ドールメイカー・カンパニー2 (10)

(10)Bモード

 外出先から戻った“あらいぐま”は残業していたOL達と雑談をしていたのだが、偶々居合わせた静からその事を聞くと、血相を変えて部屋を飛び出していった。

「勘弁しろよなぁ、ったく俺に断わりも無くっ」

 “あらいぐま”はブツブツと呟きながら大股で廊下をズンズンと奥へ進み、ノックも無く社長室の扉を開けた。

「“くらうん”さんっ!怜が来てるってっ?」

 そう言いながら部屋に足を踏み入れた“あらいぐま”は、ソファで大股を開いた“くらうん”の股間に全裸で顔を埋めて舌を使っている怜に出くわした。

「おっ、居た居た」

 “あらいぐま”は嬉しそうに目尻を下げ唇の端を上げた。

「なんですか?“あらいぐま”くん」

 反対に“くらうん”は気持ち良さそうに上を向いていた顔を顰め、口をへの字にした。
 しかし怜だけはそんな2人の会話には無頓着に一生懸命“くらうん”の肉棒に舌を這わせていた。

「へへへっ。休憩中失礼します。怜のスケジュール表に予約を入れとこうと思いまして・・・」

 “あらいぐま”は悪びれる様子も無く、ニヤニヤと笑って2人に近づいていった。
 しかしそれを遮ったのは、意外にも“あらいぐま”の背後から掛かった声だった。

「残念でした。怜はオン・ジョブだよ。お楽しみのスケジュール表は無いの」

 “あらいぐま”が振り向くと、片手に紙コップのコーヒーを持った“きつね”くんが入ってくるところだった。

「おっ、“きつね”!」

 “あらいぐま”は久しぶりに出社してきた“きつね”くんにちょっと驚いて眉を上げた。
 しかし“あらいぐま”が言葉を続ける前に、不意にその視界の隅を黒い影が走っていった。
 思わずそちらに視線を向ける“あらいぐま”だったが、その目に映ったものは一目散に“きつね”くんに駆け寄る怜の姿だった。
 そして全裸のまま跪くと、そのまま“きつね”くんの足に口づけを始めたのだった。自らの性器も尻の穴も剥ぎだしのままだが、気にする素振りも無かった。
 そしてそれが一段落すると、怜は自らの首輪に繋がったチェーンを両手で捧げ持ち、“きつね”くんに差し出したのだった。
 “きつね”くんは当り前のようにそのチェーンを受け取ると空いた左手で持ち、ソファに足を向けた。
 その横を四つん這いで“きつね”くんを見上げながら嬉しそうな表情で付いてまわる怜が居た。
 まさに飼い犬そのものになり切っていた。
 その光景を見て“あらいぐま”は口笛を吹くような形に口を窄めた。

 (ホント大したものだな、“きつね”の旦那の腕は。あの怜がこうなるかねぇ)

 “あらいぐま”の脳裏にホンの数ヶ月前の怜の姿が蘇る。

 まるでロボットのように表情を失っていた怜、そして突然肉食獣のような瞳で自分を凍りつかせた怜・・・

 当時とのギャップは“きつね”くんの腕を知っていてもなお驚きである。

 感心した表情の“あらいぐま”の前を2人は悠然と通り過ぎ、“きつね”くんは“くらうん”の向かい側のソファに腰掛けた。怜はその足元に直接蹲(うずくま)り、“きつね”くんの足に纏わりついていた。

「ご苦労様、“きつね”くん。どう?状況は」

 ズボンのチャックを急いで引き上げながら“くらうん”が労った。
 “きつね”くんはコーヒーを美味そうに一口啜り、満足そうに溜息を吐いた。

「順調ですよ。とりあえず予定通り。ちょっと休憩タイムにしました」
「そうですか。相変わらず流石ですね」

 “きつね”くんの報告に“くらうん”は満足そうな表情で頷き、そして時計をチラッと確認した。
 怜が打合せ室から戻ってきてからまだ1時間経っていない。

「それでは今晩中には基礎レベルくらいまでもって行けそうですか?」

 “くらうん”は1週間というスパンを念頭に“きつね”くんの進捗計画を確認した。
 すると一瞬、“きつね”くんはきょとんとした表情になった。

「え?・・っとぉ、ウチの基準の基礎レベルって、たしか記憶支配が出来るようになるまでじゃなかったでしたっけ?」
「ええ、そうですよ。如何ですかねぇ?も少し時間かかります?」

