ドールメイカー・カンパニー2 (13)

(13)美紀、陥落

 指定された駅前の雑踏に佇む美紀は、もういい加減ウンザリした気分で溜息を吐いていた。
 いつもの事なのだが、美紀は引っ切り無しにナンパされまくっていた。
 ちょっと勝気そうな美少女が制服姿で人待ち顔で1人で立っていれば、無論そうなるだろう。
 酔っ払いのオヤジから、チープなホスト系、つるんだ高校生に、ジャニーズ系を気取った中学生・・・
 話し掛けられたり、取り囲まれたり、いきなり肩を抱かれたり、まるで誘蛾灯に群がる虫のように美紀の周りから男が消えることは無かった。

 (はぁ~・・・。もう、どうして寄って来るのよっ!こんな不機嫌な顔してるんだから、少しは気を利かせなさいよっ)

 美紀の場合、内心でそう呟くだけでなく実際にそう声に出して言っているのだが、周りの男達は何処吹く風だ。

「ど~しちゃったのぉ?カレシ来ないの?俺が面白れぇところに連れて行ってあげるぜ?」
「キミキミ、こんな時間に高校生が何してるんだぃ?どれ、オジサンが送っていってあげようかぁ」
「ネ、ネ、お姉さん、僕たちと・・・」「おいおい、ガキは引っ込んでなっ。こいつは俺と・・」「お嬢さん、立ち話もなんですから・・・」

(も勘弁してぇ~。お姉ちゃん、早く来てよぉ)

 僅か10分で悲鳴を上げたくなっていた美紀は、次の瞬間強引に肩を抱かれて連れて行かれそうになった。

「さ、行くぞ」

 これには美紀も切れた。
 猫のような瞳に怒気を漲らせると、相手の顔も見ずに身体をスッと沈め足を飛ばしたのだ。
 申し分ないタイミングで相手の足を払った美紀は、しかし次の瞬間相手の体重が消え去ったことを肩にかかった手から感じた。
 そして、ほぼ同時のタイミングで軸足の膝を後から軽く蹴られ、あっけないほど簡単にその場でよろめいた。

「きゃあっ」

 訳がわからず咄嗟に肩にかかっていた手に縋り目を丸くして振り仰ぐと、そこには幾分眉を上げている怜の顔があった。

「まったく、姉妹揃ってお転婆なことで」

「怜さん・・・。やだっ御免なさい」

 美紀は顔を赤くした。

「お姉ちゃん、どうしたんです?」

「まだ弁護士の先生と会談中。付いて来て、案内するから」

 怜はそう言うと、さっと振り返り歩き出した。
 すると2人を取り巻くようにしていた男達が、さっと2つに割れ怜の前に道ができる。
 まるで映画のように人垣が割れていくさまを、美紀は感動の眼差しで見詰めた。
 そして慌てて後を追うと、美紀は怜の腕に縋りついた。

「ねえ怜さん。どうして男達が寄って来ないの?なんか秘訣があるのぉ?」

 美紀は割と真剣に怜に尋ねた。
 そんな美紀を怜はチラッと眺めると、短く応えた。

「あるよ」

 美紀はそんな答えが簡単に返って来るとは思っていなかったため、目を丸くした。

「あるの?!教えて、教えてっ!も大変だったんだからぁ、さっきから・・・」

 美紀は勢い込んで怜に話し掛けたのだが、ふと視線を上げ怜の瞳を覗き込んだ途端、いきなり背筋を冷たい戦慄が走り抜け言葉を失った。
 鳶色の瞳の奥に渦巻く肉食獣を思わせる怒気が、一瞬にして美紀を圧倒したのだ。
 しっかり巻きつけていた腕を振り解くと、美紀は無意識に怜から離れた。
 顔が蒼白になっている。

「つまり・・・こうするの。判った?」

 呆然と見上げる美紀に、ほんの一瞬後には普段の様子に戻った怜が小さく微笑みながらそう言った。

「れ・・・怜さん?・・・何・・・今の」

 美紀はショックを隠しきれない声で訊いた。

「ん?何でもないよ。要は相手の男を叩きのめすつもりで睨み倒せばいいのさ」

 怜はそう軽く答えると、さっさと歩き出した。
 しかし美紀はその後を付いて歩きながらも、動悸が収まらなかった。

 (何だろう・・・今の怜さん・・・本気で怒ってた。何で、どうして?私が何か気に障るようなことしたっていうのかしら)

 しかし、無論美紀には怜の機嫌の理由を推測する事など出来る訳もなかった。
 何故なら、怜が腹を立てていたのは、美紀にではなく“きつね”くんが夢中で抱いている諒子に対してだったからなのだった。

 (何なんだ、あの女わっ!諒子の奴、一人で抜け駆けして、性格悪いにもほどがあるわっ!私の“きつねさま”にバージンを捧げるだなんてっ。こんな事になるんだったら、この間諒子の家に行った時に強引に処女を貰っちゃえば良かったわっ)

 およそ美紀の想像とは全く関わりのない事で、怜は腹を立てていたのであった。
 そして美紀は、そんな怜の態度に当惑し、やがてほんの微かながら怜に違和感を感じ始めていた。

 並みの女子高生とは比べ物にならない程、美紀の精神力や運動神経はずば抜けていたが、しかし姉の諒子に比べればやはり見劣りすると言わざるをえなかった。
 しかしそんな美紀にも諒子に勝っているところはある。
 そのひとつに感覚の鋭敏さがあった。
 五感が人並みはずれて敏感であるだけでなく、それらを統合しさらにそこから導き出す推論が驚くべき精度を誇っているのだ。
 友人たちの何気ない仕種、表情、そういったものから、その場の雰囲気を読み取らすことにかけては天才的だった。

