赤い靴『自我』

『自我』

【2002年12月29日PM11時30分】

「着替えの服を持ってきましたよ」

 ドアを隔ててセロ様の声が聞こえる。
 途端に胸は激しく高鳴る。
 いつ聞いても心に染みこむような温かく優しい声だ。

「セロ様!」

 その名を口にするだけで凄く幸せに満ち足りた気分になってくる。
 こんなにも人を好きになるなんて事が本当にあるなんて正直なところ思わなかった。
 自分の命より大切な人――それがセロ様。
 私はセロ様の為ならいつでもこのちっぽけな命を捨てる事が出来るだろう。

「今日も頑張ったようですね。シルラも喜んでいましたよ」

 セロ様が満足気に微笑んでいる。
 なんて嬉しい事だろう。
 私は誇らしげに少し胸をはった。

「私は絶対生まれ変わってみせます。セロ様のご期待どおりの女になってみせます」

 セロ様は私の言葉を確認するように何度も頷いている。

「あなたなら絶対大丈夫ですよ。私は信じてますから」

 『信じている』――なんて嬉しい言葉なのだろうか。
 期待を裏切らないようにしなければならないとあらためて強く自分に言い聞かす。

「さぁ!早く着替えなさい」

 突然セロ様はそう言って私の足元に紫一色に染められた衣服をそっと置き右手の濡れタオルの温度を自らの頬に当て確かめた。
 それに応えるように私も衣服を脱ぎ始める。

「凄く綺麗ですよ」

「恥ずかしい!」

 セロ様に褒められ顔が紅潮しているのが自分でも分かる。

「張りのあるバスト。くびれた腰周り。何より均整がとれている。あなたを抱いていた『ひろし』さんという方が羨ましい」

 『ひろし』――その名前を聞き胸は悔しさでいっぱいになる。
 今考えると私はなんて愚かだったのだろうか。
 どうしてあんな男に身体を許したのだろうか。
 あの偽善に満ちて汚れた世界に私は完全に飲み込まれていた。
 今から考えるとあれは一種の洗脳だったのかもしれない。

「セロ様!私悔しいです。私はなんて愚かな事を」

 唇が震える。
 声を上げて思いっ切り泣きたい気分だ。
 見るとセロ様もひろしへの憎悪からか唇が異常に震えている。

「私も凄く悔しい。もし目の前にそのひろしとかいう男が現れたらこの手で殺してしまうかもしれない」

「セロ様」

 強く握りしめられたセロ様の右手の拳も怒りで激しく震えている。

「でも過ちは消せるのです。あなたには輝く未来しかないのです」

 セロ様の一言一言が私の心に深く染み渡る。
 私の事を心の底から気遣ってくれているのだ。

「さぁ!じっと立っていなさい」

 セロ様の手に握られたタオルが白い湯気を発しながら首から肩の方へと延びてきた。

「あっ!」

 思わず声が出てしまう。
 セロ様がタオルを当ててくれた箇所から身体の芯へと熱が伝わり悲しみを全て癒してくれるかのようだ。

「本当に綺麗だ。素晴らしい!」

 タオルは背中から脇腹へと延びてきた。
 セロ様は依然として耳元で『素晴らしい』などの言葉を繰り返している。
 これが夢心地と言う物なのだろう。
 身体も心も全てセロ様に預けていれば良いのだ。

「このペンダントもあなたによく似合ってますよ」

 セロ様から頂いたペンダントが私の胸の辺りで輝きを発しながら揺らめいている。

「綺麗だ!本当に綺麗だ!」

 耳元にセロ様の息が当たる。
 背中にぞくっとくるような快感を味わい思わず『んんっ』と声を漏らしてしまった。

「何もかも完璧だ」

 タオルは私の胸の辺りを這っている。

――今セロ様の手が私の胸に

 想像するだけで下半身が熱くなる。
 股の辺りに愛液が溢れ出し卑猥な音を発している。
 次第に息も荒くなってきた。

「はぁん!あん、あん」

 涎が一本の線となり顎まで流れ落ちているのを感じる。
 今自分は口をだらしなく開けているのだろう。
 何も考えられずただ身体の底から沸き上がってくる快楽に酔いしれているのだ。
 そんな私の口の中にセロ様の人差し指と中指が入ってきた。

