BLACK DESIRE #17-5

5.

 峡谷の一番奥まった場所に、奇妙な光景が広がっていた。高い崖に囲まれた河川を上りきり、急激に開けた直径5kmほどの湖。その周囲は恐ろしく切り立っており、所々から300mは落差がある糸のような滝がその湖になだれ落ちている。崖の上の方は霞が掛かって茫洋としている。水しぶきのせいか、所々虹が掛かっている箇所もあった。
 その、現実とは思えない光景の中心に、「それ」は在った。オーバーハングした湖の中に突き立つ柱のような島の上に、明らかに人工の物とわかる建造物が存在している。縦横の面積より縦に長いそびえ立つ城。一体どうやって作ったのか、それは土台となっている柱島の面積より膨れて一見すれば宙に浮いている様にも見える。
 頭頂部は尖ったシルエットをしていて、その切っ先は周囲の崖の縁を越えて雲の中にまで突っ込んでいる。そして、恐ろしいことにその天空の城の外壁には、所々螺旋階段がしつらえてあるのだ。

 がらーん、がらーんと、塔の一つに張り付いている大時計が定時を知らせた。その音が崖に反響し、渓谷全体に広がっていく。そして、その音が静かに染み渡るように消えていっても、その光景に新たな彩りが増えることもない。沈黙した、絵画のような世界。
 それは、かつて魔法王国一の学府と謳われたWWW――「ウィルヘルム・ウィザード・ワース」――ウィルヘルム魔術学園の偉容であった。

 学園は円柱の塔をいくつも貼り合わせたような外観をしていて、塔の途切れ目には所々庭園のように草木の植えられたスペースがある。その庭園の一つ、湖の南側に開けた広々とした空間に、白銀の巨人騎士の姿があった。片膝を付き、片手を反対の膝に置いて、まるで王にかしづく騎士の姿である。丁度半ばまで折り畳まれた飛翔翼が白いマントを羽織っているようにも見える。
 巨人はそのような停止姿勢をとっていたが、頭部を動かさないまま、そこの2つの巨大な眼は絶えず動き回っていた。周囲を警戒しているのではない。巨人は彼の主人から申しつかり、大事な宝物に傷が付かないよう見守っていたのだ。

 がさがさっと草むらが揺れる。その中から、ぴょこっと金色の髪が飛び出した。

「バッタよ! おーじゅ! なんていう種類かしら?」

 ぱちぱちと瞬きをする巨人の目。それに赤いドレスの少女は「ふーん」と手に摘んでいた緑の昆虫をぽいと投げ、再び草むらに頭を突っ込んだ。ふりふりとスカートに包まれた小さなお尻が振れる。住処を追われた先ほどの虫は慌ててぴょんぴょんと逃げていった。

「他にも何かいないかな? あれ!? きゃっ!」

 突っ込みすぎたのかころんと転げる少女。ばさばさと名も知らぬ草をなぎ倒し、とてんと足が落ちる。巨人の瞬きがいっそう激しくなる。
 その時、驚いたように付近の花から蝶が一匹舞い上がった。

「あ! チョウチョだ! チョウチョ!」

 すぐに起きあがり、上等なドレスに土埃が付いた事も気にせずその蝶を追いかけ始める少女。巨人の視線が目まぐるしく動き続ける。

 高く舞い上がった蝶を捕まえようと少女はぴょんぴょん跳ね回っていたが、しばらくすると飽きたのか銀の巨人の足下まで戻ってきた。そのままその巨躯がつくる日陰にころんと転がる。

「アルスティナさま、早く帰ってこないかなぁ……」

 巨人は頷くように眼を瞬かせ、そして先ほど出迎えた友人と一緒に主人が消えた塔を上目で見上げたのだった。

「久しいな、アル。どういう風の吹き回しだ?」
「ちょっと近くに来る用事が有ったんだよ。リィズ」

 黒マントの魔女風少女と銀髪に白い近衛衣装の女性が部屋に入ってくる。少女は女を丸テーブルの椅子に座らせると壁際のポットを手に取り、掲げて見せた。

「セラミンストの緑葉しかないが、かまわんな?」
「貴方はそれしか飲まないんだったね。ミルクでお願い」
「ああ」

 セラミンストは王国でも有名な茶の生産地である。第3次大戦後様々な食物生産地が「浮き出す者達」の進行に逢って壊滅したが、広大な平原を持つセラミンストは奴らの影の進行速度が遅く、かろうじて生き残っていた。
 少女はトンガリ帽子を壁に掛けると、袋詰めになった粉末状の茶葉を2つのティーカップにスプーンで入れる。そしてポットとカップ両方に何事か呟いて適温に暖めると、銀髪の女の座るテーブルを指さした。すぅーっとひとりでにそれらを乗せた盆が持ち上がり、移動する。

