BLACK DESIRE #2

0.

「──契約を開始します」

 地下室内に虚ろに声が響く。
 僕はそれに力強く頷き返し、決意を表明する。

「やってくれ」

 幎は答えない。静かな動作で床にランタンを置くと、そこから一歩、二歩……三歩下がって停止した。
 僕と幎の間にピンと張りつめた空気が漂う。目に見えず、肌に感じることもできないその気配は、ちょうどランタンの炎の上空周辺に無数のナイフの刃先のように集中していく。

──パンッ!

 ランタンのガラスが砕けた。
 内側から溢れた炎が生き物のように身を捩り、こぼれた油を吸い上げて成長する。

「──ぁ」

 思わず声が漏れる。僕の目線は幎の背後に吸い寄せられた。
 紅く禍々しく成長したランタンの炎は、幎の背後の影を暗い異形の姿へと変貌させていた。
 人の影法師に左右に張り出した翼のシルエット。頭部から伸びるのは山羊のように曲がった角か? これぞまさしく、古来から伝えられた悪魔の姿。

 幎が前で併せていたいた両手を解く。両脇にだらりと伸ばしたその袖口から、黒光りする紐状のモノがあふれ出た。

 鎖だ。
 いったい何処からそれは湧き出てくるのだろう。後から後から途切れることなく現れて、地面に落ちて甲高い音を立てながらとぐろを巻く。

 ゆらり、と影が揺れた。幎がゆっくりと両手を持ち上げ、それに釣られるように鎖の先端が空中に浮かび上がる。
 幎の腕の動きに併せて鎖が踊る。炎を巡り、僕たちを取り囲み、空中に複雑な立体布陣を創りながらこの地下室の様相を塗り替える。

 そこに存在するのは炎と鎖。幎という悪魔を象徴する2つのイメージ。

 鎖が縦横に飛び、炎を分割した。その中心に黒い『何か』が見え隠れする。炎の赤を飲み込んで紫に明滅するそれは、幎の用意した魔力の塊だ。
 その両サイドに1対の鎖が蛇のように鎌首をもたげる。
 いよいよ、契約の時はきた。僕はごくりとツバを飲み込む。

「──ぐっ!!」

 あっと思う暇もなかった。次の瞬間、矢のように2本の鎖は正面から僕の胸に突き刺さっていた。正面から拳で胸を突かれたような衝撃を喰らうが、手足が棒のように固まったまま倒れることも出来ない。

 そのまま鎖が巻き戻り始める。痛みはない。泥の沼から引きずり出すような抵抗は感じるが、そこに肉や骨を壊す感触は存在しない。まるで自分の体がとろけた飴になったような気分。そしてひときわ強い抵抗と共に、赤く規則正しく蠢動する肉塊が鎖によって引きずり出された。

 なるほど──これが僕の……心臓、か。

 肉塊は鎖によって空中を引きずられ鎖の陣の中心に運ばれていく。そこに存在する異形の炎に照らし出され、表面が不気味にてらてら光る。次の瞬間、突如炎が膨れ上がり天井を舐めたかと思うと、その次にはもう心臓は跡形もなく消え失せていた。

 細かく飛び散った炎がゆっくりとその寿命を終えていく。残り火が静かに床に伏せていく。闇が視界を圧倒し、全てに黒い帳が下ろされる──。

 シュッ──

「……え?」

 マッチを擦った幎がランタンに火を灯していた。地下室に再び光が満ち始める。
 周りを見れば先ほどの鎖は何処にもない。それどころか、吹き上がった炎に焦がされたはずの天井にすら何の痕跡も見られなかった。まるで全てが夢だったかのよう。

 ランプをかざし、幎が近づいてくる。そして、何ら変わらぬ表情で口を開く。

「完了しました」
「……終わった?」

 自分の胸を見下ろす。血の跡もなければ着っぱなしの制服もどこも破れてはいない。

「……何も変わらないけど?」
「ブラックデザイアをお持ち下さい、郁太様」

 いつの間にか取り落としていたその本を幎が拾い上げる。差し出されたそれは僅かに先ほどの炎の残滓か、燐光をまとっているように見える。僕は吸い寄せられるように本を手にした。

「──うわっ!?」

 危うく取り落としかけた。
 暖かい……というか、熱いくらいだ。しかもそれだけじゃない。本がまるで生き物になったかのように鼓動している。そして先ほどの燐光は今やはっきりとした紅い光の明滅として僕の目に認識された。

「わかりますか? 郁太様とブラックデザイアは心臓を介して繋がっています。供給された魔力の光と熱が感じられるはずです」
「……すごい……」

 これがブラックデザイアを発動させるこの世ならざる力の姿なのか……。
 しばらくの間、幎が声をかけてくるまでその力の姿に見入ってしまう。

「……郁太様。契約の完了に伴い、いくつかの特典を説明いたします」
「……特典?」
「はい。まずは心臓が魔力による擬態臓器に変わった事により身体に変化があります」

 具体的には、体を流れる血液に魔力が通う事によって超人的な持久力と回復力、抵抗力を持つ事が出来るらしい。それならスーパーマンのような腕力や瞬発力も得られるのかと思ったが、筋肉自体は変化しないのでそこまでは無理だそうだ。排気量は変わらないまま燃料タンクが大きくなったと理解すればいいのかな。

「次に、キャプチャリングフィールドの設定を行う事が出来ます」
「キャプチャ……なんだって?」
「キャプチャリングフィールドです、郁太様。ブラックデザイアの探索範囲を限定する事ができます」

 説明によると、ブラックデザイアは他人をコントロールする際に、集団無意識とかいう人の意識できない心の繋がりを利用して対象を決定、書換えを行っているらしい。
 ただし、これは使用者の周囲を無作為に近いところから検索していくために効果範囲が狭く大量の魔力を消費する。

