星辰の巫女たち 第13話

第13話

 美しい蝶は蜘蛛の巣に捕われていた。
 蝶は羽ばたくことをやめていた。それは抵抗する力をなくしたためではない。賢明な蝶は、もがけばもがくほど蜘蛛の思うつぼだということを知り、じっと耐えていたのだった。

 あれからタローマティは毎日のように牢を訪れ、リーゼロッテの体を弄び、彼女の体に隷従の刻印を刻んでいった。しかし、タローマティがリーゼロッテの身体を犯しても、身動きを最小限に抑え歯を食いしばって耐え忍んだ。タローマティが何を語りかけても耳を貸さず沈黙を守った。
 奴のする行為、奴が与える情報に対し、なんらかのレスポンスを返すことは奴の術中に堕ちる第一歩だと、リーゼロッテは知っていたのだった。

「どうだ? 俺の物になる決心はついたか?」

「お前の気持ちが変わるまで、我慢比べといこうか」
 
 我慢比べとは名ばかりであった。この牢獄内での時間は外界の10倍だ。彼女が幾度もなく犯され、暗闇と孤独に耐えぬいた1週間は、外界のタローマティにとっては1日にも満たないのだ。

 地獄のような日々だった。繊細な花茎のような細い体を、何の慈悲もなく暴力的に嬲られた。慣れることない、身を裂かれる痛みと吐き気を催す嫌悪感が彼女を何度も何度も襲った。

 誇り高いリーゼロッテにとって、その身体を辱められ、性欲の捌け口にされることなど、何にも勝る屈辱であった。彼女の人生の中でこんな苦節はいまだなかった。10年分の苦痛を一度に味わうようだった。
 しかしやはり誇り高いリーゼロッテは、その苦痛を、同じだけの憤怒に変え、逆に奮え立つのだった。
 許さない……!
 怒りは、彼女の中に熱い炎となって湧き上がった。10年分の怒りを一度に味わうようだった。
 このわたしにこんな辱めをするなんて……。
 殺してやる……! 殺してやる……! 最も残酷な方法で殺してやる。わたしが味わった苦痛の、何倍もの苦痛を味合わせてやる……!
 過去のどんな悪魔との戦いでも、今の十分の一も怒らなかったと思う。その怒りがあれば、悲しんだり悲運を嘆いたりする暇などなかった。怒りが彼女を絶望に溺れることから遠ざけた。
 
 待っていろ。殺してやる。
 彼女は復讐を誓った。あの邪神を打倒し乗り越えることが、傷つけられたプライドを取り戻す唯一の方法だと思った。

 しかし、陽の光一筋指さない牢の中の生活は、彼女の心身をゆっくりと、しかし確実に蝕んでいくのだった。

 この暗黒牢獄の中では音も光も、朝も夜もない。1日の経過がわからない。彼女は食事の回数で日数を数えた。今はおおよそ1月が経った頃だ。(それでも外界では3日かそこらだろう。) そこでは無聊を慰める楽しみもないし、心を通わせた仲間たちもいない。苦痛以外に何も存在しない生活。
 たった1ヶ月なのに、彼女が生きてきた人生の中でもっとも苦痛な1ヶ月だった。

 完全な密室の中で孤独に過ごし、毎日怨敵になすすべもなく辱められる。さらに、洗脳に対する警戒を起きている間中ピリピリと張りつめていなければいけなかった。
 彼女は日に日に衰弱していった。通常の人間なら精神に異常をきたし、とうに死んでいただろう。

 誰でもいいから、話し相手がほしい。
 リーゼロッテはそう心から願った。
 彼女が接する相手は1日に1回、邪神タローマティだけだ。このままでは彼の邪悪な意思に毒されてしまいそうだった。ここ1ヶ月、彼女が会った他者はタローマティだけだ。他の知人たちの記憶が日に日に薄くなっていくにつれ、タローマティの存在が記憶の大半を占めるようになった。恐ろしい。
 誰でもいいから話がしたい。聾唖であってもい、話を聞くふりをしてくれるだけでもいい。誰かと触れ合いたいと切望した。
 しかし、その望みが叶えられるはずもなかった。この牢獄にはタローマティ以外誰も入ってくることなどないのだから。

