外仙 章之壱「囲」 1

章 之 壱 「囲」 1

 ひどくうらびれた感じのする男。
 響阿斗を一言で表現すれば、そんな感じだろう。
 背広は皺だらけであちこち擦り切れていたし、ネクタイは日にやけて変色していた。
 顔立ち自体は悪くない……っていうか、はっきり言って美形。
 それも、美男子コンテストだけでなくミスコンだってさらえるくらいの造りの良さ。でも、そこに浮かぶ表情がそういったものをぜーんぶさっぴぃて、マイナスにしてしまってる。
 半分眠ってしまってるような、のほ~んとした表情になんだか幸せそーな笑みが浮かんでる。ねぼけたまんま起き出して、そのまんま町をうろついてるって感じだ。
 その印象を決定的に裏付けてるのは、髪にしっかり残ってる寝癖。
 顔の造りだけはいいけど、どうにもうらびれたような感じは拭いきれなかった。
 身長は165センチくらい。ただし、それは10センチ近くもある分厚い底の靴を履いてのこと。はっきりいって、チンチクリンという表現がぴったりだ。
 ただし、体のバランスだけはとれていた。やせてもいないし、もちろん太り過ぎてもいない。チンチクリンなのを除けは、スタイルは絶品といっていいだろう。
 間違いなくみがけば光るって感じなのだけど、問題なのはつもりつもった埃や汚れと、とても仲のよいお友達になってしまってるってことだろう。
 阿斗は今、車を走らせていた。
 車種はカローラ・ハッチバック。
 とことんまで薄汚れてはいたけど、一応愛車だった。
 見かけは街中でも良く見かける型だけど、中身はWRC(ワールド・ラリー・チャンピオンシップ)で今期使用されているものと同じ。公道を走るってことに関しては、フェラーリやポルシェなどのスーパーカーと呼ばれる車種よりも、間違いなく数段上の戦闘力をもっている。
 それに、阿斗だけに合うように、かなり特殊なチューニングをほどこしたものが阿斗の運転している車。カローラWRCカスタムだった。
 トヨタが、そのすべてのテクノロジーをつぎ込んで作られたこの車を手にするために、阿斗は30億というとほうもない大金をつぎこんでいた。
 絶対に他者にはメンテをさせないこと、すべての開発費用を負担することを条件に、ストックカーとは別にもう一台作らせることが出来たのである。
 でも、それは中身の話で、やっぱり見た目はカローラハッチバック。それも、極限まで汚れきったバッチイ車に過ぎない。
 阿斗は、ボーとした顔で頭の中身もボーっとしながら、住宅街の細い道を車で走っていた。
 何度となく繰り返される小さな交差点。その1つを他と同じように、少しスピードをゆるめただけで通り過ぎようとしたときだった。
 いきなし、前方に人が立ち塞がった。それは、青い制服もまぶしい婦警さん。
「はーい、一時不停止です。車を降りて免許証を見せてください」
 ドアの横に立ち、窓から中を覗き込みながら婦警さんが命じる。かなり美人の婦警さんだった。その顔を見た阿斗の顔に、一瞬マジな表情が浮かんだけど、すぐにほけーっとした表情に戻る。
 路肩に車を寄せて降りる。
「免許証だしてください」
 婦警さんがさっそくよってきて、免許の提示を求める。
 かなりの美人で、表情を消したその顔は冷たい感じがするけど、でも、それが良く似合っている。それに背も高くて、かなり上げ底してある阿斗よりも有に5センチは高い。
 婦警さんはもう一人いた。
 少し離れたところに立って、こっちを見ている。
 タイプとしたら、今話しかけてきた美人の婦警さんとは、ちょうど対称的なタイプ。美女っていうより可愛いって感じ。背も阿斗より低い。
「なんで?」
 阿斗が聞く。捕まるようなことはしてなかったはず。少なくとも、阿斗はそう思っている。
「“止まれ”なんて、どこにも書いてなかったよ」
「前方不注意ですね。あそこに、ちゃんと標識が立ってますよ」
 美人の婦警さんが指し示したその先には、確かに逆三角形の標識が立っていた。家の庭から張り出した木の枝に埋もれるようにして、ひっそりと……。
「へぇ~。なるほどぉ。そういうことなんだぁ」
 阿斗は、ほへーっとした顔で腕組みなんかして、したり顔でうんうんうなずいてる。
「じ、じゃあ免許証出してください」
 ちょっと婦警さんはひいていた。
 たぶんあれを見てこういった反応を見せたやつは、この男がはじめてなんだろう。
「いやー、なるほど。こりはすごい。まったく、こんなとこがあるなんてたいしたもんだ、いやーおどろいた」
 ふむふむと、やたらと感心してる阿斗。完全に、婦警さんのことは無視してる。
「ちょっと、聞いてるんですか? 免許証をだしなさいって、言ってるでしょう!」
