ドールメイカー・カンパニー2 (3)

(3)小さな勇気

 2学期が始まり京子が産休となり、その代理で赴任してきた石田諒子教諭が遂に全校生徒達の前に姿を現した。
 2学期の期首挨拶で校長に紹介され壇上に現れた諒子を見て、冗談ではなく生徒達の間からどよめきが上がった。
 真っ白いスーツを着て姿勢良く校長の横に立つその姿は、凛々しく、颯爽とし、そこだけスポットライトが当たっているかのような印象を与えた。
 肩まで伸びた黒髪が微かな風になびくさまだけが、生徒達に壇上の人物は写真やパネル等ではない、生きた生身の人間であることを知らしめていた。

「すげぇ・・・」

 生徒達の間から漏れたこの呟きが、彼ら全員の気持ちを代弁していた。
 そして、女性にしては低く落ち着いた声が自己紹介をし、これから1年間教鞭をとる事になったことを告げるのを陶然とした表情で聞き入っていた。

 そして、2年B組の生徒達には、この後更にもう一つショックを受ける出来事があったのだ。
 校庭での期首挨拶が終わり教室に戻った後も、クラス中が諒子の話題で持ちきりだった。
 そしてホームルームの時間が始まり担任が教室の扉を開けて入ってきても誰もそのお喋りを止めなかったのだ。
 しかし、担任の後ろから一人の少女が教室に入ってくるのを見た途端、一転して教室中は静まり返った。

「あ~、みんな・・・席について。今日からウチのクラスに転入生が入ってくることになった」

 そう言ってその教師は後ろに控える少女を振り返った。
 少女は視線が集中する中、すっと1歩前に進み出た。

「こんにちは。石田美紀です。東京から転入してきました。宜しくお願いします」

 自然に頭を下げ、優雅に一礼した。
 良く日に焼けて健康そうな褐色の肌、心もち茶色に染めているストレートの髪、そして勝気そうな瞳と一文字に結んだ唇。
 しかしクラスの生徒達には、そんな美紀の特徴よりよほど強い印象を与えているものがあった。

(おい・・・似てねえか)(すげぇ、そっくりだ)(うそぉ・・・あ、でも石田って)(うん、そう言ってたよ、あの先生・・・)

「はいはいっ、私語はしないっ。皆も気が付いていると思うけど、石田はさっき挨拶された石田先生の妹だ。先生と二人で暮らしているので一緒に転入してきたって訳だ。ま、そういうことだから宜しくな」

 その説明を聞いて、クラスの視線が改めて集中した。
 姉に比べ幾分か小柄だが、それでも165センチ位はありそうなすらっとした立ち姿。そして綺麗な、アーモンドのような形をした瞳は二人ともソックリだが、姉の落ち着いた視線に比べ挑むような勝気な力強い視線を宿していた。
 細部を比べたら違いは有るのだが、全体から受ける印象は、まさしく同じ遺伝情報から作られたものと誰もが認めるものだった。
 美紀の噂はその日のうちに全校に広がり、休み時間には噂の美少女を一目見ようと廊下が見物の男子生徒達で溢れ返った。
 そして、2学期の授業が開始され美紀が学校に慣れてくるに従って、美紀の人気は男子のみならず女子の間にも高まっていった。
 とにかくスポーツ万能で、陸上から球技、そして体操まで何でも軽がるとこなすのだ。
 そして、最初の印象どおりの向うッ気の強さと、意外にも弁舌が爽やかで、トラブルメーカーの男子とも平気でやりあったりしていて、その頼もしさに惹かれていく女子が続出したのだった。

 健志は、しかしそんな仲間達の熱狂を独り冷めた目で眺めていた。

 (付録には興味ない・・・俺の獲物は諒子のみ・・・)

 しかし、その肝心の諒子にこの3ヶ月まるで歯が立たない状況が続いていたのだった。
 健志が入学以来築き上げてきた信頼や尊敬が、諒子には最初から見透かされていたように、まるで通用しない。丁寧な物腰や、くだけた親しみ易さを演じても、諒子の目から冷たい警戒が消えることは無かった。
 更に驚くべきことに、父親の、黒岩剛の名前でさえ、諒子は歯牙にもかけなかった。
 東京から赴任してきた諒子にとって地方の1実力者など取るに足りない存在としか思えなかったのだ。
 そして、何より健志を憤らせたのは、諒子が自分以外の生徒と話す時に見せる優しく、そして時にはユーモアまで混ぜて話す様子だった。

 (舐めやがって・・・。いったい誰がお前をこの学園に入れてやったと思ってるんだっ!)

