序章 探し物
1時間以上もの間、住宅街を歩き回って時間をつぶしている。
ひとまわりして、また彼女の家の前に戻ってくる。門に「小野寺」の表札がかかっている。塀越しに、2階の角部屋の窓明かりを確かめる。そこが彼女の部屋だ。明かりは灯っていない。
まだ帰って来ていないようだ。
彼女が自宅と駅の間の行き来に使う道順はわかる。
帰宅路を逆に辿って駅まで行ってみようか?
帰宅途中で立ち寄りそうな店も知っている。コンビニ、書店、CDショップ、高級スーパー。お気に入りのケーキ屋が2軒あるが、もう閉店時刻を過ぎている。
それとも?
たしか近所に女友達が住んでいる。彼女はそのマンションに頻繁に遊びに行っている。そこに行っていたとしたら、帰宅の道順は変わるし、もしかすると今夜は会えないかもしれない。
やはりどうしても今夜会いたい。彼女の顔を見たい。
いてもたってももいられない気持ちになる。
最近、彼女は大学で、いつも同じ男と仲良く歩いている。昨日はその男と手をつないでいるのを見た。
思い出すと、嫉妬で胸が焦がれる。どうして彼女があんな男と。あんな男より、ボクのほうが絶対にお似合いなのに。
いや、きっと、単なる男の友達というだけだ。そうに違いない。気にすることはない。彼女に釣り合うような男は、ボクのほかにいるわけがない。これまでだって彼女は恋人を作らずに来た。彼女の理想にかなう男がいなかったからだ。
彼女と話したい。ボクのことをもっと知ってもらいたい。ボクも彼女のことをもっと知りたい。邪魔さえ入らなければ、そうできるのに……
それにしても、彼女はいったいどこに行っているのだろう? 家庭教師のバイトは昨日のはずだ。飲み会かなにか? 合コン? まさか彼女に限ってそんなことがあってはならない。やはりあの女友達と? もしや、あの男と? いや、それこそ絶対にあるはずがない。
待て。落ち着こう。
まだ夜の8時だ。ちょっと寄り道して遅くなってもおかしくはない。あれこれと気に病むには早すぎる。このまま待っていればきっと会える。一箇所に留まっていると近所から不審がられるかも知れない。怪しまれないように、またひとまわりして時間を潰そう。
冷たい夜の風に身を震わせながら、早足で歩を進める。
―――
楽しかったデートの締めくくりは、恋人からの優しいキスだった。
短いキスの後、小野寺晴菜は助手席で顔を染める。恋人のほうを見るのが恥ずかしくて、膝の上の指先に目をやる。落ち着きなく指輪をいじる。
つき合いはじめて2ヶ月近くだ。キスしてもらっただけで、まだこんなにドキドキする。
恋人の今井弘充が車を降りて、助手席側に回りこんでドアを開けてくれた。どぎまぎしている晴菜とは違って、自然な振る舞いだ。
「あ、ありがとう、弘充君」
「どういたしまして」
弘充が笑いかけてくれる。ルームライトの薄明かりの中で、綺麗な白い歯がこぼれる。
二人でドライブに行くのは2回目だ。弘充に告白された日以来だ。弘充の家族のクルマを借りているので、ドライブはしょっちゅうというわけには行かない。
クルマの乗り降りのたびに、弘充が助手席側のドアを開けてくれることに、まだ慣れることができない。執事やボーイに仕えてもらうみたいで、なんだか落ち着かない。弘充に申しわけない気がする。弘充は当然のマナーだよと笑うのだが。
晴菜は、すらりと伸びた足を綺麗に揃えて、車から降りる。弘充のほうを見上げると、自然に微笑みが浮かぶ。どんな男でも夢中になる、天使の微笑。
晴菜が口を開く。
「今日、楽しかった」
「俺も」
そのまま別れるのが惜しい気がして、黙って弘充を見つめる。
弘充が笑顔で見つめ返す。少し間をおいて、弘充が言う。
「じゃあ、気をつけて」
あまりにあっさりと、別れの言葉を弘充が口にしたような気がして、晴菜は少しさびしい。
「あ、うん」
気をつけて、なんて言われても、晴菜の家までは2ブロックしか離れていない。晴菜は言い足す。
「でも、気をつけるのは、弘充くんのほう。運転」
「え? 俺の運転そんなに心配だった? ちょっとショックだ」
弘充が大げさに傷ついた顔をしてみせる。晴菜は慌てて否定する。
「ちがう、そういう意味じゃなくて……」
弘充のニヤニヤ笑いに気づく。
「もうっ、弘充くん、わかってて意地悪言ってるでしょう?」
晴菜は笑う。
急に弘充が、
「もう1回キスする?」
と、さらりと言った。
いきなりの言葉に晴菜はびっくりする。
「え? その?……え? ええっ?」
なんと答えていいのかわからず、顔を赤らめ、人目がないか慌てて回りを見回す。
「こんな……ここで?」
夜の住宅街とはいっても、まだ9時前で、遠くには人影も見える。自宅のすぐそばだし知り合いに見られるかもしれないし……
あれこれ考えておろおろしていると、弘充が吹き出す。
「あはは。そんな慌てないで。冗談だよ。こんな街中だしね。
……ひょっとしてちょっとがっかりしてる?」
こんな程度のことで真っ赤になって大慌てする晴菜が、初々しくてかわいらしい。こんな美人なのに、大学に入って1年半もの間、カレシができなかったなんて信じられない。高嶺の花に、男のたち手が届かなかったのか、臆して手を伸ばそうとさえしなかったのか……。
からかわれていたとわかった晴菜は、一瞬、呆気にとられる。そして、笑い出した。
「もうっ! いきなりあんなこというから…… 弘充くん、また私のことからかって!」
弘充のこういう予想もしていない言動が、いつも晴菜を飽きさせない。
弘充は平然と答える。
「だって、晴菜がキスして欲しそうだったから。なんか、こう、さびしそ~うな目してたよ?」
晴菜が右手を上げて弘充をぶつしぐさをする。
「またそうやって~ もう! そんなことないです! ただちょっと名ごり惜しかっただけ」
弘充は、すこしまじめな顔で、でも微笑は残しながらうなずく。
「うん、そうだね。楽しかったもんね。今日はこれで終わりって思うと、ちょっとさびしいかな。でも、また明日会えるよ」
「うん」
晴菜が笑顔でうなずき返す。
弘充が言う。
「じゃあ。また明日」