 美人の婦警さんが、ちょっとキレかかってる。
 阿斗は、ぼーっとした顔を婦警さんに向ける。
「いやぁー、いくら美人のおねぇーさんのたのみでも、それはできないなぁ」
 間延びした答え。
「さからうつもりですか? タイホしますよ!」
 それまで無表情だった美人の婦警の顔に、いらだち、あるいは怒りの表情がはっきりと浮かんでいる。
「へぇー。けっこう短気なんだぁ。こんなとこ探せるくらいだから、もっと辛抱強いんじゃないかなぁって思ったんだけどなぁ」
 いつの間にか、阿斗の口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「な、なんですか、あなた。さっきから。いい加減にしないと、本当に逮捕しますよ!」
 美人の婦警さんが、むきになってる。
「まぁまぁ美山さん、そこまでしなくたって。……だしていただけますよね?」
 もう一人の婦警さんが近づいてきて、美山さんと呼んだ婦警さんをとりなす。後半の言葉は、阿斗に向けられたものだ。
「まいったなぁ、ぼくだって、できるもんなら何枚でもだしたいんだけどねぇ。……ないんだよね、免許」
 頭なんかかきながらそう言った。
「では、免許不携帯ですね?」
 愛らしい顔に魅惑的な笑みを浮かべながら、小さいほうの婦警さんが事務的にたずねる。
「いや~。ほんっと言いにくいんだけどね。生まれてから一度も免許って、とったことないんだよね」
 そう答える阿斗に言いづらさなんて、みじんも感じられなかった。
「む、無免許運転……。しかも、堂々と……」
 婦警さんの愛らしい笑みがひきつってる。
「本当に、逮捕するしかないようですね。……ったく、あなたのやってることは、リッパな犯罪なんですよ」
 彼女からそう言ったのは、けして義憤にかられたからなんてことじゃない。彼女の投げやりな言い方かが、それを物語ってる。
 たぶん、ノルマがあるのに、やっかいなの捕まえちゃったなぁなんて考えてるんだろう。
「だぁーいじょうぶ。ぜーんぜん問題ないって。ぼくって運転うまいし、それにね……」
 いかにも思わせぶりに、阿斗が言葉を切る。でも、婦警さんは後に続く言葉が何であれ最後まで聞くつもりは、まるでなかった。
「あなたが、いくら運転がうまくったってまるで関係ないんです。法律でそう決まってるんですから」
 子供に言い聞かせるみたいにそう言ったけど、でも口調がなんだか投げやりなのはしかたないかも。
「それにね、君たちは、ぼくを捕まえたりはしないよ」
 阿斗は、婦警さんの話聞いてなかった。
「……そんなわけないでしょう? 無免許運転なんてしてるんですから」
 それでもちゃんと答える辺り、案外この婦警さん人がいいのかも知れない。
「でも、ほら、美山さんの方はぼくを捕まえる気、なくなってるよ」
 そういえばさっきから背の高い美人の婦警さんは、一言も話してない。
 言われて小柄な婦警さんは、その愛らしい顔を曇らせる。
 同僚の、美山婦警の様子がおかしいことに気付いたから。
「美山さん? どうしたの?」
 反応はない。ただぼうっとした目付きで、男の方を見てるだけ。
「美山さん? だいじょうぶ、美山巡査!」
 今度は肩をつかんでゆすぶってみるけど、美山巡査は力なくされるがままになってるだけで、まったく反応を見せない。
「ダメだよ、そんなことしたって。ぼくの術の支配下にあるからね」
 まるで子供が自分の自慢のおもちゃを見せびらかすときみたいな、そんな感じで阿斗が言う。
「あなたが、何かしたっていうの?」
 同僚のおかしくなった様子を見て、なお彼女は冷静だった。
「うん。響外仙術の基本技の一つで、“封考”っていうんだよ」
「響外仙術……。それに“封考”って……」
「仙道って知ってる? 仙人になるための技のことなんだ。仙術っていうのは、仙人になった人が使う技のこと。で、外仙術っていうのは仙人になれる力を持ったまま、仙人にならずに術だけを高めた技のことなんだ。まあ、口で言うのは簡単なんだけど、この仙人にならないでっていうのがけっこう大変だったりするんだけど。……でも、まあ、今は関係ないよね」
 説明する阿斗は、とっても楽しそう。たぶん、誰かに話したたくってしかたなかったんだろう。
 でも話してる内容は、あやしさいっぱいだし、おまけに阿斗自身もうさんくささ十分だった。
「……あなた、本気で言ってるの?」
 思いっきり疑わしそうに、婦警さんがたずねる。
「えっ? 信じてない? まあ、ぼくが話して信じてくれた人なんていないんだけどね。ハッハッハッ」
 ちょっとひきつった笑声をたてた後。
「でも、証拠をみせたら信じる気になるよ。たぶん」
