BLACK DESIRE #21-1

0.

「草……薙……」

 飛び出してきた名前に、僕は絶句した。それは半ば忘れかけていた、そして忘れてはならない、僕が星漣学園に転校する切っ掛けを作った人物の名前だったからだ。

 約4ヶ月前、僕は親父の失踪を知って数年ぶりに高原家別邸に帰った。そして、そこで留守番電話の内容から僕の双子の妹、高原那由美の死を知り、初めて生きていた時の彼女の様子に興味を持ったのだ。
 その後、偶然にも人の心を支配する力を持った魔法の本「ブラック・デザイア」を拾った僕は、同じく偶然再会した幼なじみのハルが那由美の通っていた学校の同級生であった事を知った。その学校こそ、この国の女子にとっての最高峰の名門校、「星漣女学園」だった。
 そして僕は、黒い本の要求する魔力集めの舞台として星漣学園を選び、本の力を使う事でその学校へ転入した。全ては、ブラックデザイアを最終段階能力の発動へと導き、那由美を生き返らせるために。

 その、切っ掛けの電話。親父の失踪を僕に伝えた電話の主の名が、「草薙」だった。

 この男がその「草薙」? 僕の目の前で軽薄な笑いを浮かべ、ブラックのホットコーヒーを飲んでいる髭面の男が?
 いや、本当にその時の電話の「草薙」なのかどうかは問題ではないのだ。あの時の電話だって本名を名乗ったとは確定してないのだ。

 重要なのは、その名前が僕にとって意味がある事をこの男が知っているって事だ。それはつまり、僕に親父の失踪を告げた男が「草薙」と名乗った事を、この男は知っているという事実を示す。少なくとも、「草薙」――「親父」――「僕」のラインの繋がりを知っているのだ。

 それを知っているなら、親父が失踪する直前何をやっていたのか、それは那由美の死と関係があるのか、今親父はどうなっているのか、それを知っている可能性が有る。何者かに隠され、表に出てこない裏の真実を、この自称「夜の情報屋」は知っているのかもしれないのだ。

「あなたは……いったい……」

 呆然として僕は呟く。それに男は笑みを深くして飄々と答えた。

「言った通りさ。君の協力者の知り合いの、しがない情報提供者さ」

 そしてその男は、ピンと人差し指を僕と彼の顔の中間に立てた。

「納得できたかい? それなら質問を受け付けよう。まあ、納得しなくても受け付けるけどね。……ただし、質問は1つだけだ。それが約束なんでね」
「……どんな事でも、答えてくれるんですか?」
「私の知る限りでね」
「あなた自身に関わる事でも?」
「約束は約束だ。ただし……」

 男は片目を瞑り、人差し指をチッチッチと左右に振った。

「……情報の真偽や、その価値は君自身で決めるんだ」
「……」

 僕は沈黙し、目の前に置かれたアイスコーヒーのグラスを睨みつけた。
 この男に聞きたい事は山ほど有る。全てはこの男から始まったのだ。もし、黒い本の力が使えたなら何としても全て聞き出したい。
 だが、こいつはあの黒猫の知り合いでもある。僕の本の能力ぐらい熟知しているのではないか? それに、その黒猫は哉潟姉妹の力は夜の社会では有名だとも言っていた。僕に1人で来させたのも、彼女たちの力を使わせない狙いだったのかもしれない。

 この場では、僕からは手出しができない。やれる事は、1つ質問をぶつけるだけ。ならば、何を聞く? 僕の望みは何だ?

 決まっている。那由美の死の真相を暴くのだ。
 那由美を、僕の妹を死に至らしめた原因を、犯人を突き止め、そして……それに相応しい贖罪をさせてやる。那由美が失った全ての復讐を、僕が喪った半身の償いを、必ずさせてやるのだ。
 それこそが僕の望み。僕の行動原理。僕を生かす……「黒い欲望(ブラック・デザイア)」。

「……では、教えて下さい」

 僕はグラスから目を上げ、草薙と名乗った男の目を正面から捉えた。

「……星漣学園生徒会長、安芸島宮子の抱える秘密を」

 ……だからこそ、今は聞かない。
 那由美を「生き返らせる」為に黒い本を使い続ければ、あいつの死の真相は否が応でも僕の前に立ち塞がるはずだ。それは決定的事項といってもいい。僕が那由美を生き返らせることを諦める事が無い以上、それは必然なのだ。
 だから、今この瞬間にわざわざショートカットする選択を行う必要も無い。僕はただ、星漣学園の支配体制を整えながら魔力を回収し、その真相が運命のようにぶち当たってくるのを待ちかまえるだけだ。その為にも、今は宮子の心を動かすかもしれない彼女の機密情報の方を優先すべきなのだ。

