ドールメイカー・カンパニー2 (18)

(18)心の折れる時(前編)

「さぁ~てっ・・・いよいよクライマックスですかぁ?」

 2階席から固唾をのんで事態の進行を見詰めていた“くらうん”は誰にとも無くそう言った。

「あの野郎・・・大丈夫なんかぁ?ちょっとあの女の迫力は尋常じゃないぜ。ここから見てても気圧されちまう」

 そう言って“あらいぐま”は額の汗を拭った。

「まぁ見てなって。多分・・・めったに見れねぇモンを見せてもらえそうだぜ・・・“きつね”の旦那にな」

 “とら”はそう言ってじっと視線を注いだ。

 一方、“きつね”くんも最後の仕上げに集中力を高めようとしていた。

 しかし・・・

 慣れない手つきで竹刀を握り締めている“きつね”くんの二の腕に鳥肌が立っていた。
 心理防御は完璧な筈だった。
 怜との一戦を踏まえ昨夜入念に自己暗示を行い、対策を施してきたのだ。
 それが諒子のたった一睨みで体中に冷たい汗が流れ、鳥肌がたった。
 まるでブリザードが吹き付けるような氷の“気”が“きつね”くんの心理防御を突き破り肌にずぶずぶと突き刺さってきたのだ。

(やっ・・・やるっ!凄いオーラだ。これほどの獲物だったなんて・・・怜以来だっ!)

 この信じられないプレッシャーのなか、驚くべきことに“きつね”くんはそう考えて目を輝かせた。
 黒い豹のような野獣の限りない生命力を感じさせた怜に対し、諒子はまるで大自然そのもの、氷の女神のような圧倒的な力を解放して“きつね”くんに立ち向かってきたのだ。
 愛刀を片手に姿勢良く立ちただ見詰めているだけなのに、その全身から立ち上る冷気がハッキリと見えるような気がした。
 知らず“きつね”くんの額に汗が伝ってきていた。
 しかし、ふとその時、視界の隅に立つ怜の表情が“きつね”くんの注意を引いた。

 眉を寄せ心配げに見詰めるその表情・・・

(いけね。ドールに心配されちまってる)

 それに気付いた途端、“きつね”くんは諒子の呪縛からするりと抜け出していた。
 そして小さな声で何かを呟いた。もう一度・・・更にもう一度。
 すると“きつね”くんの表情からみるみる硬さが取れ、いつもの飄々とした瞳が現れたのだった。

 (心・技・体・・・どれをとっても今の諒子は過去最高のレベルに到達している筈。苦労したぜ、そんな君から対人攻撃のタブーを取っ払うのはね。でも演技した甲斐はあったね。さあ仕上げだ。言い訳の出来ないこの状況で・・・諒子、君を打ち負かす。君の心を・・・折り砕くっ)

 “きつね”くんの切れ長の目に妖弧の決意が浮かぶ。
 そして小さく笑みを浮べると、それはもう『健志』そのものになっていた。

「先~生ぇ~。よ~やくっ、その気になってくれたんだねぇ。待ちくたびれたよ」

 『健志』の浮ついた声が耳に届いている筈なのに、最早戦闘モードになりきっている諒子は眉一つ動かさない。
 その代わりゆっくりと開始線の引かれた武道場の中央に移動していった。
 既にその場に立っている『健志』と4メートル程の距離をおいて向かい合う。
 そして無言で『健志』に視線を当てると、静かに木刀を構えた。

 正眼だ。

 先ほど“きつね”くんが感じたプレッシャーが更に高まる。
 木刀の切先から青白く冷たい“気”がレーザビームのように“きつね”くんの顔に吹き付ける様が見えるようだった。
 この期に及んでまだニヤニヤと笑みを浮べられる“きつね”くんの懐の深さに2階席の5人は舌を巻いたが、しかしそれが既に余裕に感じられず只の道化に見えてしまうのもまた事実だった。

「最後に・・・言うことは有るか?」

 無論意識してのことだろう。
 先ほどの『健志』のセリフが諒子の口から毀れでた。

「えっへっへっへ。気に入ってくれたみたいだねぇ、そのセリフ。じゃあご期待に応えて、一言宣言させてもらいますか」

 『健志』は・・・“きつね”くんは妖しく瞳を輝かせると、手にした竹刀を床にドンと打ちつけた。
 そして胸一杯に空気を吸い込むと、武道場中に響きわたる大声で叫んだのだった。

「いくぜっ諒子、加速装ぉ~~~~~~~~置っ」(てへっ)

