ファンタジーシティー 分割版 (scene4-6)

マイ・ディア・シスター (scene4-6)

-4-

 事件が起こった教会の建物は、もともとは帝政末期の反動時代、聖十字教徒を監禁していた牢獄だった。
 その建物が教会として生まれ変わるきっかけとなった奇蹟――帝国の崩壊の際に、監禁された信徒たちを一夜にして救い出した聖人の善行は、昨晩、悪魔とその信徒によって、裏返しの形で再現されてしまった。全くの無血で為された聖者の奇蹟と違い、力ずくの、血に塗れた方法で。
 神父を失った教会は、再び牢獄に返ってしまったかのようだ。
 空気には、微かに死の気配の残滓が混じっている。
 燭台にところどころ短く残った蝋燭に、順々に火を入れていくと、不十分な光源に照らされた教会内は、薄暗く、まるで朽ち果てているかのように見える。
 色濃く陰影を映し出された十字架は、禍々しい黒ミサの十字架を思わせる。
 自警団小隊長、シスター兼白魔術師のセアラ・ヴェルネは、そっと眼を閉じた。
 全ては、己が迷いと怯えを投影しているだけのこと。
 たとえ一時、悪魔に襲われ荒らされたとしても、ここは教皇猊下の認めたもうた教会である。
 魂の眼を見開けば、十字架はいまだ神聖な光を放っているではないか。
 セアラは跪き、死者の冥福を祈った。
「神よ、戦いに斃れた者たちの御霊を救いたまえ。
 非道な悪魔とその一党に、正義の裁きを与えられんことを」
     :
     :
 次に周囲を見渡した時には、セアラの意識は聡明な魔術師(ウィザード)のものになっていた。
 街で唯一かもしれない、容疑者に擬せられていない魔術師として、セアラは昨晩の事件について調査を行う義務がある。
 義務。この場合、自ら、己に対して、そう任じ定めるという性質のものだ。
 古代帝国崩壊後の知識体系の後退は、特に法務警務の分野において著しく、ほとんどの治安組織は聞き込みと拷問以外の犯罪捜査法を知らない。事件以来一晩、現場はなんの調査も行われぬまま、ただ踏み荒らされていた。
 セアラとて、鑑識の専門知識を持っているわけではないが、それでも彼女がやらなければ、ほかの人は現場の科学的・魔術的調査など、思いつきもしないだろう。
 捜査の手始めに、魔術師ギルドの実験室で合成した発光性エーテル(エーテル・ルミナス)を小瓶の半分ほど床に垂らしてみる。
 粘性をほとんど持たない流動性のエーテルは、そこを通った存在の残留魔力と反応して光を発しながら、薄く広がっていく。
 エーテル・ルミナスの光の色は、魔力の性質によって変わるはずなのに、教会の床は氷のように白一色に輝いていた。
 赤い光に青い光に緑の光を足すと白くなる。
 昨晩の大量の自警団員に、先の日曜日のミサの参拝者など。教会の床は、只人(ただびと)の通った軌跡でいっぱいだった。
 その中で、かすかに識別できた薄緑色の痕跡は――
 燭台をひとつひとつ廻ったのち、祭壇の前で数分間静止し――
 セアラ自身の足元へと続いていた。
 ……わたくしったら、なにをしているのでしょう。
 セアラは頭を抱えた。
 この分だと、結界の方を当たった方が早いかもしれない。
 教会に張られていた結界は、襲撃の際には発動せず、どういうわけか、その後訪れたマヤによって踏み破られている。
 彼女は、通信術師のアレクサンドル・フィクスと一緒にいるはずだ。
 位置もわからず、魔法陣による増幅(ブースト)もないけれど、アレクとは同じ教室で魔術を学んでいる仲だ。その波長はよく分かっている。なんとかメッセージぐらいは送れるはず。
(フィクス君、フィクス君、聴こえるかしら。ヴェルネです。セアラ・ヴェルネです)
 かなりかすれた、ノイズ交じりの“声”で、アレクの返事が返ってきた。
(連絡くれると思ってたよ。そんで、マヤちゃんとどこに行けばいいのかな?)

