0.
自分では夏休みの影は引きずっていないつもりだったが、一ヶ月以上もある休暇の影響は体内時計に微妙なズレをちゃんと残していたようだ。一ノ宮榧子(いちのみやかやこ)は2学期3日目にしてさっそく寝坊し、いつも使っている電車に、発車ベルの鳴り響く中飛び乗る羽目になった。空いている一番前の車両まで行く暇もなく、通勤、通学者の間に挟まれて窮屈な姿勢を余儀なくされる。後ろの背の高い男性がマナー違反にもリュックサックを背負ったまま立っていたため、背の低い榧子の後頭部にそれが押し当てられ続け、たいそう不愉快な思いをした。
学校の最寄りの駅に着き、人いきれから半ば押し出される様にホームに降り立った時、朝方のすがすがしい空気を思わず深呼吸するように胸の内に送り込んでしまう。無意識に後頭部で髪をまとめているリボンに手をやり、それが解けていないことを確認した。
榧子と同じ電車で降りた人間は驚くほど少ない。何人か白い星漣の夏服を着た少女達がいるが、皆慣れたもので前の方に存在する改札口に近い場所に乗っていたため、全員背を向けてそちらに向かっている。榧子はあらためて自分の服装を見下ろし、制服に皺や崩れが無い事を確認してから少しばつの悪い思いをしながらそれを追って歩きだした。「いつも落ち着いて、おしとやかに」と教えられている星漣学園の生徒としては、今朝の乗車具合は決してほめられたものでは無かったからである。
榧子が改札への階段を下り始めると、もう一台反対方面の電車が滑り込んでくる。背後で列車のブレーキの甲高い音が響き、間髪入れずにドアが開いた。しかし、やはり多くは降りずにそのまま電車に乗ったままである。
改札を抜けると、南側に当たる左手にはこじんまりとした駅前ロータリーが見える。バス停も有るが、そちらにいるのはいずれもスーツを着たサラリーマン風の人々だけで、星漣の白い制服は見あたらない。榧子はいつも通り、右手の北口に向かって線路のガード下をくぐる。そちらにはすぐに両脇をコンクリートで補強された崖で挟まれた坂道に続いていた。上を見上げても、緩やかに道がカーブしているために崖の上の木々に阻まれて見通すことはできない。お店や住宅も無く、まるで登山道の入り口の様な雰囲気だ。何も言われずにこの場所に連れてこられたら、降りる駅を間違ったのかと疑いたくなってしまうだろう。星漣の白い制服姿の生徒達が並んでそこを上っていくのが、まるで巡礼に赴く信者達のようだった。
「榧子さん?」
急に後ろから声をかけられて、榧子はドキリとしながら振り返った。そこには、シャギーカットの髪を揺らしながら改札を抜けてくる見知った顔があった。内心ほっとしながら、しかしそれを悟られないように笑顔を浮かべてその少女を迎える。
「おはよう、立華(りっか)さん」
「おはようございます。もう御加減はよろしいのですか?」
榧子に声をかけたのは同じ星漣学園2年生の巾足立華(はばたりりっか)だった。立華は軽い駆け足で榧子に追い付くと肩を並べて歩道を歩き始めた。榧子は歩調を合わせながら微笑みを返す。
「ええ。おかげさまで」
「そうですか。安心しました」
視線を向けないで首だけを頷かせる立華。このちょっと無機質な口調と仕草は彼女の癖である。頭の回転の速い人は無闇に素のままの感情を見せないのだと、榧子は数人の知り合いの顔を思い浮かべた。
立華の方面からの電車では他に生徒は乗っていなかったようだ。その前の電車で取り残された榧子と立華は十分な幅のある歩道を、両手で鞄を前に下げるお嬢様スタイル歩きで整然と上る。駅から学園へと向かうこの道には車やバイクが通ることもなく、控えめな2人の世間話が木立のざわめきに混じって両サイドの壁に反響していた。
「立華さんのクラブは、もう星漣祭の準備を始めてますか?」
「まあまあといったところですね。藍子さんは記事になるならご自分の卒業式にだって号外を出す方ですから」
「ふふふ、そうですね」
「写真部の方はどうなんです?」
「私たちも、まあまあ、ですね」
榧子は控えめにそう答えた。実際のところ、彼女の所属する写真部はずっと撮影旅行などには行っていないし、今年も撮り貯めた写真を飾ってお茶を濁すことになるかもしれない。
そんな話をしていると、「そういえば」と立華が思い出したように話題を変えた。
「次の編集長の候補に、写真部の橘さんの名前が挙がっているようです」
「静香さんが? 編集長がそう言ったのですか?」
「明言はしてはいませんが、おそらくその意志はあるのだと思います」
軽く驚きながら、しかし榧子は有りうる話だと納得した。
榧子の所属する写真部には3人の2年生がいるが、そのうちの1人、橘静香(たちばなしずか)は容姿端麗にして勉学にも優れた才女であることが知られている。その能力を早くから買われ、静香は昨年、1年生でありながら特別役員として生徒会執行部で生徒会長付の任に就いていた。
まだ入学して間も無い新入生が執行部入りすることは星漣の歴史においても極めて希な事であったが、先代生徒会長の目は確かであった。静香は抜群の飲み込みの良さで瞬く間に生徒会の仕事をおぼえ、執行部に無くてはならないポジションを得るに至った。その頃の静香の2つ名は「女帝の小さな天才参謀」であった。ちなみに「女帝」とは昨年度の生徒会長、荒巻冴子(あらまきさえこ)の事である。確かに、経歴を見ても静香の生徒会執行部入りは当然であると思われる。しかし……。
「でも、静香さんは受けないと思いますよ、その話」
「そうですね。私も同意見です」
榧子に立華は間髪入れずに頷く。そして、ため息をつくようにこう続けた。
「まだ、あの『絶縁状』の事を引きずっておられるんでしょう」
「たぶん……」
昨年の生徒会長、荒巻冴子は確かに「女帝」と呼ばれるほど高いカリスマと統率力を誇った生徒であったが、同時にかなりエキセントリックな性格の持ち主であったと語られている。先代の「やまゆり」編集長でありながら生徒会長に当選した彼女は、少数精鋭を歌い文句にして運動部連合自治会長を副会長に据え、2人だけ執行部の体制を作り上げた。つまり、生徒会長兼「やまゆり」編集長の冴子と、副会長・兼体育会運動部連合自治会長・兼生徒会書記の2人である。従来の執行部は3~4人で運営される事が慣例であったため、これは精鋭ではあっても少数過ぎた。
そのため、異例なことではあったが急遽、体制発足後間もなく、新年度の開始早々に特別役員を生徒会入りさせる必要が出てきた。
先代運動部会長は、無難に跡継ぎを考えていた早坂英悧(はやさかえいり)を執行部入りさせ、早くからその仕事をおぼえさせる事にした。それに対し、冴子はさんざん特別役員の採用を渋った末、ある日ひょっこりと自分の見初めた1年生を執務室に連れてきて、自分専属の役員とする事を宣言したのである。それが、当時まだ何も知らない花も蕾といった様子の静香であった。
冴子と静香の様子は、当時を知るものに語らせるとまるで本物の姉妹、いや母子、いや恋仲のようですらあったという。また、冴子の静香贔屓はうがった見方をしなくとも顕著であり、静香もそれに気が付いてそれとなく冴子に注意をうながした事もあったらしい。