「うん。また明日。家に着いたらすぐにメールしてね」
弘充はOKと答えるように右手を上げてから、運転席に乗り込む
晴菜は小さく肩のところで手を振った。短いクラクションを後に残して、弘充のクルマが走り去っていく。それを見送って、晴菜は自宅へと向かう。
晴菜の右手には、発泡スチロールの保冷容器。ドライブした先、鎌倉で買ったシュークリームが入っている。家族へのお土産だ。弘充が、行き当たりばったりに地元の人に評判を聞いて、やっとたどり着いた店だ。
店での会話を思い出して、晴菜の口元がほころぶ。
ケーキ屋のおばさんが、美男と美女の組合わせを見て、どういうわけか弘充と晴菜のことをタレントのカップルだと勘違いしたのだ。晴菜は慌てて否定しようとしたが、弘充はそれをさえぎった。何食わぬ顔でタレントのお忍びデートのふりをした。「今度、雑誌のインタビューでお気に入りの店で紹介しておくから」などと言っておばさんを喜ばせて、おまけのケーキをせしめてしまった。挙げ句には、色紙に適当なサインまでしていた。晴菜も同じ色紙に、グルグルクネクネした曲線を書かされた。色紙をおばさんに渡すとき弘充が、「この色紙、二人のサインが並んでいるから、もうすぐ婚約発表したとき、すごい価値が出るよ」と付け足したので、晴菜は真っ赤になった。婚約だなんて……。
晴菜は、恥ずかしがったり、笑いをこらえたり、話を合わせたりするので大変だった。
その出来事を、ドライブの合間にさっそく親友の倫子にメールした。倫子からはノロケぶりをからかうメールが返ってきた。
幸せなデートの思い出に浸りながら家路を歩いていると、横から突然声をかけられた。
「晴菜ちゃん」
男の声だ。声は小さく、糸を引くように粘っこさがある。
晴菜は、驚いて声のほうを向く。晴菜がひとりで思い出し笑いをしていたところを、知っている人に見られたのかと思うと恥ずかしい。
中背で小太りの男がいた。男の顔は、街灯の陰になっていてよく見えない。
男の表情が見えないのが不安をかきたてる。警戒しながら、晴菜は慎重に短く聞き返す。
「はい?」
粘っこい声が返ってくる。
「晴菜ちゃん、こんばんは。……その、もしかして、いまキスしてた? ま、まさか、いまの男、晴菜ちゃんのカレシなの?」
室内灯を消したクルマの中だったのに、キスを見られた? そう思うと、カッと顔が赤くなる。
それにしても、いきなりぶしつけな質問だ。
どうやら知り合いらしいのだが、顔が見えないので、声だけでは誰だかわからない。
「その……」
どちらさまですか、と聞くのはさすがに失礼だろう。
「え、ええと、それは……まあ」
曖昧にごまかす。できるだけ最低限の言葉ですませる。男の顔がよく見えるよう、すこし顔を傾けて見てみる。
男の落ち着きのない声が答える。
「そ、そうなんだ。そんな……。いや……うん。ふーん」
声からも外観からも、男の年齢はよくわからない。
よれよれのパーカの下にチェックのネルシャツを太めのジーンズの中にたくし込んで着ている。着こなしからは、それほど若くはなさそう。
近所の人だろうか? 子供のころをよく知っているとか? だとしたら、失礼な態度をとるわけにもいかない。
男の顔を見ようとして晴菜が顔を傾ける。同じタイミングで、男が体の向きを変える。晴菜のほうに歩み寄ってくる。不自然に晴菜の近くまで来る。男のかけた眼鏡に光が当たる。明るい場所に出て顔が見えた。
ぎくりとなる。
「小田君……?」
大学で語学が同じクラスだった学生だ。その風貌や趣味のせいで、倫子が影で「オタクン」もしくは「オタ」と呼んでいる男だ。
だが晴菜が動揺したのはそのせいではない。
入学したばかりのときのクラスの飲み会で、小田は、見るからにオタクっぽい風貌とおどおどした態度で、周りから避けられていた。そんな中で晴菜だけがわけ隔てなく小田に接した。仲間はずれになりかけていた小田にも声をかけて、話の輪に入るよう気を使った。
女性からは忌み嫌われてばかりの人生だった小田は、晴菜のような美女に優しくされて、すっかりのぼせ上がってしまった。晴菜の好意を誤解し、晴菜に執着するようになった。
最初のうちは頻繁に話しかけてくる程度だった。話が合わなかったので晴菜は、相槌を打ったり、聞かれたことに答えるだけだった。
しばらくして、突然ラブレターを手渡された。メールのご時世で、いまどきラブレターである。便箋5枚にわたって細かい汚い字で一方的な思いが書き連ねられていた。
丁寧に断ると、一変して小田は晴菜には話しかけなくなった。ただ、大学にいるときはいつも晴菜が見える場所にいて、じっと見つめてくる。一言も話しかけないくせに、数日おきにラブレターを黙って渡される。晴菜への思いを書きつらねるだけでなく、アイドルの歌の歌詞をを丸写ししたり、自作の詩やら、自分の幼少時代のことやら、長々と書いてくる。晴菜はそのつど中身に目を通して、次の日に丁寧に断る。
晴菜の親友の倫子とも、大学で同じクラスになって知り合った。大学で最初に仲良くなった相手が倫子だ。倫子にとっては、親友の晴菜の周りを蠅のように気持ち悪い男が飛び回っているので、気味が悪くてしようがない。二度と近寄らないよう、小田には厳しく言うべきだと言う。だが晴菜は、傷つけるようなやり方で拒絶するのは気が引けた。はっきりと物理的に迷惑がかかっているわけでもないし。(倫子に言わせれば、はっきりと目に見える迷惑がかかっているのだが。)
数日おきに届くラブレターの内容は、次第に極端になって行った。あるときは晴菜とのデートの想像や、はては結婚生活の妄想までが書かれていた。またあるときは、まったく意味を成さない文字の羅列が便箋何枚にも渡って書いてあった。小田が作った暗号とのことだった。晴菜にだけ解読できるはずだと言う。晴菜にはまったくわからなかった。晴菜の1週間の行動が事細かに記載されていることもあった。「ぼくはいつも見守ってるよ」というメッセージが書き加えられていた。便箋はなしで、写真だけが送られてきたこともあった。全て盗み撮りだった。登下校や大学内での姿だけでなく、望遠で撮ったと思われる自宅内での姿や、家庭教師先で食事をご馳走になっているときの様子まであった。ラブレターというよりは脅迫状だ。