 そんな美紀のアンテナに微かな違和感が引っ掛かった。
 そして本人の意識の外で、そのバイオ・センサーは活発に活動を開始したのであった。

 一方その頃、当の諒子は嵐のように次から次へと押し寄せる快感の波に只管翻弄され、真っ白な肌を全身ピンク色に染めて、“きつね”くんの部屋のベッドの上で身体を痙攣させていた。
 最初は思いどおりに諒子の反応を引き出せなかった“きつね”くんだったが、相手が処女であったことが判れば、その対応は幾らでも出来た。

「さぁ諒子・・・今度はここだよぉ~」

 “きつね”くんの囁きが諒子の耳に届くと同時に、両脇腹から電気のような快感信号が諒子の背筋に到達し何十度目かの痙攣が全身を襲う。

「くぅ~~んっ!あっ、あっ、くっ、んんんんんあっ、はひぃっ!いいいいいいっ!!」

 既に動物の鳴き声のような喘ぎ声しか諒子の口から出てこなくなって久しい。
 そして痙攣は回数を経るごとに強く長くなり、諒子の体内に挿入した“きつね”くんのペニスを痛いほどに締め上げるまでになっていた。
 そして暗示で傷みを完全に消し去った諒子の媚肉は、成熟した大人の女に相応しくドロドロの粘液を只管分泌し続けていた。

 “きつね”くんは自分の腹の下で悶え捲くるそんな諒子を、目を細めて見ていた。

 出来たてのレプリカントのように静かに美しく眠っていた諒子が、今は全身を性器に変え自分のザーメンを搾り取ろうと狂ったように身をくねらせている・・・

 男として、そしてドール・メイカーとして征服欲とプライドを満足させられる一瞬だった。

 (ふふふ・・・このお堅いお姉さん、さすがに25年間溜め込んできた性欲は凄まじいね。第2ステップの導入としては申し分ないよ・・・さっ、そろそろ・・・)

 “きつね”くんがようやく最後のフィニッシュに入ろうと諒子の腰に両手を当て体勢を整えた時だった。
 枕もとに持って来ておいたインターホンが短い電子音を一度響かせたのだ。

「あっ・・・やべっ、もう来ちゃったの?」

 “きつね”くんは壁のデジタル時計に目を走らせ、意外に時間が経っている事に気付いた。
 インターホンは美紀が到着した合図なのだった。

 “きつね”くんは無造作に指を伸ばし、インターホンのディスプレイに画像を表示させた。
 すると監視カメラに捉えられた怜と美紀が映し出される。
 この瞬間、数十メートル離れた受付に妹が立っているのだ。

「おっ・・・イケテルねぇ。写真より美味そうじゃん」

 “きつね”くんはそう呟いたが、忘我の境地を彷徨う諒子には無論それが妹を見た感想などとは判るはずもない。
 “きつね”くんはそんな2人の姿を目で比較しながら、中断していたフィニッシュを再開した。
 充分なストライドで自らの肉棒を諒子の媚肉に打ち付けては引き出し、その硬く強い摩擦を力で捩じ伏せるように何度も繰り返した。
 すると忽ち諒子の口からは意味不明の嬌声と涎が溢れ出る。
 もう完全に“きつね”くんのセックス・テクニックの虜となっていた。

 (さあて・・・石田姉妹のおふたりさん・・・今晩は生涯最高の夜にしてあげるからね。ふふふ・・・明日からの最低の日々の代償を先に受け取ってくださいねっ)

 “きつね”くんは心の中でそう呟くと、モニタに写る美紀の顔を眺めながら、仰け反るような姿勢で腰を前に突き出し、自らのペニスを諒子の媚肉の最奥に突き立てたのだった。
 次の瞬間、諒子の体内に物凄い勢いで熱い粘液が注ぎ込まれていった。
 そして諒子もその熱い飛沫を体内に感じた途端、遂に最後の大波に飲み込まれ体中の細胞に快感の記憶を植え付けながら全身を痙攣させベッドの上で弓のように身体を反らしたのだった。

「くぅ~~~ぅぅうううううううっ!!・・・・・・」

 最後の喘ぎが部屋に木霊する・・・・1秒・・・2秒

 そして気の遠くなるような空白の時間の後、諒子は遂に身体の緊張を解き、全身から全ての力を抜いてベッドに身体を沈めたのだった。

「あふぅぅぅ~~~・・・・・・」

 まるで小さな子供の頃に戻ったように、諒子は完全に無防備に“きつね”くんの前に身体を開いていた。
 記憶を操作され偽りのストーリィに支配されている今の諒子は、遂に最愛の恋人と結ばれたという安心感とやすらぎ、そして肉体から得られた最高の快感と、その後の心地よい脱力感に心身ともに満たされていた。

 しかし、それが諒子が本来持っていた心理的な抜群のバランス感覚を突き崩す強烈な執着になることなど、今の諒子には判るはずもなかった。

 そして、それから僅か5分後のことだった・・・

 美紀は通された打合せ室でソファに腰掛け怜と2人で諒子を待っていた。
 すると、そこに着替えた“きつね”くんが登場したのだった。

 この部屋に通されてから、美紀は無意識に怜を観察していた。
 しかしあの時感じた違和感は、今は全く感じなかった。

 (私、どうして怜さん相手に緊張してたんだろう・・・)

 美紀は無意識の警戒テンションをゆっくりと下げ始めようとしていた。
 そんな時、不意に“きつね”くんが部屋に現れたのだった。
 美紀は何気なく“きつね”くんに注目し、そして次の瞬間その背中にいきなりとびっきり不気味な波動が走ったのだ。
 余りの衝撃に美紀自身、いったい何が生じたのか判らなかった。
 しかしそんな美紀の戸惑いに関係なく、その鼓動は明らかに早くなり、吐く息にはアドレナリンの香りが混じり始めていた。

 (なっ、何っ!この違和感はっ)

