(20)後始末
「こ・・・こりゃぁ・・・ひでぇ」
2階から駆け下りた“あらいぐま”は真っ先に武道場に降り立つと、怜のもとに駆けつけその惨状を目の当たりにした。
怜は気を失って倒れ伏していた。
ジーンズの裾から無防備に晒された素足が真っ赤に染まっている。
爪先からはドクドクと血が溢れ出している。
足首は紫色に腫れ上がり、特に左足は不自然な角度に曲がっていた。
未だ木刀をしっかりと握り締めている両手の指もまた真っ赤に染まっていた。
そして足首同様、手首も赤黒く腫れ上がり始めていた。
さらに、怜の全身は小刻みな痙攣を繰り返し、今もなお低い歯軋りの音が漏れていた。
予想以上の惨禍に腰が引けてしまった“あらいぐま”は遠巻きに怜を見詰めることしか出来なかったが、そのとき“あらいぐま”を押しのけるように誰かが割って入って来た。
「これは・・・いけませんね」
恐れ気も無く怜の傍らにしゃがみ込み、脈を計ってそう呟いたのは、意外にも“くらうん”だった。
そして持参した鞄から大型の鋏を取り出すと、無造作に怜のズボンを裾から切り裂き始めたのだった。
腿の付け根まで一気に切り裂くと、それを広げ足を観察する。
「左膝も・・・ですか」
“くらうん”は呟きながら怜の足首に手を添えた。
途端に怜の口から獣のような呻き声が洩れ、上体を大きく痙攣させる。
そして次の瞬間、怜は再び目を開いたのだった。
「ひっ!」
叫び声を上げたのは、“あらいぐま”だった。
怜の目は真っ赤に充血し、まるで血まみれの吸血鬼のような形相だったのだ。
「怜さん、聞こえますか?少し我慢を・・・」
“くらうん”は、しかしそんな見掛けの異常さには眉一つ動かさず、怜の応急手当を優先させようとした。
しかし、次の瞬間、怜が握り締めている木刀が“くらうん”の頭を掠めるに至って、言葉を中断し尻餅をつきながらその場を撤退するしかなかった。
怜はそのまま、足を投げ出し上体だけを起こしたまま木刀を無茶苦茶に振り回し始めた。
「ぐっ・・ぐぅぅううるるっ・・・あっああっぐう・・・」
既に正気を無くしているように唸り声を上げ、そして指先からは新たな鮮血が噴き出し、あたりを点々と赤く染めていた。
「あっ・・“あらいぐま”くんっ!あの木刀をちょっと取り上げてください。これじゃあ手当てが出来ません」
“くらうん”は傍らにいた“あらいぐま”にそう頼んだが、“あらいぐま”は真っ青な顔でかぶりを振った。
「ちょっ・・・ちょっと、なんで俺に言うんですっ!俺が怜がダメだってこと知ってるでしょっ?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!も、何でもいいから早くっ」
“くらうん”と“あらいぐま”は押し問答を始めたが、その間にも怜の挙動は益々酷くなってきた。
振り回す木刀も荒々しくなりむやみに床に叩きつけていた。
そのショックで手首の腫れもみるみる膨らんできた。
このままでは、怜の肉体に回復不能のダメージが残ってしまう・・・
“くらうん”がそう考えた時だった。
「レベルッ、ダンッ!カウントッ、テン!!」
叩きつけるような怒声が二人の背後から轟いた。
振り返る二人の目に、怒りを露わにした“きつね”くんの姿があった。
“きつね”くんは二人を無言で押しのけると怜の前に出た。
すると“きつね”くんの放った一声が効いたのか、怜は狂ったように振り回していた木刀を止め、そして何かを探すように視線を宙に漂わせている。
“きつね”くんは間髪を入れずに言葉を続けた。
「カウント、ナインッ、エイッ、セブン!」
最初の一声よりは幾分落ち着いた声で、しかし武道場中に響き渡るような大声で“きつね”くんはカウント・ダウンをした。
すると徐々に怜の表情が緩んできた。
体中の強張った筋肉がほぐれ、痙攣も収まってくる。
すると“きつね”くんは、一転して落ち着いた柔らかい声になってさらに続けた。
「OK、怜・・・そう、そのまま・・・シックス・・・ファイブ・・・フォウ・・・スリー」
怜の上体がぐらぐらと揺れ始めた。
すると“きつね”くんはスグに怜の背後に膝をつくとその身体を受け止めた。