ここまで来ると常軌を逸しているのは明らかだった。
晴菜の自宅の近辺で、何度も小田らしい姿を見かけた。晴菜や倫子たちが気づくと、すぐに逃げてしまう。
立派なストーカーだ。いつも見張られていると思うだけで、晴菜は不安で心が落ち着くことがない。
さすがに寛大な晴菜でも、「迷惑がかかっていない」などとは言えない。それでも晴菜は、警察への通報を勧める倫子には反対する。
倫子は、クラスの男友達を使って晴菜の自宅の周囲を張り込んで、小田を待ち伏せした。クラスのアイドル晴菜のためなら、協力を惜しまない男たちは何人でもいる。
1週間くらいの長期戦を覚悟していたのに、あっさり初日で小田を捕まえた。デジカメを持って晴菜に付き纏っている最中だった。倫子が小田のバッグを調べると、晴菜の日常の行動、人間関係、趣味嗜好の(小田の独りよがりな)分析をびっちりと記録したノートやら、盗み撮り写真だらけのメモリーカードやら、ありとあらゆるストーカーの証拠が出てきた。ぞっとしたことに、いったいどうやって手に入れたのか、ケータイの電話帳のデータまであった。小田は、晴菜とケータイで話したことも、メールをやりとりしたこともなかったのに。
倫子は文字通り小田を吊し上げてから、晴菜に土下座して謝らせた。二度と晴菜に近づかない、晴菜の記録は全て破棄すると約束させた。小田は涙ながらに非をわびて改心を誓った。倫子があまりに厳しく追及し、小田があまりに惨めに見えるので、晴菜は心が痛んだ。だが、倫子からは前もって釘を刺されていたので、強いて小田に冷たい態度をとった。晴菜が小田に優しい態度を見せると、変な期待を残してしまう。そもそも間違いの始まりは、最初の飲み会のときに、晴菜が小田に対して示した、親切と気遣いだ。
最後に倫子は、知り合いの警察に知らせてあるから、今度晴菜に近づいたら逮捕されることになると、ハッタリをかけて小田を脅した。
それ以来、小田のストーカー行為はなくなった。手紙が届くこともなくなった。語学のクラスは欠席しがちになり、単位を落として再履修することになったらしい。同じ大学にいる以上、ときおり姿を見かけることはある。だが、晴菜が小田を避けたいと思っている以上に、小田のほうが晴菜を避けたがっているようだった。
だが、その小田が、また晴菜の前にいる。
もうすっかり小田からは解放されたと思っていたのに。
またストーカーされていたのだろうか? いつから?
ぞっとする。
晴菜は一歩後ろに下がる。
小田は眼鏡ごしの細い目をいっそう細めて、まじまじと晴菜の顔と、全身を見る。
「久しぶりだね。晴菜ちゃん」
こんな男からちゃんづけで呼ばれる筋合いはない。
小田が言葉を続ける。
「ひ、久しぶりに会ったせいかな、前よりもっとかわいくなったような気がするよ。以前でももう十分完璧なかわいさだったのに」
小田は、思いをこらえるように顔を歪ませて言う。
晴菜は小田の顔から目をそらして下を見る。相手からは怯えているように見える無警戒な仕草だ。
晴菜は小田の顔を見ずに、冷たい声で答える。
「ごめんさい、私、今帰るところだから」
「待ってよ。晴菜ちゃんに話したいことがあるんだ」
晴菜には、小田と話すような用はない。
「私、早く家に帰りたいの」
「じゃ、じゃあ、晴菜ちゃんのおうちにおじゃましていいかな?」
開き直ってやけくそになったのか、脅迫とも取れる言い方をする。小田が晴菜の自宅のほうに目をやる。小田は、晴菜の家を知っている。
この小田が家に上がりこむと想像するだけで耐えられない。
「わかった。用があるんでしょう? じゃあ早く話して。小田君が、また私に近づいたら警察に捕まるのよ」
「ああ、あの女はそう言ってたよね。で、でも、そのわりには、今もうずいぶん話したけど、警察は来ないんだね。なんでだろう?」
倫子の脅しがハッタリだとわかっていることをほのめかす。
回りくどくあてつけるような、粘っこい話し方をする。以前は、一方的で押し付けがましい話し方はしたが、こんなイヤミな話し方はしなかったはずだ。
晴菜への歪んだ思いが満たされなくて、さらに性格が捻じ曲がったということかもしれない。
小田が話を続ける。
「それにしても、さっきのあの男、見かけだけいいけど、中身はなさそうな男だね。あんな男とつきあってるの? あんな男が晴菜ちゃんのことを本当に思っているわけないよ。何でボクみたいな本当に晴菜ちゃんのことを好きな人を遠ざけて、あんな男に引っかかるんだろう?」
そう小田は不満そうに言う。
「弘充くんのことを言ってるの?」
恋人のことを悪く言われて、温厚な晴菜にしては珍しく声を強めて言い返す。
「思い込みだけで、弘充君のことを悪く言わないで。弘充くんのこと知らないでしょう? それに、小田君は、そもそも偉そうなこといえる立場じゃないでしょう?」
小田は、自分に対する皮肉は聞き流す。
「え? ああ、弘充っていうんだ。あの男。晴菜ちゃんのオ・ト・モ・ダ・チ」
恋人の名前を知られたことで、私室に入り込まれたような嫌な気持ちになる。
「あーあ、このボクにも、以前とは違って、晴菜ちゃんのことで知らないことがあるんだよね」
小田は悔しそうに、昔を懐かしむように言う。
「それは、小田君自身が……」
「別にボクは悪くないよ。ボクは、晴菜ちゃんのことを本当に理解したかっただけなのに。好きな人のことを理解したいと思うのは当然のことだろう? それなのに晴菜ちゃんは……。晴菜ちゃんは、本当はもっと素直な女の子のはずなのに。あの下川倫子とかいう女のせいだ。
周りのおかしな連中に変なこと吹き込まれたせいで、だから、晴菜ちゃんは、相手のことをよく知らずにあんな見かけだけの男に引っかかってしまったんだ。きっとあとで泣かされるんだあの男に。でも、こんなこと言いたくないけど、本当のことだから言うけど、晴菜ちゃんは人を見る目が曇っているよ。あの男にしても他にしても。ちゃんと相手のことを見なきゃ。ちゃんと相手の本当の価値がわかれば、あんな男じゃなくて、ボクを選ぶはずなのに。なんでわからないのかな。