 2階席の5人は・・・・・・・腰が砕けていた・・・全員。

「あっ・・・あのバカ・・・この場面でギャグをかますなっての」

 “あらいぐま”は手すりに掴まりながら言った。

「あ~もう、折角の緊張感がぁ・・・」

 と“きりん”。
 しかし“とら”だけは、実に面白そうな表情で下に目を注いでいた。

「へへへ。“きつね”らしいじゃねぇか。おいお前ら、もう始まるぞ」

 “きつね”くんの笑みが深くなる。
 顔が少し赤いのは、自分でも恥ずかしがっている証拠か・・・。
 しかし、無論諒子には笑みの欠片も無い。
 それどころか火に油を注いでしまったようだ。

「下衆めっ!人の命をお前ほど軽んじる者はいない。もう・・・許さないっ!」

 余りの怒りの為か、諒子の口調はひどくゆっくりしていた。
 ところがそれに応える“きつね”くんの声までノンビリしていた。

「そりゃ~どうも。そんな男に打ちのめされる気分を存分に味わってくださいよ」

 そして“きつね”くんが言い終わるタイミングで遂に二人の戦いは始まったのだった。
 不意に諒子の木刀の切先が上がりだした。
 それと同時に滑るような足捌きで“きつね”くんとの間合いを詰めていく。
 流れるようなフォーム
 流麗な軌跡を描く木刀
 奇跡のような体重移動で身体のばねが撓む
 そして驚くほどの柔軟性を示しながら移動エネルギーを木刀の一点に絞込み“きつね”くんの頭頂に振り下ろしていった。
 まさに一点の非の打ち所も無い理想的な攻撃だった。
 一方、それを受ける“きつね”くんは・・・・・・唖然として迫りくる諒子を見詰めていた。
 こちらは逆の意味で典型的な・・・棒立ち状態だったのだ。

(うっ、うそぉぉおおお~っ・・・こんな筈じゃぁ)

 “きつね”くんはそこまで考えるのが精一杯だった。
 なぜならその時にはもう諒子の木刀が振り下ろされようとしていたからだった。

「わ~~~~っ!」

 “きつね”くんは無様な悲鳴をあげて、横っ飛びに身体を投げ出し必死に諒子の攻撃をかわした。
 手にした竹刀を投げ出さなかったのは、単なる僥倖だった。

「うわっ!あぶねっ」

 そう言って“あらいぐま”は思わず目を覆った。

「あいつ何やってんだぁ。メチャクチャど素人じゃねぇかっ・・・っていうか、運動神経かなり酷くない?」

「そう言えば・・・“きつね”くんが剣道の経験が有るなんて聞いたこと無かったですねぇ。でも、自らセッティングしたんですから、きっとアレも作戦でしょ」

 “くらうん”は相変わらずのノンビリ・ペースでそう言った。
 しかし格闘マニアの“あらいぐま”は手厳しい。

「いや、そんなんじゃ無いっすよ。アレは演技なんかじゃなくて“きつね”の実力ですって。それより・・・ちょっと気になったんだけど、あの諒子って本当に学生チャンピオンなんすか?いや確かにフォームは綺麗だし“きつね”とは比べ物にならないけど・・・でもあの程度なら俺だって相手出来るぜ。ましてやあの怜が勝てなかった相手とはちょっとおもえねぇなぁ」

 “あらいぐま”は顎を撫でながら訝しげな視線を下に送った。

 確かにこの場の試合状況はあまりパッとしなかった。
 前評判が高かっただけに5人の観客を唸らせるような技の応酬かと思いきや、“きつね”くんの“ど素人”全開の逃げ方は先のとおりだが、一方の諒子にしても明らかに逃げた後の空間に向って竹刀を振り下ろしていたのだ。
 そしてご丁寧に体重を乗せきっていたため、そのまま走り抜けてしまい、ようやく立ち止まり振り返ったのは10歩も進んだ後だった。
 しかしその諒子の振り返った顔を見て、5人の観客は首を傾げざるをえなかった。