 その探索アンテナを特定の場所に絞り込んでやる事で、そこに関連する人物をまず第一の対象にすることができるのだ。それだけではなく、魔力に余裕があれば例外的に相手がブラックデザイアの効果範囲外にいても効果を持続させる事が出来るらしい。

「さらに、キャプチャリングフィールド内では郁太様は存在優先権を得る事ができます」
「存在優先権?」
「郁太様がそこにいる、あるいはいなかった場合、郁太様の都合のために周囲が自動的に環境と理由を整えます」
「それは……すごい能力だね」

 そう言うと、幎は一旦小首を傾げた後に一礼した。

「周囲の状況が郁太様にとって快適であるよう維持するのも勤めです」
「それは幎がやってくれるの?」
「環境の維持に必要な魔力は私から供給させて頂きます」

 なるほど……メイド稼業といい、これといい、契約者へのサービスの一環という事か。

「その場所はどれくらいまでOKなの? 僕の家くらい? 東京ドームくらいかな? 単位で言われるとちょっと困るかな……」
「はい。ブラックデザイアはあくまで人と人との無意識下での繋がりを探索します。ですから場所の大きさは問題ではなく出入りする人数のみが制限となります」

 密集地帯だと必然的に狭く、過疎地なら広大な範囲になるわけね。

「──郁太様は最重要部位である心臓を契約されました。よって、キャプチャリングフィールドに設定できる規模は、最大時で1000人程度の人間が常駐する場所までなら可能となります」
「1000人……か」

 おあつらえ向きじゃないか。確か、あそこの生徒数は数百人程度、教師達や従業員の数を入れても4桁は行かないはずだ。

「オッケー。もう決めた」
「ならば、ブラックデザイアの1ページ目をご覧下さい、郁太様」

 1ページ目ね……おお! 僕の情報がちゃんと記入されてるじゃないか。いくつかの項目の中に『キャプチャリングフィールド』の項目も用意されている。
 僕は目を閉じ、その場所の名前をしっかりと認識する。

「<キャプチャリングフィールド>を新規に設定……場所は──」

 黒い制服姿が脳裏に浮かび、唇に笑みが漏れた。

「──星漣女学園」

BLACK DESIRE

#2 星漣へようこそ

1.

 星漣女学園。

 100年を超える伝統を持つ学校で独自の躾教育制度を有し、また文武両道を目指す教育方針によりここの生徒達は各方面で活躍し、卒業後も安定した進路が得られるエリート女子校。
 その秘密は徹底した生徒の自主性の尊重にある。近年の名門校のほとんどがマンモス化する中、かたくなに生徒数300名強の少数体制を貫き広大な敷地や施設を全ての生徒にゆとりを持って利用させている。

 独自路線といわれる躾教育も学校側から制度化されたものではなく、上級生が下級生の生活の面倒を見るというあたりまえの行動による結果である。しかし、それが生徒達の自覚を促す事に大きく貢献している。

 明治時代から守られてきた伝統と純潔の乙女の園。それが星漣女学園なのである。

 ──と、僕は渡された案内とネットで調べた情報をおさらいしながら、その乙女の園の前に立っていた。
 古めかしい煉瓦造りの塀はここが都内であることを忘れさせるような優雅さを漂わせている。また良く磨かれて錆一つ無い鉄の門は、その無骨さがこの内側が外界と断絶した別世界である事を象徴しているようだった。

 今日から僕は、毎日ここに通う事になる。
 僕は今日、この星漣女学園に特別生徒として転入するのだ。

 それは契約の翌日の事だった。
 僕が学校に行くと朝イチに例の校内放送で呼びつけられたのだ。それも職員室ではない。なんと校長室へ。

 いぶかしがりながらそこを訪れた僕を待っていたのは度肝を抜くような話であった。
 なんと、僕が星漣の特別編入生徒として転校する事が決まったというのだ。

 いったいどんな力が働いたというのだろう? 名門の女子校に、男の僕が転校ってどう考えても不自然というか異常でしょう?
 なんの冗談かと思ったが、校長の側にいた星漣の校長と名乗る修道服のおばさんの口調は大まじめだった。

 それからはあれよあれよいう間だった。おざなりに教師やクラスメイトとの別れを済ませ(この異常事態をだれも異常と思っていないのが不気味だった)、いつの間にか幎が用意していた入学書類を提出し、そして今日、僕一人のためだけに用意された星漣女学園男子制服を着て、今、正門前に立っている。

(──よし)

 初めて通う学校というのは、どんな状況であっても緊張する。僕は覚悟を決めると、ついにその男子禁制とささやかれる乙女の園に足を踏み入れた。
 時間は朝の8時50分。水曜日の1時間目は全校そろっての礼拝の時間らしく授業はない。そのためか僕は9時までに職員室に来るように言われていた。
 こんな時間だ。どこぞの3流落ちかけ学校のように遅刻済み生徒がだらだらと重役出勤する気配もない。人気のない並木道を校舎へ向かって足早に進む。

 前方の道の傍らに何かの石像が見える。背中に翼を持った女性の像だ。天使を模した物だろうか? しかし今はそれを観察している暇はない。一瞥して通り過ぎる。

 校門の前で時間を無駄にし過ぎた。こんなに校舎が遠いとは思わなかった。黄色い花が咲き誇った花壇に挟まれた道の先にようやく玄関口が見え、僕はほっとして歩みを緩める。
 さぁ……と風が吹いた。

(え?)

