お嬢様は魔女 最終話

最終話

マイ・ディア・レディ

 その日、お屋敷は暗い雰囲気に沈んでいた。

 お嬢様の誕生日である。本来なら華やいだ空気の中、お祝いのパーティーが催されるはずだった。笑顔を浮かべたメイドたちが、順々にありさ様に祝福の言葉を捧げる……そんな光景が描かれるはずだったのに。

 今朝から何度目とも知れないため息をついて、私は自室の窓から外を眺めた。

 もう雨は止んでいたけれど、陰鬱な曇り空が海原を覆っている。いつまた降り始めるか知れない空模様に迷っているのだろうか、いつもならば海辺を飛び回っているカモメたちもその姿を見せてくれない。

 あれから――。

 私は取り乱したりしないよう、事実だけを、つとめて客観的に、順序立てて、ゆっくりと思い起こしていった。正直なところ、私の(貧弱な)頭脳はまだ混乱の渦中から抜け出せていないのだ。

 さつき様の手配で、私はお嬢様と共にこのお屋敷へと送られて来た。お嬢様は始終意識を失っておられたが、お身体を綺麗になさり、いつものベッドに入ってお休みになる頃には、体温も戻って頬にも赤みが差しておられ、私が怖れていたような最悪の事態にはならなかった。ありさ様のおっしゃっていた通り、極度の衰弱は一時的なものだったのだ。規則正しい寝息を確認して、私がどれほど安堵したか知れない。
 ただ一つ、私の胸を締め付ける辛い事実があったとすれば――その純真無垢な寝顔は、間違いなくみつき様のものである、ということだった。

 つかさ様はご自身のお屋敷で養生されている。幸いお身体に差し障るようなことはなかったようだが、心身共に非常に消耗しておられ、メイドさんたちに付き添われて自室へと向かわれる際にも足取りのおぼつかないご様子だった。

 つかさ様は私やお嬢様を責めたりはなさらなかった。そうなさって当然とも思われるのだが……。つかさ様がありさ様をお連れして一体何をなさろうとしていたのか、本当のところはまだ分からなかったが、なんにしろその思惑が(私のせいで)台無しになってしまったことは間違いないのだ。
 当然、つかさ様がなさろうとしていたことは蒼風院本家の意志を反映しているはず。それはありさ様の『魂』を扱うという計画とも関係しているのだろう。すでに失敗したものとされている、という話ではあったが、その最後の部分である『何か』すら、ここへ来て頓挫してしまった。この責任が、つかさ様に降りかかるようなことがなければ良いのだけれど……。

 そして、最後にありさ様がなさったこと――それがどんな影響をもたらすのかも、まだ分からない。
 魔女が魔女に対して魔法をかける。それも相手を命令に従わせる類の魔術を。その結果は……一体どうなってしまうのだろう。魔法の知識の浅薄な私には想像もつかなかった。
 ただ、ありさ様が全身全霊を込めて成し遂げなければならないほどの、強力無比な魔術が行使された、ということは確かだった。いかに魔法に疎い私といえど、その場に居た実感としてそれは理解できる。それだけ魔法の対象であるつかさ様が力ある魔女でおられる、ということなのかもしれない。(私たちのような普通の人間であれば、視線の一瞥で造作もなく操られてしまうのだから)

 つかさ様とは――いずれ、ゆっくりお話をさせていただく機会もあるかもしれない。

 澄さんはあの災難でヘトヘトになっていたにも関わらず、その後も蒼風院本家とのやりとりに奔走している。つかさ様という理解ある橋渡し役を欠いてしまっている今、交渉も容易ではない様子だった。大体、正確な状況すら把握しきれていないのだ。事態の説明を迫る本家に対してもひたすら返答を保留し、ともかく時間を頂けるようにと懇願するしかなく、苦しい立場に立たされているのだ。今後のお嬢様の処遇などといった重要な事柄についても、まったく目処が立っていないらしかった。

 栞ちゃんは、謹慎処分を受けて書庫に軟禁されている。お屋敷の他のメイドたちは魔法が解けると自然に目を覚まし、体調や精神状態に別状はなかった。胡桃ちゃんも健在だ。澄さんをフォローするため忙しく立ち回っている。しかし大多数のメイドたちは最低限のことを知らされただけで、混乱をきたさないようとの配慮から自室待機の指示を受け、それに従っていた。

 実のところ、私もなかば謹慎に近い形でずっと自室にこもっているのだ。
 昨夜、澄さんに一部始終を説明した後、お嬢様のお側で寝ずの番を張るつもりだったのだが――それは許可されなかった。お嬢様がお目覚めになった時、傍らに私が居ることが必ずしも良い影響を及ぼすとは限らない、というのがその理由であり、私は『そんなことはありません!』と声を大にして反対したかったけれど、本当のところ、そう言い切れるだけの自信がなかった。
 だって、みつき様がお目覚めになって私の顔をご覧になったら――様々な事実を一度に悟ってしまわれるに違いないのだ。この沈みに沈んだ気持ちをポーカー・フェイスで誤魔化すなどという芸当は、とてもできそうもない。そして、みつき様が泣き出しそうになってしまったその時、私は一体どうやってお慰めして差し上げたら良いのだろう? そのための方策も言葉も、何一つ思いつかなかった。きっと私も一緒になって泣いてしまうのがオチであろう。

 要するに……今の私にお嬢様付きメイドのお役目は務まらないということだ。

 自然とため息がこぼれる。今だって、本当は悲しい。悲しいのだ。感情をまじえず冷静になりゆきを思い出しているつもりでも、こみ上げてくるものがあり、耐えきれなくなりそうになることが一度や二度ではなかった。

 ただ――信じられなかったから。信じたくなかったから。ありさ様が本当に居なくなってしまわれるなんて。また泣いてしまったら、その事実を認めることになってしまう。そんな気がして、それが最後の支えになって、かろうじて涙をこらえているのだ。

 そう、決定的で揺るぎようのない証拠が突きつけられるその時まで――絶対に泣くまいと、私は心に決めていた。

 時折、胡桃ちゃんが尋ねてくる他は静かなものだった。そのたびごとに私はお嬢様のご様子を根掘り葉掘り聞き出そうとするわけだけれど、そのしつこさに閉口した様子など見せずに、知っていることを丁寧に教えてくれる胡桃ちゃんは……実に人間ができていると言えよう。

 胡桃ちゃんによる最新の情報だと――みつき様はつい先頃目を覚まされたとのことで、お食事にも少し口をつけられたそうだが、今はお一人でお部屋にこもっておられるらしい。
 お身体には何の異常も見られず、お気持ちも落ち着いておられる、というのは喜ばしい限りだったが……最大の問題は、現在の状況をいつ、どのようにしてみつき様にお伝えするのか、ということだろう。私がそのことを話題に出すと、胡桃ちゃんは無言で少し考え込む仕草をし、やや困ったような表情を浮かべた。

 コンコン。その時、ドアにノックの音がした。胡桃ちゃんだろう。

「はい」

 私はすぐに応えたのに、胡桃ちゃんは部屋に入ってくる様子がなかった。けげんに思って入り口まで出て行き、扉を開くと、予想通り、愛すべき我が相棒がそこに立っている。なぜ部屋に入らないのかしら。私に用事があるのでは……?