 そう言った後、阿斗は美山婦警の方を向いて、
「美山さん。鼻くそほじってみてよ」
 やさしく話しかける。
 反応はすみやかだった。ためらいとか、とまどいとか、まったく見せない。
 人差し指。それも両手の指をピンと伸ばして、自分の鼻の穴に突っ込む。
 たんねんにホジホジした後、指をだすと爪の先に黄色っぽいものがくっついてヌルっと出てくる。
 少し糸を引いてたりすることろが、おちゃめだったりする。
「指はなめてキレイにしようね」
 子供に言い聞かせるときみたいに阿斗が言う。
「み、美山さん。な、なんてことしてるの。美山さん、やめなさい。美山さん!」
 自分の鼻くそのついた指を丹念になめまわす美山巡査を、もう一人の婦警さんがやめさせようとするけどダメ。
 2本の人差し指を口から抜き出すと、よだれが糸を引くまま鼻に指を突っ込む。
 そして……。
 ホジホジホジ……。
「あなた、一体彼女に何をしたの?」
 今度は、はっきりと敵意をあらわにした視線を阿斗に向ける。
「いやだなぁ。聞いてなかったの? 外仙術の“封考”を使ったんだってば。それに、ね。そんなにさわがなくったって、美山さんにはちゃんと分かってるよ。この術は、意識はちゃんと残ってるからね。“いやだ”って思っても、だからどうしようって考えることが出来ないだけなんだ。変わりに、ぼくが言った言葉が彼女の考えになるんだ。つまり、ぼくの言いなりってことだね」
 そう話す阿斗は、とてもうれしそうだった。
 どうやら、ちゃんと聞いてもらえるのが嬉しいらしい。
「し、信じられない……、そんなこと……」
 そう言った婦警さんの声に、力はなかった。
「へぇ~っ。ならさ、美山さん。自分が今何思ってるのか口にしてよ」
 阿斗がそう指示を出すと。
「いや。こんなの、きたない。はずかしい。他人の前で鼻くそなんて、ほじりたくない。舐めたくない。いや、いや、ひゃ、ちゅ、ひひゃなひ、ちっちゅ……」
 自分の感じてることを、たれ流すように話始める美山婦警。
 ちなみに、最後の方がおかしな話方になってるのは、ちょうど指を舐めはじめたから。
「あ、あなたを公務執行妨害で逮捕します」
 可愛い婦警さんの手には、手錠が握られていた。
 でもこの時、彼女は決定的なミスをした。彼女が手にすべきだったのは、手錠なんかじゃなく拳銃だったのだ。それで、迷うことなく頭を撃抜いていれば、彼女は今後の運命から逃れられたかもしれない。
「へへっ。やっぱり、分かってなかったみたいだね。なんでぼくが、美山さんだけにしか術をかけてないって思うの?」
 その言葉を聞いた美山婦警の頭の中に、不吉な予感がよぎる。
「ま、まさかわたしにも……」
「ピンポーン。そのたうり!!」
 阿斗の脳天気な声が辺りに響く。
「えっえっえっ? な、なんで?」
 婦警さんが驚いた声を出したのは、彼女は手にした手錠を同僚の美山婦警にかけてしまったから。
「どう? おどろいたでしょ? キミにかけた術は“思操”っていうんだよ。ぼくの“念”でキミの体を動かすんだ。“封考”と違って声のとどかない遠く離れた所からだって、自由にキミの体を操ることができるんだ。とっても便利でしょ?」
 そう同意をもとめる阿斗。
 でも、婦警さんはそれとは違う意見をおもちのようだ。
「な、なにが便利よ。いい加減にしないと、本気で怒るわよ」
 いつの間にか、その婦警さんは“コマネチ”をやっている。
 それは、とてもなつかしいギャグだった。
「そんなこと言っても、術を解いたらぼくを捕まえるんでしょ?」
 阿斗が聞くと、
「あたりまえでしょ!」
 婦警さんは、即答する。
「だから、さ。ぼくがキミ達を一生飼っとけば、タイホされなくてすむでしょ? それに、色々と楽しい遊びもできるし、ね」
 その言葉を聞いた婦警さんの心に、とても不吉な予感が浮かぶ。
「絶対に、逮捕しますからね。見てなさい、かならずあなた後悔するから」
 ほんと、愛らしい顔に似合わず気の強い婦警さん。でも“コマネチ”をやりながらでは、なんとも説得力にかけていた。
「まあ、こんなところじゃなんだから、場所を換えようか、美山さんに……」
 言いかけて、はたと、あることに気づく阿斗。
「名前なんだっけ?」
 阿斗の問いかけに、婦警さんは。
「お、教えるもんですか!」
 ささやかな抵抗。
 でも……。
「ねぇ、教えてよ美山さん。ついでにキミの下の名前も、ね!」
「彼女の名前は、片倉小百合……巡査。私は、美山ゆき巡査です」
 ささやかな抵抗は、本当にささやかなままに終わりを告げた。
「へぇ、ゆきちゃんっていうのか。いいねぇ……じゃあ行こうか、ゆきちゃんに小百合ちゃん」