もちろん、静香の働きはその贔屓に見合うか、それ以上の出来であったのだが、残念ながら周囲が許しても潔癖な静香自身がそれに耐えられなかった。
破局の直接の原因は、静香の所属する写真部の同好会への格下げ案が、いつの間にか破棄されていた事である。星漣の校則では部として生徒会から部費と部室を確保するには、「4名以上の部員と顧問の先生」が必要なことになっている。それが、いつの間にか「十分な実績を持つ部に関しては3名以上の部員と、監督する生徒会役員1名(部員と兼ねても可)」にすり替わっていたのだ。
このあまりにも露骨な自分への贔屓ぶりに、ついに静香の堪忍袋の尾が切れた。彼女はその日の内に自分の最後の仕事として「特別役員離任願」の書類を提出し、役員を辞めた。冴子は執務机に置かれた離任願を前に、放心し、そしてハラハラと大粒の涙をこぼしたまま、静香を追うこともできなかったという。
これがもはや生徒たちの間で伝説となっている「Sの絶縁状」事件である。1年生が現職の生徒会長に絶縁状を叩きつけて大泣きさせたのである。伝説とならないはずがない。ちなみに、Sとは冴子、静香のイニシャルであり、また姉妹(シスター)の頭文字であり、そして2人の関係を邪推するアルファベットでもあった。
かのような訳で、静香はおそらく、もう二度と自分の意志で生徒会に関わることは無いであろう。それを知っているからこそ、現編集長の天乃原などか(あまのはらなどか)も明言を避けているのだ。
「もったいない話です。先代の個人的感情はともかく、橘さんの能力については贔屓など無かったのに」
「ええ」
2人がそんな会話をしながら進んでいくと、坂の上で視界が急激に広がる。道は今度はなだらかな下りとなって緩やかにカーブを描きながら続いていき、その先には高級そうな建築物が並んでいる。そのさらに先には高架道路を境に高いビルが建ち並び、繁華街を形成していた。榧子達が乗ってきた電車の線路は手前の住宅街を迂回するように伸びて、その高架を潜って繁華街中心の駅に続いている。
高級住宅の中に、一際目立つ白い建物が存在する。外国の大使館だと説明されればそのまま信じて貰えそうな豪華な敷地と洋風建築物。朝日を照らし返して白銀の輝きを放っている。
「いつ見ても、豪勢なお城ですね」
「ええ、まあ……」
立華の言葉の中に「無駄に」の一言が隠されている事に気が付き、榧子はあいまいな返事を返した。
2人が坂の上から見下ろしているのは、星漣学園の第一学生寮、「正星館」である。全身を白の石と塗装で統一したこの白亜の城は、地元の住民には「シンデレラ・キャッスル」の異名で知られ、名所にもなっている。だが、あの寮をシンデレラの名で呼ぶのは甚だ見当違いであると榧子は密かに思っている。なにしろ、あそこに住んでいる50人弱の生徒達は、ほとんどが魔法使いの変身の魔法も必要のない本物のお姫様達なのだ。
その正星館からの生徒達と、あとそのずっと先にある「公民館前」バス停から通う生徒達が連なって榧子達の立ち止まった場所に歩いてきている。駅からの電車通学者、バス通学者、そして寮住まいや地元の生徒達が今2人のいる場所で合流し、そしてそこから星漣学園へと続く最後の100mの坂を上る。
榧子達は正星館から目を離し、その坂の方へ体を向けた。色とりどりの敷石で美しい模様の描かれた直線の道が目に飛び込んでくる。古い様式の青い街灯が道の両脇に等距離に立ち並び、そのさらに外側には煉瓦造りの低い塀が木立と道路を区切っている。そしてその直線の行き着く先、そこにはお嬢様女子校としては無骨なつくりの鉄の門が、今は一杯に開かれて存在していた。
このきっかり100mの登り坂こそ、有名な「マリア坂」である。本当の名前は別に有るのだが、誰も本名で呼ばないために今では街の観光案内にすらこの名前で記載されている。
榧子が初めてこのマリア坂を訪れたのは、彼女が漠然と星漣学園の受験を親に勧められ、母親の強い希望によりクリスマス・ミサのキャンドルサービスを見学に来た時だった。お揃いの衣装で蝋燭を掲げ、街灯の作る仄かな明かりの中粛々と坂道を下っていく生徒達の姿は学校案内の通りにまるで天使達の行進のように神々しく、無邪気に「綺麗ねぇ」と喜ぶ母の横で自分がこの学園を受験するのが酷く場違いな気がしてどうにも居心地が悪くなったものだ。
だが、あの時神々しく照らし出されたこの道も、毎日登校してみると有り難みもへったくれも無い、ただげんなりとするだけの坂道であった。この延々と続く坂だらけの通学路のおかげで、たいていの生徒は入学早々に自転車通学をあきらめてしまうのだから。
「星漣学園は、3つの壁に守られているんです」
「え?」
坂の中腹で立華がぽつりと、まるで独り言のようにつぶやいた。俯いて敷石を数えるように歩いていた榧子は首を曲げてそちらを向く。
「1つはこの坂、ふもとから続くこの坂と木立が自然の壁なんです。2つ目は、当然学園の外壁です。学園の内外を仕切る区切りの役目をしています」
坂を上りきり、鉄門をしばらく見上げた立華は、そこでくるりと反転して後ろを向いた。榧子もそれに倣って視線を動かす。
「……最後の1つは、この景色です。」
絶景であった。それほど標高が高い訳ではないのだが、ふもとに広がる町並みは榧子達の居る場所からまるで扇状に広がっているように見え、その合間を縫う河川に沿ってやがて海に静かに落ち込んでいく。街の中からここを見上げているだけでは絶対に想像もできない、天上からの景色がそこに有った。
「見ている景色の違い、それが、星漣学園を守る最後の壁なんです」
「……本当に、そうだと思います」
立華は「受け売りですけどね」と肩をすくめる真似をしたが、榧子は先ほどの言葉を真摯に受け止めていた。物ではなく、立地でもなく、最後に星漣を星漣たらしめるのは、心の景色、こころざしに有るのだと、彼女は思った。
正門から校舎までの道のりには、途中に羽の生えた女性を象った「セイレンさま」の像がある。いつもの様にセイレンさまにお祈りを済ませ、立華と並んで校舎の方へと足を向ける。榧子が凛とした声に呼び止められたのは、そんな瞬間であった。
「お待ちなさい」
ドキリとして振り返る。人影など、そこに無かったはずなのに、いつの間にか、それこそセイレンさまが人となって台座から降りてきたかのように唐突に長い黒髪の女子生徒がそこにいた。
黒い制服のその生徒は、黒いストッキングに包まれた長い脚を動かしてぴんと伸びた姿勢のまま榧子の前まで歩み寄る。そして不意に腰を曲げ、榧子と目線の高さを同じにした。切れ長の眼の中の黒い瞳が榧子の視界に多い被さってくる。「そのままにして」と両手が榧子の耳朶の後ろに伸びてきた時、榧子は思わず眼をつぶった。
「――はい、いいわ」
数秒の後、正面から聞こえた涼やかな声に恐る恐る瞼を開く。そしてそこに、眼を細めて笑っているその女生徒の顔を見て、再びドキンと心臓を跳ねさせた。驚きのあまり声も出せずにぱくぱくと口を動かす。
「ごめんなさい、リボンが解けかけていたから、気になって」