 美紀は目を真ん丸にして“きつね”くんの顔を凝視した。

「始めまして、常木といいます。学校の帰りに呼び出してしまって済みません」

 そう言って手を差し伸べる相手の表情、そして差し出された右手・・・

 美紀は今や完全に意識して、体中のセンサーをフル稼働させ、相手の胸中を探った。
 しかし・・・

 美紀の表情に驚きと緊張が走った。

(読めないっ!どうして?何この人っ)

 気持ち良いくらい開けっぴろげな笑顔を向ける男なのに、まるで仮面を見ているようにその奥が見えないのだ。
 差し出された手は、暖かく、そして優しい。
 けれども普段なら伝わってくる筈の相手の感情が、今はまるで無反応だった。

 美紀はゴクリと唾を飲み込んだ。
 そして無意識に片手を腹に当てて、大きく深呼吸をしたのだった。

 (落ち着いて。良く考えるの。いったいなんで私こんなに驚いたんだろう)

 美紀は自分の心の中に焦点をあててその分析に頭をフル稼働させた。
 しかしその間にも男の声は続いている。

「松田さんも、長いことお待たせしてしまって申し訳ありません」

 それに怜は短く応えた。

「いいえ。職業がら待つのは慣れていますから」

 いつもの低い落ち着いた声だ。
 しかし、美紀はその声を聞いた途端、再び目を見張った。

 (怜さんっ!演技してるっ)

 男のそれと違い、怜の反応は今の美紀の研ぎ澄まされた感覚には呆れるほどあからさまだった。

 (ホントはもっと親しいんだ、この2人!カムフラージュしてる、私に対して・・・)

 心の読めない男と、自分に対して演技している怜・・・

 美紀はそのことに気付いた途端、まるで蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶のような気分になった。
 明るく居心地の良い部屋だったのに、いつの間にか魔窟に見えてくる。

 美紀はまるで未知の生物に出会った時のように、本能的に怯えた視線を“きつね”くんの顔に向けた。
 そんな美紀を不思議そうに見返す“きつね”くん。
 2人の視線が宙で交わり、そして不意に美紀は違和感の正体に気がついたのだった。

 (こっ・・・この香り・・・お姉ちゃんの・・・香りだっ!)

 シャンプーだけでなく姉の体臭そのものを美紀は“きつね”くんから嗅ぎ取っていたのだ。

 (ど・・・どういうこと?この人、お姉ちゃんといったい何をしていたのっ?)

 どう考えてもおかしかった。
 普通に会って話をしただけでこんなに匂いが移る訳は無かった。
 しかし、あの身持ちの硬い姉が、始めてあった男に抱かれるなど、美紀には考えられなかった。

「あ・・・姉は・・・」

 美紀の口から思わずそんな言葉が毀れ出た。

「あぁ。お姉さんですか?今ウチのボスと打合せしてますよ」

 “きつね”くんは、さらっと答えた。
 美紀は相変わらずその答えから男の心を読み取れなかったが、代わりに隣に座る怜の反応に注目した。
 男が応えた途端、微かに表情が緩んだのだ。

 それはまるで、罠に掛かった獲物を眺めるように・・・

 美紀の心臓は美紀の意思を無視して早鐘を打ち始めていた。

 まるで得体の知れない男、そして別人のようになってしまった怜・・・

 美紀は今すぐこの場から逃げ出したかった。
 しかし一方で、姉の行方が気懸かりだった。

 なにか尋常でないことが起きている・・・

 それは美紀にとってはもう明白だった。
 それだけに逆にこの場を一人で逃げ出す訳には行かなかった。

 (お姉ちゃんっ!何処に居るのっ)

 美紀は胸の内で叫んでいた。
 しかしそんな美紀の焦る心にまるで気付かないように、男はノンビリと口を開いた。

 「お姉さんが来るまで・・・」といって、場繋ぎに弁護士のこぼれ話を始めたのだ。
 明るく楽しげに、そして開けっぴろげに男の声は続いた。

 思わず引き込まれそうな魅力溢れる口調や仕種・・・

 しかし美紀には、もうそれが巧妙に張り巡らされた罠にしか見えなかった。

 そして美紀が話しに乗らず、それどころか緊張を高めていることに気付くと、2人の間の目配せが飛躍的に増加していった。

 今や、2人の間に何か企みがあるのは明白だった。
 そして、そんな男の体から姉の香りがし、その上肝心の諒子が姿を現さない・・・

 美紀の疑念は、やがて確信へと変わっていった。

 (この男っ、お姉ちゃんに何かしたんだわっ!そして・・・それに怜さんが噛んでるっ!!)

 美紀の緊張は頂点に達した。
 目の前の男だけだったら美紀は実力で突破するつもりだったが、怜が居てはとても勝ち目は無かった。
 それに諒子のことが気になり、この場を逃げ出す訳にもいかない。
 美紀はハリネズミのように全身の感覚をピリピリと緊張させながら、この窮地を脱するために頭をフル回転させたのだった。

 そしてそんな中、美紀は不意に気付いたのだった。
 テーブルの上に“きつね”くんが置いた手帳の間に何かが挟まれていることに・・・

 それは、プラスチックぽい質感のカードのように見えた。
 気になったのは、さっき美紀が諒子のことを問い掛けた時、“きつね”くんの視線が一瞬そのカードの方に注がれたような気がしたからだった。

 (何だろう・・・何か・・・気になる)

