第四話(上)
《1》
プルルルル………
電子音が鳴り渡る中、ホームに着いた電車から人々が降り立つ。
足早に改札へと向かう人の流れ。
その中に一人だけ、ホームの中程に立ち止まる人影があった。
「ふう……」
大きなバッグを下に置き、一息つく。
──美しい、という言葉が用いられるような、そんな男だった。
年の頃は、20代半ばか。やや高めの、やせ形の体格をした男。
長めに伸ばした黒髪。白い──本当に「白い」と言う表現が当てはまるような、そんな肌の色。
ほっそりとした眉の下には、やや細めの、切れ長の瞳がある。
スラリと線の通った鼻筋に、細い顎。細く長い首筋。
そんな整った彼の顔貌の中、もっとも人目を引くのはその紅い唇だった。
そのまま血の色を連想させるような、紅い唇。その形はやや薄いながらも、その「紅」は、真っ白な顔の中、そこだけ色を落としたかのように、鮮烈に見る者の目を引きつける。
「さて、と」
彼はバッグからなにやら木の板のような物を取り出すと、それをなにやらいじくっていた。
八角形の、木の板。
見た目は中国の占いに使う、風水板に近いだろうか?
「やっぱり……この街で、間違いないか」
そう呟いた彼の薄く紅い唇が、軽くほころぶ。
……いや、それを「ほころぶ」と表現していいものか。
紅い唇の片端が、軽く笑いの形につり上がる。
ただ、それだけの動き。なのにそこには、明らかな「歪み」が浮かんでいた。
生き物の血を存分に吸い、赤い色になったヒルが、その身を軽くよじったような……。
だが、それも一瞬。
その笑みは姿を消し、彼は改めてバッグを肩に担ぐと、改札口向かって歩き出した。
「さてと。まずは、向こうしばらくの宿を見つけないとな。
分家に顔を出すのは、その後か……」
そう呟き、彼は街中へと歩み入った。
《2》
ぎしぎしと、ベッドのきしむ音が周囲に響く。
いや、それとも、きしんでいるのは、それだけではなかったかもしれない。
『ああっ、あっ』
『ふうっ、ふうっ』
二つのあえぎ声が、重なり、絡まりあい、そして空気に解けていく。
そのせいで、この場所は、空間そのものが淫靡な匂いを漂わせているようにも思われる。
『そこ……、ああっ』
『ああ、私にも、お願いします……っ!』
“彼”の体の下で、二つの白い躰がもだえている。
一人は成熟した体つきをもつ、若い女性。
うつぶせになり、腰を高く上げ、“彼”の剛直を必死で受け入れている。
“彼”がその腰を突き上げるたびに、その唇からうめき声とも悲鳴ともつかない音が、断続的に洩れ出す。
そしてその女性に重なり、まるで彼女に組み伏せられているかのような体勢となった少女。
まだ若く、恐らくは10代も半ばではないか。
彼女の上に覆い被さった女性の手が、そのいまだ未成熟な胸のふくらみをもみしだく。
そこから生まれる快楽に身をよじらせながらも、少女は“彼”のいきり立った物を懇願し、あえいだ。
『はあっ、はあっ』
“彼”もまた、息を荒げながら、二人を攻め続ける。
女性の髪に顔を埋めそのうなじをなめ回し、あるいは手を伸ばし、下になった女性の肌に手を沿わせる。
舌先に感じる、女性のきめ細やかな肌と、わずかに塩辛い汗の味、
手のひらに感じるの張りのある柔らかな肌の感触と、その熱くたぎりきった体温。
“彼”のモノは、女性の後ろの穴の中へと突き込まれていた。
この、体中を男の快楽に応えるよう育て上げられた彼女の肛門は、体内に捻り込まれた肉の器官を、存分に締め上げる。
突き上げるたびに、“彼”の亀頭の先に乱暴な摩擦感が生まれ、それが痺れにも似た快感となって“彼”を喜ばす。
『くぅっ、は……あぁ』
『あああ、う……んっ』
“彼”の動作、そのリズムに合わせ、二人の若い女があえぎ、もだえる。
“ぐち、ぐち……”
股間からわき上がった刺激はそのまま脊髄を駆け上がり、“彼”の脳を快楽で埋め尽くしていく。
そして重なり合った肌からは、彼女らの発する《精気》が“彼”の中へと流れ込んでいた。
……いや、「流れ込む」という表現は、正しくない。
これは、この行為は、彼にとっては「摂取」である。彼女らは、彼の“贄(にえ)”なのだ。
“彼”は彼女らを、その魂そのものを、攻めたて、ねじ伏せ、引きちぎり、噛みちぎり、啜り上げ、嚥下する。
『はあっ、ああんっ!』
『ふあっ、……っん!』
だが“彼”は、未だ飢えていた。
彼女らをどれほどよがらせ高揚させようが、どれほど彼女らから奪おうが、“彼”は深く、そして狂おしいほどの飢えを感じていた。
“──ドクンッ!”