-5-

「ごめんなさーい、遅くなりましたー」
 マヤの涼やかな声が、石造りの建物の中で反響した。
 地下の調査を終えたばかりのセアラは、早足で階段を駆け上がる。
 セアラの姿を見つけたマヤはぺこりと頭を下げ、アレクはその傍でやる気なさげに右手をあげた。
「ちょうどよかったわ。今、地下を一通り調べ終わったところなの」
 教会内に何十とある長椅子の一つに、荷物を置いて腰掛ける。
「お疲れさまです」
「なんかわかった?」
 アレクが馴れ馴れしく訊いてくる。
「捜査状況を軽々しく言えるわけがないでしょう」
「ケチ」
「吝嗇で言っているわけではありません。混ぜ返さないでください」
 人が死に、町を悪魔が跳梁しているというのに、あまりにも不謹慎ではないだろうか。
「あんまり気を張ってると身体壊すぞ。どうせ徹夜なんだろう?」
「それとこれとは関係ありません。
 容疑者に捜査状況を話してしまうほど気が抜けていたら問題です」
「そりゃそうだ」
 からからと小気味いい笑い声をあげながら、アレクもセアラとは別の長椅子に腰を下ろす。
 かわりに、マヤがセアラの服の袖を引いた。
「セアラさん、寝てないんですか? ちょっとぐらい、休憩しましょうよ」
「一晩の徹夜ぐらい、別に珍しいことでもないわ」
 それくらいのことで大騒ぎするマヤがかわいらしく思える。
 自ら決めたこととはいえ、俗事に追われるセアラは、修道院のシスターのように毎日規則正しい生活を送ることはできないのだ。
「疲れてるといい仕事はできませんよ。わたし、疲れを取るいい方法知ってますから、ちょっとだけ時間を貸してください」
「ありがとう。気持ちだけ貰っておくわ。隊の指揮を投げ出して来ているのに、わたくしだけ休むわけにはいかないもの」
「でも――」
 マヤは胸元で両手をもじもじとさせながら食い下がる。
「えっと、部隊の人は仮眠ぐらい取ったんじゃないですか? ノエルさんも、その、きちんと眠れたはずですし」
「彼女たちは鎧を着て仕事をしてるのよ。数時間は休んでもらわないと身体がもたないわ。わたくしの仕事は頭脳労働ですから、少しぐらい無理をしても問題ないの」
「ほらっ、無理をしてるんじゃないですかっ」
 マヤはセアラの言葉尻をとらえて詰め寄ってくる。
「どうしたの? 昨日から興奮しすぎよ。疲れてるのあなたの方じゃない? それとも、話をするのを先延ばししたい理由でもあるの?」
「あ、ありませんよっ、そんなものっ」
 マヤはぶんぶんと手を振りながら一歩後ずさろうとした。
「きゃあっ」
 椅子に足を引っかけ、マヤは派手に姿勢を崩す。
 床にお尻を打ち付けたマヤの上に、セアラの荷物が――紙や羽ペンや発光性エーテル(エーテル・ルミナス)の瓶が振りかかる。
 ガラス瓶の蓋は、逆さにすれば簡単に取れてしまう。
 瓶の中に残っていたエーテルが服に染み込む。マヤの魔力と反応して放たれる光の色は橙色。蝋燭の灯の色にも似て、まるで服が燃えているかのようだ。
「なっ、なっ、なっ、なんですかっ、これはっ!?」
 慌てて払い落とそうとすると、手までが橙色に光り出す。
「わああっ、ああっ、やあっ」
 マヤはパニックになって、アレクの身体にしがみつく。
 当然、アレクの身体にもエーテルがつく。こちらは、魔術師一般によく見られる青白い光。知識や思考の特異さからすると、やや意外でもある。
 アレクは身体を覆う光のことなど無視して、小さな子供にするように、マヤの背中を撫でてあやす。
「ほら、落ち着けって。ただのエーテルだ、絵の具とたいして変わんないよ」
「ひうぅ…、ぐすっ、うう…」
 動転したマヤが頼るのが自分ではないことに少しさびしいものを感じながら、セアラはノートや羽ペンを拾い集める。
 セアラの持ち物は、エーテルを浴びて薄緑色に光っているからすぐわかる。
 3人の固有色は、セアラが緑、マヤが橙、アレクが白みがかった青。床の残留魔力は既にすべて反応して消えてしまったから、光源はこの3色と燭光と外光のみ、のはずなのだが。
 視界に、あるはずのない色の光が入った。
(紫?)
