女王の庭 第9章

第9章 迷宮の小鳥 (1/3)

 ポスターの中から、エビちゃんがこっちを見つめている。顔をわずかに左に傾け、上目使い気味に大きな瞳を輝かせて、ニッコリ笑いかけてくる。

 ふえー、かわいいっ。

 里穂はうっとりと見つめる。
 KanKamのキラキラしたロゴの上に、太い赤のフォントでコピーが印刷してある。
《エビちゃんになろう!》

 うん、なりたいっ。
 ……って普通の人なら思うんだろうね。

 でも、わたしには通用しません。
 たしかにエビちゃんはかわいい。最近も、ますますキレイになってる。
 さすがのわたしも、いま一瞬、クラクラ来ちゃいました。
 そこまでは認めてもいい。

 でもね、エビちゃん。
 私の家庭教師の小野寺センセイのほうが、ぜんぜんキレイだよ。
 それにね。エビちゃんはかわいいんだけど、ちょっとバカっぽいの。
 小野寺センセイはそんなことないからね。知的で上品。

 あ、エビちゃんごめんね。ちょっとキツかった?
 でも、見比べてみたら一目瞭然だよ。
 ほら。

 里穂はケータイを開く。待受画像は、里穂が大学に遊びに行ったときに一緒に撮った写真だ。小野寺センセイと、小野寺センセイのカレシの今井さんと、里穂自身が並んでいる。
 カッコいい今井さんはさわやかな笑顔。その横で、優しくはにかむ小野寺センセイ。
 里穂だけハシャいで、両手でピースをしたのは失敗だった。1人だけ子供っぽく見える。
 でも、なんだか家族写真みたいで、里穂は気に入っている。

 ケータイの画像のドットが粗いので、ビュワーで表示して、センセイの顔を拡大してみる。平積みのKanKamを手にとって、表紙のエビちゃんと、ケータイの小野寺センセイを並べて比べる。

 はらね。やっぱりセンセイのほうが美人だ。あんなにカンペキに見えたエビちゃんスマイルも、センセイと並べてみると下品に見えちゃう。
 小野寺センセイは、ケータイの小さい画面でもこんなにキレイ。実物を間近から見ると、ホント、意識が飛んでいきそうなくらい美人なんだから。

 だめだなぁ、エビちゃん。モデルなのに、パンピーに負けちゃってるよ。
 エビちゃんがトップとってられるのは、小野寺センセイが謙虚で、家庭教師なんてバイトに身をやつしているおかげなんだよ。エビちゃんは、小野寺センセイに感謝しなきゃいけないんだよ。

 私はね、《エビちゃんになろう!》じゃなくて、《小野寺センセイになろう!》。
 これで行きます。

 私もすぐに、センセイみたいにキレイになるんだ。
 私、小野寺センセイみたいに謙虚じゃないから、遠慮なくエビちゃんを追い落としちゃうかも。
 そんなことになっても、恨みっこなしね、エビちゃん。

 と、あつかましくもエビちゃんに向かって勝利宣言までしたくせに、エビちゃん表紙のKanKamは、手に取ったついでにそのまま立ち読みする。
 里穂の横で店員が散らかった雑誌を整えている。
 里穂は、ページをめくりながら身体を前に寄せて、歩きまわっている店員を通す。

 来週の土曜日に里穂は、小野寺センセイや今井さんとダブルデートに行くことになっている。

 どんな服を着ていこう?
 今井さんに子供だと思われないように、大人っぽいオシャレしていかないとね。

 こっちの相方はシュウ君だからなぁ。シュウ君は、子供だからなぁ。まあ、そこが可愛いんだけど、でも、一緒にいると私まで子供に見えちゃうよ。
 それでなくても小野寺センセイに並んで立たれると、どうがんばっても、見劣りしちゃう。
 ファッション雑誌でも何でも使って、武装しないとね。
 来年は大学生になるし(その前にある大学受験は、とりあえずないことにしよう)、bisもなくなっちゃったし、そろそろ私もKanKamかJeyJeyだよね?(Reyでもいいけど、WiWiはなんとなくイヤ)

 まあ、KanKamも、しょせんエビちゃんの雑誌だから、センセイには敵わないんだけど。
 それに、この「モテ系」とか「愛され系」とかって、なんだかなぁ。

 里穂は、読者モデルが写ったページを、軽く指で弾く。
 胸元をふわっとさせて、ヒラヒラのいっぱいついたベビードールのワンピースに、ジーンズ。
 そんな格好、小野寺センセイはしてないよ。
 大学に遊びに行ったとき、小野寺センセイの友達のミッちゃんは、こんな格好をしてたっけ。でも、ミッちゃんみたいな美人が「愛され系」で武装しても、小野寺センセイには負けてた。

 うーん、わたしに似合うかなぁ。
 制服に着慣れちゃったせいかもしれないけど、私は、もっとエレガントなほうが好きだな。小野寺センセイを目指すなら、そっちの方向を習得しないといけないよね。

 里穂は、パラパラとページをめくる。
 さすがにエビちゃんは、小野寺センセイの次くらいにはかわいい。いろんなポーズをとったエビちゃんの写真に見とれる。
 なにげなく写真の上を見る。そこに印刷されたキャプションを見て、呆れてしまった。

 うわ、なにこれ。《もみじ色のエビちゃんネイルで、カレシのハ~トももみじ色に染めちゃうの》だって!
 うゎ。恥ずかしー! これじゃあ、エビちゃんがかわいそう!

 里穂がニタニタ笑っていると、近くで雑誌を整えていた店員がうさんくさそうに里穂の方を見る。里穂は慌てて、いったんページを閉じる。ケータイの画面を見ているそぶりでごまかす。ケータイの画面に写った小野寺センセイに、心の中で話しかける。
 ねえ、小野寺センセイ。小野寺センセイは、こんなバカな雑誌、読まないですよねえ?

 笑いが収まってから、指を挟んだページをもう一度開く。
 エビちゃんが、顔の前で指を開いてネイルを見せている。その表情は、猫のようにカワイくてコワク的だ。
 でも、その上にあるキャプションは、やっぱりヘン! しかも、たかがネイルで「カレシのハートを染めちゃう」だなんて。あ、「ハート」じゃなくて、「ハ~ト」だ。バカすぎる!
 くすりと声を漏らしてしまった。

 店員さんがまた里穂の方を見る。視線が、妙に険しい。
 そういえばこの店員は、さっきからずっと里穂の周りを離れない。散らかった雑誌を整えるにしては時間をかけすぎている。
 見ると、雑誌スタンドも平積みも、さほど散らばっているわけでもない。
 店員は、同じ雑誌を動かして、元に戻す動作を繰り返す。そして、重々しく手を止める。左手を壁について、これ見よがしにじろじろと里穂を見る。
 壁に置いた左手の移置が、体重を支えるにしては不自然なポジションにあるのが気になる。その左手の指は、壁の貼り紙を里穂に指し示しているように見える。
 里穂は貼り紙の字を読んだ。
《携帯電話で雑誌を撮影するのはご遠慮願います》

 え?

 里穂は自分の手元に目を下ろした。
 エビちゃんの笑顔が表紙のKanKam。雑誌の背を支えている里穂の左手の指から、フラップを開いたままのケータイがぶらさがっている。
 さっきから里穂は何度も、ケータイの小野寺センセイを見ては、雑誌のエビちゃんと見比べていた。

 もう一度店員の方を見た。
 店員は、里穂の手元のケータイを、じっとにらんでいる。里穂の視線をとらえると、店員の指先が、貼り紙の字をなぞるように動く。
《携帯電話で雑誌を撮影するのはご遠慮願います》

 疑われている!
 うわっ! 違います! 違うってば。私、そんなことしてないってば! ケータイで小野寺センセイ見てただけだってば。だいたい、エビちゃん撮ってどうするのよ? 小野寺センセイのほうがキレイなんだから!

 慌ててケータイをパタンと閉じる。ばたばたとKanKamを平積みに戻した。雑に置いたので表紙の角が少し折れる。
 折れた表紙を、急いで指先で伸ばす。

 今の、見てました?
 おずおずと店員の方をうかがう。
 里穂の慌てた動作は、完全に裏目に出ている。店員は確信ありげな目つきで里穂の方を見ている。

 店員さん! だから、違うってば。そんな目で見ないでよ。私、何も悪いことしてないってば!
 取りつくろうつもりでもう一度KanKamを手に取る。
 手に持ったはいいものの、どうしていいかわからない。

 結局、いたたまれなくなった里穂は、表紙の角の折れたKanKamを買ってしまった。
 うう。お小遣いがもったいない……。
 わたしが、小野寺センセイから一瞬目移りして、エビちゃんに見とれてしまった罰?
 表紙のエビちゃんの笑顔はまるで、里穂をからかって笑っているみたいだ。

 こんな雑誌買ってもなぁ。
 「エビちゃんネイルでカレシのハ~ト」なんて言ってる、こんなおバカな雑誌で、小野寺センセイに近づけるとは思えない。
 《小野寺センセイになろう!》という目標が、ますます遠のくような気がする。

 あーあ。来週の土曜日は、いったい何を着て行けばいいんだろう?
 小野寺センセイに聞いてみよっか? 家庭教師なんだから、オシャレも教えてくれるかな? 月謝にはその料金も入っているかも?
 来週どんな服着て行ったらいいと思います? どうしたら、小野寺センセイみたいにキレイになれるか教えてください。

 なんてね、あはは。
 小野寺センセイと今井さんに見てもらう服を、小野寺センセイに相談するのって、なんかほんとに子供みたい。それこそ今井さんに笑われちゃう。

 あ。そうだ!
 ミッちゃんに相談してみるってのはどうだろう?
 小野寺センセイの服はコンサバだけど、それに比べるとミッちゃんの服のほうが流行りっぽい服だ。そう、それにだいたい、小野寺センセイにアドバイスしてもらって、同じような格好しても、センセイに敵うわけないもんね。ここは私も、ミッちゃんの「せくしぃ」風味をちょっと足して、オトナの仲間入り……なんていいんじゃない?

 ミッちゃんの連絡先は知っている。
 小野寺センセイと大学に遊び行ったときに、おふざけでミッちゃんに催眠術をかけてもらった。おふざけのつもりだったのに、本当に催眠術にかかったので、里穂が感動してたら、「またのご利用お待ちしてま~す」って、番号とアドレスを教えてくれた。
 ミッちゃんなら、里穂が連絡しても、たぶんウザがったりしない。
 人見知りな里穂が、ミッちゃんとは、初対面のときからすぐに打ち解けた。ミッちゃんも里穂のことを「小さなハルハルみたい~」と、可愛がってくれた。

 里穂が電話をかけると、ミッちゃんは機嫌よく相談に乗ってくれた。
 その後ミッちゃんとおしゃべりして、ずいぶん長電話をしたような気がする。

 でも、いったい何の話をしたんだっけ?

