(9)鎧袖一触
朝の定例の捜査会議が終わり、相棒の先輩刑事と早速外回りに出ようとしていた怜は、背後から声を掛けられて出ばなをくじかれた。
「なんでしょうか?」
ウンザリした表情を隠さずに怜は振り向いた。
「ちょっと、こっちへ」
声を掛けたのは課長の神田孝一郎だった。
孝一郎が顎をしゃくった先は課の隅に設けられた簡単な打合せコーナーだ。パーティションで一応区切られている。
それを見ていた先輩の刑事は小さく舌打をすると「おい、じゃあ俺は先に行っているから。現場で会おう」と言い残して行ってしまった。
怜は軽く頭を下げ目で謝ってから、憮然とした表情で打合せコーナーに向った。
「なんでしょうか。急いでるんですけど」
怜は席に着くなり孝一郎に冷たく言った。
フロアにはまだ何人か残っていたが、怜の1課のメンバーは既に全員出払ってしまっていた。
しかし孝一郎はそんな怜の態度など歯牙にもかけず悠然とした態度でポケットから1枚の紙を取り出した。名刺サイズのその紙には4辺に奇妙なフラクタルのような模様が茶色で刻まれているが、それ以外は全くの白紙であった。
孝一郎はそれを無言で怜に突きつけた。
訝しげにその紙を覗き込む怜だったが、次の瞬間、その表情が抜け落ちた。
孝一郎は人形のように虚ろに紙に視線を送る怜に語り掛けた。
「その紙に書かれている所に行きなさい。重要な任務だ、解決するまでココに戻ってくる必要は無い。単独行動だ」
孝一郎は教えられたセリフを口にした。
紙が白紙なのは孝一郎自身よく知っている。
何度も確認した。
しかし怜の態度は違っていた。
いつの間にか表情に生気が蘇っている。
そしていつもの強い光を宿した瞳で孝一郎を見据えると言った。
「判りました。直ちに急行します。任務完了まで単独で行動します」
そして言い終えるやいなや席を立ち、壁に掛けてあるヘルメットを片手で外すと風のように出て行ってしまった。
孝一郎はその後姿を見詰めながら、跡をつけたい誘惑と戦っていた。
確かに存在するのだが自分の前には決して姿を現さないマインド・サーカスの実態が怜の行き先にあるのだ。
しかし、孝一郎は腰を上げることは無かった。
単なる好奇心で動くには危険すぎる相手であることを知っていたからだ。
孝一郎は気持ちを落ち着けるようにタバコを1本灰にしてからゆっくりと立ち上がった。
そして自ら無線機の前に立つと、先ほど出て行った怜の相棒に連絡を入れた。
部下の受けが良くないのは孝一郎自身よく知っている。余計なことは言わず、怜が別件で今週いっぱいは別行動となったことを淡々と連絡し、ガナリ立てる無線の相手を無視してスイッチを切った。
*
諒子に連絡が入ったのは、昼休みのことだった。
食事を終え職員室で寛いでいると、不意にポケットの携帯が震えだしたのだ。
「はい、もしもし」
「もしもし、松田です」
諒子の耳に怜の落ち着いた声が響いた。
「あら、どうも。ご苦労様です」
諒子はそう言いながら職員室を見渡した。何人かは席に着いていたが、傍に座っている国語科の教師達は皆席を空けていた。特に話すのに支障は無さそうだ。
「どうしたの?進展でもあったのかしら」
「あぁ。例の調査チームは稼動し始めたところ。ただ、京子さんの保護プランを練るのに少し詳しい経緯を聞く必要が出てきた。無論今の時点で当人には接触できない。だから・・・」
「私ならいつでも構いません」
怜の言葉を遮るように諒子が言った。
頭の回転と決断の速さがずば抜けているようだ。
「貴方の所に行けば良いのですか」
“警察”という単語は使いたくなかった諒子は、すこしぼやかした表現を使った。
「いや、ウチじゃない。場所も相手も」
「相手も?」
内通を警戒するため場所を署の外に設定するのは理解できるが、相手も警官ではないという言葉に少し諒子は戸惑った。
「こういう事件を専門にしている弁護士がいる。ウチとあいつ等はあんまり仲が良くないんだけど、今回はターゲットがでかいんで特別に協働してるって訳さ。で、彼女の経緯を具体的に聞かせてやって欲しいんだ」
「そういうことですか。判りました。私でできる事でしたら協力いたします」
「ありがとう。助かるよ。今日の夕方時間取れるかな?」
「4時過ぎなら」
「判った。じゃあ5時に○○駅まで来てくれ。改札を出て左側にコンビニがあるからその辺で」
「相手の方のお名前は?」
「松田怜」
「あら、困ったわ。私、今日スカートだからバイクの後ろには乗れないわよ?」