 そして、そう言った場面に出くわし健志が思わず怒りを露わにした視線を投げ掛けた途端、驚くべきことに諒子は必ずその視線を察知し、あの冷静で強い光を宿した視線で見つめ返すのだった。
 慌てて視線を外す健志・・・、そしてその表情を余裕で見つめる諒子・・・
 次第次第に、健志のフラストレーションは溜まっていった。

 無論、京子との関係はまだ続いていた。
 しかし、以前であれば毎日学校で何度でも好きなように犯していたのに、産休で家庭に入った今その回数は減らざるをえなかった。しかも既に臨月が近くなって来ていて、さすがに何度も抱く気にはなれない。
 諒子を自由に出来ないもどかしさと、京子のセックス奉仕が減ってきたことが重なり、健志の集中力が次第に薄れてきていた。
 そして、そんな中、その事件は起こったのだった。

 何のやる気も無いまま、健志は机に向っていた。
 2学期の中間テスト、歴史の試験時間だった。
 健志は下敷きのようにラミネート加工した年表を担当教師から受け取っており、それを見ながら答案に写しているところだった。

 (ったくよぉ、たりぃなあ。こんなモン渡すんなら、自分で解答を書けっていうんだ。俺の筆跡くらい練習しておけって。あいつはボーナス減は決定だね)

 そんな物思いに耽りながら、ペンを走らせている時だった。
 不意に年表がさっと取り上げられた。

「え?」

 驚いて上を向いた瞬間、健志の頬に平手が炸裂した。
 静かな試験場の中で、パシンと大きな音が響いた。

「なっ?!」

 事態が飲み込めず呆然としていた健志の前に立っていたのは、石田諒子・・その人だった。

「なんですか?これは」

 諒子の手に年表が握られている。

「えっ・・・あ・・」

 事態は最悪だった。
 最初から全くやる気が無かった健志は、この時間の試験監督官が諒子であることを忘れていたのだった。

「カンニングは、試験放棄と同じです。出て行きなさい」

 諒子は教室のドアを指差した。
 周りのクラスメート達がざわめく。
 品行方正にして学力優秀、そしてスポーツも万能・・・そういった偶像に始めて生じたスキャンダルだった。
 クラスの視線が健志に突き刺さる。
 健志は恥辱と怒りで首まで真っ赤にしていたが、最後の理性で踏みとどまると、無言で席を後にした。

「はい、みんな。いつまでも見ているんじゃありません。テスト中ですよ。一緒に試験放棄になりたいんですか?」

 教室で諒子の話す声が聞こえる。
 その声で押さえていた感情が爆発した。
 廊下に出た途端、モノも言わず窓ガラスを叩き割った。
 テスト中の静かな廊下にガラスが砕け散る音が響き渡る。
 たった今出てきた教室のドアが開かれる音を背中に聞きながら、健志は振り返りもせずそのまま校舎の外に駆け出していった。
 腹の底に溜め込んだフラストレーションは、高温の怒りとなって燃え上がり、諒子を屈服させるまで消すことは出来そうにもなかった。

 (もう手段は選ばねぇ!ぜってぇ、犯ってやる。捕らえて、監禁して、泣き叫ぶまで犯ってやる!犯って、犯って、犯って、ボロボロにして売り飛ばしてやる!黒岩に楯突いたことを死ぬまで後悔させてやるからなっ!)