「人はいなくなっても、ブラウニー達は残っているんだね」
「建物が在る限り、それが仕事だからな」

 少女がテーブルに着くと、その前にカップが置かれてポットの中からミルクが注がれた。続いて、女性の方にも。室内に茶葉とミルクの混ざった甘みのある香りが立ちこめる。

「良い香り」
「私が選んでいるからね」

 2人してカップに口を付ける。そして笑顔を浮かべ合った。

「元気そうで何より、リィズ」
「その名前で呼ぶのも君だけになった」
「ちゃんと呼んだ方がいいかな、フリージア王国魔導教査官どの?」
「その肩書きに今は意味は無いよ、アルスティナ=ブランシェ近衛大将どの」

 笑いながら「やめましょう、そんなの」とアルスティナが手を振り、フリージアと呼ばれた少女も同意した。

 しばらく、年若い女性同士のお喋りに花が咲いた。その大半は2人の学生時代の事柄である。

「しかし、泣き虫アルが今では軍の大将か。時代は変わったな」
「それを言うならオミソのリィズが教官だからね。聞いたときはどれだけ人手がないのかと危ぶんだわ」
「言ってくれるね。口調、戻ってるぞ」
「仕方ないじゃない。ここはもう一つの故郷みたいなものなんだし」

 アルスティナは先ほどまでの凛とした雰囲気が嘘だったかのようにぐにゃりと姿勢を崩し、テーブルに肘を突いた。顎をその手に乗せる。

「懐かしい。講堂座学に模擬戦訓練、薬草採取実習に古代言語書き取りの宿題……」
「フラッツ・ボールの対抗戦もな」
「ゴーレム合戦なんてのも在ったわ」
「あれは傑作だったな」

 くっくっくとフリージアは笑う。しかし、しばらくすると真顔になってじっと友人の顔を見つめた。アルスティナの方もすでにそこに笑みは浮かんでいない。

「……それで? 昔話をしに会いに来た訳ではないんだろう?」
「まあ……ね」
「君が大抵私を訪ねるのは、何か質問がある時だ。今度は何が聞きたいんだ?」
「話が早くて助かるわ。……魔王計画、聞いたことあるでしょう?」
「……魔王計画か……」

 ふむん、とフリージアは手を口元に寄せ、思案顔になる。

「どの程度、知っている?」
「この間、私の部隊を使って北極大陸へ、『あるもの』を運んだわ」
「君も直接関与したのか?」
「ちらっと図面だけは」
「そうか……」

 「さて、どこから説明するべきか……」とフリージアは立ち上がり、壁際の巨大な書棚の前を往復する。アルスティナがそれを黙って見つめていると、急に少女は立ち止まってくるっとテーブルの方に向き直った。

「問題。王歴927年に起きた歴史的な大事故とは何か?」
「え、えっと……927年って事はライベル兄弟が打ち上げ式高々度探査機を作った時より前よね……」
「軍人らしい覚え方だな」
「……927……あっ! もしかしてアンツベルン・ロスト!?」
「正解」

 フリージアは拍手するように手を合わせ、本棚の側面に腕を組んで寄りかかった。

「王歴927年。地方都市アンツベルンで歴史的な大事故が起きた。人口2万1千人の都市が一夜にして住民・建造物もろとも跡形もなく消滅した。これをアンツベルン・ロストと呼び、現在の研究では、その発現が観測された最初の『地獄堕ち(フォールダウン)』現象であると言われている……」

 王歴910年代半ばの話である。その頃はまだ人口も600人程度だった田舎町のアンツベルンに一人の旅人が立ち寄った。その町に一軒だけの宿屋に泊まろうとした彼は、しかし王国硬貨3枚の宿代を持っていなかった。ロアー・マッケイと名乗った旅人の全財産は、硬貨2枚と奇妙な20cm位の像だけだったのだ。宿代の持ち合わせがないロアーは、しかし奇妙な事を言って宿の主人に頼み込んだ。「明日の朝になれば、必ず宿代は払う」と。この町で夜に稼げる場所など無いのに。
 だが、気だての良い主人は必死なその様子に折れて奇妙な旅人を泊まらせることにした。どうせ硬貨1枚分だ。それにいざとなったら足りない分だけちょっと薪割りでもしてくれればいい。そう思って、ああ良いよと硬貨2枚を受け取ろうとしたところ、ロアーはさらに言い募った。待ってくれ、この硬貨はこうやってこの像の下に置いておいてくれ。彼は2枚の硬貨を並べると、その上に像を置いたのだった。主人は首を捻りながら金庫の中に言われた通り像を置いた。