 美紀は八方塞がりの状況を打開するため、思いついた事は何でも実行するしかない気になっていた。
 すぐに“きつね”くんの話に割り込んでみる。

「ですからね、こういった探偵社に努めてますと、意外と、何ていうか“電波系?”のお客さんが・・・」
「お姉ちゃんっ、何処で会議してるんですかっ」

 全く唐突な美紀の言葉に、“きつね”くんはビックリしたように話を中断した。
 そして一瞬、その視線がテーブルの手帳に注がれたことを美紀は見逃してはいなかった。

「え?あっ、あぁ。お姉さんですか。ええと、第1会議室ですけど」

 “きつね”くんのちょっと戸惑ったような答えに、美紀はわざとらしくビックリした表情で言った。

「あっ・・・ごめんなさい。ちょっとお姉ちゃんが遅いのが気になって・・・せっかくのお話を中断させちゃった」

 舌をペロッと出して悪戯そうな表情で謝る美紀だったが、内心は興奮で打ち震えていた。

 (判ったっ!鍵だ、あのカードはっ!カード式のロックなんだわっ)

 最近のホテルではカード・キーは珍しいものではない。
 美紀も何度か使ったことがある。
 ちゃんと手にとって見なければホントの確認はできないが、“きつね”くんのリアクションからそれ以外は考えられなかった。

 (お姉ちゃん、きっと監禁されているんだ・・・)

 そこまで気付くと、美紀にはもう次の一手は決まっていた。

 (怜さんが居ては実力突破は無理・・・ここはカード・キーを掠め取るしかないわっ)

 内心の決意をカムフラージュするようにゆっくりと紅茶を口に運びながら、美紀は正面に座る“きつね”くんの話に耳を傾けているふりをした。
 幸いポケットにはカラオケ屋のメンバーカードが入っていた。
 表の色やデザインはまるで違うだろうが、ひっくり返せば皆同じような白っぽいカードである。

 (タイミングを見計らってすり替えれば、少しの時間なら騙せる筈。あとはトイレとか言ってココを抜け出せば、小さな会社だもの。部屋なんか、たかが知れてるわ)

 姉さえ見つけ出せれば、勝機はあると美紀は踏んでいた。

 自分では怜に敵わないけど、姉なら互角、それに自分が加勢すれば必ず突破できる・・・

 それが美紀が一瞬で描いたシナリオだった。
 そしてその成否は全て、自分がカードを掏り替えられるかに掛かっていた。

 すぐ横には怜も居る。
 美紀は今、無邪気な表情でカムフラージュしながら、手帳の間のカードに極限まで集中力を高めていた。

 しかしそんな美紀の決意とは裏腹に、“きつね”くんは無意識に手帳を玩んでいた。
 話の合間合間に手帳を手に取り、パラパラ捲ったり、またテーブルに置いたり、またまた手に取ったり・・・

 その度に美紀は視線を素早く走らせ、作戦を変え、スタンバイし、タイミングを窺うといったことを繰り返していた。
 胃が痛くなるようなプレッシャーである。
 “きつね”くんの話など、何一つ頭に入っていなかった。
 いつの間にか、テレビが点けられ奇妙な図形が画面で踊っていたが、いったいどういった話の成り行きでそうなったか美紀はまるで覚えていなかった。

 なにか、図形から文字が浮かんでくるみたいなことを言っているが、そんなこと美紀にはどうでも良かった。
 そんなことより重要なことは、目の前の2人がテレビに注目するようになったことだった。
 いままではどうしても怜の目が気になり、最後の一歩を踏み出せなかったのだが、その怜が画面に注目してる。
 最大のチャンスが巡ってきたのだった。

「さぁ、美紀ちゃんもどうぞ。どれくらいで判別できるか、やってごらんよ」

 “きつね”くんが誘いの言葉をかけてくる。
 美紀はそれに乗るふりをして、逆に怜を誘った。

「いいわよ。じゃあ、怜さんっ、競争しよっ」

 軽く誘うと、怜は意外なほど乗り気の返事をしてきた。

「ふふふっ。私に挑戦する気?10年早いわよ。見ててごらんなさいっ」

 そう言って怜は画面に注目した。
 “きつね”くんもやはり画面を見ている。

 手帳は・・・テーブルの上だっ!

 美紀の喉が鳴り、唾を飲み込んだ。
 鼓動が極限まで高まり、呼気が震えた。
 掌は汗ばみ、指の感覚が暴走する。

 美紀は画面に注目するふりをしながら上体をゆっくりと乗り出し、テーブルに覆い被さるようにした。
 そしてさり気なく右手をポケットに入れ、ダミーカードの感触を確かめた。

 指捌きには自信があった。
 一瞬で全ては終えらると思った。

 (一瞬・・・ほんの一瞬だけ、時間を頂戴っ!)

 その時、怜の表情が僅かに動いた。
 画面から何かを読み取ったようだ。
 それを確かめるように更に視線が鋭くなる。
 更に増す集中力・・・
 この一瞬、完全に怜の中から美紀の存在が消えた。
 美紀は、その最大のチャンスを逃さなかった。

 滑るように、流れるようにポケットから抜き取られた手は、手帳を目掛けて一直線に突き進んでいった。
 指に挟んだカードがコトリとも音を立てずに手帳に差し込まれ、そして僅かに掌を返すだけで反対に差し込まれていたカードが美紀の指の間に吸い込まれていった。

 (取ったっ!!)

 美紀が勝利を確信したその瞬間、もう大丈夫と安心したその瞬間、そのほんの僅かな一瞬に美紀の張り詰めた精神の盲点が顔を覗かせた。
 そして狙い澄ましたようにそこに、優しげな言葉が突き刺さったのだった。

「もう・・・指は動かない・・・・」

 美紀は驚愕に振り返り、言葉同様優しげな表情で見詰める“きつね”くんに出会った。

「ほら・・・もう腕も動かなくなった」

 美紀は一瞬、何を言われているが判らなかった。
 しかし、気付けは“きつね”くんの言葉どおり、自分の腕が石のようにガチガチに固まっていたのだった。

「なっ・・・何っ、何なの!」

 美紀はパニックになり、左手で右手を強引に引っ張った。
 しかし、それは美紀の絶望を深める行為でしかなかった。

「ほら、肩も」

 “きつね”くんの手が美紀の肩を叩く。

「左手も・・・・胸も・・・・ほら、足も・・・」

 “きつね”くんの声がかかり、手が触れる度に、美紀のからだから自由度が失われていった。

「いやっ、どうしてっ!」

 その悲鳴が最後に美紀が自由にできたことだった。
 美紀は、まるでメデューサの顔を見た哀れな犠牲者のように、テーブルに覆い被さった姿勢のまま身体を石に変えられてしまったのだった。
 そして、“きつね”くんの言葉はまだ終わりではなかった。