 見渡すと、アレクの靴の靴底の部分が、毒々しい暗紫色に染まっている。
 たしか半年ほど前、自警団内の機密漏洩事件の捜査をしていたときに、同じ色を示す軌跡を見た覚えがある。
 そのときは、証拠不十分で告発することができなかったけれど、その軌跡の主、機密漏洩と収賄の犯人と目される人物は――
 昨晩、首を斬られて、殺されていた。
 アレクとマヤが兄妹のように抱き合う姿は、もはや微笑ましいものとは見えなかった。

-6-

 狭い階段。光源はセアラが作った緑色の光球ひとつ。
 こつこつとブーツの靴音を響かせるセアラのあとを、草履をぺたぺた鳴らしながらマヤがついてくる。
 足音は重く、会話はない。
 セアラが――たぶんマヤも――足元だけを見ているのは、暗がりのせいだけではないはずだ。
「ここは、地下牢…ですか?」
「そうよ。あれを見なさい」
 セアラは光球で、通路の真ん中に広がる血痕を示す。
 地下牢に残されていた、首斬り死体からあふれ出した血の跡だ。
 単純な恐怖か、“彼”の行為を実感してか、マヤの身体が強張る。
「結界の話じゃ…なかったんですか?」
 セアラは答えず続ける。
「右手前に、足跡が見えるでしょう」
「……はい」
「犯人の足跡よ。囚人は靴を履いていなかったから。サイズは、わたくしの足よりやや大きいくらい。おそらく、身長5フィート半の男性のものでしょう」
 言いながら、セアラはそっとマヤの背後に移動した。
「それって――」
「フィクス君の靴の靴底は血まみれだったわ。
 あなたも知らないのかもしれないけれど、昨晩の襲撃は彼の仕業よ」
「セアラさん…、気づいてたんだ……」
 マヤの首筋に、右手を突きつける。
 セアラの右手の中指には、呪文を唱えずとも魔力を込めただけで電撃を放つことが出来る魔法の指輪がはめてある。
「振り向かないで。そのまま両手を上げなさい。不審な動きをしたらあなたでも容赦なく“撃つ”わ」
 操られている者は、予測もつかない行動を取ることがある。
 もしも格闘にでもなったら、指輪の力を計算に入れても勝てるかどうか。もともとこの指輪は、相手に予想外の一撃を浴びせるためのもの。タネを知られているマヤが相手では価値も半減だ。
――すっ
 マヤは無抵抗に両手を上げた。
 もちろん完全な降参ではなく、一瞬でもセアラが隙を作るのを待っているだけのはずだ。
「簡潔に答えなさい。
 あなたは、フィクス君――アレクサンドル・フィクスに操られているのね」
「そうみたいです」
「あなたのうちに泊まったノエルも」
「はい」
「では、ノエルとコンビを組んでいたレジェナも?」
「そう聞いています」
「加えて、あなたに命じてわたくしを操ろうとしている――」
「はい、まあ、そうです。わたしが自分からやるって言ったんですけど」
 かわいらしい声はそのままに、信じられないような言葉を口にする。
「嫌だなんて思うの最初だけですよ。すぐに幸せな気持ちになれるはずです。
 アレクさんに働いて、えらいぞって褒めてもらうのは、神に仕えるよりずっと心が満たされるお仕事です。
 ベッドの上で、身体中を触ったり舐めたりしてもらって、エッチなところを…その…おちんちんで…突いてもらうのは、すごく気持ちいいんです」