 草薙は僕の決心に「ほう」と感心したような呟きを口にする。指を引っ込め、コーヒーを横に退かして少しだけ前に身体を倒した。

「安芸島家の長女、宮子の昼社会に出ていない情報を、私の知る限り郁太君に教える。それでいいんだね?」
「はい。お願いします、草薙さん」

 僕はテーブルに両手をついて頭を下げた。必要なら、いくらでもこれぐらいやってやるさ。僕のつまらないプライド1つで誰も知り得ない宮子の秘密が手に入るなら安いもんだ。

「ああ、顔は上げていいよ、郁太君。私は約束通り君の質問1つに答えるだけなんだからね」
「はい」
「まあ、納得できたようで何よりだ」

 僕が目線を上げると、草薙の顔には満足そうな、しかしどことなく照れ臭そうな初めて見せる表情が浮かんでいた。彼と同じく、アイスコーヒーを横に退かして居住まいを正す。

「では、お願いします」
「ああ、話そう。安芸島宮子の秘密……4年前の春に起きた、ある事件を、ね……」

 グラスの中の氷が溶け崩れ、カランと澄んだ音を奏でた。

BLACK DESIRE

#21 「A CLOCKWORK GIRL 4」

1.

 安芸島宮子について語る前に、その前提としてまず、何故私のような「夜」の関係者が彼女の情報を保有しているのか、それを説明しておこう。これを知ってもらうのは、以降の情報の確度を郁太君が判断する材料になるからね。

 一般的に――あ、夜の世界の常識って事でだよ?――一般的に言って、普通ではない「特異な能力」の持ち主は、その能力自体が呼び水となるのか、その他の「特異な何か」を引き寄せる事が多い。或いは、その「特異な何か」のせいで「能力」の方が目覚めるのか……。まあ、因果関係はさておき、そういう経験則から、夜に生きる者達は「特異な事件」の関係者や「特異な外見」の持ち主には殊更に注目する。その人物は、もしかしたら自分たちの属する世界に影響する存在かもしれないからね。

 安芸島宮子、彼女の場合は……まずはその血筋が問題だ。もちろん、安芸島家と言ったら名門だけど、そっちじゃない。彼女の祖母から受け継いだ魔女の血筋の方だ。
 最初から話していこう。日本の安芸島家と、アメリカに移民したマクドゥガル家、2つの血がどのように混ざっていったのか。

 事の始まりは、彼女の祖父……安芸島徳造(あきしまとくぞう)の青年時代からだ。太平洋戦争中、海軍に属していた彼は艦上戦闘機乗りとして活躍していた。だが、ある洋上の戦いで被弾した彼の戦闘機は海の上に着水し、味方に救出されないまま漂流することとなる。
 その時、彼を救ったのが同じように漂流していたアメリカ海軍の若いパイロットだった。そのパイロットは、空中戦で脚に被弾し衰弱していた徳造を、自分のしがみついていた漂流物へと引き上げたんだ。

 何故、彼が徳造を助けたのかはわからない。たった1人で漂流するのが怖かったのかもな。そのパイロットも負傷していて、しかも彼の場合は胴体をやられていた。きつく巻いた腹部の当て布の下から血がじわじわと流れ続け、時間と共に血の気を失い、彼の容態は徳造よりも悪くなっていった。
 そして、夜が来て、1夜を2人の負傷兵は共に声を掛け合いながら板切れにしがみついたまま過ごし……そして、夜が明けたとき、徳造の反対側には誰もいなかった。そのアメリカパイロットは朝日を見ぬまま、力つきて海中に沈んでしまったんだ。

 幸運にも、その日の午後に徳造は味方の駆逐艦に発見され、救助された。徳造はアメリカ軍パイロットからいくつかの遺品を手渡されていたが、彼が救護室で意識を失っている間にそれらの物はほとんど取り上げられていた。彼の認識票もね。
 だけど、彼が飛行機から脱出する際にほとんどの荷物を失っていた事が変な風に幸運に働いた。同じように救助されていた彼の同僚の一人が、徳造がアメリカ兵から預かった遺品の1つの懐中時計を、彼自身の持っていた懐中時計と誤解して残してくれていたんだ。徳造はそれをいつか彼の家族へと帰そうと、真実を心の中に閉まったままにした。