 驚愕・・・

 まさにそれ以外の表現など有り得ない・・・そんな表情だったのだ。
 しかしその中で“とら”だけが、何かに気付いたように目を剥いた。

「まさか・・・なぁ。いや、しかし・・・有り得るかもしれねぇ・・・“きつね”なら。でも・・・だとしたら、とんでもねぇ試合をしてやがる・・・あの二人とも」

 “とら”の呟きに“あらいぐま”が反応した。

「何です?何かこの試合の見所でも判ったんですか」

「あぁ。何となく想像が付いてきた気がする。なあ“あらいぐま”よ、お前昨日“きつね”の調教に付き合ったんだろ?何か変った事してなかったか」

 反対に“とら”に訊かれて“あらいぐま”は宙を睨んだ。

「それって諒子の方の事ですよね。俺、殆ど美紀で遊んでただけだったからなぁ。偶に休憩中に“きつね”の部屋に行ったけど・・・別に変ったことは無かったですよ」

「そうかい・・・例えば・・何かリズムを刻む道具か何か使ってなかったか?」

 “とら”のその指摘に“あらいぐま”は突然手を叩いた。

「あぁっ!あった、有りましたよ。部屋に行くといっつもメトロノームが動いてました」

「なぁるほど。メトロノームね。こりゃあビンゴだなぁ」

「どうしました?何か判ったんですね」

 二人の会話に“くらうん”が割り込んできた。
 その問いに“とら”は黙って諒子を指差した。
 既に先ほどから何度も同じように“きつね”くんを追い詰め木刀を振り下ろしているのだが、いずれもすんでの所で“きつね”くんにかわされ続けているのだった。

「あの女・・・おそらくもう長くは持たないぜ。頭ん中はもうパニックだろうて。何せ“きつね”の野郎が目の前から消え失せるんだからな」

「消える?どういう事ですか。そういう暗示なんですか?」

 “くらうん”は訳が判らない様子で訊き返した。

「いや、直接そういった暗示じゃねぇ。あいつが仕組んだのは、多分あの女のリズムを狂わすことだと思う」

「リズムですか?う~ん・・・正直、良く判りません」

 “くらうん”だけでなく周りのメンバー達もきょとんとして“とら”の話しに耳を傾けていた。

「つまりだなぁ・・・喩えて言うならコンピュータの動作クロックってあるだろ?普段1GHzで動作しているCPUが有るとするわな。“きつね”がやったことは、例えば2クロックを1クロックって誤認させるようなことじゃねぇかな。そうすりゃあ、そのコンピュータは実質500MHzで動作することになる」

「えっえっえっ・・・どういう事です?諒子の動作が半分の速度になるって事ですか?」

「ああ、そうだ。それに、それだけじゃねぇ。恐らく反応速度も、動体視力も・・・およそ身体の機能全てが大幅にレベルダウンしてる筈だ」

 そこまで聞いて“くま”は「あっ」と声を上げた。

「なるほど・・・そういう事か。だから諒子って娘はあんなにゆっくり喋っていたのか。それに“きつね”くんまで同じペースで喋っていたのは、普通に喋ると早すぎて諒子に聞き取れないからなんだっ」

「あぁ、おそらくそんな所だろうて。おい、“くらうん”気付いているか?あの大先生のワードが何だったか」

 “とら”はニヤッと笑って“くらうん”に言った。

「さっきのアレはギャグじゃねぇ。『加速装置』っていうワードなんだ。しかも実際は“諒子”の『減速ワード』・・・つまり相対的には加速装置で間違っていねぇんだ」

 “とら”の説明を聞いて“くらうん”は目を丸くした。
 “とら”の理屈は理解できる気がしたが、それを実際に人に対して行うのにいったいどんなテクニックを用いれば良いのか、どれほど深い催眠に導けば良いのか・・・皆目見当もつかなかった。
 そこに横から“あらいぐま”が口を挟んだ。

「う~ん・・・説明は何となく判るんですけどね。でも結局“きつね”のそれ、失敗でしょ。諒子普通に動き回ってるみたいだし。アイツ、どうやって収拾を付けるつもりなんだろ」

 “あらいぐま”のそんな呟きを聞いた“とら”は、ニンマリと笑みを作り、“あらいぐま”の目を覗き込んだ。
 “あらいぐま”はそんな“とら”をキョトンと見返していたが、やがて何かに気付いたように慌てて視線を下に向けた。
 すると忽ち“あらいぐま”の目が驚愕に見開かれた。

「う・・・嘘だろ、おい・・・」

「いや・・・嘘でも、マヤカシでもねぇ。あの諒子って女は・・・半分に減速されてなお、あのスピードで戦ってやがるんだっ!」

「ばっ・・・化け物だ・・・怜が・・・怜が勝てねぇ訳だ。陸上の金メダリストだって半分にスピードを落されりゃ、かけっこで小学生に負けるぜ」

 “あらいぐま”のその呟きが、その場の全員の感想だった。

「で・・・でも、もしそうなら、この試合、どう転ぶかなんて判らないじゃないですか」

 “きりん”が眼鏡を押し上げながら言った。

「いや・・・そんなことはねぇ。もう勝負は殆ど着きかけている。見てみなよ」

 “とら”はそう言って下を指差した。
 そこにはスッカリ息を切らして肩で息をしている諒子と、涼しげな表情で肩に竹刀を担いで立っている“きつね”くんの姿があった。

「最初の一撃が一番ビビッたろうな、“きつね”は。誰だって半分にスピードを落した相手が、あんな勢いで掛かって来るなんて思いもしねぇ。でもよ・・・一旦馴れちまったら“あらいぐま”の言うとおり大した相手じゃねぇんだ。あの諒子って女・・・確かに化け物じみた腕だけどよ、“きつね”の方が上手の化け物だったようだな」