 一方、諒子もその日、冷たい怒りを胸に抱いていた。

「どういう事でしょうか?」

「どうもこうもっ・・・いったい生徒を何だと考えているんですかぁっ?」

 諒子は学年主任に呼び出され、健志の件を問い質されていた。

「カンニングを見つけたので、注意したんです。それが何か?」

「なにかって。生徒がガラスを割って、飛び出しているんですよっ!たかがカンニングで生徒をそこまで追い詰めるとは、一体全体、どんな指導をしているんですかっ!全くもって監督不行届きだ!」

 学年主任の男は、顔を真っ赤にして諒子を怒鳴りつけた。
 このままではボーナスを減らされてしまうどころか、下手すればクビだ。しかも黒岩を怒らせてのクビとなれば、このあたりでの再就職は殆ど不可能といって良い。家を新築したばかりのこの男にとってまさに死活問題だった。

「お言葉ですが、私は普通に注意しただけです。ルールに則って。カンニングは試験放棄とみなす・・ですよね、主任」

「普通に注意しただけで、外に飛び出しますかっ!ましてや黒岩くんだ。彼はウチの創立以来の逸材ですよ。文武両道にして人格も良い。同級生や下級生に聞いてごらんなさい。あんな出来た生徒は居ないんだっ!あなたが、何か酷いことを言ったに違いないんだ。大体、カンニングの件だって怪しいもんだ。本当にカンニングだったんですか?なにか勘違いしたんじゃないんでしょうねっ」

 諒子は主任のその言い草を聞いて、呆れ返った。まるで自分が生徒を追い詰めた犯人扱いだ。
 諒子は無言で没収した下敷きを突きつけた。

「これは?」

「没収したものです。黒岩くんはこれを見ながら答案を書いていました」

 それを聞いて主任の目が光った。

「そう・・・。これが・・・。判りました。これは証拠品ですから私が預かります。あとで社会科の星野先生に確認して頂いてから、この件を職員会議にかけることにします。ただしっ・・・石田先生、生徒が自暴自棄になってしまった事の責任はあなたに有るのですからね。近いうちにご両親に謝りに行って貰いますからね。無論、私も同行しますからね」

 学年主任はそう言い残して、ようやく諒子を解放し去っていったのだった。

「まったくもう・・・どうなってるんだろう、この学校はっ!」

 諒子はその夜、自宅のマンションに辿り着くと鞄をポーンと放り投げてソファにドスンと腰を下ろした。

「どうしたの?お姉ちゃん」

 先に帰って夕食の用意をしていた美紀がキッチンから出てきて、諒子に話し掛けた。

「なんでもないわよ!気にしないでっ」

 諒子は妹を見ずにリモコンでテレビをつけた。

「カンニングの件でしょう?」

 諒子は美紀のその言葉に、思わず妹を振り向いた。

「何?誰から聞いたの、それ」

「誰って・・・。みんな知ってるわ。あの黒岩ってヤツ、意外と人気有るのよ。スポーツマンで、頭も良くって。ウチのクラスでも何人かファンだっていう娘いるよ。だから後でその話が伝わってきたら、大騒ぎだったんだから」

「ふ~ん・・意外ね。そんな魅力的な生徒には見えないけど・・。どっちかっていうと・・・」

 諒子は、しかしそこで言うのを止めた。姉としてではなく、教師として、1生徒を影で批判することは避けたかったからだ。
 しかし姉として、一つだけ確かめておきたかった。

「で、あなたはどう思ってるの?」

「え~、パスパス。一度、剣道部の女の子に誘われて部活見に行ったことあって、その時見たんだけど・・・も、全然ダメ。ヘロヘロなの。そのくせ偉そうに教えてるんだもん。あいつにも、あいつに教わってる人たちにも、一度お姉ちゃんの腕を見せたいわ」

