ドールメイカー・カンパニー (19)~(21)

(19)逃亡

 夜明け前の裏通り
 静まり返ったモノトーンの世界に映美の足音だけが響いていた。

 映美は一刻も早くこの町を後にしたかった。
 しかし電車が動き始めるまでにはまだ30分ほど待たねばならなかった。
 その待ち時間が、映美は恐ろしかった。
 暗示を解いたとはいえ、導入ワードを囁かれてしまえばまた元の人形に逆戻りだ。
 追いかける相手にとってこんなに都合が良い事は無い。
 声が聞こえる所まで近づくだけで良いのだ。
 だから映美は駅には向かわず幹線道路へ急いだ。

 (タクシーを捕まえるしかないわっ)

 電車なら網を張ることが出来ても、タクシーでは警察でもない限り検問することなど不可能だ。
 映美は裏道を選びながら幹線道路へ急いだ。
 そしてようやく辿り着くと、物陰から道行く車をじっと見つめた。
 時間が時間だけに空車は中々通りかからない。
 それでも10分ほど待ってようやく1台の空車マークが通りかかった。

 (やっと来てくれた・・・)

 映美が物陰から姿を表そうとした時だった。
 映美の位置より1ブロックほど手前のところで、急に現れた誰かが手を上げその車を止めてしまった。

 (あ~っ、うそ~っ!なんでよ!私の方が先から待っているのにぃ)

 映美は物陰に戻り悪態をついた。
 しかし通り過ぎるタクシーの後部座席を何気なく視線に捉えた次の瞬間、背筋が凍りついた。
 タクシーに乗りこみ映美の目の前を通り過ぎた人物こそ、“きつね”くんその人であったのだ。

 映美は物陰にしゃがみ込み暫く動けなかった。

 (追っ手だっ!もう・・・こ、こんなに早く!)

 映美は怯えた。心底、怖かった。

 今にも後ろから肩を叩かれるのではないか・・・、そんな悪い予感が次々に浮かんでくる。

 (駄目っ!弱気になっちゃ!私が逃げなきゃ有紀ちゃんや怜さんも売られちゃう。大丈夫。絶っ対に逃げ切れるっ!)

 映美は自分で自分を鼓舞し、怯えと戦った。
 徐々に空も明るくなってきた。
 闇を追い払う光が映美に勇気を与えた。

 (私は逃げてるんじゃない。戦っているのっ!逃げるべきは私じゃない。あいつ等よっ!)

 映美は物陰から顔を覗かせた。
 車はさっきより大分増えている。
 タクシーの冠と空車マークが遠くから近づいてくる。

 映美は奥歯を噛み締めて立ちあがった。
 表通りに駆け出る。そして大きく手を振ったっ!
 みるみる近づいてくる車。
 歩道を見渡すが、他に人影は無かった。
 車はゆっくりと映美の前に停車し、後部ドアが大きく開いた。
 映美は震える足を隠しきれなかったが、夢中で車に乗りこんだ。
 ドアが閉まる。

「は、早くっ、出てっ!」
「どちらまでです?」

 運転手ののんびりした声にいらつく。

「この道まっすぐっ!とにかく早く出てっ」

 映美の勢いに押され、車はビックリしたように発進した。
 乗りこんだ場所がみるみる小さくなって行く。
 映美は安堵のあまりシートに深く沈んだ。

「お客さん、どうしたの?ストーカにでも追われてるの?」

 運転手がバックミラー越しに映美を見つめている。

「え・・・?あぁ、そうなの。有難う。助かったわ」

 映美は適当に話しを合わせた。

「お客さん、綺麗だから。で、どうする?警察に向かう?」

 映美ははっとした。

「駄目っ。警察には行かなで」

 映美は警察を当てにしていなかった。
 それどころか、警察に行くことは遠からず“きつね”くん達に居場所を特定されてしまう事に繋がると思っていた。
 居場所がばれてしまったら、映美に対抗手段は無かった。
 映美に導入ワードを囁くことなど造作も無いだろう。
 担当の警官自身が口にするかもしれなかった。