 “くらうん”の問い掛けに“きつね”くんは軽く肩を竦めた。

「あの娘の記憶支配ならもう出来てますよ。っていうか、それくらいなら30分くらいで充分ですって。ねぇ“あらいぐま”さん?」

 “きつね”くんは“あらいぐま”に突然振った。
 しかしその“あらいぐま”は2人の仕事の話には全く興味を示さず、代わりに“きつね”くんの足に纏わり付く怜に纏わり付いていた。
 怜の後から手を廻し、たわわな乳房の感触を楽しみ、尻に取り付き勝手に谷間を押し広げては奥に佇む媚肉とアヌスをじっくりと鑑賞した。無論見るだけの筈も無く、指を突っ込み、舌で味わい、頬擦りをし五感全てを使って怜の身体を堪能した。そしてそういった行動の端々に“おぉ~っ”とか“う~んっ絶品”とか、“すげぇ~っ”とか、ブツブツと呟いているので煩いったらない。

「うんっ?何だって?“きつね”」

 案の定、何も聞いていない。

「だから基礎レベルまでなら、導入後30分くらいで行けますよねって話していたんです」

 “きつね”くんがもう一度話すと、“あらいぐま”はあっけに取られた表情になった。

「あぁっ?基礎が30分?お前いったいどんな出鱈目な腕してんだっ」

「あれ?もっとかかります?1時間くらいですか?」

「ったく何言ってんだよ。確実なら半日、絶好調なら・・・ま、2時間ってとこかな」

 “あらいぐま”は怜を仰向けに転がすと足をM字型に開き、媚肉にゆっくりと舌を這わせながら言った。
 しかしその答えに今度は“きつね”くんの方が驚いた。

「え~~っ?!半日?よく耐えられますね、“あらいぐま”さんも、ターゲットも。そんなに時間掛けたら、せ~っかくかかったターゲットも目覚めてまた野性に戻ってしまいますよ」

「俺が平均なのっ。お前さん、異常だよ。ホントに記憶支配出来てんの?」

 “あらいぐま”が呆れたように言うのを聞いて、“きつね”くんはちょっと口を尖らせた。

「変なのぉ~。でもま、人それぞれやり方は違ってるしなぁ。僕の遣り方でも記憶支配は出来てますよ、それは保証します」

 “きつね”くんは足で怜の乳房を突っつきながら言った。

「そりゃあ、まぁお前さんの腕を信用していないわけじゃないんだけどね」

 “あらいぐま”は、“きつね”くんのちょっとした悪戯にもビックリするくらい敏感に反応し仰向けのまま潤んだ瞳で見上げている怜を見ながら言った。
 怜のノン催眠の姿を見たことがあるだけに、こうして全身を使って“きつね”くんに媚びている怜の姿は直接股間に響いてくるものがあった。
 “あらいぐま”は思わず唾を飲み込んだ。

「ま、お前さんの腕の話はどうでも良いんだけどよぉ・・・」

 “あらいぐま”はそこでわざと言葉を切ると、目をギョロリと剥いて睨み付けるような表情を作った。

「おいっ、“きつね”ぇ!怜がオンジョブって本当かよぉっ?!」

 すっかり怜の身体に魅了され股間を滾(たぎ)らせている“あらいぐま”は、我のも顔で怜の媚肉に指を挿入しながら半ば恫喝するように“きつね”くんに迫った。
 勿論本気で威嚇している訳ではない。
 “きつね”くんが入社して以来、歳が近いこともありスッカリ打ち解けた2人の間で行われるじゃれ合うような会話なのだ。
 しかし意外にもそれに怜が反応した。

 潤んだ熱っぽい眼差しで“きつね”くんを見上げていた瞳がスッと細められると、M字に折り曲げられていた膝で不意に“あらいぐま”の肘を軽く押したのだった。
 全く無防備だった“あらいぐま”は簡単に怜の媚肉から指を外される。
 そして不思議そうに視線を上げ怜の顔を覗き込む“あらいぐま”の顎に向って、怜は今度は下から足を蹴り上げたのだった。
 無論、冗談のような軽い動作で力など殆ど込めていないのだが、不意を突かれた“あらいぐま”はゴロリと後ろに引っ繰り返ってしまった。