ちゅぱっちゅぱっ

 その指はせわしなく動き大きな音を鳴らしている。
 私は夢中でその指に舌を絡める。

――セロ様をもっともっと感じたい

 その欲求に応えてくれるかのように今度はセロ様の舌が私の身体の上を滑りだした。
 性的欲求は更に高まってきた。

――私は恥ずかしい女なんだ。 もっと!もっと!して欲しい

 セロ様の舌が私の耳を捕らえる。

「あっ、あん、セ、セロ様!」

 セロ様の舌の感触と息を感じ子宮はひくひくと痙攣をおこしている。
 たまらなく熱い。

――セロ様にしてもらいたい。セロ様をいっぱい感じたい。

 酸欠になるほど呼吸は荒くなってきた。
 立っているのが凄くつらい。
 足がガクガク震えているのが分かる。

「あなたは私の宝物だ」

 いつしかタオルは床に落とされている。
 セロ様は狂ったように私の身体を貪り続ける。

「私セロ様と離れたくない。私のご主人様はセロ様しか考えられません」

 思わず口をついた言葉に即座に反応しセロ様の指は私の乳頭を強く捻り上げた。

「あうっ!」

 強烈な快感が私の脳を直撃する。

「私を困らさないでおくれ。私だってつらいんだ」

 何か言おうとしても身体全体に行き渡った快感によりあえぎ声しか上げられない。

「でもあなたのご主人様は私ではないんだ」

 セロ様の目に涙が浮かんでいる。

「しかしあなたの愛は私だけの物だ」

 そう言うやいなやセロ様は私を強く抱きしめた。
 もう立っていられない。
 とうとう耐えきれず二人一緒に床に崩れ落ちた。

「愛している!愛している!」

「私もよ!私もよ!」

 セロ様の歯が私の乳頭を捕らえている。
 そして指もいつしか下半身に延びている。

――私の愛はセロ様だけの物

 突然下半身から淫靡な音が発せられる。

ぺちゃっぺちゃっ

「はうっ、あん、あん、あん」

 無性に喉が渇く。
 快楽のあまり頭の中が真っ白だ。

「あなたはこうされる事が凄く好きなんですよね」

 セロ様の指が時に激しく時にゆっくりと動き回っている。

「凄く淫乱な女なんだと正直に告白して欲しい」

 セロ様の舌が胸から下半身へと移動した。

「あっ、あぁん!・・・・わ、私はとてもエッチが大好きな・・・・あん、あぁん、い、い、淫乱女です」

 凄く恥ずかしい。
 でも私はそんな自分に酔いしれている。

つうぅー

 お臍の真下辺りに強い吸引力を感じる。
 セロ様の口が強く押し当てられているのだ。
 その部分から温もりが生じすぐにそれは全身に広がっている。

――あぁん!凄く良い

 私の頭は快感に耐えられなくなったのか意識は半分以上飛んでいる。
 本当の自分が何処か遠くにいるようで今している事が現実のように思えない。
 そんな中セロ様の言葉が断片的に聞こえてきた。

「・・・・・・・絶対そうするんだ」

 いったい何をおっしゃっているのだろう。

「私は絶対そうします」

 なぜだか分からないが私の口は勝手に動いている。
 しかし何を言っているのか分からない。
 私はいったい何をすると言うのだろう。

「何と言われた時に実行するのですか?もう一回言いなさい」

 そんな事は分かる筈がない。
 しかし再び私の口は勝手に動きだしている。

「・・・・・・・・・アンド セロ」

 その時セロ様の口が私の陰部を捕らえ私の意識は完全に途切れてしまった。

【2002年12月30日PM2時30分】

 今私はセロ様に手を引かれ長い廊下をゆくっりと歩いている。
 なんて幸せな気分なんだろう。
 まるで夢の世界に居るようだ。
 しかしなぜかセロ様の顔は曇っている。

――どうしたのかしら?