 傷痍軍人となった徳造は日本に帰り、療養する内に終戦を迎えた。運が良かったのか、何とか脚は失わずにすみ、杖が有れば介助無しに1人で歩ける程度には回復した。しかし、彼の実家、安芸島家が敗戦で受けたダメージの方は徳造の脚よりも深刻で、彼は脚を引きずりながら当主である彼の父と共に全国を駆け回った。
 そうやって嫁も取らずに忙しくする内に10年近い月日が経過した。彼の弟も結婚し、長男も産まれた。もしもこの先徳造が死んでも、きっと弟とその息子が安芸島家を継いでくれるだろう。そういう安心が芽生え、戦後初めて徳造の心に余裕が生まれた。そしてふと、あの懐中時計の事を思い出したんだ。

 徳造は自分の命を救ったアメリカ人パイロットの家族の事を考えた。もちろん、あれから10年近い月日が経ちその家族も今の徳造と同じく新しい人生を歩んでいる事だろう。しかし、そのパイロットが徳造という日本人を最期の瞬間に救った事を、そしてそれに心底徳造が感謝している事を伝えたい。彼はそう思い立ち、手を尽くしてそのアメリカ人の家族を捜し始めた。
 やがて、徳造は彼の婚約者だった女性の存在を突き止める。遺品の懐中時計は、彼女が戦地に赴くパイロットに贈った物だった。徳造が時計を返したい旨を手紙で書くと、驚いた事にその女性は日本に来て、徳造に会いたいと返事を寄越した。

 そしてその半年後、安芸島家を2人のアメリカ人女性が訪れた。1人は、ミーヤ=マクドゥガル。徳造を助けたパイロットの婚約者であった女性だ。そしてもう1人はミーヤの妹のエヴァ。2人は徳造に歓待を受けた。そしてミーヤは遺品である懐中時計を徳造から受け取り、パイロットだった彼女の恋人の最期の様子を聞いた。こうして、安芸島家とマクドゥガル家は接点を持ったのさ。

 姉妹は1週間ほどで自分の国へ帰ったが、徳造は2人の事を忘れられなかった。特に、婚約者の末期(まつご)の話を聞きながら嗚咽もあげず、まっすぐに背筋を伸ばしたまま静かに涙を流したミーヤの芯の通った美しさに、彼の心は虜になっていた。
 とうとう彼は1年後、自らアメリカに渡るとミーヤを訪ねた。もしもその時既に彼女に夫がいたら、潔く諦めようと決心して様子を見に行ったんだ。
 しかし、ミーヤはまだ独り身で、そしてまるで予想していたかのように徳造の急な来訪を暖かく迎えた。徳造はもう自分の心を抑えきれず、その場でミーヤに求婚した。それを、彼女は「初めてお会いしたときから、何となくこうなる運命であると感じていました」とプロポーズを承知した。

 徳造はミーヤを日本に連れ帰ったが、当主である父は2人の結婚を認めなかった。ミーヤを安芸島家の離れに住ませ、徳造は辛抱強く説得したが遂にそれは叶わなかった。5年の月日が流れ、徳造の父が病気で亡くなると、新しい当主となった徳造は亡き父に詫びつつも自分の想いを通した。ミーヤと祝言を挙げ、夫婦となったんだ。

 最初は異邦人の血、しかもかつて敵だった国の人間に家族も使用人も良い顔はしなかった。だが、ミーヤは献身的に働き、いじらしいぐらいきめ細やかに安芸島家に認められようと努力した。やがてミーヤへの敵愾心はすっかり安芸島家の中から消え、皆に親しみを込めて屋敷の者達から彼女は「おミヤさま」と呼ばれ愛されるようになった。
 そして、徳造とミーヤの幸福は2人の間に長女、「宮乃」が生まれたことで絶頂を迎える。「宮」の字は母親の「おミヤさま」から音を貰って付けられた。2人は宮乃を玉のように可愛がった。

 しかし、その幸福は長く続かなかった。徳造が原因不明の病気で床に伏せたのを機に、ミーヤの方も風邪をこじらせて重い肺炎を患った。そして、2人は幼い宮乃を残し、相次いでこの世を去ってしまった。

 ここまでで、先々代の当主である安芸島徳造の話は終わりだ。お話は次の代に移るよ。

 徳造の死後、安芸島家の当主の座は弟の泰造(たいぞう)が継いだ。泰造は兄と違い若いうちに結婚し、既に子供も産まれていた。長男の泰平(たいへい)は不幸にも幼い頃に病で亡くしていたが、次男の浩平(こうへい)はすくすくと健康に育った。ここからは、この浩平を中心に話を進めよう。