 今のマヤはただの操り人形だ。まともな思考や判断など期待できない。
 聞くべきことは聞いた。もう終わりにするべきだ。
 それは分かっているはずなのに、セアラは口にせずにはいられなかった。
「彼に褒められたり抱かれたりするためなら、どんなこともするというの?」
「いいえ。褒めてもらえなくても、抱いてもらえなくても、アレクさんが、本気でそうするべきだ思って決めたことなら、わたしはそれに従います」
 その言葉には、ただ言わされているだけとは思えないほど、強い意志が篭もっていた。
「その血痕を見なさい。彼は、昨晩、3人もの人を殺したのよ。なにも感じないの? それほど、あなたの心は歪められてしまったの?」
「かわりに、もっとたくさんの人を助けたじゃないですか。それに、捕まってた女の人は、強姦されていたそうですね」
 精液や、残留魔力や、聞き込みでの証言など、そのことを示す証拠は十分に見つかっている。
「だからって。彼はあなたたちの心を弄んで犯して――」
 言いつのるセアラの動揺は、マヤが待ち続けていたものだった。

(え? なに?)
 いきなり、手首と襟元ををつかまれた。
 対応を考える間もなく、マヤの小柄な身体が内懐に入り込んでくる。
 姿勢を崩されたと思った時には、もう足がふわりと浮いていた。
 背中から尻まで、いっぺんに石の床に叩きつけられる。
 背負い投げ。
 頭を打たなかったのは、マヤが右腕をしっかりつかんでくれていたからだ。
 ただ、セアラの安全を思いやってのことではない。
 マヤはそのままセアラの右腕を身体全体で抱え込むと、ぎりぎりと関節に逆向きの力を掛けてくる。
 筋肉が引きちぎられるような痛み。骨が直に傷つけられるような痛み。関節技の痛さは、これまでセアラが感じたことのある痛みとは異質のものだ。
 ばたばたと手足を振ってもがいても、右腕にかかる力は緩むことはない。そもそも、体力で比較するならマヤの方がかなり優位のはず。
「…ううっ……」
 叫びだしたいのを辛うじてこらえる。
「降参してくれますか?」
 穏やかといってもいいような口調の問いかけ。
 受け入れるわけにはいかない。ひとたび屈服すれば、その弱みに付け込まれるだけだ。
 呪文以外に、なにか攻撃手段を探さなくては。
 護身用のナイフ……不可。左手で、しかもこの体勢では、どこを切ってしまうかわからない。
 この娘は、自分がそんなふうに気遣われているのをわかっているのだろうか。
 軽く笑みさえ浮かべるマヤの表情は、薄緑色の灯りのせいで、ひどく冷たいものに見えた。
 薄緑色の灯り、魔術の光源……おそらくそれが最善手。既に作ってある光球は、意識を集中するだけで操作できる。
「きゃっ」
 光球を顔に押しつけられ、マヤは眩しさに大声をあげる。
 手首をつかむ力が緩んだ隙に、右手を身体に押しつけて電撃を放つ。
――バシュッ
 音ばかりは威勢よかったが、手ごたえは浅い。
 光が消え、真っ暗になった地下牢の通路を、足音と気配が遠ざかっていく。
 20フィート(6メートル)ほど先で、通路と牢内を隔てる鉄格子がごーんと音を立てた。
 視力をやられたマヤが、派手に頭をぶつけたらしい。