「うわっ!なっ、何すんだっテメエッ!」

 “あらいぐま”はドールにからかわれた事に激昂した。
 しかし怜の方はそんな“あらいぐま”を無視するように“きつね”くんの膝に頭を乗せて甘えている。
 一方“きつね”くんは、怜の頭を撫でながら苦しそうに笑いをかみ殺していた。

「おいっ、“きつね”!お前の仕業かぁ?」

 “あらいぐま”は訝しむような視線で“きつね”くんを睨みつけた。

「ちっ、違いますよぉ。怜は俺の番犬なんですから、挑発するような事をすると勝手に反応するんですよぉ」

 “きつね”くんは両手を前で振りながら“あらいぐま”の矛先を逸らそうとした。

「ふう~ん。そう、なるほどねぇ」

 “きつね”くんの言葉に再び“あらいぐま”の視線が怜に向けられた。

「そういやぁ、このアマにはまだ借りがあったよなぁ」

 “あらいぐま”の目が凶暴になる。
 8月の騒ぎを思い出したのだ。

 あのあと“きつね”くんは映美の出荷を終え、すぐに怜の調整に入ったのだが、そのタイミングで“あらいぐま”も自分の仕事が佳境になってきたため暫らく会社に出社出来ずにいたのだ。
 しかし、意外にも“きつね”くんの怜の再調教がたった1週間で完成してしまい本来の予定通りの日付で出荷してしまったため、結局“あらいぐま”は怜を抱く機会を失ってしまったのだった。

 “あらいぐま”は無意識に自分の首に片手を当てた。以前、怜に蹴り飛ばされた個所だ。
 しかしそれを見て“きつね”くんは慌てたように言った。

「だから、駄目ですってばぁ。怜は1時間したらまたお仕事なんですからっ」

「なに?1時間っ!・・・・充分じゃないですかぁ」

 “きつね”くんの言葉に“あらいぐま”はニンマリと微笑んだ。

「まず最初にこのクソ生意気な女を痛めつけるよなぁ、それが10分くらい。で、その後泣かしたまま俺のチンポをしゃぶらせる、これがぁ15分。で、あとは前に1発で15分、ケツに1発で15分・・・合計、55分!ほら、5分も余裕があって全然大丈夫じゃねえか」

 “あらいぐま”は片手で5を示しながら“きつね”くんに詰め寄った。
 しかし“きつね”くんはツンと横を向いたまま“あらいぐま”の要求を撥ね付けた。

「だめですっ。お仕事優先で~すっ」

 とたんに“あらいぐま”の眉が下がり、情けない表情になる。

「そんな冷たいことをっ。俺と“きつね”の仲じゃねぇか。新人教育をしてやったろ?」

「駄目ですよぉ。公私の区別はつけないとね。ねっ、“くらうん”さん」

 “きつね”くんはしつこい“あらいぐま”に閉口して“くらうん”に振った。

「当然です。仕事に支障をきたすような振舞は慎まないといけません」

 “くらうん”の態度もそっけない。もっとも、これは自分の楽しみを中断された腹いせの公算が大きいのだが・・・
 しかし2人に反対され旗色が悪くなった“あらいぐま”は、そこで次の作戦に出ることにした。
 不意に“きつね”くんを手招きすると、強引に部屋の隅に引っ張っていったのだ。
 その様子に怜の目が再びキラリと光ったが、2人で内緒話をしているだけなのでソファに凭れ掛かったまま動くことは無かった。

