BLACK DESIRE #22-1

0.

 ごろんごろん、ごろんごろごろ、ごろろんごろん。

 頭の中を、ボウリングの球ぐらいの黒い鉄球が転がっている。僕の脳内は酷く整備不良で、山奥の国道ぐらいに凸凹の石くれだらけで鉄球はドカンボコンと跳ね回って頭蓋をめちゃめちゃにしようとしている。
 忌々しいことにその鉄の玉にはどこかで見た黒猫が曲芸のように乗っていて、ちょこちょことコントロールして前後左右に動かしているのだ。
 「やめてくれ」と声を出すが、それは頭の外に響くのみで頭蓋骨の中の黒猫はどこ吹く風だ。僕は頭をがっしと掴み、その中から黒い玉ごと猫を弾き出そうと無茶苦茶に振り回すが、内側から鉄球の衝突を受けて目がチカチカするような明滅を感じるだけだ。

「よしなよ、8193」

 誰だ、8193って。僕はそんな名前じゃない! 黒猫はいつもの面白がっている雰囲気で髭を揺らしている。

「那由美は死んだ。殺された。8193のせいで殺された」

 違う!

「いいえ、那由美さんは殺されました」

 驚いて振り向くと、そこには七魅が立っていて、胸に聖書を抱いていた。静かに、僕を見つめている。

「知っているはずです。あなたも那由美さんが殺された事を、知っていたはずです」
「殺された。殺された。8193のせいで殺された」

 1人と1匹は、壊れた蓄音機の様にその言葉を繰り返す。執拗に、ぐるぐると僕の周囲を巡りながら。

 知っていた。知っていた。知っていた。
 殺された。殺された。殺された。殺された。
 8193。8913は知っていた。NYMが殺されたことを8193は知っていた……。

 ぐるぐると言葉と4桁の数字が鉄球の代わりに僕の頭の中を乱雑に転げ回る。わんわんと耳鳴りのような音と共に、僕の脳を破裂させようと暴力的な速度で旋回する。
 やめてくれ! もうやめてくれ!
 声を枯らして叫ぶがその声も頭の中の光景には届かない。8193、8193、お前は8193……違うぼ81く93 81は93 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 8193 81「た93つみくん」

 脳の外からの呼びかけに、僕は意識を取り戻す。長い潜水の果てに水面から顔をのぞかせたように、貪るように脳の外の現実を吸い込んだ。

 最初、僕は自分が何処にいるのかわからなかった。自分が椅子に座った姿勢のままで寝ていたのはすぐ認識できたが、周囲が暗かったので判断ができなかったのだ。
 まず思ったのは、高原の別邸の自分の部屋で、電気も付けず机についたまま寝てしまったのかということだ。が、椅子の感触が違うのですぐに今度は教室で下校時刻過ぎまで居眠りしたのかと思い直す。寝る直前までの記憶が喪失していて、どうして椅子に座った状態で寝ていたのかまったく思い出すことができない。

 周囲はしんと静まりかえり、僕は静寂の中に取り残されている。ぼんやりと顔を上げ、回りを見ようとしたところで捻った上半身が腕の痛みと共に椅子に押しつけられた。いや違う、押しつけられたのではなく、椅子に身体が縛り付けられていたのだ。
 腕は椅子の肘掛けの上で、手のひらが上に向くように親指と小指を何か細く頑丈なもので拘束されている。肘も背もたれ後ろを通して椅子に括り付けられているのか、僅かに肘掛けの上をずらす事くらいしか動かせない。立ち上がれないかと試したが腰のベルトの後ろと足首も椅子に固定されているようで、動かすことはできても椅子から離れる様子もない。椅子自体も、どうにかしてその場所から動かないようにされてしまっているようだ。
 首は自由に動くので身体を前に倒して肘掛けに顔を近付け、手の指の部分に目を凝らすと、そこを拘束しているのはコードなんかをまとめるのに使うプラスチック製のバンドだった。緩まないかと力を入れたが肉にバンドが食い込むばかりでまるで効果が無い。どうやら、本気で僕はこの椅子に縛り付けられているようだ。それも自力ではどうしようもないくらい徹底的に。

 自分の身に起こった異変を認識し、慌てて首を捩って周りの様子を観察した。僕の左右には木製の長椅子が規則正しく並び、その中央の通路の真ん中辺に椅子は設置されているようだ。ならば、ここは礼拝堂だろうか?
 自分の居場所を認識した途端、急激に蛇口を捻ったかのようにどっと記憶が奔流となって押し寄せてきた。朝のミサの後、メモを拾ったこと。ハルからそれに那由美のサインが書かれていると教えられたこと。メモの暗号を解いて示されたポイントを探るために礼拝堂に忍び込んだこと。そして、その場所で発見した那由美の聖書を調べようとして……。そこまで思い出し、同時にズキッと後頭部に痛みを感じた。混乱した頭が記憶を取り戻したことで、痛覚すら蘇ったようだ。
 そうだ、その時、僕は何者かに殴られて意識を失ったんだ。いったいどのくらい眠っていた? 今は何時だ? 周囲が暗いのはまだ夜だからか?

「く……このっ……」

 今度は力を込めて椅子から身体を離そうとしてみた。手や腕だけじゃなく、脚か腰、椅子が動かせるだけでもいい。どこか綻びが有れば、その先も希望が持てる。だが、バンドの拘束はやはり強力で、数センチくらいなら僕の身体に食い込む分は動かせるが、この様子じゃ肉が裂けて骨まで達したって切れそうもない。諦めて力を抜き、どさりと椅子にへたりこんだ。

「何だってんだ……」

 僕を椅子に縛り付けたのは殴ったのと同じ犯人か? 僕はそいつにこの場所におびき寄せられたのか? では、那由美の聖書も、その在処を示すメモも罠だったのか?

 そこまで考えたとき、僕はある考えに至ってゾッとした。那由美の事を囮にして罠にはめる……それは、もしかして那由美を殺した奴の手によるものでは無いのか? 僕をこの場所で殺そうと?
 後頭部のズキズキとした痛みはそれほど大した傷では無いのか、徐々に治まりつつある。この傷自体は殺すつもりでは無いのか。

 ふと、礼拝堂内の空気が変わった気がした。風が吹き抜けたわけでは無い。月明かりに変化があったわけでも無い。だが、確かに何か、その礼拝堂を支配する気配のようなものが動きを見せたと僕は感じた。そして、その気配の元を探そうと視線を周囲に巡らせ、僕は前方に人の影が存在することに気が付いた。いや、気が付かされた、というべきか。ふわっと、何か布のような物が構造物の影ではためいて僕の意識を誘ったのだ。

「……気が付きましたか?」

 人気の無い空疎な礼拝堂内にその声が反響し、残響を纏って僕の元へと届く。その声を追って視線を向けると、ステンドグラス越しの月光と礼拝堂の祭壇が作る影の中に、誰かが居た。いや、祭壇の影に隠れてた人物が今出てきたのか? ともかく、この状況の僕を意識を取り戻すまで放置してたのだから、少なくとも僕の味方ではない。

 影の中の人物は女子生徒の様で、星漣の白いスカートが暗いこの聖堂内で一際眩しく月光を浴びている。その裾から星漣指定の革靴がのぞいて艶やかに輝いていた。

「……誰?」

 誰何の声をかける。しかし、その人物は答えを言葉にする事はせず静かに足を進めた。月の作るスポットライトの中に背筋の伸びた少女の白いシルエットが浮かび、そして長くきめ細かな髪と、細く整った顎の形が見えた。形の良い耳が髪から少し顔を出している。それを見た瞬間、僕は意識を失う直前に聞いた気がした、あの少女の声を思い出した。

「……そうだったんだね」

 気のせいでは無かった。最後に聞いたあの声は、僕の空耳ではなかった。あの謝罪の言葉は、やはりこの少女があの時ここにいて、その意志でとった行動に対するものだったのだ。
 少女は僕の足下から数mの位置で立ち止まった。彼女の顔に、これまでに見たことのないような冷たい表情が浮かんでいる。無表情ではない。つとめて冷徹を維持する、鉄の……機械のような無情の意志の顔。そしてあの情報屋の言葉通り、今は月明かりを浴びてその両の瞳は、鮮やかなグリーン色の異端な輝きを秘めていた。

「君だったんだ……」
「ええ」

 選択教科で隣で座っているときの柔らかさでもなく、威厳に満ちた生徒会長の執務机に付いているときの意志力でもなく。その返答には、およそ僕が今まで聞いてきたいかなる彼女の声とも異質な不穏さが込められていた。

 ステンドグラスを透かし、夜空に登った星か月の光が礼拝堂内に降り注いでいる。祭壇に掲げられた贖罪と犠牲の象徴である十字の造形物。
 今、そのシルエットを背負って僕の前に立つ少女は、今年度の星漣学園生徒会長では無い……マクドゥガルの血を受け継ぎし「未来記憶」能力を持つ魔女、安芸島宮子なのだ。

BLACK DESIRE

#22 「A CLOCKWORK GIRL 5」

1.

「まだ痛みますか、達巳君?」

 宮子はそっと僕に聞いた。「調子はどうですか?」と何気なく普段会話するのと変わらない調子の声音。これだけ聞けば単に怪我をした僕を気遣っているだけの質問だ。真面目で常に正確な星漣の生徒会長。

「後遺症は残りませんから、安心して下さい。痛みについては、もうしばらく我慢してくださいね」

 だけど、それはあくまで宮子の表側の顔だ。今の彼女は、僕を後ろから襲って失神させ、椅子に縛り付けた犯人なのだ。僕は彼女の感情を読むため、できるだけ注意深くその顔を見つめながら口を開いた。

「どうして……こんな事を?」
「達巳君がこの場所にいる事を誰にも知られたくなかったのが、1つ」

 宮子はその質問を予測していたのか……もしくは予知していたのか、淀みなく答える。

「那由美さんに関する事柄なら、達巳君は単独で行動しますよね? そのために今朝のミサ前に達巳君が座る席にメモを入れておいたんです」
「あのメモは、安芸島さんが書いた物なの?」
「ええ。以前、那由美さんのメモを偶然、見てしまった時に書いてあったものを参考にして用意しました」

 那由美のメモ? まるっきり内容がでたらめってわけでも無いって事か?