「ううっ、ぐすん……」
 泣きじゃくるマヤの手元で、赤いなにかが光る。
 怪しい光を放つ宝石。その光を見ているだけで心がざわつく。おそらく、あまり性質のよくないマジックアイテムだろう。
 光がちらついたのは、鉄格子のすぐ傍だった。
 ……なら。
 セアラは鉄格子に手を当てて電撃を放つ。
「あううっ」
 寄りかかってでもいたのか、格子伝いの電撃をまともに浴びたマヤは、通路の反対側まで飛び跳ねる。
 落とした魔石が、床で跳ねる。
 拾おうとして蹴っ飛ばしたのか、どんどん向こうに転がっていく。
「わっ、あっ、ダメ………」
 赤い光が、追いかけるマヤの身体で隠れる。
 追撃をはかるセアラに、マヤは何枚かの呪符をばら撒いてきた。
 呪符での攻撃は十分に予想済み。
「風よっ!」
 あらかじめ唱えてあった風の呪文を解き放つ。
 吹き散らされた呪符は、天井や鉄格子に触れると張りついて暖かい光を放つ。
 魔術の光源の呪符版。ただの囮か、暗所での戦いを有利に進めるためのマーキングか。それとも、マヤも相手を傷つけたくないのか。
 セアラは一瞬のうちにいろいろと考えたが、実は戦闘に使う紙人形を昨日のうちに使い切っていたというのがいちばんの理由だ。
 突風は、身をかがめて魔石を追っていたマヤの身体まで吹き飛ばしていた。
 頭から無様に床を転がる。
 立ち上がった時には、そこはもう通路のいちばん端、階段のすぐ手前だ。
 狭くて足場の悪い階段に逃げるわけにもいかず、マヤはセアラに向き直る。
 セアラは、体術の間合いの一歩外で立ち止まる。
 右手中指、電撃の指輪には、既にマヤを一撃で失神させられるだけの魔力が溜めてある。
「あなたを助けてあげるわ。偽りの愛情を振り払って、元のあなたを取り戻してあげる」
 マヤはセアラをキッと見返した。
「元のわたしになんて戻りたくありません。わたしはアレクさんのものになれて幸せですっ」
 いつの間に拾っていたのか、マヤはセアラに向かって赤い魔石をかざした。
 正確に言うなら、石がついているネックレス状の細い鎖を、人差し指と中指に引っかけて握っている。
 その赤い光が目に入ると、全身が総毛立ち、思考がかき乱される。
 この感覚は、前にも味わったことがあった。
 魅了(チャーム)――
 貴族の出身で容姿にも秀でたセアラを魔術で支配しようとした愚か者は、なにもアレクとマヤのコンビが初めてではない。
 そのときは簡単に振り払えたけれど、今回のチャームの力はそれとは段違いだ。
 マヤの意志と霊力に共鳴して、魔石の魔力と怪しい輝きが増していく。
「やめなさいっ」
 セアラはマヤを指差し、集めたすべての魔力を電撃に換えて撃ち出した。
 稲光は、赤い光を切り裂きながら、マヤの胸元に突き刺さる。
 マヤは大きく身体をのけぞらせ、それからがくっと片ひざをつく。
 けれど、それだけ。魔石のネックレスを堅く握った右腕は、今も力強く突き出されている。赤い光も弱まりこそしたが消えていない。
「ううっ……、いまのは効きましたよぉ……」
 痛みと痺れに顔を引きつらせながら、ややあやしい呂律でマヤが言う。
「でも…、アレクさんのためですから、負けませんっ」
 どうして?