 “とら”の言葉どおりいよいよ試合は最後の山場を迎えようとしていた。

 (なぜっ?いったいどうしてぇっ!)

 諒子は大地が崩れ去ってしまうようなショックを受け、顔色をなくしていた。
 自分の調子が悪い訳でもない。
 それどころか今まで経験したことが無いような信じられない好調さだった。
 自分がトップスピードで戦っていることは諒子の体中のセンサーが告げていた。
 20年の歳月をかけて一歩一歩チューニングしてきた自分だけの体内センサーである。
 諒子にとってそれこそ絶対に間違うことの無い基準だった。
 しかも・・・過去何度かトップスピードで戦った時と大きく違っていることがあった。
 一つは視界。
 過去の経験と比べて遥かに広い視野を諒子は体験していた。トップスピードで攻撃を繰り出しながらも、なおいつも以上にクリアに敵を捉えることが出来ていたのだ。
 そしてもう一つは身体のキレだった。
 過去の戦いにおいて、常に感じていたもどかしさ・・・それは自分の反応速度に比べて余りにも身体の動作が重いということだった。
 しかし・・・今日は違っていた。まるで身体に羽が生えたように軽く、自分の反応速度と完全にシンクロして体が動いていたのだ。

(奇蹟・・・京子さんが与えてくれた奇蹟だわっ)

 『健志』に切り掛かっていく最初の出足で諒子はそう確信したのだった。

 しかし・・・

 満々たる自信と供に打ち下ろした木刀が『健志』の頭部を打ち砕くと確信した途端、その悪夢は生じたのだった。

 一瞬、奇妙に『健志』の体がぶれた。
 上下左右に細かく小さく振動している体が諒子の目に捉えられたのだ。
 それは不思議な光景だった。
 まるで高速シャッターで撮影したビデオのようにコマ落しで『健志』の体が小さく移動を繰り返していたのだ。
 諒子は一瞬訝しげに目を細めたが、しかし打ち下ろす木刀の軌跡に迷いは無かった。
 身体は充分に木刀から伝わるであろう反作用に備えていた。
 しかし次の瞬間、諒子の獲物は幻のように消え去り、木刀は徒に空気を切り裂き、その凶暴なエネルギーを虚しく空間に放出したのだった。
 その場で転ばなかったのは、ただ諒子の驚異的な運動神経の賜物だった。

 諒子が今体験したこと・・・それはまさに“有りうべからざる”出来事なのだった。
 地面の底が抜け、天地がひっくり返るような衝撃だった。

 (絶っ対に・・・絶対に避けられない・・・あの距離でかすりもしないなんてっ物理的に有り得ないのにっ!)

 しかし一方で現実に空振りした事実は揺るがない。
 諒子にとってどちらも譲ることが出来ない究極の二律背反だった。
 そして、そこから逃げ出すにはたった1つの方法しか無かった。

 諒子は振り返った。
 そこには確かに『健志』がいた。
 しかし、床に這いつくばっている。
 そこに諒子の精神は欺瞞に満ちた折り合いをつけようとした。

 (偶然だ・・・偶然アイツが転んだから・・・だから当たらなかったんだ)

 気を取り直し再び構える諒子。
 しかしその目の前で、『健志』は奇妙に立ち上がった。
 まるで糸に引かれるマリオネットのように、重力を感じさせない軽さでひょいっと立ち上がったのだ。
 それを見て何故か諒子は背筋が寒くなった。
 そして・・・まるで見たくない現実を打ち消すように諒子は再び打ち込んでいった。
 悪夢の罠に飛び込んだのだった。

 あれからいったい何度、諒子は切り掛かったのだろう・・・何度打ち込んだのだろう・・・
 しかし諒子の渾身の一撃は悉く避けられ、かわされ、一度は開放されたかに見えた悪夢に完全に掴まっていた。

 (うそだ・・・こんなの嘘だっ!)