「女に抱きつかれる趣味はないよ。徒歩10分の場所だ」
諒子は小さく微笑んで、怜の粗野な口調に耳を傾けていた。
現実の事件は陰惨なのだが、怜と暫らく行動を共にすることが諒子の気分を浮き立たせていた。
「判りました。遅れないように行きます」
諒子は静かに受話器のスイッチを切った。
*
すらっと背の高い諒子は遠目にも目立っている。スタイルが良いのは勿論、その姿勢がピシッとしていて如何にも武道で鍛えた諒子らしかった。
駅前の待ち合わせ場所は人通りも多く諒子に視線を注ぐ男達も大勢居るのだが、何故か諒子に声を掛ける者は居ない。それどころか半径3m以内にはぽっかりと空間が出来ている。
諒子の持つ清冽な雰囲気がナンパな男達を遠ざけているうえ、本人は意識していないのだが高いテンションが視線に漲っていて自然と他人に間合いを取らせてしまっているのだった。
(やれやれ・・・相変わらずのお嬢さんだね)
そんな姿を怜は小さく苦笑しながら、ゆっくりと近づいて行った。
「お待たせ」
怜は相変わらず皮の上下にブーツ姿だ。
周りの待ち合わせの男女が一斉に怜に視線を向ける。
たとえ近寄りがたい雰囲気を纏っていようとも、諒子のような美女と待ち合わせをする人物に皆興味津々だったのだ。
そしてそこに現れた怜を見て、人々は息を呑んだ。全くタイプは異なっているのだが、それでいて諒子と同じように人を引きつけ同時に人を退かせる迫力を持った美女が現れたのだ。
怜は周りの人々が無意識に空けていた諒子の間合いにあっさりと入り込むと、諒子の視線を受け止めた。
「7分の遅刻ですね」
諒子にしては珍しく、怜に小さく微笑んで言った。
「ん?ま、昔っから武蔵は遅れてくるって相場が決まってるんだよ」
怜はウィンクをした。
「あら?最後に勝つほうが武蔵じゃなかったの?」
諒子はすぐに背を向けて歩き出す怜の横に並びチラッと横目で怜を睨んで言った。
「あぁ。そうね。間違ってないよ、その認識」
「ふぅ~ん・・・」
諒子は意味深に呟く。
「こっちは現役だからね」
怜が前を見詰めたままむっとした口調で口を開いた。
「私がサボっているとでも?」
諒子も同じく前に視線を向けてそれに返す。
駅前の人々はあっという間に風のように去っていく2人を唖然と見送っていた。
徒歩10分の距離を6分で歩き切って、2人は目的の場所についた。その間2度ほど不意に立ち止まり視線で火花を散らしたりしていた事を考えると、驚異的な早足だ。しかも2人とも息一つ切らしていない。
「ここですか?」
「そう、ここの7階」
そう言って視線を上に向けた怜の気配に、僅かな揺らぎが生じた事に諒子は気がついた。
不思議そうに怜の表情に視線を走らせる。しかし一瞬後にはその揺らぎは霧散していた。
「さ、行こうか」
怜は先に立ってその雑居ビルのエントランスに入っていった。
諒子も無論その後に続いた。
「『株式会社DMC』。探偵社ですか?」
7階でエレベータを降り正面の会社の表札を見て諒子が訊いた。
「そう。ここの専属の弁護士がさっき話した相手だ」
怜は慣れた様子で受付けに顔を出すと、ポケットから手帳を出した。
「県警の松田です。倉田弁護士とお会いする約束なんですが」
「あ、はい。承っております。すぐに呼んで参りますので、こちらでお待ち願えますか」
受付けの女性はそう言うと、二人を打合せ用の一室に案内した。
薄いパーティションで区切られたものではなく、しっかりと壁で仕切られた個室である。
2人はゆったりとしたソファに腰を下ろした。
硬すぎず柔らかすぎず、適度なすわり心地のソファにシックなテーブル。観葉植物が置かれ、壁には風景画もさり気なく飾られている。
諒子は腰を下ろしたままそれらをゆっくりと眺めていった。
特に珍しいものなど何もないのだが、不思議と寛げる雰囲気を醸し出している部屋だった。
(良い部屋ね。じっくりと話しを出来そうだわ)
諒子はこの部屋の雰囲気を気に入ったようだったが、反対に怜は落ち着かない様子だった。
視線がドアをチラチラと窺っているのだ。そして手帳を不意に出したと思えば、特に開くでもなく手で弄んでは再び仕舞う。そして極めつけは小さな溜息・・・
諒子は勿論そんな怜の気配にすぐに気付いていた。
『一体どうしたというのか』という訝しげな視線を送っていたが、しかし次の瞬間ある事に気付き唖然とした。
(怜が・・・怜が、緊張しているっ?!)
