赤い靴『覚醒』

『覚醒』

【2002年12月28日AM7時30分】

 なんて幸せに満ちた目覚めなんだろうか。
 傍らには愛するセロが居る。
 いつもと変わらぬ優しい笑顔で私を見守ってくれている。

「セロ!おはよう」

 嬉しさのあまりどうしても笑顔になってしまう。
 それを見てセロも嬉しそうだ。

「おはよう!今日も綺麗だよ」

 なんて素敵な声なんだろう。
 それだけで鼓動が自然に激しくなる。
 これからは本当にこんな幸せな朝が毎日訪れるのだろうか。

「今日もやる事がいっぱいあるよ」

 セロの言葉に笑顔のまま頷く。

「今のうちに栄養をとらなきゃいけないね」

――そうね!そろそろ注射の時間ね

 『分かっている』とばかりに右手を差し出した。
 するとセロはあわてて右手を左右に振り出す。

「違うよ!もう注射なんか必要ないよ。 君の為だけに私が朝食を作ったんだよ」

 セロはトーストとスクランブルエッグ、そしてミルクが入ったグラスを載せたトレイを私の目の前に突き出した。

「このスクランブルエッグはセロが作ってくれたの?」

 セロは『もちろんだ!』と言わんばかりに頷いている。
 私の為だけに作ってくれたこの朝食を早く食したい。
 すぐにスプーンを手に取るとエッグを少しすくい口に運んだ。

「待ちなさい!」

 スクランブルエッグが口に入る直前でセロが叫んだ。
 それに反応してスプーンの動きが止まる。

「あなたは暫く食事を口にしていないからそのまま食べても胃が受け付けませんよ」

 セロから笑みが消えた。
 当然私からも笑みが消える。
 どうすれば良いのだろうか。

「私セロの作ってくれた物を食べたい」

 先程まで幸せの絶頂だったが一気に暗転している。
 折角セロが私の為に作ってくれたのに食べる事が出来ないんだろうか。

「大丈夫!私に任せて」

 セロが再び微笑んでいる。何か策があるのだろうか。
 ともかくセロの微笑みは私に凄く安心感を与える。

「胃に負担がかからないように私が噛み砕いてあげる」

 そう言うとセロはトーストを一囓りし続けざまにスクランブルエッグを口に運んだ。

くちゃくちゃくちゃくちゃ・・・・・・

 セロは私の身体を心配してくれている。
 早くセロの口に入っている朝食を味わいたい気持ちでいっぱいだ。
 大きく口を開け早く入れてくれるようにせがむ。

 やがてセロの口の動きは止まり焦らすようにゆっくりと私に近づいてきた。
 愛するセロの顔がこんなに近くにきている。
 鼓動は極限まで高まり今にも心臓が破裂しそうだ。

 そしてセロの唇が微かに触れ口の中に朝食が放り込まれた。
 セロの唾液がいっぱい染み込んだ朝食が私の唾液と混ざり合っている。
 それだけで私達は一つになれたのではないかという喜びを感じる。
 『喜び』と『誇らしさ』を表現する為セロがしていたように大きな音を立てて噛み締める。

くちゃくちゃくちゃくちゃ・・・・・・

 今度はセロがミルクを口に含んでいる。
 少しだけ口からはみ出したミルクを見てますます食欲が増してくる。

くちゃっ!

 まだ口の中には朝食が残っているが大きく口を開けミルクをせがむ。
 それに反応しセロは人差し指を一本だけ上に立て天井を見上げるように促した。
 その指示に従い口を開いたまま天井を見上げた。
 やがて少し狭めたセロの口からミルクが滴り落ち一本の線となり見事私の口の中に入っていく。

ごくっ!