 今井さんとも、ミッちゃんとも、初めて会ったのは、小野寺センセイに大学に連れて行ってもらったときだ。

 初対面でミッちゃんは、里穂を見るなり、こう言ってくれた。
「ウソ! カワイイっ。ハルハルの妹みたい!」
 ハルハルというのは、小野寺センセイのことだ。それに気づいた途端、空に浮かび上がるような幸せな気持ちになった。

 私のこと、小野寺センセイの妹だなんて! 嬉しい。センセイと血が繋がってるように見えるだなんて、最高の褒め言葉。

 いっぺんにミッちゃんのことが好きになった。

 ミッちゃんは、里穂と小野寺センセイとのおしゃべりの中で、よく登場していた。だから里穂は、会ったことはなくても、名前もキャラクターもわかっている。
 小野寺センセイとミッちゃんの会話を横で聞いていると、この二人は本当に親友同士だというのが、よくわかった。
 小野寺センセイは、家庭教師をしているときはしっかりしたお姉さんで、里穂の前で落ち着いた大人の側面しか見せていなかった。そんなセンセイが、ミッちゃんにからかわれて子供のように無邪気な表情を見せるのが、意外だし、可愛らしかった。

 普段、小野寺センセイは里穂に、ミッちゃんのことならよく話してくれた。けれどカレシのことは、恥ずかしがってあまり話してくれなかった。
 里穂が、「シュウ君のことはちゃんと話したのに~」としつこく駄々をこねても、うまくはぐらかされてしまう。写真も見せてくれないし、名前さえわからない。里穂が知っているのは、同じ大学の、同じ学年ということくらい。
 なので、里穂は、今回の大学見学の最大の目的は小野寺センセイのカレシに会うことだと、心ひそかに決めて来ていた。
 里穂の大好きな小野寺センセイを奪った男の正体を、確かめてやるんだ。つまらない男だったら、ゼッタイ許さないからね。

「早くセンセイのカレシに会わせてくださいよぉ」
 里穂が何度もセンセイにせがむのに、センセイはいつものように、なんだかんだ言って話をそらす。
 センセイ、往生ギワが悪いですよ。

 里穂と小野寺センセイの会話を横で聞いていたミッちゃんが、事情を察して(というか、小野寺センセイが恥ずかしがっているのを面白がって)、手を回してくれた。

 ミッちゃんがいなくなったなあ、と思っていたら、しばらくして男の人を連れて戻ってきた。
 行方不明になっていたミッちゃんを見つけて、里穂が手を振る。
 そのときはまだ、隣にいる男の人が、センセイのカレシだとはわからなかった。
 でもカッコいいから、すぐに目についた。
 目元が涼しくて、綺麗な目の光には柔らかい落ち着きがある。表情に余裕があって、頼もしそう。ジャニーズ系みたいに甘くなく、地に足がついてる感じが、まさに大人って感じがして、里穂の好きなタイプ。

 里穂がぽわーっと見とれていると、その男の人が里穂の方を見る。里穂に笑いかけて来る。
 うわっ! 目が合っちゃった!
 里穂は慌てて目をそらす。ドキドキしちゃう。

 里穂の隣で、センセイも急にそわそわしているようだ。
 あーセンセイみたいな美人でも、いい男に会うとこんなふうになるんだぁ。
 そう思っていると、センセイが照れたように小さな仕草で、男に手を振る。センセイにしては珍しい振る舞いだ。
 それに答えて男の人が手を上げる。

 あれ? 知り合いですか?
 だったらセンセイ、紹介して!

 すぐに紹介してくれた。
 その人が小野寺センセイのカレシだった。
 里穂の方を見て笑いかけてきたのは、里穂に対してではなく、隣の小野寺センセイに対してだった。

 うわ恥ずかしい。勘違いしちゃってた。
 キンチョーして損しちゃった。
 そりゃそうですね。こんなステキな人が、私みたいなお子様を相手にしてくれるわけ、ないですもんね。

 小野寺センセイのカレシがつまらない男だった許さん、と決意していたけど、そんな心配は無用だった。この人なら、小野寺センセイを取られても仕方ない。それどころか小野寺センセイにこそふさわしい最高の男の人。

 せっかく念願のセンセイのカレシに会えたのに里穂は、緊張してほとんど目も合わせられなかったし、話をすることもできなかった。
 里穂はつくづく思う。
 私って、美形の人に弱い。
 男でも女でも、見映のいい人に会うと、いつも緊張してしまう。ミッちゃんみたいにすぐに打ち解けられたのは、珍しい。
 1年半くらい前、センセイが家庭教師に来はじめたころも、里穂はガチガチに固まってしまって、最初の1ヶ月はさんざんだった。簡単な問題もセンセイの前では解けないし、家庭教師が終わると疲労感にぐったりしてた。里穂の態度がぎこちないせいで、小野寺センセイにもずいぶん気を使わせてしまった。

 その日の今井さんも、緊張している里穂に気を使ってくれた。
 笑顔で何度も話しかけてくれて、それでも里穂が凍ったままなので、「俺がいると迷惑だったかな」などと心配してくれる。
 いや違います。とんでもないです。小野寺センセイといるだけでも幸せなのに、その上今井さんみたいなカッコいい人と同じ空気を吸えるなんて、1年分の幸せがまとめて来たみたいです。だから、そんなふうに気にしなくてもいいんです!
 と心の中では思っていたのに、口に出せたのは、
「いえ……」
 と、それだけだった。

 幸か不幸か、今井さんは次の授業があって、一緒にいる時間は少しだけだった。
 あーあ。ほとんど話せなかった。もったいない。

 ずっと押し黙っていた里穂は、今井さんがいなくなった途端に話し始めた。興奮口調で今井さんを絶賛して、センセイが閉口するくらい質問攻めにした。里穂の態度の豹変ぶりを見て、ミッちゃんがからかった。
 もう、里穂ちゃんったら、急に静かになったりにぎやかになったり。思春期なのねぇ~。
 里穂は顔を赤らめた。

 ミッちゃんが催眠術をかけてくれたのは、その日だったっけ? 2回目に大学に遊びに行ったときだったっけ?
 よく覚えていない。催眠術をかけてもらった前後は、いつも(あれ? そんなに何回もやってもらったんだっけ?)記憶があいまいになる。

 たしか、小野寺センセイとミッちゃんに、夕食をご馳走になってたんだ。
 ママに電話して、帰るのが遅くなる、夕食はいらなくなった、と言っても、小野寺センセイと一緒だとわかるとママの小言はなくなった。小野寺センセイは、里穂の両親からの信用も絶大だ(でも、里穂の前で「里穂じゃなくて、小野寺センセイみたいな人が娘だったら、私たちも安心なのにねぇ」ってうれしそうに笑うのは、行き過ぎだよ)。

 センセイたちと3人で夕食を食べている途中で、小野寺センセイは、ケータイで呼ばれて席を外した。ミッちゃんと2人になって、そのときに催眠術を見せてくれた。
 どうせミッちゃんだし(ゴメンね、ミッちゃん)、口だけに違いないと思っていたら、里穂はほんとうに催眠術にかかって、眠ってしまった。目が覚めると気分がすっきりしていた。
 驚いた。
 やっぱり、小野寺センセイの友達になるだけある。
 ミッちゃんもスゴイ人なんだ。

 席を外したセンセイは、行ったきり戻って来なかった。食事代は全部ミッちゃんが払ってくれた。
「センセイどこ行っちゃったんだろう?」
 里穂が聞くと、ミッちゃんはもったいぶって冗談めかす。
「里穂ちゃんの知らないオトナの用事よ」
 ミッちゃんとは、すっかり仲良くなっていた。男関係の話題だと、センセイよりむしろ話しやすいくらいだ。
「やっだぁ、ミッちゃん。あ、わかった。センセイ今、ひょっとして今井さんと?」
 いいなあ、小野寺センセイ。
 私も小野寺センセイみたいにキレイになって、ゼッタイに今井さんみたいなステキなカレシ作るぞ! (あ、口が滑った。ゴメン、シュウ君)
「うーん、たぶん違うかな。ふふふ。セフレってやつよ」
「なんですかそれ? セレブ?」
「違う! セレブじゃなくて、セ・フ・レ。あー里穂ちゃん知らないの? もう、ハルハルったら、里穂ちゃんの家庭教師なのに、なんにも教えてないんだから。
 ふふ。じゃあね、里穂ちゃん。今度ハルハルに、セフレってなんですかって聞いてごらん」

 里穂は後日、言われたとおりに、小野寺センセイに聞いてみた。たまたまそれは、ママとも一緒に3人でお茶をしているときだった。
 小野寺センセイは、危うく紅茶をこぼしそうになった。里穂の質問には答えずに、真っ赤になりながら里穂をたしなめる。
 里穂が「ミッちゃんから聞けといわれた」と説明すると、センセイはしきりにママに謝っていた。その後、ぶつぶつとミッちゃんを呪っていた。
 何度聞いてもセンセイは「セフレ」の意味を教えてくれなかった。
 不審に思いながらも、センセイに聞くのは諦めて、ネットで調べてみた。
 パソコンの前で里穂も、ぶつぶつとミッちゃんを呪った。

 そのあと2回、里穂は大学に遊びに行った。

 センセイを驚かしてやろうと思って、大学の近くまで行ってから「たまたま近くに来た」と連絡してみた。
 けど、小野寺センセイはその日、忙しそうだった。里穂と会ってくれる余裕はなさそうだった。
 がっかりした。
 事前に連絡しない私が悪いんだけど。

 ケータイで話す里穂の声が、あまりに寂しそうだったので、小野寺センセイが気を使ってくれた。用事が終わったら小野寺センセイがごちそうしてくれる。それまでの間は、ミッちゃんと今井さんに頼んで、里穂の相手をしてもらうということになった。

 まるで子守りだ。

 ミッちゃんも今井さんもそれぞれ忙しくて、子守りも交代で引き継ぐ。
 いろいろ気を使わせることになってしまって、里穂は、ちょっとヘコんだ。

 ミッちゃんは、そんな里穂の気持ちを盛り上げるように、小野寺センセイにまつわる小ネタを、面白おかしく話してくれた。いつも上品で、(男性関係の話題以外は)隙のなさそうな小野寺センセイの失敗談は、里穂には意外で、楽しかった。
 今度、センセイをからかってやろう。

 その次にミッちゃんが話してくれたのは、センセイと今井さんとのエピソードだった。聞いているだけで里穂は幸せな気持ちになれた。
 二人でけんかして意地を張り合ってミッちゃんに迷惑かけた話。センセイが(普段のセンセイには似合わず)今井さんにわがまま言って困らせた話。
 あと、啓知大に通っているアイドルの佐倉ユウキが、今井さんにちょっかい出してきたけど、センセイが勝ったって話。
 遠慮深いセンセイは、なにを血迷ったのか佐倉ユウキに今井さんを譲ろうとしたんだよ。今井さんもセンセイに嫌われたと勘違いして、佐倉ユウキになびきそうになったんだって。でも、今井さんと佐倉ユウキのふたりを応援するセンセイの、笑顔に浮かんだ一滴の涙を見て、今井さんがセンセイの気持ちに気づいた。そしてもちろんハッピーエンド。

 うーん、イイ話! 感動的!
 小野寺センセイって、あんなに大人ぶってるくせに、恋愛はからきしだめだなぁ。
 その点、そんなセンセイをやさしく包容してる今井さんって、ステキだ。

 けど、このときのミッちゃんの話は、ウソばかりだったということが、後で判明した。
 佐倉ユウキの話は、100%作り話。
 ホント、ミッちゃんひどすぎ。純真で素直な女子高生を騙してからかうなんて! わたし、あの話聞いて、泣きそうになったのに。

 作り話ばかりだったけど(作り話ばかりだったから?)、ミッちゃんとのおしゃべりは楽しかった。
 ミッちゃんの子守りは30分だけだった。ミッちゃんはこの後、小野寺センセイの用事に付き合うんだと言う。
「小野寺センセイは、何の用なんですか?」
「あれ? 聞いてないの? ハルハル、ミス啓知大学になるんだよ。それで主催者サイドに呼ばれてるの」