 諒子は体中びっしょりと汗をかき、肩で荒い息をしていた。目にはうっすらと涙を溜め、木刀を構えながらも小さな震えを抑えることが出来なかった。

 目の前に『健志』がいる。
 ニヤニヤと嫌らしい笑いを浮べ諒子を見下している。
 ハッキリと実在しているのに、諒子の木刀だけは届かない。
 突こうが薙ぎ払おうが決してその身体に触れることが出来ないのだった。

 諒子の心が産んだ欺瞞に満ちた解決策も完全に否定され、逃げ場を失った心はついに暴走をし始めた。

 (あ・・・悪魔・・・この・・この男は悪魔・・・人間じゃないっ)

 ホンの数刻前に体得していた心技体の境地は、まず『心』から崩れ出したのだった。
 かつて無いほどの恐怖が諒子の背中に取り付いていた。
 柔らかくしなやかだった筋肉は硬く強張り、絶妙のバランス感覚は失調し、呼吸は乱れ、視界が霞んだ。

 ただその場に突っ立ち笑っているだけの『健志』が異様に大きく見えた。反対に自分の木刀が蟷螂の剣に見えた。

 (だめっ・・・これじゃ勝てっこないっ!もっと強く、もっと早く打たなきゃ!)

 その思いが諒子の完成された技を鈍らせる。
 『技』の崩壊も必然だった。
 そして恐怖に背中を押された諒子は、もう相手の出方を見るような余裕は無くなっていた。
 攻めて、攻めて、攻め続けるしか、恐怖から逃れる方法が無いのだ。
 その結果、諒子の体力は極端に消耗し、忽ち底をつく事になった。

 “きつね”くんは目の前を“ゆっくりと駆け抜ける”諒子に足をひょいっと出すと、呆気ないほど簡単に諒子は床に倒れ伏した。
 遂には『体』が限界となったのだった。

 (もう・・・駄目・・・・もう・・・・限界・・・・もう・・・)

 床に突っ伏したまま諒子は起き上がる気力を無くしていた。
 身体は鉛のように重く、呼吸は喉が焼け付くほど荒かった。

 (もう充分・・・やれることは十分やったわ・・・私はベストを尽した・・・)

 どんなに鍛え上げた人物でも、その限界点では心の弱さが現れるのだ。
 甘く・・・優しい誘惑が諒子の脳を侵していく。
 そしてそれと同時に胸の奥で何かがゆっくりと目を覚まそうとしていた。

 一方、美紀はそんな諒子の様子を呆然と見詰めていた。

 信じられない・・・

 その思いは或いは戦っている当人より強かったのかもしれない。
 こんな諒子を見たのは初めてだった。

 常に完璧であらゆる面で美紀を保護し、導いてきた諒子・・・

 反発を感じたことは数え切れないが、その強さを疑ったことは一度も無かった。
 無論、勝負事ではどんな結果が出るかはやってみないと判らないもの。しかし、今の諒子のようにまるで相手にならないような勝負になるとは考えられなかった。
 事実、“きつね”くんに遅速度暗示をかけられている美紀の目には、諒子のスピードは普段どおりに映っていた。
 いや、最初の一太刀に限って言えば普段以上の身体のキレをハッキリと見て取っていたのだ。
 それだけに諒子の木刀が空を切った衝撃は大きかった。
 美紀の目には木刀が『健志』の頭蓋骨を叩き割る幻影さえ見えていたのだ。

 それなのにまるで空気のように必殺の木刀をかわしている『健志』・・・

 諒子の悪夢はそのまま美紀の恐怖となっていった。
 先ほどの『健志』の言葉が耳に蘇る。
 諒子の突きがかわされる度に、木刀が空を切る度に、美紀の耳にその声が大きく鳴り響いていた。
 椅子に座って試合を見詰めている美紀もまた、顔から血の気が引き、身体が震え、背中を汗が伝っていた。
 そして今・・・諒子はついに崩れ落ちたのだった。

 (お姉ちゃんが・・・お姉ちゃんが・・・負ける・・・の?)

 そう思った途端、美紀の胸の奥でザワッと何かが蠢いた。
 鼓動がどんどん早くなり、気がすぅっと遠くなってきた。
 しかしいつの間にか感じていた恐怖は消え去り、身体がホッカリと温かくなってきた。

 (わたし・・・気を失う・・・のかなぁ)