“彼”の胸の奥で、何かが脈打つ。
“ドクンッ、ドクンッ!”
それは心音に似て、決してそうではない何か。
“ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!”
その脈動は、“彼”を猛らせ、煽り、鞭打つ。
もっと多くを喰らい、胃の腑に取り込めと、“彼”をせき立てる。
(もっと、もっと、もっと……っ!)
彼女らでは、足りない。
彼女らでは、まったく足りない。
“ドクンッドクンッ!“
その音に追い立てられるように、“彼”はさらに強く、腰を振るう。
『う……ん、ああぁっ!』
『はあぁ、はあぁ!』
そんな“彼”の乱暴な動きに、彼女らはさらに声を上げ、髪の毛を振り乱し、汗をにじませ、快楽に身を痙攣させる。
高揚した精神が、彼女らの躰とそして魂の奥深くから、原始的で根元的な生命の衝動があふれ出し、“彼”はそれを略奪し、吸い上げる。
……しかし、“彼”は満たされてはいなかった。
(もっと……っ!)
彼女らでは、“彼”の深遠なる飢えを満たすには、あまりに矮小で、脆弱で、そしてあまりにも「何か」が足りなかった。
“ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!”
胸の中の脈動は、もはや“彼”の肋骨では押さえきれないほどに高まっていく。
『──カズ兄ぃ?』
………………一瞬、世界が、静寂に包まれたように感じた。
声のした方に顔を向ける。
慶洋女子高等学校の制服を着た、小柄な女生徒。ややウエーブがかった髪の毛は、可愛らしくポニーテールに束ねられている。
制服の裾から伸びた手足は、スラリと細く、それでいて活発そうな健康さを感じさせる曲線を描く。
そしてその大きめな瞳は、今は不安そうな光を湛えていた。
『カズ、兄ぃ?』
落ちつかなげに、そう呟く。
『……』
しかし、“彼”は何も答えなかった。
沈黙をもって、彼女に向かい合う。
──ついさっきまで、あれほど荒れ狂っていた胸の鼓動は、今ではすっかり落ち着いていた。
心も同様。静かに、冷静に、ただ冷たく。
『ねえ、カズ兄ぃ。……何か、言ってよ』
“彼”は、何も口にしない。
そのかわりに、動いた。
『え……、きゃっ!』
手で、その少女の両腕を掴む。
怯える少女を、そのまま床に押し倒した。
『や……っ、カズ兄ぃ、どうしたのっ!?』
少女は、必死に“彼”に訴えかける。
『やだっ、離して!
カズ兄ぃ、お願い!!』
だがそんな叫びも、“彼”の耳に入ることはあっても、その心に届くことは無かった。
無造作に、少女のブラウスに手をかける。
軽く腕を引いただけで、ボタンが弾け飛び、服の前が開いた。
『きゃあああっっ!』
はだけられた服の隙間から手を差し込み、胸の膨らみを無遠慮にまさぐる。
下着のやや硬い布地越しに、それでも確かな柔らかさを手のひらに感じ、その手触りを楽しむように掌全体を動かした。
『やっ……やだっ、いやだよう……っっ!!』
少女が叫ぶ。
死にものぐるいの様子で体中をばたつかせ、“彼”の身体の下から抜け出そうともがく。
“彼”と比べれば遙かに小柄な彼女だったが、その必死の動きを押さえつけることは、“彼”にとっても容易なことではなかった。
(うるさいな……)
大して考えもなく、自然に身体が動いた。
腕を大きく振り上げると、少女の顔面に振り下ろした。
“バキンッ!”