「大丈夫だよ・・・怜、俺に身体を預けなさい・・・さぁ・・・ツゥ・・・ワン・・・ゼロ」
最後のカウントが刻まれた途端、怜は“きつね”くんの胸に倒れこんだ。
握り締めていた木刀が手からするりと抜け落ち、床で重い音を立てた。
一旦目を閉じる。
そして再び目を見開いた時、怜の瞳は充血はしているもののハッキリと“きつね”くんを捉えていた。
しかし何かを言おうと口を開きかけた途端、怜は再び全身を痙攣させた。
傷ついた手で頭を抱え、口を真一文字に結び必死に何かを耐えているようだった。
“きつね”くんは、そんな怜を見て言葉を続けた。
「カーム・・・ダウン・・・怜。“クリア・モード・・・・B”」
“きつね”くんの最後のワードが怜に届いた時、怜を襲っていた激烈な頭痛がふっと消えた。
しかしその途端、今度は反対に怜の手足からズキズキとする痛みが湧き上がって来たのだった。
でも、これは先ほどの頭痛に比べれば、ずっと怜にとっては慣れ親しんだ痛みだった。
顔を顰めながらも怜は“きつね”くんを見上げて口を開いた。
「“きつねさま”・・・お怪我は?」
「俺かい?」
“きつね”くんは笑顔を作り肩を竦めた。
その仕種を見て、怜は微笑んだ。
いつか諒子が感じたような・・・花が開くような、そんな笑顔だった。
その怜の笑顔を見て、“きつね”くんもニヤッと片頬で笑った。
「オメデト。遂に勝っちゃったね・・・諒子に」
その言葉に怜の目が丸くなった。
「わたし・・・勝てたんですか?」
不思議そうな顔の怜に、“きつね”くんは怜の上体を支え諒子の姿を顎で指した。
するとそこには頭を床に摩り付けたポーズのまま固まっている石田姉妹の姿があった。
「お前のおかげだよ・・・怜。お前は・・・そのぅ・・・良いドールだ」
その“きつね”くんの少し照れたような声が怜の耳に届くと、怜も一瞬で真っ赤になって俯いてしまった。
全身の痛みが完全に吹っ飛んでいた。
とんでもないマジック・ワードだった。
もっとも・・・2人の様子を取り囲むように見ていた男達からは、ブーイングの嵐だったのだが。
「怜・・・判ってると思うけど、暫らく入院だ。今から手術が終わるまではお前の意識を封印しておくよ」
“きつね”くんは、怜を床にそっと寝かせながら言った。
その言葉に怜はこっくりと頷いた。
「あ、はい。あの・・・でもその前に一つだけ、良いでしょうか?」
怜は頭だけ起こしながら言った。
“きつね”くんはちょっと眉を上げてその口に耳を近づける。
すると熱い吐息とともに、怜の小さな願い事が囁かれた。
一瞬、思案する“きつね”くんと、それを不安げに見詰める怜・・・
「ま・・・良いだろぅ」
“きつね”くんが溜息とともにそう答えると、怜は一転して安心した表情で微笑んだ。
その耳もとに反対に顔を寄せ、“きつね”くんは小声でキーワードを囁く。
すると途端に怜の視線は焦点を失い、ぽっかりと空洞のような瞳になった。
その目を見詰めながら“きつね”くんは静かにラスト・ワードを口にした。
「フリーズ・・・マインド」
この言葉を最後に怜の意識はプッツリと途切れた。
怜の肉体にようやく休息の時間が訪れたのだった。
そして怜がサスペンド・モードになった途端、マインド・サーカスの面々はようやく今日の公開調教が終了したことを実感した。
“くらうん”は早速怜の傍らにしゃがみ込むと、先ほどの続きで怪我の具合を確かめ始める。
そして傍で覗き込んでいる“きりん”や“くま”にテキパキと指示をだした。
「“きりん”くん、ちょっと倉庫から棒状のものが有ったら持って来てください。えぇ、そうです、副木にするんです。あと“くま”さん、あそこのおっきな旗・・・そう、あの校章が描いてあるのを取ってきてください。担架の代わりにしますから」
そしてその一方で携帯を取り出すと、“くらうん”はマインド・サーカスが御用達にしている医者を呼び出し予約を入れるとともに、救急車代わりの車の手配まで行っていた。
見掛けと大きく異なり、事務能力は大したものだった。
“くらうん”が独りで張り切りだして手持ち無沙汰になった“あらいぐま”は、椅子に座って休憩している“きつね”くんのところに歩いていった。