「さあ・・・固まるのは身体の表面だけじゃないよ。だんだん、中まで固まってきた。ほら、胸が苦しい・・・肺が広がらない」

 あくまで優しげな口調で“きつね”くんの言葉は続いた。
 しかし、美紀に与える効果に容赦はなかった。
 美紀は、その言葉が耳に届いた途端、呼吸が上手く出来なくなったのだ。

 (息がっ!息が出来ないっ!胸が広がらないっ!たっ・・・助けて)

 恐怖に打ち震えた瞳が、助けを求めて“きつね”くんを見上げる。
 その視線を“きつね”くんはニッコリとした笑顔で迎えた。
 しかしその口をついて出た言葉は・・・

「さ・・・5つ数えると、身体の中まで石になるからね」

 (たっ、助けて、お願いっ)

「ひと~つ」

 (息がっ、息が、出来ないっ)

「ふた~つ」

 (一呼吸だけでもっ!!)

「みっつ」

 (い・・・いきを・・・)

「よっつ」

 (た・・・すけ・・・)

「さ、いつつだよっ」

 その瞬間、美紀の体は完全に固まった。
 見開いた瞳さえ凍りついた。
 肺はその機能を停止し、心臓さえ鼓動を止めた。

 美紀の時が止まったのだ・・・

 その姿を慎重に観察する“きつね”くん。
 1秒・・・2秒・・・

 そして3秒が経過したその瞬間、“きつね”くんの両手は美紀の両肩にそっとあてがわれたのだった。

「溶ける・・・飴のように」

 “きつね”くんの確信に満ちたその言葉が美紀の耳に吸い込まれる。
 その途端、美紀の体はテーブルの上に崩れ落ちた。
 止まっていた機能が再び動き出す。
 肺は酸素を求めて大きく膨らみ、心臓は最大の鼓動でその酸素を脳に送り届ける。
 しかし酸欠の脳がその機能を蘇らすには今しばらくの時間が掛かった。
 美紀の目は全てのフィルタを外して、完全に無批判に外部に対し門戸を開いていた。

 その瞳に“きつね”くんの視線が潜り込む。
 そして静かに最後の言葉が囁かれたのだった。

「眠りなさい、美紀」

 その言葉は、美紀の脳に直接届いた。

 (わたしは・・・ねむる)

 その認識を最後に、美紀の意識はブラックアウトした。

 美紀が最初に思い描いたイメージは正鵠を射ていた。
 美紀は蜘蛛の巣に引っ掛かってしまった蝶そのものとなっていたのだった。

「お見事です、きつねさま」

 怜は美紀のその様子を確認して口を開いた。
 “きつね”くんは、そんな怜にニッコリと微笑んた。

「ありがと。でも半分は怜のおかげだよ。一回しか会ったこと無いのに、よく美紀の性質を見抜いていたね」

 “きつね”くんの労いの言葉に、怜は途端に耳まで真っ赤になって下を向いてしまった。
 社長室での一件のとき、続いて美紀を暗示にかけることを聞いた怜は、“きつね”くんが諒子のもとに戻る前に言ったのだ。

『きつねさま、美紀は少しだけご注意くださいね。なんか、凄く感が良いんです』

 それを聞いていた“きつね”くんは、やってきた美紀の反応を見てすぐに作戦を変更したのだった。
 諒子の時のようにリラックスさせた上で画面に集中させる方法は諦め、反対に極度に緊張した状況を作り出し、その中でカードに注目させたのだった。
 いずれにしても“集中と弛緩”、それが“きつね”くんの催眠導入の基本だった。

 ハリネズミのように緊張しながら、リラックスしたようなカムフラージュを必死で行っている美紀を、“きつね”くんは俯瞰で眺めるように把握していた。
 そして、そのギリギリの状況での美紀の選択、命の燃焼を、“きつね”くんはとても美しいと思った。
 催眠暗示で絡め取りながらも、“きつね”くんもまた石田姉妹のチャームに知らず知らず引き寄せられていたのだった。

「さてと、今何時?」

 “きつね”くんは小さく息を吐くと怜に訊いた。

「8時30分です」

 怜は腕時計に視線を走らせて答えた。

「だよねぇ・・・。“あらいぐま”さんの約束は10時半頃だからぁ、まだ2時間有るのかぁ」

 “きつね”くんはちょっと思案顔だったが、直ぐに何かを決断したように小さく頷いた。

「この娘、割と素直そうだから、後は一気呵成に行っちゃおうかなぁ」

 “きつね”くんの独り言に、怜がおずおずと口を挟んだ。

「一気呵成・・・ですか?」

「ん?あぁ、自己新記録への挑戦ってことさ。普通なら基礎レベルから第2ステップに入ったあたりまでの時間しか無いんだけどさ、この娘、思ってたよりいい状況に入ったんで、第2ステップ終了か、もしかしたら第3ステップの導入あたりまで出来ないかなぁって思ってるわけ」

「あっ・・・そ、そういう事でしたか。わざわざ説明して頂いて済みません。それでは私は席を外した方が宜しいでしょうか?」

 普段の怜を知っている者が見たら腰を抜かしてしまいそうなほど、今の怜は控え目だった。

「う~ん・・・そうだなぁ。いや、怜はここに居てよ。俺ちょっと諒子にたっぷりと注ぎすぎちゃったみたいなんで、すこしエンプティ気味なんだよね。第2ステップの導入には『快感エンジン』で勢いをつけてやらなきゃいけないんで、怜はそれをちょっと手伝ってよ」

