心のカタチ 第一話

第一話 「俺」

「……!」
「……が……だからっ!」
(……てよ!)
「だから……と……んで……っ!!」
(やめてよ!)
「だから……さんと…死んで……だいっ!!」

「やめろっ!!!」

 ……部屋の明るさに目が慣れるのに数秒かかった。窓から薄手のカーテンを通して、柔らかな朝の光が差し込んでいる。
 どうやら久し振りにあの夢を見たらしい。軽く頭を振って、思考を落ち着かせる。

 ここは俺の部屋、俺のベッドの上だ。大丈夫、何も問題はない。
 壁の時計を見ると午前6時をわずかに過ぎたところ。もう春だとはいえ、さすがに早朝はまだ冷え込む。だが、俺は全身汗でびっしょりだった。急に寒気を感じてぶるりと体が震える。
 起きなければいけない時間にはまだ早いが、寝直さないといけないほど早いわけでもない。それに、こんなに汗をかいていては、もうこのまま寝直すのは無理だ。
 俺は起き出して、浴室に向かった。

***

 熱いシャワーをゆっくり浴びて、制服に着替えて鞄の用意をしたところで、ドアをノックする音が聞こえた。
「おはようございます、智之さま。雪乃です。起きていらっしゃいますか?」
「ああ、起きている。入れ」
 ドアが開いた。濃紺の古風なデザインの女中服に身を包んだ雪乃が立っている。

 雪乃は数ヶ月前からこの屋敷に住み込んでいる家政婦である。担当は俺の世話全般。
 家政婦というと中年の女性を想像するかもしれないが、雪乃はまだ二十代前半である。普通であればこんな年齢の女性が住み込みで家政婦をやることはまずないだろう。しかし、叔父がこの屋敷で庭師をやっているという縁がきっかけとなって、こうして雪乃はこの屋敷で勤めている。
 雪乃の身長は平均的だが、すらりとした体型なので、実際よりもすこし背が高く見える。本来は美しい真っ直ぐな黒髪の持ち主だが、普段は髪は後ろでまとめてその上に三角巾をつけているので、残念ながら髪はほとんど隠れている。

「おはようございます。今日はお早いんですね」
 雪乃はそういって微笑むと、俺に軽く会釈して部屋に入ってきてカーテンを開けた。
「ま、今日から授業も始まるからな。いつまでも休み気分じゃないさ」
 とりあえずそう答えておくが、雪乃はフフフ、と笑うだけだった。
 正直、俺は朝が苦手で、ほとんど毎日のように寝過ごしている。寝過ごしたら雪乃が俺を起こしてくれるのだが、寝ている俺を起こすのはなかなか難しいらしい。
 そうやって毎日のように苦労させている雪乃からすると、俺がたまたま早起きしていても、どうせ今日だけのことだとわかっているのだろう。
 ちょっと悔しい気もする。だが、そんなつまらないことでも、俺のことを理解した上で受け入れてくれているのは、正直悪い気分でもない。
「ところで、浦……お父様は、もう起きていらっしゃるのか?」
「はい、いつものように、もうお目覚めです」
「じゃあ、朝の挨拶をしてくるか」
「はい、いってらっしゃいませ。私は食堂にいますので」

 部屋を出て、本館への渡り廊下へ向かう。
 俺の部屋のある、この離れは、もともとはゲストハウスとして建てられたものだ。現在は俺と雪乃の部屋がある以外は使われていない。
 かつては度々客が訪れては宿泊していたのだろう。しかし、浦木翁が隠居生活に入って以降、俺が引っ越してくるまでは閉め切られたままだったらしい。

 本館に入り、奥の和室へ向かう。
 襖を開ける前に、部屋の中に向かって声をかける。
「お父様、智之です。朝のご挨拶に参りました」
「おお、智之か。入れ入れ」
 襖を開けて部屋に入ると、部屋の主は布団の上で上体を起こしていた。その横で、家政婦の一人(こっちは典型的?な中年女性である)が朝食の粥などを用意している。
 どうやら浦木翁は今日はいくらか体調がいいらしい。
「おはようございます、お父様。今朝はお加減はいかがですか」
「うむ、今日はそう悪くはないぞ。と言っても、お前が来てくれても床から出られん程度で、だがな」
 そう言って浦木翁は笑った。どうやら本当に具合がいいようだ。