 視界の隅に何か流れる物を見つけ、思わずそちらに顔を向ける。そしてその光景に目が釘付けになった。

 金色の陽光の中に、長い黒髪の天使が立っていた。

 まるで先ほどの石像がそのまま人になったかのような光景に僕の意識は一瞬まぼろしの中に捕らわれる。

 だが、それも一瞬の事だった。金色に見えた光は、ただその人物が黄色い花の植えられた花壇に囲われた小道に立っていたからであり、着ている服も見直してみれば修道服のようなこの学校の制服だ。翼など何所にもない。

 瞳を閉じ、風に身をゆだねるように立ちつくしていたその女生徒は、僕に気がつくとゆっくりと向き直って微笑んだ。

「──ごきげんよう」
「え? あ?」

 突如投げかけられた聞き慣れない挨拶に僕は戸惑う。
 だがその人物はそんなことをまるで気にしていないように微笑みを崩さない。

「ここの花は全部、生徒達が世話をしているんですよ」
「……はぁ」
「本当に綺麗に咲きましたね。見ていると時間を忘れてしまいます」

 僕が見とれてたのはあなたになんですけど……。
 やはりあっけにとられている僕の様子を意に介さず、少女は再び微笑む。

「転校生の方ですよね?」
「え。は、はい」
「職員室は昇降口から入って直ぐの階段を上った右手です。上履きを用意していなかったら来客用のスリッパをお使い下さい」
「わ、わかりました」

 「では、ごきげんよう」そう言って、最後にもう一度僕に微笑みかけるとその少女は校舎の中へ歩み去っていった。
 スカート丈くらいまで伸びる長い黒髪が歩調に併せて揺れる姿が強く心に焼き付く。

 なんか……不思議なやつだな。
 話しぶりから上級生のような気がしたが、僕が最終学年である以上それより上はあり得ない。とすると同級生なのだろうか?

 ……また会えるだろうか。

 その考えに、僕はようやく現実感を取り戻した。何を言っているんだ僕は、今日から僕もここの生徒なんじゃないか。同じ生徒同士だったらそのうちどこかですれ違う機会だってあるに決まっている。
 それよりも、ずいぶん時間を無駄にしてしまった。時計を確認すれば時間は8時58分。うわ、遅刻だっ!

 僕はバッグから上履きを取り出しながら昇降口に飛び込んだ。

2.

「──達巳君、ここは今までいた学校とは違うのですからもう少し自覚をもって、余裕を見て行動しなさい?」
「すみません。気をつけます」

 中年の眼鏡女教師に連れられながら僕は早速のお小言をもらっていた。まあ、しゃなりしゃなりと慎み深く歩くのがデフォルトのこの学校で、廊下を踏みならしドタドタと職員室に飛び込んだりすればこうなるよな。
 素直にうなずいた僕の態度に女教師は気を良くしたのか、それ以上遅刻について追求することはやめたようだ。

「知っての通り、星漣は明治時代から続く伝統ある女子校です。同年代の男子が学業時間に校内に立ち入るのは、もしかしたら創設以来初めてのことかもしれません」
「はい」
「生徒達もそれなりのご家庭を持つ者が多く、特に幼稚舎からここまで推薦で進学した女生徒達の中には家族以外の男性と会話した経験が皆無という者もいます」

 言葉のあやじゃないんですよね?……聞きしにまさる箱入りっぷり。

「彼女たちも年頃ですからそういったことには興味があるはずです。しかし、くれぐれも一時の感情に惑わされることのないように。わかりますよね?」

 実際にその言い回しって使う人いるんだなぁ。フィクションの世界の言葉だと思っていたよ。

「大丈夫ですよ。わかっています」
「ごめんなさいね。特別編入枠に推薦された達巳君のことだから心配いらないとは思うけれど」

 心配だらけだと思います、先生。
 推薦された経緯とか理由とかどうなってるんだろうね?

 話しているうちに教室に到着した。女教師は呼ぶまでこの場で待機するように言うと扉を開けて教室に入っていく。即座に女生徒の号令が聞こえてきた。
 扉を見上げるとそこには「3年椿組」の札が突き出ている。今日から僕は星漣女学園3年椿組の生徒の一員って訳だ。なんだかドキドキしてきたぞ。

 転校生に待ち受ける最初の試練は間違いなく「自己紹介」だ。ここでウケを取れればクラスに素早く溶け込めるし、逆に外してもそれはそれで興味を引くことは出来る。
 まずいのは面白くもなく興味も引けないビジネスライクな挨拶をしてしまうことだ。つまんないヤツと判断されたら期待の分だけリバウンドが大きい。要注意だ。
 そして一番のポイントは、紹介をクラス全員の好奇心の目線の前で行わなければならないということ。数十人の見知らぬ人間の目線に晒されながら平静を保つのは、よほどの猛者でなければ不可能。

 僕にはブラックデザイアがあるが、その支配が及ぶのはあくまで僕に好意か興味を持ってくれた人物だけだ。これから先この学園で能力を行使するには手早くそういった生徒を増やす必要がある。それだけにこの最初の出足は肝心だ。
 僕は女教師の呼ぶ声に大きく息を吸い、覚悟を決めた。

 ──決めたのだけど。
 想定と実際のギャップはやっぱり大きいわけで。

「…………」
「……えーと」
「…………」

 お嬢様学校らしく取り繕ってはいるが、視線に込められた好奇心は誤魔化せない。合計26×2の瞳の無言のプレッシャーに僕は、結局何を言ったかわからないぐらいあがりまくって自己紹介を終えた。

 教師に指定された窓際最後尾の空き座席にすごすごと退散する。席について思わず空を見上げながら世を儚んでいると、隣の席からくすくす笑い声が聞こえてきた。
 ちくしょう、お嬢様学校とはいえ礼儀のなっていない輩はやっぱり存在するのか、とそちらの様子をうかがえば。

「あがりまくりだね、イクちゃん」

 ……こいつか。

「なんでハルがここにいるんだ?」
「なんでってなによ。せっかく手、振ってあげたのに全然気がつかなかったクセに」

 クセにってなんだ。もっと日本語を勉強しろ、話の筋が通ってない。

「本当にここの生徒だったのか」
「そういうこと言うの? 教科書見せてあげないよ?」
「心配しなくていいよ。ハルの施しは受けないから」

 鞄をあさり、教科書とノートと筆箱を引っ張り出す。
 ちなみにこれは僕が用意したわけではない。朝、出発の時に幎に渡されたままの鞄である。彼女がいかにして今日渡されるはずの教科書一式を用意したのかは謎だ。