 片倉婦警は阿斗の言葉に文句をつけるけど、体の方は勝手に動き出しカローラのドアを開けていた。

 それから30分後。
 三人は、彩賀総合病院の受付にいた。
「ねぇねぇ、涼子ちゃんいる?」
 阿斗が受付の女の子に、なれなれしくたずねる。
「えっ? 涼子ちゃんって……。あのう、どちら様でしょうか?」
 ボサボサの髪。すり切れた背広。あやしさ満点の男が、なれなれしく話し掛けてきたのだから、誰だってそう聞き返したくなるだろう。
「いやだなぁ。見てわかんない?」
 なんか、いやらしい笑みを浮かべながら、阿斗が聞き返す。
「……刑事さん、ですか?」
 受付の娘が、そう答えたのも無理ないかもしれない。
 阿斗の背後には、二人の婦警さんがついてきてたから。
 背の低い方は目の前の男のことを睨みつけていたし、背の高い方は何やら焦点の合わない視線を、ぼうっと正面に向けている。おまけに、なんのマネかしらないけど、その両手には手錠がかけられている。
 見ればかなり変な、極め付けにうさんくさい連中である。
 ちなみに、低い方は片倉小百合。高い方は美山ゆき。本来なら、まっとうな婦警さんなのだけど……。
「まっさかぁ。ぼくって、そんなふうに見える? あんな、ダッさい連中と一緒にしないでよ」
 ひどく不満そうに、阿斗が答える。でも、このセリフを聞いて刑事さんがいたとしたら“お前さんにだけは、言われたくない”って、反論したことだろう。
「じゃぁ、ぼくのこと見覚えないんだ」
 肩なんかすくめる阿斗。
 いかにも、残念そうに。
「は、はぁ。申し訳ありませんけど……」
 なんか、納得してないように受付のおねぇーさんが答える。
「いやー、そりはきぐう。ぼくも、おねぇーさんのこと見覚えないんだよねぇ」
 まいったまいった、と繰り返す阿斗。
 受付のおねぇーさんの顔から、営業スマイルが消えていた。
「からかってるんですか?」
「からかう? ぼくが? まっさかぁ。お互い知らないもの同士、二人だけで親交を深め合わないかなぁーって、そう思ったんだけど……。どう? 美人のおねぇーさん?」
 それは、いわゆる一つのナンパっていうやつだった。
 でも、お世辞にもうまいナンパじゃない。ふられる確率99パーセント。
 100パーセントでないのは、ふられる前に、
「阿斗さま! なかなか来られないって思ったら、こんなとこで油売ってらっしゃたのですか!」
 っていうふうに、じゃまが入ることがあるからだ。
 で、今、邪魔に入ったのは美女。それもとびっきりの美女。
 彼女がそこにいるだけで、周りにいる女たちは皆かすんで見えてしまうくらいの。
「あっ。院長先生!」
 受付の娘は、なぜかポッと頬を赤らめてそう言った。
「やは!」
 なんだか、引きつった笑みを浮かべて阿斗が振り返る。
「あっ! じゃあ、院長先生のお知り合いの方だったんですか……。あたし、てっきり新手の患者さんかなぁって……」
 ちょっとあせってる、受付のおねぇーさん。
「ご、ごめんなさい!」
 あやまってる。
「永山さん。あなたがあやまる必要なんてないのよ。この方が、とっとと私の所に来られればすんだのだから」
 絶世の美貌と、170を軽く超え180に届きそうなくらいの長身を持った涼子。
阿斗をにらみつけてる、その姿はかなり迫力があった。
「そんな怒ってると、疲れるよ涼子ちゃん」
 その阿斗のセリフは言い訳っていうより、挑発っていうべきだろう。
「誰のせいだと思ってるんです? 時間がないから、1時間以内に院で待ってろって連絡よこしたのはあなたですよ、阿斗さま」
「時間がない……」
 わずなか間、あらぬ方へ視線をさまよわせた後。
「おーおー、そーだった」
 何かを思い出したらしく、よれよれの背広の上着を脱いで涼子の方へ突き出す。
「なんです、それ?」
「ほら、ここ」
 背広の一ヶ所を指で指し示す、阿斗。
「……それって、もしかして……」
 何がいいたいのか、涼子にはたぶんわかってた。でも、もしかして勘違いってこともあるかもしれない。
 一応、聞き返す。
「ほら、ね。ボタンとれちゃってるでしょ?」
 にこやかに答える阿斗。
「やっぱり……」
 小さくため息をつく涼子。
「で、わたしにボタンを付けてほしい、と?」
 うんうん……。
 うなずく阿斗。なんかうれしそう。
「では、これをするためだけに呼び戻された、と?」
 うんうん……。
「一時間以内っていっときながら、自分はそのことをキレーに忘れて、その娘達にちょっかいを出してた、と?」
 うんうん……。
「一つ聞いてもいいですか?」
 うんうん……。
「なんで、一時間以内だったんです?」
 うーん?