 “きつね”くんのこの言葉に怜の表情がパッと明るくなる。
 “きつね”くんの支援を出来ることが、心から嬉しいのだ。

「はいっ!分りました。ご主人様のお手伝いを致しますっ」

 こうして怜は初めて“きつね”くんのアシスタントの役割を担うことになった。
 そして、無論今後このような関係が続くことになるとは、この時点では怜はもとより“きつね”くん自身ですら思ってもいないことだった。

「さっ、それじゃあ始めるよ。怜、美紀をソファに移して」

 そう言うと、“きつね”くんはゆっくりと身体を起こした。
 男にしては小柄でほっそりとした体が、しかし今は堂々とした自信に溢れ怜の目には風格すら漂わせている。
 間違いなくドール・メイカー“きつね”くんの本気モードだった。
 妖しい光を湛えた切れ長の瞳を、怜は魂を吸い込まれてしまいそうな気持ちで見詰めていた。

 まるでウォータ・スライダーに乗っていたような・・・

 美紀はその時の気分を後で振り返り、そう思った。

 自分の身体なのにまるで自分の自由に出来ない。
 自分の身体に注がれる強力でダイナミックな力が全てを支配し、物凄いスピードで異世界を走り抜けさせられたのだ。
 そしてその度に自分の余分な部分は削り取られ、その代わりに自分の本質が、本来の自分が姿を現した・・・

 美紀は、そんな風に自分が経験したことを捉えていた。

 その世界では美紀が今まで経験したことが無い強い情動が次から次へと発現していった。

 最初に現れたのは“怒り”・・・
 そしてその矛先は姉諒子に向かった。

 常に比較され続けられる運命を呪い、完璧さを体現している諒子に怒りをぶつけた。

「どうして私の前にいるのっ!」
「私は私よっ!お姉ちゃんのダミーじゃないのよっ!」
「消えてっ!目の前から消えなさいっ!」

 一言口にするたびに胸の中にはその10倍の怒りが沸き立ち、悔し涙が頬を伝い握り締めた拳の爪が肉に食い込んだ。
 内臓が煮え立ってしまう程の怒りに身体が爆発しそうなくらい内圧が高まる。

 しかし限界を超えたと思った瞬間、美紀の中から不意に怒りの炎が消え去っていた。

 何が起こったか把握できずに呆然とする美紀・・・

 目を瞬くと、いつの間にか目の前に真っ赤に燃える光の玉が浮かんでいた。

(何?これ・・・)

 しかし湧き上がる疑問に思考を集中する前に美紀は新たな世界に流され飲み込まれていった。

 次に気付いた時、美紀は男の腕の中に居た。

 顔を見上げる・・・

 するとそこには良く知った顔が美紀を見詰め返していた。

 途端に湧き上がる安心感、強い信頼と愛情で結ばれた運命の人に身を委ねる幸福感、そして体中から沸き起こる信じられないような強いセックスへの渇望・・・

「あぁっ!逢いたかったっ!逢いたかったのぉ」
「抱いて、もっと強くっ!離さないでぇ」
「貴方が欲しいのっ!欲しいっ、欲しい、欲しい、欲しいのっ!」

 美紀はありったけの力で男の体にしがみ付いた。
 男の細胞と同化してしまいたいとまで思った。
 するとそれを待っていたかのように男の両手が、舌が、美紀の体を自在に這い回り、舐め回し、滑らかな肌に隠された美紀の快感中枢を探り出すのだ。

 口を吸われ、耳を噛まれ、喉に舌を這わされる。

「あっ・・あぁ・・・いいっ、そこっ」

 乳房をゆっくりと揉まれながら乳首を咥えられ、脇腹をくすぐられる。

「んあっ、はひぃ・・・いいっ、いいのぉっ」

 足の指、膝の裏、足の付け根、そして肝心の媚肉とアヌス・・・あらゆる所に指が這い舌が這う。

「あああああっ、だめぇ、そんなところぉっ、んんっ、ぁぁぁああああひぃ」

 いったい何本の腕があり、そして何枚の舌があるのか・・・

 そう思ってしまうほど体中の性感を一度に攻められ、美紀は我を忘れた。
 ほんの小一時間前、姉の諒子が経験したのと全く同じように美紀は官能の嵐に飲み込まれたのだ。
 腰の中心にある快感の源泉から止め処もなく溢れ出る快感信号が美紀の全身の細胞に染み込んでいく。

 (もっ・・・もう駄目・・・これ以上されたら・・・気が・・・狂うっ!)

 そして僅かな性体験では想像すら出来ないような大波に全身を痙攣させ、まるで射精するように熱い粘液を何度も噴出させてしまっていた。

「いやっ、いや、ああんんっ、だめぇっ、いっいくぅっ、いっちゃうっ、ぁぁぁぁぁあああああああんんんんあああああああああああっ、あひぃっっ!!」

 美紀の本能が必死で静止をかける中、最後の大波に翻弄された美紀の神経は遂にブラックアウトした。

 そして再び気が付いた時、美紀の目の前には先ほどの燃える玉に並んで、ぬめぬめと濡れ光るオレンジの玉が浮かんでいた。

 しかし先ほどと同様に、美紀の疑念を無視するように美紀の体は新たな世界に流され飲み込まれていった。

 あれほどしっかりと抱き合い身体を寄せ合った相手は、いつの間にか消えていた・・・

 まるで半身を持っていかれたような圧倒的な寂しさ、孤独感が美紀を襲う。
 気が付けば美紀は荒涼とした薄暗い世界に一人で佇んでいた。
 目を凝らしあたりを見回すが薄闇がベールとなり人影は見えない。
 しかし・・・音だけは微かに聞こえていた。