 里穂は、驚いて叫んだ。
「えーーーーー! ウソォ! すごい! それはすごいじゃないですか!」
 ミス啓知大って、たしか、タレントや女子アナに、いっぱいいたはず。
 すごいすごい。センセイにお祝いしないと。
 いや、待て。小野寺センセイなら当たり前じゃないか。ミス啓知大出身の有名人っても、小野寺センセイのほうがもっとキレイだもん。
 うん。落ち着こう。これは当然のことなんだ。重力に引かれてリンゴが落ちるのと同じくらい当たり前。
「それにしても、もう、どうしてセンセイ、そういうこと私に隠すかなぁ」

 里穂は、ミス啓知大に選ばれた小野寺センセイの、今後の展開をあれこれ妄想する。
「ミス啓知大っってことになると、きっと芸能事務所のスカウトとか来ますよね。うわー、センセイいよいよデビューですか! あちゃー、エビちゃんの人気は危ういぞ! うん私、いまのうちにセンセイと一緒の写真いっぱい撮って、サインももらっとこうっと」

 先走りしすぎる里穂のために、ミッちゃんが笑いながら、重大な訂正をする。
「まあ、正式にはまだミスになってないんだけどね。ミスコンに出ることになりそうってだけで。もちろん、出場すればミスになるのは確実だけどね」

 里穂は勢い込んで頷く。
「うん。うん。当たり前ですよ。小野寺センセイよりキレイな人なんて世の中にいないもん」

 ミッちゃんが、さらに重大な訂正をする。
「でもね、それ以前に、本人はまだ出るつもりないみたい。熱烈な出場依頼を受けてるのに」
 あれれ、なんか尻すぼみ。
 でも。
「えーっ! もったいない! 小野寺センセイみたいなキレイな人を世に埋もれさせておくわけには行かないですよ」
「でしょ? だから、ミスコンの事務局から頼まれて、事務局の人と一緒に私が説得することになってるの」

 アイドルがときどき、「デビューのきっかけは?」「弟が勝手に応募しちゃったんですぅ」なんて言うのはゼッタイに嘘だと思ってた。けど、あながち嘘というわけでもないんだ。センセイみたいな人だったら、放っておけなくなっちゃうもん。

「ミッちゃん、がんばって」
 里穂が拳を握ってそう言うと、ミッちゃんは吹き出した。
「うん、がんばる」
 笑いながらそう言った。
「なんかヘンですか?」
「うふふ。いや、なんでもない。里穂ちゃんってほんとにいいコよね」
「ん? 何ですか?」
 ミッちゃんは笑って答えなかった。

 ミッちゃんは里穂のお守りを今井さんに引き継いで、タリーズを出て行った。

 里穂は今井さんと二人っきりになった。
 今井さんと!
 二人っきり!

 やっぱりドキドキした。何を話したらいいのかわからなかった。どこを見たらいいのかわからなかった。
 今井さんがいろいろ話しかけてくれた。

「ゴメンね、晴菜に会いに来たのに、俺が相手で」
「いえ」(そんなことないです。今井さんの顔もすっごく見たかったです。ほら、嬉しくて、こんなにドキドキしてる!)

「里穂ちゃん、橘泉学園だったよね。お嬢様学校だよね。俺も高校のとき、憧れだったなぁ」
「いえ」(憧れだなんて、むしろ私のほうが今井さんに憧れてます! それと、今井さんの言っているお嬢様学校っていうのは、女子部のほうです。私がいるのは、進学部で、外部大学受験コース。だから、お嬢様のいるほうとは違うんです。制服もリボンのところが少し違うんです。ごめんなさい、憧れのお嬢様じゃなくて)

「晴菜の家庭教師ぶりってどう? 晴菜って、妙に細かいことを気にしすぎたりしない?」
「いえ、大丈夫です」(そうなんですよね。この前なんか、寝る前に電話かかってきて、何かと思ったら、説明間違えたからもう1回話すね、とか言い出すんですよ。こっちは眠いのにぃ)

「もしかしたら、ちょっと小うるさいって感じることあるかもしれないけど、気にしないであげてね」
 今井さんは、言いながら片目をつぶってセクシーなウィンク。
「あ、いえ……」(そんな「小うるさい」だなんて。マジメなところは小野寺センセイのいいところですよ。小野寺センセイに毎週会えるだけでも、わたしシアワセなんですよ。ん? ああっ! 「小うるさい」って……今井さん、センセイのことそんなふうに言っていいんですかぁ!? センセイに言いつけちゃいますよ)

 その後、今井さんは、少しまじめな顔になる。
 真剣な表情は凛々しくて、やっぱり見とれてしまう。
「聞いたことあると思うけど、晴菜の前の家庭教師先は、あまりいい先じゃなかったみたいなんだ。だから里穂ちゃんのところに行き始めたとき、きっと晴菜のことだから、ナーバスになってたはずだと思う。晴菜がピリピリしてて、里穂ちゃん、すこしやりにくかったんじゃないかな?
 でも、そのうまく行かなかった家庭教師の後が、里穂ちゃんみたいなイイ子でよかった。ほんとに里穂ちゃん、晴菜に仲良くしてくれて、ありがとう」
「あ、いえ」(その家庭教師先、小野寺センセイをクビにしただなんて、信じられないバカですよね。こんないいセンセイなのに。その家、火つけてやりたいですよ。あ、でも、そのバカ一家のおかげで私、小野寺センセイに出会えたんですよね。だったら、放火だけはカンベンしてあげます)

「晴菜は、本当に里穂ちゃんのこと、気に入ってるからね。カワイイ、あんな妹がいたらな、って、いつも言ってるんだよ。これからもよーく晴菜の面倒を見てやってね」
「いえ、そんな」(私がセンセイの面倒見るなんて、とんでもないです。でも、本当ですか? センセイが、私のことカワイイって? うわっ、うれしいっ。もう、センセイったら、勉強のときはあんなキビシイくせにっ。そんなに里穂のことが好きだったんですね。センセイったら照れ屋さんなんだから~。そっかー、センセイと私って、相思相愛なんだ~)

 しばらく小野寺センセイの話題が続いた(話すのは今井さんばかりだったけど)。そして、話が途絶え、数秒の沈黙。
「えーとやっぱり、晴菜がいたほうがよかったね。里穂ちゃん、緊張してる?」
「いえ」(見ればわかるでしょおっ)
「あ、ごめん。そんなこと言ったら、かえって緊張するよね。晴菜もね、里穂ちゃんは人見知りするから、って、ちょっと心配してたから」
「すいません」(ダメですよ、今井さん! そんなこと言われたらますます緊張しますってば)
「あ、ごめん、また。ますます里穂ちゃんに気を使わせちゃうよね」
「いえ」(今井さん、気づくの遅いです。まったくその通りです!)

 そのあと今井さんは、里穂の学校のことや、最近のテレビ番組や、タレントのことを話題に、話しかけてくれた。
 里穂は「いえ」「あ、はい」「そうですね」「えーと、あんまり……」などの10文字以内の答えを繰り返した。

 そして、とうとう天気しか話すことがなくなった。
「いい天気だね」
「はい」
「……」

 私があんまり無愛想だから、今井さんをがっかりさせちゃったんじゃないかな?
 ああもう、わたしってどうしてこうダメなんだろう。センセイの家庭教師の最初の頃も、きっとセンセイはやりにくかったんだろうな。イヤな家庭教師先のすぐ後で、ぶすっと無表情な教え子だったんだもんね。
 今になって思うけど、あのときセンセイに見捨てられててもおかしくなかったんだよね。そしたら、センセイともこんなに仲良くなれなかったし、今井さんみたいなステキな人と知り合いにもなれなかったんだ。あの頃のわたしの態度って、実は、けっこうギリギリ危ないところだったのかも。
 もしかして今この瞬間も、今井さんに愛想つかされるセトギワにいるの?

 今井さんが里穂に言った。
「外に出よっか」
「はい」
 タリーズから出た。二人で並んで大学の中を歩いた。向かい合っているより、まだこのほうが緊張しなくて済む。

 大学の中でまだ見ていないところがあったら案内するよ、と言ってくれたのだが、めぼしいところは前回小野寺センセイに連れて行ってもらっている。
「二澤庭園って見た?」
「えーと」
 よく覚えていないので黙りこむ。
 今井さんは、里穂の返事の続きを待たずに、説明してくれた。今井さんも慣れたらしい。里穂は一言以上しゃべらないということをよくわかっている。

 二澤庭園は、明治時代の富豪が邸宅ごと寄贈した庭園で、重要文化財か何かに指定されている。一般に公開されるのは、イベントがあるときと、月2回の定例公開のときだけ。
「だから、前に里穂ちゃんが来たときは見ていないと思うよ。
 でもね、実は、こっそり中に入れるんだ。見せてあげる。これから行ってみよう」

 いいんですか? そんなことして?
 そんな長い文節をしゃべるのは、一時的失語症の今の里穂には難しい。黙って頷いた。断ったらどうせますますシラけるだけだし。
 今井さんが里穂の顔を覗き込んで笑いかける。里穂は慌てて顔を伏せた。

 今井さんに導かれるままに、立派な建物の2階テラスから、フェンスを乗り越えて、物置小屋らしい建物の屋根に降りる。屋根の上を少し歩くと、塀越しに庭園が見えてきた。
 鮮やかな緑色の芝生が広がって、木々の間を飛び石の道が縫っている。
 里穂たちは、小屋の屋根の端から、庭園の塀の上に飛び移った。

 庭園の全景が見下ろせた。
 二人で並んで、塀に腰掛けて庭を眺めた。

 綺麗に手入れされた芝生と木々。柔らかくなりはじめた晩夏の日差しを浴びて、緑色が活き活きとしている。
 池の水面で、ミズスマシの水紋が移動しながら、光を反射している。池の縁には、トンボが集まっている影が滲んでいる。
 夏を忘れきれないヒグラシの声に、かすかにコオロギの声が混じるのが、不思議な感じ。
 閉園しているので人気はない。芝生に水をやっているおじさんが、1人いるだけだ。

「どう? いい眺めだろう?」
「うん。キレイ」
 大学の中に、こんな庭があるんですね。すごい。さすが啓知大学。
「じゃ、入ってみよう」
「え?」
 ほんとに、いいんですか?
「大丈夫。こっそり入って、こっそり出られるから」

 塀の幅は50センチくらいあるので、その上を歩いて動ける。
 今井さんの後について、数メートル移動する。地面が高くなっている箇所の上に出る。
「ここから飛び降りられるから」

 この秘密の侵入口は、よく利用されているらしい。着地点の地面は、人の足に踏み固められている。
 今井さんに続いて、ぴょんと飛び降りる。
 里穂が着地すると、振り向いた今井さんが「あれ?」という顔をする。
 里穂は首を小さく傾けて今井さんを見返す。

 どうかしたました?

「里穂ちゃん、簡単に飛び降りたね。怖くなかった?」
 里穂は、塀の高さを確認する。このくらいの高さなら飛び降りられる。
「いえ、別に」

「そっかぁ」
 今井さんが笑い出した。

 え? どうしたんですか?