さすがに疲れたのか、“きつね”くんは膝に手を置いたままじっと俯いている。
「いよぉ・・・お疲れさんっ!今回も上出来じゃねぇかっ。良いモン見させてもらったよ」
“あらいぐま”は後から“きつね”くんの肩をポンと叩き、顔を覗き込んだ。
しかしその表情を見た途端、“あらいぐま”は言葉を失ってしまった。
唇をぎゅっと噛みしめ、何かに耐えるような苦しげな表情をして、“きつね”くんはじっと怜だけを見詰めていたのだ。
「おいっ・・・“きつね”・・・」
“あらいぐま”の呼びかけに“きつね”くんは小さく頭を振った。
「上出来?・・・冗談じゃないっ、最っ低ですよっ!」
怜を介抱していた時の優しげな表情は演技だったとでも言うように、“きつね”くんは怒りを顕わにしていた。
「おいおい・・・ま、確かにハプニングだったけどよ、結局あの姉妹も予定通り仕上げられたし、怜にはちょっと可哀想だったけど・・・」
「ハプニングなんかじゃないっ!!」
“あらいぐま”の言葉を遮るように“きつね”くんは言い切った。
「迂闊だった・・・なんて・・・迂闊だったんだ・・・くそっ!」
「おっ・・おいっ、何言ってんだ・・・ハプニング・・・だろっ?」
“あらいぐま”は困惑した表情で言った。
しかし“きつね”くんは力ない表情で“あらいぐま”を振り返ると頭を振って言った。
「解除ワード・・・解除ワードなんですよ・・・あの少年が叫んだのは」
「なっ・・・なにぃ?そんな・・・バカなっ!」
“あらいぐま”の顔つきが変わった。
「な・・・なんだってあのガキが俺らのトップシークレットを知ってんだよっ!お前・・・そうだ、だいたいお前しか知らないワードだぞ。誰かに漏らしたのかよっ?」
「漏らしやしませんよ・・・っていうか、アレ、俺も知らないワードです」
「なっ・・・何いってんだっ!お前が知らないワードで、なんでお前の催眠が解けるんだよ。ちょっと頭を冷やせよ・・・やっぱ、ちょっとした偶然・・・なんだろ?」
しかし“きつね”くんはきっぱりと頭を振った。
「もう・・・だいたい見当はつきました。迂闊な俺は・・・やっぱ半分は俺の責任かも。でもね・・・やっぱり許せない・・・これだけは。俺のドールを傷つけ、俺の仕事をぶち壊そうとしたことは・・・許さない」
“きつね”くんは立ち上がった。
そして静かな怒りを湛えた視線をじっと虚空に据えた。
*
「よっ・・・お前、ここの生徒か?」
皆がまだ怜を取り囲んでいた頃、独り“とら”だけは呆然と佇んでいる少年のところに足を運んだ。
少年はここで何が起きているか把握できていない様子だったが、“とら”に話し掛けられるとビクッと身体を強張らせた。
「あっ・・・あの・・・はいっ」
そんな少年に“とら”はニッと笑いかけた。日焼けした顔にクチャッと皺がより、人懐っこい表情になる。
「おぅ、そうか。悪ぃな、ちょっとお前たちの武道場を使わせて貰ってるぜ。けど、ちゃんと学校の許可を貰ってんだ。安心しな」
“とら”の伝法な口調は、しかし意外に相手の気持ちを落ち着かせる。
少年もちょっと緊張が和らいだように息をつき、微笑んだ。
「あっ、いえ、別に心配してきた訳じゃないんです。明りが漏れてたんで“何やってんのかな~”って・・・うわっ!」
少年が口を開き、少し話し出したタイミングで“とら”はイキナリ目潰しでもするように指をV字に広げて少年の目に近づけた。
ビックリして反射的に頭を仰け反らせようとしたが既に“とら”の手が後頭部にあてがわれている。
唯一の逃げ場所を断たれた少年はホンの一瞬でパニック状態になった。
そこに“とら”の鍛えられた声が叩きつけられた。
「もう、指から目が離せないっ!」
途端に少年の視線が“とら”に絡め取られた。
指をゆっくり動かすと、黒目がはっきりとついてきている。
「目はもう閉じられない・・・」
“とら”は一転して優しげな声で言った。
しかし逆に伸ばした指先が瞳に付くくらい近づける。
言葉と行動のアンバランス・・・
少年の混迷が深まる。
“とら”にとってはお手の物の導入だった。
この後、2、3度言葉を与えながら指を操ると、少年は実に呆気なくその場に崩れ落ちたのである。