「じゃあ、お客さん、何処に行けば良いの?」
「あぁ・・・、ごめんなさい」

 映美は最初近くのターミナル駅に向かおうと考えていたが、“きつね”くんの素早い行動を見て諦めた。
 替わりに高速バスの停留所を告げた。

 (東京に行くわ。1千万分の1になるのよ)

(20)邂逅

 『次は品川、品川~』

 早くも通勤ラッシュ時間帯を終え、空席が目立ち始めた山手線に映美は乗っていた。
 すでに2週目に突入している。
 タクシーとバスを乗り継いで東京に逃げ込んだまでは良かったが、すでに軍資金は底を尽きかけている。
 泊まる所どころか、食事にも心もとない金額である。
 逃げ出す時には後先を考えていられなかったが、こうして落ち着いて考えてみると、自分の出自を偽って生活していくことは本当に難しい。
 まともな就職など出来るわけが無い。
 バイトにしたってせめて住所や電話番号くらいはハッキリさせないと、とても雇ってくれない。
 ということは先に住む所を決めないといけないのだが、所持金1000円程度では冗談にもならない。
 ではお金を稼ぐとなると・・・
 映美はさっきからこの堂堂巡りで頭を悩ませていた。
 普通ならば、こんな時は両親を頼って行くのだが、今回ばかりは絶対に駄目だ。
 真っ先に網を張っているだろう。
 更に恐ろしいのは、既に両親が操られているかもしれないということだ。
 “きつね”くんの恐ろしい程の腕を知っているだけに、映美はその可能性を否定できなかった。
 そうなると後は友人達しか居ないが、それに関しても安全とは言いがたい。
 泊めてもらったり、お金を借りたり出来る友人達は、多かれ少なかれ両親も知っている。
 今は手が回っていなくても、近いうちに尻尾を掴まれるだろう。

「はぁ・・・」

 溜息しか出ない。

 『次は東京、東京~』

 いつのまにか見慣れた風景になってきた。
 オフィス街の佇まいは映美が勤めていた頃と変わっていない。
 4年前に1年間だけ商社のOLとして、ここに通っていたのだ。

 (なんて遠い過去になってしまったんだろう・・・)

 あの頃の結婚を控えていた自分に、今の自分が話を出来たらどう思っただろう?

『貴方の結婚相手は実は人形フェチなのよ。あなたはそれが原因で3年後に離婚するの。そして貴方は人身売買組織に追われて逃亡生活をすることになるのよ・・・』

 こんな話、悪い冗談以外の何物でもない。

 厳しい現実から逃避するように映美は当時の事を思い出していた。
 そのとき、ふと頭に閃くものがあった。

 (そうか・・・会社関係なら・・・)

 たった1年だったため、両親も会社関係の知り合いに関しては知らない。
 すこしは時間が稼げるかも知れない。
 あれからまだ3年。同期もまだ沢山残っている筈だった。
 映美は急いで席を立つと、閉まりかけのドアから外に飛び出した。

 (出来るだけ沢山の同期に会って、少しでも多くお金を借りなきゃ。それでとりあえず住む所を決める。先ずはそこからだわ)

 とりあえず目標が出来た映美は、勇んで電車を飛び出し懐かしい通りを歩き始めた。
 しかしよく考えてみれば、今はまだ午前10時30分。
 営業でもない限りこの時間は皆オフィスで仕事中だ。
 顔見知りのOL達が出てくる昼休みまで待たないといけなかった。
 映美は近くで時間を潰そうとファーストフードの店を探しながら歩くことにした。

 今日も天気は良い。
 8月の日差しは強烈だったがこの時期には珍しく湿度は低かったため、映美は日陰を選びながらゆっくりと歩いていた。
 すると、映美の視界の先を一人の男が横切った。
 恰幅が良い・・・というか、腹が出ているのだが、その妙にセカセカした歩き方に映美は見覚えがあった気がした。
 額はやや後退しているが、その分顎髭をはやして毛の量の帳尻を合わせているような感じの男だ。
 男は歩道を横切り左手の店に入っていった。
 何気なく見上げたその店は、“サンサン・マート八重洲店”だった。
 映美はゆっくり歩いてその店に近づいて行った。