 浦木翁――浦木耕造は、言うまでもないだろうが、この国の財界の重鎮である。
 いや、重鎮であった、というべきか。数年前に隠居生活に入ってからは、もはや何一つ公的な地位には就いていないのだから。
 耕造は元々は地方の小作農の生まれだったが、両親を早くに亡くし、地元の富農に引き取られて育った。幼い頃から才気煥発だったため、陸軍士官学校予科への推薦を得、その後は陸軍士官学校、陸軍大学校を経て陸軍の将校となった。
 この間に結婚して一子も得たが、戦争が始まって彼の運命は暗転する。大陸を転戦した末、敗戦で帰国してみると、妻も子も空襲で亡くしてしまっていた。
 何もかも無くした耕造だったが、彼はそれを吹っ切るかのように働いた。
 当初は日雇いの人夫だったが、そうして稼いだ金を元に小さな工場を立ち上げ、それは戦後の復興と共にぐんぐんと成長し、ついには巨大なコングロマリットにまで拡大したのである。
 こうして耕造は、この国の経済界でも重きをなす立場を築くに至った。その過程で積み上げた資産は、日本有数の規模と言われている。

 しかし、数年前、古稀を迎えたのを期に、耕造は全ての職を辞した。
 内蔵を病んだのが理由である。おそらくは、長年の過酷な労働が原因なのだろう。その後は、首都郊外のこの屋敷で隠居生活を送っている。
 耕造は戦争で妻子をなくしてからは天涯孤独の身であり、隠居後はこの屋敷で数人の住み込みの使用人たち静かに暮らしていた。
 しかし、去年、突然に、耕造は遠戚の子供を養子に迎えた。
 ……つまり、この俺だ。

「智之は今日は学園かの?」
 浦木翁、いや、「お父様」が俺に話しかけてくる。
 俺と浦木翁の年齢差を考えると、父というよりは祖父の方が似合っているのだが、これでも法的にはれっきとした親子である。
「はい、今日からは授業も始まります」
「そうかそうか。お前の入学式に行けなかったのが残念じゃが……」
「いえ、そんな、お父様はお体のことがありますから。
 ……それに、私を養子にしてくださった上に学校にまで行かせて下さって、それだけで私は本当に感謝しております」
「なんのなんの、ワシもこの歳になってようやく子供の成長を楽しむ喜びを得た。これもお前のおかげじゃよ」

 つい、反射的に翁の思考を『読』む。
 この言葉は俺の『操作』の影響範囲から出たものではない。純粋に本心、翁の自由意志から出た言葉のようだ。翁にとって、俺は、かつて亡くした子供の代わりになってしまっているのだろう。
 本当は翁と縁もゆかりもない俺が養子となったのは、俺が翁の心を『操作』した結果だが、こうやって俺の存在が翁の心を喜ばせているのなら、俺の罪悪感も多少は和らぐ。

「あの、そろそろ……」
 翁の食事の準備が整ったのだろう。家政婦が声をかけてくる。そもそも、いくらか具合がよさそうとはいえ、翁はそんなに長い時間起きていられる体ではない。俺は翁の部屋を辞して、食堂に向かった。

 食堂では、既に朝食の準備ができており、雪乃が俺を待っていた。
「さ、朝ご飯ですよ。今日から授業があるんですから、ちゃんと食べて頭に栄養を送っておかないとダメですよ」
「ああ、そうだな。いただきます」
「はい、いただきます」
 俺が食べ始めるのを見て、雪乃も自分の分を食べ始める。

 浦木翁は自室で粥を食べるだけなので、この屋敷でこの食堂を使うのは、本来は俺だけということになる。しかし、巨大なテーブルで一人で食事をするのはさすがに気が滅入ってくるので、俺は食事の際は雪乃に相伴させることにしている。
 最初は雪乃も「使用人である私が智之さまとご一緒に食べるのは」などと言っていたが、この数ヶ月の間で、どうにか日常のこととして受け入れさせることができた。
 もちろん、雪乃を『操作』すれば一瞬で受け入れさせることができるのだが、なんでもかんでも『力』でどうにかするのは避けるようにしている。この『力』は濫用すべきものではない。濫用した場合の教訓は、既に十分に思い知らされている。
 それに、雪乃のそういう奥ゆかしい個性は、なるべくいじらずにこのまま残しておきたい、ということもある。

***

 俺が初めて雪乃に会ったのは、浦木翁の養子となって一月ほどした頃だった。
 雪乃は親に頼まれた用件のため、叔父であるこの屋敷の庭師を訪ねてきたのだが、そこで俺の目に止まってしまった。そこで俺に『操作』されてこの家に住み込むことになってしまったわけである。
 俺はどうやらこの屋敷に馴染み始めてはいたが、ここ使用人はみな中年以上の大人なので、俺には日常のことを話す相手がいなかった。そのため、ある程度歳の近い使用人を雇って俺専属の堪能にする必要があるとは考え始めていたところだった。
 そこにちょうど雪乃が現れたので、これ幸いと雇うことにしたわけだが正直に言えば、雪乃がなかなかの美人だったので手元に置いておきたくなった、というのが本音である。
 もっとも、雪乃も大学を卒業した後は実家でいわゆる家事手伝いをしていただけだったので、俺のおかげで就職できた、と言えないこともない。俺の『操作』の影響もあるが、少なくとも雪乃はそう思っているようである。