 次の日、不思議な事が起こった。
 主人が朝の確認のために金庫を開けると、像が倒れていたのだ。そして、下敷きになっていた硬貨は、4枚に増えていた。

 最初は地震でも有って位置が変わったのかと思った。だが、何度数えても昨夜数えたときより、硬貨の数は2枚増えていた。像の下で、2枚の硬貨が4枚に増えたのだ。主人は血相を変えてロアーに起こった出来事を話した。すると、ロアーは落ち着いて答えたのだ。

 その像は豊穣の神をかたどったもので、土地の恵みを倍にする力が有る。硬貨は土の中から取れるものだから、神の力で倍に増やしてくれたのだ。

 そして、さあ、その余分な1枚の硬貨は私を信じてくれたお礼にあなたにあげましょう。像を返して下さいとロアーは言った。
 突然、主人の心に欲が沸いてきた。どうかもう一日だけ泊まっていって下さい、この宿で最高のもてなしをしますから、と旅人に頼み込む。ロアーは渋ったが、結局はもう1日だけと頼みを聞いた。主人は金庫の中に像を仕舞うと、その下に挟み込めるだけのありったけの硬貨を挟んだ。

 次の日の朝、硬貨はまた倍に増えていた。宿の主人はまた旅人を引き留め、宿に泊めた。次の次の日の朝も、硬貨は倍に増えた。主人は再び旅人を泊めた。

 1週間もする頃、いつの間にか旅人はいなくなっていた。しかし、宿の主人は全く気にしなかった。そして、ある時金庫に像を入れようとして、それが突っかかることに気が付いた。不思議なことに、その像は少し大きくなっていた。その日から主人は像を地下室に仕舞い、金庫から持ち出した金を全部その下にばら撒いた。

 1ヶ月が経つと、像は子供くらいのサイズになっていた。その頃になると、主人はため込んだ硬貨を地下室に積み上げ、その上に像を立てて側で寝るようになった。そしてある日、なかなか店を開けない主人を心配した常連の一人が開きっぱなしの地下室を見に行ったところ、血塗れの硬貨の山にうつ伏せになり、倒れた像に頭を潰されて中身をぶち撒けて死んでいる主人を発見した。像は人間と変わらないサイズになっていた。

 宿屋の主人から像の噂を聞いていた町の住民は気味悪がり、人手を使ってその像を町のはずれに運び、埋めてしまった。だが、その翌日、像を埋めた場所からこんこんと水が湧き出ていることに気が付き、人々は仰天した。しかも、その水には砂金が混ざっていた。協力して像を掘り起こしてみると、砂金混じりの水は、像の埋まっていた穴から後から後から湧きだしてきた。町の人は突然振って湧いた幸運に沸き立ち、像を穴の近くに立てたままさっそく砂金を取り始めた。そしてその3日後、湧き水の穴を広げようとクワをふるった町民3人の上に像が転げ落ち、胸や頭を潰されて即死した。像は家屋の屋根に届きそうなくらい大きくなっていた。

 死人が出たが、人々は砂金取りを止めなかった。それどころか、像を運んで祠を建て、そこに祭った。砂金の噂を聞いた者達が集まり始め、町は賑わった。

 ある時、山を探検していた子供たちがそこで見つけたきらきらと輝く石を持ち帰った。調べてみると、その石には珍しい鉱石がたくさん混じった宝の石だった。町の人々はそれをどこで見つけたか子供たちに問いただし、案内させた。子供たちが連れて行った山間の洞窟は、それらの輝く石で一杯だった。そこは金銀の鉱脈だったのだ。

 町は空前のゴールドラッシュに見舞われた。1年で人口は3倍になり、その翌年には10倍になった。そして、急激な人口の増加に伴って町も急速に変わっていった。
 のどかな田舎の町だったアンツベルンは最初荒くれの坑夫が闊歩する町に変わり、続いて貴金属細工の職人街となり、そして潤った金が飛び交う交易と賭博の街へと変貌した。そして、いつの間にかあの像は、中央部の高台に作られた神殿で悠然と町並みを見下ろすようになっていた。

 急速に発達したアンツベルンは、同時に急速に治安を悪化させていった。暴行、殺人、強盗、放火、詐欺、密輸、売春、ありとあらゆる犯罪が当たり前の顔をして街中を闊歩した。また、あの像を神の化身と崇める宗教団体も誕生していた。彼らは像に生け贄まで捧げていた。

 そしてある時、その像にまつわる噂が流れ始めた。あの像の中には、富を永遠に生み出し続ける魔法の秘術が隠されている。それを手に入れれば、この世の富は全てその1人のものだ、と。

