UN 第1話

第1話

 はじめに言葉ありき。
          ――ヨハネ福音書

 追われている。
 うっそうと茂った森の中、足元にまとわりつく闇を蹴って、私は逃げている。
「はあっ、はあっ、はあっ!」
 鼓膜を打つのは己の荒い息、落ち葉を踏みつける音、そして追っ手たちの大声。
「あっちに行ったぞ!」
「追え、追え――――ッ!」
 どうしてこんなことになったのか。何が運命を狂わせたのか。
 疑問は頭に浮かんだはしから、弾む心臓に押しつぶされて消えていった。
 体が重い。手足が重い。肉の体が今ほどうとましいと思ったことはない。天界では千里を見渡せた目も、この下界、この闇の中では一寸先すら見通せない。
「止まれッ!」
 追っ手の放った矢が、私の右の羽をかすめた。
「ぐっ!」
 たちまちバランスをくずして倒れこむ――とその先には地面がなかった。
 何かをつかもうと手を伸ばしてももう遅い。口をひらいたガケの下へ、一気に転がり落ちてゆく。
 四回、五回、六回、七回。ごろごろと際限なく体は転がり、激しく入れ替わる天と地の果てに、ひときわ強い衝撃が来た。
「あうっ!」
 背中から胸へと突き抜ける痛み――と同時に、ようやく体が止まった。
「かはっ……げふっ!」
 息が詰まった。あまり強く打ちつけたせいで、四肢が言うことをきかない。
 ガケの上から聞こえてくる追っ手の声ははるか遠く、小さく、かろうじて私を見失ったという内容だけは聞き取ることができた。
 深く息をつき、大の字で見上げる。幾重にも重なった木の枝と葉。まだらに切り取られた夜空から、冷えた月光がこぼれおちてくる。
 どうしてこんなことになったのか。何が運命を狂わせたのか。
 同じ疑問をまぶたの裏に探るがやはり答えは出ず、そのかわり、泥のような深い眠りがやってきた。