 浩平は物心付いた頃から常に、安芸島家の敷地内にある離れには近づかないように言い含められていた。理由はまったく教わらなかったが、きちんと躾られていた浩平はその言いつけをしっかりと守り続けた。

 浩平がその離れに人が住んでいる事に気が付いたのは、ほんの些細なことであったらしい。使用人の1人に用事を言い付けようとしたところ、その離れに食事を持って行くところを目撃したようだね。そして、自分の家の敷地にまったく見知らぬ人物が居ることに興味を覚えた彼は、初めて父の言い付けを破ってその離れの様子をうかがった。
 そこに居たのは、1人の少女だった。日本人離れした異質な美しさの同年代の娘が、そこではひっそりと暮らしていたのだ。それは、成長した徳造とミーヤの娘、宮乃だった。両親を喪った宮乃は安芸島家の離れで、半ば幽閉されたように生きていた。

 実は、浩平の若い頃、ミーヤ=マクドゥガルは安芸島家の一部の者達には家に「災い」を持ち込んだ「魔女」と中傷されていた。何しろ自分自身も含め夫の徳造、甥の泰平と次々と3人も病で死んでいたからね。そのため、娘の宮乃も「魔女の娘」として隔離されていたんだ。
 その事をミーヤや宮乃に同情的な使用人から聞き出した浩平は憤った。そして、この不幸な娘を離れからいつか連れ出す事を決意する。まず、浩平は宮乃に安芸島家の血筋の者として恥ずかしくない教育を施すことにした。足繁く離れに通い、文字も読めなかった宮乃に自分の使い古した図書を与え、自ら教師となって様々な事を教えた。また、国内の情勢や彼女の母親の国の様子を教育し、さらに名門家の娘として社会に進出できるよう、あらゆる世情を毎日伝え、世間への興味を失わせないようにした。彼女が成長した暁には胸を張って安芸島家から出ていけるようにするための配慮だった。

 そうやってミーヤに恩のある使用人にも手伝ってもらい、2人の関係は何年も続いた。だが、やがて当初の浩平の思惑とは違う方にその想いは流れ始めた。いや、従姉弟と言ってもお互いの幼少時を全く知らない若い2人の男女のことだから、最初は不遇への同情や不条理への怒りから始まった間柄も、やがて愛情へと発展していったのは仕方がない事だったろう。
 だが、浩平には父親の決めた許嫁が居たし、それに何より宮乃は従姉であり「魔女の娘」と暗い噂の付きまとう存在である。それでも、浩平は父を説得し、それが失敗したなら駆け落ちすら辞さない心積もりを持つまでになっていた。が、その考えを決行する前に、宮乃は安芸島家から姿を消した。暇を貰った使用人の1人とその故郷に行き、そこでその地の地主の息子の元に嫁ぐ事が決まったのだと、父から聞かされた。
 浩平はそこに当主の介入が有った事を感じたが、宮乃がその話を飲んだなら仕方ないと、泣く泣くその話を受け入れた。そして浩平は父の決めたとおり、半ば失意の中で許嫁と結婚した。

 浩平と妻の間には2人の息子が産まれたが、それでも浩平は宮乃のことを気にかけ続けた。しかし妻や幼い息子達の手前、自制して人づてに様子を聞く程度で宮乃と直接会うことはできなかった。それもせいぜいまだ苦労しながら生きていること、結局嫁ぎ先が有るというのは嘘で、今も独り身である事などを途切れ途切れに聞くだけで、その話を聞く度に浩平の心は揺れ動いた。
 三男が産まれ、産後の肥立ちが悪く妻を若くして亡くすと、浩平は悲しみの中、ますます独りぼっちの宮乃の事を強く想うようになった。その想いは宮乃に個人授業を行っていた時の様な淡いものでは無く、彼女と所帯を持ち幸せにしてやりたいと願う、男としての形のあるはっきりとした願いになっていた。

 その数年後、浩平は父、泰造が病に倒れるとこっそりと宮乃の消息を人を使って調べさせた。そして、泰造の死を切っ掛けに当主を受け継ぐと、宮乃を自ら迎えに出向いた。
 安芸島家離れでの邂逅から20年以上の月日が流れていたが、浩平の眼に映る宮乃はその時と変わらず美しいままだった。そして浩平は、かつて宮乃の父がしたように彼女にその場でプロポーズした。それを、宮乃は「いつかこんな日が来ることを、ずっと夢見ていました」と、受け入れた。