 腕組みをして、何やら考え始める阿斗。
「な、悩むようなことなんですか?」
 涼子が、そう言ったのも無理ない。受付で話を聞いてた、永山みさとだって、そう思った。
「おっ!」
 両手を打ち鳴らす、阿斗。
 なんか、思いついたらしい。
「シャコウジレイってやつだな……、たぶん」
「たぶんって……。今、考えつきましたね? でも、どうして“一時間以内”が、社交辞令になるんです?」
 聞き返したとたん、涼子はすぐに後悔する。阿斗が腕組みをして、うーんってうなり始めたから。
「阿斗さま。彼女達、一体どうしたんです?」
 かなり無茶な話のもっていきかただけど、この会話をこれ以上続けることのむなしさを考えたら、それも当然かもしれない。
「飼うんだよ、ぼくが」
 その阿斗の言葉に、涼子は犬か猫でも値踏みするみたいに頭の先から足先まで二人をながめまわした後。
「あまり、いい趣味ではありませんね。阿斗さまには、はっきり言って釣り合うとは思えませんが……」
 かなり冷ややかなセリフ。
 ただ、ぼーっと前を見ている美山巡査はともかく、片倉巡査のほうは、唯一今のところ自由になるらしい視線を動かして、 必死でもんくをつけてるが、でもなんの役にもたたなかった。
 まあ、見てるだけなんだから当然ではあるけど……。
「だって、婦警さんだよ? 婦警さん! キレイな婦警さんに、あんなこととかこんなこととか、いーっぱいさせてみたいじゃないかぁ!!」
 なんだか、阿斗は妙に気合が入ってる。
「で、その遊びの中には、わたしもふくまれてるのですよね?」
「……い、いやだなぁ。とーぜんじゃないかぁ。はっはっはっ」
 ちょっと返事がぎこちない阿斗。
 どうやら、そのことは考えてなかったらしい。
「……まぁ、いいでしょう。普段、私のことをほったらかしなんですから……」
 そこまで言いかけたときだった。
「おお、院長先生ではないですか!」
 ロビーの向こう側から、大声で話し掛けてくる人物がいた。
 大柄な体、年齢の割には妙に黒々した髪。それに凶悪そうな面構え。胸元には金色のバッチが光ってる。
 この国の人間なら好むと好まざるとにかかわらず、この男の顔を見たことがあるだろう。
 かつて、この国の首相をつとめ、現在は与党最大派閥の長をつとめている。
 中元虎太郎。
 それが、その男の名前。
「いやー。ちょうど院長先生にご挨拶に行こうかと思っとったとこですわい。ちょうどよかった」
 ガハハと大きな声で笑いながら近づいてくる。
 その背後には、銀縁眼鏡をかけた男が従っている。
 虎太郎よりさらに背が高く、でも横幅は半分にも満たないだろう。やたらと線の細い男で抜き身の刀を感じさせる。
 右手には、大きなアタッシュケースが握られていて、それを持ったまま受付へと向かう。
「中元虎太郎様ですね? ちょうど8千万円になります」
 受付の永山美里さんがにこやかにそう告げる。
「どうぞ、お受け取りください」
 男がアタッシュケースを渡すと、美里さんはケースをちょっとだけ開けて中を確認する。
「確かに受け取りました」
「いいのですか? 確かめなくても?」
 左手で眼鏡の中央を押しこみながら、男がたずねる。
「信用してますから」
 その言葉に、男はフッと小さく笑い声をたてた。
「なにか?」
 美里さん、それが気になったみたいでたずねる。
「いえ、その言葉、自分達みたいな人間には一番似つかわしくない言葉だと、そう思いましてね」
 自嘲とも思える言葉だけど、表情だけみると案外楽しんでるふうに見える。
「そうですね。わたしもそう思いますわ。でも、今はおたくの先生、なんとかしていただけません?」
 男が振り返ると。
「どうです、院長先生。いや、涼子先生。こんなところ閉めてしまって、わしの専属医になったらどうですかな? 金なら、いくらでも出しますぞ。こんな、いいお尻をいつまでも一人寝させとくと、そのうちお尻が風邪を引きますぞ。グワッハッハッハッ」
 馬鹿笑いをしながら、涼子の尻をなで回している。
「先生、婦警がいます。ご自重を……」
 男が中元代議士に近づき、耳元でささやくように言うと。