 私がミルクを飲み込んでいる時、セロの口は閉じられる。
 そして大きく口を開けせがむと再び一本の線となりミルクが落ちてくる。
 セロの唇が欲しい。今すぐ濃厚な口づけを交わしたい。そんな欲情をぐっと堪えて再び口を開ける。

「ごめんなさいね!このスクランブルエッグ少し焦がしたみたいだね。不味かったら無理して食べなくても良いよ」

 私は必死に首を左右に振り『そんな事は、ない』と訴えかけ再び大きく口を開ける。
 幸せな朝食は長く続いた。

【2002年12月28日AM10時40分】

「あなたはセロを愛してますね」

 シルラが微笑みながら私に問いかける。

「女同士なんですから隠す事ないですよ。愛してるんでしょ?」

 シルラの目を見ながらゆっくりと頷く。

「そう!やっぱりね」

 シルラの口元が更に歪んだ。

「私はセロなしには生きていけないんです。セロだけが私の事を全て理解してくれているんです」

 そう!セロは私の全てなのです。

「あら?私もあなたの事を理解しているつもりよ」

「あっ!ごめんなさい」

 シルラが悪戯っぽく笑っている。

「でもそんなに大切な人なのに呼び捨てはまずいわね」

「えっ?」

 シルラの言うとおりだ。なぜ今まで気づかなかったのだろう。
 大切な人を呼び捨てにしていたとはなんて愚かなんだ。

「これからは気をつけてね。そうでないとセロはあなたを見放すかもしれないわよ」

 それだけは絶対嫌だ。
 そうなったら私は生きてはいけないだろう。
 彼なしの人生は考えられないのだ。

「ではあなたの思いが彼に届くように心の底から叫んでみなさい」

 シルラに言われたとおりセロへの愛を心の底から叫ぶ。

「私はセロ様を愛している! セロ様は私の全てだ! セロ様なしには生きていけない!」

 そこまで言ったところでシルラが『やめなさい!』と大きな声を出し遮った。

「なんて小さな声かしら。あなたの彼への愛はそんなちっぽけな物なの? そんなものでは彼があなたを見捨てる日は近いわね」

 セロ様が私を見捨てる。
 そう考えただけで身体が震えだす。
 そんな事は絶対に嫌だ。
 前にも増して必死に大きな声で叫ぶ。

「セロ様!愛している!愛している!愛している!私はセロ様を心の底から愛している!」

「そんな物ではあなたがひろしとか言う男に以前抱いていた偽りの愛の方が大きいわね」

 違う!セロ様に対する愛情は、あんな物とは比べる事が出来ない。

「本当に心の底から愛しています!」

「いいえ!あなたの心はまだひろしの偽りの愛に縛られているのでしょ!セロと両天秤にかけているんだわ」

 シルラの口調がきつくなってきている。
 しかしここで負けてはいけない。私は生まれ変わるんだ。
 それがセロ様の望みだから。

「あんな非道い男とセロ様を一緒にしないで!私はもう偽りの世界には騙されない。両親も友達もひろしも全て偽り。みんな私の敵よ!」

 そう!本当に信じられるのはセロ様だけなんだ。

「ではセロの望む事なら何でもできますか?」

「出来ます!」

「セロが死ねと言ったら死ねますか?」

「死ねます!」

「あなたの全てはセロの物ですか?」

「そのとおりです!」

「では、その思いを心の底から繰り返し言いなさい」

 私は再び身体に力を込め直し心の底から叫んだ。

「私はセロ様の望む事なら何でも出来る! セロ様が死ねと言ったら死ねる! 私の全てはセロ様の物です! もう偽りの世界には騙されない!・・・・」

 何度も繰り返し叫び続ける。
 私はもう二度と偽りの世界に騙されない。
 信じられるのはセロ様だけなのだ。

【2002年12月28日PM5時30分】

「夕食を持ってきましたよ」

 セロ様が夕食を乗せたトレイを持って部屋の中に入ってくる。
 この時をどれだけ待っていた事だろう。

「セロ様!」

 嬉しさのあまり自然に顔がほころんでしまう。

「美しいですよ!」

 セロ様が私の足の爪先から頭上までゆっくりと視線を走らす。
 今私の身体には衣服は一切身につけられていない。
 生まれたままの姿なのだ。

「恥ずかしい!」

 愛するセロ様に裸体を見られる事は本当に恥ずかしい。
 しかしセロ様が私の生まれたままの姿を見たがっているとシルラに教えてもらった。
 だからその言葉のとおり裸でセロ様を待っていたのだ。