 ゆったりとした流れの中、美紀はそう思ったが、しかし何かが小さく引っかかり何故かその流れに身を任すことが出来なかった。
 丁度そのときだった。

「ここまで・・・か。あっけない」

 すぐ傍で『剛』(=怜)の呟きが耳に届いた。
 それが何故か美紀の癇にさわった。
 その喋り方と言葉の裏に潜む失望感・・・それを感じ取った時、美紀は胸のうちの緩やかな流れをせき止めていた。
 歯を食いしばって目を開く。
 途端に蘇る修羅場、倒れ伏している諒子、そして圧倒的な勝利に酔った笑みを浮べている『健志』。
 そしてその『健志』は、目を開けた美紀に気付くと、真っ直ぐに視線を送りニヤリと笑みを浮べたのだった。
 余りの恐怖に美紀の体は一瞬で金縛りにあったが、それでも・・・それでも美紀は最後の気力を振り絞り、叫ばずにはいられなかった。

「お姉ちゃんっ!!起きてっ!!お姉ちゃんっ、立ってっ!お願いっっっ!!」

 それは無意識にその存在を感じ取っていた怜に対する石田姉妹としての最後のプライドだったかもしれなかった。

 諒子がゆっくりと霞む目を閉じようとしたその時、それを遮るように、鋭い、血を吐くような、悲鳴のような、叫び声が武道場に響き渡ったのだった。
 諒子はその声にハッと目を見開いた。
 疲れきり混乱した脳が一瞬でクリアに覚醒した。

 (駄目だっ!私は倒れる訳には行かないっ!私が美紀を守る・・・どんな事をしてもっ、絶対に守るっ!)

 諒子は重力が倍になったように重い体を気力で起こすと、倒れてもなおそれだけは放さずにいた木刀に縋り片膝立ちのまま呼吸を整えた。
 そして声のした方に視線を向け、椅子に縛られた美紀を見た。

 生意気で、反抗的で、へそ曲がり・・・諒子に対していつもそんな態度の美紀が、今無限の思いを込めて諒子を見詰めていた。

 ― 勝って、お姉ちゃん ―

 声にならない思いが、諒子の胸に直接伝わってくる。

 (美紀・・・お姉ちゃんを見てなさい。私の戦いをその目に刻み付けるのよ)

 時間にすれば、ほんの一瞬のアイ・コンタクト・・・

 しかし諒子の中に決意が生まれるには充分だった。
 まるで新しいエネルギーを注入されたように、諒子は立ち上がった。
 そして、美紀に美しい横顔を向けると再び『健志』と対峙したのだった。

 その諒子の表情、眼差し・・・

 「まだ・・・戦えるのか」

 期せずして“きつね”くんと怜の口から同じ言葉が漏れた。
 ギリギリまで追い詰めた筈の諒子が美紀のたった一言で見事に蘇ってしまっていた。
 その底力は“きつね”くんの予想さえ上回るものだった。

「でも・・・やっぱり、これで最後さ」

 わざと聞こえるように言って“きつね”くんは諒子を挑発した。
 しかし諒子はその軽口に意外にも反応した。

「えぇ・・・これで最後よ」

 (もう私の体力は尽きかけている。本当にこれが最後の一太刀・・・当てる事が出来れば私の勝ち、逃げられたら負け・・・)

 シンプル極まりないルールだが、自分の負けは美紀の死に直結していると信じている諒子にはまさに背水の陣だった。

 (正直・・・勝てるか判らないわ。ゴメンネ、美紀。でもね・・・後悔するような戦いだけはしない。余力なんか1パーセントも残さない、最後の1滴までこの一太刀に注ぎ込むわ。例え及ばなくても・・・貴女の・・・貴女の死に顔だけは見なくて済みそうよ)

 諒子の悲壮な決意が表情にハッキリと現れていた。
 しかしその顔を見詰めていた“きつね”くんは失望したように、ウンザリした表情で肩を竦めた。

「まったく肩がこるぜ。さっ・・・早いとこ仕掛けてきなよ」

 その余裕が諒子に攻撃を躊躇わせていた。

 (だめ・・・このままじゃ、また二の舞。かわされる・・・)

 木刀を構えたまま諒子の顔が苦渋に歪んだ。
 再び泥沼の悪夢に沈んでいきそうな予感があった。

 しかし、その時不意に・・・全く不意に懐かしい声が頭の中に浮かび上がってきたのだった。

『・・・ありがとう・・・わたし・・・頑張ってみる。諒子さん、力を貸してくれる?』

 それはあの運命の晩、電話から流れてきた京子の言葉だった。

 (そう・・・それで私は・・・こう言ったわ。『京子さん・・・こちらこそ有難う。勇気を持ってくれて。私、貴方の信頼は絶対に裏切りません』て・・・)