 こうして、宮乃は浩平の20年前の誓い通り、粗末な離れから連れ出されて安芸島家の正式な妻となった。様々な反対は有ったが、浩平はそれを全て退けた。そして、マクドゥガルの血を引く女らしく、2人の間には女の子が産まれた。その娘に2人は、宮乃から1字もらって「宮子」と名付けた。

 これが、安芸島宮子の血統、安芸島家の当主の娘でありながらマクドゥガル家の長女の血筋を引く理由だ。これで、彼女がマクドゥガルの正統後継者である事が理解できたと思う。言うまでもなく、これは「夜の社会」が注目するに値する「特異な血筋」の条件に当てはまる。

 さて、安芸島宮子にはさらに「特異」な物がある。それは郁太君も気が付いているだろうけど、彼女の眼だ。人工の光の下では灰色にしか見えない彼女の瞳は、陽光の元ではうっすらと緑に色付いて見える。そして、月明かりや夕陽の照り返しを受けると、さらにはっきりとグリーンに光って見えるんだ。月や夕陽は魔的な物に力を与える妖光だからね。彼女の中の魔女としての性質が、その瞳に映って見えているんだ。

 これで、「血筋」と「外見」。2つの「特異性」が安芸島宮子に揃った。ただし、2つまでならまだ偶然の範疇だ。だけど、もう1つ、何かの「特異」が揃えばそれは必然だ。安芸島宮子が「特異な能力を持つ夜の住人」である確証となる。

 これで漸く本題に入ることができるね。
 そう、4年半前に彼女に襲いかかった3つ目の「特異」。私達が彼女が「能力持ち」であると確信し、注目することになった、ある「特異な事件」について語る用意が出来た。彼女の生い立ちはそれを語る前提条件でも有ったのさ。

「コーヒー、嫌いだったかい?」

 草薙はそう言うと脇に退かしてあるグラスを指さした。手を付けないまま放置していたため、溶けた氷水が上澄みのように透明な層を作っている。グラス表面にかいた汗のせいでコースターはびしょびしょだった。

「別に、僕はブラック苦手ですから」

 僕はそれに手を伸ばし、ストローでかき混ぜて酷く薄まったアイスコーヒーを口に寄せ、無理矢理喉に流し込んだ。シロップも貰えばよかったのだが、今更だ。

「お代わり、いる?」
「お構いなく」
「そうかい。僕は貰うよ」

 眉をしかめたままグラスを戻す僕を見て、草薙はニヤリと笑った。マスター、と声をかけて追加を注文する。

「待っている間、少し整理しておくかい?」
「……1人でやります」
「じゃ、私は黙っておくよ」
「そうして下さい」

 気を利かせたのか、草薙は壁のフックからハンチング帽を取ると目深に被って視線を隠した。僕も俯き、頭の中で先ほど語られた宮子の出生までの物語を再度思い描く。

 宮子の祖母、ミーヤ=マクドゥガル。そして宮子の母、安芸島宮乃。2人に共通するのは、およそ一途なんて言葉では言い尽くす事の出来ない情の深さだ。ミーヤは10年前に死んだ婚約者の遺品を受け取るためにわざわざ日本まで出向き、そして安芸島徳造のプロポーズを受けた後は実際に婚姻するまで5年も不慣れな日本で待ち続けた。宮乃にいたっては20年前の約束のために浩平が家庭を持った後も独り身を続け、前妻の死後ようやく念願の妻となっている。ある種、執念のような物すら感じてしまう。

 そして、同時にそれだけの期間安芸島家の男達を捕らえ続けた彼女たちの底知れない魅力に背筋がゾッとする。いったい何がそれほどまでに徳造、浩平の2人の地位も学もある男達を魅了し続けたのだろう。それこそ、「魔性」と呼ばれてもおかしくない女達だ。

 その、一度心に決めた男の魂を捕らえたら絶対に放さない、彼女達の魅了の力は宮子にも引き継がれているのだろうか。確かに宮子には、彼女たちのようなどんな苦難にも堪え忍ぶことのできる芯の強さは有るように感じている。だが僕はまだ、宮子の内に何十年越しに想いを成就させるような情の深さと熱さが潜んでいるのかどうか知らない。いつかそれを知る機会が得られるのだろうか。

 そしてそんな宮子の受け継いだ心の「強さ」は、果たして僕にとって不利となるのか、それとも有利な条件となるのか? 僕にはまだ判断がつかなかった。

 いつの間にか、テーブルの上にはお代わりしたコーヒーが置かれていた。草薙は帽子を取ると、再び壁際にそれをかける。そしてブラックのコーヒーをそのまま口に運んだ。

「さて、もういいかな?」
「……ええ」

 草薙は満足そうに頷くと、コーヒーを横に置いた。僕も語られる内容を一言も聞き漏らすまいと少し身体を乗り出して耳を傾ける。静かに、口元を歪ませたまま男は語った。

「では、いよいよ安芸島宮子を巻き込んだ『事件』について話そうか――」

2.