 (さすがは八重洲店ね。うちの田舎の店とは内装が違っているわね)

 つい癖で映美はこうしたコンビニの些細な違いを観察してしまう。
 ガラス越しに店内を眺めていると、さっき入っていったばかりの男がもう出口に向かってきている所が見えた。

 (あらぁ?やっぱりどこかで見たことが有るんだけどなぁ)

 ガラスの自動ドアが開く。
 映美はチラッとその顔を見た。
 すると相手もちょうどそのタイミングで店の横に佇む映美を見た。
 一瞬視線が交わり、そしてゆっくりと相手の表情が変わった。

「あ・・・れ?竹下さん?もしかして・・・」

 映美もその甲高い声に聞き覚えが有った。

「あっ・・・もしかして・・・矢場くん・・・なのぉ」

 映美は懐かしい顔を髭の下から発見し、その巨体を見上げ破顔した。
 矢場隆。身長185cm、体重100キロ。(くらい)
 今日の目的である映美の同期の一人なのだが、今ここで会うまですっかり忘れていた。
 見かけは本当にでかく目立つのだが、性格が気弱で上司や先輩から叱られるとその大きな体を縮めてうな垂れていたものだった。
 そんな訳で同期の中でもちょっとパシリ的な存在となってしまっていた。
 映美もそんな彼を少し可愛そうに思ったりもしたが、頼めば大抵のことは引き受けてくれたので便利にお願いしていたクチだ。

「やだぁ、全然わかんなかった。髭なんか生やしてるんだぁ。」
「いやぁ、仕事柄ちょっとは箔をつけないといけなくてさ。でも竹下・・・じゃないや、森下さんは変わんないね。結婚式以来だから・・・3年・・・ぶりくらいだよね」

 色白の顔を紅潮させて矢場は嬉しそうに話しかけた。
 顔がテカッテいる。
 真夏だし、この巨体、まあ仕方ないのだが・・・
 映美は久しぶりにこの男の印象を思い出した。
 人は良いのだが生理的にちょっと引いてしまう所があり、随分気まずい思いをしたものだった。

「あ・・・いえ、竹下でいいんです。ちょっと・・・いろいろとあって」

 映美はさりげなく視線を避けて答えた。

「え・・・?そうなの?そいつは失礼しました・・・」

 矢場の答えもごにょごにょした語尾となってしまった。
 ちょっと気まずい・・・

「あ、でも矢場くん、こんな時間にここに居て・・・どうしたの、今日は?外出?」

 映美は話題を無理やり引っ張り出した。
 こんな挨拶だけであっさり別れてしまったら、今日何人と会ってもとても借金なんかできっこない。

「あ、いや。なんて言うか・・・全くの偶然なんだけどね、俺が今日ここに来たのは」
「え?」
「あ、そうか・・・竹・・・下さんは知らないんだよね。俺、去年退社したんだ」
「え、そおだったのぉ。知らなかったわ。じゃ、今は何の仕事を?」
「うん。ま、ちょっと金融関係を。実はさ、去年、親父が逝っちゃってさ、俺、その跡を継いだんだ」
「ま~・・・」

 映美は一瞬次の言葉が浮かばなかった。

 (ご愁傷様・・・って言うべきなのかしら?でも、なんだか少し自慢げな感じもしてるし・・・)

「・・・あ・・・それじゃあ、矢場くんって“若社長”ってわけ?」
「うん、一応。でも半分お飾りみたいなものさ。俺って黙って座ってれば、ガタイがでかいから貫禄あるように見えるらしくってさ、周りからは『頼むから喋るな』って言われてるのさ」
「あら。そんなことないわよ。矢場くん貫禄出てきてるわよ。ほんと、最初は全然わからなかったもの。やっぱり男の人って、仕事で全然変わっちゃうのね」

 映美は思いっきりヨイショした。
 上手くいけば、同期に頭を下げて回らなくっても済むかも知れない。
 なんてったって“何でもいう事を聞いてくれる『パシリのジャバ』くん”が、大金持ちになって目の前に立っているのだ。(矢場くんは、某スペースオペラに出てきたギャングのボスに似ているのだ。口が大きいところが)

 (カモネギとはこの事だわっ!)

