星辰の巫女たち 第2話

第2話

 この大陸の人々の心のよりどころである、アールマティ聖教。
 人々は誰もが光の神アールマティを信仰し、一生に一度はその聖地・アールマティ大聖堂を訪れたいと思っている。この大聖堂の中心人物である法王といえば、世俗のどんな大国の王たちよりも強い権威をもって人々に崇拝されていた。
 そしてその直属の3人の巫女たちにも、それに次ぐ求心力があった。人々は天使の像や宗教画を崇めるように、彼女たちを崇めた。

 しかし、ザールにとってはそんなものは関係がなかった。

 ザールは孤児だった。幼いころ両親に先立たれ、6歳のころから町のヤクザに下っ端として育てられた。幼い彼は愛嬌のある顔立ちをしており、組員たちによく可愛がられた。ザールは彼らとの友情を信じた。親はなくとも、彼らからの愛情があれば自分は幸福だと思っていた。彼らとの絆が、ザールの世界のすべてだった。
 ある日、組の若者が酔った勢いで酒場で殺人を犯してしまう。その組員は、その罪を当時13歳だったザールに押し付けた。彼は冷たく暗い牢の中に投獄された。彼はなぜ自分が捕まったのかわからなかった。組員が彼に罪を押し付けたものだとは夢にも思わなかった。
 仲間は誰も面会に来なかった。彼が接触する他者は、彼を人間とは思わぬ看守だけ、それだけだった。彼は、いつまでも罪を認めないという理由で看守から虐待を受け、肋骨を5本折り、左目を失った。看守はその後もたびたび彼を殴り、侮辱し、彼に自分がこの世で何の価値もないクズだということを徹底的に繰り返し繰り返し教えた。
 5年後、ようやく牢屋から出されたザールを出迎えるものは一人もいなかった。
 町人たちは彼を人殺しと蔑み、かつての仲間は固く門戸を閉ざした。ザールは、自分が牢屋で学んだことが嘘ではないと思い知らされた。
 ザールは、丸3日、橋の下で座り込んでいた。涙も出なかった。空腹でも、喉が渇いても動かなかった。糞便が下半身を汚しても、動かなかった。まるで抜け殻だった。

 それ以来、彼は各地を転々とし、荒んだ生活を続けた。強盗に強姦、殺人さえ厭わなかった。死んでいく者の血が彼の手を濡らしても、怨嗟の声が耳に届いても、何も感じなかった。
 いつしか彼は『片目の鬼』と呼ばれる名の知れた悪党になっていた。そのころになるとザールの顔は人間のものとは思えないものに歪んでいった。眼窩は瘤のようにせり上がり、頬はそげ、皮膚が象の皮膚のようにひび割れ硬くなった。片方だけついている右の目はいつも濁って、どこを見ているのかわからなかった。こんな彼をサイクロプス(一つ目鬼)だと勘違いして、道で見かけただけで逃げ出す者たちもいた。
 彼は殺伐とした生活を続けた。
 金品を見れば、奪うことしか考えなかった。
 美しい女を見れば、襲うことしか考えなかった。
 彼にとってこの世に対する関心はなかった。どこで何が起ころうか、誰が死のうが、何も興味はなかった。
 彼はこの世への憎しみへ満ちていた。彼のまわりの人間を憎んだ。彼をこの世に産み落とした両親を憎んだ。もし自分に力があれば、この世の人間を皆殺しにしてやろうと思った。彼の心にあるのはそれだけだった。

 いつのころからか、彼は四六時中咳き込むようになっていった。
 悪い咳が止まらなかった。牢獄の不清潔な環境は彼から左目を奪っていった代わりに、病気の因子を残していった。咳き込むたびに彼の喉はバリバリ裂けんばかりに痛み、何度に一度かタールのような黒い痰が出た。
 行く先々で医者や僧を訪ねたが、どの医者にも匙を投げられた。看てもらえたときはまだいい方で、彼の恐ろしい容貌を見て「病を運んできたモンスターだ」と思う僧もいた。
 各地を放浪して歩いた。どれほどの日が経ったか覚えていない。ただ行く先々で村に押し入り、食物を強奪し、退屈しのぎに女を犯した。ザールは、自分はこのまま死ぬのだろうと思った。
 しかし、そんなとき、彼は光の術の力でどんな病気も治すというアールマティ大聖堂の巫女たちのことを思い出した。
 アールマティ大聖堂には星辰の巫女と呼ばれる聖女たちがいて、どんな悪魔をも倒し、どんな病気をも治す力を持っている、と。
 幼いころ、彼がまだ教会に通っていたころ聞いた話だった。

 ザールはアールマティ大聖堂へと足を向けた。

 生への執着のためではない、星辰の巫女たちとやらに興味があったのだ。彼には信仰などなかった。彼は聖職者の神秘の力など信じていなかった。ただ自分の病が治してもらえればそれでよかった。治ることがなくても(おそらくそうだろうか)、お高くとまっている巫女様の胸でも揉んでやろうと思っていた。すでに彼の体は病魔に犯されてくたびれきっていたが、その根暗い衝動だけが彼を動かした。……