 町中をあげて争いが起こった。欲に眼がくらんだのは悪党だけではなかった。若い母親は鉈を持ち、年老いた老婆も杖の先にナイフをくくりつけて争った。子供達すら短刀を腰だめに構えて大人たちを刺し殺した。そして、その争いの興奮が頂点に達したとき、突然、天の裂けるような音がして、ひとりでに像にヒビが入ったのだ。頭頂部からおびただしい死体が折り重なった足下まで、まるで落雷の如く。呆然と人々が見上げる前で、像は縦に真っ二つに裂けた。

 像から出てきたのは、金銀財宝でも、魔法の叡智でも、砂金混じりの湧き水でも、王国硬貨でもなかった。それは、人類が初めて遭遇したこの世界と異なる世界の権力者……『魔神』であった。

 アンツベルンに出現した魔神は、それ自体が認識の変異点だった。町の人々は気が狂い、愛する者を怒りで殴り倒し、糞尿に激しく食欲をもよおし、親は子を犯し殺した。全ての常識が覆り、感情が憤怒と暴食と色欲で塗り固められた。アンツベルンの住人全てが、人でありながら人を外れた魔の世界に飲み込まれた。そして。

 アンツベルンは『地獄に堕ちた』。

「……人の行き来がぱったりと途絶えたことを訝しがり、数日後に付近の住民がアンツベルンを訪れると、そこには何もなかった。あれほど栄えた町並みも、掘るだけ掘られた山間の坑道も、2万人の住民も、街道すら途中でぷっつりと途切れていた。まるでそこには最初から何もなかったかのように……大きな穴が……直径18kmにもわたる大穴が、広がっていた」

 フリージアは書棚から取り出した本の一冊をそこまで読み上げると、ようやく視線を上げた。本の表題は『アンツベルンの暗い穴』とある。アルスティナは思い出すように上方を見上げながら呟いた。

「確かその本、最初のお話の宿屋の主人の弟さんが書いたって事になってたわね」
「そうだ。遠くの街で同じように宿屋を経営し、手紙のやりとりも盛んだったからそれで当時の様子を知っていたようだ。ま、どこまでが実際にあったことで、どこからが想像かは意見が分かれるが」
「旅人の正体もわかっていないんだったっけ」
「ただの詐欺師とも、アーティファクトを作った魔術師とも、悪魔の化けた姿とも言われている。そして消えたアンツベルンの行き先も」
「事象の平面の下に沈んでまだ争いを続けているとも、意味分解されて可能性の海に溶けて消えたとも言われてたわ」
「だが、どんな研究者もある一点では共通の認識を持っている」

 フリージアはパタンと本を閉じて書棚に戻した。そしてくるりと振り返る。

「アンツベルンは多重認識変換により複合的な可能性飽和状態に陥り、『地獄堕ち(フォールダウン)』を起こした」
「フォールダウン……」

 空になったカップに新しいミルクを注ぎ、フリージアはテーブルに戻ってきた。そしてそのカップを掲げる。アルスティナの視線もそのカップに引き寄せられた。

「例え話をしよう。このカップに入ったミルクを可能性の海とする。海はこのままではただの可能性の坩堝で、形を結ぶことは無い」

 アルスティナがカップを見つめていると、「でも、こうすると……」とフリージアは空いた手でカップをつついた。触れたところに小さな魔法陣が一瞬浮かび上がり、すぐに湯気が立ち上り始める。

「だが、そこにエネルギー……この場合は熱を加えてやると、成分に変化が訪れる。結果……ほら、膜が出来た」

 カップがアルスティナの目前に下ろされた。確かにミルクの表面に、中の成分が固まった膜が薄く張っている。空いた手でフリージアはそれを指さした。

「これが……『世界』だ。私達の認識できる、ね」
「この、薄い膜が?」
「そう。とても弱く、柔らかく、あやふやだが、辛うじて平衡を保って沈まずにいる」

 続いて、フリージアはカップをその場に置くと先ほどの茶の入った袋を持ってきた。そこからスプーンを取り出し、ほんのちょっとだけ粉末を掬う。

「さて、世界は脆弱だが、そこそこ柔軟性があるから多少、何らかの可能性の重み……つまり魔法残留物が残ってもすぐには沈まない」

 「こんなふうに」と粉状の茶葉をふりかける。だが、説明の通りミルクの表面が揺れただけで、世界を表す膜は沈みはしなかった。緑の粉末は膜の上に乗って浮き続けている。「しかし……」とフリージアはスプーンその物を膜の上に持ってきて言った。