 教師の指示に従って真新しい教科書のページをめくる。隣でハルがいーっ!とかやっているが気にしないことにしよう。

 そうしてようやく昼休みがやってきた。ぐったりと弛緩した僕は机に突っ伏して己の不甲斐なさを嘆く。

「どしたの? イクちゃんへこんでる?」
「……ほっといて」

 授業が全くわからん……。数学と物理はまだいい。やってる範囲がたぶん違うだけなのだ。
 だが英語は反則だろ!? 外国人教師で挨拶から質問までオールイングリッシュってどういう事よ!? 解説されてもその英語が聞き取れないからまったくわけわからん!
 先ほどの休み時間までは数人が交代交代でいくつか質問に来ては帰って行くという事が繰り返されていたが、今や僕の席に寄りつくのはこの天然のみ。そりゃ、あれだけの醜態をさらせばこうなるよな。

「イクちゃん転校初日だからしょうがないよ。アダムス先生なまりが強いし」

 ……もっと根本的問題なんだよ。

「それよりお昼どうするの? お弁当ある?」
「昼飯かー……」

 鞄の中に弁当箱は入ってない。それはつまり学校内でなんとかして調達しろということだ。さすがの幎も弁当までは作ってくれなかったか……。それとも、作れと言えば作ってくれるのかな?

「お弁当無いんだったら一緒に食べに行かない? ランチハウスに行こうよ」
「ランチハウス? 食堂か?」
「うん」
「……そんな気力もない。お金出すからなんか買ってきて」
「イクちゃん大丈夫?」

 心配そうに顔を覗き込んでくるハル。唇に目がいき、僕は先日のキスの感触を思い出した。
 やばい、顔が熱くなってきた。あわてて窓の方に顔を背ける。

「大丈夫、何でもないよ。新しい環境にちょっと疲れただけ」
「そう……。じゃ、ちょっと行ってくるね。サンドイッチと普通のパンどっちがいい?」

 「パンでいいよ」そう答えようとしたとき、遠巻きに僕たちの様子を見ていたクラスメイトの1人が好奇心一杯の目でハルに声をかけた。

「源川さん、ちょっとお聞きしたいことがあるのですけど」
「え? あ、はい! なんでしょうか」

 おいおい、僕とずいぶん態度が違うな。なるほど、ハルも学校の中じゃちゃんとお嬢様の仮面をかぶってクラスメイトや教師を欺いているという訳か。感心感心。

「達巳さんとずいぶん親しく話されているようですが、お2人はお知り合いなのですか?」

 ずばっと核心をついてきたな、えっと……クラスメイトA。

「はい、達巳さんと私は幼い頃同じ小学校に通っていたことがあったんです」
「まあ、それでは2人は幼馴染みということですね!」

 と興味津々で身を乗り出してくる……クラスメイトB。やはりこの年代の女子にこういった話題はつきものなのか。

「幼い頃に別れた2人が偶然にも再び同じ学校で同じクラスの隣り同士の席になった、と……」
「運命を感じますわね!」

 ローテンションな……Cと、ハイテンションなB。先ほどのAを交えてハルを肴に会話は盛り上がる。女3人で姦しいって典型的な例だな。
 ……って、おい。

「せっかくですから一緒に食事しながらお話ししましょうか」
「良い案ですね」
   「おーい、ハル。パンを……」
「今日は天気もいいですからテラスで頂きましょう」
   「ハルー? パンを買って……」
「そうしましょう」
   「パン……」

 4人の女生徒はお喋りしなながら教室の外に消えていく。そちらに差し出された僕の手が行き先を失って空中を泳ぐ。

「……パン……を……」

 結局ハルが戻ってきたのは昼休み終了5分前だった。

「……パンは?」
「え? なに、イクちゃん?」

 とぼけた返答に一瞬殺意が湧くがここで臍を曲げられたら僕の生死にかかわる。最大レベルの努力で笑顔を作り、言葉を続ける。

「昼飯は? 待ってたんだけど」

 「ああ!」とうなずくハル。特大の笑顔と共にグッと親指を立てて突き出す。何なのかわからないが、僕もそれにならい親指立てて笑顔を返してみた。

「おいしかったよ」
「お前がかっ!」

 お約束のやりとりに、僕は全ての怒りを念力集中右手に込めて、おつむ大噴火デコピンを喰らわせた。

「あいたぁっ! 何するの!?」
「思い知れ! 思い知れっ! 食い物の恨みを!」
「いたっ! いたいよ、イクちゃん!」

 ちくしょう。涙と空腹で視界が霞むぜ……。クラスメイトCがやれやれという感じで僕たちを見ているが、もうそんなことはどうでもいい。

 こいつのことは金輪際信用しない。絶対に!

3.

 無限にも感じられた3時間に及ぶ空腹との戦いは、ようやく終わりを告げた。
 現在の時刻は午後3時57分、7時間目終了後のホームルームを早めに切り上げ、僕たちは晴れて放課後のフリータイムに突入した。
 早速ハルが犬みたいに僕の席へすり寄ってくる。

「イクちゃん、良かったら学校の中案内してあげようか?」
「断る」

 誰かさんのせいで僕の胃袋はアムンゼン南極探検隊だ。だが、まだクラスメイトがたくさんいるこの状態で無下に断ると僕の評価に影響する。あわてて言葉を取り繕った。

「……悪いけど腹が減って死にそうなんだ。5時間目からずっと我慢してたから空腹で胃に穴が開きそうだよ」
「イクちゃん、お昼食べなかったの?」

 お前がそれを言うのか……首を絞めたくなってきた。

「……そうなんだよ。だから今日は急いで帰らしてもらうよ」
「売店に行けばまだハンバーガーとか残ってるかもしれないよ? 連れて行ってあげようか?」

 なんですと?