 美紀は必死に音に集中する。

 すると、やがて音の正体は判明した。
 それは足音だった。
 しかし、明らかに最初より小さくなっている。
 遠ざかっているのだ。

「誰っ?誰かいるのっ!」

 美紀は声を出して音の主を探した。
 するとそれに反応するように一瞬薄闇のベールの向うに人影が透けて見えた。
 そしてほんの少し振り返る人物・・・
 美紀はその見覚えのある輪郭を見て息を止めた。

「お父さん・・・」

 数年前に亡くなった父親の横顔、ではそれに寄り添うように立っている少し小柄な人は・・・
 美紀は我を忘れて駆け出した。

「待ってっ!お父さん、お母さんっ!置いていかないでぇ!ねぇっ!!」

 しかし全力で走っているにも係わらず、ちっとも2人に追いつかない。
 そして・・・やがて2人は美紀の声が空耳だったかのように踵を返し闇に消えていった。

「どうして・・・ねぇ・・・どうして」

 美紀はその場に跪いた。
 身体が芯から冷えるようにガタガタと震えた。
 そして、それを皮切りに次から次へと美紀の知人が姿を現しては、美紀に気付かずに闇に消えていった。
 高校の友人、中学時代のボーイフレンド、初恋の人、学校の先生、近所のおばさん、武道の師範・・・

「待って・・・置いていかないで・・・一人にしないで・・・お願い」

 身体が死人のように冷たくなっていることが自分でもよく判った。
 孤独の冷気が美紀をすっぽりと覆っている。
 すっかり悴んだ指はもう動かすことすら出来なくなっていた。
 凍てついた喉からは、白い呼気しか出て来なかった。
 耳を澄ませば聞こえていた足音も今はもう聞こえない。

 (このまま凍え死ぬしかないんだ・・・)

 美紀がそう覚悟した時、どこか遠くで微かな笑い声が聞こえた。
 心から楽しそうな、聞き覚えのある笑い声・・・

 美紀はゆっくりと瞼を開けた。
 すると視界の先に現れたのは・・・諒子だった。
 綺麗に着飾り艶やかに笑い声を上げている。

「お姉ちゃん・・・お姉ちゃんっ!」

 美紀は最後の力を振り絞って叫んだ。
 するとビックリしたように諒子は振り返った。

 (反応したっ!)

 諒子のリアクションに美紀は僅かな希望をつないだ。
 しかし・・・美紀は不意に気付いたのだった、諒子が一人ではないことに。
 諒子は誰かと手をつないでいた。
 楽しそうに、心から安心しきった表情で・・・

 そして諒子は振り返り美紀に視線を投げたにも拘わらず、小さくクビを振ると傍らの男の腕に自分の腕を絡めそのまま歩いていってしまった。

「待ってっ、待ってよ!お姉ちゃんっ!!」

 血を吐くような叫びが薄闇に轟いた。
 しかし、ほかの人と同じように諒子も振り返ることなく薄闇の向うに消えていこうとした。
 最後の希望が消えていく・・・

 絶望が美紀を捕らえる。

 楽しそうな表情で消えていく諒子・・・
 傍らの男に何かを話し掛けている・・・
 それに答えるようにした男の横顔が一瞬美紀の目にとまった。

「・・・っ!!」

 もう美紀の口からは、言葉どころか呻き声さえ洩れてこなかった。

 美紀が目にした横顔・・・
 それは美紀が全てを捧げ自分の半身とまで思った最愛の男のものだった。
 
 絶望の先に見えた更なる絶望・・・
 美紀の心は静かに凍りついていった。

 そして・・・気が付けば美紀の前には3つの玉が浮かんでいた。

 真っ赤に燃え上がる玉と、ぬめ光るオレンジの玉、そして最後に加わった凍りついたグレイの玉。
 魂の抜けたようなトロンとした眼差しで美紀はそれらを見詰めた。
 3つの玉は決して交わることなく美紀の前をゆっくりと動き回り、そして勝手なタイミングで美紀の体内を通過していった。
 するとまるでその時だけスイッチが入ったかのように美紀の瞳が意思を映し出した。

 赤い玉が入るたびに美紀の目が燃えた・・・
 最愛の人を奪われた怒りが、打ち捨てられた恨みが怒りの炎を更に高く、熱く燃え上がらせていた。

 オレンジの玉が入るたびに美紀の目が濡れた・・・
 引き裂かれた恋人同士が運命の再会を果した感動が胸の奥から全身に広がり、細胞に刻まれた震えるほどの快感の記憶を呼び覚ますのだ。そして前回、もうこれ以上は無いと思った快楽のレベルをあっさりと凌駕した大波が全身を駆け巡った。

 そしてグレイの玉が入るたびに美紀の瞳は凍った・・・
 怒りが強ければ強いほど、快感が強ければ強いほど、それを打ち砕かれた時、恋人を連れ去られた時の絶望は深い。

 こうして3つの玉は、ある時はゆっくりと、ある時は素早く、またある時は順番を変えて美紀の体を通過していき、その度に玉の嵩を増やしていった。
 そして・・・精緻な意思に操られた玉の動きは、やがて美紀の心を一つのベクトルに収斂していった。

 燃え上がるような強烈な怒りと、身体を溶かすような熱く深い欲望、そして絶対的な恐怖・・・
 これらが全て一つのベクトルを指した時、美紀の脳裏に一つの言葉がポツリと浮かんだ。

「美紀・・・誰を選ぶ?」

 その問いに美紀は小さく微笑むと、正面を向いてハッキリと答えた。

「あなたです・・・きつねさま」

 この瞬間・・・美紀は“きつね”くんの手に落ちた。
 まだ暗示は何も与えていないに等しい。
 しかし、生涯を通じて揺るぎない強力なラポールが、今2人の間に確立した。
 “きつね”くんの催眠ドールとしての磐石な土台が完成したのだった。