 死のう。

 2ヶ月(あくまで牢内の時間で)が過ぎたころ、彼女はそういう決意を固めていた。
 わたしは自ら命を絶とう。 
 もう神託を告げることも、邪悪と戦うこともできない。巫女としての最後の仕事は、死ぬことだ。
 自ら命を絶たないと、死よりも恐ろしいことになる。
 今ならまだ、タローマティに洗脳されることなど断じてない。だが、このまま心も体も追い詰められていったら、やつの洗脳に抵抗できなくなるかもしれない。(おそらくタローマティはそれを期待しているだろう)
 もしそうなったら、嬉々としてあの邪神に服従し、世界に牙を向く刺客になってしまうかもしれない。
「それだけは……それだけは駄目だ……」
 手塩にかけて育てた愛娘ステラ=マリ。法王。そして惰弱で無知だが、守るべき民衆。自分が彼らに仇なすと思うと、恐ろしくて全身が寒さに覆われる。
 それだけは避けなければならない。だから、わたしがわたしでいられるうちに死ななければならない。
 そう決意したリーゼロッテの瞳は、月光のごとき冴えた光を湛えていた。体は襤褸のようになっても、目だけは以前のまま光っていた。

 その翌日から、彼女は食事についていた金属性のスプーンを密かに隠し持ち、毎日少しずつ研いでいくことにした。覚られないように、普段は壁の割れ目に隠してある。
 もう少しで立派なナイフになる。それを心臓に突き立てれば、エルフといえど死ねるはずだ。
 もう少し……もうすこしで死ねる……。この地獄から抜け出すことができる……。死への期待だけが、限界近くにまで疲弊していた彼女の心を支えていた。

 ステラ=マリ……。母の復讐はお前に託す。わたしの無念を汲んでくれよ……。

 その日もリーゼロッテはナイフを研いでいた。無骨な金属片が、少しずつ少しずつ研ぎ澄まされ鋭利な刃になっていく。
 彼女はそれを美しいと思った。その鋭角的なフォルムは、彼女の強い決意の象徴のように思えたからだ。

 おそらく、明日には完成するだろう。
 そのとき、ようやく死ねる。
 彼女はいつもの隠し場所にナイフをしまい、横になる。
 作業疲れのため、彼女はすぐに眠気に襲われ、そのまま眠ってしまった。

「……ん?」
 牢の扉が開く音で目が覚めた。
 いや、覚めた、のだろうか?
 そこはまだ夢の中なのかもしれない。彼女の思考は靄がかかり、体はだるく、その音を聞いても何の感情も抱かなかった。
 扉が閉じ、足音が徐々に近づいてくる。
 きっとタローマティだ。
 ここに来るのはタローマティしかいない。彼女はぼんやりとそう思った。

 起き上がり、奴に罵り文句のひとつでも投げてやりたいのに、頭が働かない。体が重い。なんだか現実感がない……。
 ああ、そうだ。これは夢だ。夢なら仕方ないな……。
 
 ふと彼女は気づく。タローマティはいつもとどこか雰囲気が違った。
 そこからは、邪悪な気は感じられない。それどころか、とても穏やかな、懐かしい気配だった。
 彼女はこの気配を知っている。これはーー。
 彼女は目を開けた。
「……!」
 彼女の目が大きく開く。
「お前は……」
 これは夢か……? 
 それとも幻か?
 彼女が愛した仲間がそこにいた。

 桃色の髪。幼さを残したあどけない顔。リーゼロッテと同じ、白い巫女装束。
「プリム……!」
 そこにいたのは、星の巫女プリムローズだった。
 プリムローズは慈母のような笑みを浮かべ、リーゼロッテのもとに膝をつき、彼女を抱きしめた。
「ロッテ……こんなになって……。辛かったでしょ……」
「プリ……ム……? プリムなの?」
 その問いに対するプリムローズの答えは、慈しみに満ちた笑みであった。
「プリム……! プリム……! う、うわああああああ」
 リーゼロッテは見栄を捨て、後輩に抱きすがった。
 馨しい髪の匂い。肌の感触。肌の暖かさ。彼女の存在がこれほどありがたいと思ったときはない。
 久しぶりに人と触れ合えた。しかも、それが巫女の仲間だとはなんと幸福だろう。
「プリム、無事だったのか……よかった」
「ごめんなさいロッテ。わたしが無事かどうかはわからない」
「は?」
「だって、ここはあなたの夢の中だもん」
「あ……」
 リーゼロッテは冷静に思考し始めた。
 たしかにそうだ。仮に彼女が生きていたとしても、この牢獄の中には牢獄を起動させている術者以外入ることはできない。(術者の許可でも得れば話は別だが。)
「……つまりお前は、わたしの孤独が作り出した、夢の中のキャラクターか」
「そうよ、ごめんね」
「だがそれでもいい……。話ができてうれしい」
 プリムローズはにっこり笑った。リーゼロッテは彼女に体を預ける。
 プリムローズは温かな抱擁で応じてくれた。
「安心してロッテ。今だけは、あなたを傷つけるものはどこにもいないから……」
 安心。絶対的な安心。そこは、赤子が母の胸で眠るように、すべてが許され、すべてが肯定された世界だった。
「安心して……安心して……」
「ああ……」
 リーゼロッテはこれまでずっと張り詰めていた緊張と警戒を解き、一人の赤子に戻り、母の胸で甘えた。