 長い道のりの末、アールマティ大聖堂に着いたころには、すでにまともに歩くことさえ困難になっていた。
 咳のためろくに眠ることができないため、目にはひどい隈ができていた。
 このときの彼は、人間ではなく、ただの動物だった。できるのは機械的で即物的な判断だけ。食べ物を見つけたら、食べる。女を見たら、犯す。金を見つけたら、奪う。もはや、物をいくつかのパターンを持った記号としか見られなくなっていた。周りを行きかう巡礼者たちの顔など、区別がつかなかった。
 それでも彼が幸いにして動物的蛮行に及ばなかったのは、神殿への石段を登る途中で力つきて倒れたからである。
 聖堂の神官たちが彼に駆け寄る。
「何だ、この人は?」
「彼は病人ですかな?」
「はたして病人のようだ。巫女様のところへお連れしよう」
 彼は聖堂内部へ運ばれた。

 彼は、祭具らしい物に囲まれた小部屋に連れて行かれた。
「もう少々お待ちください。いま巫女様をお呼びしますから」
 僧が彼に語りかけるが、彼の耳には届いていなかった。僧は甲斐甲斐しく世話をした。こんなに丁重に扱われたのは久しぶりだったが、彼の心は動かなかった。彼はすべて虚しいと知っていた。
 彼は仰向けになり、僧に顔を向けまいとした。
 彼に生への執着は絶無だった。巫女の術に期待などしていなかった。もう死んでいいと思っていた。ただ、最後に聖女と言われて崇め奉られている女を一目見ておきたいと思った。そして、神への信仰なんておめでたいものを信じている巫女に、呪詛の一つでも投げつけたかった。

 ――しばらくして、巫女が現れた。
 寝台で仰向けになっていた彼が、どうやってそれを知ったか? それは部屋の空気が変わったからだった。
 彼女が足を踏み入れただけで、部屋の中に、神聖な空気に満ちた。
 彼がベッドから起き立ち上がると、目の前に、女神像が現れていた。
「お初にお目にかかります」
 女神像が動いて彼に微笑みかけた。彼は、最初それが人間だと思えなかった。頭ではわかっても、実感として人間だと認識するのに時間がかかった。
 巫女は彼の想像を超えて美しかった。いや、美しいだとか、そういう言葉を超越していた。彼の想像の範疇を超えた存在だった。
 まるで、神が人間の肉体を借りてこの世に現れているような、と、神を信じたことがないザールは思った。
「わたくし、不肖ながら星辰の巫女の長を勤めている、ステラ=マリと申します。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
 ザールは答えられなかった。彼はステラ=マリと名乗った巫女の姿に見とれていた。
 瞳は海の色を閉じ込めたかのような青だ。
 金色の髪は絹の糸のようだった。彼女が動くたびに、まるで光の粒子をまき散らしながら美しい流線を描いた。
 歳の程はどれくらいだろう。年若い少女のようにも見え、彼よりも歳上のように見えた。
 全身を包む真っ白な法衣さえ、彼女の体を包んでいると光のカーテンのように見えた。
 歩く動作、唇が動く動作、どんな些細な動作ひとつとっても、凡人とは違っていた。
 地上に存在するのが間違いのような、本来天上の楽園にあるべきと思えるようなものだった。

 ザールが呆然として何も言えないでいたが、巫女は怪訝な顔をするわけでも質問を繰り返すわけでもなく、ただ微笑んでザールが口を開くのを待っていた。
 ザールは、彼女がずっと自分を見ていることを改めて気づき、子供のようにおびえた。彼の荒んだ心は、あまりにも清冽な彼女の眼差しに耐えられなかった。
 今まで彼にとって、女性とは気まぐれな性欲を満足させるためのものだった。しかし、この女神の前では、そんな発想すら浮かばなかった。
 彼女は、愛そのものだった。

 突然、涙が溢れた。溢れ出て、止まらなかった。十数年ぶりの涙だった。
 彼の足は震え、彼は抵抗なく床に膝をついた。ちょうど跪くような形になった。
 恋ではない、もっと大きな何かの波涛が一瞬のうちに自分を飲み込むのを感じた。
「……って、くれ」
 彼の、ひび割れて黒い痰がこびり付いた唇が、半年ぶりに言葉を紡いだ。
「病気を治してくれ……」
 彼の口から、自然とある感情があふれ出た。はるか昔に、人生に絶望した時点でなくしていたと思われた感情だった。
「『生きたい』んだ……」
 彼の中で、世界が色を取り戻した。
 牢獄に入る前、仲間に裏切られる前に見ていた景色が、彼の中にあとからあとから蘇り、彼の心を満たした。それらは、彼にたった一つのことを命令していた。
 生きろ、と。
「お顔を上げてください」
 巫女は、母親が赤子にするように彼の背中をなでた。
 巫女はすべて包み込むように微笑むと、なんのためらいもなく、ザールの醜くひび割れた両手を取った。
「わたくしは、肯定します。あなたの命を」
 そして、癒しの呪文を唱え始めた。

 このとき、彼は、まるで自分たった今生まれてきた赤子のように思えた。彼の人生は、このとき始まった。
 ザールは、実に十数年ぶりに感謝した。彼女と、彼女に巡り合わせてくれた運命に感謝した。

< つづく >

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