 俺が雪乃の記憶を『読』んだところによると、雪乃が就職しないで家事手伝いをしていたのにはそれなりのわけがある。
 そのわけを遡るなら、大学のゼミの教授との不倫関係が根本的な原因といえるだろう。
 大人しい上に奥手な雪乃が不倫をしていたというのは意外だが、自分からその教授に迫ったわけではないらしい。どうやらその美貌に目をつけられ、ゼミの飲み会で教授に酔わされて、なんだかよくわからないうちにホテルに連れ込まれてしまったらしい。
 一度関係を持ってしまうと、教授はそれを口実にしてさらにその後も何度も雪乃の体を求めた。ウブな雪乃はそんな教授を拒みきれず、教授に求められるままに、ずるずると関係を続けることになった。
 しかし、そんな関係が一年も続いた頃、ついにこの不倫関係が教授の奥さんにばれた。奥さんは学長の娘であり、学内政治の権力構造を考えると、教授は奥さんには逆らえない。雪乃は教授の家に呼び出され、反論も許されないまま一方的に奥さんに詰られた。
 それでも、これでようやくこんな不倫関係も終わらせられる、とホッとした部分も雪乃にはあったらしい。
 しかし、その数日後、雪乃はまた教授に呼び出された。
 従業員の目も届きにくいファミレスの一番奥の席で、教授は嫌がる雪乃の体をまさぐりながら、雪乃の耳元にこうささやいた。
「妻には、もう君とは別れた、と言ったんだがね、妻にさえ気付かれないなら、私はまだ君を手放したくはないんだ。
 ほら、君の就職先、あれは私が君のために用意したんだ。どうだ、私は君のことをこんなに気にかけているんだよ」
 その時点で、雪乃は教授の推薦で既にある一流企業に就職が内定していたのだが、どうやらこの推薦が、教授との関係を続けるための報酬だったらしい。
 さすがの雪乃もこれには呆れて、その内定を辞退した。以後は教授を避け続け、ゼミに出なくなったために不足した単位を何とか揃えて、どうにか無事に大学を卒業した。
 しかし、早期に就職が内定してしまっていたため、それを辞退するまで雪乃はまったく就職活動をしていなかった。それから慌てて動き始めても、ろくな就職先など残っていない。結果として、卒業はできたものの、雪乃は就職を棒に振ることになった。
 かくして雪乃はやむなく家事手伝いということになったわけである。

 ひどい話だが、よくある話だと言えないこともない。だが、この話にはオチがある。
 雪乃が屋敷で働き始めて半月ほど経ったある日、新聞に一つの記事が載った。あの教授が大学構内で白昼堂々と女子学生に性行為を強要しようとし、抵抗した女子学生の悲鳴を聞いて駆けつけた警備員に取り押さえられて警察に突き出された、というものであった。
 その後教授は検察に起訴され、大学は懲戒免職になって社会的地位を全て失った。噂では、義父である学長にも冷たく見放され、奥さんにも離婚調停を起こされて莫大な慰謝料を請求されることになりそうだということである。

 実はこれ、俺がわざわざその大学まで出向いて、いろいろと『操作』をした結果である。
 雪乃の代わりにちょっとした復讐をしてやった、といったところだ。
 もっとも、俺のやっていることも、『力』を使って他人を好きなようにしているという点においては、この教授と大差はないわけだが。

***

 そんなことを思い返しているうちに朝食は終わった。俺は雪乃に見送られて家を出る。屋敷の正面にある立派な門からではなく、屋敷の裏に回って、竹林の中を通る小道を抜ける。ほんの一、二分もすると、金網のフェンスの間にひっそりとした門と鉄の扉が見えてくる。
 ポケットから鍵を外して扉を開けて門をくぐると、扉を閉めて鍵をかけなおす。ここからは清鵬学園――俺が通う学園の敷地になる。
 なぜ浦木翁の屋敷と清鵬学園が隣接していて、その間の門の鍵を俺が持っているのか。
 実は、そもそも、清鵬学園は浦木翁が設立した学園である。
 事業が成功して浦木翁の資産がどんどん膨らんでいた頃、浦木翁は新しい工場の候補地を確認するため、この土地を訪れた。しかし、翁はこの辺りの風景が気に入ってしまったらしい。工場は別の候補地に建てることにし、代わりに自分の個人資産を使って、この辺りの広大な土地を丸ごと購入した。
 その後、翁はその土地の一部にこの屋敷を建てた。かなり大きな庭園も付属する屋敷だったが、それでもまだまだ土地は余っていた。そこで、残った土地に、将来のこの国を支える若い人材を育成するという目的で、私財を投入して学園を創立した。創立当初は「成金の売名行為」などと叩かれたりもしたようだが、設立から20年ばかり経過した今では、清鵬学園といえば良家の子女が通う名門校として、その地位を確立している。
 こういう経緯で設立されたため、学園の敷地は都心から離れた郊外になってしまい、交通はさほど便利ではない。とはいえ、車で送り迎えされる生徒も多いし、全国から生徒が集まってくる都合もあってなかなか立派な寮も併設されているので、その点はさほど問題になっていない。俺に関しては、このとおり学園の隣に住んでいるわけなので、もちろん何の問題もない。
 屋敷と学園にはこういう歴史があったわけだが、屋敷と学園の間のフェンスや門は、学園ができる前に屋敷を守るために作られたものであり、したがって屋敷側の管理下にある。そのため門の鍵も屋敷にあり、今は俺が通学のために利用させてもらっている、というわけだ。