「N・Y・Mのサインとその後の数字の意味を、安芸島さんは知っていたの?」
「いいえ。ただ、その時見たものと似たメモを用意すれば達巳君の気を引く事ができる事は『知って』ましたから」
「君の、未来の記憶で?」
「はい」

 解法を知らなくとも正解を導ける。宮子の能力は、まさに因果関係のカンニングができるチート能力としか言いようがない。わざわざ暗号の様な記号を使ったのも、筆跡から宮子の手によるものと一目でバレないようにするためと、放課後までそれを解くのにかかる時間を稼ぐためだった様だ。宮子は僕の疑問に次々と答えていく。

「あの席にあった聖書は本物?」
「あれも、達巳君の注意を引く事ができ、後、ここに持ち込むのに違和感の無い物として用意したんです」
「じゃあ、本物じゃない?」
「新しい聖書の裏表紙に私が那由美さんの名前を書いて、ミサの前に入れておきました」

 暗がりで僕の注意を数分引けばいいだけの物だから、その程度の工作で十分だったというわけか。道理で妙に綺麗だと感じたはずだ。宮子が今朝最後に椅子についたのは、そういう準備をしていたからだったのか。

「君にしては随分と乱暴で自分勝手な手段を選んだもんだね」
「すみません。先に私の心積もりを説明しても、達巳君と私が接触した事は哉潟さん達に知られてしまいますので」
「僕をここで捕まえたのに?」
「達巳君の携帯電話、哉潟さんのアプリが入ってますよね?」
「え? あれ?」

 僕の携帯? あ、そういえば殴られたときに床に落としたんだっけ。今何処にあるんだ? それにあのアプリがどうしたって?

「あのアプリ、画面が消灯している間10分おきにGPS情報を哉潟さんに知らせる仕様になっているんです」
「……え!?」
「さらに、リモートで音声とカメラ映像を見る事が出来るように権限が付与されてもいます。ですから、この場での事を悟られないよう、達巳君に内緒で少し細工させてもらっています」
「それ本当? それで、何をしたのさ?」
「達巳君の携帯を預かってもらって、達巳君の家の周辺まで歩いて行ったところで電源を切ってバッテリーを抜いてもらいました。最後のGPS発信はその周囲の10分以内の場所に収まっているはずです」
「つまり……携帯の動きからだと、僕はちゃんと家に帰ったように見える」
「ええ」
「そして、リモートで状況確認しようとしても携帯の電源が入らないから知ることもできない」
「そうですね」

 何より、宮子がそういう処置をしたって事は、それにより誰かが僕を助けに来る可能性が完全に無くなったって意味だ。彼女はその行動選択によって望む未来を選ぶ事ができるのだから。

「安芸島さんは、まんまと僕を誰にも知られる事無く捕まえたわけだ」

 宮子が本気になれば、いつでも僕一人くらいどうとでもする事ができたのだ。僕を泳がせていたのはその自信のためか? 完全にお釈迦様の手の平の上の孫悟空だ。思わず出たため息に宮子は微笑みを浮かべた。相変わらず、この落ち着き払った余裕の表情だけは変わりがない。
 僕の脱出の目は……無いな、宮子自身がそういう状況を望まない限り。僕は身じろぎし、精一杯の虚勢で口元に笑みを浮かべてやった。

「それで、こうやって僕を捕まえて、縛り付けて……安芸島さんは何が望みなのさ?」
「それを言ったら、達巳君が叶えてくれますか?」
「努力はする」
「約束はしてくれないんですね」

 僕の軽口に付き合いつつ、宮子は視線を外して僕の左前の長椅子の方に屈み込んだ。そして、用意してあったらしい長方形のトレイの様な物を僕に見えるように持ち上げ、僕を見下ろした。表情が笑っているのに、冷たく感じる緑がかった色の視線が焦点のはっきりしないライトのように僕を捕らえている。背中の中央に縦に寒気が走ってぎゅっと固まったようになった。

「……ずっと、ずっと、もう一度その椅子に座る人を待ってました」
「椅子に……? 何の事さ?」
「達巳君はもう知ってますよね。4年半前、誰が私の前で椅子に縛られていたのか」
「……!」

 4年半前……! 宮子が誘拐され、芳彦とかいう一番下の兄が死んだ事件か!

「兄さんも、そうやって縛られ、うなだれてたんですよ。達巳君と同じように」

 宮子がトレイから筒状のガラス製器具を持ち上げた。側面には細かく内容量を計る溝が記されており、先端の細く長い針がきらっと月光に映える。

「達巳君のために、用意したんです」
「……どう見ても注射器にしか見えないんだけど?」
「ええ。中身は何だと思いますか?」
「病気じゃないし、健康そのものだから僕に薬はいらないよ」
「達巳君。これは治す薬じゃないんです」

 注射器を摘み、親指をシリンダーの底に当てて顔の横に掲げる。緑の瞳が細まり、僕が今まで見たことが無い愉快そうな笑い顔を形作った。

「……これ、兄さんを死なせた薬です」

 風も無いのに僕の前髪がサワッと動く。いや、僕の身体が宮子の言葉の圧力に圧迫されてしまったのか。僕の動揺を知ってか知らずか、宮子の笑みは固定された様に変わらない。それが彼女の内心と一致した本当の表情なのかも、僕には分からない。

「兄さんは今の達巳君と同じように椅子に縛り付けられた状態で、大量の薬物……覚醒剤を投与され、それが原因でショック死しました」

 トレイを元の位置に戻し、注射器を持ったまま宮子が近付いてくる。スカートの裾が僕の脛に触れるくらいまで接近すると、腰を屈めて反対の手で僕の頬に僅かに触れた。驚くくらいに冷たい指先が顔の熱を吸い取っていく。魅入られた様にすぐ近くの宮子の瞳に僕の視線は固定された。ゆっくりと、紡がれる思い出に併せてその指が僕の顔のパーツに触れていく……。

「……私が兄さんに会わされた時、兄さんは腫れ上がった顔で、鼻の下の血も流れた跡そのままで固まりかけていました。拘束されて腕の自由が利かなかったのだから当然ですけどね。意識ははっきりしていたようで、腫れ上がった瞼の下から鋭い眼差しを周囲の者達に向けていました。脅しで向けられていた注射器にも決して屈しない、そういう決意が漲っているような瞳でした……だからなのかもしれません」
「……何がさ」
「その姿は一連の犯行を行ったグループの者達を逆上させてしまったんです。ただでさえ縛られて身動きのとれないところを2人掛かりで腕を押さえつけられ、そして……」

 前触れ無く、不意に宮子の注射器を持つ手が動いて僕の左肘付近に急接近した。ぎくっと僕は反射的にその手を引っ込めようとするが、拘束された腕はほんの少ししか動きようが無い。ぴたり、と針の先は血管まで数センチの位置で止まった。その先端に僕の目が吸い寄せられている。はっと眼を上げて宮子を見ると、そこには先ほどと変わらぬ笑みを保ったままの彼女の顔があった。またもゾクリと背筋に悪寒が走る。

「彼らは恫喝と暴力と金銭くらいしか要求を通す手段を知らなかったんです。でも、兄さんには全てが無駄となり、人格を否定された。そう考えた彼らは、他者へ対する考えられうる最大の暴力を行使する事にしました。明らかに殺すつもりと思われる量の薬物を、無理矢理注射したんです。その結果、兄さんは急激に血の気を失って糸を失った操り人形のように脱力しました」

 だが、見張りかなにかでその場にいなかったグループの1人が戻ってきて、死にかけた宮子の兄を見て怖じ気付いた。当初の目的は彼を薬漬けにして利用するだけの筈だったのに、殺人の片棒を担ぐことになるとは思っていなかったからだ。
 そいつは自分は知らなかったことだからとその場から逃げ出した。すると、怒りが収まってきた他の者も急に腰が引けて雰囲気がバラバラになり始める。目の前の気に食わない事を後先考えずに暴力で破壊することしか考えない彼らにも、多少は自己保身を考える頭脳が有ったと言う事だ。

「可笑しいですよね。まだ死んでないから俺のせいじゃない、そいつが死んでも自分で勝手に死んだんだ、なんて。注射を打った本人が一番動揺して、真っ先に逃げようとして。……そして、呼吸も途切れ途切れになった兄さんを放置して、彼らは逃げだしました。私という目撃者をどうにかするなんて考えにも及ばないくらい、動揺して一目散に消えたんです」

 昨日、草薙という男から聞いた通りの話だ。僕は視線を動かさず、喉をぐびりと動かして唾を飲み込んだ。

「それを君は……看取ったって聞いた」
「はい、その通りです」

 チカチカと頭の奥の方で赤い警告ランプが点滅する。宮子の瞳の奥に揺らぐ何か底の知れない威圧感に、僕の理性が危機を察知して警告を発している。異常事態に歯の根が合わなくなりそうな所を懸命に堪え、僕は口を動かした。

「警察には知らせなかった?」
「父は家族の醜聞を晒すことを望まず、兄さんの死は『事故』として扱うよう決定しました」
「おかしいと思わなかったの? だって……それは立派な、って言うと変だけど、『殺人』事件でしょう?」

 僕が言葉を選びながら途切れ途切れに言うのに対し、宮子は最初から決まっていたかのようにするりと返答する。

「安芸島の名を汚さぬ事、それが何よりも優先されたのです」
「……家族の死の真相や、犯人の逮捕よりも?」
「ええ」
「君のお父さん、お兄さんが落ちこぼれていくのを黙って見過ごしていたのに? それだって名門の君の家柄から言えば有っちゃならない事でしょ」
「父も、その点では手を焼いていました。だから、結果的に私を庇った形で兄さんが死んだ事で、父は面目を保てて喜んでいました」
「……」

 喜んでいた。家族のはみ出し者に与えられた名誉有る死を、喜んで迎え入れた。
 逆に言えば、それくらいの事をして死ななければ家の一員と認められないくらい、更正の余地も無かったと思われていたって事か。その考えは、誰のものだ? 常々、父親はそんな事を口走っていたのか? 疎まれ者の三男を、そこまで家族の前でこき下ろすか? それこそ家族の不和の元だし、使用人だってそういう雰囲気は伝わるだろう。内々に思ってはいても、決してそんな事は口にしないはずだ。
 だけど、安芸島家にはそんな当主の思惑や、もしも実際にそんな事件が起こったら三男の立場が改善される可能性がある事を、知っていた人物がいたとしたら? 彼が家族の誰かの身代わりに犠牲となったら、彼自身と家族の名誉が一度に守られる事を予測していた者がいたら? そこには、立派に彼の命を消す動機が存在する事になる。

 僕はこの思い付きが自分でも信じられず、宮子の顔をうかがうように上目で見上げた。そして、重い口を開く。

「……無理だよ」
「無理、ですか?」
「普通に考えて、今の君の話には無理がある」

 僕は視線を動かし、肘付近で止まったままの注射針を見つめた。

「こんな風に何かを使って人を拘束したり、押さえつけたりしたって、よっぽど慣れた人じゃなきゃ針を正確に血管に刺す事なんてできやしないよ。それこそ、意識を既に失っている人じゃない限り」
「……なら、もう一度眠ってもらいましょうか?」
「僕に注射を打つのが目的なら、それでもいいけど」

 俯き、ゆるゆると首を振って僕は彼女の言葉を否定する。

「だけど、それは君の話と矛盾する。君のお兄さんは、最初は注射器を向けられて脅されてたんでしょ? 逆上して、弾みで注射を打ってしまうにしても、まずは殴るなりして意識を失わせて……なんて考えるかな?」
「兄さんを殴って気を失わせて、それでも気が済まなかったのでしょう」
「それに、そもそもさ……脅しに使うなら本当に人が死ぬ量の薬を用意する必要もないんじゃない?」
「どういう意味ですか?」
「その薬の本来の目的を考えたら、命を奪う事よりももっと有効な活用法が有るし、そう使うんじゃないかって事だよ」
「……だけど、実際に薬は兄さんに使われ、命を奪いました」
「だからさ」