今まで何度となく決勝戦の大舞台で対戦してきたのだが、思い出してみても今の怜のような表情は見たことがなかった。
(いったいどうしちゃったの?私と戦うより緊張する相手って、一体どんな奴なのよっ)
諒子は妙な所でプライドを傷つけられたような気分になっていた。
しかし怜はそんな諒子の事など眼中に無いように、そわそわして待っていた。
不意にドアが開いたのは、諒子が焦れて怜に問い掛けようとした時だった。
弾かれたように立ち上がる怜、そして怒ったような視線を投げかける諒子・・・
扉を開けた人物は、いきなり2人のそんな視線に出くわし、ビックリした表情で固まってしまった。
「あ・・・」
五十年配の生え際の少し後退した小柄な男だ。
柔和な顔つきが、今は少し引きつっている。
「あ・・ど、どうも。お久しぶりですね、倉田さん」
先に声を出したのは怜だった。しかし、いつもの落ち着いたトーンではない。
「いやいや、どうも。松田さん・・・でしたよね?」
先にペースを取り戻したのは倉田の方だった。
ニコッと笑い掛けて片手を差し出した。
「はい。今日はよろしくお願いします」
倉田の手を軽く握り怜は言葉を返したが、何か心ここにあらずといった様子だった。
「こちらが・・・?」
倉田が諒子に視線を向けて怜に尋ねた。
しかし、丁度その時倉田の背後からもう一人男が現れた。
若い男だ。まだ学生といってもおかしくない年齢に見えた。サラサラの髪に色白の顔、切れ長の瞳と痩せ型の体型・・・
諒子は一瞬でそれだけ観察したが、しかし次の瞬間信じられないモノを目撃して、そんな冷静な観察など吹っ飛んでしまった。
今まで緊張しまくっていたように見えた怜が、その男を見た途端、まるで花が開くような笑顔になったのだ。
別に破顔した訳ではない、表情だけを観察したのであればちょっと頬が緩み前歯が覗いた程度である。しかし、諒子にはまるで部屋の照度が上がったかのような圧倒的な変化として感じられた。
「こんにちは、常木(つねき)さん。ご無沙汰しています」
怜は若い男をしっかりと見詰めながら、自分から右手を差し出した。微かに頬が上気している。
「どうも、こんにちは松田さん。半年ぶりくらいですか?」
常木と呼ばれた若い男は、嬉しそうに怜に手を握った。
開けっぴろげに笑顔を向けるその表情は、まるで少年のようだった。
「いいえ、9月からでしたので、3ヶ月ぶりです」
「え~、まだそれしか経っていませんでしたかぁ。ずっと、またお会いしたいと思っていたんですよ」
「あら、いつでも呼んで下さい。警察は市民の要請にはできるだけお応えしますわ」
二人とも手を握り合ったまま、会話を続けている。
「ちょ、ちょっと、常木くん。もうそろそろ良いかい?」
途中で倉田が声を挟まなければ、そのまま二人だけの世界に移行してしまいそうな雰囲気だった。
その声でハッと我に返ったのは怜だった。
慌てて手を引っ込める。
「す、済みませんでした。常木さんには以前捜査に大変協力して頂いてましたので・・・」
「知ってますよ。私も協力したんですが、ご存知でした?」