 さて、やけに立ち木の多い校舎裏を回って校舎正面に出ると、立派な校門、そこから真っ直ぐ伸びる並木道、そして校舎の玄関が見える。
 並木の隙間からは、生徒たちが玄関口に向かって歩いているのが見える。
 今朝は早起きしてしまったおかげで、時間は少々早めだ。そのためか、登校する生徒の姿もまださほど多くはなさそうだ。
 もっとも、元々清鵬学園の生徒数はそんなに多いわけではないし、その生徒数の三分の一程度を占めるはずの寮生たちは寮と校舎を繋ぐ直通廊下を通って登校しているはずである。とすると、始業時間近くになっても並木道の混雑具合はこんなものなのかもしれない。
 ま、さすがに、通いのくせに校門を通らないで登校する生徒は俺ぐらいだろうが。

 そんなことを考えているうちに玄関前まで来たが、ふと視線に気付いてそっちを見ると、学園の制服を着た少女が立ち止まって俺のことを訝しげに見ている。
 ブラウスの胸元で結ばれた細いリボンの色は蓬色。俺が今つけているネクタイと同じ色だ。ということは、この少女は俺と同じ一年生ということになる。
 ちなみに今年度は二年生が刈安色、三年生が柿色のネクタイまたはリボンをしているが、進級してもこの色が変わるわけではなく、来年度は一年生が柿色をつけることになる。
 留年したらどうなるのか多少気にならないでもないが、名門校ということもあって、留年するような強者はそうそう現れないらしい。
 なおどの色もやけに渋いのは、派手さを嫌う創立者(つまり浦木翁)が日本の伝統色から渋めの色を選んだかららしい。