 美紀は鼻の頭に皺を寄せて、顔の前で手を振った。

「別に剣道の腕で、人間の価値が決まるって訳じゃないわよ」

 諒子はそう言ったが、どこか安心した表情は隠さなかった。

 石田姉妹はこの後いつものように夕食をとり、2人で寛いでいたのだが、そろそろ寝ようかという時間になって、電話がかかって来た。

「はい、石田です」

 美紀が出ると、掠れたような女の声が聞こえてきた。

「あ、はい。居ります。すこしお待ちください。・・・お姉ちゃん、電話っ!」

「誰?」

「ええと、清水・・って言ってたと思うよ。ちょっと声が小さくて」

 諒子は電話を代わった。

「はい、石田ですが」

『あ・・清水です・・・夜分遅く申し訳ありません・・・』

 電話の主は、京子だった。

「あら、京子さんですか。こんばんわ。おかげんは如何ですか?そろそろですよね?」

 諒子の声は明るくなった。
 しかし、電話の相手の様子がおかしい事にすぐに気付いた。
 小さくすすり泣く声が聞こえてきたのだ。

「どうしたんですか?」

「先生・・・諒子先生・・・私・・・もう・・耐えられないの」

「どうしたの?話してみて・・・私、力になるから」

 諒子の目が緊張した。しかし、声は暖かく優しい。
 気配を察した美紀が聞き耳を立てている。

「このままじゃ・・・わたし・・・子供を産めないっ・・・助けて・・・助けて欲しいのっ」

「どうしちゃったの・・・。待ってて。今から行くわ。すぐ行くから、そこで待ってて。今ご自宅?住所を教えてくれる?」

「だめっ!きちゃダメ!見張られてるわ、きっと・・・」

「なに?どうゆうこと?見張られてるって・・・、いったい誰に、どうしてっ?!」

 諒子は混乱して、京子を問い詰めた。

「手紙を・・・書きました。全部・・・私が体験したことを・・・。それを明日投函します。それを読んで、それで・・・それで・・・逃げてください。お願い・・・わ、私には・・もうこれしか出来ないっ」

「逃げるって・・・何?何で?京子さんっ!」

「ごめんなさい。しゅ、主人がお風呂から出てきたので、もう切ります。手紙・・・読んでください。絶対に」

 そして電話は切れた。
 諒子は混乱の極みだった。

「なに?どうしたの、お姉ちゃん?清水ってお姉ちゃんの前任の人だよね?なんか有ったの?」

 美紀は興味津々で訊いてきた。
 しかし諒子は、頭を振って応えるしかなかった。

 翌朝、諒子はいつもの時間に出勤したが京子の電話が気に掛かり仕事が手に付かなかった。
 とりあえず職員名簿を探し出し、清水教諭の住所と電話番号を控えた。
 昨日京子はああ言ったが、諒子は今日訪ねてみるつもりだった。

 (絶対におかしい。何かあったんだ・・・)

 物思いに沈みながら廊下を歩いていると、反対から難しい顔で歩いてくる清水教諭に出くわした。

 (そうだ・・・ご主人のことを忘れてた・・・)

 諒子は立ち止まって清水に話し掛けた。

「おはようございます、清水先生。あの・・・ちょっとお話が有るんですけど」

「あぁ、石田先生・・・。判りました、じゃ、ちょっとこちらへ」

 清水はそう言って、踵を返すと生徒指導室の方へ歩いていった。
 諒子はちょっと立ち話をするつもりだったのでめんくらったが、仕方なくついて行った。

「あのぉ・・・実は昨日の事なんですけど・・・」

 二人して個室に入り向かい合って席に就くと、諒子は切り出した。

「えぇ・・聞いています。困ったことをしてくれましたね。ま、誰しも間違いはするものですけど、よりによって・・・」

「はいっ?あ、あの・・私が・・?すみません、何の話を・・・」

「何って・・。昨日のカンニング事件のことですよっ!確かに間違い易い状況だったようですけど、仮にも生徒に冤罪を被せたんですから、もう少し当事者意識を持って貰わないと困りますっ!」