「今すぐあなたを抱きたいくらいだ!」

「抱いてください!」

 私は必死にお願いする。
 しかしセロ様は深刻な表情で首を左右に振り『出来ない』と示した。
 みるみる自分の表情が曇ってきているのが分かる。

「どうしてなんですか? 私セロ様にもっともっと愛されたい。 何もかもセロ様の物になりたいんです」

 胸が詰まって凄く苦しい。

「私に抱かれなくてもあなたは私の物だ。あなたの全ては私の物。 そうでしょ?」

 たしかにセロ様の言うとおり既に私はセロ様の物だ。
 しかしやはり抱いて欲しい。
 大きく落胆し涙が頬をつたわるのを感じながらも仕方なく頷いた。
 そんな私を慰めるようにセロ様は涙を親指で優しく拭ってくれた。
 そして続けて私の首に少し大きめの綺麗な銀のペンダントを掛けてくれたのだ。

「これは」

「思ったとおりあなたによく似合う」

 ペンダントを二度三度撫でているとべそをかきながらも嬉しさが身体の底から湧いてきた。

「それをしているかぎりいつでも私はあなたの側に居ますよ」

 そう言うとセロ様は微笑みながら手にしている食事を噛み始めた。

くちゃ!くちゃ!くちゃ!・・・・・

 朝と同じように夕食を噛み砕いては私の口に入れてくれる。
 その時少しだけ触れ合うセロ様の唇がとても切ない。
 私は何度も口を開けおねだりする。
 少しでもセロ様を感じる為に。

「あなたがオナニーをしているところを見たい。乱れた姿が見たい」

 突然セロ様の口からそんな言葉が飛び出した。
 当然私は戸惑ってしまう。
 愛するセロ様の前で全裸になるだけでも本当は死ぬほど恥ずかしいのにオナニーなんて考えられない。
 私は素早く首を左右に振る。

「私の言う事なんか聞けないと言うのかい?」

 そんな事はない。
 でも愛するセロ様の前だからこそそんな淫らな姿は見せたくないのだ。

「あなたにはいつも私の事だけを思って欲しい」

 そんな事は当然だ。
 私の頭の中はセロ様の事でいっぱいなのだ。

「誰かに抱かれている時もオナニーをしている時も私の事だけを思い浮かべ私に抱かれていると思うのです」

 セロ様に抱かれている。
 その言葉がおおいに私を勇気づける。
 そして『分かりました』とばかりに首を縦に振った。

「素直な良い子だ。 そんなあなたが大好きですよ」

 セロ様は大変満足なようだ。
 もう恥ずかしいなんて言ってられない。
 私の淫らな姿をセロ様に見てもらうのだ。

ぺちゃぺちゃぺちゃ

 なるべく大きな音を立てて両手真ん中三本の指を嘗めてみる。
 もちろん目はセロ様を誘惑している。

くちゃくちゃくちゃ

 私の動きに合わせ朝食の時と同じようにセロ様は夕食の鶏肉を口に含み大きな音を鳴らして噛みだした。
 それをせがむように口から指を離し大きく開ける。
 セロ様の口が音を鳴らしながら近づいてくる。
 私の指先は迷う事なく一直線に乳房に向かっている。

「あぁんっ!」

 既に火照っている私の身体は指先が少し乳首に触れただけで反応する。
 セロ様の顔はもう目の前だ。
 早くセロ様の唇に触れたくて顔を突き出す。
 しかし焦らすようにセロ様は私の動きに合わせ後退した。

「はぁん、頂戴!早く頂戴!」

 セロ様は口を動かしてはいるがその場からなかなか動こうとしない。
 乳房を掴む手をより激しく動かす事によりセロ様を誘う。

「はぁぁん!欲しい!欲しいの!口の中に早く入れて」

 知らず知らずのうちに舌が口からだらしなく出てきた。
 今私は愛するセロ様の前で痴態を晒しているのだ。
 セロ様の視線が私の身体全てを突き刺している。
 口がカラカラに渇きだし子宮の辺りが次第に熱くなってきた。

「はぁん!んんんっ!セロ様!お、お、お願いです。 あぁん!く、狂ってしまいそうなんです!」

 セロ様の顔が再び近づく。
 それを受け入れる為顔を少し斜めに向け大きく口を開ける。
 あともう少しで触れられる。・・・そう思うだけで更に手の動きは早くなる。

くちゃっ!