そう言って、女生徒は榧子から離れる。背が高く、腰を伸ばしてすらりと立てばそれだけで絵になる見事な姿であった。
ここに来て、ようやく榧子の隣で唖然としていた立華も自分を取り戻せたようだった。「お、おはようございます」と思い出したように目の前の少女に挨拶をする。
「おはよう、巾足さん」
「あ、はい、どうも」
突然名前で呼ばれて意味も無く礼をしてしまう。まさか、ただの2年生の自分の名前を覚えてくれているとは。思いがけない感動に立華は鞄を持つ手に力がこもった。それだけに、今の返答の不味さに後悔の波が押し寄せる。
少女は2人を順番に見て、そしてまだぽかんとしている榧子に「かわいくて、大きなリボンね」と笑いかけた。
「ん? それだと逆かな?」
「え?」
榧子がようやく声を出すことに成功すると、少女は「気にしないでいいわ」ともう一度笑い、会釈の後に髪をなびかせながらくるりとターンして歩き出した。一定の軽やかな歩調で校舎への路を辿り、もはや榧子たちの事を気にする気配は無い。その後ろ姿を、木々に隠れて見えなくなるまで2人は立ち尽くして見送った。
「……いや、驚きました。こんな場所であの方とお会いするとは」
「……うん」
気の抜けた返事をし、そしてはたと気が付いて榧子は両手を自分の頬に当てて「やだぁ!」と叫んだ。
「どうしました?」
「だって……だって……」
先ほどの出来事がぐるぐると頭の中でリピートされる。羞恥と後悔にかーっと顔が熱くなり、榧子は悲鳴のように叫んだ。
「だって那由美さま、私の事リボンもまともに出来ない身だしなみの乱れた子って思われたわ! どうしよう!?」
「ああ……」
立華は髪に手をやりながら自分もさっきのやり取りで失敗していた事を思い出した。ため息をつきながら、それでも友人へと慰めの言葉を発する。
「大丈夫ですよ。かわいいって仰られてたじゃないですか」
「それ、リボンだけでしょう!?」
「まあ、そうですけど……」
「立華さんひどい!」
髪にやった手でそのまま頭を掻く。どうやら先ほどまですがすがしかった本日の朝は、ちょっとしたボタンのかけ違えで2人にとって最悪のスタートとなってしまったようであった。
そんな、セイレン像の前の朝の一時をじっと見つめる視線があった。生物の持つ目玉ではない。校舎に近い樹木の枝に設置されたそれは、素人が下から探した程度では存在に気付くことすらできない小さな機械の眼であった。その視線が、先ほどの黒い女子生徒の歩みにあわせてゆっくりと角度を変えていく。時折、瞳孔の開閉のように内部の機器を調整してピントを合わせている様であった。
別にその機械の眼は、それ自身の意志によってその少女を追尾している訳ではない。それの見た光景は、デジタル信号に変換され、空間を飛び越え、そして校内のある密室に設置された無数のモニターの一つで再度映像を構成して、それを必要とする少女に届けられていた。
その少女とは、哉潟七魅である。彼女はある目的のために、自分たち姉妹の為に内密に設置したこの学園の監視システムを使い、今年度セイレン・シスターの高原那由美を監視しているのだ。
七魅がモニターに映しだされている那由美を指先でタッチすると、カーソルが現れてその少女を枠で囲う。画面の右上に「AUTO」の表示が灯り、カメラが那由美の歩みに併せて動き始めた。それをじっと見つめ続ける七魅。時折、不自然にカメラが揺れ、カーソルが大きくなったり小さくなったりする。
カメラの旋回角度が限界に来たのか、那由美の姿がモニターの枠の外に消えていった。その瞬間、画面の表示が赤い「LOST」の表示に変化する。七魅はすぐに次のモニターに眼を向けた。
だが、表示は「LOST」のまま変化しない。画面の中にも、那由美の黒い制服姿は現れない。じっと、七魅は睨みつけるようにしてモニターに視線を送り続ける。
軽い電子音が鳴った。はっと七魅が眼をやると、それは4つ目のモニターであった。そこには、校舎内の下駄箱の様子が映し出されていたのだが、いつの間にか現れた那由美がそこで生徒達と挨拶をしていた。ほっと、七魅は息をついた。
また、「ジャンプ」した。
昨日、那由美が教室に出現して以来、七魅は彼女の監視を行ってきた。そして、那由美の行動に奇妙な不連続点を発見したのだ。カメラの切れ目、あるいは物陰に隠れた瞬間、または七魅が瞬きをした刹那。那由美は、一瞬の内に姿を消し、あるいは全く別の場所に姿を現すことがあったのだ。例えば、たった今、連続で並べられたカメラを2つ跳ばしていきなり校舎内に現れた様に。
さらに、詳しく録画映像を巻き戻してスローで再生すると、まるでコマ落ちのように連続した映像の中の一瞬だけ、その姿が映っていない事があった。先ほど、しばらくカーソルが那由美を見失っていたのもそれだろう。デジタルの眼が那由美の60分の1秒の消失に敏感に反応したのだ。
なぜ、そんな不連続が起こるのか。
確証は無いが、七魅は感覚的にその理由に行き着いていた。那由美が現れる瞬間、その側に七魅が居ると感じることが出来るノイズの様なもの、それがヒントである。
七魅達哉潟姉妹は生まれつき他人の認識に干渉する特殊な能力を持っている。その能力と、同じように他人の認識を狂わせる力がぶつかった時、七魅の脳はそれを世界に走るノイズとして感知する事ができるのだ。
おそらく、高原那由美は「実在」していない。それを認知出来る者に対して、強制的にその存在を認識させているだけなのだ。認識できるが、実在しない存在。あるいは、生徒達の認識の中にのみ存在するという事もできる。
シュレーディンガーの猫というパラドクスがある。箱の中の猫は生と死が半分ずつ重なった状態にあり、それを開けた瞬間に猫はそのどちらかの結果に至るという論理だ。それを当てはめてみると、箱の中の猫はこの星漣学園内の那由美だ。そして、生と死の結果は、もしも彼女がこの学園に存在するなら、どこで何をしている可能性があるかの分岐である。
この時間なら、登校途中かもしれない。セイレン像にお祈りをしているかもしれない。下駄箱で靴を履き代えているかもしれない。教室でクラスメイトに挨拶をしているかもしれない……。
そんな無数の可能性の中の1つが、誰かが彼女を認識した瞬間に確定する。その瞬間、その他の選ばれなかった可能性の中の那由美はフィルムのコマから抜き取られたかの様に消えてしまうのだ。
その、不連続な可能性の「ジャンプ」が起こるとき、七魅の体は認識の強制転換を察知してノイズを聞く。かつて達巳郁太が学園内に唯一の男子生徒としての認識を植え付けた時も似たようなノイズが発生したが、今回のその大きさはその時の比では無い。あの時が窓ガラスの砕ける音なら、今回はジェット機の墜落並の音が鳴り響いているのだから。
問題は、2つ。
1つ。なぜ、こんな不安定な状態で那由美は存在しているのか。あるいは、存在しているように見せかけられているのか。
2つ。なぜ、達巳郁太が生徒達の記憶ごと消えてしまったのか。
この2つの問題は、もしかすると表裏一体のものなのかもしれない。達巳郁太と高原那由美。2人は、もしかしてシュレーディンガーの猫の生と死の2つ結末なのではないか?