「わかった。頼む」
「いいよ。じゃ、1名様星漣案内ツアーにご招待~」

 上機嫌でハルが僕の腕を取る。おいおい、ちょっと馴れ馴れしいんじゃないか? クラスメイトA、Bが目を丸くしてこっちを見ているぞ。こりゃまた何か言われるかな。
 だが、今の僕には悲しいかなハルの腕を振りほどく力も残っていないのだ。ハルに引き摺られるように僕は教室を後にした。Cがなぜか両手を合わせていたのが気になった。

 朝、職員室に行くときに使用した階段で一階に下りて昇降口と反対の方向へ行くと、校舎の裏側へ出る。そこから噴水のあるテラスの側を通る渡り廊下を抜けるとそこが食堂棟であり、そこの一画に売店はあった。

 僕の前いた学校の常識では、ハンバーガーなどの人気商品はまず真っ先にお昼休み商戦で売り切れるはずだ。ハルの言葉だけに僕は最悪の状況を想定して売店を訪れたが、あっさりと売れ残りが買えてしまった。

 そして買ってみればその理由も判明した。
 単純にハンバーガーは大きすぎたのだ。

 僕のような男子ならともかく、手づかみで食べ物を食べたことのなさそうなお嬢様のいるこの星漣で、口をいっぱいに開けてパンにかぶりつくというのは想像も出来ない光景だ。
 もったいない、味は結構いいのに。かといってお嬢様サイズにパンと肉を薄くしたり具を減らしたりしたらこの独特のアメリカンテイストは失われてしまう。こういうのをアンビバレンツというんだっけ。

 ハンバーガーとパックの苺ミルクを平らげ、ようやく一息ついた僕は周囲を見渡した。

「この食堂、もう食べ物売ってないんでしょ? なんで開いてるの?」

 見れば食券販売機は全て電気が落とされ、カウンターも扉が閉められている。しかし食堂自体はまだ扉が開かれ何人かの生徒が僕たちのように思い思いの席に座って話し込んでいた。

「ジュースの販売機はまだ動いてるからだよ。それに、私達みたいに売店で残り物を買って食べる人もいるし」
「ふーん……」

 星漣の食堂は規模はそれほど大した事はないが、見た目がとにかく小綺麗なのが特徴だ。入り口側と調理室側を除く残り二方向は一面ガラス張りで外のテラスや遊歩道の光景が見えるようになっている。また、テーブルもよくある長テーブルだけでなく、喫茶店にあるような4人掛け用の丸テーブルが配置されおしゃべりに使いやすい感じだ。
 最も驚いたのは、窓際席にレストランのようなソファーとテーブルが配置されていたことだ。この食堂をランチハウスという異名で呼びたくなる理由もわかる。

「イクちゃん、これからどこに行きたい?」
「ん? なんで?」
「だって、まだこことテラスしか紹介してないでしょ?」

 まだ続いていたのか、案内ツアー。
 その時、僕はふと閃いて手元の鞄を引き寄せた。中には筆箱とブラックデザイアが入っている。

「あと、どんなところがあるの?」
「図書館でしょ、テニスコートでしょ、プールでしょ、体育館に生徒会館、文化部棟と運動部棟、さくら通りとギンナン通り、あ、あと礼拝堂も」
「ずいぶん多いね。ハルにちゃんと紹介できるの?」
「もしかして、バカにしてる?」

 ……をキーに設定、と。

「してないしてない。それじゃ、行こうか。そんなにあるんじゃ早く行かないと回りきれないよ」
「うん、行こ」

 立ち上がって出口に歩き始めるハル。僕はその隙にブラックデザイアのハルのページをちらりと確認した。……よし、オッケーだ。
 僕はこの後に待つ展開に期待を膨らませてハルの後を追いかけた。

4.

 一通りの施設の名前と利用法を教えてもらい、僕はハルと一緒に教室に戻ってきた。ほとんどの生徒は帰ったかクラブ活動に行ったのか、都合良く今教室には僕たち以外誰もいない。

 日は西に傾き、教室の中はオレンジの光で満たされている。なんだか別の世界にいるようで、ここが本当に昼間クラスメイトと勉強していたところと同じ場所なのかと疑いたくなる。

「どうかな? まだわからないとこある?」
「いや、建物についてはよくわかったよ。ありがとう、ハル」

 その僕の言葉に、嬉しそうに、本当に花の咲くような笑顔を見せる。
 なんだかんだ言って、こいつは絶対この顔で得してるよな。

 ……でも、これからのことはそれとは別の事。

「だけど、ちょっとまだ紹介して欲しいことがあるんだけど」
「うん? なになに? 何でも聞いて」

 無邪気に笑っているハル。何を要求されるかも知らないで。

「うん。実はね、今ハルが着ている『星漣の制服のことを紹介して欲しい』」
「え……?」

 その言葉を口にした瞬間、僕の中央でドクン、と魔力の心臓の鼓動が感じられた。鞄の中から熱い波動が放出されたのがわかる。

 普通なら、僕の言葉は意味不明の発言ととられるかもしれない。だが、今だけは違う。
 設定したインサーションキーは<星漣の紹介>。
 星漣に関することで僕から紹介を頼まれたものは、例えそれが常識を外れていたとしても実行してしまう。それが、ブラックデザイアの力だ。

「いいよ。イクちゃんの頼みだもん、制服のこと教えてあげる」
「うん、ありがとう」

 まるで疑問を感じていない。完全に僕の支配下だ。

「この制服は星漣の冬服でね、一年のうち5月までと10月からの8ヶ月間使うの。上下が繋がったワンピースになっていて、ちょっと着替えるのが面倒くさいかな」
「夏服も同じ感じなの?」
「ううん、夏は半袖で色が真っ白なの。生地が軽くてとっても涼しいんだよ」
「へえ……」