「何ですかっ。駄目なものは駄目ですよっ」

 “きつね”くんはきっぱりと言い切ったのだが、次の“あらいぐま”の一言で態度が急変した。

「なぁ、“きつね”さあ、お前女医さんに興味ない?」

「えっ?じょっ、女医ですかっ?有ります、有りますっ」

 途端に小声になって“きつね”くんは“あらいぐま”の耳に囁いた。

「へっへっへ。俺の今のターゲット、29歳の内科医だぜ」

「29歳の内科医っ!」

 “きつね”くんの鼻息が荒くなる。

「はっ、白衣着てます?」

「あぁ。着てる着てるっ」

「めっ、眼鏡はっ?」

「掛けてるぞぉ。リムレスの丸いヤツ」

「くぅ~っ!良いっ!」

 “きつね”くんは胸の前で拳を固めた。

「へっへっへ。バーター(←取引のこと)する?」

 “あらいぐま”がニンマリと笑って言う。

「写真持ってます?」

「ん?見てみる?」

 そう言って2人は“くらうん”に背を向けるようにごそごそと内緒の取引を始めた。
 そして再び“くらうん”の方を振り向いた時、2人は硬い握手を交わしていた。

「じゃ、ちょっと拝借させて頂きますよぉ」

 “あらいぐま”は一転して大きな声で“きつね”くんに声を掛けると、怜に向って行った。

「あ、でもね、時間はホントに守ってくださいね。5分前じゃ駄目です。15分前までに返してくださいよぉ。それから顔は絶対に怪我させないで下さいね」

 “きつね”くんはちょっと慌てたように“あらいぐま”の背中に声を掛けた。

「おぅ。俺も一応プロだからな。“きつね”の仕事の邪魔はしないよ」

 “あらいぐま”はそう言って怜の首輪から伸びるチェーンを手にした。
 怜は問い掛けるように“きつね”くんの顔を窺う。
 “きつね”くんはそんな怜に大きく頷いてやった。
 すると怜の態度が一変した。
 チェーンを握る“あらいぐま”に向き直り頭を床にこすり付けたのだ。

「松田怜でございます。精一杯ご奉仕いたします」

 しかし“あらいぐま”はそんな怜の態度に不満そうに“きつね”くんを振り返った。

「おい・・・ちょっとこれじゃあ気勢を殺がれるなぁ。もチョットいつものニクったらしい感じに出来ない?」

 怜を格闘技で屈服させてやりたい“あらいぐま”には、従順な怜では意味が無いのだ。
 しかしそれを聞いた途端、“きつね”くんの中で悪戯狐がむっくりと頭をもたげ尻尾をパタパタをはためかせ始めた。
 努めて表情に表さないようにしながら、“きつね”くんは“あらいぐま”に軽く頷くと怜を呼び寄せた。
 そして部屋の隅に連れて行くと、怜の額に手を当て耳もとで何かを囁いた。
 虚ろになる怜の表情・・・そして最後に“きつね”くんはこう呟いた、『Bモードでね』と。

 その言葉を合図に怜の表情に精気が戻った。
 そして“あらいぐま”を振り返ったその表情は・・・軽い嘲りを含んだ自信に満ち溢れた笑顔。
 まぎれも無く女狼、怜の表情だった。
 そしてその口から毀れ出た言葉も、そんな彼女に相応しいものとなっていた。