 不思議に思い尋ねようとしたところ一瞬早くセロ様の口が開いた。

「いよいよ明日旅立つんですね」

 その一言で一気に夢の世界から現実に戻され私の足は止まった。
 たしかに明日私はご主人様となる人を決めるためここを出発する。
 しかし今はその現実を受け止める事があまりにもつらい。
 胸が張り裂けそうでとても苦しいのだ。

「そんな顔をしないで。あなたのご主人様となられる方はきっと立派な方ですよ」

 つらくてセロ様の顔がまともに見られない。

「離れる事になっても私とあなたは一心同体。それを忘れないでください」

 いつしか私の目には涙が浮かんでいる。

「セロ様を忘れるなんて出来る筈がないわ。私はいつまでも・・・」

 感情が高ぶり言葉が出ない。
 そんな私の頭をセロ様は優しく撫でている。

「私はあなたが本当の自分を見つけてくれる事を強く願っています」

 なぜセロ様はこんなにも優しいのだろうか。
 とうとう耐えきれずセロ様の胸に顔を埋め声を上げて泣き出した。

「きっとあなたは本当の意味での幸せを見つけられますよ」

 セロ様の腕に力が入っている。

「私はまたここに帰ってこれるのよね」

 涙声のままセロ様に問いかける。
 それに応えセロ様はにっこり微笑みながら頷いている。

「もちろんですよ。今の状態ではあなたが元の汚れきった世界に戻る危険性があります」

 はっきり言ってあんな偽善に満ちた世界に戻る事は考えられない。
 しかしセロ様と居られるなら何でも良い。
 それがたとえあと三ヶ月くらいしかないとしても。

「それに本当の名前が無いと不便でしょ」

 セロ様が言うとおり過去を捨てた私には今仮の名前しかない。
 本当の名前となるべき物はご主人様となる方が付けてくださるのだ。
 それまでは『89』と言う何の変哲もない番号が私の名前なのだ。

「さぁ!いつまでも泣いていては駄目ですよ。あなたにそんな顔は似合わない」

 セロ様がにっこり微笑んでいる。
 それに応えて泣き顔の私も無理矢理笑顔を作る。

「そうです。あなたのその笑顔が私は大好きです」

 セロ様は私の後頭部の辺りを右手で押さえると顔をゆっくり近づけ額と額をくっつけた。
 凄く温かくて気持ち良い。
 セロ様を直接脳で感じているかのようだ。

「いつでも私とあなたは一心同体だ」

「はい!一生お仕えいたします。いつでもセロ様を感じセロ様の事だけを考え生きていきます」

 セロ様は私の手を強く握り私は力強く頷く。
 それが合図だったかのように二人再び歩を進め出した。

「・・・・・・・・・。」

 しかしやはり先程とは違い夢の世界というわけにはいかない。
 どうしても沈黙が続いてしまう。
 それを先に破ったのはやはりセロ様だった。

「おかしな話しですがいつかあなたが私の事を裏切るのではないかという不安に時々襲われる事があります」

 衝撃的な言葉に私の目は大きく見開かれる。

「そんな事は絶対ありえません。私の全てはセロ様の物です」

 私の言葉がよほど嬉しいのかセロ様は満足気な表情を浮かべ幾度も頷いている。

「身体は新しいご主人様のもとへと向かっても心はいつでもセロ様の近くに居ます」

「信じていいのですね」

 今度は私が力強く幾度も頷く。
 セロ様は子供のような無邪気な笑顔で満足の意を示している。

「さぁ!着きましたよ」

 そう言ってセロ様の足が止まったのはある扉の前だった。

「ここは?」

 何の変哲もないドアの向こうにどんな事が待ち受けているのだろう。
 たちまち不安がよぎってくる。

「大丈夫!心配するような事はないですよ。この部屋には私も一緒に入りますから」

 セロ様が一緒に入ってくれるという事実が私に大きな安心感を与える。

「この部屋に入る事はあなたにとって大きな意味があります」

 セロ様の手がドアノブにかかった。

「覚悟は出来ていますか?」

 正直なところこのドアが開かれる事が凄く怖い。
 今度は何が待ち構えているか全く想像出来ないからだ。
 しかし今度はセロ様が私の側に居る。
 その事実だけで私の心は強くなれる。