「さぁて・・・じゃ少しだけ記憶を弄らせてもらうよ。ほんの5分間の記憶だけね」
“とら”はそう呟いて、少年を床にそっと横たえた。
いつもの証拠隠滅用のスポット催眠のつもりだったのだ。
しかし・・・
「“とら”さん・・・ちょっとその少年、俺に貸してもらえませんか」
“とら”に背後から声がかかった。
その声に振り向いた“とら”は、妙に難しい顔をした“きつね”くんに出会った。
「おぅ、“きつね”か。ご苦労さんだったな、今日は。いい出来だったよ、お前さん」
“とら”はひとしきり感想を並べたが、しかし“きつね”くんはそれには全く応えず、仰向けに横たわっている少年の顔を覗き込んで言った。
「上手く・・・行かないんでしょ?」
その言葉に“とら”は、両方の眉を上げた。
「お・・おぅ。実はそうなんだ。暗示には簡単にかかるんだがなぁ・・・どうも上手く深化しねぇ」
そう言っている最中にも少年の虚ろな目が次第に意思を持ち始めていた。
慌てて手を額におき、ゆっくりと暗示を追加する“とら”・・・。
それをじっと見ていた“きつね”くんは、不意に腰を上げると少年の向こう側にまわった。
そして・・・小さく呟くような声で少年の耳に語り掛けた。
「ブラック・・・スリープ」
その言葉を聴いて目を剥いたのは“とら”だった。
「お・・おい、何言ってんだ・・・」
しかし“きつね”くんは、その問いを無視して少年の様子をじっと見詰めた。
様子に変化はない・・・
“きつね”くんは続けてまた口を開いた。
「ホワイト・・・デス」
「ちょっ・・・ちょっと待て。お前さっきから何を・・・」
“とら”が重ねて問い掛けようとした時だった。
“きつね”くんは静かに少年を指差した。
思わず視線を向けた“とら”は、しかし凍りついたように表情を強張らせた。
一瞬・・・ほんの一瞬の間に、少年は上体を起こし、まるでロボットのような口調でこう言ったのだ。
「はい・・・マスター」
「なっ・・・なんでだ・・・なんでコイツはこのワードに反応するんだっ?」
目を剥く“とら”・・・
そんな“とら”に“きつね”くんは沈んだような口調ながら、しかしハッキリとそれに答えた。
「それは・・・この少年を操っているのが“ぱんだ”さんだからに決まってるじゃないですか」
「なっ・・・なんだってぇ?!お前自分が何言ってるか・・・」
声を荒げようとした“とら”だったが、しかし次第に勢いをなくしていった。
思い当たったのだ・・・今日の“ぱんだ”の顔つきが。
そして自分が何を心配していたのかも・・・
そして頭の隅に引っかかっていたことが、不意にクリアになった。
唖然と“きつね”くんを見上げる“とら”。
「それじゃぁ・・・コイツのあのセリフは・・・」
「えぇ・・・。あれは俺の催眠の解除ワード・・・でした」
決定的な“きつね”くんの言葉だった。
しかし、それでもなお“とら”はクビを横に振った。
「そんな訳・・・そんな訳、ねぇだろぉっ!“きつね”ぇ、おめぇ“ぱんだ”に解除ワードを漏らしかのかよっ。何のためにそんな事したんだっ!」
“とら”は怒りの形相を隠さず“きつね”くんに詰め寄った。
その声にまわりの男達が集まってくる。
「何も漏らしていませんよ、俺は。あのワードは“ぱんだ”さんオリジナルでしょう」
「オリジナルッ?はっははっ!オイ、冗談言ってんじゃねぇぞ。残念ながら“ぱんだ”の腕は俺が一番知ってんだっ!アイツの腕じゃ1ヶ月かけてもお前さんの暗示を解くなんて出来やしねぇよ。ましてや昨日の今日じゃねぇかっ」
“とら”は全く納得いかない様子だった。
しかし“きつね”くんはそれには応えず、代わりに“くらうん”に向って口を開いた。
「昨日・・・俺が“くらうん”さんの部屋で仕様書を確認したのって何時頃でしたっけ」
急な問い掛けに“くらうん”は目をぱちぱちさせて宙を睨んだ。
「えぇと~・・・たしか7時半頃・・・かな?」
「ですよね・・・。どれくらいの時間あそこに居ましたっけ」
「ん?そうですねぇ・・・10分・・・か、15分でしょう」
その言葉に“きつね”くんも小さく頷いた。
そして“とら”に向き直ると、ゆっくりと口を開いた。