 と、そんなことを考えながらその少女のリボンを眺めていると、彼女の腕が上がって体の前で交差するような姿勢になった。
 これはまるで胸を隠すような……。あ、そうか、しまった。胸元のリボンをじっと見ていたから、胸を見ていると誤解されたのか。
 視線を上げて顔を見ると、少女の頬がちょっと赤らんでいる。恥ずかしい、というのも当然あるだろうが、それ以上に彼女の頬を赤くしているのは、怒り、だ。わざわざ『読』むまでもなくわかってしまう。
 おまけに、先ほどまでは訝しげな視線だったのが、今はあからさまに危険人物を睨みつける眼つきになっている。これはちょっとまずいかもしれない。
「あー、えっと、俺に何か用かな?」
 とりあえず先手を打ってみる。
「あんた、何者?」
 間髪入れず反応が返ってきた。質問に質問で答えるとは、失礼な女だ。
「先に質問したのは俺なんだがな」
「……朝っぱらから校舎裏から出てくるような怪しい男に用なんかないわよ」
 なるほど、そういうことか。
「必ず校門を通って登下校しろなんて校則はないぜ」
「なによ、じゃああんたは校舎裏から登校してきた、と主張するつもり?」
「その通りだ」
「ふざけないでよ。この学園には校門以外に敷地外に通じる門はないはずよ」
「ない、って、実際あるんだからしかたない」
「あんた、生徒なら、生徒手帳くらい持ってるでしょ!」
「そりゃ持ってるさ」
「じゃあ一番最後の学園マップを開きなさい」
「なんで」
「いいから開きなさい! 開かないなら人を呼ぶわよ!」
 一年生のくせにやけに高飛車だ。まあ俺も同じ一年だが、同じ学年でもこの態度はちょっとないだろう。おまけに、人を呼ぶとかなんとか、話が物騒になってきた。
 というか、俺たちが揉めているのは登校時間帯の玄関前。わざわざ呼ばなくても、登校してくる生徒たちが、何事かとチラチラこっちを窺っている。
 基本的に良家の子女を集めた学園なのだから、さすがに露骨に覗き込んでくるような下品な奴はいない。とはいえ、これ以上揉めるのはさすがに目立ちすぎる。不本意ながらこの女に従うしかあるまい。
「ちっ。えーと、最後のページね。ほら、開いたぞ」
「ん、本当に生徒手帳を持ってるということは、この学園の生徒だというのは嘘じゃないみたいね」
「だからそう言ってるだろ。で、この地図がなんだ」
「その地図のどこに、校門以外の門が載ってる?」
「……ないな」
「ほらみなさい。あんたの嘘がもう暴かれたわよ」
 これで俺が何らかの罪人であることは、この女の頭の中では確定したらしい。態度もますます高慢になってきた。
 少々、いや、かなりむかつく。そもそもこいつは本当に“良家の子女”なのか? いや、ある意味この態度はある種のお嬢様、という感じもしなくもないか。
 まあ、それはともかく、とりあえず頭に浮かんだ疑問を確認しておく。
「お前、なんでこの地図には校門しか載ってないって知ってたんだ?」
「生徒手帳に隅から隅まで目を通しておくのは当然でしょ?」
「でもお前も一年生だろ? まだ入学式の翌日だってのにか?」
「な、なんであたしが一年生だってわかるのよ!?」
「リボンの色」
「え、あ、そうか、そうね……。って、あんたも一年生じゃない!」
「そうじゃないとは一言も言ってない」
「……まあ、そんなことはどうでもいいわ。さあ、朝から校舎裏で何をしていたのか、ちゃんと説明してみなさいよ」
「校舎裏から、登校してきた。以上終わり」
「だからその嘘はもう暴かれたって言ったでしょ!」
 それはもう聞いた。同じことを何度も言われるのも不愉快だ。そろそろ反論しよう。
「お前さあ、この地図が完全無欠で一切の漏れがないってどうして言い切れる?」
「え?」
「たぶん、普通は生徒が使わないような通用門のたぐいはこの地図には載ってないんだろう」
「え、え?」
「現に、俺は校舎裏の門を通ってきたが、この地図にはその門は載ってないわけだし」
「な、なによ! あたしが間違ってるって言うの!?」
「お前が間違ってるというか、この地図が間違ってる、あるいは、故意に余計なものを省いてある、と言ってるだけだ」
「証拠でもあるっていうの!」
「そりゃ、実際に門の実物を見りゃわかるだろ。ええと、この地図で言うとこのあたりだな。なんなら今から一緒に見に行くか?」
「……あんた、あたしを校舎裏に連れ込んでどうしようっていうつもり?」
 う、また雲行きが怪しくなってきた。
 その時、

 キーンコーンカーンコーン

 と軽やかに予鈴が鳴り響いた。
「ああくそ、せっかく早めに登校したのにもうこんな時間じゃねえか」
「それはこっちの台詞よ!」
「ああもういい、話はまた今度だ。俺の使った門は昼休みか放課後にでも自分の目で確認しとけ」
「なによ、逃げる気!?」
「逃げるも何も、もう行かないと遅刻しちまうだろうが!」
 そう言いながら玄関に駆け込む。
 急いで内履きに履き替えて教室に向かって走る。そういえば廊下を走るのはたぶん校則違反だが、遅刻するよりはましだろう。 幸い、廊下には他の生徒の姿はほとんどないので俺が走るのには支障はない。……いや、他の生徒の姿がほとんどないということは、もう時間がほとんど残されていないということだ。ちっとも“幸い”じゃない。
 一年の教室は一階なので階段を駆け上がる必要がないのは助かるが、俺のクラスは玄関から校舎をぐるっと回りこんだ所にあるので距離はそれなりにある。
 俺が教室に駆け込んだのと、朝のショートホームルームの開始を告げるチャイムが鳴るのとは、ほとんど同時だった。
 やれやれ、入学二日目からギリギリセーフかよ。
 昨日は入学式と簡単なオリエンテーションだけで終わったので、まだ自分の席は決まっていない。 息を整えながら、空いている席を探すと、案の定というか、教卓の目の前の二席だけが空席だった。
 一番前は嫌いなんだよ、と思いながら席につくと、そこでちょうど担任が教室に入ってきた。担任は風采の上がらない感じのある初老の男だが、どことなくとぼけた感じもあってなかなか味があるとも言える。
 本当なら担任は若い美人の女性教師がいいに決まっているのだが、さすがにそこまで『操作』できるほどには、俺はまだこの学園に入り込んではいない。