 どうしたの、という言葉がのど元まで昇ってきていたが、それはしっかり顔にも出ていたようで、胡桃ちゃんは軽く手を上げて私が口を開くのを遮った。

「菜々ちゃん、お嬢様がお会いになりたいそうよ」

 そして、私は意外な伝言を伝えられたのだった。

★★★★★★★★★★

 お嬢様を前にして、私の心臓はドキドキと高鳴っていた。

 一晩ぶりにお姿を拝見するから、ではない。さきほども触れたように、私の様子からみつき様が今現在の事情をすっかり知ってしまわれるといった事態は避けなければならない……その緊張からだった。
 私は胡桃ちゃんのフォローをおおいに期待していたのだが、彼女も多忙を極めているのだろう、お部屋まではついて来てくれたのだが、お嬢様へのご挨拶を済ませるとすぐに引き下がってしまった。

 私は扉を入ってすぐのところで立ちすくみ、お部屋の中を見回した。日中ではあったが、灯りをつけていないために少し暗い。冬の曇天がもたらす薄い光が、奥の大窓から差し込んでいるだけだった。
 みつき様はネグリジェ姿のままベッドに腰掛けて足を組み、ほおづえをついておられる。視線は窓の外へと向けられているため、その表情をうかがい知ることはできなかった。

「菜々ちゃん」

 やがて、お嬢様が私の名を呼ばれた。それだけだったが、私は長年の経験から何を請われているのかを察し、ぎくしゃくとした足取りながらベッドの脇へと進み出た。

 が、緊張のあまりガチガチになってしまった。軽くおじぎをしたきり顔を上げることもできず、うつむいたまま視線をさまよわせる始末だった。

 ふと、私はベッド脇のサイドテーブルに置かれている物に気づいた。私がありさ様にプレゼントした、あの小さな手鏡だった。お嬢様のことで頭がいっぱいで、すっかり失念していたが……お屋敷に帰ってくる時、一緒に持ってきていたのだ。
 鏡面には鋭く亀裂が入り、割れ目から欠けてしまった部分も多い。無惨な有様だった。その傷はきっと、魔法ですら直すことができないのだろう。そんな気がした。

「菜々ちゃん」

 お嬢様に再度呼ばれて……私はおそるおそる目線を上げた。

 みつき様の憂いを帯びた横顔と、なにかに耐えようとするかのようにきゅっと引き結んだ口元を目にして、私はハッとする思いだった。

「お嬢様……」

 思わず声を上げると、みつき様は私の方へ振り向き、小さく微笑を浮かべられた。悲しげな笑顔だった。

 あぁ、みつき様は――。

 私は思い違いをしていた。みつき様は何も知らないものと、勝手にそう思っていた。けれどそれは違った。最初から全部知っておられたのだ、みつき様は。

 ありさ様のことも……。その悲しい運命のことも……。いつかこんな日が来てしまうことも……。

 不意に、慰安旅行の際、温泉宿でみつき様が見せた涙の、本当の意味が理解できた。みつき様は辛かったのだ。ありさ様との別れが。悲しかったのだ。私とありさ様が離ればなれになってしまうことが。(なんとお優しい思いやりだろうか)
 そう、考えてみれば当たり前だった。涙を流すみつき様は、あんなに寂しそうに見えたではないか……。

『真実が見えない時……人は疑心に囚われてしまうものよ』

 あの時、ありさ様は真実、という言葉を使われた。それがまさか、こんな過酷な現実となって立ち現れるなんて、あの時の私には想像もできなかった。けれど、それでも……私はみつき様の心中をお察しできなかったことに対して、罪の意識を感じずにはいられなかった。

 だって、みつき様は――今まさにその辛い現実を前にして、強いて微笑んでいらっしゃるのだから。

 私は胸に迫るものを感じて、息が詰まった。我慢していた涙が、今にもあふれて来そうだった。

 ――決定的だった。

 みつき様の悲しい笑顔が証明している。私がかたくなに信じるまいとしていた現実が、すなわち真実であることを。

「菜々ちゃん、お願いがあるの」

 みつき様の口調は辛そうな響きを帯びていたけれど、それでも実にしっかりとしたものだった。

「……は、はい」

 答えた私の声は情けないほど震えていた。けれど……けなげにも悲しみに耐えておられるお嬢様の前である。私の方が泣きだすわけにはいかないではないか。

「これをつけて欲しいの」

 そうおっしゃってみつき様が掲げたのは、琥珀色の宝石をあしらったペンダントだった。

 それは昨日――私がありさ様に託されたものだった。みつき様にお渡しするために。結局、直接手渡すことがかなわなかったので……昨夜、お嬢様の枕元に置いてお部屋を退出したことを思い出す。

 そのペンダントにはつかさ様もこだわりを持っておられた様子だった。それにありさ様も、私の手にしっかりと握らせるまで手放すことをなさらなかった。なにか大切な意味を持つ品物だということはそれとなく感じていたのだが……。

「はい……」

 おそるおそる、みつき様からそれを受け取った。

 一見してごく普通のペンダントである。銀色の細かな鎖もさして特徴のないものだし、ひし形の台座にも特別な意匠を凝らした風はない。
 ただ台座に埋め込まれた琥珀色の宝石は、よく見ると――水面に映る満月のごとく、たゆたうような不思議な輝きを秘めていた。外界の光線を反射しているだけではなく、ほのかながら、まるで自ら光を放っているかのような……。

 確かに美しい。きっと特別な魔法のかかった品物なのかもしれない。そう思うとちょっと気後れのするところもあったが、誰あろうお嬢様の『お願い』である。お断りする者があろうか。私は覚悟を決めると、留め金を外し、鎖を首にかけた。胸元できちんと位置を調節する。

「これでよろしゅうございますか?」

 やや緊張気味にそう申し上げると、みつき様が微笑を浮かべたまま手招きをされたので、私はペンダントがよく見えるようにと、少しかがみこんだ。

 ――と、みつき様の腕が伸び、そっと私の頭を抱き寄せられたではないか。

「お、お嬢様……?」

 とまどい気味の私の額に、お嬢様の小さな手が触れる。耳元でささやきが聞こえた。それは聞き慣れぬ異国の言葉のような不思議な響きで――何かの呪文だ、と理解できるまでに少しの時間がかかった。

「……うまくいったわね、みつき」

 突然声が聞こえて、私は仰天した。こ、この口調は――ありさ様!?

 けれど、目の前におられるのは――間違いなくみつき様だった。優しいお顔立ちからも、綺麗な栗色の瞳からも、ニコニコと微笑んでおられるその天真爛漫な表情からも、それは間違いない。

 そ、それじゃあ、ありさ様はどこに……!?

「あら、まだ分からない?」

 クスクスという含み笑いが聞こえて、私はもう一度仰天した。

 いかにもありさ様らしいその上品な笑い声は、なにしろ――他ならぬ私自身の口から発せられていたのだ。

★★★★★★★★★★

 なに、なに、なに!? 何が起きてるの!? 私は大混乱に陥って口元に手をあて――ようとしたところで、いつの間にか自分の身体が全く動かせなくなっていることに気づいた。
 金縛りの魔法をかけられてしまったのだろうか。指一本自由にならない。苦し紛れにじたばたと暴れようとしてみるが、ぴくりともしなかった。

「ちょっと、暴れないでよ」

 声音は間違いなく聞き慣れた私自身のものだったけれど、その口調は――確かにありさ様のものだった。

「相変わらず、物わかりの悪いメイドねぇ」

 フッと『私』が笑って、髪をかき上げるような仕草をした。

 んなっ……私の口が、手が、勝手に動いてる……!?