それでも、ぼくは晴菜ちゃんのことを今でも愛してるから、晴菜ちゃんか気づくまで、いつまででも待っててあげるから。いつでも、本当のことに気づいたら、ボクのところにおいで」
自分勝手で脈絡のない小田の言い分を聞いていて、晴菜もいらいらする。
「私への用って、それなの? 弘充くんの悪口? 私への筋違いなお説教? じゃ、用が済んだんなら、私帰りたいんだけど」
晴菜は、なにより弘充のことを酷く言われたことにムッとして、言い返す口調は普段よりきつい。
小田は晴菜のいらだちを気にかけない。
「いや、本題はこれからだよ。
脅されたとはいえ、ボクも約束は守るつもりだったんだ。そのうち晴菜ちゃんのほうから気がついて、ボクに謝ってくるだろうから、それまでボクは晴菜ちゃんには近づかないことにしようっと思ってたんだ。でも、どうしても忠告してあげないといけないって思ってね」
前置きの長い男だ。
「さっきの下川倫子って女のこと。ボクの晴菜ちゃんがあの女に騙されたままなのは、どうしても我慢できないから」
親友の倫子は、晴菜にとって、弘充と同じくらい大切な存在だ。自分の大切な人のことを次から次へと中傷するのは許せない。
「弘充くんの悪口の後は、ミッちゃんの悪口? 聞きたくない。そんな話するなら帰って。ミッちゃんは私の親友よ。ミッちゃんのことは私がいちばんわかってるから、余計なお節介はけっこうです」
ますます口調がきつくなる。
「待ってよ。そんなふうだから、心配なんだよ。あの女は晴菜ちゃんが思っているような人間じゃないよ。晴菜ちゃんの、その……弘充? あの男はただつまらない男ってだけだけど、下川は、本当にヤなやつなんだから」
「小田君がミッちゃんにこっぴどく怒られたから、根に持ってるだけでしょう?」
「違うよ。あの女、表面では晴菜ちゃんの友達ヅラしてるけど、影ではなに思ってるかわからないって。いろいろ企んでるんだよ。
そうだ、知ってる? あの女、晴菜ちゃんをエサにして、晴菜ちゃんに寄ってくる男を片っ端から引っ掛けて、自分のものにしてるんだよ」
あまりの言いがかりだ。晴菜の怒りに火を注ぐ。
本当は小田の相手などせずにさっさと帰ったほうがいいのだが、言い返さずに入られない。
突然、晴菜のケータイが鳴って、口を開きかけた晴菜の勢いに水を差す。もどかしそうに留守番電話モードにしてから、早口で言う。
「そんなつまらないことが言いたかったの? それで私が驚くとでも思ったの? 男関係が派手だから、私がミッちゃんのこと見損なうとでも思ったの?
ミッちゃんの、その、男性関係くらい知ってるわよ。親友なんだから。おなか一杯になるくらい、何でも話してくれるよ。
で、その男の子の中に、前に、私のことを好きだって言ってくれた男の子だっている。でも、そんなの本人たちの自由でしょう? いちど私のことを好きだって言ったからって、他の子を好きになっちゃいけないってことないでしょう? それをどうこう言う必要もないでしょう? それを『私をエサにして』だなんて、言いがかりもいいところじゃない? 私は気にしてないし、本人たちもそんなつもりはないよ
難癖つけて、ミッちゃんのこと悪く言うのはやめて」
確かに、倫子は活動的で、男関係も派手だ。おとなしめの晴菜とは対照的だ。
倫子は、華やかで色っぽくて、男の子たちから言わせると、男好きのする顔だ。いつもセクシーな服を着ていて、それがとてもキマっている。気さくで、頭の回転が早くて話もうまく、倫子と話していると楽しい。
セクシーな魅力と、明るくさばけた性格のおかげで、倫子はモテた。だから、晴菜の周りにいる男の友人たちとも、くっついたりはなれたりを楽しそうに繰り返している。
男と気軽に遊ぶ倫子のノリは、晴菜には真似のできない生き方だ。けど、いまどきその程度のことで「乱れてる」なんて時代錯誤で馬鹿げたことを言うつもりはない。そんな些細なことで、倫子の本当の価値を見誤るようなことはない。
晴菜自身、倫子とつき合っている男たちと同じように、倫子に惹かれていると言っていいかもしれない。
倫子は、気さくで、簡単に相手の心に飛び込んでくる。何も考えずに好きに振舞っているように見える。晴菜に対しても、いつも下品なことを言ってからかって、晴菜を笑わせてばかりいる。
けれど、倫子は他人にとって何がいちばん大事かわかっていて、決して相手を傷つけることはない。相手にとって一番必要な瞬間に、簡単な一言を口にするだけで、相手の気持ちを楽にしたり、幸せにさせたりするという、そういう素敵な魔法を、倫子は使いこなす。
晴菜に見えている倫子の姿は、小田には絶対に見えないだろう。
どうせ小田は、倫子に厳しくしぼられたことを根に持っていて逆恨みしているだけに違いない。倫子と晴菜が仲の良いのを妬んでいるのだろう。晴菜が世間知らずに見えるから、倫子の男性関係のこと知れば、拒否反応を起こすとでも期待していたのだろう。小田は晴菜のことを、修道女か何かのように思っているのだろうか? そんな一方的な思い込みの枠にはめ込まれるのはゴメンだ。
「ミッちゃんは私の親友よ。大好きなミッちゃんのことを悪く言う人は、許せない」
そう言って晴菜は冷たく小田を睨む。普段は穏やかに澄んだ瞳だが、怒りがこもると、氷のような清冽な鋭さで、小田に切りつける。
おとなしい晴菜から思わぬ反撃を受けて、小田は落ち着きをなくす。戸惑った様子で口ごもる。なんとか晴菜に言いすがる。
「ま、待ってよ。違うよ。そうじゃないよ、晴菜ちゃん。晴菜ちゃんこそ、下川倫子のことを良いほうに考えすぎだよ。下川のこと何もわかってないんだってば。
そうだ、下川が最近凝ってること知ってる? うさんくさいんだよ。催眠術とか習ってるんだよ。周りの人に催眠術かけてイタズラしたりしてるんだよ」
倫子が催眠術に凝っているなんて聞いたことがない。
それに、もしそうだとしても、それが何なんだろう? たとえば、占いや手品を習っているからといって、何が悪いの?