 そこまで思い出して、諒子は自分の言葉に頭を殴られたようなショックを受けた。

 (私は・・・私はいつの間にか剣道の試合をしているような気持ちになっていた!勝つか、負けるか・・・そんなこと、どうだっていいっ!死力なんか尽さなくったっていい、ただ・・・美紀が生き延びてくれれば・・・。私は京子さんだけでなく美紀の信頼も裏切るところだった。美紀の信頼に応えるには・・・・私は死ねない。私は・・・生き延びる。そのために全ての力を注ぎ込むっ)

 まるで立ち込めた雲が吹き飛ばされるように諒子の迷いが消えていった。
 それと同時に、この日初めて諒子の顔にしたたかな柔軟さが現れてきた。
 諒子の表情をじっと見詰めていた“きつね”くんも、その成り行きに意外そうに眉を上げた。

 (ありがとう、京子さん。わたしも・・・頑張る。京子さん、力を貸してください)

 心の中でそう呟くと、諒子は大きく息を吸い、ゆっくりとカウントダウンを始めた。

 (10・・・9・・・8・・・7・・・)

 一つ数える度に京子との思い出が浮かび上がってきた。
 初めて学校で会った時のビックリしたような表情・・・真剣に引き継ぎ事項を説明する口調・・・健志の脅迫を必死に断わる時の震え・・・そして運命の電話

 (6・・・5・・・4・・・3・・・)

 そして次に浮かんだのは美紀のことだった。
 小さかった美紀、母親に甘える美紀、そしてそれに嫉妬していた自分、反抗的な口調も一緒に思い出して諒子は小さく微笑んだ。

 しかしラスト2カウントになると、諒子はその思い出すら封印した。
 軽く目を閉じる。
 頭の中は完全にカラッポになった。
 この20年で得た全ての経験を今この一瞬で燃焼させるのだ・・・生き延びるために
 諒子はその一瞬を待ち焦がれていた。

 一方“きつね”くんは、先ほどからの諒子の表情に見蕩れていた。
 ホンの数刻前には悲壮な硬い表情をしていた筈なのに、いつの間にか柔らかな笑みが浮かんでいるのだ。
 表情筋を読むに長けた”きつね”くんの目には、僅かな間に万華鏡のようにくるくると表情が変っていった様子がはっきりと見て取れていた。

 (どうしたんだ・・・この女。なにか・・・何か仕掛けてくるのか?)

 全て“きつね”くんのシナリオどおりに運んでいた今日の第3段階の調教で、この最後の詰めの段階で初めて予想していなかった兆候が現れてきたのだ。
 微かに“きつね”くんの唇の端が持ち上がった。
 それは今までの作られた笑みではなく、自然に湧き上がって来た“きつね”くん本来の笑みだった。

 (面白い・・・少し楽しませてくれるのかな?)

 諒子が静かに瞳を閉じた。
 途端にあの肌に突き刺さるような冷たい闘気が復活した・・・それも数刻前の比ではない強さで。

 いよいよ戦いの再開・・・

 “きつね”くんも明確にその気配を感じ取る。
 そして諒子の闘気に対抗すべく無意識に心の圧力を高めていった。
 一瞬の挙動も見逃さぬよう瞳は諒子に注がれ、耳は諒子の呼吸音さえ聞き分けていた。
 ドールメイカー“きつね”の集中力は今極限まで高められていた。

 場内の人間全てが固唾を飲んでその一瞬に注目していた。
 しかし・・・その時誰一人予期していなかった出来事が突然発生したのだった。

 最初に気付いたのは“あらいぐま”だった。
 視界の隅を何かが横切ったような気がしたのだ。
 無意識に視線を向け・・・そこで“あらいぐま”は信じられないモノを目撃した。

「なっ・・・なんだ!あのガキ!」

 その声に2階席の残りの4人も“あらいぐま”が指差す先に視線を向けた。
 するとそこには制服を着た少年が呆然と立ち竦んでいたのだ。
 呆気に取られる2階席の5人。
 急いで走り込んできたのか少年は肩で息をしている。
 そしてその視線は対峙する“きつね”くんと諒子に向けられていた。

「やばっ・・・部外者だ!」

 “きりん”が小さく叫んだ。
 しかし“きりん”達が何か行動を起こすより早く、少年の口が開いた。
 ビックリするほど大きな声で・・・しかしノンビリとした口調で言ったのだった。