倉田がニッと笑って怜に言葉を返した。無論皮肉だ。
「あっ、そ、それは勿論・・・」
怜の顔が真っ赤になった。
「ははは、いや冗談ですよ。それより、そろそろ、こちらの方を紹介していただけませんか?」
倉田はそういって、諒子に視線を投げた。
その言葉に怜は、ようやく諒子の事を思い出したようだ。
慌てて振り向くと、ムスッとした諒子の表情に出会った。
諒子は自分でも不思議なくらい不機嫌になっていた。眉間にでかでかと『不機嫌!』と書いてあるような表情で怜を睨み倒した。
さすがの怜もちょっとヤバイと感じたようだ。
「あ・・紹介が遅れました。申し訳ありません。こちらがお話しした石田諒子さんです。あの、栄国学園高校で国語の教師をされています」
「始めまして、石田諒子です」
諒子はそう言って、折り目正しくおじぎをした。
「こちらが、弁護士の倉田先生。こちらも同じく弁護士の常木さんです」
「どうも倉田一(はじめ)です。今日はわざわざご足労頂き有難うございます」
「始めまして、常木祐介です。倉田先生のアシスタントみたいなものです」
二人の弁護士が夫々簡単に自己紹介して、ようやく本日の打合せの目的が開始されようとした。
4人は机を挟んで2人ずつ向き合い、腰を下ろした。
「本日はお時間を割いて頂いて・・・」
怜が口を開いた時だった。
トン、トン・・・
ちょうどそのタイミングで入り口のドアがノックされたのだ。
4人の視線が集まる。
ドアに一番近い倉田が身軽に立ち上がるとドアを開けた。
ドアの向うに立っていたのは、先ほど受付けにいた女性である。
視線を向ける怜たちに軽く頭を下げえると、倉田に耳打ちした。
「え?斎藤さん?電話ですか?」
倉田が不思議そうに訊く。
「いいえ。今受付けにいらっしゃってます。今日、先生とお打合せの予定だったとか」
女性は申し訳なさそうな顔で言った。
「あれ?たしか打合せは明日の予定だと聞いていましたが」
「あの・・・それ、誰から聞きました?」
「誰って・・・新田さん・・・あれ?」
倉田は何かに思い当たったような表情になった。
その顔を見て、受付けの女性は小さく溜息を吐いた。
「やっぱり・・・」
倉田もつられたように溜息を吐き、それから怜の方に向き直った。
「あ~・・・ちょっと申し訳ありませんが」
「なんでしょう?」
怜は怪訝な顔で訊いた。
「実はちょっと手違いが有りまして・・・大変申し訳ありませんが15分ほどお待ち願えないでしょうか」
「あら?どうされたんですか」
その問いに倉田は頭を掻きながら、秘書のミスで打合せが重なってしまったことを告げた。
横で聞いていた諒子は、さっきまでの怜の態度と相まってイライラし始めていた。
(何よ、いい加減な会社ねっ)
しかし、相談に来たのは自分の方なのだ。不機嫌な態度など取れるわけも無い。諒子にはそれがまたフラストレーションを溜め込む元になっていた。
そんな諒子の思いをよそに、怜はあっさりと了解した。
倉田の横で常木が小さく手を立てて謝っている。それを見て怜がまた小さく微笑んだ。
(気に入らないっ!)