 僕は、ついにため息をついて宮子の顔から視線を落とした。今の彼女を見続けているのが怖くて……悲しかった。でも、彼女自身がこの場を求め、設定したのだから、僕はそれを追求しないわけにはいかず……勇気を振り絞ってもう一度口を開く。

「誰かを麻薬中毒にする量の薬でも、2回分を同時に投薬されれば、命を奪う結果になるかもしれないよね。例えば、捕まえたお兄さんの分と、もう1人の人質の分とか……さ」
「特に品質の悪い、安価な薬ならそういう結果になる事もあるでしょうね」
「少年グループが下請けで売りさばくようなヤツとかね」
「ええ」

 宮子は注射器を引き、立ち上がった。見下ろすその表情は、最初の時と同じ透き通ったような微笑だ。言葉に詰まり、沈黙する僕を、宮子は目で勇気付けた。言って下さい、私は、「ずっと待っていたんです」。
 その視線を受け、僕は上目遣いをやめてぐいと顔を上に向けた。まともに彼女の顔を見つめ、そしてその言葉を投げつけた。それが、彼女にどのような変化をもたらすのか寒気のする不安を背中側に隠しながら。

「……そうだったんだね。安芸島さん……君が、お兄さんに……もう一本の注射を打ったんだ」

 宮子は表情を変えず、僅かに首を縦に振った。

「はい。私が兄さんを殺しました」

 僕はその「真相」に至った経緯をとつとつと彼女に説明した。それは殺人事件を扱ったドラマやマンガの主人公たちの様な颯爽としたものや悲嘆にくれたものでは無く、ただただ、億劫な作業だった。だが、それが必要な事だから順を追って行う、それだけだった。

「――さっきも言ったけど、この状況じゃその注射器は脅しにも何にもならない」

 今も宮子の手にあるそれに視線を送りながら、僕は機械的に言葉を紡ぐ。

「今さっき君が注射器を近付けた時、僕はこれだけ厳重に拘束されていたのに数センチ程度は肘を動かす事ができた。意識のある人間を1センチも動かない様に固定するなんて、よっぽど厳重な手段を使わない無理だ」

 その事件の時の現場がどんな状況だったのかわからないが、今と大して変わらない暗さと道具の揃った舞台だったのだろう。わざわざ宮子は僕がその点に気付くように用意したのだろうから。

「暗ければなおさら針を刺す場所を見つけにくくなる。そこまでして注射器に拘るかな。そこまでするなら、やっぱり眠らせるとかして意識の無い無抵抗な間に注射してしまう方が遙かに簡単だ」

 そこで、僕は一度言葉を切り、宮子の表情をうかがった。彼女は視線だけで先を促している。僕は少女の左肘のあたりに視線を動かし、続きを語った。

「だけど、意識の無い状態ではそもそも『脅し』にはならない。注射を打つこと自体が目的でもない限り、それは有り得ない。それなら、どんな可能性が有るのかな。お兄さんに許容量を越える薬が打たれ、死に至らしめる事になる可能性は」

 僕はその現場を頭の中に思い描いた。椅子に座らされた姿勢で拘束された青年。その前に連れてこられたその妹。周囲を取り囲み品の無い笑いを浮かべる少年グループの一団……。

「実際にお兄さんが亡くなったという事は、規定量以上の麻薬がそこに存在していた事は疑う必要が無い。だけど、脅しに使う以外の目的でそれを用意する理由は、1つしかないよね」

 僕は、宮子の肘の内側から目線を上げ、その顔に移して答えを言った。

「グループの奴らは、君にも薬を使うつもりだったんだ。だから、その場には2回分の量が存在していた。君も中毒患者に仕立てて誘拐の口封じをするのと、その後に自分たちの都合の良いようにする計画だったんだろうね」
「仮に彼らにそういう思惑があったとして、先ほど達巳君自身が無理矢理注射を行うのは非常に難しいと証明しましたね?」
「だからさ、彼らが『脅す』相手は、お兄さんじゃなかったんだよ」

 それは、とても考えたくない理論の帰結。だけど、その時の状況を、他者を傷つける事を自分の益とする輩の思考をトレースすると、どうしてもそうなってしまうのだ。

「彼らは、逆にお兄さんを人質に、安芸島さんに薬を打とうとしていたんだ」
「……」
「たぶん、その前に既にお兄さんの方は薬を打たれていた。向精神薬の影響で正気を失った彼を盾に、大人しく要求を受け入れることを君は強要されたんじゃないかな」
「……」
「でも、その結末は……2本目の注射は安芸島さんではなくお兄さんに打たれた。そこにどういう状況が生まれたのかは僕には分からない。だけど……1つだけはっきりしている事がある」
「……」

 僕の語りに沈黙を守ったまま、じっと聞き入っている宮子。その顔からはいつの間にか微笑みが消え、ただ、何か遠方の光景を見るような焦点の遠い静かな目付きをしていた。そして、呟くように「それは、何ですか?」と僕に尋ねた。

「……お兄さんの死が、彼の名誉を回復し、同時に安芸島さんの家の名誉も守ったという事だ」

 僕の言葉にやや間を置き、そして宮子はコクリと頷いた。

「結果を見れば明らかですね」

 そして、宮子は自分の右手に目を落とし、胸の前にその手に持った注射器を掲げて少し笑って見せた。

「……ただの水です。あんな薬を用意できるほど、私に力が有るわけではありませんから」
「うん」
「ごめんなさい。私は達巳君を騙そうとしました」

 注射器をトレイに戻すと、代わりに宮子は「今解きます」とそこからニッパーを手に取り僕の拘束をパチンパチンと切っていった。先に両腕が自由になり、僕が手をぶらぶらさせて痺れを取っている間に宮子は礼拝堂の床に膝を付き、足首の分に取りかかる。

「手は、傷になっていませんか?」
「……ん、大丈夫そうだ」
「見せて下さい」

 僕が左手の平を上に宮子に差し出すと、彼女はひざまづいたままその手を取って俯いてじっと見つめた。そして、手の平をさする様に指先で撫でた後、両手でその手を包み込んだ。俯いたその姿勢のまま、宮子は呟く。

「達巳君、このまま私の話を聞いてもらえませんか」
「……」
「もう少しだけ、座ったままであなたの手と耳を貸していただけませんか?」
「……わかった」

 僕が頷くと、宮子は「ありがとう」と俯いたまま礼を言った。その僅かな動きで肩から彼女の髪の一房が床に向かって垂れ落ちる。月明かりにキラリとそれが反射し、僕は何気なく光源を追って顔を上げた。
 ……ひざまづいた宮子の背中に、十字架が掲げられている。その光景に、僕ははっと理解した。なぜ彼女がこの場所を選んだのか。この場で真実を打ち明けようとするのか。

 それは、彼女の『罪』の告白。

 安芸島宮子が4年半の間背負ってきた『罪』の、『懺悔』が今、この場で行われようとしていたのだ。

2.

「達巳君には、前提条件として私の持つ能力の詳細について理解していただく必要が有りますね」

 椅子に座った僕の膝の上くらいの場所から、手を握ったまま、宮子は僕の顔を見上げていた。

「私の力が発動する条件は2つあります。1つは、私の明確な意志で決定できる選択肢がすぐ目前に迫っている事。もう1つは、その決定が因果関係となってそれぞれの選択の将来に私の周囲に大きな変化が起こる事」

 見下ろす宮子の瞳は影の中に有るはずなのに、うっすらと緑に輝いているように見える。それは、彼女の中に確かに異能の力が宿る証の一つだ。

「2つの条件を満たした時、私にはそれぞれの選択によって訪れる未来の事を予め知ることができます。因果関係や過程は飛ばして、結果だけをかつて経験したことのように記憶の中から思い出すんです」
「……それは、いつから使えた力なの?」
「幸いにも、兄さんの事件の前にはほぼその条件を確信できる程度には使いこなしていました」

 草薙の予想は外れたか。宮子は、もっとずっと幼い頃からこの「未来記憶」の力を持っていたのだ。哉潟の双子と同じく幼少の頃から持っていた能力が強まり、自発的な発動が可能な閾値をいつの間にか越えていたって事なんだろう。

「それはつまり、安芸島さんにはその事件が起こることも、その状況も、そしてその結末もあらかじめ知っていたって事なのかな?」
「はい。私は兄さんが捕らえられ、自分もまた人質となる事を知っていました」
「じゃあ、それを避けようとすれば避けれた?」
「私が事件に関わらないようにしただけでは未来に大きな変化が訪れないことがわかるだけでした」

 つまり、囚われないように防御対策をしようとしても、未来記憶の能力は発動しなかったって事か。

「その時、私が知り得た未来の姿は2つ。1つは、兄さんの死によってグループを始めとする犯罪集団から安芸島家は無縁となり、兄さん自身も妹を身を挺して庇った勇敢な家族の一員となっている現在の未来。もう1つは、兄さんが麻薬中毒となりながら生き続けたために弱みを握られ、徐々に家そのものがそういった集団に毒され、押しつぶされていく未来です」
「……君のお兄さんが、呼び水となった?」
「兄さんが生かされた時点で、遅かれ早かれ私もまた組織に喰い物にされる運命でしたから。安芸島家は兄さんと私、2人を人質に取られたようなものでした」

 宮子の口調に憤りや悲嘆の感情は無い。まるで他人事のように、自分のあり得た可能性を感情を切り捨てて語っている。それは彼女の意志の力によるものなのか、それともそんな未来を見過ぎたせいなのか、僕には推察することもできなかった。

「……だから安芸島さんは、その事件でグループの人間の犯行に見せかけてお兄さんを……お兄さんにいなくなってもらおうとしたの?」
「はい。兄さんの未来を消すことが、私と家族の未来を守ることだと理解し、実行しました」

 片手を離し、宮子は先ほどのトレイから一冊の本を取り上げた。厚手の何かのSFX映画のスチール写真の様なものが表紙になっている本だ。はっきり言ってこの場にはそぐわないし、宮子がそれを用意した意味も説明無しではまったくわからない。

「その本は?」
「その件が起きる前に用意した参考資料です」
「映画の……特殊効果についての本かな」
「ええ。これを参考にして、私は見よう見まねで特殊撮影用の小道具を用意したんです」

 良く見るとその本の中程の所に少しよれたグリーンの付箋が挟んである。宮子はその本をそっとトレイに戻すと、先ほどと同じように再び僕の手を握った。

「何をしたの?」
「『血糊』と、それをつめる袋を用意しました。そして、私の誘拐の当日にそれをこう……胸の下から脇にかけて身に付け、色が映えるように白いセーターを着て時を待ちました」