 清水教諭は普段の気弱な態度を精一杯返上して、諒子に食って掛かった。

「冤罪・・って、どういう事です。黒岩くんは確かにカンニングをしていました。私が直接その年表を取り上げたんですから、間違い有りませんっ」

 諒子はビシッと言い切った。
 諒子の迫力に押され、清水は目を瞬いたが、それでも言い返してきた。

「だからその年表がですね・・今回の試験範囲のものじゃなかったんですよ。あれは前回の試験範囲の年表でして、おそらく黒岩くんが勉強し易いように加工して持っていたんじゃないかって、星野先生が言っていたそうですよっ」

「な・・・なんですって?そんなバカなこと有りません。彼は下敷きを写して答案に書き込んでいました。私は現場を見ているんですっ」

「『バカなこと』はどっちですかっ。とにかく歴史担当の星野先生がそう言っているんですから間違いないでしょう」
「星野先生から直接聞かれたんですか?」
「え、いや・・学年主任の江田先生から聞きました」

 諒子の脳裏に昨日の主任の顔がフラッシュバックする。

 (まさか・・・いくらなんでも・・・証拠の改竄を・・?)

「そうですか・・・。判りました。直接、主任に伺ってみます」

 諒子は仕方なくそう言って頭を下げた。

「とにかく、これは重大な問題ですからね。私もクラス担任として黒岩くんに謝りに行きます。石田先生もそのつもりで居てくださいね」

 清水はそう言って席を立った。
 諒子はそれを見て、そもそのここに来た用件をようやく思い出した。

「あっ、ちょっと・・・あの」

 慌てて清水を呼び止めた。

「まだ何か有りますか?」

「あ・・あの、京子さん・・奥様の・・お加減は・・」

「え・・?あぁ・・石田先生は引継ぎで妻に会っているんでしたっけ」

 清水はちょっと意外そうな表情で言った。

「妻は順調ですよ。ちょっと早いんですけど、今日から入院ってことになりまして」

「え?入院ですか。もう破水したんですか?」

「いや、まだですけど。ま大事を取って・・・ということです」

「どちらの病院ですか?」

 諒子のその問いに、清水はちょっと言い辛そうに視線を避けた。

「うちの近くにある・・・『黒岩総合病院』ってとこの産婦人科です・・」

 清水はそう言うと、逃げるようにその場を去っていった。
 諒子は、しかし脱力したようにその場を動かなかった。

 (昨日の今日で・・・素早いわ。あのガキ、思ったより抜け目無い。この分じゃ、主任はもとより、星野先生も黒岩に取り込まれていそうね・・)

 諒子は珍しく頬杖をついて、溜息を吐いた。
 しかし、結局その日、諒子は黒田宅へ謝りに行くことは無かった。
 肝心の健志と連絡が取れなかったのだ。
 イライラしながらも職員室に居残りを命じられ、自宅に帰った時には8時をまわっていた。