「ガッハッハッハッ。心配いらんよ。わしは警視庁にも知り合いはおる。それより、涼子先生に君を紹介しよう」
 そう言って、涼子に方へ再び向き直り。
「涼子先生、この男はわしの秘書をつとめておる、松岡修二だ。実は、ここを教えてくれたのもこの男でな。まあ、わしの命の恩人というわけじゃよ」
 中元代議士は、ガハハと不快な笑い声をたてる。
 この病院へ入る1ヶ月前、中元代議士は他の病院である診断を受ける。病名は末期がん。生命は3ヶ月と言われた。
 その時、松岡が銀縁眼鏡を押し上げながら、「あなたの命を確実に助けてくれる病院があります。ただし、多額の費用がかかりますが……」と。
 その病院はとても不思議な病院で、ここで治療を受けて死んだ人間は一人もいない……。それどころか、直らなかった人間も一人もいない。ただ、この病院での治療には一切保険がきかず、その上、最低でも一千万円以上もの大金をすべて現金で支払わなければならない。だから、ここを利用できる人間は限られてくる。
 ちなみに、中元代議士の場合、入院時に1億5千万円を支払っているから、今度の清算で計2億3千万円を支払うことになった。
「おひさしぶりです、彩賀さん」
 松岡が涼子に話しかける。
「死者以外のすべての者を、完全に治療する。切り取るのではなく切り開き、患部そのものを正常な状態にもどす。“神の手”と呼ばれたあなたの手術、相変わらず素晴らしいものですね」
 大げさにほめ讃えるのではなく、事実を淡々と告げる。そんな感じの言い方だった。
 それに対して涼子は、冷たい視線を返すだけ。何の反応も示さない。
「へぇ、そのメガネのおっちゃん、涼子ちゃんの知り合いだったんだ」
 変わりに答えたのは阿斗だった。
「その通りです。以後お見知りおきを、……美しき方」
 おっちゃん呼ばわりされても、顔色一つ変えることなく深々とお辞儀をかえす松岡。
 胸に片手を当ててみせたその礼は、宮廷における貴婦人に対するそれのごとく、とてもさまになっていた。
「う、うつくしきって……」
 なんと、阿斗が少し引いてしまってた。
「ま、まあそんなことよっか、そっちのブッ細工なおっちゃん。あんたさぁ、ぼくとどっかで会ったことない? どうも、見覚えあんだけどさぁ……。さっきからどうも思い出せないんだよねぇ」
 どうも、珍しく黙ってたわけは、それだったらしい。
「なんだね、君は? ここは、君みたいな薄汚い男のくるとこではないぞ。それにわしのことを知らんとは、とんでもなく無知なやつだ。まったく、君みたいなやつがこの国をダメにしとるんだ。いいか、わしは、民自党の中元虎太郎だ。本当ならば、君のような人間などは、わしと口などきけるはずなどないのだ。まったく、身の程を知らん人間にも困ったものだ」
 完全に見下しきった表情で、中元代議士が言い放つ。
「まあ、それより何度も言うが。ここは、君みたいなやからが来ていい場所ではない。あまつさえ涼子くんと親しげに口をきくなど、分際をわきまえんか。だいたい、君のようなチンチクリンな男が、涼子くんの横に並んでも釣り合うとでも思っとんのかね? 見たところ君にふさわしいのは、生身の女より、南極何号とかいう人形のほうだと思うのだがね。ガッハハハハ」
 あまりに心底下品で、つまらないギャグ。
 それに、自分一人でうけて笑っている中元代議士の肥大しきった自我は、どうやらそのことすら理解できないようだった。
「ガッハッハッハ……。グッ? ンギュ……」
 突然、中元代議士の声が止まった。いきなり床に倒れこむと、体中痙攣させながらそのままのたうち始める。
 体中すべての細胞が悲鳴を上げていた。ありとあらゆる神経が、すべて激痛を訴えている。
 一体何が自分の身に起こったのか、中元代議士には理解できなかった。
「ばかな男……」
 そう冷たく言ったのは、涼子だった。
「な……、ぜ……」
 それだけ言った後、中元代議士は圧倒的な苦痛に体をひきつらせる。
 この状態で、それだけのセリフをはけたところを見ると、けっこうガマン強い男なのかも知れない。
 でも、それが限界で、これ以後頭をごつんごつんと床にぶつけながら体を痙攣させるだけだった。
「どうか、許してやってもらえないでしょうか?」