 映美は3年の時を超え、往年の“お願いモード”を復活させてきた。

「あ、そうだ。矢場くん、ちょうど良いわ。実はちょっとお話があるのぉ」

 映美はそう言って上目遣いで矢場を見上げた。
 手を後ろで組み頭を少し傾げている。
 同期の間では有名な“お願い映美ポーズ”だ。
 途端に矢場の顔がだらしなく緩み、テカリの度合いも3割増しだ。

「お・・・俺に話し?」

 鼻腔が膨らみ湿った鼻息が吹き付ける。

 (うっ・・・これは、ちょっと・・・)

 映美は笑顔を固まらせて、微妙に視線を逸らした。

(21)最後の賭け

 映美にとって、それが幸いした。
 偶々視線を逸らした先に、横断歩道が見えている。矢場の肩越しに50mほど先だ。
 丁度歩行者側が青に変わり人が渡り始めているのだが、一人だけ歩道から動かない人物が目に付いた。
 歩道に立ち、視線を斜め上に向けオフィスビルの一つを眺めている。
 懐かしい商社が入っているそのビルを見上げている人物・・・それは“きつね”くんだったっ!

 映美は足元から地面が割れて吸込まれてしまうような幻覚に襲われた。
 ショックのあまり一瞬、頭が真っ白になったようだ。
 ふと気がつくと、映美は矢場の胸にもたれ掛かっていた。

「ど・・・どうしたのっ、竹下さんっ!うわっ、真っ青だよ、顔」

 実際その場にうずくまりたかったが、映美にはそんな余裕すらなかった。
 矢場の二の腕を映美は握り締めた。
 指が食い込んでいるのだが、映美にはそんな事まで気が回っていない。

「いっ、痛いよ、ねえ、ちょっ・・・」

 矢場の言葉を遮るように映美は鋭く言った。

「黙ってっ!」

 真剣な眼差しと、言葉の強さが矢場の口を封じた。

「車・・・車で来たの・・・?」
「えっ?あぁ・・・そうだけど」
「乗せてっ!」

 低く小さな声で、しかし真剣な表情で映美は言った。

「くるま?俺の・・・?い、良いけど・・・。かまわないけど・・・」
「早くっ!お願い・・・何処にあるの?」

 映美の語尾が震えている。

「何処って・・・いや・・・これだけど」

 そう言って矢場は店の正面に路駐している車を指した。
 ベンツの黒、しかもサイドのウィンドウまで黒のスクリーンが貼られていて中は全く見通せない。
 いかにもヤクザ連中が愛用しそうな車だったため、映美は無意識に除外していたのだ。
 普段の映美ならば乗るのにかなり躊躇っただろう。
 しかし、今の緊急事態にはまさにうってつけだった。

 映美は今矢場の巨体の影に隠れるようにして立っている。
 “きつね”くんの位置を確認したかったが、恐怖心が先に立ちどうしても顔を出せない。

 (もうこのまま逃げようっ)

 左ハンドルなので矢場は歩道から直接運転席に乗り込める。映美も矢場と同時に後部座席に左から乗りこんだ。ちょうど、ずっと矢場の巨体の陰に居た事になる。

 (見つかっている危険は少ないはずっ・・・)

 映美はドアを閉めるとようやく視線を前に向けた。
 外から見ると真っ黒に見えるスクリーンだが中からでは、当然ながら外はハッキリ見える。
 それが不安だった。
 相手からも見えているように錯覚するのだ。
 映美は後部座席には座らず、前席のシートの陰に隠れるようにしゃがんだ。
 そしてヘッドレストの陰から顔を覗かせ、“きつね”くんの居所を探った。
 
 (居たっ!)