『ゥ……っ!』
一回、二回、……三回。
──それで、少女は大人しくなった。
『ああ……、う゛…あ……』
少女の身体から、力が抜け落ちる。
これで、だいぶ気楽になった。
『ア……あ』
(ああ、しまったな)
“彼”はさしたる感情もなく、そう思う。
少女の顔は、“彼”の行為により、赤く腫れ上がってしまっていた。
鼻血が流れ出し、それがだらしなく開いた口から垂れ落ちる唾液と混じり、顔の下半分を汚している。
目はうつろになり、顔全体がだらしなく弛緩してしまっていた。
これでは、せっかくの獲物が台無しだ。
その可愛らしく整った顔を蹂躙してこそ、生命力に溢れた健康な肉体を蹂躙してこそ、喜びもまた大きいはずなのに。
“彼”は、やり方を変える。
少女の細い顎を手でつかみ、むりやり顔を自分の方に向けさせた。
茫然と中を仰ぐその目。
その視線を、“彼”の瞳に合わさせる。
『……あ、ああっ』
その“彼”の瞳の中にあるものを見て、彼女の口から、抑えられぬ声が洩れた。
ついさっきまで焦点を失っていたその目には、今では明らかな感情が浮かんでいた。
恐怖と、──そして、それ以上の“何か”。
『ああああ………ああ』
視線を通して、“彼”の力は、彼女を縛り付けていく。
その身体を、ではなく、その心──その魂そのものを。
『は……ああっ』
“彼”の身体の下で、少女の躰が、大きく振るえる。
圧倒的な──あまりに圧倒的な力で握り締められた魂の震えが、少女の身体そのものをもギチギチと締め付ける。
『…………』
そんな少女の様子に満足し、“彼”は再び動き始める。
手を移動させながらも、“彼”の瞳は、彼女の瞳を拘束し、離さない。
その魂と、その躰と。その両者の手触りを、“彼”は存分に堪能しながら少女の全てを犯すために、動く。
制服のスカートをまくりあげ、ほっそりとした太股の手触りを楽しみつつ、その付け根へと指を進めた。
『ん……っ』
“くちゅり……”
小さな水音。しかしこの静寂に包まれた場所では、そんな僅かな物音さえも、確実に少女自身と、そして“彼”の耳へも届いた。
『う…ああ……』
絶望にも似たものがこもったあえぎ声を、少女が上げる。
自分自身がどうなっているのか、既に彼女には理解できないでいるはずだ。
当たり前である。既に彼女の全ては、“彼”に占領されてしまっているのだから。
彼女の魂も、身体も、全ては“彼”に喰らわれるために、ただその為に反応しているのだから。
そして、
(……ああ、やっぱり)
その彼女から感じる、“彼”にとっては糧となる物。
それは、つい先ほどまで繋がっていた二人の女とは、全く違う物だった。
遙かに確かな充足感を持って、彼の喉に流れ込んでくる。
『は……あ、ううっ』
少女の恐怖。少女の焦り。
少女の絶望。少女の痛み。
少女の苦しみ。少女の心の悲鳴。
──そして、少女の官能。
その全てが、甘く、舌に心地よい。
この少女は、“彼”を満たすためにこそ、そこに存在する。
そんな錯覚さえも起こすほどだ。
“彼”は少女の脚に手をかけ、広げる。
さしたる抵抗も無しに、その両足の間に身を滑り込ませた。
股間では、“彼”の起立した物がドクドクと脈打ち、存在と欲望を主張している。
“彼”は少女の下着をずらすと、隙間から現れた少女の秘所に、その先端を合わせた。
『ふっ、う……』
自分に押し当てられた物の存在に気がついたのだろう。
少女の口から、そんなうめき声が洩れる。
自分が、自分自身の最期がそこまで訪れていることを、彼女は知ったのだろうか?
“………………っっ!!”
(……?)
今こそ少女に対して最期の蹂躙を加えようとしていた“彼”の耳に、何か聞こえたような気がした。
不快な、何か。
“………あ………あ…”
甘美な時間にケチをつけられたような気がして、“彼”は眉をひそめる。
しかしその何かは、決して無視できないような存在感をもって、“彼”に届いてくる。
(くそっ……)
耳に届くそれを無視しようと頭を振り、“彼”は改めて腰の狙いを定める。
“くちゅ”と彼の先端に、熱をもった少女の柔らかい粘膜の感触が伝わってくる。
“……ああ…あああ………………!!!!”
