ドールメイカー・カンパニー2 (21)

(21)チェイス!

 車が出発して5分も経った頃か・・・

「あっ・・・ちょっと、止めて」

 後部座席に諒子と美紀に挟まれて座っていた“きつね”くんが急に目を開けると運転手にそう言った。

「なんだ?“きつね”」

 助手席の“あらいぐま”が振り向いて言った。

「あ、すみません。俺、ちょっと武道場に忘れ物してきたみたいなんです」

「ふぅ~ん・・・忘れ物・・・ねぇ」

 “あらいぐま”は意味ありげに唇の端を上げた。

「えぇ、うっかりしてました。今から取りに行ってきます」

 “きつね”くんはそう言いながら、もう車のドアに手を掛けていた。

「待っててやろうか?」

 チラッと横目で“きつね”くんを見ながら“あらいぐま”は言った。

「あ、いいっす。俺、電車で帰りますから。それよりこの2人、お願いします。すぐ戻りますから俺の部屋に入れといてください」

 “あらいぐま”は鼻から息をふっと吐いてから、小さく頷いた。

「ん・・・ま、いっか。OK、頼まれてやるよ」

 “あらいぐま”の言葉に“きつね”くんはニコッと笑顔を作ると、小さく頭を下げて風のように出て行った。

「仕方ねぇよなぁ・・・。俺だってアイツの立場だったらそうするものな」

 “きつね”くんの後姿をバックミラーで眺めながら、“あらいぐま”はそう呟いた。
 そして運転手に向き直ると前方に顎をしゃくった。

「さ、出しちゃっていいよ」

                    *

 師走の風が吹き抜ける町はもうスッカリ日が落ち、街灯と商店街のディスプレイに照らされた歩道を厚いコートを着た人達が背を丸めて通り過ぎていく・・・

 暖かい室内からウィンドウ越しにそんな光景を“ぱんだ”はずっと見ていた。

 (遅い・・・)

 袖を捲り腕時計を覗き込んで“ぱんだ”は溜息をついた。

 5時から始まった筈の“きつね”くんの調教・・・

 “ぱんだ”の走狗は10分過ぎた頃に入っていって“きつね”くんの暗示を解く手はずだった。

 (もう6時をとっくに過ぎている。遅い・・・遅すぎるじゃないかっ)

 何か計画に齟齬が生じているのではないか・・・

 “ぱんだ”は疑心暗鬼になって何度も腰を浮かせかけた。
 しかし、“ぱんだ”はうっかりして走狗の坂田勇作の暗示を解く設定をし忘れていたのだ。
 もし“ぱんだ”がここを去ってしまったら、坂田少年の暗示は残ってしまう。
 無論、時間が経てば徐々に醒めていくのだが、しかしそれでは“ぱんだ”の顔や行動の記憶が綺麗に消去されない。証拠を後に残すことは、今の“ぱんだ”にとって致命傷なのだ。

 (なんせ、相手はあの目端の利く“きつね”のガキだっ!あとでほじくり返されても大丈夫なように・・・慎重に、慎重に・・・)

 そして再び“ぱんだ”は喫茶店のソファに腰を下ろすのだった。

 今、テーブルには何杯目か判らないコーヒーが温かい湯気を立てている。
 そしてその表面には微かな細波がさっきからずっと続いていた。
 テーブルが微妙に振動をしているのだ。
 さらに“ぱんだ”の耳には“ぴちゃ、ぴちゃっ”という湿った音も届いている。
 この店のたった一人のウェイトレスが、“ぱんだ”の股間に顔を埋めて舌を使っているのだった。
 店のマスターはカウンターの奥で丁寧にグラスを磨いていた。