「ええ!セロ様と一緒なら何処までも」

 私の言葉に反応してセロ様の手が動く。
 そして二人して部屋へと足を踏み入れた。

――いったいここに何があると言うの

 不安とは裏腹にそこは目に飛び込んできた限りでは何の変哲もない部屋だった。
 広さは八畳くらい電灯が古いのか目が痛い程に点いたり消えたりしている。
 自然と目を細めながら更に辺りの様子を窺う。

「た・・・す・・・け・・・・て」

 その時突然助けを求めている男の声が左側から耳に飛び込んできた。
 思わず心臓が『どくん!』と高鳴る。
 恐怖を感じながらもなぜか逃げられないような感じがして左側に目をやった。

「あっ!」

 思わず声を上げてしまう。
 部屋の隅には全裸の状態で手足を頑丈なロープでくくられ深い傷を負っている男が居たのだ。
 その男の顔は傷だらけで変形しているが誰かすぐに分かった。
 その男は私がかって愛した男ひろしだったのだ。

「ひろし!」

 目が半ば開かない状態のひろしは私の声を聞いて身体を激しく揺れ動かしている。

「や・・・・よ・・・・・・い」

 口の中もズタズタに傷ついているのだろう。
 ひろしの言葉をはっきり聞き取るのは困難だ。

「どうしてこんな事が」

 つぶやいた私の肩にセロ様の手がかかる。

「この男は私の大切なあなたを傷つけた。こんな憎い男は居ない」

 セロ様の身体は怒りで震えている。

「あなたとの思い出がこいつの頭の中にあると思うだけで我慢が出来ない」

 ひろしは口を開け何かを言っているがもはや私の耳には入ってこない。

「しかし私はあくまでもあなたの味方だ」

 そう言いながらセロ様はポケットから注射器を取り出した。
 中に入っている液体は白く濁っている。

「それは?」

「この中に入っている液体は毒物同然です」

 その言葉に私の心臓は再び高鳴る。

「これは注入されるとたちまち脳細胞の一部を破壊し下手すれば死亡、上手くいっても廃人同様になります」

 セロ様はそう言うとひろしの腕を強引に掴み針を突き刺した。
 ひろしにはもはや抵抗する力がないらしくなされるがままだ。

「この男は偽善に満ちたあの汚れきった世界に戻します」

 私の身体の底から得体の知れない感情が沸き起こる。

「でもこの男の頭の中にあなたの身体を貪った忌々しい記憶を残したままでもあなたは平気ですか?」

 抑えきれないほど身体が震えてきた。
 答えは当然決まっている。
 私は大きな声で叫んだ。

「消して!私の記憶も何もかもその男から全て消し去って」

 セロ様の指が動き白い液体はひろしの身体へと入っていった。

【11年後 2013年12月26日PM6時40分】

 今私の目の前でご主人様が拳銃を構えている。
 それは私を殺す為だ。
 まさかこんな異国の地で自分の生涯を閉じるとは思わなかった。
 しかし私は死に対する恐怖を全く感じていない。
 瞳を閉じていても懐かしいセロ様の姿が見える。
 そのお顔は輝くばかりの笑顔で私に『ご苦労様!私は凄く満足していてますよ』と言っているかのようだ。
 なんて幸せに満ちた気分だろうか。
 今まさに私の波乱に満ちた人生は幕を閉じようとしている。

パンッ!

 ご主人様の絶叫を切り裂くように銃声がこだました。
 想像していたのとは違いあまりにも軽い音だ。
 人間の命がこんな物で奪う事が出来るのだろうか。
 硝煙の臭いが鼻につく。
 でも何かが変だ。
 瞼をそろりと開けてみる。
 すると先程と変わらぬ光景が目に飛び込んでくる。
 どうやら私はまだ死んではいないのだ。

「んっ!」

 突然左腕に鋭い痛みを覚え思わず声を上げてしまった。
 中指を伝い絨毯に私の血が流れ落ちている。
 どうやら銃弾は私を殺すのには少しそれてしまったようだ。
 時間が経つごとに腕の痛みは増してくる。

『あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーー』

 ご主人様の絶叫が再び部屋中こだましている。
 可哀想に全身震えているようだ。
 人を殺す事に対しての恐怖だろうか。
 それとも他の何かに脅えているのだろうか。
 しかしいずれにしてもご主人様にはもう一度引き金を引くしか道は無いのだ。
 ご主人様の勇気を奮い立たせる為力強く頷きもう一度瞳を閉じた。

――間もなく訪れる死により遂に私は解放される。全てが終わる。

 しかし私の望みはすぐに断ち切られた。

『出来ない!私には出来ない!』

 ご主人様の叫び声は少しづつ遠くなっている。
 やがてその声は私の耳からは完全に消こえなくなり部屋には私だけが残された。

【2013年12月26日PM9時20分】

 すべての部屋を訪れたわけではないがこの屋敷はかなり広大だ。
 ここの主がどういった仕事をしているのか分からないがかなりの財産があるのだろう。
 初めてここを訪れた時屋敷の中は多くの人で賑わっていた。
 老人や子供そして私のような奴隷達が屋敷の中を動き回っていた。
 しかしこの国はかなり不安定な状態だ。
 ある日何者かが屋敷に侵入し多くの人間をその手にかけた。
 生き残ったのはたった二人。
 今考えても奇跡としか言いようがない。
 奇跡に感謝すべきかそれともあの時この命を落としていた方が良かったのかそれはこの後の歩む道にかかっているのだろう。

――その道は既に決めている。

 後はその時を待つだけなのだ。

ガターン!

 突然書斎から大きな音が響き渡った。
 遂に時が来た事を確信した私はペンダントを胸から取り外しテーブルの上に置いた。
 それを眺めているといろんな事が頭の中を走馬燈の如く駆けめぐる。
 毎朝ご主人様への忠誠の言葉を叫んでは自分に強く言い聞かしていた。
 なぜ自分はこの世に存在しているのか。
 自分にとって幸せとは何かを幾度も問いかけてきたのだ。
 それも今となっては全て夢のようである。
 10年前の出来事やその後のここでの生活はたしかに現実の事なのだが今はどうしても実感が湧かないのだ。

――今日全ての事に答えが出る

 自分に何度も言い聞かす。
 そしてぼやけてきた瞳を閉じ心を少し落ち着かせると意を決して書斎に向かった。

『うぅぅぅぅ!』

 書斎の中からはうめき声が聞こえる。
 私はノックもせずにその重厚な造りの扉を開けた。
 そこには椅子から転げ落ちもがき苦しんでいる男の姿があった。

『マ・・・・サ・・・・・・コ・・・』

 私の姿を確認した男が今にも消え入りそうな声で助けを求めている。
 テーブルの上にはこの男がいつも服用している心臓病の錠剤が散乱している。
 錠剤にはペンダントの中に隠されていた毒が塗ってあった。

『何年も経っているから効き目が薄かったようね』

 たちまち男の顔は驚きと恐怖に満ちる。

『こ・・・と・・・ば・・・が・・・わ・・・か・・・・る・・・・の・・・・か』

 本当に可哀想な男だ。
 『シルラ エッジ バグ アンド セロ』――この言葉を口にした時男は確実に私の命を絶たなければならなかった。
 しかしこの男は恐怖と情に負けてしまいとうとう出来ずに終わったのだ。
 その瞬間この男の運命は決まった。
 私は残された最後の役目にとりかかる。
 この事は私の意志とは関係がない。
 やらなければいけないのだ。

――この男を殺さなければ

『今、楽にしてあげるわ』

 懐からこの男愛用のP7を取り出す。
 男の顔は苦痛の中恐怖の色が濃くなっている。

『や・・・・めろ』

 男が必死の叫んでいる。
 先程は私を殺そうとしたのに止めてくれとは勝手な話しだ。
 私を殺せなかった事でこの男は生きていく資格をなくしたのだ。
 私はゆっくりと男を追いつめる。
 男は這い蹲りながらも逃げようとするがもうほとんど動かない。

『あの子は貰っていくわ』

 この一言で男の動きは完全に止まる。
 『あの子』とは私とこの男の間にできた子供である。
 失われた時の中にあってたったひとつ残された宝物。
 私の事を母親だとは知らずこの男の歩んできた道をたどる予定になっていた大事な一人息子だ。