「諒子先生~っ!何やってるのぉ~~~」

 その大声は全ての人間の耳に届いた。
 無論、目を閉じた諒子の耳にも・・・

 しかし・・・それは何というタイミングだったのだろう。
 ラスト2カウント
 諒子の全ての神経は2秒後に開始する最後の戦いに集中し、それ以外の全ての情報を雑音として顧みる事は無かったのだ。
 だから・・・その言葉は諒子の意識を素通りして、ヒラヒラと舞いながら心の奥底に舞い降りていったのだった。
 “きつね”くんだけが到達できる心の奥底・・・そこに仕掛けられた秘密の金庫
 ノーマークの“ワード”は、しかしプログラムされたとおりその金庫に舞い降りるとゆっくりと鍵に形を変え、“きつね”くんさえ知らない隠れた鍵穴に吸い込まれていった。

 そして次の瞬間・・・諒子の心を拘束していた全ての仕掛けは消滅した。
 諒子の封印は今、解き放たれたのだった。
 そしてほぼ同時に諒子のカウンターは最後の数字を刻んでいた。

 目を開ける諒子・・・

 最後の決戦はこうして開始されたのだった。

 そしてその声は、無論“きつね”くんの耳にも届いていた。
 すぐに事態を悟る。
 しかし“きつね”くんはあえてその声を無視した。

 (ホンの数秒で・・・全ては決着する。後の処理は他のメンバーに任せてもいい。今はこの仕事を片付けるのが先決っ)

 “きつね”くんはその声に視線を向けることすらしなかった・・・いや、諒子の気迫がそれを許さなかったのだ。
 どんどん強まる闘気、もう破裂寸前にまで膨れ上がっている。
 一瞬の気の緩みも許されなかった。

 そんな中で・・・とうとう諒子の目が開かれたのだった。

 諒子の顔が上がり“きつね”くんの視線を捉える。

 その瞬間っ!“きつね”くんは生涯忘れられない程の衝撃を味わった。

 (なっ・・・なにぃぃいいっ?!)

 諒子の顔は微笑んでいた。
 一瞬前まで吹き荒れ“きつね”くんの肌にビリビリとするような傷みを感じさせていた闘気が一瞬で消滅していたのだ。
 そして諒子は歩を進めた・・・まるで花園を歩くように優雅に、可憐に。
 諒子の“気”に対抗するべく気力を高めていた“きつね”くんは肩透かしを食ったように一瞬諒子の顔に見蕩れた。

 そして・・・

 それに気付いた時はもう完全に手遅れだった。
 ホンの一瞬で諒子は“きつね”くんのすぐ前に居た。
 木刀は大きく振りかぶられ、何の構えもしていない“きつね”くんの頭頂を目指して振り下ろされようとしていたのだ。

 神業のような移動スピードが復活していたっ!

 しかし・・・しかし、そんなことは“きつね”くんにとって意識の外だった。
 “きつね”くんに衝撃を与えたこと・・・それは諒子の取った戦法だった。

 自分の闘気をコントロールすることで相手の気を揺さぶり、それを一気に消し去って相手の心に間隙を穿つ・・・これはまさにマインド・コントロ-ルの手法そのものだったのだ!

 諒子の作戦なのか、無意識の賜物なのか、諒子は“きつね”くんに対してマインド・コントロールで対抗してきたのだった。
 木刀を振り下ろしながら、諒子の瞳には一片の殺気も無かった。
 完全に殺気を消し去った、完璧なアサシンに諒子は変貌を遂げていたのだっ。

 もし・・・もしもここで“きつね”くんの目に一瞬でも動揺が走れば、勝負はここで終わっていた。
 どんな優秀な催眠術者でも、その心の底を見透かされてしまっては暗示に効果を与えることは出来ないのだ。
 ましてや相手は諒子・・・2度目のチャンスは無いのだ。

 しかし“きつね”くんは怯まなかった。
 頭でそう考えていた訳では無かった。

 ただ・・・決して負けない・・・そう確信していたからだった。

 それこそ“きつね”くんが自らにかけた最高の暗示だった。
 自信に満ち溢れた目で“きつね”くんは諒子の瞳を見た。
 深い泉にように落ち着いていた視線に一瞬、細波が立つ。
 数刻前に繰り返された悪夢に精神が動揺する。

 (勝てるっ、打ち砕く)

 そう確信している精神と、

 (駄目っ、もう許してっ)

 悲鳴をあげる精神
 “きつね”くんの一睨みで、諒子の中で最後の闘争が繰り広げられた。
 しかし、身体に刻み込まれた技は一瞬の停滞もブレも無く木刀に最大の力を与えていた。
 そして魂の二つの叫びに決着が着かぬまま、今、全ての体重を乗せた木刀が綺麗な軌跡を描きながら“きつね”くんの頭頂に振り下ろされていった。

 次の瞬間・・・武道場を揺るがす大音量の衝撃がその場にいた全員の耳を突き抜けていったのだった。

< つづく >

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