「お帰り、お姉ちゃん。来てるわよ、手紙」

 帰った途端、妹の美紀が手紙を差し出した。
 封書で、意外に厚い。
 すぐにも開けて読みたかったが、横で美紀が興味津々に待ち構えている。

「あなた、食事は?」
「もう食べた」
「じゃ、お風呂は・・・」
「もう入ったっ」

 諒子は溜息を吐いた。

「美紀、これは私宛の手紙なの。清水先生が私に相談が有って書いたものよ。いくら妹でも・・・まして仕事上の話だったりしたら、うちの生徒である貴女には見せられないわ」

「え~・・・だってあの人、もう先生を辞めてるじゃない。仕事の話じゃないわよ」

「辞めてません。産休です。来年の夏には復職されるの」

「でも~・・」

「いい加減にしなさいっ!」

 最後は姉の権限で諒子は強引に美紀を黙らせた。
 そして食事を後回しにして、自室に篭るとその手紙を開封した。

 昨日の電話が気に掛かり、諒子は最初心配げな様子でその手紙を読み始めたのだが、やがてその内容のあまりの酷さに、身体全体に熱い怒りが込み上げてきた。

 それは、実際手紙というより日記か告白文のようだった。
 昨年の10月に健志の罠に嵌りレイプされてから、黒岩の名前に絡む権力を最大限に悪用して京子を追い詰め弄ぶそのやり方が細大漏らさず記されていた。
 同じ女性の立場として、諒子は京子の怒りと絶望の深さを痛いほど実感した。
 気持ちが高ぶり手が震え、手紙が読めないほどだった。
 諒子は今まで生きてきた中で、これほど自分の感情を抑えられなかったことは無かった。
 そして、更に諒子に衝撃を与えたのは、この学校の体質であった。
 ワンマン経営というのはさして珍しいことではないが、この栄国学園の経営はまさに黒岩の独裁であり、とても民主主義の現代に存在するとは考えられないほど腐敗しきっていた。

 まさか自分を選んだのが健志であったとは、諒子は考えもしなかった。
 そして手紙の最後の1枚にさしかかった。
 この手紙だけ今までの手紙よりインクが新しかった。

――― 諒子さん、私の手紙を読んで頂けたでしょうか。この手紙は、貴方に始めてあったあの夏休みに書いたものです。貴方に会い、話し、貴方のエネルギーを少し分けてもらえた所為でしょうか、もうとっくに諦めてしまっていた希望が湧いてきたのです。一晩かけて書き上げました。でも、やはりどうしても出すことが出来なかったのです。それは、やはり自分の恥になることですし、それにこれがきっかけで夫に知れてしまうかもしれません。でも、一番大きかったのは、やはりあの男を恐れたからでした。この1年で私が体験したことが、私の手を縛るのです。
でも、どうしても出さなくてはならなくなりました。
今日の昼、あの男がやってきたのです。
酷く怒って、私に当たりました。私はお腹の子を守るのが精一杯で、あの男に従うしかありませんでした。
また、いつものように弄ばれました。
でも、今日はそれだけでは有りませんでした。
あの男は、ついに貴女に狙いを定めたのです。
あの男は言いました。

『諒子を誘き出すんだ。簡単な事だろ。ガキが生まれたら諒子に電話するんだ。見に来てくれってさ。あいつはまだこっちに来たばかりだから絶対独りで来る。ま、妹連れかもしれないがそれは構わない。お前はただ、あいつにこの粉を混ぜて紅茶でもコーヒーでも飲ませりゃ良いんだ。それでオシマイ。後はこっちでするから、お前はガキの面倒を見てりゃ良いさ』

あの男は、私の時と同じように薬を使って貴方を罠にはめようとしています。私と、私の子供をダシにして。
だからお願いです。すぐにこの町から出て行ってください。あいつ等の力が及ばない所へ逃げてください。
私は、もう逃げられません。明日には強制的に入院させられます。見張りも付くそうです。それに子供も居ます。あの男には逆らえないのです。電話を強要されれば掛けざるをえないのです。
どうか、直ぐに逃げてください。もし逃げられなかった時でも、絶対に私の電話を断ってください。お願いします。
私は貴女を本当に大事な友人だと思っています。
どうか、私の願いを聞き届けてください。お願いします。

 手紙を読み終えた諒子の目に涙が浮かんでいた。幼い頃から剣道に精進し、身体と心を鍛え上げられていた諒子である。軟弱を嫌い涙を嫌悪してきた諒子が、始めて他人の為に涙を流した。

 (京子さん・・・。私を大事な友人と言ってくれた貴女を、私も大切に思います。貴女の悲しみを私の物とし、貴女の絶望を私が打ち砕きます。私たちに『義』がある限り、必ず勝利します。諦めないで・・・)

 手紙を胸に抱き、諒子は目を瞑り大きく深呼吸した。そして再び目を開いた時には既に諒子の目に涙は無かった。その代わり、瞳の奥に静謐な、それでいて限りない力を秘めた精神がオーラを放っていた。
 黒い権力に犠牲になった魂の放った小さな勇気が、戦いの女神に火をつけた瞬間だった。

 しかし、運命の歯車はここにも小さな渦を生み出していたのだった。
 そしてそれは諒子の最も身近に開いた落とし穴だった・・・

< つづく >

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