『ラ・・・・ハマン・・・・は・・・・・・わ・・・た・・・・さ・・ん』

 これがこの男から出たこの世で最後の言葉だった。
 最後の力を振り絞って出たこの言葉は男の執念だったのかもしれない。

『あの子はラハマンなんて名前じゃないわ』

 私はそう言うと男の頭に銃口を突きつけた。
 まもなくこの男の生涯はピリオドを迎える。

『あの子の名前は』

 瞬間私の中に二人の男が現れる。
 でも答えは決まっている。

『ひろしよ!』

パンッ!

 部屋に銃声が響き渡った。

【2013年12月26日PM11時30分】

 どれくらいの時間この部屋に居たのだろう。
 凄く長いようにも感じられるが逆にあっと言う間だったような気もする。
 依然として左腕の痛みは消えない。
 部屋には銃を握っている私とただの屍になった男だけが転がっている。

「終わった」

 不意に口からそんな言葉が飛び出す。
 私は自分に言い聞かせるように何度も『終わった』という言葉を繰り返す。

「違うわ!今からが始まり。 これからはひろしと共に生きていかなければ」

 私の人生はそこから再び始まるのだ。
 意を決するといつまでも右手に握られている銃を手放す為指の力を抜いた。
 しかし銃は手から離れない。
 私の身体に異変が生じているのだ。
 そして次第に身体の底から強烈な『恐怖』が湧いてきた。

「どうして?」

 なぜか無性に怖い。
 この恐怖感はたしかに何処で経験している。

――そんな事はあり得ない

 やがて私の耳にあの忌々しい声がはっきりと響いてきた。

『お前なんか生きる資格はないんだ』

 気がつくとスキンヘッドの男が目の前に立っていた。

――エッジがここに居る筈がない。これは幻よ!

 分かってはいるが全身の震えは止められない。

「いやよ!いや!いや!」

 幻は更に襲ってくる。

『死んでしまえ!死んでしまえ!』

「やめて!お願い!やめて!」

 どうやら彼はまだ私を自由にはしてくれないらしい。
 何もかも奪っていくつもりなのだ。

「死にたくない!」

 必死に右手の拳銃を離そうと試みるがどうしても指が動かない。

『また私と楽しい事をしますか?』

 そう囁きかけたのは左目を潰されている男の幻エッジだ。
 
「もう許して!私を自由して!」

 激しい嘔吐感に襲われながら私は必死に叫ぶ。
 拳銃を握っている右手は私の頭へと動き出した。

『ためらう事はないわ! 『死』はちっとも怖くないの』

 彫りの深い顔立ちをした中年女性シルラの幻が語りかけている。

「いやよ!怖い。 凄く怖い。死にたくない」

 こめかみにしっかり銃口があてられる。
 そして遂にセロの姿が目の前に浮かび上がってきた。

『大丈夫だ!君なら出来るよ。何にも怖いことなんかないよ』

「お願い・・・・・・消えてちょうだい!これ以上私を苦しめないで」

 何処まで私を苦しめるのだろう。
 涙が止まらない。

『苦しむ事はない。楽になるんだ』

 人差し指が引き金に掛かる。
 死に神に取り憑かれた私はもはや固く目を閉じてその時を待つしかない。

――もう駄目

 しかしまだ死は訪れなかった。

ガタンッ!

 ちょうどその時ドア付近で大きな音が鳴り私の動きは止まったのだ。
 その音が何の音なのか誰が今部屋に入ってきたのか容易に想像出来る。
 瞼を開けたくない。
 見たくない。
 それだったら今引き金を引いて死んでしまった方がマシだ。
 しかしその気持ちとは裏腹に私の瞼ははっきりと開かれた。

――駄目よ!逃げて

 声を出そうとしても全く出ない。
 目の前に居る幼き子供は動かない屍と私を不思議そうな表情で見つめている。
 その子供とはもちろん私の大事な息子ひろしである。

――ひろしだけは助けて

 私の心の叫びをあざ笑うかのように再びセロの幻が浮かびあがる。

『私の言う事に間違いがない事をあなたが一番よく知ってますよね。その子は殺した方が良い』

 その言葉に従うように拳銃は私の頭から離れ我が子『ひろし』に狙いを定める。

――それだけは絶対いや!そんな事は出来ないわ

 セロの表情が険しくなる。

『私を困らすつもりかい。いつからそんな悪い子になったんだい』

――ここにセロなんか居る筈がない。これは幻よ!幻よ!