 私は徐々に状況を理解しはじめた。こういった感触には覚えがあったのだ。他人の身体を操る魔術の類である。お嬢様をはじめとして魔女の面々には何度こういった魔法をかけられ、無理矢理に恥ずかしいあれこれをさせられたか知れない。

「違うわよ、菜々……本当にバカなんだから。
 あたしがあなたの身体を借りてるの!」

 『私』が不機嫌な口調でそう言って、私はようやく全てを悟った。

 要するに……ありさ様が私の身体を乗っ取ってしまったということ!? 幽霊が人間に取り憑くみたいにして……?

「失礼ね。幽霊なんて下等な存在と比べないでよ。憑依は立派な魔術の一種よ」

 ありさ様……本当にありさ様なの!?

「だから、そうだと言っているじゃない」

 『私』がうんざりしたようにそう答える。

 落ちつけ、落ちつけ、私……。自分に言い聞かせた。この奇妙な状況に適応できない焦りと、ありさ様と再会できたという興奮とがないまぜになって、とても平常心ではいられない。

 『憑依』とありさ様はおっしゃった。こんなことは初めてだけれど、きっとそういう魔法があるのだろう。それは納得することにした。
 なにしろ、さっきのペンダントが怪しい! おそらくあれが、ありさ様の精神を運ぶ『器』のような役割をしていたのではないだろうか?

「その通りよ。精神ではなくて『魂』だけれどね」

 私の疑問に『私』――もといありさ様――が答える。いや、お答えになる。

 それに……『本当の』私はどうなってしまっているのだろう? 目も見えるし、音も聞こえる。感覚は全部あって、意識も正常なのに、身体を乗っ取られてしまって……一体これからどうなるの!? ま、まさか、このままずっと……。

「ふふ……そんなに心配しなくてもいいわ。
 あなたにはちょっと『引っ込んで』もらっているだけ。
 身体だって、すぐに返してあげるわよ」

 ありさ様はそうおっしゃったが……経験上、魔女の言質ほどあてにならないものはない。

「ねぇねぇ、なにをお話してるの?」

 そこにお嬢様が……えーっと、つまり……みつき様が割り込んで来た。

「あら、そうねぇ……菜々、ちょっと『こう』してみなさい」

 ありさ様がそうおっしゃると、『どう』すればいいかが理解できた。

(こ、『こう』ですか……?)

 その通りにしてみる。

「わっ、菜々ちゃんの声だ!」

 どうやらありさ様の魔力を介して、みつき様にも聞こえる『心の声』のようなものを発することができた……らしい。原理はさっぱり分からなかったが。

「ん…………これで問題ないわね」

 ありさ様がおっしゃったので、私はすかさず噛みついた。

(いーえ、問題あります! なんなんですか、これは!? この状況は!? 説明してください!)

「あら、いいじゃない……あなただって、あたしに会えて嬉しいんじゃなくて?」

 はぐらかすばかりのありさ様。にんまりと『私』の口元がゆがむのが分かる。

(そ、それは、もちろん……!)

 もし自分の身体が思い通りになるなら(本来、それが当然なのだけれど……)、私は顔を紅潮させ口をパクパクさせて絶句したことであろう。

「『手紙』でね、ありさちゃんが教えてくれたんだ。
 こうなるかもしれない、っていうこと」

 私の疑問には、みつき様がお答えくださった。あぁ、みつき様はとても素直な良い子に成長なさったことよ……私は時ならぬ感慨に浸った。

「正確には」

 ありさ様が人差し指を唇に当て、気取ったポーズを取って補足された。

「いくつかの事態を想定して書いておいた『手紙』の一通が、たまたま正解だったのよ」

 みつき様がうんうん、と頷いておられる。

「それでも、こんなに上手くいくとは思わなかった。
 みつきはよくやってくれたわ」

 ありさ様はすっと腕を開き、みつき様を胸の中に誘う。

(えっと…………わ、私は……? 私の努力は……?)

「わたし、嬉しい! ありさちゃんとお話できるなんて!
 ずっとずっと、夢だったんだ……!」

 寝間着姿のみつき様が、ありさ様の(つまり私の)胸に飛び込んで、ひしと抱きつく。いつもみつき様に抱きつかれている時と寸分違わぬ感触。

「あたしも嬉しいわ、みつき」

 愛情を込めて抱擁を返すありさ様。みつき様のお顔には、じんわりと涙がにじんでいる。

 ……感動のシーンを前にして、私の発言は完全に立ち消えの様相であった。

「ずっと……こうしていたいな……」

 みつき様が、幸せな夢を見ているような表情でそうおっしゃる。ありさ様は、みつき様のなめらかで美しい髪をゆっくりと撫でて差し上げていた。えもいわれぬ心地よい感触が指の先から伝わってくる。

「そうね……でも残念だけれど、時間がないわ」

「うん……分かってる……でも、もう少しだけ……」

「仕方ないわね……すぐに始めるわよ。あなたが満足したらね」

 これはよろしくないですよ。この展開は。……いや、誤解のないようにお断りしておこう。喜ばしいことなのだ。お二人が抱き合って互いの愛情を確認し合うということは。私だって長年夢見ていた光景なのである。
 お二人がいつも一緒に過ごされ、仲良く遊びに興じ、笑いが絶えず……お部屋の隅に飾られたポートレイトには、手を繋いで笑顔を浮かべる双子の姉妹と、控えめにお仕えする一人のメイドの姿が描かれていて……そんな幸福な光景。

 だかしかし! 私は断固として考えた。現状はちょっと違うのではないだろうか!

 ありさ様は私の身体を無断借用したあげく、宿主のことをすっかり置いてきぼりにして話を進めておられる。これはよろしくない。
 大体、魂が三人分あるのに、肉体が二人分しかないのだから、一人がのけ者になるのは当然のことであった。それが今は私なのであるが……二人のうち一人分の肉体は、誰がなんと言おうと私のモノである。それを提供しているというのに、この扱いはひどいのではないだろうか? その上、ちゃんと私(の魂)が私(の肉体)を取り戻せるかどうかだって、あやしいものではないか……。

(ちょ、ちょっとお待ちください……! 話が見えません! 再度、説明を要求します!)

 私は二人の(!)お嬢様に対して必死に訴えた。

 すると……ふぅ、ため息をついてありさ様がおっしゃった。

「……菜々には話していなかったわね。
 これからみつきに、あたしの『記憶』と『力』を受け渡すのよ」

 そして、首にかけていたペンダントを持ち上げ、琥珀色の宝石を(私に見えるように)目の前に持ってくる。

「さっきのあなたの予想は、半分だけ正解。
 『これ』に込められているのはあたしの『魂』だけじゃないのよ。
 『記憶』と『力』も封じてあるの……というより、それが本来の用途なのよ」

 ようやく、きちんとした説明が聞けそうだった。

「昨日、つかさと二人で行っていたのが、そのための儀式。
 『これ』は元々、つかさに……蒼風院に渡すはずのものだったのよ。
 その代償として、あたしの提示したいくつかの条件を飲む……そういう契約だった」

 ……私は昨日のありさ様のお言葉を思い出していた。

『契約違反、と考えても構わないわね?』

 つかさ様に対して、ありさ様はそうおっしゃっていた。つまり……あの場に私が飛び込んで行ってしまったことで、蒼風院側が条件の一つを満たせなくなり、結果、契約を破ることになってしまった……そういうことだ。

(あ、あのぅ……)

 しばらく忘れていた疑問が鎌首をもたげてきた。

(それじゃあ、あの時おっしゃっていた、私にだけは見られたくなかった、というのは……)

「それはまた後で説明するわ。それから条件のうちいくつかは、秘密。
 蒼風院は相当に『これ』を欲しがっていたから、かなりの無茶を言ってやったけどね」

 さらりとかわされた上、色々と先回りされてしまった。

(……秘密じゃない条件というのは?)