 オーガでも昏倒させるほどの電撃を浴びて、なぜ戦いつづけられるだろう。
 巫女の高い魔法防御、なにか仕込んであるらしい装束、その辺は十分に計算に入れてある。
 あの、赤い魔石か。
 一般に魔法攻撃には魔法攻撃を相殺する力がある。
 とはいえ、攻撃呪文でもないチャームで、セアラの全魔力を乗せた電撃を防ぎ止めるとは、魔石の放つ魔力は――それを増幅させているマヤの想いは、どれほど強力だというのか。
 もちろん、威力が減衰するのは、魔石のチャームにしても同じことだ。
 一時的なものとはいえ、セアラの脳を侵す魔力が弱くなる。
 浅くなっていた呼吸を整え、慣れ親しんだ典礼文を暗誦する。
我は信ず、唯一の神。全能の父、天と地、見ゆるもの見えざるものすべての造り主を――
 信仰告白(クレード)。神の信徒であるという宣言。悪魔とその契約者に従う人形にはならないという意志の表明。
 恩寵と信仰が自分を護ってくれると信じて、赤い魔石をにらみつける。
 マヤは再びチャームの魔石を高く掲げる。
「わたしはアレクさんが大好きです。
 セアラさんにも、アレクさんのものになってほしいです」
 押し付けられる思念は、セアラの信仰を穢すことはできなかった。
聖霊は常に我と伴にあり。我が内に住み、我が魂を聖化し、御旨を行わしめ、助け主、慰め主として、定めの時まで我を導きたり――
「さすがです。精神力は高いですね」
 気を緩ませようというつもりなのか、マヤがそんなことを口にする。
 こんな状況でも、マヤに褒められると悪い気はしない。
「そのままいつまで耐えられますかー」
 決まっている。もう一度、指先に魔力を溜めるまで。途中で相殺されないよう、今度は隙をついてゼロ距離で。
 ネックレスの鎖が、左右にゆらゆらと揺れ始めた。
「さー、ちゃんと追いかけてくださいねー。
 ちょっと大変かもしれませんけど、セアラさんなら大丈夫ですよねー」
 妹分の露骨な挑発に乗せられて、セアラの視線も、赤い光の動く通りに左へ右へと振れていく。
「ほーら、だんだん疲れてきたでしょう?」
 ゆっくりと、柔らかな声で、マヤは語りかけてくる。
 確かに、動くものを対象に意識を集中し続けるのは、予想以上に目に負担がかかることだった。
 けれど、負けるわけにはいかない。わたくしは先輩、マヤは後輩。ナイフとフォークの使い方から教えてあげた間柄。わたくしにはあの子を救ってあげる義務がある。
「こういうのはどうですかー」
 マヤは腕をゆっくりと前後に動かしだした。
 焦点が合わない。赤い光がぼやけて広がる。
 意識の集中が途切れると、魅了の魔力が頭の中に染み出してくる。
 いけない、きちんと追わないと。
 前に、後ろに、動く魔石に瞳の焦点を合わせる。
 マヤが腕を動かすごとに、ただ追いかけるのではどうしても遅れが出る。
 規則性を探そう。たとえば、マヤの手の動きには“手前”と“奥”しかない。いちど石を遠ざけたら、次は近づけてくる。
 それだけではない。魔石が近づいたり遠ざかったりするのは、必ず振り子の3振幅ごと。始めのうちは違ったけれど、今は完全にそのペースで固定されている。
「1.2.3.4.5.6.1.2.3.4.5.6.」
 マヤが周期に合わせて数を数えてくれる。
 なんでそんなことをするのか考えることもないまま、セアラはそれに従って視線を動かし続ける。
 左へ、右へ、前へ、後ろへ――
 そういえば、こんな風に声をかけ合って、ダンスの練習をしたことがあるような気がする。
「1.2.3.4.5.6.1.2.3.4.5.6.」
 いつのまにか、セアラの唱える典礼文は、数の繰り返しにすり替わっていた。
「そのまま光を追い続けて……目がしょぼしょぼするけどまだがんばれる……
 テンポよく数を数えていきましょう……そうするとどんどん光に集中できる……
 ほーら、1.2.3.4.5.6.1.2.3.4.5.6 ……」
 手前で3往復、奥で3往復、手前で3往復、奥で3往復……
 気がついてみれば単調な動きに、頭の中が痺れてくる。