 私は必死の思いで自分に言い聞かす。
 命に代えてもひろしだけは助けなければいけないのだ。

――彼等に何もかもを潰されるわけにはいかない。

 セロが笑い出す。

『無駄だよ!抵抗すればするほど苦しいだけだ。君の身体は私達をまだ憶えている』

 必死で抵抗する私に彼等は更に強い力で迫ってきた。

『お前はガキ一人も殺せねえのか!』

 エッジの凄みにより身体の底から恐怖心が湧き上がってきた。
 自然に涙が溢れ出す。

『その子に何の価値があるというのです』

 バグの言葉により嫌悪感に襲われる。
 激しい嘔吐感が断続的に続く。

『セロ様はあなたの事だけをずっと思っているのですよ。あなたはその期待を裏切るつもりなの』

 シルラの言葉は私の心を揺さぶる。
 彼等は一斉に私の子供の殺害を命じている。

――やめて!殺せない!それだけは出来ないわ!

 私の中で我が子への殺意が抑えきれないほど大きくなってきた。

――私はひろしを殺さない、殺さない、殺さない、殺さない、

 殺意をくい止める為必死の思いで自分に言い聞かす。
 身体の中で彼等によって植え付けられた殺意と僅かに芽生えた自我がぶつかり合っている。
 精神が破綻し始め呼吸は荒く困難になってきた。
 痙攣は止まりそうにない。
 既に限界は超えているのだ。

『もうあなたが苦しむ姿は見たくない。楽になりなさい』

 苦しい。
 なんでこんなに苦しいのだろう。
 セロが言うように早く楽になりたい。

――殺したい!殺したい!殺したい!

 私の目がもう一度我が子ひろしの姿を捕らえる。

――私のひろし

 私に決断を促すようにセロは目を大きく見開らき最後の命令を下す。

『今すぐ殺すんだ!』

 その瞬間強烈な衝撃が私を襲った。
 引き金に触れている指はもはや止められない。
 とうとう引き金は引かれた。

パンッ!

 銃声が鳴り響き全身の力が抜けていく。
 時間がまるで止まったかのようだ。
 静寂の中私に安らぎが訪れた。

――全てが終わった

 

 米国を中心とする主要7ヶ国は中近東などの第三国の要人を抑える為売春組織COSを利用。
 そこで調教された女性達のあらゆる性技により彼等は骨抜きにされた。
 時に優秀な暗殺者ともなる彼女達は彼等にとってまさに『喉元に突きつけられた刃物』だったのである。

 2014年10月11日  山本 達夫(組織名 エッジ)    東京某ホテルにて死亡(享年49歳)
紐状の物で首を絞められた事による窒息死。
 2015年 2月 5日  同事件捜査打ち切り。

 2014年 9月21日  宮川 和夫(組織名 バ グ)    福岡の自宅にて死亡(享年44歳)
頭部を鈍器で数発殴られた事によるショック死。
 2015年 2月 5日  同事件捜査打ち切り。

 2013年12月 4日  井上 響子(組織名 シルラ)    秋田の自宅にて死亡(享年46歳)
多量の毒を摂取した事による中毒死。

 2004年10月19日  大石 浩介(組織名 セ ロ)    東京某病院にて死亡(享年37歳)
胃癌による病死。

 2013年12月26日  アッサン アル ジャハニ      ジェッダ自宅にて死亡(享年56歳)
氏の体内から微量の毒物が検出。
頭部に銃弾を浴びた事が致命傷と見られる。

 2014年 1月19日  事件当時屋敷内から出て行ったと見られる子連れの邦人女性を国際的重要参考人として指名手配。
 2014年 4月13日  同事件捜査打ち切り。

 その後の女性の行方は不明なり。

< 完 >

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