 ありがとうプリム。わたしの生涯最後の夢に、現れてくれてよかったわ……。
 抱きしめ合ったまま、彼女はその温もりを堪能する。それだけで、彼女の乾いた心が潤いてくれた。これから死ぬ自分にとって、最高の花向けになったと思う。
 これで、苦痛の中ではなく、最後に幸福な記憶を抱いて死んでいけるーー。
「ロッテ」
「ん?」
「死なないでね?」
「ああ」
 リーゼロッテは形だけの返事をした
「でも、わたしはもう駄目な気がするわ。魔力も使えない。精神力も日々衰えている。このままだと、いつ奴に洗脳されるかわからないーー」
「負けっぱなしでいいの? そんなのロッテらしくないわ」
 プリムローズの語調が強くなる。
「いつか力を取り戻して、タローマティに反撃すればいいじゃない!」
「でも、どうやって戦う……どうやってここを出られる」
「大丈夫。お姉さまが助けにきてくれるわ」
「……いくらステラ=マリでも、どうやってここを突き止めるんだ? というより、残念ながらあいつは助けに来ない。模倣者の本拠地に行って帰還しなかったとあれば、模倣者に洗脳されたと判断するだろう。そう判断するようわたしが教育したもの……」
「もうっ! 言い訳ばっかり!」
 プリムローズは可愛らしい声を精一杯厳しくして叱咤した。
「逃げるの? 苦しくなったからって、この世から逃避するの? タローマティにけちょんけちょんに負けたままでいいの?」
「逃げる……?」
「そうよ! ロッテは逃げようとしてるわ! いいえすでに逃げてる! なんだかんだ理由を作って、戦うことから目を背けてる!」
「……!」
「頑張って。そんなのロッテらしくないでしょ? わたしの知ってる月の巫女リーゼロッテは、どんなに辛い状況に陥っても、なんのこなくそ、とか言って乗り越えてきたわ! わたしは、そんなロッテに、お姉さまと同じくらい憧れてきたのよ!」

 そうだ。
 わたしはだれか?
 わたしは、月の巫女リーゼロッテだ。

 絶望していた彼女の心に、わずかだが、明かりが灯り始める。
 
 そう。
 逃げるなんて、わたしらしくなかった。
 戦わないと。
 どんな状況でも、それを乗り越えて、わたしの最強を示さないと。
 それが、わたしだ。
 リーゼロッテだ。
 彼女の気持ちの高まりに呼応するように、プリムローズが言葉を継ぐ。
「本当にかけがえのないものは何か考えて! 巫女の力が奪われても、取り戻す方法がきっとあるはずよ! でも、あなたの誇りは、気高さは、自殺なんかしたら二度と取り戻せないのよ? それでいいの?」
「ああ……いいもんか……」
 リーゼロッテは、感極まったように目を瞑って上を向く。後輩の目から涙を隠すためだった。
 そのまま手探りでプリムローズの手を探り当て、それを握り締める。
 リーゼロッテは感謝した。
 タローマティなどとはまるで違う、生きる希望を与えてくれる他者。わたしがどうあるべきかを示してくれる他者。彼女の存在はわたしという存在を蘇らせてくれる。
 タローマティは、リーゼロッテに対し、「お前は価値のない虜囚だ」と無言の言葉を投げかける。
 プリムローズは饒舌に、しかしその言葉以上に、真心で、「あなたは誇り高い月の巫女だ」と言ってくれた。 
 涙が零れ落ちた。
 純潔を奪われたの際の涙とはまったく違う、暖かい涙だった。
「まったく……みっともないったらありゃしない。お前みたいなヒヨッ子に教えられるなんて」
「ほうら。ロッテらしくなってきた」
 プリムローズは顔をほころばせた。
「ロッテ。辛いだろうけど……頑張って生きてね」
「ああ」
「忘れないで。どんな辱めを受けても、ロッテの誇りは消えないわ。あなたの誇りは、誰かから与えられるものじゃない。奪われても奪われても、あなたの中から、無限に湧いてくるものよ」
「ああ……」
 ありがとう、プリム……。
 彼女の存在は、まるで、地獄に差し伸べられた一筋の希望の光のように見えた。
 リーゼロッテは身体をプリムローズに預け、その幸せに浸った。