ムリヤリな言いがかりだ。いい加減、小田の中傷も弾切れらしい。人間の器が小さいと、悪口のネタすら貧弱になるみたいだ。
「小田君。そろそろさよならしてもいい? けっこうな時間話しちゃったし。帰らないと」
「待って。ボクのこと信用してないね? 確かに、今の晴菜ちゃんは、下川にボクの悪口吹き込まれているだろうし、信用してくれないのはわかるけど。でも、本当なんだ。下川だけは信用しちゃダメだ。
わかって欲しいんだ。晴菜ちゃんのことを本当に思っているのはボクだけなんだ。いつか絶対思い知るハメになるんだよ。
下川は本当は晴菜ちゃんのことを妬んでるんだ。だから晴菜ちゃんに近づく男の邪魔をしてたんだ。それで今度も、晴菜ちゃんを陥れようとして、たぶん、何か……」
小田はますます余裕をなくして言いつのる。小田が晴菜に対して、イヤミさえ交えて脅す余裕があったのは、最初のうちだけだった。
逆に晴菜は、言いたいことを言い返してすっきりしたせいもあって、少し余裕が出てくる。意地悪な気持ちになって、小田に言い返す。
「ふーん、そう? ミッちゃんが、私にやってくれたことって、ああ、あれね、ストーカーやっていた誰かさんを撃退したっこと?」
「あれは……、いや、あれも……。いや、そういう意味じゃなく」
再び晴菜のケータイの着信音が、言い争いを妨げる。晴菜は今度も留守番電話に答えさせる。
晴菜は小田へのイヤミを言い足す。
「男の子がみんなミッちゃんとつき合っているのに、自分だけ相手にされないから妬いてるんだ?」
ふだんならこんな言葉は口にしないのだが、恋人や親友のことを馬鹿にされて、気持ちがささくれ立ったままだ。
「そんな。違うよ。ボクが下川になんて……。そんな酷いこと言わないでくれよ。ボクは、晴菜ちゃんのことだけを本当に愛してるんだよ。わかってくれよ」
情緒不安定になって、半ば涙ぐみながら小田はそう訴える。こんな情けない相手に、自分が怯えていたなんてウソのようだ。
「ゴメン。私帰る。
二度とミッちゃんの悪口は言わないで。弘充くんのことも。
言いたいことがあるなら本人に直接言って。どうせ言えないんでしょう? こそこそと暗い夜道で私を捕まえて悪口を吹き込むなんてこと二度としないで。
いえ、それだけじゃない。二度と私に近寄らないで。ミッちゃんにも。
そうよ、それって去年約束したことじゃないの。ちゃんと約束は守って。ホントに警察が来るわよ」
晴菜が立ち去ろうとすると、小田がその細い手首をつかむ。晴菜はぎょっとなる。生暖かくて汗ばんだ小田の手のひらの感触が肌に伝わってくる。
「待ってよ。晴菜ちゃん。ねえ、ボクの気持ちだけはわかって」
そう言って小田は晴菜に追いすがる。
「放して。帰るから」
晴菜が小田の手を振り払おうとするが、小田は晴菜の左手首をきつくつかんで放さない。つかんだ手首ををひっぱって晴菜を引き戻す。右手が振られて、お土産に買ってきたシュークリームの容器が地面に落ちる。容器の裂け目からクリームがはみ出して、土に汚れる。
「やめて。イヤ」
「聞いてよ、晴菜ちゃん。ボクの気持ちは本物だから。わかって欲しいんだ。あの下川に脅されて、晴菜ちゃんに会えなくなって、ボクがどんなに寂しかったか……。晴菜ちゃんを恨みそうになったくらいだよ」
小田は、晴菜の都合などお構いなしに、自分の思いだけを一方的に話す。
小田がさらに力を込めて晴菜の手首を引っ張る。華奢な晴菜の身体は勢いがついて、小田の身体にぶつかる。小田自身も一瞬戸惑った顔をするが、晴菜が身を引こうとすると慌てて、今度は晴菜の肩を掴んで逃がすまいとする。
小田の全身から汗の臭いがする。血走った目が晴菜を見つめる。晴菜の肩を掴んだ手に力が入りすぎて、肩が痛い。
小田は、情けなく涙ぐみながら懇願している。その表情には男らしさのかけらもないが、それでもれっきとした男だ。体力ではかなわない。がっしりと捕まえられて、倍近い体重のある男の体が威圧するように迫って来て、晴菜は恐怖がこみ上げる。
倫子からは、小田に会ったら、相手せずにすぐに立ち去るように言われていた。これまではそれを守っていたつもりだった。それなのに、その注意を忘れて相手をしてしまったのがいけなかった……。
「小田君。落ち着いて、お願い」
「落ち着いてなんかいられないよ。晴菜ちゃんがこんなにそばにいるのに。この1年間どんなにつらかったか……。せっかく晴菜ちゃんと会えて、こんなに近くに来れたのに。それなのに晴菜ちゃんは、ボクのことを無視して……」
小田の眼鏡が汗に曇る。膨らんだ頬が涙と鼻水で汚れている。小田はその顔を晴菜に近づけて話を続ける。
「ねえ? 知ってる? ボクが晴菜ちゃんに触るのは、最初の飲み会のとき以来だよ。うわっ、本当だ。今、ボク晴菜ちゃんと抱き合ってるんだ!」
自分の言葉をきっかけに、小田は興奮し始める。逃げようとしている晴菜の肩を両側からしっかりと掴み、小田と正面から向かい合わせる。
「晴菜ちゃん! ホントだ。晴菜ちゃんだ!」
ますます興奮して、言葉に脈絡がない。
ふと、小田の視線が晴菜の顔から反れて、晴菜の胸元に向かう。コートの下のニット越しに、胸のふくらみに視線が吸い付いて来るのがわかる。晴菜はぞっとする。
「小田君。言いたいことはわかった、でも、痛いから、ちょっと楽にさせて欲しいの」
「わかったって? なにが? 晴菜ちゃんは、ボクのことなんかぜんぜんわかってない。晴菜ちゃん、ボクの手紙読んでくれたのに、なんでわからないの? 本当にボクの気持ちを理解してくれたら、あんな男に引っかかったりしないはずだ。今すぐあの男と別れて、ボクとつきあってくれるかい?」
「そんな……。そんなのむちゃくちゃよ」
小田が何かに気づいたようにはっとなる。興奮気味だった声のトーンが低くなる。目が据わる。
「ねえ晴菜ちゃん。まさか、あの男とイヤらしいことしたんじゃないだろうね?」
言いながら、何を想像しているのか、小田の視線は晴菜の胸元から下半身へと絡みつく。
嘘の苦手な晴菜は、思わず目をそらして、黙り込んでしまう。
小田は晴菜の顔を見ていない。晴菜の身体をじろじろと見つめながら、小田の目が異様な光を帯びる。
小田の様子が変わったことに晴菜も気づく。荒んだ空気が、小田の全身から滲み出る。
「お、小田君……?」
「寝たんだなあの男と? そうなんだ、やっぱり。何で気づかなかったんだ。そうだよ、あの男が晴菜ちゃんの身体を放っておくわけがない。ああ……そんな……晴菜ちゃんが……ボクの晴菜ちゃんが」
小田は、左手を晴菜の細い腰にしっかりと回して逃げられないようにしてから、太い指で晴菜の頬に触る。
晴菜はヒッと言って顔を背ける。
頬に触れた小田の手が首から胸元へと下りてくる。ニットの上から晴菜の胸のふくらみに触る。服の上からでも気持ち悪い。
「あの男、晴菜ちゃんを抱いたんだ……この晴菜ちゃんを……」
「や、やめて、小田君」
大声を上げるべきなのだが、声がかすれてしまう。
小田は完全におかしくなっている。
本当に、襲われる!