「素直に抱かれてあげようと思ってたのに・・・頭悪いのね」

 自分からリクエストしたとはいえ、忽ち“あらいぐま”は怒りに顔を高潮させた。
 しかし口元だけは無理やり笑顔を作り言った。

「そうそう。良いねぇ、その態度。それ位じゃなきゃイジメ甲斐がねえよな」

 しかし怜は“あらいぐま”のその言葉をさも馬鹿にしたように肩を竦め、横に居る“きつね”くんの頬にキスをした。

「では、少しだけ相手をしてきます」

 その言葉に“きつね”くんは怜の首輪からチェーンを外してあげた。

「うん。時間に遅れないようにネ」

 そう言って怜の裸の尻を軽くピシャっと叩いた。
 “あらいぐま”は待ち切れないように怜を促し部屋を出て行った。
 怜は全裸のまま悠々とその後を着いて出て行った。

 2人を見送った“きつね”くんは冷めかけたコーヒーを飲み干し、さっと立ち上がった。

「じゃ、“くらうん”さん。俺もちょっと諒子のとこに戻ります」

 “きつね”くんのその一言で、残念そうに怜の尻をじっと見詰めていた“くらうん”は我に返った。

「あぁっ、そうだ。彼女が居ましたねっ」

 “くらうん”はそう言って手をポンと打ち鳴らした。

「彼女は今何処に居るんでしたっけ?」

「今はさっきの催眠ルームに寝かしてあります。でも“くらうん”さん、あの娘は駄目ですよ」

 “きつね”くんは釘をさした。

「とりあえず簡単に誘導して妹の美紀ちゃんを電話で呼び出させましたけど、待ち合わせの7時半まではもう一頑張りして催眠深度を深めておく必要が有るんですから」

 “きつね”くんは真面目くさった表情でそう告げた。
 しかし最近“きつね”くんの性格を把握してきた“くらうん”は訝しげな視線を投げてきた。

「催眠深度って・・・何をするんですか?」

「な、何って・・・」

 “くらうん”の予想外の突っ込みに一瞬口篭もった“きつね”くんだったが、次の瞬間にはあっさりと表情を緩めてこう言った。

「もちろんスキンシップですよぅ!」

 それを見て、“くらうん”は大きく溜息を吐いた。

「良いですねぇ、催眠技能者は役得が多くって。どうもこの会社は、経営や技術部門を軽く見てるんだよなぁ」

 “くらうん”は自らが社長であるにも係わらず、愚痴をこぼした。
 しかし“きつね”くんはそれを見てニッコリと微笑んだ。

「“くらうん”さん、大丈夫ですって。怜ならすぐに戻ってきますから」

「何を言っているんですか。相手は“あらいぐま”くんですよ。はたして約束の時間までに開放してくれるかも怪しいもんですよ」

 “くらうん”は半ば諦めたような口ぶりで言ったが、しかしちょっと俯いた“きつね”くんの口もとに余裕の笑みが広がっているのを見て“おやっ?”という表情になった。

「大丈夫ですよ。5,6分で戻ってきますから・・・多分ね」

「何かしたんですね?」

 “くらうん”も期待に頬を緩めながら“きつね”くんを見詰めた。
 意外と怜に執心の“くらうん”であった。

「と~~んでもないっ!“あらいぐま”さんのリクエストどおりですよぉ」

 “きつね”くんはしれっとそう応えると、社長室を後にした。
 しかしそれから10分後・・・“くらうん”は社長室で意外な事態に巻き込まれることになるのだった。

 一方、社長室を出た怜は“あらいぐま”の後に従い、かなり広い会議室に連れて行かれた。
 いつもは3つ位に仕切られている部屋なのだが、今は移動パーティションが部屋の隅に集められ大きな空き部屋になっていた。

 この場所なら確かに格闘も出来るだろう。

 怜はゆっくりと部屋の中を見回した。
 床が絨毯敷きになっている何の変哲も無い会議室である。
 しかし怜にとっては忘れられない懐かしい場所なのだ。

(“きつねさま”・・・あれが僅か3ヶ月前の出来事なんてウソみたいです)

 今の怜の原点とでも言うべき出来事が3ヶ月前にここであったのだ。
 それまでの怜を根底から覆し、心の芯を“きつね”くんに鷲掴みにされてしまった出来事が・・・

 怜はウットリとした眼差しを宙に据え回想の中の“きつね”くんに語り掛けていた。
 しかしそんな怜の回想は、荒々しく閉じられる扉の音で遮られた。
 無論、“あらいぐま”である。
 そして、怜が振り向くと同時に手にしていたヘルメットのようなものを投げて寄越した。

「何なの、これ」

 怜は不思議そうに訊いた。

「なんだ、知らねえのか?フルコンタクト用の防具だよ。フェイス・ガード」

「そんな事は知っているわ。じゃなくて、これを私に被って戦えって言うの?」

 怜は憤然としたというより、呆れたような表情で言った。

「しかたねぇだろっ。“きつね”との約束だ。万が一にもお前の顔に怪我させちゃなんねぇんだ。いいからとっとと被れ!」

 “あらいぐま”は早口でまくし立てた。
 とにかく時間が無いのだ。
 “きつね”くんとの約束は45分しかない。早いとこお仕置きして、怜に突っ込みたくってしょうがないのだ。
 しかし怜はいたってマイペースだ。
 馬鹿にしたように防具をもてあそんだ後、“あらいぐま”に放り返した。