 客はほかに2人・・・

 1人は“ぱんだ”が座るボックス席の隣のボックス席に着いている上品そうな中年の主婦、もう一人はカウンター席に着いているサラリーマンぽい男。
 しかし2人ともウェイトレスの姿が見えないことに気付かないらしく、手にした雑誌に視線を落としていた。
 静かな店内には低い音量でクラシカルなジャズが流れ、話し声は無かった。
 “ぱんだ”はイライラをぶつけるように両手でウェイトレスの頭を掴み、自分の股間に押し付けた。肉棒の先端がザラッとした感触に包まれる。
 しかし、慣れていないウェイトレスは喉でグエッと声を出した。
 舌打ちする“ぱんだ”。
 しかし丁度その時、“ぱんだ”の耳に待っていた音が聞こえてきたのだった。

 カラン、カラン・・・

 扉のカウベルが乾いた音をたてたのだ。
 扉は“ぱんだ”の席からは陰になって直接見えないが、ウェイトレスに命じて準備中の札を出させていたこの店に、普通の客は入ってくる筈はない。
 “ぱんだ”はホッと息を吐くと、ウェイトレスを開放しズボンのチャックを引き上げた。
 そして落ち着こうとコーヒーに手を伸ばしかけた時、柱の陰から入って来た客の姿が“ぱんだ”の目に映ったのだった。
 その途端・・・派手な音をさせてコーヒーカップがひっくり返った。

「あっ!・・・とっ・・・」

 “ぱんだ”の目が飛び出すくらい見開かれる。
 唇は震え、全身に一気に汗が噴き出した。
 そんな様子を“とら”は立ったまま見詰めていた・・・悲しげな目元と、少しの笑みを浮べた口元で。

「いよぉ・・・“ぱんだ”、こんなとこに居たんか。捜したんだぜ」

 向かいの席にどっかりと腰を下ろした“とら”はそういった。
 しかし“ぱんだ”はまだ口をきけずに呆然と“とら”を見詰めていた。
 ウェイトレスがタオルでテーブルに毀れたコーヒーをふき取っていることさえも気付いていなかった。
 そして無論、ウェイトレスの視線が一瞬注がれたことにも・・・

「と・・・“とら”・・さん。どうして・・・ここに」

 やっと搾り出した言葉を、しかし“とら”は聞き流し、横に立っているウェイトレスに「コーヒー、ホットで」と言って追い払った。

「おめぇ、こんな所でなに油売ってんだ」

 ジロッと視線を注がれた“ぱんだ”だったが、意外にもその一言で落ち着いた。
 それはいつも“とら”のアシスタントをしていた時に言われていたセリフだったのだ。

 (大丈夫・・・何も気付いちゃいない、この人はっ。サボりだと思われていたんだっ)

「あっ・・・いえ、今日ちょっと寒かったから、ちょっとだけ休憩してたんですよ」

「携帯の電源を切って・・・か?俺ぁ昼から掛けてたんだけどな。随分長ぇ休憩だな」

「えっ?あ・・・そうだ忘れてた。この携帯、バッテリ切れそうだったんで電源落としてたんですよ」

 “ぱんだ”は携帯をポケットから取り出してそう言った。

「電源・・・入れてみ」

 “とら”は何気なくそう言った。
 “ぱんだ”は言われたとおり電源を入れた。

「あっ・・・メール。あ、ごめんなさい、“とら”さんからでした」

 “ぱんだ”は頭を下げて見せた。
 しかし、そこで“ぱんだ”はいつもの“とら”とは雰囲気が違うことに気付いた。
 こんな時、無言でいるオヤジではないのだ。
 目で問い掛ける“ぱんだ”に“とら”は顎をしゃくった。