「いや、晴菜を初めてここに連れて来たときね、すごく怖がって、飛び降りられなかったから……」
 そう言ってクスクス笑う。
「怖い怖いって言うんで、晴菜が降りるときに、塀にこうやって」
 今井さんが、塀に手をついて、頭を下向きにして中腰になる。
「こうやってね、俺の肩に降りるように晴菜に言ったんだよ。そしたらね。晴菜は怖がって、すっかり腰が引けているから、どん、って感じで俺の肩に乗ってきてね。
 それで俺が思わず『重いっ』って言ったら、晴菜がむちゃくちゃ怒っちゃって」

 里穂は吹き出した。
 そりゃそうですよ~。女だったら絶対怒ります。
 それに、センセイあんなにスリムなんだから、実際には羽根みたいに軽いですよ。

「それ以来ね、ここに晴菜と来て、降りるのを手伝おうとしても頑なに断るんだよ。ホントは怖いくせに、自分で飛び降りようとして、いつも10分くらい、キャーキャー言ってね。
 面白いんだよ」

 いつもはあんなにすましているセンセイが、この程度の高さを恐がって、子供みたいに騒ぐなんて、想像するだけで微笑ましい。
 小野寺センセイのことを話す今井さんの笑い声には、愛情がこもっている。
 センセイ、いい人とつき合ってるんだなぁ。
 そう思うと、自然に笑みがこぼれた。
「センセイ、可愛いっ。うふふ」

「里穂ちゃん、やっと笑ってくれたね」
「え?」
「よかった。嫌われてるのかと思ったよ。里穂ちゃんを怖がらせたら、あとで晴菜に怒られるからね」
 そんな、今井さんが怖いなんてありえないですよ。こんなに優しいんだから。
 里穂は、照れながら、もう一度笑った。

 誰もいない庭園を今井さんと二人で歩いた。
 いつの間にか、今井さんと話してもさほど緊張しなくなっていた。
 庭木や芝生に水撒きをしているおじさんが1人いたので、その人に見つからないようにコソコソするのが、秘密めいてドキドキした。
 おじさんが背を向けているので、油断していたのがまずかった。里穂が、砂利道と芝生の境で足を取られて、大きな音をたててしまい、そのせいで見つかってしまった。おじさんに大きな声で呼びかけられた。

 里穂が走って逃げようとすると、今井さんに手を掴まれた。
「大丈夫だから」
 安心させるように言ってくれる。
 今井さんを置いて逃げようとしていたことに気がついて、里穂は少し恥ずかしくなった。

 今井さんに手を引かれて、おじさんのところまで行った。
 作業着姿のおじさんは、髪の毛に白いものが混じっていて、里穂の父親より年上だろう。引き締まった体格で、この世代にしては身長がある。肌は日焼けしていて、太陽がまぶしいのか目をすがめるように里穂たちのほうを見る。

「またあそこから忍び込んできたんだろう?」
 おじさんは、里穂たちが飛び降りてきた塀の方を指でさす。全部知っているというわけだ。
「君は、ここの学生だよね? そっちの子は?」
 そう言って高校の制服を着た里穂を見る。里穂が首をすくめる。

「ぼくの従姉妹です。今年啓知大学受験しようと思って、仙台から大学を見に来たんです。今日しか東京にいないんで、閉園日だけど庭園を見せてあげようと思って。すいません。ぼくが勝手にこの子をここに入れました。この子は悪くありません」
 里穂が何か言いかけると、今井さんが掴んでいた手をぎゅっと握り締めてきたので、口をつぐんだ。
 里穂は嘘がばれないように、顔を伏せる。

「ふーん。でも、今日は閉園日だぞ。立入禁止だ。わかってるだろう?」
「すいません」
 きっと怒られる。怒鳴られるかも。それか、ネチネチと小言を言われるか。どっちにしろ、しばらく嫌な時間が続くだろう。
 そう思っていたら、おじさんは意外なことを言った。
「だから、あと1時間だけだぞ。1時間だけなら庭を見ていていいけど、その後は出て行けよ」

 え?
 驚いて顔を上げた。
「いいんですか?」

「だめだよ。だから、1時間たったら出て行けって、言ってるだろ」
 今井さんと顔を見合わせる。1時間もいていいんだったら、立入を許してくれてるのと同じだ。
「それと、休園してるのは、芝を傷めないようにするためだぞ。芝の上は歩くな」
 里穂が足元を見ると、芝の上だった。慌てて飛びのいた。今井さんはちゃんと砂利敷きの上にいた。

 おじさんは、池の反対側に花壇があって季節の花が咲いている、と教えてくれて、また水撒きを始める。
 里穂は今井さんと一緒に池に沿って庭を歩いた。
 ほっとした里穂は、勢い込んでしゃべり出した。
「うわーびっくりした。絶対怒られるかと思った。でも、けっこういい人だったですね。今井さん知ってたんですか?」
「いや、ぜんぜん。俺もびっくりだよ」
 今井さんとずっと手をつないだままだったことに気づいて、慌てて手を放した。

「あの秘密の入り口バレてましたね」
 今井さんは苦笑いする。
「あんなに踏み跡はっきり残ってるからなぁ」
「わざとそのままにしてくれてたんじゃないですか、あのおじさん」
「あー、なるほど。そうかも」

 池の近くで、今井さんのまねをしてトンボを捕まえようとして、足元から目を離して転んでしまった。今井さんに助け起こされていると、またおじさんがやって来た。里穂たちの方を見て、手招きをしている。

 なんかまずいことしたかも?
 里穂は足元を見た。芝生は踏んでない。

 おじさんが言った。
「ちゃんと俺の見えるところにいてもらわないと困るよ」

 えー! おじさんが池の向こうに花が咲いているって言ったんじゃないですかっ!
 だが里穂も、ここで逆らうほどバカではない。
「ごめんなさい」

「これから中庭の手入れをするから、一緒に来て。ちゃんと俺から見えるところにいるんだぞ」
 中庭と言うのは、この庭園の一角にある二澤邸の中庭のことだ。普段は非公開で、来賓を招待するときに利用されている。のだそうだ。
「つまり、一般人非公開の庭を見せてもらえるんですか?」
「誰がそんなこと言った? お前らが勝手に芝を荒らしたら困るから、俺の目の届くところにいろって言ってるんだよ」

 おじさんは邸内に案内してくれて、中庭の木の配置の意味や、珍しい種類の樹の手入れの苦労を話してくれた。
 あくまで、「里穂たちが芝を荒らさないよう見張りながら」だ。
 おじさんが中庭の手入れをしているようには、あまり見えなかったけれど、それを指摘するのはやめておいた。

 中庭を見せてもらった後、おじさんは再び、水撒きの作業に戻っていった。小野寺センセイやミッちゃんとの約束の時間なので、里穂たちは帰ることにした。
 庭園の出口(秘密の出口でなくて、正しい出口)に向かう途中で、今井さんが言った。

「里穂ちゃんは先に出て、待っててくれる? 俺、ちょっとおじさんと話してくる」
「何ですか?」
「里穂ちゃんはいいから」
 里穂が何度も聞きただして、やっと答えてくれた。里穂のことを従姉妹だとか、仙台から来ているとか、おじさんに嘘をついたので、謝っておきたいんだと言う。
「だったら、私も同罪だから、一緒に行きます」
 今井さんは止めたけど、無理やりついて行った。

 里穂たちが戻ると、おじさんは、困ったように言う。
「悪いけど、水撒き作業があるから」
「すいません、ほんのちょっとだけ」
 今井さんが謝るのを聞いて、おじさんは笑った。
「そんなことなら気にするな。だいたいわかってたから。その制服、グループで見学に来たことあるし、知ってるよ。仙台とかいうのは嘘だったとしても、あんたがこの子のことを喜ばせたくて、だから庭を見せたかったっていうのは、間違ってないだろう?」
 今井さんはすっかり恐縮して頭を下げた。

 里穂がおじさんに言った。
「すいませんでした。おじさん、庭見せてくれてありがとうございました。うれしかったです。
 私、橘泉学園の3年生、秋山里穂といいます。今年、啓知大学受験します。絶対に合格して今度の春に入学します。ですから、入学したらまた、おじさんのところに遊びに来ていいですか?」

 おじさんは一瞬戸惑った表情をしてから、小さく笑った。
「ああ。俺はかまわないから、勝手にしてくれ。ただ、ちゃんと開園日は守ってくれよ。あと、中庭も立入禁止だからな」
 おじさんは、居心地悪そうに作業帽を直してから、水撒きに戻った。

 里穂が今井さんの顔を見ると、満足そうな笑顔と目が合った。
 風が吹いて、とても気持ちよかった。

 小野寺センセイは、里穂の制服のスカートが埃だらけになっているのを見て、眉をひそめた。センセイは、パンパンと里穂のスカートをはたいて汚れを落とす。
「里穂ちゃん、どうしたの、こんなに汚して?」
 たぶん、トンボ捕りで転んだときか、塀の上に座ったときに汚したんだと思う。
 里穂が説明しはじめると、今井さんが「まずい、黙って」という目配せをするが、里穂には通じない。

 話を聞いて、小野寺センセイは手を止める。とがめる目で今井さんを見る。
「ヒロくん。里穂ちゃんを危ないところに連れて行ったの?」
 里穂が言う。
「全然危なくなんかないですよ」
 今井さんが同意して2度頷く。
 でも、センセイは納得しない。
「ヒロくん。危なくないなんてことないでしょう? それでなくても立入禁止なのよ。大学に怒られたら里穂ちゃんにも迷惑かかるのよ。
 あの塀すっごく高いんだから。男のヒロくんは平気かもしれないけど、あそこから降りるのって、ホント怖いのよ」

 今井さんが、ほらね、と言う顔で里穂を見る。
 里穂が、にんまりと笑って、今井さんに目配せを返す。
「ヒロくん。なにコソコソやってるの?」
「いや……」
 里穂も慌ててしかめつらしい顔をする。センセイが、里穂のことはとがめずに、今井さんだけを叱るのが、ちょっと面白い。

 ミッちゃんは、このやりとりが始まってからずっと、自分は関係ないかのように下を向いて自分のケータイをいじっている。よく見たらニヤニヤ笑っている。

「あの、センセイ、大丈夫ですよ。あの塀、そんなに高くないです。私、飛び降りても平気です」
「気を使ってヒロくんのことかばわなくていいから。小さい里穂ちゃんに、あの塀が高くないなんてわけないでしょう? 転んだんじゃないの? ほら、こんなに汚れちゃって」
 あっ! センセイいま、どさくさにまぎれて私のこと「小さい」って言ったぁっ! ぶーぶー。

 今井さんが、とってつけたように言いわけをする。
「いや、でも、ほら、せっかく大学来たんだし、あそこ見せてあげたほうが……」
「あんな高いところから落ちて怪我でもしたらどうするの? 里穂ちゃんのお母さんに申しわけない」
「そんなに心配しなくても……」 今井さんは、センセイの表情に気づいて、慌てて言い直す。「そうだね、申しわけないね」

 なんだか、センセイと今井さん、テレビドラマのパパとママの会話みたい。娘を甘やかす父親とそれをたしなめる母親。
 ん? ってことは、私、今井さんと小野寺センセイの娘って役どころ?
 うわ、いいそれ! そんな家の娘になら、ゼッタイなりたい!

 センセイはブツブツ言いながら、もう一度腰をかがめて、里穂の制服のスカートについた土汚れを払い落とす。
 こういうふうにしてもらっていると、本当にママみたい。
 里穂はくすりと笑う。センセイが汚れを払ってくれているスカートの裾を見下ろす。
 制服のこのスカートは、太ももの半ばまでの丈だ。

 ふと気がついた。
 里穂は、庭に行く途中の通り道で、フェンスをまたいで乗り越えた。庭園の塀(センセイによると「高くて危険な」塀)から飛び降りたときは、今井さんが下にいた。
 制服のスカートは短い。フェンスにまたがったとき、飛び降りたとき、ふわっと裾が開いて……
「あっ! 私、塀から飛び降りたとき!……今井さん! パンツ見えました!?」

 急に里穂が大声を出したので、3人が驚いて里穂の方を見る。
「いや、見えなかったと思うけど……?」
「ウソ。絶対見えた! 絶対見てた! ウソ。恥ずかしい」
 今井さんに、パンツ見られちゃった!
 うわ、恥ずかしい。うわ、みっともない。
 それに、それから。
「小野寺センセイ。ゴメンなさい」
 小野寺センセイのカレシに、パンツ見せちゃった!