 俺の隣の眼鏡をかけた男子生徒が、担任に指示されて号令をかける。

 きりーつ、れい、おはようございます。

 機械的に挨拶が終わり、担任が出欠を取り始めたところで、教室の扉が申し訳なさそうに開いた。
「す、すみません……」
 女子生徒がおずおずと入ってくる。
 名門清鵬学園で入学二日目から遅刻とは大したもんだ……って、さっきの女じゃないか。同じクラスだったのか。
「おいおい、二日目からもう遅刻か。今日だけは特別に見逃してやるから、さっさと空いてる席に座れ」
 担任の言葉に、あちこちから忍び笑いが漏れる。
 空いてる席は……当然ながら教卓の前、俺の隣、だ。女は席につくと、俺に気付いて、俺をキッと睨みつけた。これ以上関わり合うとろくなことになりそうにない。俺は気付かないふりをしておく。

 出席確認はどんどん進んでいくが、最前列なので返事をしている連中の顔も見えないし、誰が誰なのかはまださっぱりわからない。
 と、思ったら、担任が「間嶋」と呼ぶ声に対して、
「はい」
 と、隣の女が返事した。なるほど、この女は間嶋というのか。

***

 朝のショートホームルームは、出欠を取った後、簡単に今後の授業の説明があっただけで終わった。だが、今日の一時間目はそのまま続けてホームルームになっている。担任の指示で、挨拶の号令をかけた眼鏡の奴(田崎、というらしい)が司会をやらされる。最初は席決めだ。
 一応、田崎が席の決め方の希望を確認したが、みんな教卓の真ん前はさすがに避けたいとは思っているものの、特に妙案があるわけでもない。他のクラスメートのこともよくわからないから、誰かの隣になりたい、とかいう希望もないだろう。
 結局、無難に籤引きを行って席を決めることになった。目が悪い奴が後ろの席を引き当てた場合はだけは、自己申告で最前列に移動することができる。
 俺の籤の結果は……窓際の列、最後尾の一つ前、か。なかなか悪くない。自分のささやかな籤運に満足しながら席を移動した。すると、なぜか間嶋が睨みながら俺の後ろを着いてくる。
「なんだよ?」
「あたしの席、そこなの」
 心底嫌そうに言いながら間嶋が指したのは、俺の後ろの席だった。
 前言撤回。俺の籤運は最悪だ。これから何ヶ月か、ずっとこいつが後ろから睨みつける視線を感じながら過ごさないといけないのか……。
 一瞬、目が悪いことにして席を替えてもらおうかとも思ったが、今後俺がやろうとしていることを考えると、あまり前の席には行きたくない。まあ、いざとなれば『力』もある。ここは我慢だ。

 続いてクラス委員長の選出。これは揉めることなくすんなり決まった。
 今時クラス委員をやりたがる奴はいないので、立候補者はいない。そこでこのクラスの奴になら誰に入れてもいい、という自由投票で決めることになったのだが、何しろ、全員、他のクラスメートのことをわかっていない。そうなると、書く名前は決まってくる。
 当然のようにほぼ全員が田崎に投票し、めでたく?田崎がクラス委員長に選ばれた。決まった瞬間、田崎が悲しそうな顔をしていたのは気のせいだろう。がんばれ、委員長。思えば、担任の気分次第では、さっきまで隣に座っていた俺が田崎の立場になっていてもおかしくなかった。危ない危ない。
 続いて副委員長の選出だが、委員長が男子なので女子を選ぶよう担任から指示が出た。
 これも立候補なしで自由投票になったのだが、今度も特に票を入れるべき名前の心当たりは誰にもない。と、なると……。
 結局、ほとんどの生徒に一票二票程度しか票が入らない中、七票を集めた間嶋が見事に副委員長の座を射止めた。そりゃ、朝からいきなり遅刻して目立っちまったんだから無理もない。というか、実は俺も間嶋に入れた。
 間嶋に決まった瞬間、背中に殺意を込めた視線を感じたが、これも気のせいということにしておこう。逆恨みだし。

 教室の前に並んで立たされた田崎と間嶋にみんなで改めて拍手をする。二人とも全然嬉しそうじゃないことは気にしてはいけない。これで、この時間に決めるべきことは全て決まった。
 しかし、意外ととんとんと議題が進んだため、けっこう時間が余ってしまった。そこでまた担任の指示が出て、全員の簡単な自己紹介を行うことになった。しかし、クラス委員を決めた後で自己紹介というのは順序が逆のような気もする。このズレ具合が、この担任の面白いところなのかもしれない。
 そうこうするうちに淡々と自己紹介が進んでいく。こういう時はだいたいクラスに一人か二人くらいはふざけたことを言って外す奴がいるもんだが、さすが名門校というべきか、そんなアホはいないらしい。クラスメートがアホばかりではつらいが、全員いい子よりは、一人くらいアホがいた方がいいんだがな。
 自己紹介が続いていくが、全員、判をおしたように、名前、出身校、好きな教科、趣味、程度しか言わないのでほとんど印象に残らない。入学式の時にも思ったが、4対6くらいで女子の方が多いのはいいのだが、誰も彼もが目が覚めるような美少女、というわけでもないので、ますます印象に残らない。
 クラスメートが美少女だらけ、なんてのは、アニメかゲームの中だけで、現実はそんなに甘くはないものだということだろう。