 事件が起きたのは4年前の春先……3月の春休み中だったのかな。それなら、セーターを着ていてもおかしくない。

「『未来の記憶』で、グループの数人がポケットの中にナイフを隠している事は覚えていました。油断したところに後ろから飛びつけば女の私の力でも十分に奪う事は可能と思いました。だから、重要なのは実行のタイミングだけでした」

 宮子は先に彼らの餌食となっていた同学年の少女に誘い出されるままに着いていき、彼女の計画を知らないグループの少年数人に大人しく捕まった。もちろん、見知らぬ乱暴な口調の少年達に萎縮し、怯えきったお嬢様の演技をしながら、である。彼女の無力な様子をすっかり信じ込んだ彼らは、宮子を縛り上げる必要も感じず目隠しだけをして車に乗せ、彼らの潜伏場所へと運んだ。そして、その一室に連れて行かれた宮子は目隠しを外され、そこで椅子に拘束された兄と対面したのだ。
 僕は自然と姿勢を正す。ここからが、先の話から変わってくるところだ。宮子は僕の意気込みに気が付いたのか、そっと僕の手を握る力を増してくれた。僕の動揺を察し、それを押さえようとしてくれているのだ。

「……兄さんに対面したとき、既に意識が朦朧としているようでした。単に暴力を振るわれて、意識を失っただけでなく、1本目の薬を打たれた後だったんでしょうね。そして、その場にはもう1本……達巳君の推測通り、私に使うための分の薬が用意してありました。私は強引に椅子に座らされ、左手の袖を捲られ肘の内側を露わにされました。そして、注射器を持った1人が私に近付いて、言ったんです」

 ――心配すんなよ、お前の兄貴と同じようにいい思いするだけだからさ。暴れんなよ、大人しくしないと、こいつは兄貴に使っちまうぜ? そしたら二度と目ぇ覚ますことは無ぇけどな――

 夏服の袖からのぞく自分の左腕に視線を下ろしながら、宮子は抑揚を付けないで呟くように言った。だが、僕はその下劣な口調を簡単に想像することができた。無抵抗な少女に対する思い上がった態度も、露わにされた彼女の肌を舐める卑しい目線も、全てが想像できた。そして、僕の中で怒りという名の火が灯るのを感じた。

「何がおかしいのか、一斉に周囲のみんなが笑いました。その声に釣られたのか、兄さんが目を覚ましかけ、うめき声を発しました。その声に全員の視線がそっちに向き、一瞬私の肩を掴んでいる力が緩んだのを感じました」

 演技を続けながら隙をうかがっていた宮子は、そのチャンスを躊躇せずに利用した。腕をふりほどき、椅子から滑り落ちるようにして床に転がって後ろに回った少年の拘束を逃れた宮子は、素早く床を蹴って注射器を持った少年の背後から飛びついた。高価な商売道具を利き腕で見せびらかしていた彼はとっさに反応することができず、易々とそのポケットに隠し持っていたナイフを宮子に奪われてしまう。そして、宮子はそのナイフを抜いて刃を見せつけるように振り回して注目を十分に集めた後、彼らから距離を取り、立ち直る時間を与えずに叫んだ。

「『家の名を汚すくらいなら、自分の手で始末を付ける』……そう言って、奪ったナイフの刃が内向きになるように持ち替え、それを自分の左胸の下の辺りに突き刺しました。刺す瞬間は身体を丸めて影にして、ナイフが身体に届いていないことを悟られないようにし、何度か練習した通りに服の下の血糊袋だけを裂きました」

 ナイフの刃の長さは分かっていたし、準備時間は十分にあった。誰にも見つからないように模型を作ってそれで鏡の前で自分を刺す練習もしていたのだという。肝心なのは少年達に宮子がナイフを使った自殺を試みたと確実に認識させる事だ。その為には多少オーバーなくらいの動きが良かった。
 すぐには倒れず、ドラマで見るように数歩後ろによろけ、確実にナイフが刺さっていたと思わせるために右手でそれを抜く仕草と同時に傷口を押さえる為に当てていた左手で服の下の血糊袋を圧迫し、赤い液体を吹き出させて見せた。あっという間に白いセーターの左胸は真っ赤に染まり、宮子の足下に血がボタボタと滴り落ちる。恐らく、よっぽどの事故に直面しなければ常人ならおよそ見ることも無い大量出血に見えただろう。その様子は少年達から距離を取っていた事もあり、その場にいた全員が目撃した。
 そして宮子は、――注意深く、怪我をしない様に多少加減しながら――ばったりと倒れた。その一大演技の間、少年達は呆気にとられて誰も彼女に近付く事ができなかったのだという。

「ああいう人達は想像力が足りないから、自分の腕力で解決できない事態に陥るとすぐに感情のたがが外れて憤りをぶちまけるか、恐怖にパニックになるかしかできません。この場合は半々の様でした。私の捨て身の行動にパニック状態になった彼らは、私に構うことなく、兄さんすら放置して逃げ出しました。何か怒声を上げていましたけど、裏返って悲鳴のようにも聞こえました」
「その演技は、君の能力で十分勝算が有ったからやったんだよね?」
「十分、ではありませんよ。確実にそうなるとわかっていましたから」

 まあ、その結果の為の芝居だ。宮子なら、確実な未来を手にするために必要な手順も全て知っていたはず。

 彼らの逃走後、声が聞こえなくなって5分ほど待ってから宮子は何事も無かったように身体を起こした。そしてナイフを持って彼女の連れてこられた彼らのたまり場を一度抜け出し、芝居の後始末にかかった。そこは建設途中で工事が止まったビルの地下室に当たるところで、その側の公園の茂みに彼女は前もって着替えなどの入ったスポーツバッグを隠していたのだった。
 公園のトイレで血糊に濡れた衣服を換え、手足の汚れを拭い、小道具も全てまとめてビニールの袋に入れてバッグに納める。それをもう一度隠し、宮子は元の地下室に戻った。その際、ペットボトル入りの水を持ってきて床に流れた血糊を薄めて流す。全部洗い流すことはできないが、本物ではないのでこれで十分血液ではない事が判明する。事件性が無ければ警察もとりあう事は無い。そこまでの作業を10分程度で終わらせると、宮子は手順の最後の段階のために兄の元に近寄った。

「兄さんはまだ、意識がはっきりとしていないようでした。多分、そのまま放っておけば2時間もすれば目が覚めたと思います。ただ、それで意識を取り戻したとしても兄さんは病院に入れようが家で隔離しようが、将来的に再び彼らやその上の者達の影響下に戻ることはわかっていました。そして、兄さんの受けた『毒』が安芸島家を蝕み、家名を傷つけ崩壊させる様を私は知っていました」
「不良グループ程度にそんな力が有ったの?」
「彼ら自体はただの使い走りです。しかし、彼らに麻薬の売買をさせているもっと大人の組織は、私や兄さんを使って安芸島家に足がかりを作る事を考えていたのでしょう。粗悪品とはいえそれなりの価格の薬を2回分も用意したのはそのためだと思います」

 宮子のお兄さんはまんまと罠にかかってしまったって訳か。僕は心の中で嘆息し、聞きたくはないけど聞かなきゃいけない事なので疑問を口にした。

「お兄さんに更正の可能性はなかったのかい?」
「可能性の有る無しで言えば在ったのでしょう。恐らく、もっと早い段階で……。私の力は、私の選択によって変化する未来が存在する時にしか働きません。選択の機会を私が得られたときにはもう、兄さんが平穏無事に家族の一員として生きる未来は見えませんでした」
「だから君は、自分と家を守るためにその原因となるお兄さんに……居なくなってもらうことにした」
「はい」

 ステンドグラスから差し込む月明かりしか無いのに、宮子は眩しげに目を上げた。そして、片手を僕の手から離して腕の内側を愛おしげに指を滑らせた。

「……『記憶』の力で、注射をどう打てばいいのかは知っていました。血管が見えやすい様に兄の上腕を縛り、手の平を上にしてテーブルの上に乗せました。肘の内側には、既に1本目の注射の痕がありました。そして、残っていた注射器を手にとって……」

 注射器の代わりに、宮子は僕の肘の内側のあたりを親指でそっと撫でた。

「……2本目の薬を、打ちました。兄さんを殺すために」

 その時、ほんの一瞬だけ宮子の親指に力が込められ、僕の内肘にチクリと爪の先が食い込んだ。それが、僕には宮子の記憶にある兄の苦しみを分け与えようとする行為に思えた。宮子の表情に変化は無かったのに、僕はその痛みと同時に宮子の心にも針が刺さって鋭い痛みが走った事を感じていた。

「……それが終わった後、君はどうしたの?」

 あえてその行為の後の時間には触れず、わざと空白にしたまま話を飛ばすように質問する。

「家の者に連絡し、私達の迎えを頼みました。家族の誰にも私は能力の事を話していませんでしたから、多少不自然な状況であっても誰も私の話を疑いませんでした。もちろん、それも予め信じてもらえる様に言う内容を確認していたのですけれど」
「お兄さんが誘拐された君を助けに来たけど、囚われて逆上したグループのメンバーに殺されたって話?」
「はい。兄さんはその直前まで危険を感じて身を隠していましたから、こういう事も起こり得る状況だったと父も感じていたようでした」
「警察には知らせなかったんだよね?」
「父がそれを許しませんでした。懇意にしていた医者もいましたので、兄さんは表向きには病死、家の内部的には大筋で私の語った内容で事を納めるよう働きかけを行い、その通りにしてしまいました」
「だけど、その場にいた不良グループやそれに指示を出した人達、それに君を誘い出した女の子もいたじゃないか。それに対してはどうしたの?」

 僕の問いに、宮子は少し首を傾げて微笑んだ。

「犯罪は、被害者がいなければ成立しませんから。兄さんが病死し、私が療養という事で姿を隠したので、噂程度のものはあっても誰も真相の調査をする事はありませんでした。何より、父はそれで納得させたがっていましたので」

 安芸島家の方からも、事件性無しで済ませるように働きかけを行ったって事なのかな。

 宮子の話はその後、彼女が実家を離れて星漣学園中等部に編入する下りまで及んだ。彼女が最初修道院に入りたがったのも、やはり演技だったのだと言う。

「地元で起きた事ですし、完全には噂は消えませんでしたから。それに、家の未来のためと大義名分を付けて結局は家族を裏切った私が、それ以上安芸島家に居続けるのが適当とは思えませんでした」
「お兄さんの思い出も、家には残ってたから?」
「……そう……そうかも、しれません。いえ、やっぱりわかりませんね」

 宮子は僕の言葉に少し考えたが、軽く頭を振って呟いた。

「兄さんに対して『すまない』という思いは有ったのかもしれません。でも、私にとって未来の記憶と過去の記憶は時間の前後の問題だけで区別のつけられないものなんです。未来においてどのように兄さんが家を壊していったか、私をどう扱うようになるのか……それを覚えているから、私にはその死は区切りであってその存在が消えて無くなるものとは感じられませんでした」