「あまりにも重い可能性が世界の一点に置かれたらどうなるか?」

 アルスティナは黙ってじっと見つめていたカップから目を上げ、友人と目線を合わせた。

「沈む?」
「世界ごとね」

 ちゃぷん。緑の粉も、ミルクの膜も、スプーンと一緒にカップの底に沈む。

「これがフォールダウンだ」

 アルスティナは、カップ内に広がったさざ波が行き来するのを見つめていた。それが波紋となり、さらに出来た泡が弾けて消えていくのを、微動だにせず見つめ続けた。
 やがて、ホットミルクが温くなり始める頃、ようやく口を開く。

「フォールダウンを人工的に起こそうとしている……それが魔王計画?」
「そうだ」
「でも、なんで?」

 眉を寄せ、アルスティナが悲壮な顔つきで尋ねる。それは信じるものの土台に初めてぐらつきを覚えた不安の表情であった。

「そんな顔をするな。また泣き虫アルに戻るつもりか?」
「でも……フォールダウンを起こせば、たくさんの人が」
「そう心配することも無いよ、アル」
「どうして?」
「フォールダウンを起こす為に、何も数万人も人間を必要としない方法も有るってことさ」

 「要は可能性飽和を起こせばいいんだ」と、フリージアは指先に光を灯し、秘数術の複雑な式を宙に描いていく。

「境界を越えるのに必要な可能圧を得るために必要な意識容量は膨大だ。人間なら、数万人規模になる。だけど、それも『あるもの』で簡単に代用できるのさ」
「それは何?」
「『悪魔』だよ」
「え?」
「『悪魔』を呼び寄せるんだ。何万、何億ものね」

 フリージアは説明した。悪魔は欲望の匂いに敏感だ。それは人間の欲望のみが悪魔を可能性の海からすくい上げ、この世界に蔓延らせるからだ。だから、その性質を利用する。無限に欲望を吐き出し、具現する魔術的機関を作成し、それを無人の場所に設置する。勿論、悪魔に持ち去られないように厳重に固定して。
 すると、悪魔達はその機関の吐き出す欲望の匂いにつられて集まりだす。具現化した世界の可能性を喰らって成長し、さらに悪魔を呼び寄せる。その速度は加速度的に速まっていき、あるところで臨界に達して認識の逆転現象が起こり、フォールダウンを引き起こす……。

「そのシステムは悪魔達の永久の餌場で、逃れられぬ牢獄で、その存在を保証する支配者だ。つまり……悪魔達の王、『魔王』って事だな」
「だから、魔王計画……でも、どうやって永久に欲望を発生させる機関を作るの? 今の技術じゃ、創造性を持つ人工精霊(オートマトン)プログラムすら作れないのに」
「悪魔の餌は人間の欲望だ。当然、人間を使う。1人の罪人を選び、加工してね」
「!?」

 アルスティナの顔色が変わった。だんっと床を蹴って思わず立ち上がる。

「私がみた計画書では、アレはほんの小さな……30cm位の箱だったよ!?」
「人間を永遠に生かし続け、欲望を発し続けるための部品とするには、その程度の大きさで十分ってことだ」
「なんて……こと」
「惨いと思うか? 生き残るために必死なだけだろう」

 アルスティナはうなだれてテーブルを見つめている。その肩がかすかに震えていた。フリージアはそれに情けを掛けることなく、「他に質問は」と突き放す。

「……どうして、フォールダウンを起こすと戦争を終わらせられるの?」
「アンツベルンの跡地に行ったことはあるか?」
「いえ……」
「そう。フォールダウンが起きると、その跡では霊素(エーテル)係数がほぼ0になる」
「というと?」
「つまり……その地では魔獣は生まれないし、竜も存在できない。そして、魔法も使うことは出来ない。遺失世界(ロスト・ワールド)になるんだ」
「魔法が、失われる!?」
「まずは座って、落ち着いてくれ」

 フリージアは混乱した表情のアルスティナにミルクを勧め、それに口を付けるのを待った。ほっと息を吐き出すのを待ち、静かにアルスティナに尋ねる。

「アル、君は魔王計画の『箱』をいくつ見た?」
「……3つだけど。あ、いえ、私が見たのは3と記載されていただけで……」
「あと4つはあるはずだ」
「なぜ?」
「それが必要最低数だからだ」

 計算によれば、最大規模のフォールダウンなら同時に7箇所で起こせば、世界中の霊素係数を0にすることができるのだと、フリージアは言う。

「7回のフォールダウンで、7つの地獄を創る。アルが関わった北極大陸に設置された奴は、おそらく第3の地獄『凍結地獄(コキュートス)』を創るためのものだろう」
「でも、そんなことをしたら世界は……!」
「そうだな。12大陸は7つ沈んで、5大陸となるだろうな。世界をやつらに100%明け渡すくらいならマシな取引だろう」
「それだけでなく、魔法が使えなくなったら……」
「変わらないよ、アル」