「読んでみ」

 “とら”の態度を訝しみながらも携帯に視線を落とす“ぱんだ”。
 しかし、読み進むうちにみるみる顔から血の気が引いていった。

「どうした、“ぱんだ”。なんか、具合が悪そうだぜ」

 “とら”の声に“ぱんだ”は膝が震えた。
 しかし必死にそれを抑え、“ぱんだ”は口を開いた。

「あぁ・・・今日、“きつね”くんの公開調教が・・・あったんですね。あはは・・失敗したなぁ。見たかったのに」

 しかし、“ぱんだ”がそう口にした途端、“とら”の表情が一変した。

「見たかっただぁ?てめぇ、いったい何が見たかったんだっ!」

 押し殺しているだけに、一層その声に篭る怒気が“ぱんだ”に伝わった。

「な・・・なにって・・・な、何かあったんですか」

 脂汗を浮べた“ぱんだ”は、もうその言葉の白々しさを省みる余裕は無かった。
 そして・・・逆に“ぱんだ”のその言葉を耳にした“とら”は、燃え盛る怒りの炎が一瞬で凍り付いてしまったかのような冷たい視線となって言った。

「死んだよ、“きつね”。諒子の木刀で卵の殻みたいに頭の骨を砕かれてね・・・」

「なっ・・・」

 その言葉で“ぱんだ”は言葉を失った。
 自分が刺されたような呆然とした・・・そんな顔つきだった。
 そんな“ぱんだ”の様子を見て、“とら”は小さく息を吐いた。

「うそ・・・。奴ぁ生きてるよ、ぴんぴんしてるぜ」

 言葉が耳に入り脳に届くまでこれほど時間がかかるとは・・・そう思わせる程“ぱんだ”の反応は鈍かった。
 しかしやがて気が抜けたように“ぱんだ”はソファに深く沈んだ。

「だがな・・・」

 “ぱんだ”の様子を注意深く観察しながら、“とら”は言葉を再開した。

「だが、代わりに怜が壊れたよ。“きつね”を庇って・・・病院送りだ」

 “とら”の言葉に“ぱんだ”は頭を殴られたような衝撃を受けた。

「怜が・・・“きつね”を庇って・・・」

 脳裏に鮮やかに昨夜の二人の様子が蘇る。
 深いラポールで繋がった怜と“きつね”・・・

 “とら”の目の前で徐々に“ぱんだ”の顔が紅潮していった。

「な・・・なんでっ・・・なんでっ怜はっ・・・そっ・・・そんなことをっ!!」

 抑えきれない激情がその言葉に込められていた。
 そして・・・それだけで“とら”には充分だった。

 なぜ・・・何故“ぱんだ”はこんな事をしたのか・・・

 全てが白日の下に晒された後でも、“とら”にはその本当の理由だけが判らなかった。
 しかし、今の“ぱんだ”のリアクションはその“とら”の疑問に雄弁に答えていた。

 (この馬鹿・・・仮にもマインド・サーカスのドール・メイカーが、こんなありふれた事で自分を見失っちまったのか。マッタク・・・ドールに惚れちまうなんてよっ)

 “とら”は溜息とともに頭を小さく振った。

「き・・・“きつね”は?“きつね”くんは・・・何処に」

 充血した目で“ぱんだ”は口を開いた。

「会いてぇか?会わせてやるよ、すぐにな。アイツもお前に会いたがってる」

 “とら”の含みのあるその言葉に、“ぱんだ”はハッと表情を強張らせた。
 その顔を強い視線で威圧しながら“とら”は言った。

「もう・・・判ってんだろっ“ぱんだ”!俺がどうしてココに来たかっ。どうして俺がココの場所を知ったかっ!あの坂田ってガキはもう来ねぇぜっ、お前の暗示を“きつね”が破っちまったからなっ!」

「ひぃっ!」

 “ぱんだ”は反射的に立ち上がっていた。
 そんな“ぱんだ”を見上げて、“とら”は静かに言った。

「お前を・・・査問委員会にかける。座れ、“ぱんだ”。『籠の鳥は死に絶えた・・・バイバイMC』・・・“くらうん”からの伝言だぜ」

 その瞬間、“ぱんだ”のなかで何かが開錠された。
 そして遥か4年前に掛けられた暗示が、今、瑞々しく再生していた。
 それが何であるか・・・マインド・サーカスのメンバーであれば知らない者は居なかった。
 最も基本的で、そして最も重要なサスペンド・ワード『フリーズ・マインド』、さらに記憶削除のための簡易ワード『MCデータ・イレーズ』、ドール達を操るこれらのワードが今この瞬間、“ぱんだ”に対し効力を蘇らせたのだ。