諒子はプイッと横を向いてしまった。
ここに来てから奇妙に諒子の感情の起伏が激しくなって来ていた。しかし、諒子自身はそれに気が付いてはいなかった。
結局もう一つの打合せが優先となり倉田は部屋を出て行ったが、常木もそれに続いて出て行ってしまった。
怜はちょっと意外そうな顔をしていたが、アシスタントであれば当然だ。
途端に怜は気が抜けたような表情になってソファの背に身体を預けた。
諒子は二人きりになったこのチャンスに、怜に何か言ってやろうを思った。
妙に不愉快な感情が胸に渦巻いている。
横目で怜の様子をチラッと観察して、言葉を捜していると、不意に再び扉が開いた。
そこには紅茶を載せたトレイをもった常木が立っていた。
途端に怜の顔が輝く。
さっと立ち上がると、扉を手で抑え常木を中に入れた。
「どうされたんですか?お打合せは」
「ん?打合せは倉田さんだよ。僕はこれを取りに行っていたの」
そう言って常木はティーカップをテーブルに並べた。
「どうも申し訳ありませんでした、石田さん」
常木はそう言って諒子に紅茶を勧めた。
「いいえ。私達の件でご相談させて頂きに来ていますのですから、お仕事優先になさってください」
諒子は儀礼的にそう答えたのだが、しかし本当に申し訳なさそうな顔をしているこの常木という男に少し興味が出てきていた。
年齢はどう見ても20から22,3といったところだ。無論、諒子や怜より年下だ。
(いったいどういった関係なんだろ?怜って年下好みなのぉ?全っ然、似合わないっ)
諒子は心の中でそう言い切っていた。
どうせ、15分は待ちぼうけなのだ。さり気なく諒子は常木に探りを入れ始めた。
仕事のことに話題をふる。常木も諒子の相談の件は倉田が戻ってからと考えているのか、諒子に問われるまま、扱った事件の話しを面白可笑しく話してくれた。
「あら・・・そんなに多いんですか?なんていうか・・・そっち方面の人って」
流石は話術のプロというか、常木の話しは諒子を飽きさせない。それに持ち前の軽妙さがあり、硬い諒子があっさりと打ち解けた言葉遣いになっていた。
「多いなんてモンじゃないですよ。ここ探偵社じゃないですか、“妻が浮気をしている”とか、“夫が私を監視している”とか、そんな相談ばっかりなんですけどね、そのうち4割くらいは、所謂“電波系”の人なんですよ」
常木は紅茶で喉を湿らすと続けた。
「そういう人って見かけは全然普通なんですよ。も、まったく普通。それがイザ調査に行ってみると、そもそも肝心の夫や妻が居ない、つまり独身だったりするんです。あと、いきなり豹変されて、私のことを間男と勝手に思い込んで包丁を振り回したり・・・」
「あら、意外と将来役立つんじゃない?その経験」
黙って聞いていた怜が急に割り込んで口を開いた。
「えっ?や、やだなぁ。僕はそんなこと無いですよ、松田さん」
常木は焦ったように怜に笑顔を向けた。
常木の話しに引き込まれてスッカリ機嫌が直った諒子と対照的に、今度は怜が冷たい視線を常木に当てていた。
そう言えば、さっきから常木は諒子にばかり話し掛けていた。
この時、諒子の中になんとも言えない優越感が湧き上がった。
常に怜をライバル視してきた諒子には、怜の友人(?)の関心を自分に向けさせたのは心地よかった。
そして無論、その逆の目にあっている怜は機嫌が良い筈は無かった。
「前に聞いたわ、その話は。だいたい今は例の心理テストで殆ど選別出来ちゃうんでしょ」
怜は“その話はもう飽き飽き”といったポーズで、常木の話しを遮った。
しかし諒子はそれを許すほど、優しくは無かった。
「あら?心理テストって?どういう事をするんですか。良かったら教えて頂けます?」
話しの接ぎ穂に迷っていた常木は、諒子の質問にホッとして口を開いた。
「あぁ、心理テストですか。これ、ちょっと面白いんですよ。そうだ、実際にやって見ますか?」
そう言って常木は立ち上がった。そして打合せ室のコーナーに置いてあるテレビを点け、テレビ台の下からストップ・ウォッチとノートを取り出した。
「色々種類があるんですけどね、これは妄想系の人の判別用に使っているやつです。ま、動くロールシャハテストみたいなモンですよ」
常木はそう言ってリモコンでビデオを操作した。