モニターの中の那由美は、階段を上ろうとしたところで生徒会長の安芸島宮子(あきしまみやこ)に呼び止められていた。くるりときびすを返して宮子の側に立つと、二言三言会話をして頷き、ぽんと軽く宮子の二の腕のあたりを叩いてさっそうと歩き出した。それに黙って小走りに着いていく宮子。
まるで、あべこべだ。今は宮子の方が那由美の従順な秘書か何かの様に見える。自分の早足に気が付いたのか、那由美は立ち止まって宮子に何か言い、宮子の方はそれに首を振った。音声は拾えていないが、唇の動きから「気になさらないでください」と言ったのだろうと推測した。
そのまま2人は校舎を北側に抜けて食堂への渡り通路に出る。カメラが校舎の屋上辺りからの見下ろし視点に切り替わったが、今度は那由美の「ジャンプ」は発生しなかった。おそらく、現場に宮子という連続した観測者がいるからだろう。
ふと、那由美が足を止めた。その後ろで同じ様に歩みを止めた宮子に構わず、ゆっくりと首を巡らせて周囲に視線を走らせる。そして、校舎の方に振り返り、徐々に視線を上げていき……。
那由美の視線が、モニターを見つめる七魅と絡んだ瞬間、彼女は眼を細めて七魅に向かって「笑いかけた」のだった。
瞬間的に七魅はモニターのスイッチを切った。まさか。そんなはずは。あり得ない。色々な言葉が七魅の頭の中でぐるぐる渦を巻く。
たまたま、3階辺りにいた生徒と眼があったのだろうか。それとも、監視カメラを見つけてその使用者に対する威嚇のつもりだったのか。
もう一度、モニターを点けて別のカメラから那由美の様子を確認すればいいのかもしれない。だけど、もし、その視線に対しても那由美が反応したら?
七魅は、那由美が見せた笑顔の意味を計り切れず、監視を再開する勇気を振り絞ることが出来なかった。
「どうなさいましたか?」
急に立ち止まった那由美の様子を訝しがり、宮子は声をかけた。那由美の視線を追って校舎の屋上を見上げてみるが、高いフェンスと貯水タンクの上部が見えるだけで、何か興味を引くような特殊な存在は見あたらない。
「いえ……気にしないで」
那由美は視線を戻すと、宮子の方を一瞥して再度先ほどの歩調で歩き始めた。唐突な再開に宮子は追いつくまで数歩、駆け足になる。
だから、その瞬間の那由美のつぶやきは自分の足音に紛れて鼓膜から脳へと伝達されることはなく、意識の外へこぼれ落ちる。
「……ちょっと、猫の子がこちらを見ていたの」
那由美はまぶしそうに空を見上げ、微笑みを浮かべながら髪をかきあげた。
BLACK DESIRE
#14 達巳郁太の消失 II
1.
その日の昼休み、哉潟姉妹はランチハウスの愛称で知られる星漣学園学生食堂のテラスで昼食をとった。弁当箱を片づけ、食堂から張り出した屋根の作る日陰の中、白いプラスチックの椅子に座って時間を潰す。七魅は文庫本を読む振りをしているが、その手は先ほどから一度もページをめくっていない。そんな妹を姉の三繰は頬杖を付いて見つめていた。
七魅の視線は確かに顔から30cmの手元の本に向いていたが、その意識はそこから約10mメートル離れた場所に座る人物に全アンテナを向けていた。それこそ、姉が自分の事を気にして仏頂面をしている事にもまったく気付かないくらいの集中ぶりだった。
その人物とは、当然の事ながら高原那由美であり、彼女は現在、七魅達とは別のテーブルで下級生達に取り囲まれながらの昼食を終え、食後のティータイムを楽しんでいるところであった。少女達の弾むような会話の合間に、落ち着いた音色の良く通る声が時折辺りに響いている。内容としては他愛もない世間話や相談事に那由美が相づちを打ったり、一言アドバイスをしたりしているだけなのだが、そこから放たれる「幸せ」という名の黄色いオーラはこのテラスを明るく覆い尽くしている様であった。
「――だから、出るの。1階のトイレに」
その時、集中していた七魅の耳にそんな言葉が飛び込んできたのは、その言葉が持つ色合いが押し殺したような異質な薄暗さを持っていたからかもしれない。周囲の明るさに反し、ぼそぼそと隠し事の様に語られる内容に、ほんの少しだけ意識を向ける。
「白くて、ぼーっとした男の子の霊が、出るんだって」
「1階の端って、保健室の前の?」
「そう。そこの職員用トイレ。そこで見た人がいるの――」
いっそう、声量が縮こまる。七魅は居住まいを正す振りをして、少しだけ声の方向に体を傾けた。
「――トイレのイチタロウさん」
がたん、と隣の椅子が鳴った。びくっと七魅が体を震わせて見れば、三繰がまっすぐ前を向いたまま立ち上がったところだった。
「ちょっと、行ってくる」
「え? あ、姉さん……?」
そのまま三繰はすたすたと那由美のいるテーブルの方へ歩いて行ってしまった。七魅が制止する暇もない。そしてランチタイムを楽しむ生徒達の間をすり抜けて那由美に近づくと、声をかけて少女をテラスの外に連れ出してしまう。
2人の姿が植え込みの向こうに隠れ、七魅から見えなくなる。思わず立ち上がりかけ、そしてすんでの所で思い止まった。ここでもう1人さらに那由美を追いかけたりしたら、好奇心の塊となっているこの場の少女達の歯止めがいっぺんに弾けてしまうだろう。七魅は糸の切れた凧のような姉の行動にヤキモキしながら、きゅっと靴の中で指を縮める事で自分を押さえた。
「お話とは?」
植え込みの向こうと十分に距離が離れていることを気にしていた三繰に、那由美は簡潔な問いを発した。立ち聞きしようとしたら筒抜けだろうが、むしろこれだけの人だかりでそんな不審な行動を行う勇気のある生徒はいないだろう。三繰は唯一、自分の妹が後を追ってくる事を心配したがその様子も無く、自重しているようだ。那由美に向き直る。