 そうこうするうちに俺の番がやってきた。
 一人くらいはアホがいた方がいい、とは言ったものの、自分がそのアホになりたいという気もさらさらないので、俺もつまらない型通りの自己紹介をする。
「浦木智之、出身はK県のN校ですが、最近近所に引っ越してきたので徒歩で通学してます。好きな教科は社会、特に歴史。趣味は読書です」
 言うだけ言って座ると、パラパラと形だけの拍手が起きる。自己紹介は席順だったので、俺は最後から二番目。みんな既にだれている。

 そして最後は当然俺の後ろの席だ。俺は横向きに座りなおして、そこからさらに首をひねって後ろの席を見る。
「間嶋詩桜里、出身は地元のS校です」
 詩桜里、か。可憐な感じのいい名前だ。しかし全然こいつの態度には似合っていない。。これは名前負けという奴だな、と思いながら間嶋を眺める。
 ……いやまてよ、俺を睨んでいなければ、実はこいつは結構レベルが高い。
 リボンの色を確認したのと、睨んでくるのを睨み返していたのとだけで、ちゃんとこいつの顔を見ていなかった上に、第一印象が最悪だったので気付かなかったが、客観的に判断すれば、こいつは“美少女”と分類してもよさそうだ。
 髪は短めに切ってあって俺の好みからは外れるが、これはこれでボーイッシュで健康的な美しさがある。身長はちょっと低めだが、スタイルもそれなりに整っている。さっと教室全体を見直してみるが、このクラスには間嶋より可愛い女子はいない。
 これで性格と眼つきと言葉遣いがよければいいんだが、世の中そうそううまくはいかないようだ。
「……好きな教科は英語。趣味は、どく……いえ、音楽鑑賞です」
 最後のところでなぜかまた睨まれたが、これで自己紹介も全て終わった。ちょうどいいタイミングでチャイムが鳴る。

***

「ふぅ」
 放課後。俺はようやく授業から解放され、深く息をついていた。
 あのホームルームの後は通常の授業が始まった。清鵬学園には「学業を修めることが人間の修練となる」という校是がある。当然、授業の密度は濃い。長期的には真面目に授業を受ける気はないのだが、さすがに最初くらいは真面目にやっておこうと思ったら、意外なほど疲れた。
 自慢するわけではないが、おそらく俺はこの学園の平均よりそれなりに知能は高いはずである。これまでの人生では半ば無意識のうちに『力』を使って教師や周囲の生徒の思考を『読』んできたので、あまり真剣に自分の知能そのものを試験なんかで確認できたことはない。とはいえ、そうやって『読』んだ他人の思考と比較する限り、俺の知能は世間一般よりはかなり高そうだということがわかっている。
 だから授業についていけないということはないのだが、それでも密度の濃い授業を受けるということは、純粋に頭が疲れる。それは他のクラスメートも同じようで、あちこちから同じような溜息吐息が聞こえてくる。

 ここでふと思い出した、授業を真面目に聞いていたせいで、いつの間にか後ろからの痛い視線のことを忘れていた。いや、恐らく間嶋も授業を聞いていて俺を睨む余裕がなくなったのだろう。
 恐る恐る後ろの席の様子を窺ってみると、授業が終わるとさっさと間嶋は帰ったらしく、もう席にはいなかった。意外とすばしっこいタイプらしい。その割には遅刻していたが。
 清鵬学園は割とマイナーな文科系の部活動が盛んだという話だが、新入生に対する勧誘活動は来週から解禁ということなので、一年生は当然まだどのクラブにも所属していない。ということは、さしあたって一年生は放課後に学園に残っている必要はない。
 他のクラスメートも、周りの席の奴とちょっと話していたりする奴らもいるが、ほとんどはもう帰り支度をしているか既に帰っているか、のようだ。俺も、必要もないのにクラスメートと馴れ合う気はないので、特にその辺の連中と話したいことはない。
 俺は鞄を持つと教室を出た。さて、どうするか。軽く校舎の中を歩いてみるか、それとも、自主的にどこかのクラブでも見学してみるか。
 いや、校舎の中はわざわざ見て回らなくてもそのうち自然に覚えるだろう。クラブに関しては、今のところわざわざ何かのクラブに入るつもりもないので、見学する意味がない。
 やっぱりもう今日は用はないな。帰ろう。