 まずはその「事件」の正体を明かしてしまおう。
 安芸島宮子が巻き込まれた「事件」というのは、彼女を標的とした「拉致・監禁」事件、及びそれに関連して起きた「殺人」事件だ。
 驚いたね? まあ、「特異な事件」と言う割にはドラマなんかで良く聞く血生臭い罪状だから予想できなかっただろう?

 まずは、当時の安芸島家の家族構成を復習しておこうか。当主は先ほども言った通り、現在と変わらず安芸島浩平。ちなみに浩平の妻、宮乃はもうその時には亡くなっていた。マクドゥガルの血を引く女性はどうも短命な血筋のようだね。
 その息子達は3人いる。いや、いた、か。長男の継夫(つぐお)、当時31歳。次男、浩二(こうじ)、当時29歳。そして歳の離れた三男、芳彦(よしひこ)、当時19歳。亡くなったのはこの三男で、死亡原因は薬物の過剰摂取が原因のショックによる心不全だ。ちなみにその3人は浩平の前妻の息子で、再婚後に生まれた安芸島宮子とは腹違いの兄って事になる。

 さて、事件の背後関係を説明しよう。
 事件を起こしたのは安芸島家本家の存在する地域でちょいとは名の知れた不良青少年のグループのメンバーで、地元の暴力団とも繋がりのあった奴らだ。単なる騒乱・暴行・恐喝行為の常習犯で有るばかりでなく、薬……まあ、麻薬の売人もやるような悪質なグループでね。地元の警察も手を焼いていた。
 このグループの一員の数人と、安芸島芳彦は知り合いだった。いや、顔を知っていた程度の仲じゃない。実はね、芳彦は一時行状が荒れ、不良少年達のチームに所属していた時期があったんだ。

 安芸島家の男子の躾や教育がものすごく厳しいのは知っているかい? そう、1番が取れなければ意味が無い、1番の取れない奴には価値が無いとまで言って恐ろしくスパルタな教育を行っているんだ。もちろん、それに着いていける才能があると信じての事なんだろうけどね。
 その教育方針に長男と次男はなんとか適合し、安芸島家の男子として文句のない成果を出した。しかし、三男はどうにもその家風に馴染めなかったようでね。ズルズルと転落していき、あっという間に素行が悪くなった。そうして、不良少年達とつきあうようになったのさ。

 しかし、それでも芳彦は腐っても安芸島家の男子だったようだ。成人を前に、これではいけないと思ったのかグループから脱退、つまり足抜けしようとしたんだ。だけど、そうは問屋が卸さないのが彼らの背後にいる麻薬密売組織だ。
 芳彦は頭は悪くなかったからグループの中でもそれなりの地位にいて、その組織にとって不味いことに薬の売買に関わる金の流れもある程度承知していたんだな。足抜けのついでにそれを警察にタレコまれるんじゃないかと疑いを持たれるくらいにはね。
 しかし芳彦も馬鹿じゃない。そういった危険な情報を知っている自分が簡単にグループを離れられるとは思っていなかったから、巧みに身を隠して追撃をかわし続けた。

 事件は、余りにも姿を現さない芳彦に業を煮やし、強引な手を使ってでも事態を収拾しようとした組織の思惑によって起こった。
 彼らは芳彦の弱点を突くことにした。家の迷惑者として安芸島家から半ば勘当扱いされていた彼も、腹違いの妹は可愛がっていた。それに目を付け、その妹……安芸島宮子を拉致し、芳彦を釣り出そうとしたんだ。
 地元の不良少年グループの連絡網を使い、上手く安芸島宮子の同級生を使って彼女を誘いだした彼らは、まんまと拉致に成功した。そして、お決まり通りの「もしも警察に知らせたら、お前の妹は無事には済まないぞ」の伝言で芳彦を引きずり出した。