 その言葉を完全に理解するのは難しいが、ゲームの別ルートで登場人物が居なくなったり死んだりする感じだろうか? この感覚は、能力の持ち主の宮子にしか分からないものだろう。

「でも、父達は現場にいた私の心が傷付いているだろうと気を使ってくれました。私もそれに便乗し、家を出る事を考え、まずは修道院に入りたいという考えを伝えました」
「まずは?」
「そうすれば、星漣学園への転校の道が開けるとわかっていたからです」
「なるほど」

 冬月の考えていた宮子転校の経緯は、本当は理由と手段が逆だったって事か。彼女は安芸島家当主である父が自分の修道院入りを認めない事、そしてその代替案としての星漣編入を勧めてくる事を見越して、それを言い出したんだ。

「なぜ、そんなに星漣に来たかったのさ?」
「星漣にこだわったわけではありません。ただ、先ほども言ったように実家を離れたかった事が1つ、そして将来的に父が私を入れたがる学校の候補を考え、それならば先に手を打っておこうと考えたのがもう1つの理由です」

 そうか、中等部はともかく本体の星漣女学園はこの国の女子校では最高位のランクに位置付けられているからな。そういう計算も宮子のお父さんの側に有ったのかもしれない。

 その先の話は、昨日の冬月のものと同じだ。中等部に入ることが決まり、その間は相良家に居候する身となった。そして冬月と共に進学し、2年の冬に生徒会長に就任し今に至る。
 安芸島宮子の背負っていた4年前の秘密の告白は終わった。僕はふうーっと長い息を吐き出す。

「安芸島さんの過去に何があったのか。僕に君の能力と同等の力が無い以上感じたことの全てを理解することは無理だよ。でも、何をしたくて、その手段として君が何をしたのかは理解した。それで、改めて聞くけど」
「どうぞ」
「安芸島さんは僕にそれを知らせて、何をさせたいの?」
「ただ、聞いて欲しかったと言ったら駄目ですか?」
「駄目じゃないけどさ」

 冬月は彼女の一番信頼する存在だろう。だけど、冬月に明かすわけにはいかなかったのは僕でも何となくわかる。草薙の言葉じゃないけど、冬月はやっぱり「昼」の人間だ。宮子の能力で知り得た未来の光景を動機とする殺人行為を知ってもらうには、彼女を「夜」の側に引きずり込む覚悟がいる。それはきっと、双方にとってとても残酷な事だろう。
 だけど、だからと言って僕に明かす理由もわからない。僕がブラックデザイアを使う夜の側に踏み込んだ人間だからか? だとしても、僕に宮子にかける慰めの言葉や許しの権限が有るわけが無い。せいぜい、宮子自身が無難に学園生活を送れていることを喜んでやるくらいだ。それくらい、誰だってできる事じゃないか。

 人が人を、自分と家族の幸せのために殺す。それは生存競争の1つの極限だ。2人の関係が兄と妹であったこと、1方に未来を見る力が有ったこと、それを抜きにして見れば宮子の行為は招かざる災厄を避けるための緊急避難的なものと考えることもできる。宮子ならこれくらいの理屈はわかっているはずだし、それを僕にわざわざ言ってもらう必要も無いだろう。だから、結局は彼女自身の心情的なもの、「罪」の意識の問題なのだ。そんな事、僕にどうこうするなんて無理だ。それこそ、絶対の権威を持つ存在、神様あたりしか許すことはできないだろう。

「せっかく星漣に入ったんだし、シスターにでも懺悔すれば良かったんじゃない?」

 突き放したような僕の物言いに眉を動かすこともなく、宮子はしれっと答える。

「残念ながら、私は神様もキリストも信じられませんので」
「自分が予知能力を持っているから? ああ、そう言えば何か、安芸島さんはキリストにあまり良い感情を持っていないんだっけ?」

 冬月の言葉によれば、宮子は以前キリストを批判するような事を言っていたらしい。

「『キリストは狡い』、ですね」
「そうそう」

 僕の頷きに微笑むと、宮子は僕の椅子の隣の長椅子を指して「隣に座っても?」と首を傾げた。どうぞ、と彼女に身振りで示すとスカートの裏を手で押さえ、静かにそこに腰掛けた。

「……聖書のお話、読まれましたか?」
「新約の、最初の方だけ」
「では、ペテロの否認のお話は?」
「何だっけ、弟子のペテロが尋問されて夜が明けるまでに3回もキリストの事を知らないって言った話だっけ?」
「ええ」

 そのお話で肝心なのは、と宮子は僕の中途半端な記憶を補足しながら話を引き継ぐ。

「キリストが、そのペテロの否認を予言していたという事なんです」
「弟子の裏切りを知っていたのに、それを許したんでしょ」
「ええ。しかし、キリストが許してもペテロ本人は自分の罪を許せなかった」

 そのため、キリストが十字架刑に処された後、彼も望んで磔の刑、しかもキリストと同じ刑では畏れ多いと逆さ十字の刑を受けた。頭が下になる逆さ十字の磔刑は血が頭部に集まるためなかなか意識を失わず、苦しみがずっと続くと七魅の本に書いてあった気がする。

「すごい覚悟だね。僕なんかそんな目にあったらさっさと逃げ出しちゃうな」
「ええ。ペテロは他の弟子達に比べて最後までキリストの側に残っていたから尋問を受ける事になったのだし、事前の予言が有ったからこそキリストを裏切った自分に絶望し、磔刑を望んだのだと思います」

 淡々と語る宮子の口調は感情がこもって無く、いっそ冷淡ですらある。横目で見たその瞳も冷ややかであった。

「それが、安芸島さんには狡いと思える?」
「ペテロの殉教で得をしたのは誰でしょうか?」
「え……そりゃ、弾圧を行ってた為政者の人かな?」
「いいえ、私はそうは思いません。本当に得をしたのは、ペテロにそのような決断をさせ、殉教とは、死を前にしても揺るがない信仰心とはどのようなものかを示させたキリストの方です」

 「彼にははっきりとわかっていたんですよ、その結末が」。宮子は眉を寄せ、恐らくこの学園の中でも殆どの者が見たこともないはずの「嫌悪」の顔付きをした。

「私には、このエピソードが殉教を題材として人心掌握を行い、信仰を得るために行ったパフォーマンスとしか感じられませんでした」
「うん。ちゃっかり本人は磔の後も復活してるしね」
「ええ、そうですよ。結局、未来を知ってやった事は親しい者を死に至らしめて自分に都合の良い選択をした、それだけの事だったのかと……」

 宮子の手が、膝の上でぐっと拳を形作り、握りしめられた。

「……私と同じだったのかと」
「……」
「神にも救世主にも、存在証明を行う事は不可能です。信じる者にしかその威光は感じられないのですから。だから、彼らには代わりとなる代行者が……そしてその人物の語る『物語』が必要なのでしょう。だから、殉教という華々しく悲惨で心に訴えかける事のできる結末が求められたのだと思います」
「君はその、意図的に悲惨な結末を迎えるようにキリストがペテロを利用したと思うから、狡いという感想なんだね」
「ええ。ですから、私は神やそれに使える人に懺悔することはありません。懺悔は告白と赦しがセットになっていますが、それらの行為には信頼関係が必要ですから」

 存在が信じられないのではなく、その力の用途や性格から相手を信頼できないからこそ、告白もできない。そういう事なのだろう。

「じゃあ、なおさら僕に言ったって仕方ないよ。僕には安芸島さんの告白を赦す権利なんて無いから」
「でも、達巳君のバックには『悪魔』が付いてますよね」

 それも知っているのか。

「神様が駄目なら悪魔様って事? あいつら、人間の感覚とはだいぶ離れたところにいるからなおさら無理だと思うけど」
「私は赦しを求めているんじゃないんですよ、達巳君」
「?」

 「例え話です」と手の平で何かを抱えるような仕草をしながら宮子は語る。

「2人の犯罪者がいます。2人は自分の罪に自覚がありながら、その罪が他者に知られる事、知った他者が自分を傷つける事を恐れて自分の周囲に強固な壁を作り、小さな窓からしか他の人と顔を合わせません。だけど、その2人はお互いに伝えたい事が有ってどうにかコミュニケーションを取ろうとします」

 宮子が右手の人差し指を立て、左の手の平をノックする。

「片方がもう片方の扉を叩いても用心深いので窓からしか対応してくれず、中に入れてくれません。反対に今度はこちら側から訪問しようとしても……」

 今度は左手の人差し指が右手の平をノックしようとするが、その直前に萎れて左手は宮子の膝に落ちた。

「そこにそびえる壁の高さに後込みし、中に入ろうとしません。全ては、お互いの罪の意識が作った壁が、言葉通りにコミュニケーションの壁となってしまっているせいです。もしも片方が扉を開けて招き入れようとしても結果は同じ、疑心暗鬼に陥った犯罪者の警戒を招くだけ。急いで伝えたい事があるのに、どうしたらいいのでしょう?」
「それ……僕と安芸島さんなの?」

 僕の問いを宮子は微笑みながらスルーした。

「答えは、こうします」

 宮子が手の平を顔の高さに持ち上げ、その真ん中でパチンと打ち鳴らした。

「お互いにぶつけ合って、壁を粉々に砕いてしまいます。そうすれば、ほら、2人は壁のない場所で顔を合わせることができますよね」

 宮子の右と左の人差し指が、彼女の顔の前で向き合っていた。僕はその指から宮子の顔に視線を移し、首を傾げた。

「ちょっと乱暴なやりかただよね」
「でも、私と達巳君はほら、壁を壊して顔を合わせられましたよね」

 そう言って、宮子は僕ににっこりと笑った。

 結局のところ、この1週間くらいの宮子のちょっかいは、この状況を作るための彼女の計画だったって事だろう。僕にはブラックデザイアを使ってこの学園の生徒達を操っているという罪悪感が、宮子の側には未来記憶の能力によって実の兄を殺めたという過去が他者に本音を語れない高い壁となって存在していた。それを、宮子は僕を焦らせ、自分と対峙する覚悟を決めさせる事で僕にその壁を壊させた。すべて、計画通りと言う事だ。
 そこまでして、僕に伝えたい事とは何だろう。宮子は僕に何を求めるのか。

「難しい事は、僕には言えないよ。ただ、さ……」

 これは言うべきなんだろうか。さっき、宮子なら言わなくてもわかってるって自分で納得した内容なんだけど。
 宮子の方は黙って僕の言葉を聞いている。ええい、沈黙されちゃ間が持たない、言ってしまえ。

「僕は安芸島さんの家の事は聞いた限りの話でしか知らないから、お兄さんの事をどうこう言ったり、君のした事を酷いとか責めることはしないよ。というか、そこまで自分の思った事を言えるほど興味がある内容でもないしさ」
「ええ、わかります」
「だからぶっちゃけ、すごく自分本位な意見だけど……お兄さんがどうこうを抜きにして、安芸島さん自身が今こうして僕の前で顔を合わせて、話せている事だけなら僕は喜んで良いと思うんだ」
「……はい」
「君がいろいろな事情から星漣に来ることになって、僕も那由美の件で同じ時期に星漣に潜り込んで、そして出会って、お互いの秘密を知り得て……君にとっては迷惑かもしれないけど、僕はその……君みたいな女の子と逢えて、嬉しいんだ。だって、どこか1つ選択を違っていたら僕は君の事を知りもしなかったはずなんでしょう?」
「そうですね」
「だから……」

 何だろう、僕は、何を言おうとしてるんだ? 宮子も僕の勢い任せの言葉を遮ることなく相槌を打つだけなので、どうにも止めようがない。自然と、僕の本来の軽薄さそのものと言える無責任な言葉が口をついてでていた。

「だから、難しく考えなくて良いんじゃないかな。君は自分が良いと思った人生を選んだんだから、もう昔の事は考えないで目の前の事を良くするようにしていけば良いと思うよ」

 宮子は僕の軽い口調の言葉を、じっと黙って聞いていた。そして、少しだけ首を傾げ、ぽつりと呟く。

「……達巳君は、私の選択を受け入れますか?」
「受け入れるとかじゃなくて、そうだな……」

 ううんと、この気持ちは何だろ。宮子に対して抱いている、どことなくまあ大丈夫という感覚は……。

「うん、そう。君の事は信頼できる。だから、安芸島さんが良いと思ってやった事は、理由を言われても言われなくても、納得できるかな」
「そう、ですか……」
「うん」

 宮子は俯き、床に視線を送ったままじっとしていた。何を考えているんだろうか?