「うん。高原さんに聞きたいことがあるの」
「どのような?」
さて、どうしよう。
思い立って那由美を連れ出したが、いったい何と説明するべきか。順を追って説明しようにもいったい何処が始まりで何が関連しているのかも三繰自身、把握していないのだ。最近の妹の様子の異常の原因が那由美にあると当りをつけて呼び出したが、それで一体何を聞くべきか。
内心で首を捻って考えるが、それで昨日からの疑問の答えが急に涌いてくるはずもない。三繰はすぐに状況整理をあきらめ、とにかく今一番気になっている事を尋ねることにした。
「高原さんは、タツミって名前に聞き覚えが無い?」
「タツミ」。それは七魅がおかしくなる前日くらいから口にしていた言葉だ。七魅は「タツミ君」なる人物の事をずいぶんと気にしていた。もちろん、三繰にはそんな名前に覚えは無いが、同時に七魅が気にし始めた那由美なら何か、心当たりがあるのでは無いかと思えた。
「タツミ……ですか? それは、地名ですか? それとも人の?」
「人だと思う」
「下? それとも上の名前?」
「わからないわ」
那由美は瞳を横に逸らし、頬の横の髪に手を当てて少し考えている様であった。ややあって、その首を横に振った。
「申し訳ありませんが、個人的な知り合いにその名前の方はおりません」
「そう……」
見当違いだったのだろうか。七魅の探す「タツミ」という人物と高原那由美は絶対に何か関連があると直感が言ったのだが。しかし、本当に知らないにしろ、とぼけているにしろ、こんな場所ではこれ以上追求するのは難しい。
「ありがとう。勘違いだったみたいね、お手数かけてごめんなさい」
「……その、タツミという方……」
三繰が会釈して帰ろうとすると、思いがけず那由美は先ほどのポーズのまま三繰に声をかけた。
「……あなたのお知り合いですか?」
「え?」
外しかけた目を再び那由美の顔に向ける。その瞬間、三繰はぞくりと首筋から背骨を通り、尾てい骨の辺りまでつららの様な寒気が潜り抜けるのを感じた。那由美の漆黒の瞳が、まるで瞳孔をくぐり抜けて脳味噌の奥深くまで潜り込もうとするかのように三繰を直視していたからだ。喉がぺたんと潰れたようになり、息を吸い込むことが出来ない。
……が、それも一瞬の事だった。那由美は即座に目を細めて微笑みを浮かべると、「ごめんなさい、余計な詮索でした」と頭を下げた。三繰は自分の口がまるで他人に操られているように自動的に「いえ……」と答えるのを聞いた。
「何か新しく気が付いたことがあったらお知らせすればいいですか? 3年柚組の哉潟三繰さんで良かったですよね?」
「あ……はい」
自分が操り人形にでもなった気分だ。こくりと首を動かして三繰は肯定した。那由美はそれを見て再び笑うと、会釈をしてテラスの方に戻っていった。
「――だから、怪奇倶楽部のメンバーとしては放っておけないわけ」
「でも、どうするの?」
「日が沈んでからもう一回入ればいいのよ。私、内緒の入り口知ってるんだ」
「イチタロウさんの呼び出し方は知ってるの?」
「大丈夫。だからいいでしょ? 今日、放課後に――」
七魅の後ろでの会話は続いていた。しかし、今はその内容よりも植え込みの向こうが気になっていた七魅の耳は、そのナントカ倶楽部の事など入ったそばからポロポロとこぼしていく。一体、姉さんは高原那由美と何を話しているんだろう?
2人の対話はほんの2、3分で終わった。戻ってきた那由美は、一緒に帰った三繰よりも先に先ほどまでいた自分のテーブルに戻り、そして椅子に座ることなく自分のティーカップを受け皿ごと手にする。
「ごめんなさい。このあと生徒会に呼ばれているの」
「あ、私が片づけておきます!」
一人の生徒がぴょこんという感じで立ち上がるが、那由美は「ありがとう」と笑ってそれを手で制した。そして残念がる下級生達に手を振って別れ、カップの片づけのために七魅のいる方へと歩を進める。七魅は自分が彼女に意識を向けている事を悟られないよう、文庫本のページをめくってそれに没頭しているふりをした。
「あら」と那由美が七魅のついているテーブルの向こう側で足を止めた。七魅の胸の奥で心臓が跳ねたが、それをおくびにも出さずにただ黙って視線を本の行に添わせて縦に動かし続ける。
那由美が腰を屈め、テーブルの向こうに見えなくなった。と、すぐに体を起こし、七魅の方に向き直るとすっとテーブルの上に紙のようなものを指先で置く。
「しおり、落としましたよ」
それは薄緑色の紙製のしおりだった。出版会社の名前がアルファベットで斜めに印刷されている。反射的に七魅は頭を下げ、礼を言った。那由美は「どういたしまして」とにっこり笑って、何事もなかった様にその場を離れる。そのまま、振り返ることなく食堂の中へと入っていった。
「何だったの?」
那由美が見えなくなった後、三繰が戻ってきた。「何だったの」はこっちの台詞なのだが、まだ七魅の胸の中では小心者の心臓がどきどきいっていたので「別に……」とかろうじて応えだけだった。
テーブルの上を見て、三繰は首を傾げる。
「そのしおり、貰ったの?」
「拾って下さったんです」
「拾った? ナナちゃんのじゃないでしょ?」
「え?」とそのしおりにもう一度目をやる。確かに、思い返してみればこんなしおりには覚えがない。今読んでいる本を確認してみれば、5ページほど前に本来のしおりは挟んだままだった。
那由美の置いていったしおりを持ち上げ、ふと思いついて裏面に返してみて、七魅は「あっ」と声を上げそうになった。「どうしたの?」と訝しがる姉に黙って首を振り、2つ目のしおりを本に挟み込んで閉じる。
「何でもないです」
しおりの空白には、流暢な字で『タツミ → 別邸』と記されていた。
2.