テレビ画面にはランダムに渦巻くような模様が浮かんでいる。
「この画面にですね、もうすぐ文字や数字が浮かんできます。ほら、この渦巻きの雲みたいのが動いてるでしょ、これが段々集まって、ほら、形になってきたでしょ」
諒子は常木の説明を聞きながら画面に注目した。すると常木の言葉どおりやがて雲の断片が集まりだし文字に収斂していった。
「ほら、もう判りますよね、アルファベットの“d”の文字が浮かび上がりました」
画面を見入っていた諒子の目にも、もうその文字はハッキリと確認できた。
「そうですね。“d”ですね。でもこれをどう使うんですか?」
「これはもう単純、この文字を判別できる時間で判っちゃいます。もう、妄想系の人ってこういった画面を見ちゃうと答えを探すどころじゃ無くなっちゃうみたいで、自分の世界に入り込んでしまうんですよ。で、普通ならとっくに判別できる状態になっても全然答えられないんです」
(なるほど、そういうものなのか)
諒子は感心して画面を眺めていた。
するといつの間にか先ほど浮かび上がった文字が崩れ去っており、元の混沌とした渦巻きの模様に戻っている。そして僅かにその動きの中に新たな統一への意思を諒子は感じ取った。
(あら、また動いてる。今度は何だろ・・・。何となく判りそうね。ええと、これは・・・)
諒子が熱心に画面に見入っていると怜の声が不意に聞こえた。
「“o”(オー)でしょ」
諒子はビックリして怜を振り返った。
一方常木は手をパチンと打ち鳴らして、笑顔を向けた。
「うわぁ、流石ですね、松田さん。相変わらず抜群の集中力ですね」
常木は目を細めて怜を褒め称えた。
「このテスト、元々は集中力や反射を計るものなんですよ。偶々さっき言った妄想系の人の判別用に使えることがわかったので利用しているんですけどね。でも松田さんって凄いんですよ。さすが刑事さんというか、もうとにかくダントツなんですよ、このテスト。他の人と一桁違うっていうか、とにかくもう、信じられない集中力をしてるんですよ」
常木は怜の成績を我が事のように嬉しそうに諒子に言った。
怜もそんな常木の表情にようやく笑みを取り戻した。
「いえ、べつにそんな大した事じゃないですよ。一応警察官として最低限のトレーニングはしてますから、まあ普通です」
怜はそう控えめに答えながらも、ほんの一瞬諒子の目を覗き込んだ。
それは紛れも無く、試合開始前に諒子を見据えていた怜の目だった。
一時、自分の方に注目していた常木が今は再び怜の賛辞にまわっている。
この状況、諒子が燃えないわけは無かった。
口元に自然と笑みが浮かぶ。
(受けて立つわよ、この勝負)
諒子の持ち前の負けん気が表情に現れた。改めて怜を見返すと、既に怜の視線は自分に無かった。諒子もつられるように振り向きテレビに視線を当てた。
既に次の動きが始まっていた。
暗い背景に滲むようにグレイや茶色の雲が移動している。じっと見つめているとまるでその空間に引き込まれるような感覚に陥ってしまいそうだ。
しかし視線を逸らすことは出来ない。
逸らせば楽になるのだが、それでは怜に勝てない。
じっと視線を凝らす。
すると暗い背景から緩やかに文字が浮かび上がってきた。
縦に2本棒があるように見えるが・・・
(何だろう・・・こんな文字あったかしら)
しかし、諒子の疑問をよそに再び怜が口を開いた。
「あぁ・・今度は“11”ね」
なんの事はない。見たまんまだった。
確かに先ほど常木は文字や数字と言っていた。
諒子は内心舌打ちしていたが、しかし同時に手応えも感じていた。
(今のはうっかりしていたけど、でも形を認識したのは私の方が早かったはず)
チラッと怜を見るとまだ常木の方を向いている。
諒子は独りテレビ画面に集中した。
相変わらず不気味な画面だ。暗い色彩が蠢いている。しかし既に諒子はそんな事は気にならないほど集中力を高めていた。
いつの間にか画面は2次元ではなく奥行きを持った3次元になっていた。諒子は自分がその世界に入り込んだように蠢く雲を立体的に捉えていた。
全体を見つつ断片を見る。形を見ながら動きを見る。
やがて諒子の目に蠢く雲達の意図が明らかにされていった。
諒子は徐々にこのテストのコツが飲み込めてきたのだ。
(目で見るんじゃない。身体全体の感覚で感じるんだっ!)