そして“彼”は────
「──────ああああああああっっっっっ!!!!」
暗闇の中、部屋中に響き渡る悲鳴で、彼は目を覚ました。
「ああああ、ああ!!!! あああっ、ああああああああっっっ!!」
見慣れた、アパートの自分の部屋。
なのにその叫び声は、彼のすぐ側で起こっているようだ。
……それが自分自身のあげる叫び声だと気づくのに、数瞬の時間を要した。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
ベッドの上に起きあがり、両の肩を大きく上下させ、荒く息をつく。
流れ出た汗が全身を濡らし、寝間着代わりに着ていたTシャツが背中にべったりと張り付き、不快を煽った。
「はあっ、はあっ……」
時計を見る。
僅かな蛍光でしめされるその表示は、朝の4時を示していた。
「はあっ、はあっ…」
息を整えようとするが、上手くいかない。
両手を胸の前で交差させ、自身を抱きしめるようにして、ぎゅっと自分の腕を掴む。
その手を伝わり、自分の震えが実感された。
「あれ……っ、いま……夢………」
必死に自分自身の心を落ち着かせようとする。
──そのとき、
『ドクン──ッ』
彼の中で、“それ”が脈打った。
「う……、グっ!」
我慢できずに、洗面所に飛び込む。
そして彼は、吐いた。
「う゛……あっ! ……ゲぇっっっ!!」
何度も、何度も、胃の中の物が逆流し、口から吐き出される。
「ウぇ、…ゲェっ!!」
昨日食べたものを吐き出し終わっても、まだその吐き気は止まらない。
胃液を吐き出し、それでもまだ足りず、彼の胃は痙攣するように痛み、彼を攻め続ける。
「ガ……ッ、あああ…っ!!」
冷たく硬い床に倒れ伏し、背を丸め、身を悶えさせながら、彼は懸命にその苦しみが過ぎ去るのを待ち、耐える。
奥歯を食いしばり、目ににじむ涙を拭くこともできないまま、彼はそうしてただ蹲(うすくま)っていた。
……どれほどの時間が経ったのか。
ゆっくりと、その痛みが遠のいてくる。
「はあ、はあ……」
ようやく、息が落ち着いてきた。
彼はのろのろと立ち上がると、洗面台に手をつき、身体を支えた。
蛇口をひねり、水を流す。
冷たい水を両手ですくうと、彼は口を何度もすすぎ、そのあとで顔を洗い、やっと一息ついた。
「………」
ふと顔を上げると、そこには記憶通りの、自分の顔が映っている。
さしたる個性もない、平凡な顔つきと評される、その顔。
やや蒼ざめ、やつれなた様子ながらも変わりばえのしない自分の顔を確認し、和人は安堵を覚える。
……が、
『カズ兄ぃ、止めてっ!!』
(……っっ!)
夢の中の光景が脳裏に浮かび上がり、その鏡に映った顔が歪む。
「はあっ、はあっ……」
両手で壁を伝わり、なんとかベッドにもぐり込む。
(畜生! 畜生! 畜生っ! チクショウ……!!)