 ついにセロ様の唇が触れた。
 それも朝食の時のように微かに触れるのではなく濃密な物だ。
 右手は髪を優しく愛撫し左手は肩から背中を幾度も滑らしている。
 セロ様を感じ私の身体は更に激しく震える。

「んん!んん!」

 噛み砕かれた鶏肉とセロ様の舌が私の舌と絡み合う。
 今たしかにセロ様の舌が私の口の中に入っている。
 頭の中まで吸い込まれそうだ。
 私の指の動きは更に加速する。

くちゃくちゃくちゃ

 淫靡な音は更にセロ様の舌の動きを活発にした。
 頭の中はすでに真っ白で身体全体が火照っている。
 セロ様の唾液を感じ舌を感じ唇を感じる。

「んん~!んっ!んっ!」

 なぜ今失神しないでいられるか不思議なくらいだ。
 私は快楽に身を任せながら更に濃厚なキスを求める。
 しかしそれを嫌うかのようにセロ様の手に力が入り私達の距離はみるみる遠くなっていった。 

「あん!やめないで~。もっと欲しい」

 思わずそんな言葉が飛び出した。
 しかしセロ様はそれには応えてくれない。
 私は半べそ状態で懇願する。

「手を動かしなさい」

 突然のセロ様の大声で身体が一瞬硬直した。

「想像してください。今あなたの胸をまさぐっているのは私の手だと」

「セロ様の手・・・・・・」

「そうです!今あなたの手は私の手であり舌なのです」

 すぐにセロ様に言われたとおり想像する。

――セロ様が私の胸をまさぐり舌を這わせている。

「その下に入っている物はなんだか分かるね」

 今セロ様の物が私を貫いているんだ。
 私の身体を激しく求め抱きしめる腕に力を込めている。
 もはや口から出てきた鶏肉の固まりは気にならない。
 ひたすら快感を求めるだけだ。

「あうん!セロ様!セロ様!」

 絶頂を間近に控えた身体が反り始める。

「凄い!凄いの!」

 激しい息づかいのせいか呼吸が困難になってきた。
 全身にアドレナリンが行き渡る。

「綺麗だ!君はとってもSEXが好きな女性なんだ!」

 セロ様の声が更に絶頂を高める。

「もう駄目!いく!いく!セロ様のでいく!」

 セロ様が何事かを耳元で囁いでいるがもはや何も聞こえない。

「あっ!あぁん!あぁん!あぁん!止まらない!止まらない!死んじゃうよ!死んじゃう!」

 絶頂を迎えた身体はいつまでも痙攣が止まらず微かにセロ様の言葉だけ残して意識を奪った。

『・・・・・・・・・・・・アンド セロ』

【2002年12月28日PM11時00分】

「もう少しよ!頑張って」

 嬉しい事にシルラが言うには愛しいセロ様は私の成長を凄く喜んでいるらしい。
 もう少しでこの偽りの世界から脱皮して生まれ変われるのだ。
 本物の自分を知る日は近い。
 胸には誇らしげにセロ様から頂いたペンダントがキラキラと光っている。

「私は何も出来ないちっぽけな人間でした!」

 心の底からそう思う。
 ここに来るまでは本当は何も出来ないくせに自分には無限の可能性があると信じていた。
 性格の良いふりをしていたが実際は正反対だったのだ。
 鏡を見るたび綺麗に生まれて良かったと思い太った同性の者を見てはそのだらしなさに軽蔑していた。
 私は本当に偽善者だった。

「そんな昔のあなたをどう思いますか?」

「最低です!軽蔑します」

 もし昔の自分に会う事があったら思いっ切り罵倒する事でしょう。
 無責任に毎日を過ごし思いやりのかけらもない嫌な人間。
 それが昔の私なのですから。

「セロは昔のあなたを見てた時どう思ってたかしら」

 それを思うと恥ずかしさのあまり涙が出てくる。
 セロ様に対しなんと無様な姿を路程してたのだろう。
 偽りの世界に騙され愚かにも命より大事なセロ様を否定していたのだ。