 「え?」とアルスティナは言葉を止めた。友人の言葉に、思いがけないやさしさが篭められていたからだ。

「人間は変わらないよ。魔法に代わる新しい技術を見つけるだけさ。それに、1000年前は魔法なんて無かったんだ。その頃まで、いったん戻るだけだよ」
「……」
「それに、何もかも無くなるって訳じゃない。起こった出来事、歴史、生まれたもの……それらの因果は世界の記憶……アカシック・レコードに記憶される。例え近衛軍大将アルスティナ=ブランシェが世界の可能性からこぼれ落ちたとしても、魔法のない世界で反復される現象として、例えば……どこかの国のアルスティナ姫とかになっているかもしれないな」
「いや、それはないでしょう」

 アルスティナはクスリと笑う。フリージアは何か言いたそうな顔をしたが、結局は「わからないぞ」と肩を竦めて言葉を隠した。

「でも、霊素が無くなると、私達の世界はどうなってしまうの? ここではこの世界は5次元だって教わったじゃない?」
「そうだな。縦横高さの3軸、時間軸、霊的高度軸の5つだ」
「さっきのミルクみたいに、平たくなってしまうの?」
「まさか」

 フリージアはアルスティナの素朴な疑問に吹き出した。

「例え霊的高度を失ってもそこが折り畳まれて認識できなくなるだけさ。広い布を捩ってロープにするところを想像してみればいい。布はもともと広さを持った2次元的な存在だけど、ロープになってしまえば前後に延びた1次元的なものになる。でも、布は布、その上の柄は変わらないだろ? 認識の範囲が変わるだけさ」
「でも、世界の果ては霊高度の壁になっている。そこが途切れたなら、世界は可能性の海に落ち込むんじゃないかしら」
「そうだな。霊的上下が無くなるから、多分壁自体失われて果てすら無くなり、3次元で完結するように内向きに閉じるのだろう。平面に広がっていた世界は、地面を外にした球形になるのだろうね」
「え? じゃあ下になった側の人は落っこちちゃうじゃない」
「この場合、球形の中心が世界にとっての『下』になるのさ」

 アルスティナは頭上に疑問符が浮いている表情で首を捻っている。フリージアは「まあ、その時になれば嫌でも理解できるさ」と軽く言った。
 しばらく球形の地上の様子を想像しようとしていたが、アルスティナはふぅと息を吐いて諦めたようだった。そして、先ほどのようにトーンの落ちた口調に戻る。

「でも……どうしてもフォールダウンを起こさないといけないのかな? 他の方法は無いの?」
「他に、と言うと皇竜に勝って戦争を終わらせるつもりか?」
「少なくとも、軍はそのつもりでいる」
「難攻不落の空中要塞と言われた天空都市アルティマが大戦開始後どれくらい持った? 3時間守れば避難完了できるはずだった天空航路を空軍は何時間守れた?」
「……」
「7分だ。7分で、たった1匹の皇竜に天空都市は落とされた。8000人の市民の命もろともに、海の藻屑となった」

 「諦めるんだな」とフリージアは首を振る。

「その皇竜は何匹いる? 確認した範囲で56匹だ。そして何処にいる?……奴らの支配領域、高度3万6000kmの彼方だ。どうやって戦う? 空に上がれば即座に奴らのブレスの餌食だ。未だ人間は5000mの高さにすら手が届いていない。皇竜の領域から見れば地面からノミが跳んだのと大した違いはない」
「地を這うしかなかった私達が、例え僅かとはいえ空を飛ぶ権利を取り戻した。それは大きな一歩ではない?」
「30年かけて、まだ一歩だぞ。たどり着くまで、どれだけの時間をかけるつもりだ」
「どれだけでも。諦めたらそこで終わりでしょう」
「時間をかければそれだけ、竜族だって強力になる」
「追いつけないなんて保証も無い」

 しばし、2人の魔術学園卒業生は睨み合う。ふ、と視線を緩め先に息を吐いたのは、意外にも語調の強かったフリージアの方だった。

「ふん……ま、今のが、だいたい王の腰巾着魔術師どのの理屈だろう」
「……あなた本人の意見は?」

 「なるようにしかならん」と、肩を竦めるフリージア。

「私はもともと表舞台に立つ器の人間じゃない。どうしようもないさ」
「本音を教えてよ」
「……ま、友人のよしみって奴だ」

 小さな魔女はニヤリと笑って頬杖をついた。友人に細めた眼で視線を送る。

「人間の欲望が竜達を生み出したように、その希望が竜をいつか討ち滅ぼす。そう、願っている……お互いの友情の為に、そういう事にしておこうか」

 その後、2人は庭園で最後の別れを済ませた。アルスティナはオールドゥージュの手の平に乗ってその操縦席に乗り込んだ。そしてそこから体を乗り出して地面を見下ろし、その友人は巨人の足下から数m下がって彼女を見上げている。魔女は帽子のつばを上げ、杖を左手に持ち替えて敬礼の真似事をした。巨人の翼がひるがえり、吹き付ける風にアルスティナの銀色の髪がはためく。