 そして極めつけは封印の4ワード・・・「いつ」、「何処で」、「誰が」、「何を」に対応する記憶消去ワードなのだ。一つ唱えるごとにその記憶がダミーに上書きされてしまう。
 そして封印のラスト・ワード。4ワードで塗り込められた記憶に更に偽りの記憶が上書きされるのであった。

 “ぱんだ”の最終ワードが閉じ込められていたその封印ワードを解き放った今、“ぱんだ”にはそれを防ぐ手立ては無かった。

「と・・・“とら”さんっ。おっ・・俺」

 顔面蒼白になった“ぱんだ”に“とら”は小さく微笑んで言った。

「安心しろ。今すぐは封印しねぇ。ただ・・・一応、逃亡対策は必要なんでな」

 そう言うと“とら”は、“ぱんだ”に顔を近づけて囁いた。

「MCデータ・・・イレーズ、顔」

 これは、普通マインド・サーカスがクライアントに唯一埋め込む保全用のワードであった。
 万が一逃亡された場合にも、これでマインド・サーカスの関係者の顔は記憶から削除されてしまっているのだ。
 “ぱんだ”は目を真ん丸に見開いて頭を抱えた。

「あっ・・・ああっ・・なんだってぇ」

 一瞬にして頭の中からマインド・サーカスの男達の顔が消えてしまったのだ。
 そして・・・そして気が付いてみれば、あの怜の顔さえ浮かんだ来なかったのだ。

 更に、続けて“とら”は暗示を口にした。

「MCデータ・・・イレーズ、場所」

「わっ、や、やめろっ!」

 “ぱんだ”は一瞬大声で叫んだが、無論間に合わなかった。
 このワードで“ぱんだ”の脳裏からDMCの所在地が消え去った。
 “ぱんだ”は自らが始めて味わう催眠ワードに完全にパニックをおこし、滝のように汗を流しながら両手で耳を抑えていた。

 (ちっ、この馬鹿、大騒ぎしすぎだぜ)

 “とら”はビックリしたような表情でこちらを見詰めているウェイトレスを視線の隅に捉えて舌打ちした。
 しかし、あとは拘束ワードで身体の制御をこっちに握ってしまえばお終いだった。
 “とら”は、ウェイトレスへのフォローを後回しにして、強引に“ぱんだ”の腕を耳から引き離そうとした。
 無論死に物狂いで抵抗する“ぱんだ”だったが、百戦錬磨の“とら”には珍しい抵抗ではなかった。
 肘のツボを抑えると呆気なく手が耳から引き離される。

 (よしっ、これで終了)

 “とら”は落ち着いて最後のワードを口にしようとした。

 しかし・・・さすがの“とら”もたった一つだけ見落としをしていた。
 それは、ターゲットが催眠術師・・・それも自分達のやり方を熟知しているドール・メイカーだったことだった。

 それまで二人の争いにまるで無関心に後の席に座っていた品のいい中年の婦人が、その時クルッと振り向いたのだ。
 しかしその目は虚ろで、ただ口だけは独立した生き物のようにニーッと広がっていった。
 そして今、まさに口を開きかけた“とら”の顔面に手に持ったものをいきなり押し付けたのだった。

「ぶわっっ!」

 突然の事に“とら”は何の回避動作も出来ずにひっくり返った。
 その女性が手にしたのは食べかけのショートケーキだった。
 そして“とら”が事態を把握する前に、続いて熱い紅茶が顔面に降り注いだのだった。