「私はなんて事をしてしまったの。 セロ様に・・・・・セロ様に・・・・・」

 涙が止まらない。
 もう立ってもいられない。
 その場にしゃがみ込み幾度もセロ様に謝り続ける。

「昔のあなたに戻りたいですか?」

「絶対嫌です。戻りたくありません・・・・・戻りたくありません・・・・・・戻りたく・・・・」

 あんな醜い姿に戻るのは死んでも嫌だ。
 私の進むべき道は前にしか無い。

「では、その思いを繰り返し心の底から言いなさい」

 力強くシルラに頷くと立ち上がりお腹に力を入れる。

「私は戻らない! セロ様の為ならなんでも出来る! 生まれ変わる!生まれ変わる!生まれ変わる!・・・・・」

 自分に言い聞かすように一言一言に力を込める。
 身体に蓄積した『汚れ』を放出し続けなければならない。

「はい!もう良いわよ」

 シルラの言葉で意識を取り戻す。
 どれくらいの時間私は叫んでいたのだろうか。
 最初の数分で頭の中が真っ白になった。
 それでも叫び続けた。
 ここに来てから声はすっかり潰れてしまったが今はそんな事は気にしていられない。

「実は今日はあの子にあなたの意見を聞かせてあげたいの」

 シルラが指す方向にはいつもこの部屋で私と一緒にいる女性達に囲まれたあどけなさが少し残る女性が立っている。
 腰まで伸びたつややかな髪に長い睫毛、そのはっきりした顔立ちは間違いなくこの後更に美しくなる事を約束されている。

「彼女は?」

「偽の世界からまだ抜けきれていない愚か者です」

 シルラの言葉で一気に身体の血が騒ぎ出す。
 なんて馬鹿で頑固な女だろう。
 本物と偽物の区別もつかない盲目者。
 間違いなくあの子の姿は以前の私と同じなのだ。

「あの子を泥から引き上げたい」

 それは自分に対して言い聞かせている言葉でもあるのです。

――私はどの世界が泥かは分かっている。 だからもう落ちる事はない。 でもあの子は・・・・・

 私は愛しいセロ様や献身的なシルラ、エジ、バグのおかげで泥にまみれた汚い世界から這い上がった。
 だからあの子にも同じように自分が何の為にこの世に存在しどうするべきなのかを分からしてあげなければならないのだ。

――愛しい人に一生仕え死んでいく事が私達の運命だと認識させなければ。

 私はそう決意し彼女の元に歩を進めた。

――助けなければ!あの子を汚れきった世界から引き上げてあげなければ

 近づくにつれ彼女を取り巻く女性達の声がはっきり聞こえてくる。

「なんで分からないの! あなたは騙されている。 目を覚ましなさい!」

 助けを求めるような目であちらこちらにせわしなく視線を移している彼女の姿が目に入った。
 可哀想に脅えきっているようだ。
 だが間違いなくこれは彼女の為におこなわれている事なのだ。
 私達はつらくともその手助けをしなければいけない。

「あなたの気持ちは凄く分かるつもりよ」

 私の言葉に反応して彼女の目は私をとらえた。
 吸い込まれそうになるくらい透き通った綺麗な瞳だ。

「私もつい先日まであなたと同じだった」

 周りの女性達の口が閉じられその視線は全て私に集められた。

「この建物もここに居る人達も怖くて仕方なかった」

 バグを筆頭にここに居る人達全員に恐怖の感情を抱いていた。
 愚かにもここを逃げだし元の汚れきった世界に戻ろうとした。

「でもよく考えて!ここの人達ほどあなたの事を真剣に考えてくれる人が居る?」

 依然として彼女は脅えきった表情だがしっかりと私の目を見つめている。

「あなたの両親や兄弟、そして友達や恋人はここまであなたの事を真剣に考えてくれていたと言える?」

 彼女は暫く何事かを考えそしてつぶやいた後大声で泣きはじめた。

「分からない!何もかも分からないの! 私いったいどうしちゃったのか。何が本当で何が嘘なのか・・・・・・全て分からなくなったの」

 小さな身体が小刻みに揺れている。
 今彼女は以前の自分と必死に戦っているのだ。
 今まで生きてきた世界を信じたい気持ちと新しい世界に飛び込む恐怖が同時に襲いかかってきているのだ。
 それを打ち破るのはどんなに勇気がいる事か痛いほどよく分かる。
 しかし彼女は進まなければいけない。
 私は意を決して彼女の背中を抱きかかえながら優しく耳元で囁いだ。

「全て分からなくなるのは当然よ。 でも目の前にあなたの事を思ってくれる人達がいるのは現実の事でしょ」

 その夜、彼女を救う為の私の戦いはいつまでも続いた。

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