「俺はいつも調教過程のドールには随分と気を使って居るんですよ。アクシデントの宝庫ですからね。特に第一段階が終了してから第2段階でロックが掛けられるようになるまではね。勿論、昨日もです。第一段階が終了するまではずっと俺がマンツーマンで諒子に付き合っていたし、その後休憩している間は部屋に鍵を掛けて有りました。例の催眠ルームですからその点は万全です。それから俺は諒子を連れ出して第2段階を俺の部屋で行っていたんですが・・・ちょっとしたハプニングが有りまして、俺は部屋を離れました。それが7時半頃の15分間です。そして・・・それ以降俺が部屋に戻ってからは、第2段階が終了するまで諒子が俺の目から離れたことは有りませんでした」
“とら”は“きつね”くんが言いたいことを段々と理解してきた。
「おめぇ・・・その間、諒子をほっぽっといたのか」
「サスペンドにしておきました・・・緊急だったもので」
「サスペンド・・・かぁ。ドールが独りで置き去りのまま・・・か」
「えぇ。それに・・・部屋の扉も開けっ放しだったと思います」
“きつね”くんの説明に“とら”は溜息を吐いた。
「判った・・・も、いいよ。確かにその間なら・・・アイツにもお前さんの暗示を解除することも出来たろうさ」
“とら”は小さくそう呟くと、次の瞬間力一杯武道場の床を殴りつけていた。
「バッカ野郎っ!なんて・・・何て事しやがるんだっ!」
そしてそのまま、その場に両手をつくと、“きつね”くんに向って頭を下げた。
床に額を押し付けている。
「すまねぇ、“きつね”っ!俺の・・・俺の監督不行届きだっ。勘弁してくれっ!すぐに、すぐにアイツをひっ捕まえて謝らせるっ、償いをさせる!だからっ・・・勘弁してくれっ」
“とら”の突然の態度に“きつね”くんは少し意外そうな表情をしたが、しかしその瞳に漲る静かな怒りに些かの変化も無かった。
「“とら”さん・・・よして下さい。別に“とら”さんに責任なんか無いですよ。俺、“とら”さんにはなんにも怒ってないし」
“きつね”くんはそう言って、“とら”の傍らにそっとしゃがみ込んだ。
「ただね・・・」
そう呟いた“きつね”くんの声は、しかし錐のように“とら”の心臓に突き刺さった。
「ただ・・・あの人は別です。俺にも引けないものって有るんですよ・・・これだけは絶対に・・・引けない」
“とら”の絶望的な視線と、“きつね”くんの冷たい決意の視線が空中でぶつかった。
“とら”の奥歯が噛みしめられる。頬の筋肉が痙攣していた。
そして・・・二人の睨み合いに決着をつけたのは、意外にもこの一言だった。
「“とら”くん・・・ウチの社則・・・第2条を覚えてるかなぁ」
その言葉にギョッとした表情で“とら”は振り向いた。
そこには、幾分悲しげな表情で“くらうん”が立っていた。
「“くらうん”・・・おめぇ・・・そりゃあ」
しわがれた声が“とら”の喉から絞り出された。
「『職務に関する怠惰、不注意等は厳に慎み、万が一妨害行為等が為された場合は免職とする』・・・例外は認められません」
“くらうん”がポツリと言った。
しかし“とら”は小さくクビを横に振り、それを認めようとはしなかった。
そして何かを言おうと口を開きかけた時・・・別の声がそれを遮った。
「“とら”・・・俺たち3人がどうしてこんな規則を作ったか・・・忘れたわけじゃないだろ」
視線を向けるまでも無く、それが“くま”の声であることは判っていた。
そして・・・それが“とら”に、もうどうしようもない現実を悟らせた。
“とら”は口を閉じ・・・その場で肩を落とした。
「“とら”くん・・・“ぱんだ”くんの身柄を確保してきて下さい。緊急査問委員会を開きます」
“くらうん”は静かな口調でそういった。
その言葉に“とら”の肩がピクンと震える。
「待ってください。その役は・・・俺がやります」
割り込んだのは“きつね”くんだった。
「俺の知らないところで、勝手に決着をつけられちゃ困ります」
しかし“くらうん”は間髪を入れずに言った。
「駄目です。これは会社全体の問題です。一担当者の貴方が出る幕では有りません」
“くらうん”の取り付く島も無い態度に、“きつね”くんの瞳が怒気を孕む。