毛布の下で身体を丸める。
そうしながら和人は、ただ朝の光が早く訪れてくれることだけを、必死で祈り続けていた。
《3》
木陰に入り、芝生の上に腰を下ろす。
木々の緑の隙間を通り優しく差し込む日の光が、顔に降り注ぐ。
サラサラと木の葉を揺らしながら通り過ぎるゆるやかな風が、運動で火照った肌に心地よかった。
「は~、気持ちいいねえ」
彼女の横、芝生にごろんと横に転がった夏紀が、そう幸せそうに言う。
沙夜香は彼女に「そうですね」と応え、微笑んだ。
グランドでは学校指定のTシャツにスパッツという体育着姿の女生徒達が、まだ何人も走っている。
クラスの中でも速いタイムで長距離走を走り終えた二人は、タオルを手に、脇に下がったのだ。
「まったく。強制されて、ただぐるぐる走ったって、面白もなんともないのに。
なんで体育教師って、サドが多いかなあ」
そんなグチをこぼしながらも、夏紀は寝ころんだまま、気持ちよさそうに伸びをした。
彼女のそうした動作の一つ々々が、沙夜香の目には健康そうな可愛らしさに溢れて見え、微笑ましく感じられた。
「でも、沙夜香さんって、脚が速いんだね」
そんな風に話しかけてくる少女に、沙夜香は穏やかに応じる。
「夏紀さんこそ。
なにか、スポーツをなさってたんですの?」
夏紀は現在、茶道部の部員である。
これといって運動をしているところを、沙夜香は見たことがなかった。
「うん、中学の時にね。陸上部だったんだ」
「ああ、それで」
納得したように頷く。
「まあ、昔の話だけどね」
そんな夏紀の呟きに、沙夜香はクスクスと笑った。
「それなら、まだそんなに前の話しでも無いでしょうに」
「ん~、そうかなあ?」
少し眉をひそめる、夏紀。
「なんかさあ」
「はい?」
小さく首を傾げる沙夜香。
「神条さんって、なんか言うことが、すごく大人っぽいよね。
中学の時のことなんて、昔じゃない」
「……そうでしたかね」
確かに。夏紀の言う通りかも知れない。
沙夜香は、思う。
夏紀は、まだ若い。沙夜香から見れば、幼いと言ってもよい。
もっとも沙夜香は、おおよそ全ての人間達よりも、長く生き続ている存在なのだが。
この少女にしてみれば、確かにほんの2・3年前のことすらも、十分昔のことと感じられるのだろう。
たとえ沙夜香にとっては一瞬のように感じられる時間でも、夏紀達にとっては長い日々に感じられるのかも知れなかった。
「すう……、すう…………」
気がつけば、夏紀は目を閉じ、小さな寝息をたてていた。
「あら、あら」
その、あまりにも警戒心の無い、無防備な寝顔。ただでさえ周囲から『子供っぽい』と評されるその可愛らしい顔が、余計に幼く見える。
思わず沙夜香の顔に、微笑みが浮かんだ。
沙夜香は夏紀の顔にそっと手を伸ばすと、顔にかかった髪の毛を軽くのけてあげる。
『本当に……無邪気なこと』
彼女から見れば無知から来るとさえ感じられるような、夏紀。
だがその存在は、確かに不快な物ではなかった。
「こういう気持ちというのは、どういうものなのでしょうね?」
夏紀の寝顔に、そう問いかける。
もちろん、応えはない。
(どうしたものかしらね……)
胸の中、沙夜香は自分自身を省みる。
他の人間達同様、沙夜香にとって、夏紀は“食料”としての対象となる相手である。
今こうして彼女と共に過ごしていても、沙夜香にとっては食欲の対象として、いっさいの違和感を覚えることなどもない。
そうした相手だ。
沙夜香が夏紀を害しない理由は、ただ一つ。
彼女の“主”たる渡辺和人が、それを禁じているからである。
ただ、それでも………沙夜香にとって、夏紀との今の関係は、けっして不快なものではなかった。
(こういうのも、変ではないのかもしれない)
そういえば、聞いたことがある。
飼い猫は、その家で飼われている他の生き物──例えば小鳥やハムスターなどの小動物を、襲うことは無いと。
狩りの対象は、外に求めるのだそうだ。
ある意味、賢いのかも知れない。
自分の面倒を見てくれる主人を怒らせるようなことはしない、ということだ。
「ふふふ……」
先日の昼休み、夏紀が沙夜香に見せた雑誌記事を想い出し、沙夜香は口元を緩めた。
そこには、『仲良しペット』と題されて、ある家に変われている手乗り文鳥(ブンチョウ)と三毛猫の写真が載っていた。
大きな三毛猫の頭の上にとまる、文鳥。
当の三毛猫は小さく顔をしかめながらも、それでも不快な様子も無しに、小鳥のするがままにさせていた。
あの猫が感じていたのは、今の沙夜香の中にある感覚と、まったく同じものなのかも知れない。
そう思うと、なんだか可笑しかった。
「それも、いいのかもしれないわね……」
少女を起こさぬよう気をつけながら、沙夜香は彼女の髪を、なんども優しく梳(くしけず)る。
細く、軽くウエーブがかかったその髪は、沙夜香の手に心地よかった。
(……?)