 玄関を出て校舎の裏に回ると、木が生い茂って、人気がなくなる。遠くから聞こえる歓声は、上級生たちがグラウンドで何か運動系の部活をやってるのだろうか。
 そんなことを思いながら屋敷に通じる門へ向かうと、そこには先客がいた。
「……放課後に誰もいない校舎裏に出没する怪しい女を発見、と」
「ふざけないでよ。怪しいのはあんたでしょ」
 間嶋だった。どうやら本当に自分の目で確かめに来たらしい。意外と律儀な女だ。
「ご覧のとおり、そこに生徒手帳の地図には載ってない門があるわけだが、それでもまだ俺が怪しい、と主張する気か?」
 これで朝の論争は決着だ。……そう思ったのが、間嶋は引き下がらない。
「いいえ、確かに門はあったわ。でも、あんたが怪しいことには変わりない」
「なんでだよ」
「この門には、しっかりと鍵がかかってるのよ。おまけに門の上にも周りのフェンスの上にも鉄条網。あなたが門を通ってないこともフェンスを乗り越えたわけでもないことはこれで確認できたわ」
 やれやれ、自分の負けを認められない女だな。いい加減引導を渡すとしよう。
 俺はポケットに入れていた手を引き出して、間嶋の顔の前に突き出した。
「な、何よ!?」
 答えずに、ゆっくりと手を開く。
 そこには、黒く錆びた、無骨な鉄の鍵があった。
「え?」
 驚く間嶋に見せびらかすように鍵を振ると、俺は門に向かった。無駄に頑丈そうな鉄の扉に付けられた大き目の錠前に鍵を突っ込んで、捻る。
 かちゃり、という音がして錠前は外れた。

「さて」
 俺は振り返って間嶋を見た。間嶋はうつむき加減に視線を逸らす。
「さっきまで散々、怪しいだの何だのと言われまくったわけだが」
「……」
「念のためにもう一度聞くが、誰が怪しいって?」
「だって……」
「はっきり言えよ」
「だってそれはあんたが……」
「俺が、なんだって?」
「……うぅ」
 もう反論の種は尽きたらしい。こうやって申し訳なさそうにうつむいてると、こいつもなかなか可愛い感じになるんだけどなあ。
「あ!」
 そんなことを考えてると、何か思いついたらしく、また間嶋が俺を睨んできた。
「この件はともかく、やっぱりあんたは怪しい奴よ!」
「今度はなんだよ」
「あんた、今朝、あたしの、む、む、胸を見てたでしょっ!」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことですって!」
「あれはお前のそのリボンの色を見て学年を確認してただけだ」
「……え?」
「なんか朝っぱらから俺のこと睨んでる物騒な女がいたから、いちおう上級生かどうか確認しただけだが、それがそんなにおかしいか?」
「……う、うぅ」
 これで今度こそ終わりか。
「あ!」
 まだ何かあるらしい。
「あんたのせいであたしは遅刻しちゃったじゃない! だからおあいこよ!」
「いや、俺のせいじゃなくて、お前が勝手に言いがかりつけてきただけだろ」
「それに遅刻したせいで副委員長なんか押し付けられちゃったじゃない!」
「それもお前が自分のせいで遅刻して目立ったからで、自業自得。そもそも俺は遅刻してないし、お前、あの後何してたんだよ?」
「それはあんたが廊下を走ったからでしょ! 校則違反よ!」
「もう廊下にほとんど誰もいなかったし、そのくらいは問題ないだろ」
「違反は違反なの!」
「百歩譲って俺の校則違反が問題だとしても、それはお前が遅刻したこととは関係ないし、俺がお前に校則違反を詫びる理由もない」
「……」
「と、いうわけで、お前が遅刻したのはお前の勝手。
 俺もお前に言いがかりをつけられたせいで危うく遅刻しそうになったが、それはまあクラスメートのよしみで許してやる。
 お前が副委員長になったのは、お前が遅刻したのが原因であって、やっぱり俺とは関係ない」
「……」
「と、すると、俺とお前の間に残るのは、今朝、お前が俺に言いがかりで因縁をつけた、という事実だけだ」
「……」
「そしてそれは実際に言いがかりだったことが今ここで証明された。と、すると、この件についてはお前に一方的に非があることになる。
 ……違うか?」
「……はい……」
「よろしい。さて、お前はこの件にどう落とし前をつけてくれるんだ?」
「え?」
「おいおい、お前が俺に一方的に迷惑をかけたんだぜ? 落とし前をつけてくれるのは当然だろ?」
「そ、そんな、落とし前なんて……」
 ちょっと強く責めすぎたようだ。もう間嶋は俯いたまま半泣きになっている。普段は高慢なんだが、自分の非を責められると弱いらしい。
 正直、“落とし前”といっても、実はどうでもいいんだが、こうやってしおらしくなっている方がこいつは可愛いく見えるし、先ほどまでの態度とのギャップが俺の嗜虐心をそそる。
 ……よし、予定より早いが、まずはこいつを俺の“目的”のための、この学園での最初の“サンプル”にしよう。

< つづく >

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