 まだ、さっきと同じところに立っていて、横断歩道を渡る人を目で追っている。

 (どうして?どうして私がここに来るって判ったっていうの?)

 映美の頭には疑問符が渦巻くが、今は逃げる事が先決だった。

「出して!早くっ」
「うん。で、何処に?」
「お願いっ!何処でも良いから、出して」
「あ、そう」

 矢場は映美の言葉に素直に従い、車を発進させた。
 徐々に横断歩道が近づいてくる。
 “きつね”くんの顔がハッキリと見える。
 車にはまるで注意を払っていない。
 ベンツは滑らかにスピードを上げた。
 映美の鼓動が早まる。

 (近づいていく・・・近づいて行ってるんだ・・・私)

 車道の直ぐ近くに立っている“きつね”くんの横を今ベンツは通過した。
 僅か1mの距離だった。
 一瞬、“きつね”くんの切れ長の瞳がベンツのウィンドウをなめた。
 色の着いたガラスを隔て、映美と“きつね”くんは1mの距離で対峙したのだっ。

 (視線が合ったっ!)

 忘れられない瞳が映美の瞳を捉えた・・・一瞬、そう錯覚した。

 しかし、ベンツは忽ち通過すると“きつね”くんを置き去りにした。
 “きつね”くんの視線も、再び通行人に向けられている。
 映美の体の硬直が緩んだのは、横断歩道を渡り始めた人波に“きつね”くんが呑み込まれてからだった。
 全身の力が抜けてしまった映美は、ベンツの広大な後部座席に沈み込んだ。

「助かった・・・助かったんだ、私・・・」

 思わず口から言葉が漏れ出てしまった。

「どうしたの?誰かに追われてたの?」

 ルームミラー越しに矢場が覗いているのに気がついた。
 視線がネバイ気がしたが、映美は気付かないふりをした。
 全ては矢場のおかげなのだ。
 心を締め付けていた箍が外れ、映美はとてつもない開放感を味わっていた。

 (もう、大丈夫。わたし・・・ナンカそんな気がする・・・)

 映美は“きつね”くんの行動パターンに見当がついた気がした。
 つまり、映美は自分で自分の過去のことを“きつね”くんに話していたに違いないのだと思ったのだ。
 たった1年間とはいえ自分の過去の職歴である。
 あれだけの組織が計画的に行っている人身売買である。
 その程度のことは調べるのだろう。

 (でも・・・)

 映美は心の中で“きつね”くんに言った。

 (でも、いくら貴方でも、私が忘れていた人物までは調べられないわよね。だって、私、矢場くんのこと、さっき会うまですっかり忘れていたんだから)

 しかも矢場は昨年退職していて、すでに会社とも縁が切れている。
 映美と矢場を結ぶ線は切れているのだ。
 どんな、天才的な催眠術師でも、どんな大がかりな組織でも、今日の偶然を予知する事はできない。

 (やったわっ!遂にやったんだわっ、あたしっ!)

 映美は自分自身に喝采を贈った。
 そして、後部座席で大きく伸びをしてから、運転席の矢場に後ろから抱きついた。

「有難うっ、矢場くんっ!」

 しかし、映美は知らなかった。
 走り去るベンツが車の流れに埋没するころ、不意に“きつね”くんの視線が向けられたことを。そして訝しむような表情でベンツのテールをしっかりと見つめ続けたことを・・・。
 “きつね”くんは、車が完全に走り去ったのを見届けてから、携帯を取り出し何処かに連絡をした。
 そして足早にその場を立ち去って行った。

 一方、ベンツは都内を西に向かって走っていた。
 映美は、とりあえずストーカーということにして誤魔化した説明をしていた。

「そりゃ、また、酷い目に遭ったもんだね。なんと、東京まで追いかけて来たんだ」
「ほんと危なかったわぁ。全っっっ部、矢場くんのおかげよ。ホント感謝してるわ。でも、なんだかすごい偶然よねぇ」