七魅が高原別邸の事を忘れていたのは、単に那由美に集中するあまり視野が狭くなっていたからである。達巳郁太が学園内から消失したとして、その家族、あるいは近所の住民はどう思っているのか。星漣学園の生徒達と同様に郁太の事を忘れてしまっているのか、それとも彼らも郁太の様に別の存在と置き替わっているのか、それを確認しなかったのは失敗であった。
七魅はどうして那由美がその様なヒントをくれたのか意図を探ろうとしたが、昼休み以降は那由美と接触する機会が持てず、結局彼女の指示通りに放課後、姉と別れて一人で高原別邸を訪れた。那由美の指示した「別邸」で思いつく場所はここしかなかった。
錆の浮いた黒い門は、軽く押すと軋みながらも思ったよりスムーズに内側に開く。内に踏み込む瞬間、視線を感じてふっと顔を上げる。
「……」
門の両脇の塀の上に、一匹ずつ白と黒の猫がいた。つがいの様にモノトーンの小さな獣達は、七魅の進入をまるで稲荷神社のお狐様の如くすました顔で監視している。思わず七魅は2匹に軽く会釈をしてそこを通る。猫達は尻尾をパタリと倒してそれに応えた様だった。
屋敷までの石畳を急いで渡る。すると、前方の洋館の扉がひとりでに内から開いた。空いた透き間から内部の闇が染み出すように、すっと黒尽くめのメイドが現れる。七魅に対し、手を前で合わせて静かに頭を下げた。
「いらっしゃいませ、哉潟様」
毎回、ここに訪れる度にこのメイドはこうやって到着を予想してたかのように出迎えに現れる。もしかして、見かけによらずセキュリティシステムが完備されているのだろうか。七魅はお辞儀をしたままのメイドに近づくと、会釈をした。
「こんにちは……あの……」
どうやって用件を切り出そうか、そう考えあぐねている内に、メイドは頭を上げる。驚いたことに、そのメイドは左目に海賊映画の様な黒い眼帯を付けていた。完璧なメイドルックと不思議と調和しているような、浮いているような、そんな微妙なスタイルにしばしあっけにとられる。
「お待ちしておりました。どうぞ中へ」
メイドの方は七魅の様子などまったく気にしていないようであった。平坦な口調で告げると、扉を大きく開いて七魅を促す。七魅は扉の奥に一瞬ひやりとした寒気をもたらすモノの気配を感じ、足を踏み出すことを躊躇った。しかし、視線を外したままのメイドは何も言わず、屋敷の中も静まり返ったままだ。結局、七魅は慎重な足取りで高原別邸へと踏み込んだ。
「あの……達巳君は……」
扉を閉めると、メイドは何も言わずにスタスタと七魅の前を歩き始めた。問いかけにも応えようとする気配がない。間もなく、一つの豪勢な扉の前で立ち止まるとそこを開き、「こちらでお待ちください」と中へ案内した。
そこはこの屋敷の食堂のようであった。広い長方形の部屋で、片方の壁には暖炉が有り、その左右に動物の頭部の剥製や額に入った風景画が飾られている。部屋の真ん中には縦に長いテーブルがどっしりと据えられ、両サイドに豪勢な椅子が5個ずつ並んでいた。その内の入り口側の1つをメイドが引いてくれたので、七魅はそこに座る。メイドは深々とお辞儀をして部屋から出ていった。
(誰か来るのかしら……)
周囲を見渡しながら七魅は心の中で呟く。まさか、郁太本人が出てくる様なドッキリは無いだろうが、かといってこの屋敷で少年とメイド以外の人物を見たおぼえもない。所在無く、脚を椅子の下に巻き込んでつま先で支えるような座り方で何者かの到来を待つ。ふと気が付くと、部屋の奥側の方から黒い小さな獣がとことこと歩いてくるのが見えた。
「ねこ……」
先ほど門のところで見たよりかは幾分大きな黒猫であった。太っているのではなく、どことなく異国の血が混じっていそうな大柄でがっしりとした骨格。猫というより小さな黒い虎の様だ。その猫は静かに声も上げずにテーブルの下に潜り込むと、やがて七魅の正面の椅子の上にひょこりと顔を出した。手袋の様に前脚の先の方が白い毛に変わっている。額の中央から背中側にかけて、一筋の流れ星みたいな白毛の線が有った。
この家の飼い猫だろうか。金色の首輪をしていて同じく金色の小さなプレートのような物がそこから下がっている。猫は両手を突き出して七魅の方に向けてテーブルに載せ、ごろごろと喉を鳴らしていた。
「……あなた、ここの子?」
そう呟きながら、猫を驚かせないようにそっと体を乗り出して手を伸ばす。そうっと指を差し出すと、その猫はたしっと前足でそれを捕まえた。柔らかい肉球の感触に自然と顔がほころぶ。
「――やっと来てくれたな、哉潟の嬢ちゃん」
ドタガタタン。
七魅は椅子を蹴たてて壁際まで跳び下がった。ひきつった顔で周囲をぐりぐりと見回す。テーブルの猫はぴょんとその上に飛び乗り、口を開けて髭を震わせた。
「嬢ちゃん、驚きすぎだよ。俺だ俺。俺が喋ってんの」
そう言って猫は目をぱちくりさせている七魅に向かってニヤリと笑って見せた。
そこへ、扉をノックして先ほどのメイドがティーカップを乗せたお盆を手に再び現れた。深々とお辞儀をし、そして今気が付いたという風に倒れた椅子や壁際の七魅に目をやる。ついっとテーブルの上の黒猫に目が止まった瞬間、珍しくも眉根が寄った。つかつかと無言でテーブルに歩み寄ってお盆を置くと、ひょいとそれの首根っこを掴み上げる。
「おいこら、何しやがる」
「……この方は、郁太様のお客様です」
「話の通りを良くしてやったんだろ。お前さんじゃ小僧の状況を説明するだけで夜が明けちまうぜ」
しゃーっと黒猫はつまみ上げられた姿勢のままで口を開いて威嚇した。メイドは澄ました顔でそのまま壁際の七魅に向き直る。
「……失礼いたしました、哉潟様。私はこのお屋敷で郁太様付きとしてメイドをやっております、幎(とばり)と申します」
「俺のことはメッシュと呼ぶがいい」
偉そうな口調の猫をぶら下げたまま、幎はうやうやしく礼をした。
「俺達は、人間達の概念で言うなら悪魔ってやつなんだろうさ」
「はあ……」
もう一度椅子に座らせられ、幎の用意した紅茶をいただきながら、七魅は目の前で得意げに尻尾を振る黒猫の講釈を聞いていた。自分で自分の事を「黒猫のメッシュ」と自己紹介した獣の講釈を、である。
「あんたも知ってるだろう? 小僧が黒い本で力を使っているって事をさ。あの本を使うには、特別なエネルギーが、ええと、車は今は電気でも走るんだっけか。とにかくガソリンや電気みたいにそれを動かす異界の力が必要だ。それをくれてやってるのが、そこの幎って訳だ」
そう言って、メッシュは尻尾でメイドを指した。その幎はまるで関係がないと言わんばかりに両手をエプロンの前で合わせて、扉の側に待機している。
「……悪魔って……」
「信じられないかい?」
メッシュの言葉に、七魅は少し逡巡したが、結局は「いえ」と首を振った。
「オーケー、賢い女は嫌いじゃない。お前さん自身が確かに異能の存在なのに、今更悪魔なんていませんとかのたまう阿呆じゃなくて安心したぜ」
七魅は猫の口振りに僅かに眉を顰めた。この猫とは、どうも良い友人関係を築けそうもない。