 後はもう、芳彦君の若者らしい無謀と正義感、不良少年達の想像力の欠如した暴走のぐちゃぐちゃなぶつかり合いだ。がんとしてこれ以上の犯罪行為への荷担を了承しない芳彦に対し、少年グループの一人が脅しのつもりで粗悪な薬物を持ち出し、誤って大量に彼に注射した。そのショック症状で芳彦は意識を失い、自分たちのやった事に恐れをなしたグループの少年達は、捕らえた安芸島宮子と椅子に縛り付けたままぐったりと弛緩した芳彦を残し、遁走した。

 そして、その1時間後、何とか自力で拘束から逃れた安芸島宮子は実家へと電話し、自分の無事と……芳彦の死を連絡した。彼女は、目の前で自分を助けにきた兄の命の炎が消えていくのを、拘束されたまま何もできず、ずっと見ていたんだよ――

「――そして、この事件は家族の不祥事を隠す為に、安芸島家の力によって一切の詳細が明らかにならぬまま葬り去られた。グループの悪事は暴かれなかったし、麻薬組織はそのまま放置だ。一人の若者の命が奪われたにしては余りにも無為な結末だ。ただ、家の中での芳彦の評価は大きく変わっていた。放蕩者だったが、最期には愛する妹と家を守るために正義の道を貫いて命を落とした勇敢な安芸島の男子……そう、見直されたんだな。ま、それだけは救いと言えるかもしれないな」

 ふう、と息を吐いて草薙は言葉を止めた。そのまましばらく、自分の語った事件の物語の余韻に浸るように、じっと目線をテーブルに向けたまま動かない。
 僕はただ、圧倒されるばかりだった。まさか、宮子にそんな過去が有ったなんて。兄の死を、他者の無責任な悪意によって見せつけられるなんて悲惨な出来事を経験していたとは。何とも気が滅入る。これ以上宮子の過去を詮索するのが億劫になってきた。

「それが原因なんですか? 安芸島さんが修道院に入りたがったのって?」
「そうなんじゃないか? まあ、愛娘の一生を神様に捧げるつもりは当主の浩平に無かったから、必死に説得したみたいだけど。地元でも人の口に戸は立てられずで居づらくなったから、転校すること自体は賛成だったようだね」

 ここから先の話は今日冬月から聞いた話と符合するな。一応草薙に質問して確認したけど、その後宮子が冬月の家に居候して星漣の中等部に編入する流れは同じだった。
 となると、あと宮子について聞いておきたいことは、今現在の事だ。

「ところで、草薙さんのような情報関係者は、安芸島さんがどんな『特異な能力』を持っているのか知ってるんですか?」
「だいたいはね。これは郁太君の方が詳しいのかも知れないが……彼女、『自分の選択で変化する未来の予知』ができるのだろう?」
「……まあ、そんな感じらしいです。安芸島さんは、いつからその能力を使えるようになったのか分かりますか?」
「さあ? 私の情報はあくまで調査の結果だから、本人が何時からその能力に目覚め、いつから活用しだしたかまでは客観的にしか知りようが無い。もっとも……」

 草薙は顎髭を擦り、少し首を捻りながら言葉を続けた。

「兄を喪うような悲しい事件を予知できていたのなら、回避していたと思うけどね」
「じゃあ、その事件の後で安芸島さんは予知能力に目覚めたと?」
「恐らくは、ね」

 僕もそうなのだろうと思う。その後を見ても、地元で噂が立ち、住み慣れた土地を離れて転校せざるを得なくなって、宮子には何の得も無い。事件の衝撃が彼女の眠っていた才能を引き出したと考えるのが自然だろう。

「安芸島さんのような力は、珍しいものなんですか?」
「かなりね。私が知っている限りでも10人も存在しない。そして安芸島宮子の様に自分の選択次第で変化する未来を覗くことができるような、リアルタイムで鮮明な予知能力は他に類を見ないくらい強力なものだ」
「そうなんですか……」

 草薙の答えに、僕はふと不安を感じた。強力な力はそれ自体、争いの火種になる可能性が有るのではないか?