「要らないわ。この格好でそんなモノつけたらまるでけっ○う仮面じゃない。坊やが着けたら?」

「んだとぉ?イチイチ口ごたえするんじゃねぇぞ、コラァッ!」

 忽ち“あらいぐま”の頭に血が上る。
 すると反対に怜はニコニコと嬉しそうな表情になった。

「あらあら、そんなに駄々こねないの」ニコニコ

「てっ・・・てっめぇ殺されてぇのかぁ!」

「まぁ怖いわぁ。お姉さんどうしましょう」ニコニコ

「・・・」

 “あらいぐま”は遂に無言となり、血走った目で怜を睨みつけた。顔は真っ赤である。
 その表情を見て、不思議なことに怜の笑みは更に深くなった。

「きみねぇ、そんなに頭に血を上らせてると、肝心の海綿体がふにゃふにゃになっちゃうわよ」

 そう言って怜はウィンクをした。
 それが“あらいぐま”の我慢の限界だった。
 手から防具が滑り落ちた。
 軽い音をたてて床に落ちた防具を“あらいぐま”は無言で蹴り飛ばした。

「ドールのくせに・・・マスターを愚弄してくれるよなぁっ」

 凶悪な眼光とともに、“あらいぐま”は搾り出すように言葉を口にした。
 そして182センチ85キロの肉体が更に膨れ上がったようにみえた。
 対する怜は170センチで女性にしては背が高いが、横幅は雲泥の差だ。
 体重など60キロを下回っているだろう。
 パワーでは勝負になるまい。
 スピードとテクニックでその差を何処まで詰められるかが勝負の分かれ目のはずだ。
 しかしそんなことは“あらいぐま”にも自明のことだった。
 頭に血を上らせながらも、体勢は充分にバランスを取っており無駄な力任せな攻撃など望むべくも無い。
 しかも対する怜はいまだに構える素振りもなく、僅かに俯きながら笑いをかみ殺していた。

「おいっ、怜!いったいいつまで笑っているつもりだっ!さっさと構えろっ!」

 “あらいぐま”は怜の態度に焦れて、再び大声で威嚇した。
 その声にようやく怜は反応した。
 俯いたまま目だけを上げて“あらいぐま”を視線に捉えた。
 そして口に添えていた片手をずらすと、ニンマリと横に広がっていた唇が遂に耐え切れないように上下に開き、形良く並んだ真っ白い歯がその間から覗いた。
 全裸のまま手を後に組み楽しそうに微笑んでいる美女と、4メートルの距離を隔て全身に怒りを漲らせ一分の隙も無く構えている偉丈夫。
 世界中の如何なる地域においても、この光景は間違いなく非難の対象となることだろう。

 しかし・・・

 一呼吸、二呼吸・・・・時間がゆっくりと過ぎ去っても“あらいぐま”に動く気配は無かった。
 それどころかどういう訳か視線が訝しげに細められ、顎を汗が伝い始めていた。
 一方、怜はゆっくりではあるが確実に姿勢を変え真正面から“あらいぐま”に向き直った。
 相変わらず心から楽しそうな表情をした怜の視線が“あらいぐま”を貫く。
 その瞬間・・・それまで肌で感じていた微かな寒さが一気に“あらいぐま”の背筋を凍りつかせたのだった!
 首筋から背中、そして二の腕までを一斉に鳥肌が覆い尽くす。
 足が痙攣したように反射的に跳び退いていた。

(なんだっ、なんだっ、何なんだっ!こっ・・・・こいつはっ・・・誰なんだっ!)

 “あらいぐま”は一瞬にしてパニックの一歩手前までに追い詰められていた。
 笑いを堪(こら)えていた怜は、確かに生意気ではあるがいつもの怜だった。しかし、遂に堪えきれず破顔した途端、一瞬にして怜は別人になっていた。
 外見は全く同じ、しかしその双眸から溢れ出してくるネットリとした欲望を溜めた“気”が一瞬で“あらいぐま”を圧倒した。
 まるで子ウサギを追いかけているうちに、いつの間にか腹を空かせた牝虎の目の前に飛び出してしまったような驚きだった。

「お・・・・おまえ・・・誰だ・・・」

 恐怖に凍りついたような表情で“あらいぐま”は口を開いた。声が掠れている。

「あら?どうしたの“あらいぐま”くん。怜よ、私」

 怜は相変わらずにこやかに小首を傾げた。そして一歩踏み出す。

「ち・・・違う!怜じゃないっ!」

 “あらいぐま”は間合いを取るように一歩下がり言った。
 その言葉に怜は目を大きくした。そして歩みを止めると、更に笑みを深めて言った。

「うふふっ。意外と勘が良いのね、“あらいぐま”くん。当たりよ、貴方。私は怜じゃない。“Bモード”っていうのよ、宜しくね」

 怜はそう言って再びウィンクした。
 再び全身を悪寒が襲う。
 “あらいぐま”はまるで気勢が足元から流れ出てしまったように消耗し、腰が砕けそうになった。

(く・・・食われるっ!俺が・・・)