 センセイはきょとんとした顔をする。
「え? なにが……?」
「小野寺センセイ、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。そんなつもりなかったんです!」
 センセイは、怪訝な顔で、今井さんの顔を見、ミッちゃんの顔を見る。

 ずっとケータイを眺めていたミッちゃんが吹き出した。
「笑わないでください!」
「ふふふ。ゴメン。ゴメンね。でも、里穂ちゃん、かなりズレてるよ。ふふふ。おかしい。……だって、パンツ見えただけなのに……そんな、大騒ぎするなんて……なんか……、ホント、ウブで、ハルハルみたい。カワイイ」

 里穂はあたふたしていたはずなのに、「ハルハルみたい」「カワイイ」といわれて、とたんに顔をほころばせる。
 えへ。センセイみたいで可愛いだって。また言ってもらえちゃった……

 里穂の嬉しそうな顔を見て、センセイが呆れる。
「里穂ちゃん、なに喜んでるのよ~。ミッちゃんのその言い方って、絶対バカにしてるのよ?」

 でも、大好きなセンセイに似てるて言われてるんだもん……えへへ。

 センセイと今井さんが顔を見合わせた。しょうがないな、という顔で同時に里穂を見る。それから、また顔を見合わせる。テレビドラマのママとパパみたいに。
 そして、同じタイミングで二人も笑いだした。
 ミッちゃんも声をあげて笑い続けている。

 そんな3人に囲まれて、里穂は、楽しかった。

 ゼッタイに入試に合格して啓知大学に入ろうと思った。
 私、この人たちの、後輩になりたい。

 小野寺センセイたちとのダブルデートは、今井さんの運転でドライブに出かける予定だった。けれど2日前になってから、小野寺センセイから電話がかかってきた。
 クルマが出せなくなったらしい。なので、都内の遊園地に変更になった。

 小野寺センセイはしきりに謝って、「もし里穂ちゃんがドライブのほうがいいんだったら、あさっては取りやめにして、また今度にしようか?」などと言う。
 そんなことで里穂に気を使う必要なんてないのに。
 大好きな小野寺センセイや今井さんと一緒に遊べるのなら、どこだって問題ない。今井さんに運転手をやらせるなんて申しわけないと思っていたくらいなので、むしろ遊園地のほうがいい。

 そういえば、ダブルデート企画を持ち込んだときも、小野寺センセイは恥ずかしがって尻込みしていた。
 だからきっと、また小野寺センセイの恥ずかしがり病に違いない。
「もう、センセイったら、なにいまさら恥ずかしがってるんですかー。私、この日のためにブーツ買ったんですよ。延期なんてヤですよ~。シュウ君も、ミス啓知大に会えるって楽しみにしてるんですよ~」

 センセイは先週の学園祭で、ミス啓知大に選ばれた。当然の結果だ。驚くことなんてなにもない。でも、里穂の大好きな小野寺センセイがちゃんと世の中に認めてもらえたのは、やっぱりうれしい。
「もう。里穂ちゃんまでそんなふうに『ミス啓知大、ミス啓知大』ってうるさく言わないでよ」

 そうこぼした後で、まだしつこくセンセイは聞いてきた。
「きっと、里穂ちゃんのカレシも、男の子なんだからクルマのほうがいいんじゃない? 遊園地なんて子供っぽいから嫌だとか、思ってるかもしれないよ?」
 センセイは、自分から遊園地に企画変更したというのに、ヘンなことを言う。
 なんにしろ、センセイのワガママには付き合ってられません!

 里穂は必殺の一言を繰り出す。芝居がかった落胆声でこう言った。
「センセイ? もしかして、わたしと遊びに行くの、そんなにイヤなんですかっ? わたし、悲しいですぅ」
 効き目は絶大で、さすがのセンセイもそれ以上粘ることはなかった。

 もうセンセイったらぁ。そんな小さいこと、気にしないでいいんですよ。
 そんなことより、遊園地でどんな順番で何に乗るか、計画立てましょうよ。
 パパからデジカメ借りてくから、いっぱい写真撮りましょうね。
 センセイは、どんな服来て行きます? わたし、センセイに負けないオシャレして行きますからね。ちゃんと褒めてくださいね。
 お昼はどうします? センセイは料理も得意だから、お弁当? でも私、料理自信ないんです。どこかいい店に連れてってください。もちろん、オゴってくれるんですよね?
 うわー、ホント楽しみ。いや、オゴってくれるからじゃなくて、センセイたちと一緒だからですよ。

 ねえ、センセイ。あさっては、楽しい1日にしようね。

 その、気合の里穂ちゃんファッションがこれです。ありきたりだけどミニスカブーツでキメました。
 ブーツは「Rey」に載っていた(やつとできるだけ似たデザインの)黒。本番で靴ずれしないよう、1週間毎日コンビニとの往復で履き慣らした。
 ミニスカートも同色で、思い切って短い。たっぷりと「里穂ちゃん美脚」を初披露。
 まあ実際のところ、スタイルでは小野寺センセイには勝てない。けど、センセイは脚を見せるような服は着ないから、そこがつけ目。小ズルいファッション戦略です。
 トップスは、短めのGジャンに、薄手の白のロングTシャツ。たっぷり開いた襟口から鎖骨とブラの肩紐が見えるはず。ウエストは、へそはギリギリ隠れているけど、すこし身体を捻ったりするとチラ見せ。天気によっては寒いかもしれないけど、そのくらい我慢する。
 アクセサリーは安っぽいのしか持ってないし、ママからネックレスを借りる計画も失敗した。かわりに、アクセントとして、オレンジ色の小さめのスカーフを細く絞って首に巻いた。オレンジ色というのは、センセイは青系統の服が好きだからというのを意識している。
 その上に、ダークグレーのツバ広の帽子。スカートやブーツより少しだけ薄い色にしたのは、いくらかでも背が高く見えるかな、と期待して。効果はあまりなさそうだけど。

 最初は、がんばって大人っぽい格好をして行こうと思っていた。けど、小野寺センセイの横に並ぶこと考えると、エレガントな大人の美しさと正面対決するより、里穂の若くて健康的な魅力を前面に出すほうがいいってアドバイスを……えーと、あれ? 誰が言ってたんだっけ?

 とにかく、小野寺センセイにも負けないよう、精一杯がんばってみました。
 朝会ったら弟もびっくりして、しぶしぶ「80点」って言ってた。シュウ君も「セクシーだよ」なんて褒め言葉は、これまで初めて聞いた。
 パパは、イヤそうな顔して、スカートの丈やシャツの生地の薄さについて文句を言っていたけど、制服とたいして変わらないって強弁して黙らせた。

 小野寺センセイはきっと「カワイイ」って褒めてくれると思う。できたらキレイって言ってもらえたらいいんだけど、それは高望みしすぎだよね。
 今井さんは、なんて言ってくれるかな?

 わくわくしながら、約束した待ち合わせ場所のゲート前で待った。
 現れた小野寺センセイのファッションを見て、里穂は目を疑った。

 小野寺センセイの服装は、ぜんぜん小野寺センセイらしくなかった。いつも上品な服を着ているのに、今日の服は、品がなくて、セクシーと言うよりはヒワイだ。
 ほかの女の人ならこんな服装をしていてもいい。実際、街に出たら同じような格好をしている女の人もいる。でも、小野寺センセイだけは、こんな服を着ちゃダメだ。
 ピンク色の薄手のワンピースは、胸元も背中も、だらしなく大きく開いていている。スカートの丈は里穂のよりも、さらに短い。生地が薄くて下がうっすら透けて見えるせいもあって、ほとんどランジェリー姿だ。上着のかわりにショールを羽織っていて、肩口だけは季節相応に肌を隠している。でもそれ以外は、胸の谷間も、太ももも、すっかりさらけ出していている。小野寺センセイにはふさわしくないイヤらしい雰囲気が、全身にまとわりついている。
 こんなの、里穂の憧れの、小野寺センセイじゃない。

 里穂の隣で、シュウ君が、息を飲むのがわかった。
「すっげー。里穂の家庭教師さん、むちゃくちゃ美人だし、むちゃくちゃエッチ」
 シュウ君が、鼻の下を伸ばして小野寺センセイのことを見る。

 こんな小野寺センセイをシュウ君に見せたくない。普段の小野寺センセイの、上品な輝きを見せて、うらやましがらせてやろうと思っっていたのに。

 シュウ君は、興奮気味に里穂の肩を叩く。
「里穂。すごいよ。おれ、こんな美人始めてみた。AV女優みたい」
 最後の一言が許せない。
 シュウ君の分際で、わたしの小野寺センセイをAV女優呼ばわり? 

 里穂は、シュウ君を押しのけてセンセイに歩み寄り、小さな声で話しかける。
「センセイ……?」
 どうしたんですか、その服装? センセイのそんな恰好、見たくありません。
 私のことがっかりさせないでください。
 それに……

 センセイと一緒にいる汚い男の人は、いったい誰なんですか!?

 センセイが連れてきたのは、小太りのキモイおじさんだ。里穂が会うのを楽しみにしていた、今井さんではない!
 こんな鈍そうなおじさん、全然センセイとは似つかわしくない。そのおじさんが、よりにもよってセンセイの肩を抱いている!
 やめろオヤジ! 私の小野寺センセイに触らないで。その汚い手を放してよ。

 小野寺センセイは、少し顔を赤らめている。けれど、男に肩を抱かれてもそれを拒まない。何事もないかのようにシュウ君に挨拶して、里穂たちに男を紹介した。

「小田ツトムさんです。里穂ちゃん、よろしくね」
「センセイ……、いったい……今井さんは……?」

 小田が初めて口を開く。外見どおりイヤらしい声だった。
「今井? 誰だそれ? 知ってるか、晴菜?」
「……いえ」
 里穂は驚いて小野寺センセイの顔を見る。

 ウソ! 小野寺センセイ、なんてこと言うんですか。
 あんなに、あんなに仲のいい恋人じゃないですか。
「センセイ!」
「里穂ちゃん、ツトムさんに挨拶しないの?」
 センセイが、里穂をとがめるように言う。

 ヤだ、こんなの。どうして? センセイ? ちゃんと説明して。
 センセイを問い詰めたい。けれどその前に、センセイに言われたとおりにしないといけない。
 小田に、自分とシュウ君を紹介する。よろしくお願いしますと頭を下げる。

「へへ。期待以上にかわいいじゃん。さすが晴菜の教え子だね。よろしくね里穂ちゃん」

 馴れ馴れしくちゃん付けで呼ばないで。

 小田は、小野寺センセイの下着姿同然の身体に触りながら、里穂の全身をじろじろと見る。その視線が、里穂のミニスカートの太もものところで止まり、ねっとりとまとわりつく。
 こんな汚いおじさんに見られるために、里穂は超ミニに挑戦したんじゃない。里穂は、今井さんに見て欲しかったのに。

 里穂がバッグで膝元を隠す。すると小田が舌打ちして小野寺センセイに言った。
「晴菜。綺麗な脚をもっと見せろってお前の教え子に言えよ」

 小野寺センセイは短い間ためらう。困ったように里穂を見て、それから小田の顔を見る。まるで、小田の顔色を窺っているかのような、卑屈な態度。
 センセイは、あきらめたように、小さく息を吐く。しばらく黙ってから、おずおずと里穂の方を見る。
 センセイ?