諒子は一瞬の閃きでその感覚を捉えると同時に口を開いた。
「“m”ですよね、これ」
まるで深海から浮上してきたように大きく息を吐くと、諒子はそう言って振り向いた。
すぐに常木のポカンとした表情が視線を捉えた。そしてその横の怜の挑戦的な視線も・・・
「ちょっ・・・ちょっと、石田さん。え?ホントですか?当てずっぽうじゃないでしょうね?」
常木が目を大きく瞬きさせて言った。
「ん~・・・何となくそうかなって思って」
「す・・・凄いじゃないですかっ。驚いた、松田さんより早い人って始めて見た」
その言葉でカチンと来たのは無論怜である。
瞳がスッと細くなり、獲物を狙う豹のような視線が諒子に注がれる。
諒子はわざと楽しげな表情を作ると怜を見返し、そして再び画面に集中し始めた。
すぐに先ほどの感覚が蘇る。
そしてその感覚はどんどん研ぎ澄まされえて行く。
諒子は既に妖しい雲に取り囲まれた存在になっていた。
そして身体全体で雲の動きを捉えていた。
なだらかな動きが収斂し始めるその一瞬に全神経を集中させる。
しかし・・・
“見えたっ!”と身体が判断した瞬間から、現実の自分に戻る時間が諒子の予想を越えていた。
ゆっくりと浮上するような感覚に諒子はもどかしさと焦りを感じた。
そして案の定、諒子が口を開く寸前に怜の言葉が耳に届いたのだ。
「“a”」
無論、答えが間違っている筈は無い。諒子にもそれが見えていたのだ。
再び常木の賞賛は怜に向けられ、諒子は唇を噛んだ。
その後2人は交互に正解を口にしていった。
諒子が“k”を答え、怜が“e”を答えた。
まさに一歩も引かない両者だった。
そんな2人の様子は無論常木にも伝わっている。
「うわぁ・・・2人とも凄いですね。でも、いよいよこれが最後の問題ですからね。今までよりちょっと難しいと思うけど・・・さ、始まりますよ」
常木はそう言うとビデオに注意を促した。
しかし、そんな言葉を聞く以前に2人とも画面から視線を外していなかった。
いや、それどころか諒子は既に常木の言葉など聞いていなかった。
頭にあるのは次の1問が最後のチャンスだということだけ。自分が正解を始めた“m”からが勝負だとすると、ここまではイーブン。最後の1問で勝負が分かれるのだ。
画面の中の雲の動きは先ほどよりゆっくりしている。しかも動きが途中で変わったりしていて中々最終像が浮かばない。
諒子は更に一段集中を高めた。ゆっくりとした腹式呼吸だけが諒子がそこに居る証だった。それ以外の全てを諒子はビデオの中の妖しい雲に注ぎ込んだ。瞬きすらしない。只管見詰め、只管答えを探った。
・・・どれほど時間が経ったのだろうか。
諒子には時間の感覚は無かった。
真っ暗な世界に浸りきり体中の感覚で雲の行方を見極めようしていた諒子に遂に正解の文字が浮かび上がってきた。
(これよ・・・間違いない・・・私は・・・正解に到達した・・・)
諒子の脳裏に閃いた文字、それは“r”。
そして、その瞬間諒子は自分の勝ちを確信した。
(あははは・・・。貴女の負けよ、怜・・・貴女、間違えているじゃない。正解は、『d』、『o』、『l』、『l』、『m』、『a』、『k』、『e』、『r』・・・『doll maker』よ。貴女は『ll(エルエル)』を『11』って言ったわ。残念ね。この勝負も、私の勝ちね!)
諒子は怜の悔しそうな顔を想像してニンマリと微笑んだ・・・
*
常木は諒子の耳もとから顔を上げ、小さく息を吐いた。
そしてスッと立ち上がった。
そして傍らに立つ怜を振り向いた。
怜は、ソファの背に身体を預けている諒子を見下ろしている。全く無防備に、全身を弛緩させている諒子を見るのは怜にとっても始めての事だった。
普段の気力溢れる諒子との落差が、怜にセクシャルな感動を与えていた。
軽く目を閉じ、幸せそうに微笑んでいる諒子は等身大のお人形のようだった。
「嬉しそう・・・」
諒子の顔を見ながら怜がポツリと口にした。
「いい夢、見てるからね。このお姉さん」
そう口にしたのは常木・・・こと“きつね”くんだった。
怜は諒子の顔を見詰めながら、溜息を吐いた。
戦いの女神のようなオーラを取り去った諒子は、只管可憐であった。
(なんて、可愛いんだろう・・・)
怜の心にポツンと一粒の気泡のように浮かんだこの感情は、しかし瞬く間に怜の心の中で大きさを増していった。
(抱きしめたい・・・力一杯抱きしめて、体中を味わいたいっ!)