 まあ、でも、こんなことは知りたい情報じゃない。

「ところで、その下はどうなってるの?」
「この下にはブラウスを着てるよ。ほら、襟と袖が出てるでしょ」

 それ、デザインじゃなくて下に着てたシャツだったのか。なるほど。

「そうじゃなくてさ……例えば、スカートの下は?」
「スカートの?」
「裏地がどうなってるのか紹介してよ」
「うん。いいよ」

 そう言ってハルは無造作にスカートを半ばまでめくって見せた。突然黒いスカートから白い素足が現れ、そのまぶしさに僕の胸は高鳴る。

(おいおい……太股まで見えちゃってるよ。いいのか、おい)

 なんて、自分でやらせておいてそれはないよね。

「スカートの裏はプリーツがついてるよ。それ以外は特に無いかなあ」
「……腰の辺りまで持ち上げてくれる? プリーツがよく見えないかな」
「? いいよ」

 僕の要求に従い、ハルはスカートを両手でまとめて胸の前あたりまでたくし上げた。

 ついにハルの股間を覆う小さな布が陽光の下に晒される。それは僕が想像していたよりもずっと小ぶりで、少女の未成熟な腰回りにぴたりと張り付きその形をあけすけにはっきりと浮かび上がらせている。
 夕日の作る色合いのせいではっきりとしないが、横に縞模様が入っていることは間違いなくわかる。たぶん色は白地に水色だろう。こんな下着を着るヤツ、いるんだな。

 歩き回ったせいかハルのシャツは前のあわせが乱れている。縞模様の上方に広がるなめらかな腹部の中央にぽつんと小さなくぼみが見えた。なぜかその事実に僕はドキリと動揺する。

「……う、後ろ側はどうなってるの?」
「うん、ちょっと待って、今見せてあげる」

 その場でくるりと回れ右すると、ちょっと前屈みになってスカートをまくる。上半身を捻って僕に向かって首を傾げた。

「どう……見えるかな?」

 ぐはぁ……やばい、鼻血でそう……。
 縞模様のパンツがなぜ偉大かわかったよ。僕の視線は盛り上がった双丘に釘付けだ。その丸みとか、張り具合とか、食い込み具合とか、あるいはその柔らかさとか。そういったものの微妙な凹凸を、横縞は実に見事に映像化する。
 この模様を最初に考えた人は本当に偉大だよ。ビバ、縞パン!

「イクちゃん、どうしたの?」

 ……はっ! まずいまずい。感激のあまりちょっとトリップしそうになってた。

「いや、良くわかったよ。ありがとう」
「よかった」

 スカートを下ろしてほっとした表情になるハル。いやいや、君にとってはちっとも良くないんだけどね。

「じゃ、次はブラウスだね」

 ……え?

 今なんて、と僕があっけに取られているうちにハルは制服のファスナーに手をやって、ためらうそぶりも見せずにそれを下ろしてしまった。
 肩をはだけ、両袖から腕を抜くと黒い星漣の象徴はするりとハルの体をすり抜けて床に落ちる。
 そこに残ったのはまぶしいくらいに白いシャツ一枚になったハルの姿。

 厚手の制服を脱いだことでその体の曲線がはっきりとわかる。異性を感じさせる細く繊細で丸みを帯びた基本構成。窮屈そうに胸元の生地を押し上げる2つの膨らみ。皺が入ってその下のくびれを予感させる腰回り。なによりその下、太股の付け根から少女を覆うものが何もないというのがやばい。足首に絡まった黒い制服がこの学園の守ってきた純潔の崩壊を暗示しているかのようで、異常なほどの興奮を僕に投げかける。

「このブラウスは別に指定がある訳じゃなくてね。こういう形のものなら一般の物の着用も認められているの。だけど、安いしほとんどの人は学校で買うんだけどね。生地もすごく良いし」

 ハルが何か言っているがそれが脳に届かない。僕の視線は音を発する度に形を変えるその薄赤い唇と、その下の白に覆われた2つの膨らみと、さらに下の水色の縞模様の間を往復する。

「……触って、みる?」
「!」

 触るって……なにを? 僕の体はそんな疑問を抱きながらもまるで操られたかのように前進する。ふわふわと雲を踏むように足を出し、一歩、二歩……。目の前に、ハルの瞳を見下ろす。

「……イクちゃん?」

 ピクッと、僕の手がその声に反応して持ち上がろうとする。

 その時、教室のスピーカーから間抜けさを感じるくらい間延びしたテンポのチャイムが聞こえてきた。

「……あ?」
「あれ? もう下校時間だ」

 まるで夢から覚めたようだった。改めてハルの格好を見下ろし、慌てて数歩飛び下がる。顔がカーッと熱くなった。

「も、もういいよ、ハル」
「ん?」
「良くわかったし、もう服着ていいよ」
「うん」

 ハルはうなずくと床に落ちていた制服を引き上げ、袖を通し始める。

 ……危なかった。
 教室ということで人目につく可能性もあった。だからここまでやるつもりもなかった。もし見回りの教師にでも見つかっていたら転校初日に退学になってもおかしくない。

 常識の書換えは、支配じゃない。相手が自分の判断で行動することだってあるんだ。ハルの性格を考えればこういう事だってあり得ると予想できたはずだ。想定外のことで対処が出来なくなるとは……。

 それに不甲斐ないのは僕の自制心だ。最初から「ハルに自分で下着を見せさせる」と決めていたのに、その先の展開に惑わされてしまった。これから先の事を考えると、僕はもっと鉄のように動じない意志を持たなければならない……。

「──お待たせ、イクちゃん」

 身支度を終えたハルが手に鞄を持って寄ってくる。

「よし、帰るか」
「うん」

 僕はこれからの課題を頭にたたき込みながら、ハルの先に立って夕日に染まった教室を後にした。

5.