「そっ、そんなことっ・・・納得できませんっ!」
“きつね”くんの顔が僅かに紅潮した。
「納得する必要は有りません。でも・・・貴方もプロなんですから、会社のルールには従ってもらいますよ」
その一言で“きつね”くんは唇を噛んで黙るしかなかった。
「俺が・・・ひっ捕まえてくるぜ・・・“きつね”よ」
いつの間にか立ち上がっていた“とら”が“きつね”くんの肩に手を置いて、しわがれた声で言った。
「お前の怒り・・・査問委員会まで取っとけ。きっちり晴らさせてやるから。だから・・・ここは、堪えてくれや」
それだけ言うと、“とら”は“きつね”くんに背を向けた。
そんな“とら”の背中に“きつね”くんは声をかけた。
「わかりました。・・・でも、せめてあの人がいったい何を目論んでいたのか、それだけは自分の目で見極めますよ。良いですねっ」
その言葉に“くらうん”は何か言いたげだったが、それを目で抑えて“とら”は言った。
「おぅ、すまねぇなっ。ついでにその坊やから“ぱんだ”の居場所も聞き出しておいてくれや」
“きつね”くんはそれに無言で頷くと、少年を連れて武道場の隅に場所を移した。
“とら”はそれを見送ると、踏ん切りをつけた顔つきで、“くらうん”に向けて大声で言った。
「おいっ、“くらうん”!それじゃあ教えてもらうぜ、“ぱんだ”に埋め込んだ最終ワードをよっ」
その声に全員の視線が“くらうん”に集中した。
おそらく一生使うことがないと誰もが思っていた仲間の最終ワードが、今語られようとしているのだ。
最終ワード・・・、それはマインド・サーカスの唯一の絆なのである。
“くらうん”の元に集まった全ての催眠技術者には、“くらうん”の手で一つの禁止暗示と、一つのワードが埋め込まれている。
それは“くらうん”に対し『催眠誘導を行えない』という禁止暗示と、『マインド・サーカスにおける全ての記憶を封印する』ためのキーワードである。
それがマインド・サーカスに加入するための最終関門なのであった。
全てはメンバーの自由意志で決まる。
そしてそれを了承した者に対して、医者であり、化学者でもある“くらうん”が自ら開発した催眠導入薬により心を開放させ、暗示とキーワードを埋め込み、メンバーに迎え入れていったのだった。
こうすることで、“くらうん”は唯一マインド・サーカスでメンバーの罷免を行うことが出来る権限を有したのだ。
「判りました、“とら”くん。でも、査問委員会が最終決定の場ですから、今はまだ全ての記憶の封印はしないで下さい。逃亡させない程度にコントロールすれば充分です」
「判ってるよ、そんなこと。いいからさっさと教えろっ」
“とら”はイライラしながら“くらうん”の言葉に応えた。
“くらうん”はそれに小さく頷くと口を開いた。
微かな呟きが武道場に流れる。
再び頷く“とら”。
「判った・・・ありがとう、“くらうん”」
“とら”の胸にずっしりと重い言葉が刻まれた。
しかしそれに負けまいと大きく息を吸い込んだ“とら”は、手を一度パンと鳴らすと大声を張り上げた。
「さぁてっ!それじゃあ、手っ取り早くココを撤収しちまうかっ」
“きつね”くんが少年を引き連れて戻ってきたのは、“くらうん”が手配した車が来て怜を運び込もうと旗で作った応急担架を皆が持ち上げているところだった。
「“きつね”、どうだ?“ぱんだ”を破れたか」
開口一番“とら”が訊いた。
“きつね”くんはそれに無言で頷いた。
途端に“とら”の顔つきがきつくなる。
「そうか。ご苦労さん。・・・で?やつぁ何処にいる?」
その問いに“きつね”くんは一枚のメモの差し出しながら言った。
「ここです。この“サ・モン”っていう喫茶店にいます」
“とら”は差し出されたメモを受け取り、じっと視線を注いだ。
「ここか・・・。判った。ありがとな、“きつね”。で、お前さんの方はどうだ?何か判ったのか」
しかし“きつね”くんはそれには応えず、後を通り過ぎる担架の怜を振り返り、その頬をそっと撫でた。
「未必の・・・故意」
それだけが背を向けた“きつね”くんから“とら”が聞き取れた全てだった。
「なるほど・・・ヤツらしいや」
“とら”は寂しげに小さく笑った。
< つづく >