 映美はリラックスしてすっかり饒舌になっていた。

「そう言えば、矢場くん。今日はどうしてあそこに居たの?」
「あぁ、ちょっとした限定、レア物をゲット出来るって聞いて行ってみたんだ」

 矢場は何故か少し恥ずかしそうな表情で言った。

「え~っ?限定レア物ぉ?あそこコンビニよ?一体何を売っていたの?」
「こういうヤツだよ」

 踏み切りの信号待ちに捕まってしまったので、矢場は助手席に置いてあった紙袋を取って、映美に渡した。
 中から出てきたのは・・・

「これ・・・ジェニーちゃん人形?」

 映美が手にとったのは、プラチナ・ブロンドでグリーンの瞳のジェニーちゃん人形だった。
 映美にとっては嫌な思い出しかない人形である。
 本当は放り出したいのだが、恩人の趣味である。さすがにそれは出来ない。

「これを売っていたの?」
「いや、今日買ったのはそれじゃないんだけどさ。そういったもののレアものさ。そういえば、ジェニーちゃん人形って、どことなく竹下さんに似てるよね?」

 矢場はルームミラー越しに映美を見て言った。

「え?そうかしら・・・」

 映美は再び視線を下ろし、人形を見つめた。

 (似てる?私が?)

 心の中で問い掛けてみた。
 すると・・・

{ニテルワ。ソックリヨ}

 人形が答えた。

 (えっ・・・何・・・今の・・・)

{ワタシハ、アナタ。アナタハ、ワタシ}

 (まっ・・・拙いっ!!)

 心のどこかで物凄い警鐘がなっている。
 気がつくと、視界が真っ白で何も見えなくなっている。

 (導入ワード?!・・・違うっ!人形が、キーなんだっ!)

 偶然、催眠のキーが入ってしまったのだった!

 (ど・・・どうしたらっ)

 映美は手探りで辺りを確かめる。
 すると、手に何か硬いものが当った。
 ポケットだ。

 (これって・・・ICレコーダ!!これよっ!これで、解除ワードを・・・)

 既に視界は全く利かない。
 完全に手探りでスイッチを探していると、不意に手からするっと滑り落ちてしまった。

「あっ・・・な・・・・・・どぉ・・・こぉ・・・」

 舌がもつれ始めた。

 (あああ、拙い、拙い、拙いっ!どうしようっ!)

 その時だった。

「どうしたの?これ、拾わないの?」

 またしても矢場だった。
 映美の手に硬い金属の棒が乗っけられった。

「あ・・・ああ・・・」

 もう完全に声も出なくなってきた。
 指先も痺れてきた。
 しかし、スイッチの感触は判った。

 (これを・・・押させてぇ!お・さ・せ・てぇ~っ!!)

 満身の力を込めて映美は押した。

 無音・・・

 (駄目なの・・・?)

 映美は一瞬、人形のように硬直してどこかに運ばれ得る自分を想像した。

 ピ・・・

 しかし短い操作音が、映美のその妄想を打ち払った。
 そして、それに続きハッキリした声が、レコーダから流れ出してきた。

 (あぁぁぁ・・・聞こえる・・・聞こえるわっ!有難う、矢場くんっ、有難うっ!!)

 言葉の意味は、今の映美には理解できなかった。
 しかし、次第に身体の自由が戻ってきた。
 そしてそれと共に呼吸も楽になってきた。
 新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。

 (生き返る・・・私、生き返るんだ・・・)

 映美の胸に新鮮な感動が湧き上がった。
 そして同時に矢場に対する信頼と感謝の気持ちで一杯と成った。

 (何処?何処に居るの?矢場くん・・・)

 映美の気持ちに呼応するように立ちこめていた霧が徐々に晴れ、映美の視界が次第にクリアになってきた。
 映美はその霧の先を一心に見つめた。

 視界の先に待ち望んだ顔がハッキリと像を結ぶように・・・

< つづく >

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