逃げようと必死にもがくのだが、びくともしない。しまりのない脂肪だらけの小田の身体の中に、いったいどんな筋肉があるのか。
「晴菜ちゃん……、汚れてしまった……いや、まだ……いっそ今からでも、ボクがこのまま……」
冷たい目で恐ろしいことを口にする。
「そんな、ダメよ。お願い。小田君。小田君は、そんなことする人じゃないでしょう?」
「そんなことってなに? え? なんだよ? ンフフフ、なんだ、わかってるんだぁ? ボクに胸なんか触られながら?」
晴菜は絶望的な気持ちになって、涙ぐむ。
「違うの。ねえ、だめよ。わかってるでしょう? 小田君自身も言ってたじゃない。私の気持ちが変わるまで待ってくれるって。こんなことしちゃだめよ」
小田は、答えない。ハアハアと息を吐きながら、晴菜の胸のふくらみを強く押さえる。何を考えているのか、小田は口の中でクスクスと笑い声を上げる。
晴菜は続ける。
「ねえ。小田君。聞いて。私、もう一度考えてみるから。だから今こんなことするのはやめて」
自分でも心のこもっていない言葉だとわかっている。でも、何か言わないと。
小田は晴菜の言葉を聞いているのかいないのか、血走った目で晴菜の身体を舐めるように見る。
住宅街の真ん中で、若い女が男ともみ合っているというのに、人が通りかかって気づく気配はない。晴菜が大きな声を上げれば誰かに気づいてもらえたのだろうが、とにかく小田を説得しようと思いつめ切羽詰っている晴菜には、助けを呼ぶといった考えが思い浮かばない。
突然小田は、晴菜のニットの裾に手を入れようとする。
「キャッ、やめてよ、小田君。お願いだから」
晴菜は、小田から離れようと力を込めながら、涙ぐんで懇願する。ねっとりと汗ばんだ手のひらでお腹の肌を直接触られる。体中に鳥肌が立つ。恐怖で身体を慄わせる。
だが突然、何がきっかけになったのか、小田の表情が急に気弱なものに変わる。はっとしたようになって、晴菜の身体から手を離す。小田が後ろに飛びのく。小田から逃れようと身体に力を入れていた晴菜は、その拍子に反対側に倒れる。
「ゴ、ゴメン。晴菜ちゃん。ボク、なんてことを……。なんで、こんなことを……」
急のことで晴菜には何がどうなったのかわからない。ただいずれにせよ、突然小田が理性を取り戻したか、弱気になったかで、助かったということがわかった。
よかった……。
でもまだ完全に危険が去ったわけではない。
晴菜は、上半身を起こす。足首が痛む。倒れた拍子にひねったらしい。アスファルトの上で横膝に座る。
逃げないと。
だが、うまく立ち上がれそうもない。
小田は、泣きながら何ごとか謝っている。晴菜が立ち上がろうとするのを見て、急に思いついて、助け起こするもりなのか晴菜のほうに手を伸ばしてくる。だが、脅えた晴菜が小さな悲鳴を上げると、慌てて手を引いた。
「ごめん。驚かせちゃった? 晴菜ちゃん。本当に、そんなつもりなかったんだ……」
小田がだらだらと泣きながら謝り続ける。
そのとき遠くから、女の叫び声で呼びかけられた。
「ハルハル!」
晴菜をその呼び名で呼ぶのは倫子しかいない。
見ると、曲がり角から、倫子が晴菜のほうを指差しながら叫んでいた。
「ハルハル? いた! やっと見つけた! 大丈夫!?」
ミッちゃん!
ほっとして緊張が緩んで、晴菜は泣き出す。
ミッちゃんだ。いつも、困ったとき、危ないときに助けてくれる。
涙で声が詰まった。うまく声が出ない。
とにかく倫子に伝えたくて、大きく手を振った。
倫子が叫んだ。
「ハルハル? 今行くから」
そして小田に気づいて声を荒げる。「あんた、オタ! やっぱり! なにしてるのよ! ハルハルになにをしたの?」
小田がびくりとする。倫子の姿を認めると、腰を泳がせる。
「オタ! 動くなよ。もう1回ハルハルに触ったら、殺すよ!」
カツカツとハイヒールを響かせて、倫子が駆け寄ってきた。
小田が倫子を避けるように1歩退くと、倫子は小田を睨みつける。倫子は左手の指輪を確かめてから、無言で拳を振って小田の側頭部を殴りつける。指輪の石をもろに食らって、小田が苦痛に顔をゆがめる。頭を抑えてかがみこんで、気弱そうに謝る。
「ゴ、ゴメン。その、そんなつもりじゃなかったんだ」
髪の毛の下で肌が切れたらしく、頭を抑える小田の指に血がついている。
倫子は、小田を無視して、晴菜の前に屈み込む。晴菜は思わず倫子に抱きつく。捻った足首が痛む。でも今は気にならない。
倫子が晴菜の肩を抱いてくれる。
「ハルハル。良かったぁ。もう大丈夫よ。怖かったよね?」
晴菜は泣きながらうなずく。
「ミッちゃん。来てくれたんだ。ありがとう。本当にミッちゃんはいつも私のことを守ってくれる……」
その後は嗚咽で言葉が続かない。
倫子がハンカチで涙を拭いてくれる。
「オタに何かされる前に間に合ってよかった」
「うん。でも、怖かった」
また感情がこみ上げてきて、涙が溢れ出す。
倫子はもう一度は晴菜の肩をしっかりと抱く。
「もう大丈夫よ。もう怖くないから。ほら、泣かないで。せっかくの美人が涙で台無しよ」
「大丈夫になったのは、本当に、ミッちゃんのおかげ。ミッちゃんて、私の守護天使みたい。偶然だなんて思えない。どうして私が危ないってわかったの?」
倫子は、晴菜の自宅と同じ麻布に、マンションに1人暮らしをしている。でも、いくら近所でも、たまたま晴菜が困っているときに通りかかるなんて、まさに晴菜を守ってくれているとしか思えない。
「いや、そんな、守護天使だなんて。ゴメン。ほんとはもっと早く来てあげないといけなかったんだし」
晴菜は首を大きく横に振って否定する。倫子が謝ることなんて何もない。ぐずりながら倫子に言う。
「そんなことないよ。ミッちゃんのおかげで危ないところ助かったんだから」
「いや、違うのよ。今日ね、夕方そこのセブンイレブンでオタのこと見かけたのよ。そのときに気づくべきだったのよね。でも、なーんにも気づかなくて。久しぶりに嫌な顔見たなーってくらいで。
よく考えたら、オタが住んでるのって、千葉県だか茨城県だかあっちの方なんだから、こんなところにいるだけで怪しんでしかるべきだったのよね。
で、ずーっとそのまま気づかなかったんだけど、ちょっと前にハルハルからメールが来て……。あの《楽しいドライブも終わり。グスン》ってやつ」
そこで倫子は安心させるように晴菜に笑いかける。いつもと同じ笑顔がとても愛しくて、晴菜はまた目が熱くなる。すぐに倫子が涙を拭いてくれる。
「そのメールもらってしばらくしてからね、オタのこと思い出したのよ。あの汚い男がここにいるのって、ハルハルが目当てとしか考えられないじゃない?