「あっ! そうだ!……ねえ! 聞き忘れたことがあった!」
「何だ!」
「あの本! リィズがあの先生……えっと、『道化師』って呼ばれてたヒトから受け継いだ本! どうなったんだっけ!?」

 アルスティナは脳裏にその時の光景を思い出しながら叫んだ。道化師裁判と呼ばれた弾劾劇。そして居なくなった魔術師。そして受け継がれた……。

「あの……黒い本!」

 見下ろす少女魔術師は初めて虚を突かれた様な顔をした。いきなり訪ねた時も余裕のある笑みで迎えたのに、急に夢が覚めてしまったと言わんばかりの顔つき。その表情を帽子に隠すように下を向き、少女は口を動かして何かを呟いた。

「え!? なに?」
「……無くなった!」
「どうして!?」
「実験に使って、消えてしまったんだよ!」
「……そうなんだ! ごめん、最後に変な事!」
「いい! 私たちの仲だ!」
「うん!」

 アルスティナは大きく手を振った。それにフリージアも振り返す。巨人の両翼のエーテル発光が強くなり、ふわりと巨体が浮いた。そのまま、グングンと高度を上げつつ後ろに離れていく。
 フリージアは、それを最後まで見送った。巨人が銀の光を引きながら体を捻り、背を向けて飛び去っていく姿を。最後まで。

「……無くなったんだよ」

 一人きりになり、庭園の真ん中で少女はぽつりと呟いた。

「無くなったんだよ……この学園と、生徒たち300人、一緒に……」

 がらーん、がらーん、がらーん……。
 時計塔からの鐘の音が響く。時の告げる音色に、停止したものたちが再び動き出したようだ。少女は、まるで何かを断ち切るように勢いよくバサリとマントを翻す。そして、もう二度と振り返らずに歩き出したのだった。

 そこは暗い空間だった。
 光が射さないわけではない。明かりが届くところの物の形は良く見えるのだ。石畳の床の、きっちり敷き詰められたその隙間が、すり減って角が丸くなっているのまで見て取れる。
 だが、光の無い場所が、全く見通せない。いや、光が無いのではない。恐らくは、逆。『闇』がこの空間を覆っているのだ。

 その暗い空間の中央に、郁太はいた。木製の安っぽい椅子に座らされ、手足を括られて身動きできずにいる。上方からはスポットライトの様にその部分だけ光が向けられていた。うなだれ、床の方に向けられた顔は前髪が垂れ、表情が陰に隠れて見えていない。

 その空間の前方……郁太の座る方向を基準として前方の闇に、亀裂が走った。すぅっと縦長のコの字に光の切れ目が入り、そしてその闇の扉を抜け、誰かがそこに入り込んできた。

 カツカツカツと靴底を床と弾けさせ、その人物は郁太の正面まで歩み寄る。すっとライトの範囲に入ったのは、あの魔女の格好の少女だった。

「……おとなしくしていたようだな、ボーヤ」

 少女は口元に笑いを浮かべながら言う。郁太の正面に、いつの間にかこちらは豪勢な肘掛け付きの椅子が現れ、そこに脚を組んで座る。

「と言っても、動こうとしても動けんか」

 楽しいだけの笑いではない。明らかに嘲りを込めた、目の前の少年に向けての挑発的な言動である。少女は肘掛けに肘を付き、その手に顎を乗せて斜めに郁太を見た。しかし、郁太はその体勢のまま顔すら上げずに沈黙を守る。静寂が2人の間を満たす。
 少女は「ふむ」と笑いを消すと、脚を解いて肘掛けに手をつき、立ち上がった。そしてどこからともなく杖を取り出すと、それを郁太の拘束された椅子の足の間に斜めに差し込み、ぐいと膝で蹴り上げる。

「あっ!」

 どだんと椅子ごと前のめりに倒され、したたかに顔を打った郁太はうめき声を上げた。ごろんと転がった顔の正面の椅子に、だんっと少女が片足を乗せる。

「何に縋ってるのか知らんが諦めるんだな、ボーヤ」

 郁太がきっと首を動かして少女を見上げた。髪が揺れて顔全体が露わになる。少年の左目……悪魔と契約した左目は、無くなっていた。今はぽかりと暗い穴が空いているだけ。残った右目で懸命に少女を睨みつける。その黒い瞳には、かつてフリージアと呼ばれていたブラックデザイアの正当継承者、エアリア=F=マクドゥガルが薄笑いを浮かべている様が映っていた。