 幸福感はリーゼロッテの体を弛緩させ、ゆるやかに微睡みへと誘っていった。
 彼女はプリムローズの膝に枕し、疲れた身体を横たえていた。
 彼女は後輩に撫でられるがままにいた。その後輩の小さな掌(といってもリーゼロッテのほうが小さいが)に身体を委ねるのは心地よかった。
 幸せな夢……ずっと覚めなければいいのに……。
 ん……?
 と、リーゼロッテは微かな違和感を覚えた。
 プリムの体って、こんなに柔らかかったかな……?
 今までのプリムローズの体は、巫女の厳しい修行のため無駄な肉ひとつなく削がれ、手足も痩せて関節が角張っていた。だが今は、彼女が枕にしている太腿の柔らかさといい、彼女を抱き寄せる胸のふくらみの弾力といい、今までになかったふくよかさがあった。一言で言うなら、とても女性的な包容力があった。
 まあ、これは夢だから、プリムのやつも理想化されて現れているのだろうな。リーゼロッテはそう思って違和感を打ち消す。
 プリムローズの暖かい手が背中をさするたび、穏やかな眠りに誘うような安らぎを感じた。まるで母親が子供をあやすようにプリムローズは彼女を撫でた。その優しい手つきが彼女の上を往復するたび、彼女の意識は恍惚へと誘われる。
 彼女は目を半開きにしたまま、その安らぎに浸った。
「ロッテ、生きてね。ここから出られたら、必ず3人で、――しましょうね」
「ああ……」
 プリムローズが最後になんと言ったのか、聞き取れなかった。
 リーゼロッテは何の疑問も抱かず安らかで暖かな微睡みの中に落ちていく……。堕ちていく……。

「ねえロッテ、いま、どんな感じ?」
「ああ、幸せだ……。こんなに安心できたのは久しぶりだわ……」
「よかった。ねえロッテ、もっともっと安心していいのよ。体を楽にして、力を抜いて。大丈夫、ここにはわたししかいないから。あなたを傷つけるものはいないから」
「うん……」
 リーゼロッテはその言葉に従った。
 心地よい眠気が訪れ、今にも眠ってしまいそうだった。幼子が母親に従うように、プリマローズの言葉に従うこと自体が、とても心地よいものだった。
「ロッテ……。わたしの言葉が聞こえる?」
 幸福感の波が彼女の心を理性という陸地から浚い、無意識の海に誘う。揺り籠に揺られる赤子に戻ったように、彼女はその波にまかせどこまでも揺られた。彼女は後輩のプリムローズに対し、全幅の信頼をおいて安らいでいた。
「うん……」
 頭の奥で、プリムローズの声がした。
「ロッテ……わたしは何があってもロッテの味方よ」
「うん……」
「それを信じてくれる?」
「うん……信じる」
 当然だ。暗闇の中の唯一の光明。これを信じないで、いったい何を信じるというのだろう?
「ありがとうロッテ。だから、わたしの言うことを疑ったりしないでね」
「うん……わたしはプリムのいうことをうたがわない……」
「わたしが言ったことはみんな本当だからね?」
「うん……プリムがいったことはみんなほんとう……」
 いつの間にか、リーゼロッテは言われたことを復唱していた。
 
 そんなリーゼロッテを見て、プリムローズは満足そうに笑った。
「だから、今この気持ちいい状態じゃないときも、わたしの言うことはみんな信じてね?」
「うん……しんじる……」
「今までのロッテの考えと違っても、少しもわたしを疑ったりしないでね。むしろ、間違っていた自分の意見を正されて、もっともっとわたしを信頼するようになってね」
「うん……うたがったりしない……しんらい……する……」
 言葉が複雑になったため、朦朧とする意識は流暢に復唱することができない。だが実際に口頭で喋れなかったからこそ、彼女の深層意識はその埋め合わせをするために意識下で何度も復唱しているのだ。
 プリムはわたしの味方……プリムの言うことはみんな本当……。プリムはわたしのみかた……プリムの言うことはみんな本当……。プリムはわたしの味方……プリムの言うことはみんな本当……。
 その言葉が、彼女の絶対の原則として彼女の心の中に刻み込まれる。逆らうことなど思いつきもしない、絶対普遍の原理として。