 昇降口で靴に履き替え、外に出る。
 クラブの生徒もほとんど活動を終えて帰ってしまったのか、正門までの道に僕たち以外の人影は見えない。

「どう? 少しは星漣に慣れた?」
「まだ初日なんだけど」
「でもたくさん、色々わかったでしょ?」
「うん、まあ……ありがとう」

 てへへ、と声に出して照れたように笑うハル。そのままぴょんぴょんとステップを踏むと僕の前でくるりと振り向いた。

「──星漣へようこそ、イクちゃん!」

 とびっきりの笑顔で僕に笑いかける。

「……」

 僕はその脇をすたすたと通り過ぎた。

「ちょっ、ちょっとぉ、待ってよイクちゃん!」
「待たない」

 ……ちょっとだけ、わかってしまった。
 どうしてハルが僕にこんなに構ってくるのか。

 こいつは、子供の頃のままなんだ。
 昔感じていた感情が、そのままで今に繋がっていると信じているんだ。
 人はいつまでもその時を忘れない、心の中に宝物のようにしまっていられる、そう無邪気に思いこんでいることのできる人間なんだ。

 実際の人間はそんな綺麗なものじゃない。
 僕はハルと出会った頃のことなんかこれっぽっちも覚えていない。全ての嫌な記憶の中に埋もれさせ、それごと捨ててしまった。
 大切なものなんて何もない。それどころか他人からそれを奪ってでも自分の欲望を満たそうとする、そんな空っぽで浅ましい人間だ。魔法の力がなきゃお前と並び立つことも出来ない価値の低い人間さ。

 前に、お前の事を見て星漣への夢が破れたと言ったっけ。
 間違いだったよ。お前は立派にこの学園の純粋さを受け継いでるよ。

 ハルに顔を向けることが出来ない。
 今日、教室で、そしてこれからこの学園中で。その純粋を蹂躙するのは僕なんだ。
 この僕が、お前とこの学園の秩序を滅茶苦茶にするんだ。

 それなのに、お前は僕のことを……信じているんだろうな。

「待ってよ、イクちゃん!」
「待たない」

 ハルが声を張り上げれば張り上げるほど、僕は意地になって足を早める。こいつに追いつかれてなるものか、いつものように僕の顔を覗き込まれてたまるか、そんな思いが僕の体を突き動かす。

「──お待ちなさい」

 その時、突然横合いから凛とした声が突き刺さった。その声の持つ鋭利な強制力に僕は思わず足を止めてしまう。
 そちらを見れば、そこには長い……スカートの裾に届きそうなほど長い黒髪をもった女生徒がまっすぐに立ってこちらを見ていた。
 その女生徒は、僕の瞳を見つめながら言葉を続ける。

「登下校時、セイレンさまにお祈りをして通るのがここでのならわし」
「セイレンさま?」

 僕は後ろを振り返る。そこには、朝ここを通るときに見た天使像がたたずんでいた。
 いつの間にかその女生徒は僕の隣りに立ち、軽く目を瞑って両手を合わせる。天使像に祈りを捧げる少女の姿は一枚の絵画のように完成されていて、僕は思わず見とれてしまう。

「さあ──」

 目を開けた女生徒が僕を促した。自然に手を合わせ、その女生徒の真似をして目を瞑る。しかし、当然のことながら僕には天使に捧げるお祈りの言葉など浮かんでこない。

 言われた通りお祈りをしていると、バタバタと荷物が振り回される音が近づいて来る。目を開けてそちらを見ればちょうどハルが追いついてきた。

「はぁはぁ、ひどいよイクちゃん……」

 息を切らしたハルは、僕の顔を見上げようとしてそこで初めて隣りに立つ人物に気がついた。さぁっと顔が赤らむ。

「し、紫鶴さま!」
「ごきげんよう、源川さん」
「ごっ、ごきげんよう」

 ん? 紫鶴『さま』?
 茹で蛸のようになって体裁を取り繕うハル。ここがセイレン像の前だと気付くと、さらに慌てて手を合わせる。そんな様子に女生徒は穏やかな笑みを浮かべた。

 ……あ。

 その女生徒は自分を見つめている僕に気がつくと、向き直って軽く頭を下げた。

「ごめんなさい。急いでいたようでしたので慌てて声をかけたのですが、少し言い方がきつかったですね。気を悪くされましたか?」
「いえ……それより」

 僕が言いかけると、女生徒はちょっと首を傾げた。

「? なにか?」
「あの……朝、会いましたよね」
「ええと、ごめんなさい、どこでお会いしましたっけ?」
「花壇で、花を見てましたよね」

 「ああ」とようやく合点がいったかのように頷く。この学園に男子は僕しかいないはずなんですが……。

 ようやく息の整ったハルを交え、校門の方へ歩き始める。
 女生徒は優御川 紫鶴(ゆみかわ しづる)と名乗った。3年柊組の生徒らしい。

「イクタって、どういう字を書くのでしょうか?」
「有にこざとへんのイクです」
「『かぐわしい』のイクですね」
「男では珍しい名前かもしれません」

 そんなこんなで話をしているうちに、なんだか違和感を感じ始めた。なぜかハルが紫鶴に対してよそよそしいのだ。

「ハル、どうして紫鶴さんにはそんなに丁寧語なのさ?」
「え?」
「同じ3年生だろ? まるで上級生を相手にしてるみたいだよ」
「だ、だって……」

 ハルは何かを言いかけ、はっとして口を噤む。なんだ、何か本人の前では言えない理由でもあるのか?
 だが、紫鶴は柔らかく微笑むと首を振った。

「かまいませんよ、源川さん。どちらにしろいずれわかることですからね」
「はい……」

 そう言うと紫鶴は僕の方に向いて話し始めた。

「実は私……3年生は2回目なんです」
「え?」
「昨年度、出席が足らずに留年したんです」

 留年? それはつまり、ダブりってことだよな。しかも出席が足りないって、それじゃ紫鶴はサボりの常習犯? なるほど、だから朝からあんなところに一人でいたのか。そうかそうか。
 などと僕が納得しているとハルが不機嫌そうに僕をつついた。

「イクちゃん、なんか失礼でかつ勝手な想像してるでしょ?」
「なんでそう思うのさ」
「言っておくけど、紫鶴さまにはやむを得ない事情があったんだからね」
「やむを得ない事情?」