 彼女のことを信頼できると言ったのは、取り繕ったり彼女の機嫌を良くするために言った言葉じゃない。ぽろっと胸の内から飛び出てきた言葉で、自分でも驚いたけど実は一番実感のある感想だった。
 僕はなんだかんだで1学期中に彼女がいろいろと相談に乗ってくれた頃の事を引きずっているんだなぁ。あれは彼女が僕に信頼されるための演技だったのかもしれないけど、でも、理屈じゃなくて感覚的に僕はあの時の宮子を信じても良いと思ったんだ。それが僕の彼女へ対する感情のベースなのだから仕方がない。

 数分間、宮子はそのままの姿勢でいたが、うん、と大きく頷くとそれが切りとなったのか、顔を上げて僕の方を見つめた。そこには、いつも選択教科中に隣から向けられていた微笑みが浮かんでいる。

「では、達巳君にこれ以上星漣での活動をやめて欲しいと言ったらどうでしょう?」
「いや、その要求は聞けない」
「でしょうね」

 速攻で却下だ。宮子もわかってて聞くんだもんなぁ。

「私から達巳君に求める物は、既に済みました」
「? 何かやったっけ?」
「……この『現在』を選んだ時点で、私からの達巳君への要望は選択済みなんですよ」
「ああ、そういう……」

 彼女にとって欲しい物は、今でなくてもいずれ手に入るように未来選択を行えばそれで良いって事なのか。未来の「記憶」を持っているからこそ、焦る必要は無いのかな。

「ところで。それ、僕にメリット有るの?」
「それはお答えできません」
「都合の良い答えだなぁ」
「納得いかないなら、今現在私にできる事で達巳君に何かお返ししましょうか?」
「何でもしてくれる?」
「私の側のメリットに見合う内容なら」

 上目遣いに宮子を睨むが涼しい顔で返される。未来を予測されている以上、僕から非道いことはされないと確信しての表情だ。まったく、やっかいな能力だなぁ。
 僕はため息1つ、大げさに吐いて見せて芝居がかった仕草で肩を竦めた。

「それじゃ、この後夕飯に付き合ってよ。安芸島さんのオゴリね」
「それだけでいいんですか?」
「お腹が減るのも切実な欲求だよ。家に帰るまで持ちそうもない」

 今何時なんだろう。気絶していた時間がわからないから全く見当もつかない。とっぷり日は暮れているから、下校時刻はとっくに過ぎているんだろうけど。携帯が無いから時間がわからないぞ。
 僕の考えを読んだのか、宮子は少し顎に指を当て、考えつつ呟いた。

「7時45分くらいでしょう」
「わかるの?」
「この後、達巳君と食事する未来に時計がありますから」
「そこから逆算したと」
「はい」

 微笑みながらしれっと答える宮子。まったく、ほんとにやっかいな能力だな! これからせいぜい意表を突くような夕飯場所を考えてたのにさ。
 まあいい。「それって了承って事だよね」と僕が一応確認すると「ええ」と宮子は立ち上がった。そして手を差し出してくる。

「さあ、行きましょう、達巳君。私をどこに連れて行ってくれるんですか?」
「知ってるくせに」
「知っていても、実際に見聞きするのはまた違うんですよ」

 そう言って、彼女は僕を見下ろしながら笑った。その時、僕はふと気が付く。いつの間にか月が雲の影に隠れたのか、宮子はもう、十字架のシルエットを背負ってはいなかった。

3.

 「将来」は僕が高原別邸に戻ってから見つけたラーメン屋だ。以前の下宿に住んでいた時は、自炊が面倒で近くの定食屋や中華料理屋に随分お世話になっていた。別邸に移ってから幎の作るご飯にありつけるようになったが、彼女の得意料理は和食と肉料理に偏っているため、中華は殆ど出てこない。そして星漣学園のお洒落なランチハウスにはラーメンの様な庶民的な定番メニューが存在しないという体たらく。普段は別に食べたいとも思わないのに、食べられないとなるとあのスープと麺が無性に恋しくなるこの感覚、一般的な日本人ならわかるよね?
 そういうわけで、星漣と別邸間の通学路中の脇道に、良い感じの赤い「らーめん」とのぼりを出したお店を発見した時はワクワクしながらスライド扉を開けたものだ。20分後、これは良い店を見つけたと膨れた腹を抱えて店から出た時はニンマリと笑みがこぼれたくらいだ。以来、週に1回はこの店に通い、自分だけの定番メニューも出来てしまった。
 かくして、同行者の意表をつくべく僕は日本に名高い名門女子校のトップであられる生徒会長サマを、下々の者の庶民的料理の定番であるラーメンの店へと案内したのだった。

 流石の宮子もこんな10坪もないこじんまりとした場末のラーメン屋なんて来た事も(あるいは目にした事も)無いだろうから少しは気後れするかと思ったが、どうしてどうして澄ました顔でカウンターの一番奥の席に収まると「お水取ってきますね」とさっさとセルフサービスのグラスを2人分持ってくる。いつも仏頂面の大将はともかく、かえって場違いなお客の到来におかみさんの方がおろおろしているくらいだ。2人ほどいた他の男性客も星漣の白い夏服姿の宮子に麺を喉に詰まらせている。くそう、一般客とオーラが違うんだよ、オーラが。これじゃ僕の方が迷惑客じゃないか。

 あてが外れたが大将の作るラーメンはいつも通り抜群の美味しさだった。僕のお勧めメニューは「塩バターラーメンもやしマシマシ」で、ラーメンドンブリからこぼれ出さんばかりのもやしにこれなら少しは驚くかと横目で見てたが、宮子は全く動ぜず自分の頼んだレディースラーメンをおかみさんから受け取っている。どこで突っ込みが入るかと待っていたが割り箸を割っていただきますと口を付け、少々上気した顔で「おいしいですね」と完全にスルーされた。くうぅ、完全に僕の意図を読んでいるな、宮子は。

 この「将来」のもやし炒めはそれだけでご飯が3杯はいけるくらい旨いのだが、それをこうして塩ラーメンスープに浸してさらにバターを絡めて口に入れると、適度に火の通ったシャキシャキもやしの食感と併せて極上の食べ物となる。このマシマシメニューは僕が以前もやし炒めを先に麺を食べ終わったラーメンスープに浸して食べていたのを見て、大将が僕用裏メニューとして出してくれるようになったものなのだ。それ以来、毎回毎回僕がここで食べる時の定番となってしまっている。これでもやし炒めと別々に頼むより130円も安くしてくれるのだから大将様々だ。

 さて、そんなこんなで宮子を驚かすには至らなかったが、好物のラーメンをスープまで綺麗に平らげ、僕は非常に満足した。宮子の方はと見るとこちらもいつの間にか食べ終わっている。レディースラーメンって値段が安いんだけど量も少な目になってるのかな。上品にちゅるちゅる少しずつ食べてたはずなのに僕と同時に食べ終わるとは。実は慣れてるとか?

「安芸島さんはラーメンとか食べるの?」
「いえ、実際に食べるのは今日初めてです。おいしいですね」

 ……僕は「よく食べるの?」って聞いたつもりだったんだけど。さすが名家のお嬢様は違うなぁ。

「達巳君はラーメンが好きなんですか?」
「たまに無性に食べたくなる」
「好きなんですね」
「日本人なら嫌いな人はいないよ、多分」
「どうでしょう。食べたことない人ならいると思いますけど」
「そういう人も、食べればきっと好きになるよ。特にここのはね」
「ええ」

 宮子も気に入ったのだろうか。それとも呆れて怒りも湧いてこないとか。

「今更だけど、夕飯と聞いた時ここに来ることはわかってたの?」
「はい。達巳君がそのメニューを頼むことも知っていましたよ」
「安芸島さんを驚かしたりするのは難しそうだ」
「私にだって知らない事はあります。知っているのは、私に選択出来る事だけですから」

 そう言って、宮子はスープの熱気のせいか頬を少し上気させたまま微笑んだ。

「今日、こうして達巳君と一緒に居られるのも私の選択の一部です。だけど、ここに来たのは達巳君の選択でもありますよね」
「うん、まあ……」
「私達2人がそれに気付いているかいないかの違いはあっても、幾つもの無数の選択の末にこうしてこの場所で食事を一緒にすることができた。それは、とても危ういバランスの上に成り立っている1つの奇跡です」
「そこまで美味しかったの、ラーメン」
「そうですね」

 宮子は笑いながらぐっと顔を僕に近付け、下からのぞき込むように僕の目を見つめた。いつもの緑がかった灰色の瞳、だけと、今はいつもと違いそこにはキラキラとした光が輝いている。

「私が覚えている、選択されなかった『今』も1つ1つが奇跡の瞬間です。でも、私はあなたといる事を選んだ」
「う、うん」
「この世界には沢山の可能性が有りますけど、それらを切り捨てて来たからこそ今の私がいます。ですから、こうして達巳君と過ごす1分1秒が私には掛け替えの無い大切な時間なんですよ?」
「……さいですか」

 宮子は僕が何となく頷くと微笑みをそのままにしたまま身体を引いた。そして、たった今の言葉など無かったように澄ました顔でコップの水に口を付ける。しかし、本人はともかく僕の方は大将の熱々スープを飲み干した影響か今更顔が熱くなっているし、何を勘違いしたのかカウンターの向こうのおかみさんが隅っこの方でこっそりエプロンの裾で目元を押さえたりしている。
 宮子のこれ、わざとなのかなぁ。空気が読めないんじゃなくて、わざと読まない様にしてるんじゃないかなぁ。ただの小所帯ラーメン店をこんな雰囲気にしちゃあ、次から僕がここに来づらくなっちゃうじゃないか。