「そうしているうちに、ロッテの考え方はほんのすこし変わるかもしれないけど、それはぜんぶロッテ自身が考えたことだよね? 絶対に、誰かに洗脳されているのかも、なんて疑わないでね」
「うん……わたし自身が考えたこと……」
「だって、ロッテが洗脳されるなんてこと、絶対にないもんね。誇り高いあなたが誰かから支配されることなんて、起こりえないもの」
 そう。わたしは誇り高い巫女……。
 誰かの命令を刷り込まれるなんて、あるはずない……。
 わたしの思考は、すべてわたし自身が思い至った思考……。
「ロッテは洗脳されないわ、決して」
「うん……わたしは洗脳されない……」
「だから、ロッテが思うことは、すべてロッテ自身の意思なのよ」
「うん……わたし自身の意思……」

「最後にひとつ大事なこと。これは夢の中なんだよね?」
「うん……」
「だから、わたしと会ったことや話したことは、目が覚めるとロッテは覚えていないよ?」
「うん……」
「でも、わたしが話した内容や、明日以降もわたしが話す内容はロッテは決して忘れない。ロッテはそれが自分で考えついたことだとだと思う」
「うん……。わすれない。おもう……」
「そう。それでいいのよ。よくできました」
 プリムローズはにっこりと笑った。
「じゃあおやすみ、ロッテ……」
 名残惜しそうにすがるリーゼロッテの手をたしなめるように静かほどき、プリムローズは彼女の身体を横たえる。
「おやすみ……」
 リーゼロッテの意識が完全に眠りの世界に堕ちると同時に、プリムローズは、「ふふ」、と声を漏らして笑った。
「ロッテ、すてきな目覚めを……」

「ん……む……」
 リーゼロッテはいつものように暗闇の中で目が覚めた。
 しかし、その精神状態はいつもとかけ離れていた。

 なんだろう。
 こんな気持ちのいい目覚めは久しぶりだ。
 暗い牢の中に居ながら、心の中が雨の後の晴天のようにすがすがしく、歌でもひとつ歌いたいようないい気分だ。
 久しぶりにいい夢を見た気がする。
 その夢の残滓を感じると、胸の中に暖かなものがこみ上げる。勇気……温もり……希望……。そう希望だ。何よりも大切なもの。闇に対抗する、心の武器。

「ーーあ、そうだ」
 リーゼロッテは思い出したように、壁の隙間から、隠しておいたものを取り出した。
 鋭利に研いだ手製のナイフだ。
「なんて醜悪だ……」
 リーゼロッテはそれがとても醜く見えた。どうしてこれで自殺しようなんていう考えが浮かんだのだろう? そうとう精神が参っていたに違いない。そのナイフは彼女の心の弱さを象徴しているようで、ひどく胸をむかつかせた。
「もう、こんな物の世話にはならない」
 リーゼロッテはそれを、穢らわしそうに壁に叩きつけた。何日も慎重に慎重を重ねて研いだナイフは、無惨に折れてひしげる。
 いったいどうして自殺しようなどと考えたのだろう。今思い返すと、まったく昨日までの考えが理解できない。
「自殺しようなんて、馬鹿な考えだわ。自ら命を絶つということは、逃避じゃないの。負けを認めて舞台から退場するってことじゃないの。そんなことは認めない」
 そうだ。これがわたしだ。
 久しぶりに自分らしい思考ーー内側からの英気の漲りーーを感じ、リーゼロッテは満足する。
「そうだ。勝利するまで、わたしは戦いをやめない」

 それに、法王のこともある。
 あいつは、望みもしないのに宗教界の頂点に奉られてしまった。巫女たちが支えてやらないと、一人ではなにも決断できない、心優しすぎて苦しんでばかりいる奴。血を見たり、武器を振るったりする嫌われ役は、全部わたしたち巫女がやってあげないと、罪悪感で死んでしまう。
 そう、わたしが、守ってやらないと。
 なんとかして大聖堂に帰らないといけない。

 わたしには守るべきものがあるんだ……。
「わたしは生きるわ。どんな辱めを受けようとも、希望がある限り生き抜いてみせる。タローマティに復讐の刃を突き立てるまで、絶対に死にはしない!」
 彼女の目は、強い決意と希望に輝いていた。

 蜘蛛の巣に掛かった蝶は。もがけばもがくほど糸に絡めとられていくとは知らず、美しい翅とか細い胴が白い粘糸の虜になるとは知らず、力強く羽ばたき始めたのだった。

< つづく >

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