 それも聞いていいのだろうか。僕が顔を向けると、やはり紫鶴は微笑んだままだった。

「病気で入院していたんです、半年ほど」

 半年って……大病じゃないのかそれは。
 顔に出てたのだろうか、「はい」と紫鶴は頷いた。

「生まれたときからの持病が悪化してしまったんです。でも今年の2月に手術が成功して、また星漣に帰ってくることが出来ました」

 そう言って、本当に嬉しそうに笑う。僕も自然につられて笑みを返していた。

 紫鶴には何かわからないが不思議な魅力がある。朝、花壇で見たときも、ただ立っていただけなのに僕の視線は惹きつけられた。
 そして一方、先ほどのように意地になって先を急いでいた僕の足を止めるほどの凛とした意志も持っている。
 そうかと思えば、その数秒後には不思議と安心する微笑みで相手からも笑いを誘い出してしまうのだ。

 紫鶴というこの少女は、本当に不思議な魅力を持っている。
 そっと横を見ると、それに気付いた紫鶴は僕に対して僅かに笑みを返したくれた。
 まるで先ほどのセイレン像のような、慈愛と無垢が同居している微笑みだと思った。

 校門まで来たところで、紫鶴には迎えの車が来ていた。手術が済んだとはいえ、おそらくまだ完調ではないのだろう。
 車に乗り込むとき、紫鶴はまた例の聞き慣れない挨拶をする。

「では、ごきげんよう」

「ごきげんよう」
「……ごきげんよう」

 とりあえず、右にならえで真似をしておいた。
 車が見えなくなるまで待ち、ハルと2人で歩道橋のある通りの方へ歩き始める。

「それにしてもさ、あんなにかしこまる必要は無いんじゃないのかな?」
「え?」
「紫鶴さんにさ。あんまり気を遣うと向こうも寂しいと思うよ」
「……うん、そうだよね」
「そうだよ。だいたいハルは、いつもお嬢をかぶってるからとっさに言葉使いを変えようとしてとちるんだよ。僕にするみたいに傍若無人にやるくらいがちょうどいいかもしれないよ?」
「ひっど~い! 私、傍若無人じゃないよ」

 ハルが頬を膨らませる。そうそう、そうじゃなくちゃ面白くない。
 しかし、直後にハルは急に萎れるとしゅんとした。

「それだけじゃないんだよ」
「なにが?」
「紫鶴さまは憧れだったから」

 憧れ? 一瞬僕の脳裏にありえない光景が浮かび上がる。ま、まさか、女子校に存在するという禁断の百合ワールド?
 まさかハルがそっち側の人間だとは……恐る恐る尋ねてみる僕。

「……ハルは……その、紫鶴さんを……?」
「私だけじゃないよ、みんなそう……紫鶴さまは、昨年度のセイレン・シスターだから」
「……セイレン・シスター?」

 なんだそれは。紫鶴は修道女だとでもいうのだろうか。

「うん、セイレン・シスターっていうのはね、4月に行われる新入生の洗礼祭を取り仕切る3年生の事をいうの」

 ハルの説明によると、星漣では毎年4月の20日前後に新入生を歓迎する意味合いで、特別な礼拝と上級生によるお菓子の配布が行われるらしい。なんとも緊張感に欠けるが、これでも星漣女学園に伝わる故事をもとにした伝統行事らしい。
 そして、その礼拝で聖書を読み、新入生一人一人に祝福の言葉をかける役の3年生がセイレン・シスターだ。それ以後、その3年生は1年間に渡りこの学園の生徒全員の健全な成長を見守る役を任され、まさしく皆の「姉」となるのだ。

「セイレン・シスターはね、立候補してなれる役じゃないの。2年生と3年生の全員で投票して、7割以上の人が一人の3年生をふさわしいと認めた時にだけなれるの」
「7割!? そりゃ無茶だろう!?」
「うん。だから投票された人が他の人を支持した場合全ての票が移るっていう特別ルールがあるんだけどね」
「それだって無茶だろ……」

 だけど、その話を聞いて何となく納得してしまった部分がある。
 紫鶴のあの同年代に見えない落ち着き方は、単にこの学園で育ったからというだけでなかったのだ。そういう一歩上からの視線で生徒達を見てきた一年間があったからなのだろう。
 初対面の僕ですら紫鶴には魅力を感じている。ハルやこの学園のお嬢様達がメロメロになってしまうのもしょうがないかもな。

 そこで、僕はふと気がついた。

「……待てよ、セイレン・シスターは4月に決まるんだったよね?」
「そうだよ?」
「それじゃ、今年は誰なんだ?」
「え……」
「洗礼祭やったんでしょ? 誰がシスターだったの? クラスの人間? まさかハルじゃないよね?」

 冗談のつもりでそう言って、そこでハルが顔を伏せていることに気がつく。あ、あれ? 僕、変なこと言ったっけ?

「どうしたの、ハル?」
「……なんでもないよ、イクちゃん」

 ハルは顔を上げ、そしてちょっと困ったような無理矢理の笑顔を作った。
 ……そんな顔でなんでも無いって言われてもな。

「……今年の洗礼祭はね、該当者がいなかったから生徒会長の安芸島さんがシスター役をやったんだよ」
「該当者無し? だれも7割に満たなかったってこと?」
「ううん……違うよ。投票自体、行われなかった」
「なんで? 伝統行事だろう?」
「中止になったんだよ。あんなことが有ったし、誰がなったとしても辞退するに決まってるから」

 あんなこと、と聞いて僕は気がつく。4月20日……?
 僕の胸の奥に仕舞われたモノが、不安げにおののく。

「今年はみんなが思ってたんだ。誰もが投票するつもりだったよ……でも、あんな結果になるなんて誰も思わなかった……

……那由美さん以外セイレン・シスターはいないって、みんな思ってたのに……」

 パキッと、何かが軋む音が聞こえた気がした。

< つづく >

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