 一応、聞いてみる。

「みつきを本家の人間として認めること。
 それから両親と一緒に暮らせるよう、手配すること」

 ドキリとした。それは私にとって長年の宿願であった。そしてもちろん、みつき様にとっても……。

「でも、それはフイになっちゃったわね。みつきには悪いけれど」

 ありさ様はひょいと肩をすくめて見せた。

「ううん……いいよ……」

 みつき様が私の胸の中でごそごそと動かれる。ぬくもりを探るようなその仕草が、みつき様の寂しさを表しているように私には思えた。

「……というわけで、これから受け渡しのための儀式をするわ」

 そのお言葉に私は慌てた。

(わ、私の身体を使ってですかぁ?)

「儀式には肉体が要るのよ。悪く思わないで」

(べ、別に私の肉体でなくとも良いのでは……それに……)

 ふと、私はあることに気づいた。『憑依』は魔術の一種だとありさ様はおっしゃった。それではなぜ……なぜ、これまで一度もその魔法をお使いにならなかったのだろうか……?

「便利よね。ちゃんと元の肉体に戻ることができるのなら」

 突然、目の前が真っ暗になったような気がした。

 みつき様に受け渡す……。ありさ様の『記憶』と『力』を……。それじゃあ……。

(それじゃあ『魂』は……)

 魂は三つ。肉体は二つ。

「いいのよ。どうせあたしの『魂』は――」

 『私』の口元に微笑みが浮かんだ。不敵な表情を作ろうとして、失敗して、ちょっぴり寂しげになってしまった微笑みが。

「………………」

 みつき様は無言だった。ただ『私』を抱きしめるその腕に、ぎゅっと力がこもった。

(………………)

 私も絶句したまま、その事実に耐えるのが精一杯だった。

「菜々、あなたは何も心配しなくていいのよ。
 儀式はあたしとみつきに任せて……あなたは見物でもしているつもりでいなさい。
 大丈夫よ、みつきだって立派な魔女なんだから」

 そのお言葉に、みつき様が顔を上げて私と目を合わせる。寂しそうなお顔だった。ありさ様はみつき様の髪を優しく撫でた。

(……どうなさるんですか……その……儀式って?)

 そう私が尋ねると――。

「あら」

 今度こそ本当に、いかにも人の悪い魔女らしい、不敵な笑みが浮かんだ。

「魔女同士でやることなんて一つじゃない?」

★★★★★★★★★★

 あわあわ。あわあわあわ。

 しんみりとした雰囲気も一転、私は前代未聞の焦りに囚われていた。

「これ……どうやって脱ぐの?」

 それもむべなるかな。今まさに『私』が――つまり、ありさ様が、ということだけれど――着慣れないエプロンドレスを脱ぐのに苦戦しておられるところなのである。

(ちょ、ちょっとありさ様! お待ちくださいっ! お待ちくださいってば!)

 ありさ様の告げた『儀式』の内容はとんでもないものであった。魔女同士の性交――それが唯一の方法だというのである。

 そんな無茶苦茶な!

 『魔力的な繋がりを得るためには愛の交歓こそが云々』といったありさ様の解説も、私にはこじつけとしか思われなかった。

「手伝ってあげる」

 みつき様が私の前に立ち、襟元のリボンをほどくと、ブラウスのボタンに手をかけて……。

 きゃー! きゃー! きゃー!

 私は恥ずかしさのあまり卒倒しそうであった。

(お、お止めください、みつき様っ! ありさ様もっ!)

「目線の高さが変わると、なんだか新鮮よね」

 半狂乱の私をよそに、ありさ様はそんな呑気なことをおっしゃっている。『私』の脱衣をすっかり任され、その手を着々と進めているみつき様をまじまじと見つめ、

「ふーん……菜々って、いつもあたしのことをこんな風に『見下ろして』いたのね……」

 そんなことをおっしゃった。『見下ろして』がやたらと強調されていたのは、気のせいではあるまい。

(え……!? い、いえっ、そんな……!
 まさか、私がありさ様を軽んずるなどということは、決して……)

 みつき様が、クスッとお笑いになる。

「ありさちゃんて、負けず嫌いだよね。
 いつか菜々ちゃんの背丈を追い越して『見下ろして』やる、なんて『手紙』に書いてたもんね」

「よく覚えているわね、そんなこと」

「覚えてるよ、全部。ありさちゃんのことだもん」

「ふふ……それじゃあ、いつかあなたが菜々を『見下ろして』やって頂戴ね、あたしの代わりに」

「はぁ~い」

(……………………)

 そんなやりとりを聞いて、私は何も言えなくなってしまった。

 本当に……本当に、お嬢様にはかなわない。

 ほどなくして、私たちは――互いの裸身を露わにして向かい合っていた。

 私が身につけているものといえば、あのペンダントだけである。全く自信を持てない胸元も、ちょっぴり自信のあるお肌も、それからもちろん大事な場所も……全てがみつき様の目の前に晒されていた。

 顔から火が出そうなほど恥ずかしかったけれど、今や私の身体のコントロールはありさ様は握っておられるのだ。ありさ様は……恥ずかしい場所を隠そうとするどころか、背筋を伸ばした堂々とした姿勢を崩そうとなさらない。

「きれいだよ……ありさちゃん」

 みつき様が、うっとりとした口調でおっしゃる。

「あなたもね、みつき」

 ありさ様もお答えになる。

「あら、こんなこと言うなんて……とんだナルキッソスね」

 フッと微笑んで、そんな冗談までおっしゃった。

 しかし――私は思った。

 たとえお嬢様が自賛の言を口にのぼらせたとて――何人もそれを自惚れとそしることはできまい。

 それほどにお美しかった。人の手の届かぬ天上の技で完成された芸術品のようだった。

 抜群のプロポーションはさながら小ヴィーナスといった趣。真っ白なお肌は絹地のカーテンを思わせるきめ細やかさである。小首をかしげた頭は身長に比して小ぶりなバランスを見せている。。柔らかな輪郭に包まれた端正なお顔には少しはにかむような表情を浮かべられ、栗色の瞳がキラキラと輝いていた。そしてもちろん、栗色をした、腰までの長さを誇るサラサラの髪――。

 天使と見まごうばかりの美しさであった。

 心なしか、ありさ様でおられる時よりも年下の少女らしい印象があったが、それがまた見る者の母性愛を刺激せずにはおかない。桃色に染まった頬の愛らしいことと言ったら……。

 私は羞恥心も忘れ、感激のあまりじんとしてしまった。もし身体が自由になるのなら、感動のため息をつき、胸の前で手をギュッと握りしめて、時の許す限りずっとずっと見入ってしまったことだろう。

 ――しかしありさ様は、感情を行動で示すタイプでおられた。

 さっとみつき様に近づいたかと思うと、(身長差を埋めるために)ほんの少しうつむくと、その頬に手を当て、いっそ無造作と言ってもいいくらいの仕草で素早く唇を奪ったのだ。ふっくらとした唇の感覚が伝わってくる。

 あぁ、お嬢様と接吻を交わしている……私は甘い感慨に浸った。今までお嬢様とキスをする機会が全く無かったわけではない。過去の場合と同じく、今回も私自身の意志があまり(というよりまったく)尊重されていないのが、少々残念ではある。
 しかしそれでも私は素晴らしい喜びを享受していた。そして同時に、ありさ様とみつき様の間に結ばれた愛の絆を、その深さを理解した。
 こんなにも――愛情のこもったキスは初めてだった。

 唇を重ねたままベッドに腰掛ける。ありさ様はみつき様をリードしながら、甘い蜜を求めて舌の先で口吻をまさぐった。みつき様は抵抗することなくそれを受け入れている。ごく自然に、それでいて狂おしく、身体が昂ぶっていくのを感じた。天にも昇る心地とはまさにこのことだと思った。

 寄り添うようにして愉悦を味わっておられたお二人は、やがて名残惜しげに唇と唇を離すと、じっと見つめ合った。とろんとしたみつき様の表情を目にして、私はクラクラとなってしまった。

 ありさ様はみつき様の手を取ると、ご自分の(つまり私の)胸を触らせた。

「ちょっとボリューム不足ね」

 そのお言葉が私をからかうというよりは当然の事実を確認するというような調子だったので、私は思わずカッとなった。

(よ、余計なお世話です!)