「里穂ちゃん、バッグで隠さないで、脚を見せて」
 ウソ? どうしてそんなこと言うの? 私が嫌がるってわかっているのに……

 里穂は、センセイには逆らえない。
 膝元のバッグをどける。こんな短いスカートを選んだことを後悔する。
 小田が屈み込んで、里穂の太ももをじろじろと見る。
 シュウ君は、里穂のナイトのはずなのに、小野寺センセイの色気に惑わされたのか、まったく止めようとしない。口をあけて小野寺センセイに見惚れるだけだ。

 小田がニタニタ笑う。
「フフフ。女子高生は、やっぱり肌がきれいだねえ」
 里穂は、耐え切れなくなって文句を言った。
「イヤです。何言ってるんですか! ひどい。ヘンタイ」

 小田の顔を正面から見るのがイヤで、里穂は小野寺センセイに向かって言う。
「センセイ。いくらセンセイの……その、知り合いの人でも、サイテーです。センセイも、何か言ってください」

 小田が小野寺センセイに、何ごとかを目で促す。
 また小野寺センセイは、少しだけためらう。でも、ためらう時間はさっきより短い。
「里穂ちゃん。ツトムさんのことを、そんなふうに言っちゃダメよ。ツトムさんに謝って」

 え? なんで謝らないといけないの?
 だって、おかしいのはこのおじさんなんですよ。
 センセイ、私じゃなくて、このおじさんの味方をするんですか?

 だが里穂は、小野寺センセイに言われたとおりに謝った。
「ごめんなさい……」
 悪いのはこの男なのに。謝る必要なんて、ないはずなのに。
 それなのに、小野寺センセイに言われると、里穂は従ってしまう。

「ふふ。ちょっと生意気だけど、先生の言うことはよく聞く素直でいい子で、よかったよ」
 満足そうに小田は笑った。
 小田が前もって聞いていたとおりだった。
 催眠術が仕込んであるせいで、里穂は、小野寺晴菜に逆らえない。そして、その小野寺晴菜は、小田には逆らえない。
 どこかの誰かの悪趣味で、回りくどい仕掛けになっている。

 小田は、里穂の太ももの、若々しい肌色に手を伸ばした。
 里穂が逃げると、また小野寺センセイに注意される。里穂が声を上げようとすると、静かにして、とたしなめられる。
 いくら嫌でも里穂は逆らえない。
 言われたとおりに、里穂は片足を差し出して、小田に触らせる。
「へへ。女子高生のピチピチのお肌ぁ」
 小田が粘っこく太ももに触る。ぞっとする感触に、里穂の背中に鳥肌が立つ。センセイの言いつけどおり、じっとこらえるしかない。

 さすがにシュウ君も、口を挟む。
「あの、その、里穂が嫌がって……」
 小田が遮る。
「え? 嫌がってるのか? どう思う晴菜先生?」

 小野寺センセイが里穂に尋ねる。
「里穂ちゃん、別に嫌じゃないものね。ツトムさんに触ってもらいたいんでしょう? 平気よね?」
「う、うん。別にイヤじゃない。へ、平気だよ」
 ウソ。そんなこと、心にも思ってないのに。

 シュウ君が当惑顔で口をつぐむ。何か言いたげに、里穂と小田と、小野寺センセイの顔を順に見る。
 また小田がセンセイに目配せをするのが、里穂の目にもわかる。センセイがシュウ君ににっこりと微笑みかける。するとシュウ君は、うっとりと顔をほころばせる。
 小野寺センセイの笑顔の魅力には、里穂だってクラクラになる。免疫のないシュウ君は、小野寺センセイに心を奪われて、あっさりと里穂のナイト役を放棄してしまう。
 シュウ君の役立たず!

 ようやく小田は、里穂の太ももから手を放す。
「まあ、あとでじっくりね、里穂ちゃん、ぐふふ」

 小田に触られていたのは、実際にはほんの数秒のことだったのに、里穂にはとんでもなく長い時間に思えた。
 里穂は、小田に触られた感触を消そうと、太ももを何度も手のひらでこすった。生暖かくてざわざわする感触は、コーラをこぼした後のように肌に粘りついて、いくらこすっても取れない。

 イヤだよ。こんなヘンタイ。
 センセイ、どうしてこんなヘンタイおじさんがここにいるの?
 里穂はすがりつくような目でセンセイの方を見る。センセイはさっと目をそらす。

 里穂が楽しみにしていたはずのダブルデートは、そんなふうに始まった。
 1日はまだ、始まったばかりだ。

 おじさんくさい外見をしているくせに小田は、小野寺センセイと同じで大学3年なんだという。
 これが21歳? 浪人してたとしてもせいぜい20歳代前半?
 信じられない。若さなんてゼンゼン感じられない。キモすぎるよ、この人。

 小田は、今もまた小野寺センセイの身体にまとわりついている。小野寺センセイは最初だけ、ちらっと里穂の方を気にして、小田を押しのけるような仕草をした。けれど、小田が強引に抱き寄せると、イヤな顔をするどころか、うれしそうに小田の顔を見つめる。生地の小さいヒラヒラの服に包まれた、小野寺センセイの細い身体が、小田にすり寄る。
 まるで、恋人同士のように。
 いや、恋人なんて表現は、綺麗すぎる。むしろ、中年オヤジとその愛人。そんな風なイヤらしい感じだ。

 里穂の知っている小野寺センセイじゃない。服装も、態度も、ゼンゼン違う。

 里穂が呆然と見つめている前で、小田が、小野寺センセイの短いスカートの中に手を入れる。
 このクソヘンタイ! 私の小野寺センセイになんてことするの!
 それなのに小野寺センセイは、顔を赤らめて笑みを浮かべる。小田に顔を近づけて……里穂の目の前で、小田にキスをした! それも、イヤらしくて長いキス。

 もうやめてよ! 小野寺センセイは、そんな人じゃないはずだよ。
 小野寺センセイの恋人は、今井さんじゃなかったの? どうして、こんな汚いオヤジと、キスなんかするんですか? しかも、こんな人前で。

 シュウ君が、涎を垂らさんばかりにして見とれている。

 小野寺センセイが、やっと小田から顔を離す。里穂の険しい視線に気がついて、おずおずと話しかける。
「その、里穂ちゃん……ごめんなさい」
 こんな小野寺センセイとは、口をききたくない。
 今井さんに対して、ヒドすぎる!
 里穂は、ぷいと横を向く。
 小野寺センセイは、すこしだけ口ごもってから、声の調子を変えてとりなすように言う。
「ね……ねえ里穂ちゃん、何に乗りたい?」
 おもねって機嫌をとるような口調が、里穂は気に入らない。いかにもごまかしているみたいだ。センセイは、そういう不誠実な態度を嫌っていたはずなのに。
 何か言ってやろうと、センセイの方を見る。そしたら、小田が小野寺センセイの胸に手を伸ばしているのが見えた。
 小野寺センセイの身体が、まるで小田の所有物のように扱われている。そんなの見たくない。慌ててまた、小野寺センセイから目をそらす。

 シュウ君が身を乗り出している。小野寺センセイの胸元に目を奪われている。
 シュウ君サイテー。
 二人ともサイテーだ。

 里穂は、シュウ君の腕を乱暴に突いた。シュウ君がめんどくさそうに里穂の方を見る。里穂がにらみつけると、表情をとりつくろいながら、
「なに?」
と里穂に聞く。でもそわそわと、小野寺センセイのほうが気になっていることを隠そうとしない。
 なによ、その態度! 私にコクって来たときの、シュウ君のあの殊勝な態度は、いったいどこに行ったのよ!

 里穂は、3人を放って、遊園地の入り口に向かう。さっさと自分の分のデイリーパスを買って、ゲートをくぐる。
 シュウ君が後からついて来る。センセイとあの男もついて来る。

 里穂はできるだけ、小田からは離れていることにした。
 必然的に小野寺センセイからも離れることになる。
 けど、どうせいいもん。小野寺センセイは、私より、あの男のことのほうがいいんでしょ!

 里穂は、アトラクションに集中することにした。
 本当は、昨日の晩、どの順番で乗るか決めてあった。でももう、どうでもよくなった。
 ほかの3人の意見は聞かず、適当に目についたアトラクションに片っ端から乗り込んでいく。
 バイキング、フリーフォール、ぶら下がるタイプの回転系のライド、3種類あるジェットコースターの中でいちばん空いていたやつ。
 全然楽しくなかった。こんなつまらないジェットコースターなんて初めてだ。日本で一番つまらないジェットコースターですって、ちゃんと案内板に書いておけばいいのに。

 小野寺センセイは、汚いオヤジとずっといちゃついている。移動しているときも、行列に並んでいるときも、アトラクションに乗り込むときも。アトラクションが動き出してからでさえ、小田が、隣に座った小野寺センセイの膝に手を伸ばしているのが、後ろから見えた。
 ほかの客が、じろじろとセンセイと小田を見る。男性客は、シュウ君と同じイヤな目つきでセンセイを見る。家族連れは、子供の手を引いて目をそらす。
 センセイがそんな視線を浴びるなんて、耐えられない。

 ときどき小野寺センセイが、申しわけなさそうに里穂に話しかけてくる。
 里穂は聞こえないふりをして、シュウ君の影に隠れる。
 そのシュウ君は、ずっと小野寺センセイの色っぽい服装のことに気を取られている。鼻の下を伸ばしてセンセイの胸の谷間に目を凝らし、腰をかがめてスカートの裏側が見えないか試す。
 小田は、シュウ君の視線を意識して、センセイの胸をはだけたり、センセイのお尻を触るところを見せつけたりする。シュウ君は、エサをおねだりする犬のように、ウロウロとセンセイたちの周りを回って、ハフハフと鼻を鳴らす。すぐ横にいる、自分の恋人のことは見向きもしない。

 里穂はシュウ君の後ろから、2度3度と軽く蹴飛ばしてやる。
 シュウ君がイライラして里穂に言う。
「いい加減にしろよお前」

 シュウ君! 私によくそんな口がきけるね。いつからそんなに偉くなったのよ。私がチョット拗ねただけで、あんなにオロオロしてたくせに。「私に許して欲しかったら、好きだって100回言って」ってイジワル言ったら、真に受けて本当にその通りにしたくせに。

 里穂はむすっと黙り込む。その後は、シュウ君に話しかけるのもやめた。

 話し相手がいなくなった里穂に、小田がニタニタ笑いながら、話しかけてきた。
「カレシとけんかかい? セックス下手だってカレシに怒られたのかい?」
 何言うのよコイツ! このヘンタイ男! ありえない。
 返事がわりに里穂は小田をにらみつける。小田の言葉が聞こえたとわからせてから、シカトする。

 小田は懲りずに話しかけてくる。
「カレシとは何回くらいセックスしたの?」
「晴菜先生に教えてもらったとおりにセックスすれば、カレシをちゃんと喜ばせることができるよ」
「里穂ちゃんは、かわいいから、やっぱりウリとかやってるんだよね? いくら払えばいいのかな?」
「ボク、まだ女子高生とヤったことないんだよね。いひひ」
「今夜は特別に無料にしておいてね」

 ヤラしい。下品なうえにシツコイ。サイテーのクズだ。死んでほしい。
 ひたすらシカトする。

 すると、小田の側にべったりくっついた小野寺センセイが、里穂に言う。
「里穂ちゃん。ちゃんとツトムさんに返事して」
 センセイ、信じられない! まるで、まるで私が悪いみたいに!
 こんな下品な話に、どうして付き合わないといけないんですか? こんな恥ずかしいこと、答えられるわけない。
 わたし、ゼンゼンおかしくないでしょう?
 それなのに、なんでまたこんなヤツの肩を持つの? なんで私の味方になってくれないの?