「左目を抉られてまだその反骨心、たいしたものだ」
「……」
「よっぽど鈍感なのか? それとも楽観主義者? 道理を知らない阿呆か?」
「……」
「お前達はもう、負けたんだよ。さっさと本の、最後の1ページを出すんだ、ボーヤ」
「……」
「だんまりか? 別にラミアに隠し場所を覗かせてもいいんだが……」

 くるりと回転した杖の先が、ぴたっ、と郁太の頬に当てられた。ぐいっと押されて口が歪む。

「……どうやら私は潜在的にサディストのようだ。ボーヤ、是非ともお前の口から在処を聞きたいぞ」
「……るぞ……」

 少年は窮屈な姿勢で下から少女をにらみ続けながら、もごもごと何事か呟いた。ふん、と少女は鼻を鳴らす。

「なんだ? はっきり言え」
「……てるって、言ったんだ」
「もっと大きな声で」

 杖が離れた。郁太は大きく息を吸い込み、リクエスト通りに有らん限りの声で叫ぶ。

「パンツが見えてるって言ってるんだ!!!」

 そして、擬音すら聞こえてきそうな爽やかさでニコッと笑って見せた。その瞳に、椅子の上に片脚乗せて剥き出しになっている太腿の奥の、小さな白い布が鮮やかに映し出されていた。

「……」

 エアリアは無言で杖を持ち上げると、大きく振りかぶって郁太の向こう脛を力一杯殴りつける。

「ぎっ!!」

 食いしばった歯の間から悲鳴が漏れた。全身が硬直し、椅子ごとがたがたと床を這いずり回る。それを冷え切った眼で少女は見下ろしていた。

「うぐぅう……!」

 痛みに顔をしかめていると、動き回ったせいか郁太の上着の合わせ目から何かがばさりと落ちた。「あっ」と思わず声が出て、エアリアもそれに気が付く。

「何だ……? 聖書か?」
「そ、それは!」

 床に落ちたそれは、星漣学園の生徒達がミサで使用する聖書であった。慌てる郁太の前でエアリアはそれを拾い上げる。訝しがりながらそれを開き、中を確認する。そして、何かを見つけて本をめくる手がピタリと止まった。くっくっく……と笑い声が漏れ始める。

「……あの娘か?」
「くそっ! くそっ!」
「くっくっく……あはははははははっ!」

 エアリアは聖書に挟まっていた折り畳まれた紙片を手に、大声で笑い始めた。

「バカな娘だ! よかれと思ってボーヤに持たせたのだろうが……敵に捕まっている奴にみすみす渡すなんてね!」
「くそぉ……返せよっ!」
「あははははは!」

 エアリアは郁太の悔しそうな声に、いっそ優しささえ感じる余裕の笑みを見せてその紙片を広げた。

「ブラックデザイアの契約内容を私に知られないよう、捕まる瞬間にこのページだけこっちに写したのだろうが……バカが、これこそ私の望んだ鍵なんだよ」

 エアリアがその紙を郁太に見せびらかす。そこには、郁太と幎が契約した本の力の発動条件、存在優先権エリア、引き替えにした部位などの細かい情報がびっしりと書き込まれていた。
 勝ち誇った表情のエアリアは膝を曲げ、郁太に顔を寄せる。少年は憎々しげにそれを見上げた。

「良いことを教えてやろう。ボーヤの悪魔と、そのお供がこの世界にやってきている。お前を助けにな」
「僕の悪魔……」
「あの、眼帯のメイドだ」
「……眼帯……?」

 郁太の右目が、驚きに見開かれた。エアリアの顔をそのまま凝視し続ける。

「タイムリミットはこの世界の日が沈むまで……あと4時間といったところか。それまでにここまで来れれば良し、来られなければ二度とボーヤはあの本のことを思い出すことは無い」
「……」
「もっとも、来られたところで結局は地獄を見ることになるのだがな」
「……」
「そう、どうせなら間に合えばいい。ボーヤもあの悪魔の最期の姿を見れば、諦めもつくだろう?」

 にやにやと笑いながらエアリアは体を起こした。そして、杖を振る。見えない手に、郁太は椅子ごと引き起こされた。どんっと乱暴に元の位置に戻される。

「あと4時間だ。それまで気の利いた別れの言葉でも考えておくんだな、ボーヤ」

 エアリアはそう言い残すと、笑いながら再び闇の扉の向こうに消えた。郁太は、ただ黙ってそれを見つめていた。
 身動きもせず、瞬きもせず……ただじっとその後姿を見つめていたのだった。

< 続く >

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