怜は自分の強烈な欲望に突然気付き、思わず両手で自分の肩を抱きしめた。
「どうしたの?欲しくなっちゃった?」
ニンマリと片頬で笑いながら“きつね”くんは怜の顔を覗き込んだ。
その問いに怜の瞳の奥で何かが揺れた。
呆然と“きつね”くんを見返して・・・そして、しっかりと頷いたのだった。
「ほ・・・欲しい。欲しいです」
「ふふふ・・・。だろうねぇ、高校時代から狙っていたんだものねぇ。欲しくて、欲しくて・・・堪らなかったんだよね」
“きつね”くんはそう言いながら怜のズボンのジッパーを下げ、右手を股間に差し込んだ。
すると忽ち指先は怜の熱い粘液を感じ取り、そのまま肉襞の奥に引き擦り込まれるような状態だった。
指先を動かすと、ぐちょ、ぐちょ、っとぬかるんだような湿った音がする。
そして同時に怜の口から熱い吐息が洩れた。頬が上気している。
“きつね”くんはそんな怜の表情を楽しげに眺めた後、ゆっくりと顔を近づけ口を吸った。
長めの舌が怜の口腔内を自由に動き回る。怜の舌は従順に絡め取られている。
怜はマタタビを前にした猫のように、“きつね”くんの手管に蕩けきっていた。
ズボッと指が抜かれる。
その拍子に怜は足から力が抜け、半ばまでズボンを下ろした格好のまま“きつね”くんの前に跪いていた。
“きつね”くんは、ホカホカと湯気が出ている指先を、呆けたような表情の怜に突き付け、それを舐め取らせながら言った。
「ダメだよ怜、今はね。急いでるんだ。でもね・・・怜が一生懸命俺の為に尽しているのは知っているから・・・もし上手く予定通り諒子をドールに仕上げられたら、その時はお前に貸してあげるよ」
“きつね”くんはそう言うと、再び諒子の傍らに腰掛けた。
跪いたままの怜はその言葉に目を輝かせた。
「あ・・・ありがとうございます・・・“きつねさま”・・・なんて・・・おやさしい、私のご主人様」
いったいどんなマジックを使ったのか・・・野性の狼のサガをもつ娘を、“きつね”くんは完全に飼い馴らしてしまっていた。
今の怜にとって諒子は捕食の対象であり、“きつね”くんはその餌を運んでくれた大切な最愛の飼い主なのであった。
「怜、さ、出てお行き。“くらうん”さんのところで待っていなさい。僕はこれから諒子とお話ししないといけないんだ。僕が行くまでここに来てはいけないよ」
“きつね”くんはまるで幼い娘に言い聞かせるように優しく命令した。
命令どおり怜が部屋を出て行くと、“きつね”くんは諒子を抱えソファに横たえた。
諒子は全く無防備にソファに仰向けになっている。
“きつね”くんも一旦立ち上がり、その諒子の全身を繁々と眺めまわした。
白い肌、ノーブルな鼻筋、慎ましく閉じられた薄い唇・・・まるでガラス細工の人形のような透明感溢れる美貌に、充分に発達し引締まった肢体。
「sleeping beauty・・ってやつだな」
思わず“きつね”くんの口から感嘆の言葉がこぼれ出た。視線に粘りが出てきそうだ。
しかし、小さく息を吐くとすぐに職業的な飄々とした表情を取り戻し、諒子の顔を覗き込むような格好でローテーブルに腰掛けた。
そして、傍らに置いたメトロノームの針を解き放ち、ゆっくりしたリズムに合わせて、低い落ち着いた声で諒子に語りかけ始めた。
ここはドールメイカー“きつね”の世界・・・戦いのオーラという鎧を外された諒子には、もはや対抗すべき手段は無かった。
< つづく >