大きいだろう。初対面の相手とでも、常に自然体で対応できている。俺のときもそうだった。
 そういえば、アルバートさんが言っていたな。仕事の都合でパウと一緒に世界を飛びまわっているとかなんとか。
 そういった環境なら、出会う人間は常に初対面だったことだろう。自分から壁を作っては、相手も壁を作ってしまうことを自然と理解していたのかもしれない。
 俺は視線をパウのいる集団から外し、教室へ歩き出した。

「おーし。じゃ、くれぐれも明日まで死ぬなよー」
 京極さんの、いつもの投げやりな締めの言葉で、ホームルームは終わった。
 掃除のため、机や椅子を教室の後ろへ押しやり、俺は大きく伸びをした。
「さ……て、と」
 これからどうしようか。
 パウが俺の家で生活するための日用品などを買い入れるのに、駅前の商店街まで付き合ってもいいし、部活に行くのもいい。
 買い物に付き合うとしたら、パウと合流しなくてはならない。と、なるとA組に行くべきなのだろうが、津村と顔を合わせるのは勘弁願いたい。
 はっきり言って、あいつはかなりうっとうしい。まだ菜緒の方が可愛げがある。
「ねえー、山崎山崎ー」
 と、背後から俺を呼ぶ声。噂をすればなんとやら。菜緒だ。
「なんか用か?」
「今日は暇なんでしょ?」
「微妙にな」
「何よ、その微妙に、って」
 俺の言葉に、菜緒が怪訝そうに訊いてくる。
「用があると言えばあるし、無いと言えば無いってことだ」
「どっちなのよ」
「それを考えてるとこなんだよ」
 はぁー、とため息を吐いて、菜緒は本題に入る。
「ま、いいわ。と・に・か・く、陸上部! 今日こそ来てよね。今月入ってから、まだ一度も来てないじゃない。差別はいけないと思うわ」
 腰に片手を添え、説教するように菜緒が言ってきた。
「差別ってなんだよ。第一、俺はどの部にも所属してないんだから、文句言われる筋合いはない」
「だったら陸上部に来なさいよ。そしたら文句言わないであげるから」
「はあ?」
 もう、なにがなんだか。言ってることが滅茶苦茶だ。
 前言撤回。菜緒も充分うっとうしい。
「おーい、山崎ー! 留学生が呼んでるぞー!」
 教室の入り口付近にいた男子の大声に、教室内の注目が集まる。
 留学生といえば一人しかいない。パウだ。
「ちょっとちょっと。山崎って、もう留学生の娘と知り合いになったの?」
「まあな」
「へー、凄いじゃない。あ、そういえば相馬も知ってるみたいだったし。一緒にいたときになんかあったの?」
 菜緒が興味津々、といった風に質問をかぶせてくる。
「色々あったんだよ」
 俺は言葉を濁してパウの元へ行く。着いてこなくてもいいのに菜緒も一緒だ。
 掃除当番の生徒は、教室を掃除しつつも、パウが気になるのかちらちらと視線を送っている。
「どうかしたか?」
 出入り口から出てすぐの壁に持たれかかりながら、パウに尋ねる。
「はい、昨日話していた買い物に一緒に行ってもらいたくて、お願いに来たのレすよ」
「ああ、あれな。俺もどうしようかと思ってたし、別にいいぜ――」
 言葉の途中で背後から襟首を思いきり引っ張られて、俺はのけぞった。
 何事かと振りかえると、険悪な表情で俺を睨んでいる菜緒がいた。
「……なんだよ」
「陸上部付き合ってくれるって言ったくせに」
「言ってねえよ」
 菜緒は涙を拭う素振りを見せて、
「ひどいわ、あたしを捨てるのね……」
「人聞きの悪いことを言うな!」
 と、表情をガラッと変え、今度は口元を歪ませて、シニカルな表情で遠くを見る。
「へっ。所詮男なんて、結局女を使い捨てることしか考えてないわけだ」
「いつ使い捨てたよ! どっちかっつーとお前が利用しようとしてるだけじゃないのか?」
「それは論点のすり替えよ!」
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやるわ!」
 あーもー!
 どうしてこいつと話すと、いつもいつも話が進まなくなる!
「……ん?」
 横から俺を非難するような眼差しで、パウがジーッと俺を見ているのに気付いた。なにやら涙ぐんでいる。
 俺、こいつになにかしたか……?
「……なんだよ」
 心当たりは無いのだが、少々不安になりながらパウに訊く。
「拓真さん、酷いのレす。この方が可哀想なのレすよ……」
「今のホラ話に感情移入してんじゃねぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 ビシィッ!

 パウの脳天に、かなり勢いの乗ったチョップがヒット。
「~~~~~~~~」
 頭を押さえたまま、無言でしゃがみこむパウ。
「あ」
 思わず手を出してしまっていた。意識とは関係なく動いた自分の右手を見つめてしまう。
 うーむ……無意識にツッコんでしまう癖がついてるのか?
 それにしても、出会って2日目にして、俺にここまでのツッコミを入れさせるとは……。ある意味快挙ではある。パウよ、誇っていいぞ。後ろ向きに。

 ゴキャッ!

 衝撃。
 鈍い音。
「ぐお……?」
 突然、視界が暗転した。
 あれ……目蓋は開いているはずなのに、何も見えない。
「てめえっ! パウパウに近づいた挙句、手をあげるとは何様のつもりだっ!」
「ミーちゃん!?」
「津村の奴、すっごい勢いでソフトのボール投げてきたな……あいつ、殺る気か?」
「げ……山崎の奴、白目剥いてるぞ。マズくね?」
 ……周囲の声から、とりあえず状況は把握できた。
 とりあえず、一つだけ言わせてもらうなら――

 ――パウパウはないだろ。

< 続く >

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