 蒼白な顔にべっとりと汗をかきながら、“あらいぐま”は自分の運命を悟った。

「あらあら・・・そんなに緊張しなくても良いのよ。力を抜いて・・・お姉さんに任せなさい」

 “Bモード”怜はまるで童貞を相手にしている年上の女のように、“あらいぐま”に優しげに声を掛け微笑みながらゆっくりと歩みを再開した。
 美の化身のような完璧なスタイルが近づいてくる。
 歩く度に揺れる乳房が艶めかしい。引締まった腹部も逞しく張り出す腰も、全てが“あらいぐま”の理想どおりだった。
 理想のビーナスの身体を纏った死神だった。

 いつの間にか“あらいぐま”の構えは攻撃の型から完全防御の型に移行していた。
 顔の前で腕を交差させその隙間から怜の一挙手一投足を凝視している。
 既に“あらいぐま”の頭に戦いの契機となった事など霧散してしまっていた。
 生き延びる事・・・生きてこの場を切り抜ける為の行動に完全に集中していた。
 喉仏が動き、乾いた喉に唾を飲み込んだ。

(くそっ!くそ、くそ、くそおっ!何だってんだっ、ドールの分際でっ!)

 “あらいぐま”は心の中で悪態を吐いて自らを鼓舞していたのだが、その時ふと或るアイデアが浮かんだ。

(そうか・・・イケル・・・イケルかも知れないっ)

 “あらいぐま”は間髪を入れず、小さな声で何かを呟いた。
 それは“あらいぐま”が自らの集中力を極限まで高めるために自らに仕込んだ自己催眠のワードであった。

 2度・・・3度・・・

 呟くたびに“あらいぐま”の呼吸が静まり瞳に力が蘇ってくる。
 しかし、その様子を誰よりも嬉しそうに見詰めているのが“Bモード”怜、当人だった。
 口が再び“にぃ~”と横に広がる。
 “あらいぐま”の脳裏には一つの作戦が出来ていた。
 実行は至極簡単。落ち着いてさえいれば失敗は無いはずだった。
 そのための自己催眠ワードなのだったのだが、それでもまだ心の中から完全に不安を拭い去ることは出来なかった。
 呼吸を計り怜の出方を窺った。
 怜は・・・“Bモード”怜は、真正面から“あらいぐま”の瞳を見据えている。
 距離は2メートル50程度か・・・

「始めても良いかしら?」

 優しげな声が“あらいぐま”の耳に届く。無防備に両手をだらりと横に下げたまま怜が問い掛けたのだ。
 “あらいぐま”の目がキラリと光る。
 問い掛けに答えるように口を開こうとした。
 しかし、“あらいぐま”が声を発する前に怜が先に言葉を続けた。

「私の拳を防げるかしら・・・貴方の『ワード』でっ」

 言い終わった怜の唇が横に広がるのと、腕に重い衝撃を感じたのはほぼ同時だった。
 鍛え上げていた筈の腕があっさりと薙ぎ払われ、ガードしていた頭部があっけなく晒される。
 信じられないスピードの廻し蹴りが“あらいぐま”を襲ったのだ。
 “あらいぐま”は反射的に身体を捻り、蹴りの勢いに逆らわず床を回転しつつ体勢を入れ替えた。
 反復に反復を重ね身体に染み込ませた無想のリアクションが“あらいぐま”の窮地に僅かばかりの退路を確保してくれたのだ。
 しかし・・・たった一撃で重く痺れた腕のダメージよりも、“あらいぐま”がショックを受けたのは唯一の作戦が怜にお見通しだったことだった。

(みっ・・見破ってやがったっ、こいつっ!)

 もうタイミングを計るどころではなかった。
 重い右腕を無理やり引っ張り上げ頭部をガードしながら“あらいぐま”は口を開いたっ!