沙夜香の手が止まる。
なにか、視線を感じる。
顔を上げ、その視線の元を確認し、沙夜香はその相手に対して小さく頷いて応えた。
「夏紀さん?」
そっと、その身体をゆする。
「んんん……?」
まるきり子供の表情で、夏紀は目を覚ました。
「あれ? 寝ちゃってたのか」
目をごしごしとこする。
そんな彼女に、沙夜香は言った。
「ごめんなさいね、せっかく気持ちよく眠ってらしたのに」
「あ、ううん、そんなことないよ。
どうしたの?」
訊ねる夏紀に、沙夜香は説明する。
「私、職員室に呼ばれていたのを思い出して。多分、事務的な手続きが必要とか、そういったことだと思ったのだけれど。
申し訳ありませんけど、先に着替えに行かせて頂きますね」
……軽く、“力”を込めたそのセリフに、夏紀は簡単に納得した。
「あ、そうなんだ。
うん、気にしないで。そういうことなら、早く済ませちゃった方がいいものね」
「ええ、ありがとうございます」
そう言って、沙夜香は夏紀のもとを離れる。
教室に戻り、手早く着替えを済ませると、足早に移動していく。
階段を上がり、おそらく相手が待っているだろう場所に向かった。
まだ授業時間はわずかだが残っている。
人気のない廊下を、沙夜香は急いだ。
屋上に出ると、遮るもののない日の光が、彼女を迎えた。
その明るさに目を細めながら、沙夜香は相手の姿を探す。
……いる。屋上の出入り口からは死角となっている、給水塔の影。
確かにそこに、彼女にとっては間違いようのない気配を感じとった。
「お待たせして申し訳ありませんでした。先生」
彼女の絶対の主、渡辺和人。
彼は軽く壁に背をもたれかけながら、そこに立っていた。
(珍しいこと……)
和人は、彼女のことを嫌っている。いや、憎んでいるといった方が正解か。
彼を現在の人生に突き落とした彼女。それでいて、彼にはその存在に頼らざるを得ない彼女。
憎まれるのは、当然だろう。そうも思う。
実際、彼は彼女と目を合わそうとすらしない。
いまも、その視線は足下へ向けられている。
それでも、沙夜香は彼にこうして呼び出されることに、喜びにも似た感情を覚えていた。
彼は常に、彼女のことをできる限り避けようとする。
このようなことは、これが始めてであった。
「先生……?」
何も言わぬ彼に、そう声をかける。
いったい、何があったのか。
よく見れば、今日の和人は、いつもと少し違って見えた。
やや顔色も悪く、やつれているようにも見える。
視線にも落ち着きがなく、肩や脚を小さく揺らせていた。
彼が彼女を呼びつけるなど、なにかよほどのことがあったとしか考えられなかった。
沙夜香は彼の下僕として、それに対処しなければならない。
「……この前の、」
そんな和人の口から、小さく言葉が紡ぎ出された。
よくよく注意していなければ聞き逃してしまいそうな、そんな弱々しい口調。
「この前の、たしか鈴本渚とかいう女生徒は、どうなったんだ?」
沙夜香の目が、小さく細められる。
「先日の件以降、登校していません。
三日間の欠席です」
「そうか……」
それきり、彼は黙り込む。
沙夜香は急かさない。
じっと、主の言葉の続きを待つ。
二人の間を、風が抜ける。
風は和人のジャケットの裾を、沙夜香の長い髪を揺らせ、そして通り抜けた。
「………しろ」
和人の唇から、小さな呟きが洩れた。
「早く、捕まえろ」
「………………」
沙夜香は、返事をしない。
相変わらず、ただ黙って、彼女の主を見つめる。
和人が、下の方を向いていたその顔を、初めて上げた。
沙夜香の目を、正面から見る。
「早く、鈴本渚を捕まえろと言ったんだっ!
すぐに、できるだけ早く、その女生徒を俺のところに連れてこい!!」
「………」
沙夜香は、その彼の瞳をじっと見つめる。
そして、
「判りました。
可能な限り早く鈴本渚を確保し、先生の元にお連れします」
頭を下げ、そう応えた。
……和人の瞳の中に、彼女が何を見たのか。
それは沙夜香にしか、判らない。
だが彼女は深く身を折り、彼の命令に承諾の礼をもって応えた。
注意深く────笑みの形に歪んだその唇を決して主に見られぬよう、注意深く、深く頭を下げて……。
< つづく >