七魅が納得すると、その心情はともかくとして黒猫はぺらぺらと実に多彩な情報を明かしてくれた。黒い本が大昔に魔術師達によって作られたこと。それを幎の様な悪魔が利用して現代でも秩序の破壊に活用していること。本は使用者の最終目的を達成するため、魔力の蓄積を要求すること。その魔力を得るため、郁太は幎と契約し、学園内で能力を使い続けなくてはならないこと。存在優先権という本の所有者に与えられる特典によって、達巳郁太が学園の生徒としての身分を手に入れたこと……などなど。
郁太から説明されていた事もあったし、初めて聞かされる情報もあった。中でも、魔力が枯渇すれば契約は破棄され、達巳郁太は命を落とすことになるという話には七魅の胸中は大いにざわついた。たまに能力の使用後に少年の顔色がひどく青ざめていたことがあったが、それにはこういう意味があったのか。
「さて、一気に説明したが、付いてきてるか。嬢ちゃん?」
「……哉潟七魅です。嬢ちゃん、ではありません」
「なるほど、なるほど。わかったよ、哉潟のお嬢ちゃん」
やはり良い関係にはなりそうもない。七魅は紅茶に口を付けて文句と一緒に喉の奥に飲み込んだ。
「こっちの種は半分は明かした」
「残りはどうなんですか?」
「それは、あんたの話を聞いてからだ」
情報交換という訳だ。しかし、七魅は黙って首を振る。
「まだ、あなた達に協力するとは言っていませんよ」
「別にそれでも良いけど、小僧を取り戻したくはないのかい?」
「お互いが協力し合うメリットが有るかどうか説明されていません」
「もちろん有るさ。嬢ちゃんには敵の情報を、そして俺達には学校の中の情報を」
「私の知っている程度の情報なら、あなた達は簡単に手に入れられるのではないのですか?」
七魅の言葉に、メッシュは髭を震わせて笑う。
「等価交換って訳か。だがね、正直なところ俺達は嬢ちゃんの学校の内部の事はほとんど知らないのさ。いや、知ることの出来ない理由があるんだ。だから、嬢ちゃんが調べた内部情報は俺達にとっても非常に貴重なんだよ」
「……その理由とは?」
「残り半分の種明かしと一緒に話そう」
しばらく考えた末に七魅は頷き、9月に入ってからの学園の異変についてメッシュに語って聞かせた。郁太の消失、同時期に起こった那由美の出現。奇妙な不連続点の存在……。猫は耳をピクピクと震わせ、時折不機嫌そうに尻尾をぴしゃりと動かしながら七魅の話を聞いた。
「なるほどな。あんたのところの学校が結界に閉ざされたのは、たぶんその話だと小僧がいなくなった時期に一致する」
「結界?」
「俺達の同業者を弾き出す、やつらのテリトリーみたいなものさ。悪魔っていうのは人間に比べりゃえらく義理堅い存在でな、基本的に他人の領域には『招かれない限り』入り込めないんだ」
「だから、内部の情報を知ることが出来なかったという訳ですか」
「そうだ。こっちは内部情報を知ってそうな嬢ちゃんが、いつここに来てくれるかと尻尾をおっ立てて待ってたんだぜ?」
「それは、どうも」
さっきのお返しである。七魅はまったく悪びれる様子も見せずに言うと紅茶に口を付けた。心に出来た余裕のせいか、さっきより美味しく感じる。
メッシュは尻尾をいらいらと振り回してしばらく考えた後、「たぶん夢魔と、そしてそれを操っている奴がいる」と言ってまたもテーブルを尻尾でぴしゃりと叩いた。
「夢魔は悪魔の中でも、最も微弱で、そして最も影響力のある能力を使うことが出来るんだ。奴らは人間の欲望、想像力、可能と不可能の境界を自由に行き来し、そこから産まれ出なかった可能性を現世に持ち込んだり、逆に夢の中に捕らえたりして世界に混乱を呼び込む者達だ」
「達巳君は、その夢魔によって夢の世界に連れて行かれたって事ですか?」
七魅はその話に驚きを隠せなかったが、メッシュは鼻を鳴らしてそれを否定した。
「そいつは無理だ。夢魔は特に昼夜のサイクルにその力が左右される奴らだからな。単体では、夜の間なら人間をまるごと奴らの世界に引きずり込んだり、そこから想像上の物を現世に持ち込んだりする程度の事なら出来るんだが、逆に人間が普段起きている昼間はせいぜい無意識に語りかけて印象操作するくらいの力しか出せない。だから、昼間っから小僧が姿を消しているってのは解せない所なんだ」
「例え捕らわれているのだとしても、日中ならば達巳君は姿を見せられるはずだという事ですか?」
「そうだ。だから、嬢ちゃん以外の者が小僧の事を忘れちまっている事も含めて、そこには別の力が働いていると考えるべきだろう。そしてそれは、あの黒い本の力としか考えられない。だが、悪魔には本を扱う事は出来ない……だからこそ、夢魔単体での行いでは無いと俺は睨んでいるんだ。……ちなみに、嬢ちゃん。最近、学校内で妙な噂は立ってないかい?」
急に話を変えられ、七魅は戸惑った。噂と言っても、漠然とし過ぎていて答えきれない。
「何の噂ですか?」
「小僧らしい人物……いや、小僧によく似た人影を見かけたとか、そんな噂だ」
ふと、七魅は昼間那由美を監視していた時、隣の席から聞こえた話を思い出した。あれは、何の話題だったか……トイレの、何と言っていたか。
七魅があやふやな記憶を頼りに校舎内に現れる幽霊の話をすると、メッシュは「ふむん」と鼻を鳴らして頷いた。
「トイレのイチタロウ、だろ?」
「知っているんですか?」
「まあな……」
メッシュはここで初めて壁際の幎の方を向き、「おい、アレを見せてやってくれ」と命じた。メイドは頷き、「こちらへ」と七魅を扉の外へ促す。
「どこへ行くんですか?」
メイドに着いて食堂を出て、階段を上りながら七魅は尋ねてみた。とっとっとっと先に立って階段を上り切った黒猫は手摺の上に飛び乗り、「小僧の部屋さ」と振り向いた。
「こちらが郁太様の部屋になります」
幎は七魅を2階の一室に案内すると、その中へ入るよう促した。扉が開いた時、ふと郁太の匂いがしたような気がして、七魅は逡巡する。部屋の主に無断で入り込むことにちょっと罪悪感を感じたのだ。七魅の躊躇いを余所に、その足下をすり抜けるようにしてメッシュが先に入り込んでいった。
異性の私室を見るのはこれで2人目だが(1人目は父親だ)、想像していたよりもずっと綺麗に片づいていて、そして広かった。2つの大きな格子窓があるぼぼ正方形の部屋には、一方の壁に2、3人が並んで寝られそうなベッドがあり、その足下側には部屋の大きさに合わせたような大きなクローゼットが据えられている。反対側には机があり、そちら側の壁には星漣の冬服と夏服が並んでフックにかかっていた。
机の上は綺麗に片付いていて、七魅の知らないメーカーのパソコンが中央に置かれ、僅かにファンの回る音を放ってた。あとは、机の後ろから延びたコンセントケーブルに刺しっぱなしの携帯充電器があるだけで、他に文具などは見あたらない。
机の横にゴミ箱と、中くらいのサイズの段ボール箱が置いてある。箱の方は半分開いたままになっていて、そこにはハードカバーの本が3分の2くらいまで積んであった。一番上の本の表紙が隙間から見えていて、どうやら心理学関連の書籍のようだ。
テレビやゲーム機や、音楽CD等は見あたらない。壁にポスターやカレンダーすら貼っていない。豪奢な部屋に比べ、どことなく無味乾燥としていて生活臭が感じられなかった。
七魅はこの空疎な部屋で机に座り、一心に心理学の本に没頭する郁太の姿を想像した。いったい、命をかけてまで少年を那由美に傾倒させているのは、何だったのだろう?