 貴婦人への礼とともに、落ち着いた声で言ったのは松岡。
「なんで、ぼくに言うのかなぁ? やってんの、ぼくじゃないでしょ?」
 答えたのは阿斗。
「彼女を止められるのは、あなたしかいない。そうではないのですか? 美しき方」
「……ったく、あんなん、いなくなったっていいじゃない? 涼子ちゃんにまかせとけば、キレイに消してくれるよ?」
 阿斗は、はっきりとめんどくさがってた。本当に、どうだっていいやって思ってるらしい。
「まあ、それもそうなんですが……」
 一旦、同意してみせる松岡。
 たぶん、彼のことを知っている人間なら、誰もがそれが当然だと思うだろう。8年前、考えなしの発言を繰り返す中元代議士は、当時の最大派閥であった梅沢派の中で誰からの指示も得られない単なる嫌われ者だった。それが、松岡が秘書になってから、わずかに一年後首相となり3年後最低支持率をめでたく更新して、やめた後はなんと最大派閥の長に収まっていた。それは、すべて、この松岡修二のやった仕事だった。
 政界、財界、官僚、さらにはマスコミにおよぶまでその手は伸び、かならず自分の望んだ結果を引き出してみせる。松岡は、間違いなく交渉の天才だった。中元代議士の下で働いてた間中、引き抜きの話は絶えることはなかった。
“自分を男にしてくれ”とか言って、いきなし土下座する代議士もめずらしくなかったし、議員になって自分の党の党首として、その手腕を存分に発揮してほしいって言ってくるものもいた。
 いずれにしても、そう言った者は例外なく松岡の交渉のための道具として利用されてしまった。松岡の天才たるゆえんは、利用された当人にそうだとは気づかせないところにあり、このときの連中もその例に漏れなかった。
 松岡修二が中元代議士の下で長年働き続けていることは、政界最大の謎とか言われていたし、色々と詮索する人間は後を絶たなかったが、でも答えを導き出せた人間は一人もいなかった。
 だからこそ、ここで中元代議士を見捨てたとしたら、彼らは口をそろえてこう言うだろう。
“やっぱり”と。
 そうすることこそが、彼らにとっての常識なのだから。
「一応、これは私のやとい主なもんで、そうもいかないんですよ」
 それが、松岡の答え。でも、それだけで終わらないのも松岡だった。
「後ろの二人の婦警さんに、それなりのポストを用意してさしあげられますが……。なにかと、便利かとおもいますよ。それに……」
 眼鏡を押し上げながら、松岡が続ける。
「それに、キャリアも一人おつけしましょう。後日あなたの下へ向かわせますんで、そのときゲットしてください。かなり美人の警視ですよ。もっとも、あなたには遠く及びはしませんけど。美しき方」
 言い終えたとたんだった。それまで床の上で転げまわってた中元代議士の動きが、パタッと止まってしまう。
「美人の婦警さん。うーん、どんな女(ひと)かなぁ。なーんか期待しちゃうな。ねぇ?」
 阿斗が同意を求めたのは、涼子だった。
「……そんなことより、わたしのメス、返してください」
 答える涼子には、さっきまでの凍てつくほどの冷たさは微塵もなく、誰がみたってはっきり分かるくらいすねたような表情をしていた。
「なぁーに怒ってんの、涼子ちゃん?」
 阿斗が気軽にたずねる。ひどく無神経に。
「怒ってなんかいません」
 涼子が、いらだたしそうに答えると。
「やっぱ怒ってる」
 阿斗が言う。
「怒ってません! ただ、こんな男を助けたくないだけです。よりによって、阿斗様をバカにしたんですよ? この世で一番の苦痛を味あわせて思い知らせるべきです。その上でこの世界から、消えてもらいたかったんです」
 それは、一見氷のようにも見える女のわがままだった。でも、なんとすさまじいわがままであることか。
「へぇ。だからこいつで、体中の痛覚だけを切り刻みながら、ショック死しないように治療してたんだ」
 自分の手の中にある一本のメスを見ながら、納得したかのように阿斗が言う。
 でも、なんでなっとくする? 体に触れないメスが、どうして切り刻むことができたのか? まして、まるで動くことなくどうやって治療とやらを施していたのか?