「あら、じゃあ魔法で大きくして欲しい?」

(………………け、結構です)

 みつき様の指が乳房の表面を撫でたので、トクンと胸がひとつ高鳴った。

「んっ…………」

 覚えず喉の奥から声が漏れる。天使の羽根で撫でられたかと思うような快感だった。

 そしてみつき様も『私』の手を取るとご自分の胸にあてがった。まるで吸い付くようにして手になじんだかと思うと、この世のものとは思えない柔らかな感触が伝わってきて、嫌が応にも興奮が高まった。

「あぁ…………」

 やわやわと揉むと、みつき様のお顔に切なげな表情が浮かぶ。

 あぁっ、もうたまらない……! 私は一瞬にして魅了されてしまって、今にも理性が吹き飛んでしまうのではないかと危ぶんだ。
 どうやらありさ様も同感のようであった。無言のまま、ほとんど押し倒すようにしてみつき様をベッドに横たえると、身体を重ねる。みつき様の長い髪がふわりと広がってベッドに花弁を描いた。

 ありさ様はすぐさま舌を伸ばして胸を責め始めた。

「んっ! はぁっ!」

 ペロリと胸をひと舐めするごとに、あえぎ声が響き渡る。素晴らしい感度の良さに、ありさ様も夢中になって舌を使っていく。

「ひゃあっ!」

 乳房の先端を口に含んでちろちろと舌先で乳首を刺激すると、ひときわ高い澄んだ悲鳴が上がる。その響きすら愛らしく感じられ、胸がキュンと締め付けられるようになってしまう。

 しばらくはありさ様が一方的に責める展開が続いた。それもそのはず、みつき様の身体の弱点を、それこそ完全に知り尽くしているのだ。指を使い、舌を使い、脚をからめてみつき様の身動きを封じて、その美しい肢体を縦横に侵略していく。
 しかし実のところ、私の方も抑えきれない快感を覚え始めていた。みつき様のお身体があまりに魅惑的なのだ。そのお肌に触れる度、興奮と幸福感が混じり合った感情に揺られて……ほとんど何の刺激も受けていないというのに、いつしか私の秘所は愛液でしっとりと濡れていた。

「ありさちゃん……ありさちゃん……」

 ありさ様のお名前を連呼しながら、みつき様は快感に身をよじっておられる。そのお声に含まれた甘露のように甘い響きが、私の耳から侵入してさらなる快感を呼び起こす。責めに回っているはずの私の方が、みつき様の淫蕩な魅力によって逆に犯されているかのような錯覚すら覚えてしまう。

 ありさ様も、このままでは分が悪いと判断されのかもしれない。ついにみつき様の秘所へと手を伸ばす。うっすらと生えた陰毛も控えめな恥丘も、すでにぐっしょりと濡れそぼっていた。それ自体かぐわしい香りを放っている秘裂が私の指を二本、やすやすと受け入れる。まるで自ら指を迎え入れたかのようだった。

「はああぁっ……!」

 それだけで、敏感に身を震わせるみつき様。重なり合った肌からその快感が伝わってくるかのようだった。ありさ様は蜜壺の中をかき回すような動きでゆっくりと刺激を加えていく。

「どう……?」

「あぁっ! んっ……いい……キモチいいよ……」

 優しく尋ねるありさ様に、とろけるようなみつき様のお声が上がった。

 ありさ様はやがて目当てのもの――クリトリス――を探り当てると、二本の指の先でそっとつまんだ。

「あっ……ひゃぁんっ!」

 あくまで艶やかな悲鳴が耳をかすめた。

「ありさちゃん、ダメっ! そ、そこは……ダメなのぉっ!」

 ぎゅっと拳を握りしめて、みつき様は必死に眉根を寄せて快感に耐えておられる。その表情がかえって見る者の嗜虐心を煽ってしまうということに気づいておられるのだろうか。

 あぁ、なんと色っぽい……もっと責めて差し上げたい……私は心の奥で欲望がうずくのを感じた。

 それはありさ様も同じであったろう、デリケートな箇所を傷つけないようにと気を遣いながらも、なるべく強い刺激を加えようと、きゅっとつねりあげるような動きを連続して繰り返す。

「あぁっ! ダメぇっ! ダメだったらぁ! ああぁっ! ふああぁぁぁっ!」

 何セット目かの刺激を受け――みつき様は軽く達してしまわれたようだった。張りつめていた緊張がほどけ、肢体から力が抜けていくのが、肌の触れあっている箇所から感じられた。

 その頃には私自身も信じられないほどに昂ぶってしまっていて、これで少し落ちつけると思って、かえってホッとしたくらいであった。

 目をつむり、はぁはぁと荒い息をついておられるみつき様もまた魅力的であった。長いまつげは、まるで童話に登場する姫君のよう。前髪が汗で額にはりつき、朱に染まった頬に乱れた髪がかかっておられる様子も、淫らながら美観であった。

 私がぽーっとなって見つめていると……唐突に美しい瞳がぱっちりと開かれた。その栗色の虹彩がキラリと光ったような気がして――。

「はあぁんっ!」

 突然、『私』――というかありさ様――が、嬌声を上げてのけぞった。

(きゃああぁぁっ!)

 私も同時にその突き抜けるような快感を感じて一気に高みへと放り出される。

「どお? イッっちゃった?」

 みつき様の楽しそうな笑い声。

 ま、魔法だ……! 不意打ちを受け、心構えもできていなかった私は、かろうじて意識を飛ばされることはなかったものの、間違いなく絶頂に達してしまっていた。余韻で目の前がチカチカする。

「ほーら」

「ふぁぁぁっ!」

 ビクン、と身体が震える。ま、また……!? こんな簡単にイカされてしまうなんて……。

(はぅっ! み、みつき様……それは反則……ですぅっ!)

 私はあわてて訴えたが、ありさ様は落ち着いたものだった。

「んっ……魔女同士のセックスで……魔術を使うのが反則とは…言えないわね」

 私は口元に不敵な笑みが浮かんだのを感じた。

(ちょっ……ありさ様!?)