 なにかがおかしいと思うのだけれど、それがなんなのかわからない。
 耳にはマヤの声だけが響いている。
 視界に映るのは、妖しく輝く魔石の光だけ。
「1.2.3.4.5.6.1.2.3.4.5.6.」
 口からはセアラの意志が介在しないまま、虚ろな声で数字が流れ出ていく。
 目蓋が震える。目の奥が疲労でじーんとする。
 光を目で追うことしか考えられないのに、それがとても億劫だ。
「そろそろきつくなってきましたね……もう少しですよー……あと一息、がんばってくださーい……」
 だんだん鎖の揺れが弱くなってきた。
「そのままじっと見ていてください……だんだん動きが小さくなってきたでしょう……
 もうすぐ止まっちゃいますよね、そうなったら…セアラさんの勝ちです」
 勝ち? そう、わたくしはマヤと戦って……
 あれ…でも…どうしてそんなことになったのかしら……
 ほんの数分前のことさえ、記憶に靄(もや)がかかったように思い出せない。
「まだ動いてる…よーく見て…ほんのちょっとだけだけどまだ動いてるでしょう……
 止まる…止まる……ぴたっと止まって動かなくなる……もうすぐですよ……ほらっ」
 言葉の通り、光は一点で完全に止まって動かなくなる。かすかに色を変えながら、まばゆい輝きを放つのみだ。
「ふふっ、よくがんばれましたね。降参です、セアラさんの勝ちです。だからこんなものはしまってしまいましょう」
 マヤが赤い宝石を手のひらの中に握り込む。
 魔石のプレッシャーから解放されて、セアラの心身から一気に緊張が抜ける。
 そうだ、これで、わたくしの勝ち。もう、マヤと戦わなくていい。
「お疲れさまでした。もう戦いはおしまいです。ほーら、身体の力が抜けてラクになる。もう身体が重くてふらふらしてきた……。重い…重い…座りたい……休んでしまおう……」
 指摘されると、全身をけだるい倦怠感が覆っていることに気がついた。
「いま椅子を用意してあげますね」
 看守用の椅子を両手で抱えた無防備な姿勢で、マヤがゆっくりと近づいてくる。
 なぜだかわからないけれど、右手の中指に気が向く。身体中の魔力が、なぜかその一点に集中している。
 あれ? わたくしはこの魔力で、いったいなにをするつもりだったのだろう……
 張り詰めていた右腕から力を抜くと、砂時計の砂のように魔力がこぼれ落ちていく。
「さあ、座ってください」
 おしりの下に椅子が差し入れられた。
 背もたれはないけれど、もたれかかるとマヤが身体で支えてくれる。
「遠慮しなくていいんですよー、わたしはセアラさんに負けちゃったんですから」
 首筋や肩を指先で優しく揉み解される。気持ちいい。
「疲れましたね。目を閉じてしまいましょう。しっかり目を閉じると、目の疲れも取れてとてもラクになります。もう目を開けたくない、開けようとも思わない。そのまま目を閉じていると、もっともっと身体の力が抜けて、気持ちよくなってきます」
 セアラは完全に体重をマヤに預けていた。相応の弾力を持ったマヤの胸が頭を受け止めてくれる。伝わってくる人肌の温かさに心が安らぐ。
 マヤは今度は両手をこめかみに当てて、目を酷使して疲れた筋肉をほぐしてくれる。
「…ありがと…マヤ…上手よ……きもち…いいわ……」
 寝言のようなだらしない声が口から漏れた。
「どういたしまして。
 このまましばらくマッサージしててあげますから、らくにしていてくださいね。
 眠っちゃってもかまいませんよ。ほーら、だんだん眠たくなってきた。とても眠たくて起きていられない。このまま少しだけ眠っちゃいましょうか。わたしがついてるから大丈夫」
 マヤがついてるから……
 それだけでほかのどんなことも無視して安心することができた。
「そうですねー、5分くらい寝ちゃいましょう。時間が来たら起こしてあげますから。それじゃセアラさん、おやすみなさい」
 いつの世も挨拶は最強の魔法の一つだ。
 かくんと頭が垂れ、セアラの意識は完全に途切れた。

< 続く >

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