郁太のパソコンは液晶モニター部に全ての機能が収まったタイプの物のようで、マウスとキーボードが置いてある他、本体らしき物は見あたらなかった。メッシュがとん、と床を蹴って椅子に上り、前足でキーボードに触るとひとりでに画面が点く。どうやら電源は入ったままになっていた様だ。
「さっき説明した存在優先権だが、あれは結構融通が利かないもんでな。小僧があの学園にいたら不味い状況になると、勝手に判断して小僧の存在を隠しちまうんだ。ま、それについて小僧を散々脅かしたのは、そこの幎なんだけどな」
器用に黒猫はマウスを動かし、ブラウザを立ち上げながら尻尾で扉の側に待機しているメイドを指した。幎はそれを聞きながら、まったく反応せずただ黙っている。
「それで、小僧は自分が他の者に認知されない存在になっても、どうにかして力を使える方法が無いか、無い知恵を絞ってたらしい。その1つが、コレだ」
七魅が画面をのぞき込むと、どうやらどこかの掲示板を表示している様だった。無数の話題についてタイトルごとに一連の投稿文章が並べられ、その中で顔も名前も知らない人々が活発に会話を楽しんでいる。その中の1つ、学園のオカルトをあつかった内容のタイトルをメッシュはクリックした。
「今年の6月くらい……この辺か、ここいらで某有名女子校のSの七不思議の話題が出ている。この話に覚えはないか?」
「……いえ」
「そうなのか? お前友達少ないんだな。まあ、知ってる奴にとっちゃこのSってのが嬢ちゃんの学校だっていうのは常識みたいなものらしいぜ」
七魅の抗議の視線も軽く受け流し、猫はその話題の一番新しい投稿内容のところまでスクロールさせた。
そこには、S学園で見られるオカルト情報として、「トイレのイチタロウさん」の事が数行にわたって記載されていた。投稿時間は昨日の18:37:39……午後6時半頃である。
「……怪奇倶楽部のメンバーは、この投稿を見たんですね」
「そういう事だ」
「でも、これがどうしたんですか?」
「わからないか? このスレがどうして小僧のブックマークに入っていたのか」
スレ、というのがこの話題毎に分割された掲示板の事らしい。七魅が首を傾げると、猫はブラウザの画面をずらし、その下に隠れていたデジタル時計のようなソフトを表に出した。
「この情報は、小僧が投稿したんだよ。正確に言うと、24時間以上カウンターをリセットしないまま放置すると、自動的に書き込みするように設定されたこのパソコンが、な」
「達巳君が?」
「見ろ。この自動カキコツールに同じ文が入力されているだろ?」
時計に見えたのはカウンターで、今も毎秒毎秒その数値を増やし続けている。その値は00:00:00になってからおよそ23時間30分が経過している事を表していた。カウンターの下には文章を打ち込める欄が用意されており、そこに確かに掲示板の内容と同じ、「トイレのイチタロウさん」の情報が入力されている。
「小僧は自分の存在が認知されなくなった時、本の能力を使用するのに必要なキーを対象の人間に設定できなくなる事態を恐れたんだな。そこで、逆転の発想でこういうオカルトに興味のある人間の集まる所にこちらから噂を流し、それに興味を抱かせる事を思いついた」
「……つまり、この噂の通りの時間、場所に行けば、イチタロウさんに強い興味を持つ生徒が……『イチタロウさん』をキーに設定する事ができる生徒がやってくると見越して、そうなるようにパソコンから投稿したと?」
「そういうこと」
メッシュはブラウザを閉じ、窓から空を見上げる仕草をした。陽はすでにだいぶ西に傾き、そろそろ灯りをつけないとキーボードに刻印された文字が見え辛くなりつつある。
「完全に陽が沈んじまえば、そっからは夜の眷族の時間だ。完全に夢の中に沈んじまったら小僧の気配を捕らえることは不可能になる。状況確認のためにも、小僧が現れる瞬間を捕らえなきゃな」
「本当に、達巳君はイチタロウさんとして現れるのですか?」
「知らんよ」
黒猫は人間でいうなら肩をすくめる動作といった雰囲気で耳をぺたっと伏せた。
「だが、偶然にも嬢ちゃんが小僧の失踪に気付く事の出来る立場にいて、そしてそれをこの屋敷の者に知らせる事を思い付き、それがたまたま俺達が痺れを切らす前に間に合ったんだ。そして都合の良い事に小僧の小細工に乗ってくれそうな奴がいる事をあんたは知っていた。これだけ幸運が重なったんだ。小僧がタイミング良く本の力を使うことを期待したって損はないだろう?」
その言葉に、七魅も「そうですね」と頷いた。メッシュは言葉を続ける。
「奴らにとって予定外で、そして小僧にとって本当に幸運だったのは、俺や幎がいた事じゃなくて、本の力に抵抗できるあんたが『今だにこの時期になっても本の力に抵抗する意志を持ったままでいた事』なんだ」
「……私が……?」
「そうだぜ、嬢ちゃん。あんたが本に抵抗力が無かったとしたら、あるいは抵抗することを止めていたら、あんた自身小僧の記憶を無くしていたはずなんだからな。まあ、その方がこんな面倒事に巻き込まれずに済んで良かったかもな」
「……」
七魅は黙ったままでいた。部屋の中はかなり薄暗くなっていたし、自分の今の表情は誰にも読みとれないはずだと思った。
メッシュは椅子の背もたれから身を乗り出し、ニヤリと笑いながら七魅の顔を見上げた。
「学校には俺がいくぜ。どこぞの悪目立ちするメイドと違って、俺なら猫のフリをすれば怪しまれる事はないだろうしな。嬢ちゃんは俺の案内だ。ファーストクラスのお客に対する添乗員並のエスコートを頼むぜ?」
「……せいぜい、期待しておいて下さい」
黒猫は耳をぴくぴくと動かして七魅の言葉を受け流すと、ぴょんと絨毯の上に飛び降りた。「さあ」と尻尾を立てて七魅を見上げ、髭を震わせる。
「――トワイライト・ツアーと洒落こもうか」
< 続く >