慌ててハルハルのケータイ呼んでみたんだけど、留守電だし。ちょっとマジ不安になって。家に電話入れてもまだ帰ってないって言うし。
で、様子見に来たの。
でもまさか、晴菜を襲うなんて思わなかった。引きこもりのストーカー風情がそんな大胆なことするなんて。
ハルハル、ごめんね。私がしっかり気づいてたら、こんな目にあわせなくて済んだんだけど」
そんな理由で倫子が謝る必要はないのに。
倫子の気持ちが嬉しくて、晴菜の目にまた涙が溢れる。泣きながら答える。
「ううんん。そんなことないよ。そんな、謝らないで。実際、ミッちゃんはこうやって助けてくれたんだし」
さっき小田が、さんざん倫子のことを中傷していたことを思い出す。倫子が晴菜のことを恨んでいるとか何とか。このやり取りを見れば、倫子が晴菜のことを大切に思ってくれていることがわかるはずだ。小田の中傷が、言いがかりだということを、小田自身も思い知っただろう。
晴菜の視線を追って、倫子も小田のほうを睨みつける。小田は、恨みっぽい目で倫子の方を見ていたが、慌てて視線をそらす。
倫子が毒づく。
「この男、あれだけとっちめてやったのにまったく懲りてなかったのね。今度こそ警察に突き出してやる」
だが結局、小田が警察に突き出されることはなかった。
もちろん今度ばかりは晴菜も、小田に温情をかけるつもりはなかった。だが、倫子が男友達の司法受験生に電話して経緯を相談してみたところ、気がかりなことがわかった。
たしかにストーカー規制法という法律があるので、小田を警察に連れて行けば、処分してもらえるだろう。だが、倫子が小田を殴ってケガさせたことも、傷害罪として問題になる可能性が、一応はある。単純に刑罰だけを言えば傷害罪のほうが重い。
倫子は、ここでキチガイの小田を野放しにしたら一生後悔するから、傷害罪くらい気にしないと言ってくれた。でも晴菜にしてみると、小田ごときのために大切な倫子に迷惑をかけるわけには行かない。
倫子は、自分のせいで小田が無罪放免になるとわかって、憤懣やるかたない。「だったらもっと殴ってやる」となにやら物騒なものを振り上げそうになるので、晴菜は止めた。
小田は、さんざん倫子に、罵られたり脅されたり唾を吐かれたり小突かれたり蹴られたり殴られたり髪の毛を引き抜かれたりしたものの、警察に連れて行かれることだけは免れた。
倫子は、後日もう一度小田に会って、今度こそ完全に話をつけたと言っていた。晴菜は、もう二度と小田の話は聞きたくないので、それ以上の詳しいことは聞いていない。倫子は「物理的にも精神的にも手段をつくして説得したら、最後はとても素直だった」と要約していた。なんだか不穏な響きがあるので、いろんな意味で聞かなくて正解だったのだろう。
数ヶ月がたった。
以来、小田の姿は一度も見かけていない。倫子によると大学にもほとんど来ていないはずだと言う。
晴菜と弘充の恋人たちは、いっそう仲良くなった。周りが羨む美男美女のカップルだ。
晴菜と弘充は、弘充の友人の山越崇行と、倫子も交えた4人で、一緒に色々な場所に遊びに行った。
晴菜が睨んだところでは、例によって男関係の派手な倫子は、とっくに崇行と寝てしまっているようだ。苦笑いするしかない。
ただ、倫子と崇行との関係は、これまでの倫子の男関係とは違うように見える。晴菜は気づかないふりをしている(つもりだ)が、倫子と崇行だけで、目と目で会話していることがある。開けっぴろげな倫子が、こういう秘密めいたやり取りを男とやるのは初めて見た。晴菜としては、倫子を取られたようでさびしい気がすることもあるが、見ていて、なんだかいいカンジ。
とはいえ、倫子と崇行はまだ、つきあっているというわけでもないようだ。
男女の機微は、晴菜にはよくわからない。
二人はウマが合うようだし、互いのことを気に入っているのは確かだ。ちゃんと二人がつき合ってくれてたら嬉しいのになと、晴菜は思う。そうすれば、本当のダブルデートになる。
この冬は、弘充にスノボを教えてもらった。
倫子と崇行が上級者コースで颯爽と滑っている間、晴菜は雪にまみれながら、弘充の懇切指導を受けた。
聞いていていたとおり、スノボは案外簡単に滑れるようになる。晴菜は、1日でずいぶん上達した気になった。2日目、調子に乗った晴菜は、上達ぶりを弘充に見せびらかしたくて、スピードに乗りすぎて転んだ。思わぬスピードに慌てていた晴菜は、無理な体勢になってしまって、転んだときに足を挫いた。
弘充の背におんぶしてもらって、降りることになった。
カッコつけようとしてケガをしたのは恥ずかしいけど、弘充の背中にずっとしがみついてられるのは、ちょっと嬉しいかも。少し甘えてみちゃおう。
弘充に負ぶさって斜面を降りていると、急に天気が悪くなった。降った雪が風で地面から吹き上げられて、目の前が見えなくなる。晴菜は、遭難したと本気で思った。弘充がケータイで連絡すると、崇行はスキー場の職員と一緒にスノーモービルで迎えに来てくれた。
ただし。
崇行が救援隊を率いていた間に倫子は、ラウンジで地元の男の子にナンパされまくっていたらしい。「されていた」のではなく、むしろ倫子の方からナンパしていたのではないかと、晴菜は疑っている。まさに、崇行が目を離した一瞬の隙に……。
まったく信じられない! 親友が死にかけていた(と晴菜は信じている)というのに! 親友の生き死によりナンパのほうが大事なの!? たまたま助かったからいいものの、もしナンパしている間に私が死んでたら、ミッちゃん、一生後悔したはず!