 でも、里穂は、真っ赤になりながら、小田に答える。
「わたし、ウリなんか絶対にしません。いくらもらってもイヤです」
「無料ならいいんだね! いひひ」
「何言ってるのよ! 違います! 絶対に、わたしイヤです」
「さっきボクがカレシとえっち何回くらいしたのか聞いたのに、まだ答えてないよ。晴菜先生の言いつけどおり、ちゃんと返事してね」
「……シュウ君とは……」

 里穂は、救いを求めてセンセイの方を見る。
 本当にそんなこと言わないといけないんですか?
 センセイはおろおろと小田の顔をうかがう。小田が笑いながら、まるでセンセイをたしなめるかのようにセンセイのお尻を軽く叩く。センセイは一瞬だけ里穂の方を見て、申しわけなさそうにうつむく。
 だめだ、センセイは、なにもしてくれない。

 シュウ君の方を見る。
 でもシュウ君もだめだ。里穂と小田とのやりとりに気づいているはずなのに、センセイの太ももにしか興味がないみたいだ。

 センセイの意気地なし! シュウ君の役立たず!

 それ以上センセイの命令を無視していられない。センセイの指示に逆らっていると、不安でいてもたってもいられなくなる。
 里穂は、小さく早口で答える。
「シュウ君とは、4回……」
 顔を真っ赤にしてうつむく。

「4回? 何を4回したんだ?」
 こいつ! わかってるでしょ?
「……4回えっちしました」
 下を向いたまま、震える声で答える。

 もう、イヤだよ、センセイ。どうしてこんなことを、こんなイヤな男に言わないといけないの?

 小田は、ひゃひゃひゃと奇妙な笑い声を上げる。
「ふーん、なるほどぉ。最近の女子高生にしては少ないんじゃないの? ボクの前だからって、嘘ついてるんじゃないの? 晴菜先生に、男の前では女は清純ぶるもんだって習ったのかな?」
「嘘じゃありません! ホントもう、やめてください!」
 里穂は、真っ赤になった顔を両手で覆う。恥ずかしくてたまらない。

 晴菜譲りのそのかわいらしい仕草に、小田が手を叩いて喜ぶ。
 信じられないことに、シュウ君まで、小田に追従するように笑う。
 シュウ君だって、自分の秘密を曝されているというのに。本来ならシュウ君は、里穂と一緒に小田に言い返してくれないといけないのに。

 里穂はもう一度小野寺センセイを見て、目で懇願する。
 センセイ、お願いだから、何か言って。この男を懲らしめてやって。この男のキモい笑い声を止めて。
 でも、センセイは里穂の視線を避けて、俯いたままだ。

 センセイ……。
 センセイは、この人の言いなりなんですか? 私より、このヘンタイのほうが大事なんですか?

 里穂には思いも寄らない。本当にその通りなのだ。まさに小野寺晴菜は、小田ツトムの言いなりだ。里穂の大好きなセンセイは、教え子のことよりも、この男の肉体がもたらす悦びのほうが、大事なのだ。

 小田の入って来れない女子トイレで、里穂は小野寺センセイを問い詰めた。
「センセイはどうして、あんなヒドイこと私にやらせるんですか? あのヤな男のイヤらしい質問に答えろだとか、脚を触らせろとか。信じられない。私、ゼッタイにそんなことしたくないのに。センセイが言うから、仕方なくって、私、イヤイヤ言うとおりにさせられて……。もう、ほんとにイヤなんです。ヒドイです。
 いったい、どうしたんですか? センセイ、おかしいです。センセイらしくないです。センセイはいつも優しい人だったのに。私、センセイのこと、本当に大好きで、本当に頼りにしてるのに。
 あの人、いったい何なんですか? 今井さんはどうしたんですか? あの男の人、なんであんなひどいことばかりするんですか? 下品でヤラしいことばっかり。
 それなのにセンセイは、あいつにはゼンゼン逆らわない。あいつに言われたら、何でもそのとおりりにしてる。ヘンですよ。
 センセイの今日のその服装だって、おかしいです。そんなヤラしい服。全然似合ってません。
 センセイ、どうして、あいつに好きなようにさせておくんですか? センセイも、あの男にいやらしいこと言われたり、触られたりして、どうして抵抗しないんですか? センセイ見てたらまるで……センセイはあの人の奴隷かなにかで……あの男にヘンなことされて……まるで、喜んでいるみたい。
 ねえセンセイ、本当に喜んでいるなんて、そんなことあるわけないですよね? あの男、まるでセンセイのことを自分のオンナか何かのように言ってるけど、そんなことありえませんよね。だって、センセイのカレシは、今井さんなんですもんね。
 だったら、はっきりイヤだって、あいつに言ってください。あいつが私にひどいことしようとしたら、ちゃんと止めてください。
 私、こんなセンセイ見たくないんです。私の大好きなセンセイは、そんな人じゃないはずです。
 センセイ、聞いてるんですか? ちゃんと私の方を見てください。ちゃんと答えてください!」

 里穂は、感情が昂ぶってきて、泣きそうになるのをこらえる。

 小野寺センセイは、じっと顔を俯けている。里穂より頭ひとつ背の高いセンセイが、まるで怒られた子供のように身をすくめている。いつもの迷いのない澄んだ瞳が、今は弱々しく伏せられている。家庭教師の最中の真剣さも、ふざけすぎた里穂をたしなめるときの厳しさも、里穂の悩みを聞いてくれるときの心強さもない。こんなに頼りなさげなセンセイは、見たことがない。

「ごめんなさい。里穂ちゃん」

 里穂は言葉の続きを待つ。けれどセンセイはそれ以上何も言わない。里穂を避けて目を伏せたまま黙っている。センセイはいつも里穂を真正面から見て、絶対に目をそらすような人じゃなかったのに。

「センセイ……? それだけですか? 何も答えてくれないんですか?」
「……話しても、里穂ちゃんには……」
「私には、わからないって言うんですか? 私が子供だからとでも言うんですか?」
 それはまるで、子供に都合の悪いことを聞かれたときの、大人のいいわけだ。
 センセイだけは、そんなふうに、里穂を子供扱いしない人だったのに。

 里穂の語尾が震えるのを聞いて、センセイは顔を上げて里穂を見つめる。里穂を見る綺麗な目が、揺らぐ。

「センセイ。センセイは、私のこと、嫌いになっちゃったんですか?」
「そんなことない。里穂ちゃんのことは、とても好き」
「だったらどうして……」
 センセイは悲しそうに首を横に振って答えない。

「センセイ? あの男の人、センセイの何なんですか?」
 センセイは、絞りだすような声で答える。
「……私、ツトムさんには……ダメなの。私、ツトムさんの前に出ると、何も言えなくなってしまう。ツトムさんには、逆らえないの。……里穂ちゃん、ごめんなさい」
「わからないですよ。そんな説明じゃ。
 私のこと、好きだなんて口だけで言っても、行動で見せてくれないと、信じられないです。
 もう、いいです。センセイがそんなんなら。センセイは、里穂のことなんて、どうでもいいんですね。
 でも、1つだけ、これだけは答えてください。
 センセイは、今井さんを裏切っているんですか?」

 センセイは、痛みをこらえるような顔で、つらそうに里穂を見る。
 里穂は真剣な目でセンセイを見返す。
 里穂のその視線が耐えられないとでも言うように、センセイは目をそらす。
 そして、小さく、でもはっきりと、頷いた。

 ああ……そんなこと……。
 センセイ、今井さんのこと好きじゃなかったんですか? あんなにラブラブだったじゃないですか。今井さんは、あんなステキな人なのに。
「……センセイ。がっかりです」
「里穂ちゃん……」

 里穂は、センセイに背を向けて、足早に女子トイレから出た。
 階段の下で、シュウ君と小田が楽しそうに会話をしているのが見えた。へらへら笑った後で、まるで昔からの友達のように、ハイタッチなんぞしている。

 ムカムカする。イヤな男たち。

 階段を下りる里穂に、小田が気づいて、シュウ君とひそひそと話す。二人は下品に笑いながら、腰をかがめて、スカートの下からじろじろと見上げる。
 里穂は、スカートの裾を慌てて押さえて、二人を睨みつけた。

 どいつもこいつも、サイテーだ。

 観覧車に乗ったのは、失敗だった。
 直前でヤバいと気づいた里穂は、センセイと小田を先にゴンドラに乗せて、自分はシュウ君と次のを待とうとした。けれどシュウ君が、さっさとセンセイの向かい側に座ってしまう。係員に促された里穂もしかたなくその後に続く。

 何も考えずに一番近くのアトラクションを選んだことを、里穂は後悔した。
 4人でゴンドラの中に向かい合って閉じ込められてしまった。しかも、里穂の真向かいは、イヤな小田だ。
 里穂はバッグでしっかりとスカートの裾を隠して座る。

 小田は、相変わらずセンセイの肩を抱いて、反対側の手でセンセイの太ももを触っている。センセイは満足そうに目を閉じて、されるがままだ。
 安っぽいランジェリーのようなワンピースの胸元がはだけて、ブラのカップの上半分が覗いている。スカートの裾はすっかりめくれてショーツが丸見えだけど、センセイは全然気にしていない。
 そんなセンセイの身体を、シュウ君が身を乗り出して見つめている。間近から見る綺麗な顔、豊かな胸の谷間、露出した太もも。
 シュウ君は、これを見たかったから、急いでゴンドラに乗ってセンセイの向かい側に座ったんだ。
 このヘンタイ! 小田とたいして変わんないじゃないの。

 里穂はセンセイの情けない姿から目をそむけて、窓からの光景に目をやる。遠のく地上を窓越しに眺めていると、小田がゴンドラの前後の窓のカーテンを閉ざして、視界を遮った。
「何するんですか。見えないじゃないですか」
「なにが見えないって? ああ、なるほど。里穂ちゃんの大好きな晴菜先生が、ボクにフェラチオするところを、隣のカゴから見てもらいたいんだね、里穂ちゃんは」

 里穂にとっては、フェラチオという言葉は聞いたことはあるだけで、そんな汚い行為をフツーの人間がやるだなんて、思いも寄らない。

「なんて! 何を! そんな、センセイがそんなことするわけ……」
 センセイがそんなことするわけない……?
 本当にそう言いきれる? 今日のセンセイを見ていても?
 里穂が、自信なさげにセンセイの様子をうかがう。
 センセイは里穂と目を合わそうとしない。

 センセイが小田の膝の方に身体を傾ける。里穂の目の前で、そそくさと小田のベルトを外し、ズボンのファスナーを下ろす。
「センセイ! なにやってるんですか! やめてください。まさか、そんな! こんなところで!」
 口でオチンチンをどうこうするなんて、そんなことする人間が実際にいるなんて、ありえない。しかも、里穂の大好きな、あの汚れのないはずのセンセイが……?

 小田がからかう。
「こんなところ? 観覧車はそういうことをする場所なんだよ。里穂ちゃんは何も知らないんだね。晴菜、自分の教え子にちゃんと教えてあげなきゃだめじゃないか」

 イヤだ。違う。絶対にそんなことない。
 里穂が手を伸ばして、センセイの手を押し止めようとする。センセイは顔も上げずに言った。
「里穂ちゃん。邪魔しないで」
「センセイ……」
 手を伸ばしたまま里穂は固まる。
 小田がかぶせるように言う。
「こら、里穂ちゃん。1周15分しかないんだぞ。晴菜先生の邪魔をしたらだめじゃないか。なあ、修太」
「そうだよ、里穂」
 シュウ君までそんなことを。

 シュウ君が、里穂の手をとって膝に戻す。
 その間に、センセイが小田のスラックスとブリーフをずり降ろす。脱がせてもらいやすいように、小田は腰を浮かせている。
 小田の汚らしいペニスがそそり立つのを見て里穂は目をそらす。
「おっやぁ、里穂ちゃんは、オチンチン見るの初めてなのかなぁ? そんなことないよねえ。修太に気持ちよくしてもらったんだろう?」
「やめてよ、ヘンタイ!」
 どうしてこの男は、こんなことばかり言うの?