 失念していた。ありさ様は売られた喧嘩は買う主義でいらっしゃるということを。目には目を、魔法には魔法を。それが魔女の論理なのだ。

 しかし――たった今実証された通り、お二人は魔法を使ってお互いの感覚を操ることも可能なのだ。直接快感を注ぎ込むことは無論、魔法によって極度に敏感にさせられた身体をいじられたりしたら……一体どうなってしまうのだろう? 私はその光景を一瞬だけ想像し、ぞぞっと背筋が寒くなるのを感じた。

「さぁ、みつき……覚悟なさい?」

 限りなく興奮をはらんだ、それでいて嗜虐的な声でありさ様が宣言された。

 そこから先は――まさに何でもアリ、であった。

「ひゃぁああああぁっ!」

 ありさ様がみつき様の胸にフッと息を吹きかけると、なんでもないはずのその刺激で、強烈な快感を与えられてしまったかのような悲鳴が上がった。みつき様の目元には涙がにじんでいる。

「んぁっ……な、なに……!?」

 ありさ様はすでに反対側の乳房に口元を近づけている。

「ま、待って……くうぅぅぅっ!!」

 みつき様の懇願を聞き流して、ありさ様は次々に息を吹きかけていく。頬、肩、二の腕、脇腹……。

 その度にみつき様は甲高いお声を上げて切なげに身悶えし、快感を抑えつけようとするかのように息のかかった場所を押さえ、ありさ様の攻撃を防ごうと身をよじらせるが……その防御は文字通り一吹きで崩れ去り、ありさ様の思いのままに感じさせられてしまう。

「イヤ! イヤっ! や、やめ……はああああぁぁんんっ!!」

 吐息に宿った淫気がどれほど凄まじいものか、想像するまでもなかった。

「直接イカせるだけじゃ、能がないでしょう?」

 余裕たっぷりといった様子でみつき様の痴態を見下ろし、ありさ様がおっしゃった。

 しかし、みつき様も負けてはいなかった。

「くぅ…………もう、手加減しないんだからっ!」

 がばっと跳ね起きると、私の身体を押しのけて素早く上下を入れ替え、攻勢に転じる。

「お返しっ!」

 さっとしなやかな指先が伸びて乳首に当てられ、クニクニと動いた……と思ったのだが、その実、刺激を受けたのは――秘所の奥に眠り、触れられてもいないはずのクリトリスであった。

「あぁんっ……!」

(きゃぁっ! なっ……!? ふあぁっ!)

 訳が分からなかった。ありさ様も刺激から逃れようと無意識に腰を引いたようだったが、その動きは全く意味をなさなかった。

「ほら、ほら、ほら!」

 容赦なく乳首を責め立てられる。その度に、身体の奥の肉芽がじんじんと熱を帯びていく。触られていないはずの場所が、みつき様の手の中に囚われているような感覚。こ、これはもしかして……乳首の感覚がクリトリスと繋がってしまっているのでは?

「ふあぁっ! くぅっ!」

(ひゃっ! ぁんっ! あぁっ!)

 ようやく私が状況を分析しかけた頃には、すでに手遅れと言ってもよい状況だった。急所を責められ、限界ギリギリまで高まり切っていた快感の波は、今にも堰を切って流れ出してしまいそうである。

「ふふっ、可愛い顔でイッちゃってね!」

 長い髪を振り乱し、私を見下ろしながらそうおっしゃるみつき様のお顔は、確かにお美しかったけれど、間違いなく魔女らしい魔性を帯びていた。とどめとばかりに私のピンと立った乳首を指で挟み込み、激しくクリクリと刺激される。

 あぁ、お嬢様にイカされてしまう――その背徳的な感慨に浸りながら、私はありさ様と共に絶頂を極めた。

「んぁああああああああああぁぁぁ!!!!」

(ひゃぁあああああああぁぁぁんっ!!)

「あぁっ!? えっ……そん…なぁ………あああああああぁぁぁっ!!!」

 しかし――上がった絶叫は全部で三つであった。

 一体どうしたことか、責めていたはずのみつき様も一緒に達してしまわれたのだ。脱力したみつき様は、そのまま私の胸の中にくてっと倒れこんでくる。柔らかな胸が私の二の腕にぶつかって、むにっとつぶれた。

「どう? あなたにもあたしの感覚を共有させてあげたのよ?」

 息を荒げながらも、ありさ様がしてやったりといった口調で説明なさる。そ、そういうことだったのか……。絶頂直後のもうろうとしかけた意識の中で私は納得した。

 ありさ様をやっつけるはずが思わぬ反撃を受け、みつき様は呆然としたまま、ふるふると肩を震わせておられた。

「だから、こうすると……」

 再び上下が入れ替わる。四肢に力が入らないのだろう、みつき様はされるがまま、ころんと転がされて仰向けになってしまった。口元はだらしなく弛緩したままであった。

 ありさ様は肘で体重を支えながら、少しずつ身体を落としていき、自分の胸とみつき様の胸がちょうど先端で触れあうような高さに調節すると、乳首同士をこすり合わせるように動かした。

「ん…………ああぁっ!?」

 ぐったりとなっていたはずのみつき様が、すぐさま反応を見せた。

(ひゃあああっ!?)

 私も同様にしびれるような快感に打たれる。

 その感覚は――常軌を逸していた。自分の感覚と、お嬢様の感覚。純粋に二倍の刺激を同時に感じてしまう。しかも、みつき様の魔法がまだ残っているのだ……!

 何倍にも増幅された快感が、敏感な乳首と、クリトリスに襲いかかる。

「~~~~~~~~~~~~~~~っ!」

(ふあああああああああぁぁぁっ!!!!)

「ひゃぁああぁぁあああああああぁぁ!!!」

 かろうじて声を抑えられたのは、ありさ様だけであった。私もみつき様も――互いに寸分違わぬ感覚を感じながら――あっという間にエクスタシーに達してしまった。

 次々と繰り出される淫らな魔術の数々に、私は恨み言を申し上げるような余裕などなく、ひたすらに快感に耐え続けるしかなかった。
 私が声も上げられないほどにヘトヘトになってしまった後も、お二人は雌雄を決するべく身体を交えておられたが……やがて少しトーンダウンし落ち着いてこられたお二人は、最終的に(互いの実力を認め、称え合った上で)両者とも同時に気持ちよくなる努力をすべきだ、という結論に達していた。

 そんなわけで行き着いたのは、いわゆるシックス・ナインの体位であった。

 目の前にお嬢様の大事な場所が晒されている。その事実に改めて感慨をおぼえるほどの思考力はもはや残されていなかったが、頭がぼうっとなるような甘い香りが立ちのぼっているのに気づくと、もはや枯れ果てたかと思っていた興奮の感情が少しだけ湧きだしてくるのを感じた。

 みつき様はすでに私の秘所に舌を這わせていた。ちゅぱ、ちゅぱ、とまるでキャンディーを舐めているかのような音が響く。巧みな愛撫、とまではいかないものの、愛情の込められた刺激は純粋に心地よく、快楽地獄をくぐりぬけた私の心が癒されるかのようであった。

「美味しいね、コレ……んっ。でも……もっといっぱいあふれてこないかなぁ。
 そしたら舐めるだけじゃなくて、飲んだりもできるのに……」

 みつき様もなかなか無理をおっしゃる……。しかし、私には愛液が『美味しい』という感性は今ひとつ理解できなかった。ありさ様が舌の先を器用に使って刺激を加えると、分泌された液体が直接舌に触れて……確かにかすかな甘みが感じられた。けれどもそれを『飲みたい』などというのは……。