もうスノボはこりごりだ。
なのでその後は3週続けて温泉に行った。倫子からは、湯治旅行なんておばあちゃんみたいとからかわれたが、やはり温泉は、日本人の心のふるさとだわ~。
温泉なので、卓球をする。そしたら、スポーツ万能の弘充に初めて勝てた! 晴菜は無邪気に喜んでいた。
ところが。
弘充が手を抜いてことがわかった。
そういうのが晴菜は嫌いだ。真剣勝負のふりをして、手を抜いて勝たせてやるのは、やさしさではない。素直に喜んでいた相手が惨めだということがわかっているのだろうか? 憐れみは、相手を見下すことだ。晴菜は弘充に甘やかして欲しいわけではない。対等の関係でいたいし、嘘でまがい物の満足を与えられるような、弱い存在ではいたくない。
晴菜にしてはめずらしく、むっとした態度を隠そうともしなかった。
弘充は真剣勝負で再戦した。晴菜はこてんぱんにやられてしまった。
でも、このほうが何倍もまし。
「手抜き卓球」の件でもそうだが、弘充がやさしいのはいいとしても、やさしすぎる。晴菜に気を使いすぎ、保護者のように接することがある。晴菜としては、自分が半人前の、頼りがいのない軽い人間に見られているようで、不満だった。まるで晴菜が弘充の負担にになっているみたいで、さびしかった。
でも一方で、それが弘充の愛情と思いやりのあらわれだいうのもわかる。晴菜が不満に思うのは申し訳ないような気もして、はっきりと口に出すのがためらわれる。
そんな気持ちを心の中に溜め込んでいると、晴菜の気はふさぐし、当然相手も気詰まりな空気に気づく。
弘充には、晴菜が何が不満なのかわからない。晴菜の機嫌をなだめようとして気をまわすと、逆にかえって機嫌が悪くなるのが理不尽に思える。
不満をお互いに我慢して溜め込んだ挙げ句、食事に行ったときに勘定をどちらが払うかなどという、些細なことがきっかけで大喧嘩になった。そのあと、何日もの間、口をきかず、連絡をとらなくなった。
倫子と崇行は、二人のそれぞれから経緯を聞いた。きっかけがあまりにもくだらないのに呆れてしまった。晴菜も弘充も、「それは単なるきっかけで、その前にこれこれこういうことがあって……つまり、アイツは自分の気持ちをわかってくれない!」と深刻そうに話す。たしかに行き違いがあったことはわかるのだが、二人が一生懸命話すその事情も、聞きようによってはただのおノロケだ。
倫子と崇行は、最初のうちこそ、口もきかない恋人たちの仲をとりなそうとしていた。だが、すぐにばからしくなった。
夫婦喧嘩は犬も食わない(夫婦なのか?)。
倫子と崇行で示し合わせて、晴菜の前で弘充の話はせず、弘充の前で晴菜の話はしないことにした。
若い恋人たちに、兵糧攻めは効果的だった。晴菜も弘充も、相手の話が全然伝わらないと気になってしょうがないらしい。晴菜は、それとなく、しかし執拗に、弘充のことを聞こうとする。弘充のほうも同じだ。
倫子が面白がって、晴菜の前で「合コンするからタカユキに男子のメンツを集めさせている」などと話すと、晴菜はしきりに男子の参加者を知りたがる。倫子は、「タカユキと仲のいい男なんて、だいたい知れてるでしょ」などと、わざと晴菜を焦らしてやる。晴菜はとたんに落ち着きをなくし、そわそわとし始める。合コンなんて興味がないはずなのに、まるで参加を迷っているかのように装って、詳しく聞きたがる。笑いをこらえるのに必死だったと、今でも倫子は晴菜をからかう。
晴菜と弘充は、2週間意地を張り合った。2週間の絶交の最後に、晴菜のケータイに山越崇行の番号から電話が入った。出てみると弘充だった。その電話は、崇行が、自分にかかってきた弘充からの電話を、勝手に転送したものだった。晴菜は、弘充の声を聞いた途端に、飛んで会いに行った。
仲直りした晴菜と弘充は、以前にましてラブラブぶりだ。
やってられないので、倫子と崇行は、二人に焼肉を奢らせた。それでも足りないので倫子は、高いワインを次々と注文しては飲み干してやった。
晴菜にとってうれしいことに、3年生のゼミは、4人そろって大嶋教授のゼミに入ることができた。4人とも成績がいいので、ゼミの選考では強かった。
晴菜は今、啓知大学の3年生だ。誕生日がまだ来ないので二十歳だ。
清楚で上品な美しさが深みを増して、微かに匂い立つような大人の色気も加わった。男たちだけでなく女子学生までも、憧れと羨望のまなざしで、晴菜を見てはため息をつく。
晴菜がミス啓知大学のコンテストにエントリーしないので、ミスコンはいまいち盛り上がらない。もっとも、晴菜がエントリーしたら1位獲得が確実なので、それはそれで、盛り上がりをそぐことになりかねない。でもやはり、本命不在ではミス啓知大学の権威に響く。コンテストの実行委員は頭を抱えている。
4月に新入生として、人気アイドルの佐倉ユウキが入学してきた。受験を舞台にした青春ドラマに主演して人気を集めた直後に、自らも名門大学に入学したので、話題になった。マスコミやファン、学生たちが殺到してトラブルにならないよう、大学側も事務所も対策に万全を期した。
だがいざ蓋を開けてみると、キャンパスには佐倉ユウキよりも美しい女子大生がいる。騒ぎは起きなかった。
事務所は晴菜をスカウトしようとしたが失敗した。佐倉ユウキは、タレントでもない晴菜に対抗心を燃やしているらしい。噂では、佐倉ユウキの人気が最近かげり気味なのは、小野寺晴菜のせいだと言う。ファンたちが佐倉ユウキ目当てに大学にやって来て、晴菜を目にして心移りするからだと言う。
そんな噂が出るくらい、小野寺晴菜の美しさは、キャンパスで際立っていた。啓知大学の学生にとって小野寺晴菜は、ほとんど伝説といってよかった。
―――
機が熟した。
< つづく >