「怜っ!コックロビンはっ・・・」

 そこまで言ったところで脇腹に再び重い蹴りが炸裂した。
 あまりのスピードに肘も膝もガードに追いつかない。
 一瞬息が詰まる。
 思わずガードが下がる。
 そこに狙い澄ました掌底が炸裂した。
 “あらいぐま”はもんどりを打って吹き飛ばされた。
 受身も取れない。
 2メートル先でうつ伏せのまま“あらいぐま”はピクリとも動かなくなった。
 その様子を小首を傾げてみていた怜は、小さく息を吐いた。

「何よ、こいつ。見掛け倒しも甚だしいわ」

 怜は両手を腰に当ててあっけない決着に口をへの字にした。
 そして無造作に“あらいぐま”に歩み寄ると、つま先を腹の下に差し込みゴロンと仰向けにひっくり返した。
 だらしなく口をあけて気を失っている“あらいぐま”の顔が上を向く。
 その表情をじっと観察していた怜はほんの少しだけ違和感を感じだ。
 訝しげな表情になる。
 すると、示し合わせたように“あらいぐま”の表情が一瞬で蘇った。
 パッと目を開き、口の端を吊り上げて叫んだ。

「『飛び立った』っ!!・・・んだよぉっ!」

 “あらいぐま”の叩き付けるような言葉に、今度は怜の方がハッとした表情になった。

 ― 怜。コックロビンは飛び立った ―

 これは怜の導入ワードだ。一旦途切れた言葉だったが、“あらいぐま”が確信を込めて言い切ったワードは怜に確かな影響を行使したようだった。
 ビックリしたように目を見開き、片手で口を抑えて後ずさりする怜。
 反対に“あらいぐま”はゆっくりと上半身を起こした。

「ててて・・・。派手にやってくれたよなあ」

 赤く腫れあがった二の腕と脇腹を庇いながら“あらいぐま”は下から怜を見上げて言った。
 怜はゆっくりとではあるが、まだ動いている。
 途切れてしまったため、効きが悪いようだ。
 “あらいぐま”は顔を顰めながら立ち上がると、重ねて言った。

「おい、怜。コックロビンは飛び立った」

 その言葉で怜の動きがとうとう止まった。口を覆っていた手がダランと下がり、怜は俯いたまま全身の力を抜いた。
 それを見た“あらいぐま”はようやく大きな溜息を吐いた。

「おっかねぇ女。ホント殺されるかと思ったよ」

 一山超えた途端、“あらいぐま”の下半身に忽ち力が漲って生きた。
 ギリギリまで追い詰められた精神が、捌け口を求めているのだ。
 時計を見ると、怜を連れてきてからまだ5分しか経っていない。
 あと40分は楽しめる時間がある。
 “あらいぐま”の顔にニンマリと笑みが毀れた。

「さあ~て、散々いたぶってくれたお姉さん。どんな目に会うか・・・覚悟は出来ているんだろうなっ!」

 “あらいぐま”はそう言って俯いたまま人形のように佇む怜の頭に手を掛けると、グイッと力を入れて顔を上向かせた。
 長い髪の間から怜の端正な顔が照明に晒される。
 “あらいぐま”は、その顔に余裕を持って顔を近づけた。
 鼻腔をシャンプーの良い香がくすぐる。
 陶然とした表情で怜の顔を見詰めていた“あらいぐま”だったが、しかし次の瞬間、あることに気付き一瞬で全身を凍りつかせた。

 いつの間にか、怜の目がパッチリと開いていたのだったっ!

 しばし、目と目を見合わせる2人・・・

 しかし怜の口がニマ~と広がるのと同じタイミングで“あらいぐま”の目は恐怖に見開かれていった。

「残念ね・・・効かないのよ、その“ワード”は」

 怜の落ち着いた声が耳に届いた次の瞬間・・・・会議室の中を濁った悲鳴が虚しく木霊した。

 結局“あらいぐま”がこの場から逃げ出せたのは、怜の掌底を再び食らいドアまで吹っ飛ばされた後だった。
 勢いで廊下にまで転がり出た“あらいぐま”は、唯一の活路を見出したように、社長室目掛けて一目散に駆け出したのだった。
 それはまるで尻に火が付いたような物凄い勢いだった。

< つづく >

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