「んっ……そういう魔法もあるわよ……やってみる?」

 ……冗談はやめて頂きたいものである。

「んー……ううん、もう魔法はいいや……」

 みつき様は、少しけだるげにそうおっしゃった。

「そうね……あとは普通にしましょうか」

 ま、まだ続けるおつもりなのか……私は心の中で思い切り嘆息すると、お二人に全てを任せたのだった。

 数刻後……私たちは息も絶え絶えといった有様でベッドに横たわっていた。もちろん、しっかりと抱き合ったままではあったが――。

 たっぷり半刻ほどは寝そべっていただろうか。ようやく身体に力が戻ってきた頃、私の胸の中でみつき様が囁いた。

「ねぇ、ありさちゃん?」

 みつき様のお言葉には、姉に甘える妹のような響きがあった。

「なにかしら、みつき……」

 そしてありさ様のお言葉には、妹を思いやる姉のような――。

「菜々ちゃんのこと、どう思う?」

 私はドキリとした。と、突然何をお聞きになるのか、みつき様は……。

 その問いはありさ様にとっても意外なものだったのかもしれない。わずかながら迷いの気配があり、少しだけ静寂の間があいた。

「……どうするの? そんなことを聞いて」

 どうするもこうするも……! かたずをのんでありさ様のお答えを待ち受けていた私は、肩すかしを食って思わずアタマが煮え立つのを感じた。

 だって、気になるではないか。ありさ様が私のことをどう思われているのか!? 気になる。ものすごく。今世紀最大の関心事と言っても過言ではあるまい。

 なにしろ私は、ありさ様のことを――。

「確かめたいだけだよ、ありさちゃん……。質問を変えるね?
 もし菜々ちゃんのことを何とも思っていないなら、わたしがもらっちゃってもいい?」

 うっ……!? この爆弾発言に私の心臓は跳ね上がった。

 なにしろみつき様は……今まさに私の胸の中から、その美しい栗色の瞳で、まっすぐに私を見つめておられるのだ。

「それはちょっと……無理な相談ね」

 その視線をしっかりと受け止めて、ありさ様がお答えになった。口元にやんわりとした微笑み。

「わたしが菜々ちゃんのこと、だーい好きでも?」

 みつき様のお声には、ご褒美をねだる子供のような無邪気な響きがあったけれど、そのお気持ちは真剣だということが私には分かっていた。

 ありさ様は無言のまま軽く首を振った。

「菜々ちゃんのこと、ありさちゃんと同じくらいに愛していても?」

 ありさ様はキュッと笑みを浮かべた。否定の意味だった。

「それじゃあ、もう一度最初の質問。菜々ちゃんのこと、どう思う?」

 ちょっとした静寂の帳が下りる。私はやきもきしながらありさ様のお答えを待った。

「……ずるいわね、みつき。でも……」

 ありさ様はしかし、そうおっしゃってチッチッと舌を鳴らしただけだった。

「ダメよ、ダメダメ。騙し合いであたしにかなうと思う?
 魔女としてのキャリアが違いすぎるとは思わない?
 あたしが本気になったら、あなたの心なんて簡単に絡め取っちゃうわよ?」

 そんなことをおっしゃって、軽くウインクなぞしてみせるではないか。

 もう! この期に及んでハッキリとおっしゃらないなんて、往生際の悪い……!

 みつき様はそのままじっと私のことをみつめておられたが、やがて視線を外して仰向けになると、ほう、とひとつため息をつかれた。

「最高にチャーミングだよね、菜々ちゃんのウインク。
 かなわないなぁ、ありさちゃんには。そんな秘密まで知ってるんだもん……」

 みつき様のお声はなんだか……本気で悔しがっているように聞こえた。

「いいよ……本当は知ってるんだ、質問の答え。
 菜々ちゃんは譲ってあげる」

 ほとんどスネたみたいにそうおっしゃると、目をつむってしまわれた。

 みつき様はしばらくの間そうしておられたが――不意にパッと目を開いたかと思うと私の方へ向き直り、きりっと眉を引き結んで、こうおっしゃったのだった。

「でも……いつか絶対に、ぜーったいに、奪い返しちゃうんだからね!」

 この宣戦布告を聞いて――ありさ様はフッと優しい微笑みを浮かべた。

「それでこそ……一人前の魔女よ」

 ありさ様がすっと手を差し出す。まるでダンス・パートナーを誘うみたいに手のひらを上にして。それに応えて、みつき様が軽く手を載せた。

 私は決着がついたことを知って――胸をなで下ろした。

 で、でも……結局、ありさ様は口に出しておっしゃることはなかった。まったく、もう、本当に……プライドが高いというか、なんというか……やれやれ、である。いざという時はやっぱり……私の方から申し上げなくてはならないのだろうか? あぁ、それはちょっと、恥ずかしいかも……。

 ……などと私が妄想を広げているところに、突如として電撃のような快感が襲いかかった。

「あんっ!」

(ひゃうぅっ!!)

 情けない声を上げた私は、その感覚が(みつき様の触れている)手のひらから生じたのだということに気づく。

 みつき様のお顔には、いかにも魔女らしい、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

「やったわね……!」

 ありさ様は上半身を起こすと、きゃっきゃっと声を上げて逃げようとするみつき様に、肉食獣さながらの身のこなしで飛びかかった。

 それを皮切りに容赦なく第二ラウンドが開始され、ほどなくして――快感に耐えきれなくなった私の脳神経はあっさりとショートしてしまったのだった。
ここに私は証言する。エスカレートした魔女同士の性行為は、普通の人間にとって完全にオーバー・ボルテージであるということを……。

 こんなことで、本当に儀式がうまくいくのかしら――そんな思考を最後に、私の意識はめくるめく快楽の海に飲み込まれて闇の底へと沈んでいった。

★★★★★★★★★★

 ――そこはお屋敷の近くの海岸のようで、そうではなかった。

 それはあたり前の現実のようで、けれどもそうでないということが、なぜか理解できた。

 何もかもがきらめく永遠の朝日を受けて、燃えるように輝いている。影はどこにも見あたらない。吹きすぎていく風の形を、はっきりと目でとらえることができた。

 私はありさ様と並んで砂浜に座り、銀色に輝く空を見上げていた。

 夢を見ているのだろうか。私は思った。

「……夢じゃないわよ」

 人の悪い笑みを浮かべて、ありさ様がおっしゃった。

「ここは、どこなんですか?」

 奇妙な既視感を感じながら、私はそう聞いた。まるでそう質問することが一万年も前から決まっていたかのような気がした。

「一番難しいことを聞くのね、あなたは。
 ここは、ここであって、ここではない場所。
 『時の心臓』と言えば通りがいいかしらね」

 ありさ様がしゃべっておられる言葉は、明らかに異国語だった。少し硬いけれども実直な響きがある。私には到底理解できないはずのその言語が、不思議と正確な意味をともなって耳に入ってくる。逆に私の言葉(正真正銘の日本語)も、いささかの齟齬もなくありさ様に通じているのだった。

 まったくもってワケが分からなかったので、私は理解する努力を早々に放棄した。

 だって、そんなことより――。

「あの…………」

 ふわり。不意に――背後から抱擁を受けて、私は言葉を途切れさせた。

「好きよ」

 耳元でささやきが聞こえる。

「……私の、聞き違いじゃ……ないですよね?」

 わざと意地悪な言い方をしてしまう。先手を取られたことが、ちょっぴり悔しかったのかもしれない。

「好きよ。何度でも言ってあげる。あなたのためなら」

 じんわりと、暖かいものが胸に広がっていった。

「私も……私も、お慕い申し上げております……」

 少しだけ首を曲げて顔を上げると、そっと手を伸ばしてありさ様の頬に触れる。

 そして今度はどちらからともなく――キスを交わした。

 永遠にも等しい時間が流れた。

 途切れることのない潮騒も、銀色に輝き続ける空も、絶えず頬を撫でていく風も、全てが祝福の意味あいを秘めている。

 いつしか私は涙を流していた。

「泣かせちゃったわね」

 ゆっくりと唇を離し、私の背中に身体を預けると、ありさ様は落ち着いたお声でそうおっしゃった。そのぬくもりがはっきりと感じられて、心の内側のあたたかいものと共鳴する。

 ぼやける視界の端でそっと見やると、瞳を閉じ、幸せそうな表情を浮かべておられるのが目に入る。口元の微笑は安らぎに満ちている。長い旅を終え、心からの安息を得た旅人のようだった。