「わっちいっ!」

 思わず顔を押さえその場でのた打ち回る“とら”。
 その様子を呆然と眺めていた“ぱんだ”は、いきなり凄い力で腕を引っ張られて目を白黒させた。
 腕を掴んでいるのは先ほどのウェイトレスだった。

「早くっ、こっち!」

 そう言ってウェイトレスは“ぱんだ”を入り口へ引っ張っていった。
 そこでようやく“ぱんだ”は事態をのみ込んだ。
 万が一の時のために“ぱんだ”が仕掛けた緊急脱出モードが発動していたのだった。
 “ぱんだ”は、それに気付くやいなや猛然とダッシュをした。
 しかし“とら”も殆ど同時にそれに気付いた。

「まちゃがれっ、“ぱんだ”!」

 顔のクリームを袖で拭うと、“とら”は床に腹這いになったまま“ぱんだ”の背に向けて最後の言葉を大声で叫ぼうとした。
 まだ充分声の届く距離だった。
 しかし・・・

 不意に“とら”の上に大~きな陰が出来たのだ。
 それに気付いた“とら”は反射的に横目で見上げ、次の瞬間その表情が驚愕に凍りついた。
 自分の真上を体重100キロは有りそうなマスターの巨体が舞っていたのだ。
 無論、重力には逆らえない。
 次の瞬間、重力加速度の助けを借りた100キロの肉塊が“とら”の背中に圧し掛かっていった。

 入り口のドアを出る“ぱんだ”の耳に「ぐえ~っ!!」という獣の叫び声のようなものがハッキリと聞こえた。
 しかし振り返っている余裕はさすがに無かった。
 爆発するような勢いで扉を開けた“ぱんだ”は、道行く人の驚いた視線を完全に無視して、そのままの勢いで道を駆け出したのだった。

 (チクショウ、チクショウ、チクショウ!何で俺がこんな目にっ)

 普段の温厚な仮面をかなぐり捨てたような表情で、“ぱんだ”は必死に走った。
 その顔に気圧されたように、通りを歩く人は皆、道を空ける。
 ウェイトレスもいつの間にか完全に振り切っていた。

 しかし・・・不意に1人の男が“ぱんだ”の道を塞いだ。
 まわりの人々が怖気たように脇へ退くなか、その男はたった一人だけその場所を譲らなかったのだ。

 (なんだ、コイツ!)

 “ぱんだ”は、見たことも無いその若い男に疑念を抱きながらも、しかし無理やり突っ込んでいった。
 肩で突き飛ばしてやるつもりだったのだ。

 しかし・・・

 目の前の男は一瞬で消えた。
 そして・・・気付いた時には、“ぱんだ”の身体は宙を舞っていた。

 (な・・・なんだ?いったい)

 その瞬間“ぱんだ”はひどくゆっくりと身体が宙を飛んでいるような気がしていた。
 しかし次の瞬間、強力な腕がその襟首を掴むと、渾身の力を込めて地上に引き摺り下ろしたのだっ!

「ぐわぁぁぁああああっ!!」

 “ぱんだ”は、何が起きたかを理解する前に、腰から思いっきりアスファルトの地面に叩きつけられていたのだった。
 生まれて初めて味わう強烈な痛みに、“ぱんだ”の意識は飛び掛けていた。
 霞む目に自分を見下ろしている若い男の顔が映る。
 そして、その怒りに燃えた視線もハッキリと認識できた。

 (こ・・・こいつ・・・誰だ・・・なんで俺に怒りをぶつけるんだ・・・)

 しかし“ぱんだ”はそこで気付いた。
 自分を憎む若い男が1人居たことを・・・そして自分はその顔を消されてしまった事も思い出した。

「おっ・・・おまえ・・・き、つ、ね・・・」

 しかしその男はそれには答えなかった。
 代わりに“ぱんだ”の襟首に再び手を伸ばして来たのだった。

 (だ・・・だめだ・・・掴まっちまう)

 しかし・・・運命はまだ“ぱんだ”を見捨ててはいなかったようだった。
 男の手が一瞬止まったかと思うと、何の前触れも無くその男は吹き飛ばされていた。
 呆気に取られて視線を向けると、そこにはサラリーマン風の男に押さえつけられている姿があった。
 押さえつけているのは喫茶店に居た最後の1人だった。

 (今だっ、に、逃げるんだっ!)