 その後、約束通りに宮子がここの支払いをしようとすると、おかみさんにものすごい目で僕が睨まれたので慌てて財布の口を開くことになった。次回からオマケしてもらえなくなったら僕の財政に大打撃だ。長い目で見ればたった一回分の支払いくらいで大将達の機嫌を損ねるのはまずい。そんな思惑を知ってか知らずか、あるいは計画通りなのか、宮子はしれっと「御馳走様です」と言ってのけた。

 もっとも、そんな宮子の言葉や大将達の反応よりも今回一番印象深かったのは、僕達の後から入ってきて入り口付近に座った大学生ぐらいの兄ちゃんが、途中から僕を「爆発しろ!」と言わんばかりの据わった目で睨んでいた事だったんだけど。

 「将来」を出た僕と宮子は、特に申し合わせたわけでもなく何となくあまり人や車の喧噪の無い方へと一緒に歩いて行った。そう言えば、5月にハルと再会した時、確かあいつはこっちの方へと歩いて行ったな、なんて事を思い出していると、道は川にぶち当たってそこで左右に流れに沿った道路に別れていた。ちょっとした土手の上の道で、ランニングコースに良さそうだ。もう少し川を下ると車の渡れる橋も見える。

「戻ろうか?」
「あそこまで行ってみましょう」

 宮子が橋の方を指さした。土手の上の道に沿って街灯が等間隔にそこまで導いている。橋のすぐ手前の街灯に照らされ、土手から河原に降りるコンクリート製の階段が見えた。その辺は河原が広くなっていて、夏には絶好のバーベキュー場所となっていそうな感じだ。宮子と2人、並んで川を下る方へと道を曲がる。
 橋までの間、他愛のないおしゃべりをした。

「美味しかったですね」
「気に入ったの?」
「今度執行部のみんなで来てみましょうか」

 いや、それは「将来」の平穏のために止しておいた方が良いだろう。

 先ほどの道の合流地点から見えていた階段のところまで来ると、さっきの場所からは良く見えなかったが少し橋に向かって上り坂になっていた。その分、土手から河原に向かって降りる階段の途中でもう一段、小さな公園の様に芝生が設けてある。敷石が格子模様を作っている歩道と、白いベンチが街灯の光に照らされて浮き上がって見えた。
 ひと気は無く、橋の方も欄干の陰になってそこを通る人にもここは視界の外だ。夜1人で来るにはちょっと不気味だが、でも込み入った話をするには格好の場所かもしれない。枯れ草が隅に溜まった階段を下りてベンチに少し間を空けて2人で座った。ここまで来ると、河原に設置された注意書きの立て看板の文字が見えてくる。上流で雨が降ると増水するとか、橋の下の中州が水没するとか、キャンプ禁止とか、良くある河川事故防止の内容だ。

 町中のまだ9時ぐらいの筈なのに、不思議なくらい人の作り出す騒音が遠い。ここにあるのは川の水の流れる音と、僅かな風が草を揺らす音、虫の鳴き声。夜空に浮かぶ星の光がしんしんと降ってくるのが聞こえそうなくらいだった。

「……ここで、さっき言ってた『伝えたい事』の話をするのかな」
「幾つかの内容は。残りについてはまだ準備が出来ていないので今は話せません」

 宮子が能力によって知り得た未来に基づいた選択について語る時の、常套句だ。

「何時ならいいのさ?」
「それについて、先に1つ約束しましょう」

 右手の指を一本立ててみせる。

「明日の朝、授業の始まる前に会いませんか? そこでなら今は言えないお話も達巳君に伝えることができます」
「良いけど……時間と場所は?」
「達巳君に合わせます。明日目が覚めたら、朝食はとらずにすぐに登校して下さい」
「……時間も場所も決めないのは、他の人に知らせないようにするため?」
「2人きりで会って欲しいんです」

 宮子なら僕が何時に学校に着くか、知る事もできるのだろう。いや、この話をする選択をした時点で知ったのか。主導権が宮子の側にある以上、僕の未来の行動は筒抜けだ。

「いいよ。君の言う通りにする」
「ありがとうございます。携帯電話もその時にお返ししますね」

 あ、そうか。まだ宮子に盗られたままだった。すっかり忘れてた。

「他には?」
「今約束できるのはこれだけです」
「じゃあ、今から何の話をする? 今日はこれでお終い?」

 せっかくこんな人気の無いところまでわざわざ連れ出して、単に明日の予定を決めただけで終わりって事は無いよな。

「では、さっきの話の続きをするのはどうでしょう」
「さっきの? キリストがどうとかの宗教論?」

 そんな難しい話は専門家に任せて、僕はいたって平凡な日本人的ご都合主義無神論者でいたいなぁ。しかし、宮子の言う「さっき」は僕の考えよりももっと間近なものだった。

「お店での話の続きです。私と達巳君の現在を決定するバランスの」
「ああ……『将来』であんなこと急に言い出すからさ。おかみさんなんか真に受けちゃって」
「でも、私の本心ですよ」

 本心と言いつつ、街灯の明かりに照らされた宮子の瞳には若干の悪戯っぽい光が宿っている。

「何回も言いますけど、私には選択した結果の未来を知る事ができるだけで、その因果関係まではわかりません。その過程において私の周囲に大きな変化が無ければ、時間を跳ばして結末だけが脈絡無く思い浮かぶだけなんです」
「風が吹けば桶屋が儲かる的な?」
「はい。ですから……はっきり言ってしまうと、ある結末を避けるために、その他の影響が出る事が予想されても敢えて目を瞑って選択をした事もあります」

 「達巳君から見れば不可解な選択に見えた事もあると思います」と、宮子はゆっくりと噛んで含めるように言葉を続ける。

「私は、これまでにも達巳君の未来に干渉するため、何度か選択を行いました」
「ふうん……どんな事で?」
「達巳君が星漣に来てからで一番大きな物は……7月の生徒総会前に出した校則改正案です」
「あれが!?」

 まあ、確かにあの生徒総会と総選挙の前後で僕の星漣での立場は大きく変わったけど。と思って納得していたら、宮子は首を振ってとんでも無いことを言いだした。

「私が干渉して変えたのは、達巳君の立場ではありません。それだけでは私の周囲に起こる大きな変化とは言えず、未来が見える事は無かったと思います」
「じゃあ、何が変わったの?」
「私の見た未来では……あの総選挙が起きなければ、達巳君は9月の1日に私と生徒会執務室で会って以降、この学園から姿を消すことになっていました」
「はあ!? 何で!?」
「わかりません。私には、その過程は知る事ができませんから」

 宮子の話では、僕が辿るはずだったもう一つの9月1日からの時間では、ただ僕が居なくなっただけでなく、学園の「全ての」生徒が僕の事を忘れてしまっていたのだという。ハルも、七魅も、三繰も、紫鶴も、そして当然宮子も。その状況に不穏な物を感じた宮子は、その未来を選択しないよう総選挙を起こすため、あのような僕の反発を受けて当然の改正案を作成したのだという。

「で、でも、あの選挙がどうして……タイムラグも2ヶ月もあるんだよ?」

 宮子は黙って首を振った。

「それは多分、当事者の達巳君にわからなければ誰にも説明することはできません……ただ、1つだけ言えるとしたら、因果というものは結局のところ人と人の繋がりです」
「人間関係って事?」
「はい。総選挙をきっかけとして結ばれた誰かとの結びつきが、達巳君自身を救ったのだと思います」
「僕を……誰かが助けてくれた……?」

 宮子の言葉に、僕は唐突に既視感を覚えて口ごもる。どこかで聞いたような……あれは……そう、エアリアから解放された、その日の事だ。

『あの娘に感謝するんだな、ボーヤ。身を投げ出してまでボーヤの事を守ろうとしたんだ』

 それは、誰のことだった? 僕のために、身を挺してエアリアから救い出したのは誰だった?

 ……七魅だ。
 ……七魅が、僕を助けてくれた。

 その考えに行き当たった途端、霧が晴れるように急に疑問の視界が晴れた。
 七魅が僕の事をそれほどまで気にかけてくれるようになったのは何時からだ? ハルや写真部のみんなと合同で行った夏合宿、いや、その前の総選挙に向けての活動期間中からだ。一緒になって策を練り、さざなみ寮に侵入したりして仲良くなったのだ。
 もしも総選挙が無ければ新校則に反対する会のメンバーは集まることも無く、夏合宿も行われなかった。それはつまり七魅や三繰との接触の機会が減る事を意味し、その結果、七魅は危険を冒してまで僕を助けようとはしない事になっていた……? 宮子の言う、僕と七魅の結びつきが因果となって運命を変えたってことなのか。

 七魅がどうして僕の事を助けてくれる気になったのかはわからない。些細な事がきっかけの気まぐれなのかもしれないし、その期間中にあった出来事で大きく僕への態度を変える事柄が有ったのかもしれない。だが、少なくともそれは宮子が校則改正案を生徒会役員会議に提出しなければ起こらず、その時間軸において僕はエアリアの夢世界から救出されず消滅したままになっていたのだ。直接ではないにしろ、宮子もまた僕の救出に一枚噛んでいたって事になる。

「……どうして、君は僕を助けようと……?」
「私が達巳君を助けたわけではありませんよ」

 宮子は微笑みながら「ただ、助かる方に誘導しただけです」と訂正した。

「その選択は、私にとってけじめでもありました」
「けじめ……? 僕を助ける事が君のけじめになるの?」
「はい。何故なら、達巳君が星漣に来るように未来選択したのも、私だからです」
「何だって!?」

 宮子が僕を星漣に呼んだって言うのか!? 僕は体ごと宮子の方に向き直り、まじまじとその顔を見つめてしまった。それを正面から受け止めつつ、視線を逸らす事も無く宮子は応える。

「切っ掛けは、昨年の12月中旬の事になります。その頃、星漣は1年生の生徒が失踪したことで騒ぎになっていました」
「ああ……それは、聞いたことがある」
「その失踪した生徒は図書館に良く出入りしていたので、同じく図書館を良く利用していた私にも、その生徒に関する証言を求めて何人かが尋ねに来ました。そしてその中に……那由美さんも居たんです」
「!?」

 僕はもう、あまりの驚きの連続に声も出ない。あのブン屋を始め、いろんな人から噂として聞いていた昨年の生徒失踪事件、それに那由美が関わっていた? こんなところに昨年度の星漣学園と那由美の繋がりがあったなんて。

「そして、あの人から図書館でのその生徒の様子を聞かれたとき、唐突に未来の星漣の姿が頭に浮かんだんです。それは、衝撃的な光景でした。目の前にいる、那由美さんが……居なくなる未来が見えたのですから」
「君は、君は……」

 喘ぐように息をつき、僕は声を絞り出す。

「君は、その時点で那由美が死ぬ事を知っていたって言うのか!」
「はい。その時見えた未来では、どの選択であっても那由美さんが亡くなった星漣の姿しか見えませんでした」
「……っ!」

 そんな前から……那由美が死ぬ半年近く前からその死を予知していたっていうのか! それなのに、助けられなかったのか! 那由美が死ぬ事を知っていて、その運命を変えようとしなかったのか!
 僕のそんな衝動的な感情は宮子にもお見通しだったのだろう。震える僕の手に彼女は自分の手を重ねると、ぎゅっと握ってきた。

「私も、その光景を見てしまった以上、それが実現しないように自分の能力を最大限行使する事をその時、決心しました。私の力は、私自身に選択権が無ければ効力を発揮しません」
「だ、だから?」
「ですから、私は、この学園に於いて最大の選択権を持つ役職に就くことをその時思い立ったんです。冬休み後に行われる選挙を利用して、生徒会長の役職に就くことを」
「……!」

 それが……理由? それまで星漣の中枢と関わらないようにしていた宮子が、考えを変えて立候補した理由だったのか?