「変な事を聞きますけど、安芸島さんのその力を狙うような奴は居ないんですか?」
「その心配は無いよ」
「どうして言い切れるんですか?」
「君達が『昼の側』にいる内は、『夜の住人』は手出しをしない。それがルールだからさ」

 任侠モノでヤクザがカタギに手を出さないのを掟とするように、草薙の所属する「夜」の者達もそれを知らぬ普通の人間に危害を加える事を御法度とする、厳しい約束事が存在するらしい。

「月の無い闇夜の海に漕ぎ出した1人乗りのボートを想像してみて欲しい。『夜』の奴らは、そのボートから陸の摩天楼のネオンを眩しげに見つめる漂流者さ。孤独だから、同じ境遇の者達で寄り集まって必死に波風に耐えようとする。だけど、そこがどれだけ辛い場所か知っているから、陸からわざわざ漕ぎ出そうとする者以外、無理に引きずり込もうなんて輩がいたら全員でそれを排除する。明かりを灯す者が居なくなれば、本当に私たちは往くべき方向すら分からなくなってしまうのだからね」

 草薙はしみじみ述懐するように言い、そしてふと思い出したように「今のはサービスだね」と笑った。僕はそれに頷く。
 今の話は、僕にも思い当たるところがあった。以前から幎が悪魔として契約を重んじる内容の話を何度もしている。あれほどの力を持つ悪魔にとってすら、自分が存在する領分を守るのが精一杯でその約束を違えば消滅の危機に会うのだ。能力を持つ者は個としては強靱かもしれないが、社会的に見れば弱者なのだ。

「そういう訳で、安芸島宮子を捕らえて能力を自分のために使わせたり、その力自体を得ようなんて者は『夜』の側にはいないと思うね」
「なるほど……」
「……さて、少しサービスしてしまった事だし、質問はここまでにさせて貰ってもいいかな?」

 草薙はそう言うと、僕の返事も待たずに帽子を手に取った。テーブルに手をついて立ち上がったので、僕も慌ててそれに続こうとする。しかし、草薙はそれを「そのまま、そのまま」と笑いながら制した。

「私と郁太君のこれからの良き関係の為に、ちょっとだけお土産をあげよう」

 そして、草薙はするりとテーブル脇を抜けると僕の後ろの席に背中合わせにどっかと座り込んだ。

「ここから先は、私の独り言だ。独り言なんで、郁太君が何を言おうと私は気にしない。ただ好きに喋るだけさ。その代わり、たまたま郁太君が耳にした事をどう思おうがそれも好きにすればいい」
「……じゃあ、僕も今から独り言を言います」

 何となく言いたい事は分かったのでそう答えておく。背後で頷く気配があった。

「今から数ヶ月前、郁太君の父親にあたる男は、ある事件を調査していた。人が何十人も残酷な目にあって死んだ恐ろしい事件だ。その事件の関係者も広範囲で、富豪、宗教家、学校法人、医師……様々な人間が入り乱れて関わっていた」
「……そんな大それた事件、聞いたことが無いですよ」
「事件は大部分が『夜』の側で起きていたからね。昼社会ではその上澄み程度しか明らかになっていないさ」

 僕は振り返りたいのを我慢し、ため息を付いた。

「ずいぶんその『夜』って便利な単語ですね。本当にそんな大事件が詳細不明のままなんて事、有るんでしょうか」
「仕方がない、夢みたいな話だからね。だからこそ、夢は『夜』にだけ見られるべきなんだよ」

 答えになっていない気がする。だが、独り言に質問していいものか迷っている内に草薙は話を進めていた。

「さて、その中でも特に学校法人に関してはガードが固くてね。彼は、その調査のためにパートナーを必要としたのさ。その学校の中で起きた、『事件に関係する出来事』を調査するためにね」
「……学校……?」

 僕は草薙の話をオウム返しに呟いた。その学校ってのは、もしかして……。

「固有名詞は出せないよ、私の商売ネタだからね」
「……」
「だけど、もしもこの話を聞いて、神の如き俯瞰視線と、公正な情報価値の判断力の持ち主ならば、いったい彼とそのパートナーに何が起きたのか推察することはできるかもしれない。あるいは、まだ情報不足でそれは不可能なのかも知れない」

 後ろで椅子を引き、男は立ち上がった。

「……それも、全て情報を受け取る側の判断と、責任で決めることだ。さて、お土産としてはこれで十分かな」

 すっと、不意に蝋燭の火が消えるように背後の気配が消えた。慌てて身体を捻って後ろを見ても、そこにはもう、空白の椅子とテーブルが残るのみで何処にも人影は無い。あっと言う間の事で、声をかける暇すら無い。
 ただ、この店の重そうなドアが、名残惜しげに閉まりかけていただけだった。後には、呆然とその扉を見つめる僕と、相変わらずカウンターの中で黙々と瓶を磨いている初老のマスターが残されたのだった。

< 続く >

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