 センセイが動く気配がして、里穂は目を上げる。
 センセイは、椅子から降り、向かい合うシートの間の狭い空間に屈み込む。シュウ君の膝に身体をこすり付けるような窮屈な姿勢から、小田の股間に身を乗り出す。
 センセイは、細い指で髪の毛をかきあげて耳にかけてから、首を伸ばす。センセイの端正な顔と、小田の禍々しい一物が、距離を詰める。

 イヤ! まさか? 本当にそんな汚いことするんですか? ウソ? やめてよ、センセイ! センセイが、そんないやらしいことしちゃダメだよ! センセイのキレイな口が、優しい唇が……やめて、汚れちゃう!

 唇が小田の先端に触れる。キスをするように、チュッと音をたてる。そのまま、ためらいなく飲みこんで行く。
「センセイっ! イヤァッ。やめてください、そんなこと! 私の目の前でそんな……」
 ひどすぎます、センセイ。そんなイヤらしいこと。
 今井さんが可哀相すぎます。

 小田が嬉しそうに言う。
「里穂ちゃん。ちゃんと見なきゃダメじゃないか。晴菜先生のおフェラを見て勉強しないと。上手くなれないよ」
「イヤ! イヤイヤイヤ!」
「わがままだなぁ。なあ修太、里穂ちゃんのフェラチオはどうなんだ?」
「そんな、フェラチオなんて、里穂にやってもらうなんて、ありえないっすよ」
 シュウ君が不満そうに答える。
「なんだ。本当にワガママだなあ、里穂ちゃん。ほら、里穂ちゃんにも後でフェラチオやってもらうんだから、ちゃんと晴菜先生のやり方を見て覚えないと」
「ウソ! イヤ。絶対にイヤ。そんなの、ありえません。センセイ、ねえ、やめて、そんなこと」

 里穂は、少しだけセンセイのほうに目を向け、またすぐに目を伏せる。見たくない。でも、目から締め出すことはできても、クチャクチャと唾の跳ねるイヤらしい音は、勝手に耳から侵入して来る。

「だめだなあ、最近の女子高生はワガママで。ほら、晴菜先生、ワガママな教え子に、ちゃんと勉強するように、ひとこと言ってあげてよ」
 チュパチュパと言う音が途絶えて、小野寺センセイの声が聞こえる。
「……里穂ちゃん……」
 小野寺センセイの声は、弱々しく、かすかに震えている。
「里穂ちゃん。ごめんなさい。……わたしのやっていることをしっかり見て、やりかたを覚えて」

 イヤだよ、センセイ。そんなの、絶対に見たくない。

 もちろん、里穂に選択の自由はない。
 里穂は、おずおずと視線を戻す。
 細い指を小田のペニスを絡めながら、顔を上げたセンセイと目が会う。即座にセンセイは目を伏せる。再び小田のペニスを口に含む。小さな口をすぼめてペニスを擦り、指先でペニスの根元をくすぐる。センセイのピンクの舌が唇から覗いて、すばやく動く。

 ゴンドラが一周するまでの間に、射精させて後始末まで終わらせる。タイムオーバーだけは避けたい。そのために最初から激しく刺激して、指と唇と舌を駆使して、あらゆる快感を掻きたてようとしている。

 上品な小野寺センセイが、手馴れた様子でイヤラしい行為をこなしていくことに、里穂はショックを受ける。
「どうして? いやだよ。センセイ。やめてよぉ」
 半ばベソをかきながら里穂は見守る。おぞましい光景に向かい合う。
 やり方を覚えて、という言いつけを守らないといけない。いくらイヤでも、センセイの動きを目に焼き付ける。

 センセイが小田に媚びるように、囁く。
「アンっ、ツトムさん、やっぱりツトムさんはステキ。いつもみたいにお口に出して。早く」
 シュウ君がつぶやく。
「うわぁ、すっげー。こんなキレイな人か、こんなところまで舐めてる……」
「あ、そうか、修太は、フェラチオされたことないんもんな」
「そうっすよ。AVでしか知らないんですよ。こんな間近から、フェラチオ見れるなんて」
「カノジョがワガママな女だと苦労するよなぁ」
「ええ、そうです」
 シュウ君! ひどい。私が、ワガママ? なんでそんなこと言われないといけないの?

「後で晴菜にしゃぶってもらえよ」
「えっ! いいんですか?」
 どうしてシュウ君? きっぱり断ってよ!

「当たり前だよ。ほら、見ればわかるだろう? 晴菜もおしゃぶり大好きなんだよ」
 小野寺センセイのことを、そんなふうに言わないで。

 でも、小野寺センセイは、唾液を塗りたくっては、ウフンと幸せそうな声を上げている。イヤらしく唇で愛撫し、美味しそうに舌を鳴らす。
 まるで、本当に喜んでいるみたいに。

「はは。本当ですか?」
「そうだよ。ミス啓知大学はおしゃぶり大好きのインラン女なんだよ。な、そうだろう?」
「ンフン、はい、そう、です」

 センセイまでどうして? どうしてそんなふうに答えちゃうんですか? 本当のセンセイは、そんな人じゃないはずです。
 それとも……、違うんですか? 私がこれまで知っていたセンセイは、ニセモノなんですか?

「うわっ、すげぇ。本当なんだ! こんな上品そうな顔してるくせに。あとで友達に、ミス啓知大学のホームページの写真見せて、この女にフェラチオしてもらたって自慢しよっと」

 小野寺センセイのことを「この女」だなんて、言わないで!

 里穂は、涙をこらえながら、センセイの言いつけどおりに、センセイのフェラチオを見守る。
 センセイは、汚い棒を横に咥えて、唇で左右に擦っている。キレイな指先が、先端を弄ぶ。「大好き」と甘え声で囁いて、酔ったような表情で小田を見上げる。

 小田が話しかける。
「里穂ちゃん。しっかりセンセイのテクニックを盗むんだぞ」
「……」
 何かしゃべると、嗚咽になりそうで、里穂は何も言わない。
 今度は、小野寺センセイが言う。
「里穂ちゃん、もっと近くから見て」

 イヤ。これ以上近くなんて、ゼンゼン必要ないでしょ?。
 里穂は身を乗り出しす。センセイと向かい合う形で、真横から汚らしい小田のペニスを見つめる。不快な臭いが鼻をつく。里穂の顔の下に、剛毛に包まれた小田の太ももがある。里穂の髪の毛の先が、小田の太ももの弛んだ肉につきそうになって、慌てて髪の毛を背中にかきあげる。

「里穂ちゃん、よく見てて。ここが、男の人の弱点」
 小野寺センセイが、可憐な舌先で、ペニスの裏側をクネクネとつつく。小田の下半身が反応してピクリと動く。
 そんなことセンセイに習いたくないです。お願いだからセンセイ、そんなイヤらしいこと、私に話さないで。
「ツトムさん、出して」
 イヤらしい声で囁いて、小田の快感を追い立てるように、細い指ですばやくペニスを擦り上げる。ペニスがビクンビクン震える。
「ツトムさん、アアン、嬉しい」
 昂ぶりをなお勢いづかせるために、小野寺センセイは唇で擦り始める。小野寺センセイは、頬を膨らませて、懸命にペニスを咥え込み、前後に顔を揺らす。唾の音と荒い息が、ゴンドラの中にこもる。熱い熱気と淫らな臭気が、里穂を包み込む。

 シュウ君が、里穂の斜め横に身を乗り出す。顔を傾けて、小野寺センセイのイヤらしい表情に、見とれている。
 椅子の間の狭い隙間にかがみこんだ小野寺センセイは、上半身を小田の上に伸ばして、下半身はシュウ君のほうに押し付けている。シュウ君は小野寺センセイの細い身体の後ろから、自分の下半身を密着させている。どこか小田と似た下品な笑いを浮かべて、小野寺センセイの匂いを嗅ぐように、鼻をうごめかせる。

 小田が、ンンッ、と声にならない唸り声を上げる。射精のタイミングをとらえて、小野寺センセイは、ペニスを咥え込んでしっかりと唇を閉ざす。指先でペニスを擦り上げながら、ンフッ、ンフッ、と精液を飲みこむ。
「うわっ。すげーっ。ほんとに精液飲むんだ。AVみたいだ」
 シュウ君が感嘆の声を上げる。

 イヤだ。小野寺センセイが……。
 里穂の小野寺センセイが、こんな汚い男の精液を飲んでいる……。

 シュウ君が、さらに不愉快な言葉を付け加える。
「うわぁ、おれも、我慢できない。ねえ、小田さん、いいんですよね、おれも。後でこんなふうに飲んでもらえるんですよね。だったら、今、出してしまわないように我慢しないと」
 シュウ君は、里穂がどんなイヤな思いをしようとも、気にならないんだ。

 小田の射精が収まってからも、小野寺センセイは、「やっぱり美味しい」だの「観覧車の中なのでスリルがあって晴菜も感じそう」だの、耳を疑うような品のない感想を言って小田に媚びている。シュウ君が喜んで歓声を上げる。
 センセイ。もう、やめて。もう終わったんでしょう? そんなこと、もう言わなくていいんです。だから、お願い、やめて。

 里穂は、やっとのことで「フェラチオ見学」の呪縛から逃れて、目を閉じる。まぶたの裏に残る悪夢の光景を消してしまおうと、きつく目を瞑る。だがセンセイが、里穂の早とちりたしなめる。
「里穂ちゃん……ごめんなさい、まだ、終わってないの。終わったあとは、きちんとオチンチンをきれいにするの。それも見て」

 里穂はイヤイヤ目を開ける。悔しくて苦しくて、顔をしかめてこらえる。
 そんな里穂を見て、何が面白いのか小田が笑い声を上げる。またシュウ君が、理由もわからずに追従笑いをする。
 里穂は、イヤらしい光景に再び向かい合う。小野寺センセイが、丁寧に下で小田のペニスを舐めて、汚れを落とす。その様子を、しっかりと見届ける。

 すべてが終わり、小野寺センセイが小田にスラックスを穿かせ終ったところで、ゴンドラはちょうど一周し終えた。いつも段取りのいい小野寺センセイは、こんなことのペース配分まで完璧なんだ。

 里穂は、ショックでふらふらとなりながら、ゴンドラの入り口をくぐる。
 なにも考えられない。
 その後ろから、小田が手を伸ばす。里穂の太ももの間に、そっと手のひらを差し入れる。
「キャッ!」
 里穂はギクリと腰を伸ばす。
 小田の手が、ミニスカートの中に入り込み、指が後ろから性器をさぐりあてて、軽く擦る。
「イヤン」
 直接触れらるゾクリとする感触に、慌てて腰を引く。

 里穂は気づかない。直接触られているという事態の、不自然さに。

 里穂のお尻の辺りを、すっと風が通り抜けるのを感じる。小田がミニスカートをめくり上げたらしい。
 係員が、スカートの内側を見て目を丸くしている。里穂の後ろで、小田とシュウ君の笑い声が聞こえた。笑い声に半ばかき消されながら、センセイが喘ぐように囁く。「ツトムさん、お願い……。そんな、ひどい……」

 里穂は転がり落ちるようにゴンドラから降りた。そのときにまた、スカートの裾が乱れる。また係員の前に股間を曝してしまう。だが、前もって催眠術をかけられている里穂は、自分のスカートの中がどうなっているか、何も知らない。

 里穂は、まったく覚えていなかった。
 今日の里穂は、下着を着けていない。

< つづく >

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