「生徒会長になって実力を示せれば、強い発言力を持って星漣学園で行われる全ての事柄に対して意志決定権を持つ事ができます。そうすれば、それまでの私では見えなかった未来、干渉できなかった未来にも手が届く、そう思っていました」
「だけど、那由美は……」
「はい……」

 宮子は俯き、僕の手を握る手にいっそう力を込めた。

「……あの人の運命には、届かなかった……」
「そう……だったのか……」

 「時計仕掛けの生徒会長」と呼ばれた宮子。未来を予知し、正しい選択を行い続けた彼女。だが、その超常能力ですら、那由美の死を変えることはできなかった。そこには、彼女が主導できるような選択が存在しなかったって事だろう。最初に、那由美が失踪事件について尋ねた時を除いて。
 ふと、僕はその最初の時点について疑問が湧いた。それは、何故最初の時点だけは那由美の死について選択が出来たのかと言う事だ。

「……ちょっと待って。失踪について聞かれた時は未来が見えたんだよね? なのに、那由美の未来は変わっていなかったんでしょ? それはおかしくない?」

 そう、宮子の能力はその選択によって「未来が変化する」時にしか働かないはずだ。どちらの未来でも那由美が死ぬ事になっているなら、初めからその未来を知る事もできなかったはず。しかし、宮子は僕の疑問に対して静かに首を横に振った。

「確かに、那由美さんの未来は変化していませんでした。しかし、その後、那由美さんが亡くなっておよそ3週間後からの星漣学園の未来が、大きく変わっていたのです」
「3週間後……?」
「改めて言います。私には原因と結果の間にある因果関係は知る術(すべ)が有りません。ですから、何故その未来が見えたのか、どういう経緯を辿ったのかは説明することができません」
「うん。わかってる」
「だから……」

 宮子は、少しだけ口ごもり言いにくそうに躊躇った後、一気にその事実を僕に向かって解き放った。

「……だから、何故あの時、失踪した生徒と親しくしていた同じ1年生の事を那由美さんに伝える選択をした場合……星漣学園に1人の男子生徒がが編入する未来が見えるのか、全く理解できませんでした」
「……な……何……何だってっ!?」

 僕は仰天して宮子の肩を思わず掴んでしまった。その男子生徒って……どう考えても、僕の事だ! どうして、そこで僕が見えるのさ! 那由美にその程度の情報を与えるだけで、どこをどう因果が巡って僕の未来を変えてしまうんだよ!

「有り得ない……!」
「本当の事なんです。私にも、その返答で何故達巳君が星漣に来る事になるのかまったくわかりませんでした」
「そんなわからない事のまま、君はそっちの選択をしたって言うのか?」
「それは……」

 宮子は眉を寄せ、少しだけ視線を逸らした。

「……その時は、那由美さんの死を避けられない事に私も動転していたんです。もし那由美さんが居なくなった後、誰かが星漣に来るとしたら……それが例え女子校としては異例の男子だとしても、何か関係が有るはずだと思って……」
「まさか……誘き出してやろうと思った?」
「……」
「敵討ちでもするつもりだったのかよ?」
「……わかりません」

 悲しそうに宮子は俯いた。あの自信に満ちた生徒会長の初めて見せる表情だった。その表情に、僕は初めて自分の手の指が彼女の二の腕にきつく食い込んでいる事に気が付き、慌てて手を離した。街灯の明かりの下、僕の手のあとが見る見る赤く浮かび上がってくる。

「あ……ごめん……」
「いえ、こちらこそ……すみません」

 その「すみません」は何に対する謝罪なのだろう。自分の能力では因果を知る事の出来ないふがいなさに対してか、それとも那由美の死を知りながら何の手も打てなかった事に対してか。

 昨日からこっち、驚く事ばかりだったが今の宮子の話は僕自身に関わる事だけにとびっきりだった。今まで単なる星漣の昨年度の不幸な事件としか認識していなかった生徒の失踪騒ぎがここに来て重要度が増してくるとは。
 那由美が調べていたという1年生生徒の失踪、そして草薙が言っていた親父の調査していたという連続殺人事件。那由美の死。親父の失踪。その2つの事実を知って星漣に侵入した僕。それらは全てバラバラの独立した出来事だと思っていた。だが、その開始と結果の2点が宮子の能力によって因果関係にあることが知らされた。ならば、その間にある2つの事件と2人の終局が数珠のように1繋ぎの因果に結ばれていると考えるのが自然だろう。那由美と親父は、いったい何に関わっていたのだろう?

 知らぬ間に僕は額に汗をかいていた。ひやりとした風を感じ、ぐいっと腕でそれを拭う。そのまま顎の辺りに拳を付け、考え込んだ。黙り込んでしまった僕の横合いから、宮子が声をかけてくる。

「達巳君。今朝のメモ……まだ持っていますか?」
「ん……えっ、何?」
「聖書に挟んでいたメモです。今有りますか?」
「えっと……ああ、有った」

 ソフトボール練習の後に入れたまま、あのメモは生徒手帳に折り畳まれた状態で挟まれていた。宮子に促され、街灯の頼りない光の下で開いてみる。こうしてよく見ると、宮子らしいきちっとした読みやすい字だ。

「そのメモ、2行目は私が見たそのままなのですが、1行目は変えてあるんです」
「……安芸島さんが見たとき、ここには何て書いてあったの?」
「貸して下さい」

 宮子は僕から紙片を受け取ると、ペンを取りだして膝の上で1行目の式を修正した。あの、「+18ー18」を2重線で消して新しい式を隣に書く。そして、僕の手に戻した。

「本当は、そう書かれていました」

 宮子の言葉で手元に視線を落とす。

『 7×7+1 =49 』

 メモの1行目には、新しくそう書かれていた。僕は首を捻り、呟く。

「……+1はどこに行ったんだろう?」
「わかりません。那由美さんのメモを見たのも本当に偶然で、その式の意味を聞く暇もありませんでした」
「そう……」

 これも何かの暗号なのだろうか? この、プラス1の消えてしまった式が、那由美から8193で表される人物(ハルに言わせると僕の事らしいが……)に伝えられた意図は何だろう? この式を解くことこそ、那由美の死の真相を解く事と同義なのだろうか? 推測するにも、あまりにも材料と時間が足ていない。那由美が失踪事件を調べていたことすら今さっき初めて聞いたのだ。

 僕が新しい事実に必死になって首を捻っていると、隣で宮子が立ち上がる気配がした。見れば、スカートの皺を伸ばしてここを立ち去る体勢だ。慌てて僕も彼女を追って立ち上がった。

「達巳君。今日お伝えできるのはここまでです。後3つほど有りますけど、それは明日の朝という事で」
「まだ準備ができていない?」
「そういう事です」
「そっか……なら、仕方ないね」

 正星館まで送ろうと申し出たけど、宮子はそれをやんわりと断った。必要ないから、だそうである。別れの挨拶の後、宮子の後ろ姿を見送って1人残された僕はこれ幸いともう一度ベンチに座り込んだ。だらしなく浅く座り、星の瞬く夜空を仰ぎ見る。そして、先ほどまでの宮子の話を反芻した。

(……宮子は予知能力者で、その能力で那由美の死を知って何とかしようと生徒会長になった……)

 これで、早坂の話ではわからなかった、冬休み前に突然宮子が生徒会長職を目指すようになった理由も判明した。

(……でも、それと同時に宮子は僕が星漣に来る可能性を知っていて、そしてそちらの未来を選択していた……)

 ではやはり、宮子が選択教科の時に隣の席になっていたのは、僕を監視する目的もあってあらかじめその席にしていたのだろう。だが、ここで解けない疑問が1つ残る。

(……何故、那由美の調査に協力することが僕の星漣学園潜入に繋がったのか……?)

 宮子は自分の選択によって「変化する未来」しか知る事はできない。だから、本当なら那由美の死は「変えられない未来」である以上予知は出来ないはずだった。だけど、僕の編入という変化のおかげで彼女はその未来を知る事ができたのだと言う。なら、宮子の選択が巡り巡って僕まで辿り着いたのは間違いないのだろう。
 すると、当然1つの疑問が出てくる。因果の結果、僕が星漣に来ることになっていたとしたら、それにはどこまで偶然が絡んでいたのか、という事だ。

 僕は今まで那由美の死を知ったのも、ブラック・デザイアを拾って使用者となったのも偶然だと思っていた。たまたま、那由美の死から星漣学園に興味を持ったタイミングであの黒い本を手にしたのだと。だが、宮子の話が本当だとするとその偶然がにわかにきな臭い何者かの気配を帯び始める。
 考えてみれば、僕の生い立ちを知るものならば……例えば高原の家の誰か、あるいは親父や親父から僕の話を聞いた者なら、僕の抱く那由美へのコンプレックスは推察できる事だし、その死を知らせれば強い興味を抱く事も予測可能な範囲だろう。そうすれば、必然的に那由美が命を落とす現場となった星漣学園に興味を持つであろう事も連鎖的にわかるはずだ。つまり……僕は意図的に星漣学園に編入させられた可能性が有るのだ。

 宮子は、因果とは人と人の繋がりによって起こると言っていた。もしも那由美による失踪事件調査からの一連の出来事が僕に繋がっているなら、そこには僕を星漣へと向かわせようとする関係者の意志が有ったって事になる。誰が、いったい何のために? そしてそいつの意図した計画は、僕が星漣に来た時点で終わっているか、それともまだ依然実行中なのか?
 草薙の言葉ではないが、神の視点を持たない僕に目の前に突きつけられた事実を俯瞰して判断する事などできない。どう考えても情報不足で「かもしれない」の連発になるのだ。考え過ぎで頭が痛くなってきた。

 混乱した頭の中で、1つ、はっきりした事がある。今日、この川岸で宮子が伝えたかった事。僕に連なる因果の連鎖を解明し、那由美と親父の件に関わった何者かの意図を知るには、時間軸に囚われた普通の人間とは異なる、超越した視点が必要だって事。

 つまり、僕には……宮子の力が必要なんだ。

< 続く >

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