 閉じた瞼の上を軽く抑えていた手が取り払われ、同時に美紀の耳に何か言葉が囁かれた。
 一瞬頭の中に響きわたったそのフレーズは、しかし一瞬後には跡形も無く消え去り、その代わりに美紀の眠っていた脳細胞を一気に活性化させたのだった。

 パチッと音がしそうな勢いで美紀の目が開かれ、2,3度瞬きをすると不思議そうにあたりを見回す。
 招き入れられた打合せ室、正面に座る青年は変らぬ優しげな眼差しで美紀を見詰めていて、傍らに怜も居る。
 しかし・・・

 (どうしたんだろう・・・何か・・・違和感があるのよね。でも・・・部屋の様子も変わっていないし、横に怜さんが居て・・・前に“きつねさま”が座っていて・・・って全く同じじゃん)

 美紀は自分の思考に入り込んだ違和感の正体に全く気付いていなかった。
 そして気付かれぬまま、違和感はやがて消えていった。

 そんな美紀の様子を観察していた“きつね”くんは、そこで傍らに控える怜に視線を向けた。

「10時26分です。開始から1時間56分で第2段階が終了しました」

 怜は有能な秘書のように“きつね”くんの無言の問い掛けに答えた。

「そう。上々だったね。こんな素直な個体、正直珍しいよ」

 “きつね”くんはそう言うと、全裸でソファに掛けている美紀を見詰めた。

「ご主人様、私が命令しても大丈夫なんでしょうか?」

 怜は興味深げに美紀を見下ろしている。

「あぁ、全っ然問題ない。命令っていうか・・・普通に話し掛けてごらん」

 “きつね”くんの許可が下りて、怜はちょっと考えてから口を開いた。

「ねぇ、美紀。私のこと、判る?」

 その問い掛けに美紀は訝しげな表情で怜を見上げた。

「何ですか怜さん、その質問はっ。私、記憶喪失患者じゃないんですよっ!」

 そう言ってプンとむくれた。

「悪い、悪い。じゃあさ、今度は美紀のオ○ンコ見せてくれる?」

 美紀の表情を観察しながら、怜はさらっと口にした。
 すると美紀は、まるで『握手をしてくれ』と云われたように気軽にソファの上でM字に足を大きく開くと、自らの両手で性器を広げ、奥まで晒したまま怜を見上げた。
 中から先ほど“きつね”くんが注いだ粘液がトロリと毀れ出てくる。

「これでいいですか?」

「OK,OK。それじゃ、今度は尻の穴も見せてよ」

「は~いっ。ちょっと待っててください」

 美紀はそう言うと椅子の上でくるりと身体を回転させ、尻を怜に突き出すようにした。そして両手で自分の尻を割り広げ奥のアヌスを躊躇い無く怜の視線に晒した。

「これで見えますか?」

 その姿勢を保ったまま美紀は振り返って怜に訊いた。

「あぁ。良く見えるよ、美紀の尻の穴。美紀はその穴で何をするか知ってるか?」

 怜は軽く顔を上気させて言葉を続けた。

「え?うんこする穴ですよ」

 美紀は目を丸くして何の躊躇いも無く答える。
 その様子に怜は背筋にゾクリとする快感を走らせた。
 怜の瞳は美紀を通して諒子の姿を脳裏に映し出していたのだ。

「り、諒子もこうなるのですね?“きつねさま”」

 思わず怜の口から諒子の名前が毀れ出る。
 しかし、その名前を聞いた途端、美紀の表情に変化が現れた。
 キリキリと眉が吊上がると瞳が憤怒の色に燃え上がる。しかし同時に噛み締めた唇にありありと緊張の影が走った。
 その急激な変化に怜はビクッとして反射的に“きつね”くんに視線を向けたが、しかし当の“きつね”くんはちょっと肩を竦めただけで落ち着いて立ち上がると、美紀に向った。
 美紀の視線もいつの間にか“きつね”くんに注がれている。

「大丈夫だよ、美紀・・・大丈夫」

 暗示風ではなく普通に幼い娘に接するように“きつね”くんは美紀に言葉を掛け、緊張している顔を両手でゆっくりと撫でてやった。
 たったそれだけで美紀はみるみる緊張を解き元の無邪気な表情に戻った。

「すごい・・・」

 怜の口から感嘆の呟きが洩れる。

「怜、その名前はまだ駄目。美紀の最後の拠点だからね。第3段階でクリアするからそれまでは禁止」

「はい。申し訳ありませんでした。気をつけます」

 怜は背筋を伸ばしてそう言うと、深々と頭を下げた。

「怜、君はもう今日はいいから、帰りなさい」

 続いて“きつね”くんからそう言われた怜は、その言葉に表情を硬くした。

 (ミスでご迷惑を掛けてしまったから?私・・・どうしようっ?!)

「あっ・・・あの・・・私・・・もう要りませんか?」

 一瞬でしおれた怜に“きつね”くんはちょっと呆れた表情で続けた。

「いや、別にお前をお払い箱にする訳じゃないよ。もうすぐ“あらいぐま”さんが来るから、お前が居るとまた色々面倒だろ?だから今日はお終いって言ったんだ。今日はよく働いてくれたよ怜、ご苦労さん。また明日ここにおいで。9時頃で良いからさ」

 “きつね”くんはパチッとウィンクして怜の機嫌を直させ、ついでに抱き寄せるとその口をゆっくりと吸った。
 すると忽ち怜はまるでバージンの中学生のように頬を赤らめウットリと“きつね”くんを見詰め返す。

「明日もまた忙しいからね、松田刑事としても、牝奴隷怜としてもね。期待してるよ」

 “きつね”くんはそう言って怜の尻をポンと叩いた。

< つづく >

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