 “ぱんだ”は身体を無理やり起こそうとした。
 しかし・・・

「ぐあっ」

 強烈な痛みがそれを阻んだ。
 なんと身体の向きを変えることすら出来ないのだ。

 (腰をっ、腰をヤっちまったぁ!こ、これじゃ、動けねぇ!)

 今度こそ本当の絶体絶命だった。
 しかし次の瞬間、“ぱんだ”は後から脇の下に手を差し入れられ、いきなり抱え上げられたのだった。

「ぐぅ~うっ!」

 激痛が“ぱんだ”を襲うが、後の人物はお構いなく“ぱんだ”を引き摺ったまま運んでいった。
 そして意外な程すぐに“ぱんだ”は椅子に下ろされたのだった。
 気付いてみれば、それは路肩に停車した車の助手席だった。
 そして運転席に乗り込んできた人物は、さっきの喫茶店のウェイトレスだったのだ。

「我慢してっ!」

 ウェイトレスは“ぱんだ”にシートベルトをさせると、強引に発車した。
 タイヤが白煙を上げ、後続車がクラクションを鳴らす。
 しかしウェイトレスは片手を上げただけでそれをやり過ごし、瞬く間に車の流れの中に割り込んでいった。
 “ぱんだ”を乗せた白いセダンは、こうして夜の町に消えていったのだった。

 無論、その後事態はすぐにマインド・サーカスの知るところとなった。
 会社始まって以来の緊急事態だった。
 しかし幸いにも、現場にいた“とら”が事態の収拾に全力をあげていたため、なんとか警察には知られないうちに全てを沈静化させることは出来たのだった。

 怜に付き添って病院に居た“くらうん”は、その連絡が入るやいなや社長の強権を発動し休暇中の者を含め手の空いているメンバー全てに緊急呼集をかけた。
 そして自らの陣頭指揮のもと関係者の徹底した取調べを開始したのだった。

 それはまさに催眠技術の粋を集めた空前絶後の取調べと言って良かった。
 喫茶店の客とマスターは、当人が忘れきっている事まで含め脳に蓄えられていた情報は洗いざらい引き出されていった。
 そして“ぱんだ”の行動を逐一再現させていったのだ。
 しかし、一昼夜に及ぶ徹底した追及にも拘わらず、そこに“ぱんだ”の行方の手がかりとなるものは無かった。
 また、最大のキーパーソンであるウェイトレスはその日以来姿を消してしまっていた。
 バイトの履歴書を元に住所や学校は突き止めているのだが、無論立ち寄った形跡は無かった。
 逃亡に使用した車はマスターのモノだったため、すぐに盗難届を出させたが翌日には駅の地下駐車場に乗り捨てられていたところを発見された。
 こうなっては警察の組織力でも使わない限り、見つけ出すことは容易ではない。

 翌日の晩、喫茶店の関係者を帰宅させた後、DMCの奥の会議室は重苦しい雰囲気に包まれていた。

「すまねぇ、みんな。俺の不手際で迷惑を掛けちまった」

 “とら”は無精ひげの浮いた顔で、仲間達に頭を下げた。

「いえ・・・。“とら”くんの責任じゃあ有りませんよ。私が迂闊でした。どうしても仲間という意識が強かったもので“とら”くんに独りで行かせてしまいましたが・・・相手は手練の催眠術師、フォロー体勢は必須でしたね」