 あまりに非常識だった。
 でも、ここに居合わせてる人間達で、常識を持ち合わせてるような人間はいない。
「あの、まことに勝手な言い分だとは思いますが……」
 少し言いずらそうに、そう切り出したのは松岡だった。
「これを、なんとか元に戻してもらえないものでしょうか?」
 足下に転がったまま、まるで反応しなくなった中元代議士に視線を落としながらそう言うと。涼子は、阿斗に何か言われる前に黙ってそっぽを向いた。
「涼子ちゃん。機嫌直してさぁ、やってくんない?」
 猫なで声で阿斗が言うと。
「いやです!」
 きっぱりと断られた。
「そんなこと言わないで、さぁ」
「いやです!」
 とりつくしまもない。
「だけど、キャリアのおねぇーさんがかかってるんだよ? もったいないじゃないさぁ」
 阿斗の声は、ちょっと泣きが入ってた。
「そんなにおっしゃるんでしたら、わたしをあやつって勝手にされればいいじゃないですか! わたしは、あなたの支配下にあるんだから、いつでも思い通りにあやつれますでしょう?」
 涼子はあらためて阿斗の方に向き直ると、そう言い放つ。
 すると、阿斗はもっとなさけなさそうな声で。
「それじゃ、ぼくがやるってことじゃないか。だいいち、そんな面倒くさいことやるくらいなら、ぼくが直にやったほうが遥かに楽じゃないさ」
 そううったえるけど涼子はまたそっぽを向いて、今度は何も言わない。
「あなたにも治せるのですか? 美しき方」
 その言葉を聞きとがめたのは、松岡だった。
「うん」と、阿斗。
「だったら、あなたに治療をお願いできないでしょうか? 美しき方」
 たぶん、このままでは埒があかない、とそう思ったのだろう。
 まあ、今の話しの内容からしたら当然の判断である。
「でも、ねぇ……」
 阿斗は、思いっきりしぶっている。
「何か問題でも?」
「そうなんだよ。とても重大な問題があるんだ」
「どんな? ぜひお聞かせいただけないでしょうか?」
「それは、ね。ぼくは、こんなむさっくるしいおっさんに、指一本だって触れたくないってことなんだ」
 阿斗は腕組みなんかして、とても深刻そうにそう話した。
「なるほど、それは困りましたね」
 苦笑いをしながら、松岡が答えた。
 その時だった。
「あの~。よろしければ、あたしが何とかしましょうか?」
 そう言って話かけてきた人物がいる。
 受け付けの、永山美里さんだった。
「あなたが?」
 少し驚いたように松岡。
「これくらいなら、あたしにだって治せます」
 はっきりと言い切った美里ちゃん。
「そういえば、この病院には患者と医者しかいない、と聞いた記憶があります」
 松岡はほんの少し戸惑いを見せただけでそう納得する。
「では、お願いできるのですか?」
 そう松岡がたずねると。
「ええ、でも……」
 熱っぽい視線を松岡に送りながら、美里が話を続ける。
「お願いがあります」
「なんなりと、お嬢さん」
 交渉なら、松岡の専門分野だった。
「あなたと、お付き合いさせてください!」
「もちろん、かまいませんとも。でも、私がお付き合いさせていただいている女性は一人ではありませんよ」
 松岡がそう言うと、美里が即答する。
「かまいません!」
 それは、交渉というには、あまりにつたないやり方だった。
 でも、自分の想いをそのままぶつけてくるような相手は、一番やりづらい相手ではあったけど。
「わかりました。さっそく、今夜にでもお食事を御一緒いたしませんか?」
 即答する松岡。
「えっ?」
「では、7時くらいに迎えをやります。場所は、Tホテルのレストランを貸しきっておこうと思いますが。いかがでしょう?」
 いきなり話しが加速して、とまどっている美里は思わずうなずいてしまう。
「は、はい……」
「では、きまりましたね。それでは、そういうことでお願いします。私はスケジュールの調整がありますので、これで失礼させていただきますが……。今夜、お会いするのを楽しみにしておきますよ、永山美里様」
 絵画にでもしときたいと思わせる、みごとな礼をして見せた後、再び阿斗に向き直って、
「アメリカの戦略基地が1つ壊滅しました。その後には、直径100マイル、深さ25マイルもの巨大な大穴が開いていたそうです。衛星軌道上からの映像に、一人の少女がそれをやっている所が記録されていたらしいのですが……」
 そう話しかける。
「へっ? ぼくに、どーんな関係があるの?」
 相変わらず、のへーっと答える阿斗。
「いえ、ただお伝えしておいた方がよい、とそう個人的に判断しただけなんで……。核攻撃を想定して設計された基地を、一瞬で消滅させてしまう少女。どうしたら、そんなことが可能なのか、解析すらできていないらしいのですが。でも、あなたなら理解できるのではないか……。そう思ったんですが……」
 何かを、探るような眼差しを阿斗に向けていたけど、
「ま、こんなこと、ここで話すようなことでもないですね。どうか、気を悪くなさらないで下さい。美しき方」
 またもみごとな礼を阿斗に向けてした後、続けて美里と涼子にしてみせて、そのまま出口へ向かって歩き出す。
 その間、自分の主であるはずの代議士のことを気にかける様子もなければ、視線を投げかけることすらなかった。
 たぶん、できの悪い道具を修理に出した、くらいにしか感じていないのだろう。

< つづく >

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