 優しい風がお嬢様の美しい栗色の髪を揺らす。

「ごめんなさいね。
 こんな風になるまで、打ち明けることができなかった」

 クスクスとおかしそうな笑い声。

「臆病者でしょう、あたしって」

 そんなことありません、と言いたかったけれど、胸が詰まってしまって声にならなかった。

「あなたを失うのが怖かった。あなたが悲しむのが辛かった。
 だから避けなければならないと思った……あたしがあなたを好きになることも、あなたがあたしを好きになることもね」

 ありさ様のお気持ちは手に取るようによく分かった。ご自分の宿命を知り、避けることの出来ない別れを知ったありさ様は――黙って私の前から去ることを決意なさったのだ。そうすれば私が悲しまなくて済むと、そうお考えになったから。

「まるで馬鹿みたいね」

 また上品な笑い声。そこに自嘲の含みはなく、本当におかしそうな、明るい響きが伝わってくる。

 そんなことありません、と今度こそ言いたかった。だって、そのありさ様の思いやりこそ――まさしく私を愛してくださっていることの証明ではないか。

 胸がいっぱいになり、涙があふれる。嗚咽が漏れただけで、やはり声は声にならなかった。

「それでも、あたしは幸せだったのよ」

 ありさ様のお声は限りなく優しい。

「みつきやあなたにこんなに大切にされて……あたしにとっては出来すぎなくらいなのよ。
 だから、それで満足できると思っていた」

 あぁ、そのお気持ちは本当によく理解できる。私だってそうだった。胸の内に恋の炎が宿っていると、それがありさ様お一人のために燃え上がるのだと、そう気づいた時から――私は思っていた。分に過ぎた恋心を告げることは叶わなくとも構わない、ずっとお嬢様のお側にお仕えすることができれば、それで満足なのだと――ずっと思っていたのだ。

「でも――」

 そこでお言葉を途切れさせる。けれど、なにもおっしゃらなくても、私には分かっていた。

 ありさ様だって、数奇な運命を持つ魔女である前に――恋する一人の女の子だったのだ。

 そして私も、お嬢様にお仕えするメイドである前に――。

 再びの甘いキス。

 幸せだった。そして分かっていた。こんな幸せが長く続くはずがないことも。

「もう、行かなくちゃ」

 なんてことないことを口にするみたいに、ありさ様がおっしゃった。

「行かないでください」

 私の声はやたらに平板で、感情のかけらもこもっていないようだった。

「出逢えて良かったわ。
 分かる? あたしの言っている意味?」

「行かないでください」

 私はお嬢様を見つめたまま繰り返した。

「頼むわね、みつきのこと」

「行かないで…ください……」

 段々と声が震えてくるのが分かったけれど、それでも私は繰り返した。

 ありさ様は、ふぅ、とあきれたようなため息をつかれた。

「あなた、強情ねぇ……誰に似たのかしら。
 もう少しロマンチックな台詞は出てこないの?」

 そして、ふと思い出したようにおっしゃった。

「ほら、こんな言葉がなかったかしら?
 『愛して失うことのほうが……』」

 そこでちょっと考えるように言葉を切る。

「『……全然、一度も愛さずに終わるよりずっと良い』」

 思わず、私はその言葉を引き継いでいた。

 途端にキュッとお嬢様の口元に浮かんだ微笑みを見て、自分が誘い出されたのを知った。けれどそれを恥じて照れ隠しの笑みを浮かべるような、そんな気分にはなれなかった。

 いい言葉だ。少しロマンチックかもしれない。でも、それは詩人テニスンが亡くなった若き親友のために捧げた挽歌の一節。

 そう――『失う』ことを前提とした言葉ではないか。

「行かないでください! 行かないでください、お嬢様……!」

 私は耐えきれなくなって、ほとんどすがりつくようにしてお嬢様を強く抱き寄せた。

 行かないでください、私の、大切な、お嬢様――。

 次から次へと、涙があふれ出してきて止まらない。もう声を抑えることもできなくなって、私は号泣していた。涙を流すこと以外に、なにもできなくなってしまったような気がした。

 恥も外聞もなく泣きじゃくる私を、ありさ様は優しく抱擁し、軽く背を撫でてくださっていたが、やがて一旦身を離された。
 そして私のおとがいに指をあて、うつむいた顔を持ち上げると――人差し指でそっと涙をぬぐってくださったのだった。

「泣いてばかりじゃ、可愛くないわよ」

 そうおっしゃって、ありさ様は屈託のない微笑みを浮かべられた。

 私はハッとして――泣くことすら忘れて――そのお顔に見入ってしまった。それほどにお綺麗だったのだ。怖れや不安などとは無縁の、純粋無垢な少女のような微笑み。私が生涯に目にした中で、間違いなく最高の笑顔だった。

 それが私のために――私だけのために――浮かべられていることに気づいて、胸が熱くなった。

「また逢いましょう[アウフ・ヴィーダーゼーエン]、菜々」

 最後に交わした接吻――。

 溶けていく意識の中、その感触がいつまでも消えませんように、と願った。

★★★★★☆☆☆☆☆

 ぼうっと揺れる意識のまま、うっすらと目を開く。

 私は――お嬢様のお部屋のカウチに寝かされているようだった。

 心配そうな表情でのぞき込んでいるお嬢様のお顔が大きくぼやけて……それからようやくハッキリした輪郭を取り戻す。

 そのお顔を目にして、私はそれがみつき様なのか、ありさ様なのか――ほんの一瞬、判断に迷った。

 なぜならその瞳の色は――光の加減だろうか――右目が栗色で、左目がハシバミ色に見えたのだ。

 でも、本当は分かっていた。ありさ様がここにおられるはずはないと。じんわりと涙が溢れてくる。

 はらりとこぼれた涙の雫を見たお嬢様は、何もおっしゃらなかったけれど、ただ腕を伸ばして――人差し指でそっと涙をぬぐってくださった。

 思わず、私は身を起こそうとしていた。けれど、身体が石になったように重く、とても思うように動けなくて……苦しげに身じろぎするのが精一杯だった。

 そして、お嬢様の手が額に軽く触れたと思うと――私はふたたび意識を失っていた。

 次に目覚めた時、すでにお部屋には夕闇が迫りつつあった。

 ゆっくりと身を起こすと、カウチから抜け出す。けだるい感覚はまだ残っていたが、なんとか立ち上がることができた。

 お部屋を見回したけれど、お嬢様のお姿はない。

 いや――私は見たのだ。南向けにしつらえられた大窓の外、海へ向けて張り出したバルコニーに――ありさ様の後ろ姿があるのを。

 それは儚い幻のようだった。

 けれど私はハッキリと見たのだ。私が結って差し上げた髪の房が、冬の冷たい風に舞っているのを。

 ハッとしてまばたきをした次の瞬間――すでにそのお姿は消え去っていた。

 私はよろよろとした足取りで大窓に近づき、何かに誘われるようにしてバルコニーへと出た。

 すでに雲は晴れ、美しい夕焼けの光景が広がっていた。

 やはり――お嬢様のお姿はない。

 無意識のうちに、人差し指でそっと唇に触れる。接吻の感触が、まだかすかに残っていた。

 冷たい風が乾いた頬をなぞっていく。潮騒が耳朶を打った。

 薄いあかね色に染まった空。眼下には穏やかな海が広がり、照り返す冬の夕日が波間に無数の炎を点している。

 ――なんだか寂しそうなカモメが一羽、遠く――どこまでも遠く――飛び去って行った。

< 了 >

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