 “くらうん”が眠そうな目を瞬かせながら言った。

「皆さんにも緊急呼集をかけて頑張ってもらいましたが、どうやら今回は空振りのようです。一先ず緊急対策チームは解散とします」

 “くらうん”の宣言に、会議室内はざわついた。

「“くらうん”さん。大丈夫なんですか・・・その・・・あの人をこのままにしておいて」

 疑念を口にしたのは“あらいぐま”だった。

「とりあえず・・・大丈夫の筈だ・・・当面は」

 引き取って答えたのは“とら”だった。

「アイツには、俺たちの顔と、ここの所在地は判らなくなっている。最悪、ここの仕事をばらそうとしても、肝心の物証となるものをもってねぇんだ。ま、アイツも必死だろうからそのうち搦め手を考えてくるかもしれねえが・・・とりあえずは問題ねぇ」

「ってことは・・・あの人の出方を待つ・・・ってこと?」

 “あらいぐま”は少し不満そうに言った。

「勿論調査は続けますけどね。なんせ探偵社ですからね、この会社は。伝手は有ります」

 “くらうん”が諌めるような口調で言った。

「えぇ。ま、そうなんでしょうけどね」

 そう言って“あらいぐま”がチラッと視線を送ったのは、ずっと無言でいる“きつね”くんだった。
 彼の心中を慮(おもんばか)っての言葉だったようだ。

 昨日、“あらいぐま”達より1時間ほど遅れて戻ってきた“きつね”くんに“ぱんだ”の件を伝えたのが“あらいぐま”だった。
 しかし“きつね”くんは驚いた素振りも見せずに小さく頷いただけだった。

「そうらしいですね」

 いったい誰に聞いたのか・・・

 “あらいぐま”はそう問い質したかったのだが、想像はついていたので敢えて口にはしなかった。
 そして、本当は一番の当事者なのだが、諒子達の納期があと数日に迫っているため、なんと“きつね”くん自身だけはこの捜査から外されたのだった。
 そして・・・その結果がこのアリサマ。
 いい加減、腹に据えかねるモノが有るだろうと誰もが感じていた。

 しかし・・・“あらいぐま”の視線を敏感に感じ取った“きつね”くんは、いつの間にかいつもの笑顔を取り戻していた。

「ま、しょうがないですよ。今はまだ機が熟していないってことでしょ?そのうち自然に現れますって、絶対」

 そのアッケラカンとした口調に“あらいぐま”は目を丸くした。

「お・・おい、“きつね”。なんか・・・妙に自信有り気だなぁ」

「ん~・・・なんとなくですけどね。ただ、もう俺、ちょっと時間が無くって、正直それどころじゃないんですよっ!やっぱ、2人同時ってのはキツイッすよぉ。あと、“くらうん”さん、怜の件ですけど、クライアントさんの説得お願いしますね、ホント」

 “きつね”くんの関心は、もうスッカリ担当ジョブに移っているようだった。
 無論“ぱんだ”の件を水に流すわけではないけれども、“くらうん”の言うとおり今は空振りだったのだから、それに拘っていても仕方が無いと思っているのだ。
 “きつね”くん自身も念のため網を張ってはいるのだが・・・果してかかるかは運任せだった。

「あぁ・・・怜の件ですね。えぇ、ま、一応対策は考えてますけどねぇ」

 “くらうん”は意外と自信の無い言い方をして、視線を外しポリポリと頭を掻いた。
 どうやら“くらうん”の頭痛の種は一つではないようだった。

「ま、とりあえずその件は私が担当しますから、“きつね”くんは気にしないでジョブに集中してください。それから皆さんも、もう自分のジョブに戻ってください。ご苦労さまでした。解散です」

 “くらうん”のこの言葉で、波乱の公開調教とそれに続く“ぱんだ”の追走劇は、歯切れの悪いまま一時棚上げとなったのだった。
 無論、水面下では様々な動きが絡み合い、今この瞬間にも新たな火種として燻っているのだが・・・それが“きつね”くん達の前に新たな姿として現れるのは、もう少しだけ先のことなのだった。

< つづく >

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