 濁った意識の中に、風が忍び込んでくる。
 草原を行く涼風ではない。じっとりと湿った、何百年も箱の中に閉じ込められていたような、古い古い空気のゆらめきだ。
「んっ……」
 闇の中で、私は目を覚ました。
 水の腐ったようないやな臭いがする。それに、ひどく寒い。ここは一体どこだろう。
 周りは真っ暗で何も見えない。一つ身じろぎをすると、じゃらり、と頭の上で音が鳴った。
「えっ?」
 いっぺんに目が覚めた。
 鎖だ。椅子に座ったまま、両手を吊り上げられているのだ。
「こ、これは……?」
 視線を落とすと、ローブにくるまれた己の乳房と、二枚の羽が、暗闇の中に白く浮かび上がった。背中から生える翼は、ところどころささくれているものの、大きく傷ついてはいない。
「ボン・ソワァル」
 真正面からの声にぎょっと目をむく。
 瞬間、光が弾け、闇に慣れた目を焼いた。ロウソクが灯されたのだ。
 まぶたをしぼって耐えること数秒。どうにか落ち着いた視界に映ったのは――女だ。
 牢屋のような、石造りの狭い部屋。カベかけのロウソクの下、古ぼけた椅子に逆さに座り、背もたれにあずけた顔をこちらに向けている。
「素敵だったわ。寝顔」
 女は薄紅の唇を開いた。
「夜露を弾く睫毛、寝息に揺れる唇。夜ひっそりと咲く一輪の木蓮のよう……濡れたわ」
 若く見える女の声は、しかし、思いのほか低かった。すがめられた目の赤は、熟成したワインのそれだ。
 闇に溶けそうなダークブラウンの肌を、ロウソクにてら光るエナメルの衣装がおおっている。扇情的で、背徳的で、危うい美しさ。
「貴方、は……?」
 そう言いかけたとき、ボボォ、と大きくロウソクがうなった。闇がはげしく揺れる中、私は女の頭に妙なものを見た。
 毒の葡萄のような紫の長髪、その両端から生える何か――ヤギのように渦を巻いた、それは。
(角――)
「悪魔!」
 とっさにイスを飛ばして立ち上がる。が、その途端、頭上の鎖が私をその場に封じ込めた。
「神力を封じる印をしてあるわ。今のアナタはクモの糸にかかったモンシロチョウ、オオカミに押し倒された子羊……あは、また濡れちゃいそう」
 私は唇を噛んだ。
「まんまと捕らえられたというわけか」
「ノン。その逆よ。ワタシはアナタを助けに来たの」
「助けに……だと?」
「ウィ」
 そうよ、とうなずく悪魔。
「アナタこそ誰かに追われていたようだけど、一体何をしたの?」
 言葉に詰まった。
 追われていたのは覚えている。しかし、それが何者だったのか、頭にもやがかかったようで思い出せない。そもそもなぜ追われていたのかすら記憶にない。 
「どうやら記憶喪失のようね」
「ふん。キサマが頭をいじくり回したのではないか?」
「そんな野暮はしないわ」
「キサマら悪魔の言うことを信頼すると思うか? 何が助けに来た、だ。くだらん」
 悪魔はイスから腰を上げ、ふう、とため息をついた。
「たしかにワタシは悪魔。アナタたち天使と、そして神の敵。でもそうやってひとくくりにされることをワタシは好まない」
 人差し指で、とんとん、と己の胸を叩く。
「ワタシの名前は、アン・ネイムド。つまるところは名無しのアン。朝には天使、昼には人間、そして夜にはアナタのシモベ――」
「シモベだと?」
「ウィ。ワタシはアナタの望みをかなえる、名前の無い召使い。グラスにワインを、未来に夢を。そしてアナタに花束を」
 言って右手を差し出す。何も無い手の内からあらわれたのは、黄色もあざやかなトネリコの花だ。花言葉は、たしか『服従』。
 私は受け取らなかった。というより、手を縛られているから受け取れないのだ。
「なら私をここから逃がしていただけるかな? 召使いドノ」
 皮肉まじりに言ったつもりだったが、相手はあっさりと、
「アナタが望むなら」
 ぱちりと指を鳴らす――途端、手錠の鍵が外れ、私はその場に尻餅をついた。
 目を丸くして見上げる私に、アンは緋色の目を細めた。
「これで信用してくれる? すべてはアナタが望むまま。いつもいつでも、お気に召すまま」
 私はしばし考え、ゆっくりと起き上がった。
「そうか――」
 と呟き、次の瞬間。
「ふっ!」
 右の手刀を袈裟斬りに振り切った。
 ゴン! と轟音を立てて石のカベに巨大な溝が刻まれ、一瞬遅れて、その前にいたアンの上半身がずり落ちた。
「ゴミが! 私が望むのはキサマらの死だけだ!」
 両断されて転がる悪魔の体に吐き捨てて、踵を返す。
 が、ふと見返した次の瞬間、私は目を疑った。
 アンの死体が煙を吹いて消えうせたのだ。
「……ッ?!」
「ブラーヴォ」
 ぞくり、と。
 声と冷気が背中にかかった。
 振り向く前に、褐色の腕が私の両手を固めた。幻術だ。
「さすがは天魔戦争で五百の悪魔を屠った戦士サマ。『裁きの剣』、この目で見れて光栄至極」
「くっ……」
「そして聞きしに勝る無鉄砲ね。ワタシを殺して、どうやってこの部屋から出るつもりだったの?」
「一人でゆっくり考えるさ。目の前の羽虫を落としてからな」
「なるほど。つまり何も考えていなかった、と。ますますもってブラーヴォだわ」
 空気がゆらぎ、ロウソクが揺れ、ナイフのような美貌の上で影が踊る。と思った瞬間、その顔がふっと近づいた。
 柔らかな感触と湿った呼気。唇を奪われたのだと気づいたのは、たっぷり五秒はたってからだった。
「……っ!」
 弾けるように顔をそらす。が、たちまち引き戻され、再びのヴェーゼ。顎先をつまんでいるだけなのに、その力は万力のようだ。
 次いでぬめった感触が口内を侵す。固くつぐんだ口をこじ開けて、淫らな生き物のように這い回る――。
 舌だ。
「んっ……! んうっ! うむぅっ!」
「ん……ふふっ……」
 拒む声と愉しむ声。重なり合う乱れた息づかい。石造りの部屋に淫らな調べが響き渡る。
「……ぷあっ! は、はあっ! はぁっ!」
 ようやく解放されたときには、私の顔は半分が唾液にまみれていた。
「こ……のっ、変態!」
「あら、非道い。すべてはアナタが望んだことなのに」
「望んでいるだと? 私が? この仕打ちを?」
「ウィ。ワタシの名前はアン・ネイムド。アナタの望みをかなえる、名前の無い召使い」
 私は相手の胸を押して引きはがした。
「いい加減にしろ! キサマ何が目的だ! 私を殺したいならとっとと首を刎ねろ! 地獄に連れてゆきたいなら首輪をつけろ! そうやってからかわれるのが、何より腹が立つ!」
 すると、アンは肩をすくめてこう言った。
「賭けをしましょう」
「賭けだと?」
「ウィ。アナタが勝てば、ここから解放してあげる。もちろん追っ手から逃がした上で、ね」
「何を賭けろというのだ? 人間の使うカネなど持っていないぞ、私は」
「持っているじゃない」
 アンの、まさに悪魔的な笑み。
「それも二枚も。アナタのその――」
 ろうそくのような人差し指が、私の背中を示した。
「白い羽」
「なっ……!」
 私は青ざめた。天使にとって羽は存在の証明、命の根源そのもの。もし奪われれば、天界とのつながりを失う。すなわち、肉体をかかえたまま、何の力も持たない人間へと堕してしまう。
 が、アンは平然とこう言うのだ。
「何を驚くことがあるの? チップは二枚。二回のゲームで、アナタは一回勝てば良いだけ。おいしい話じゃない?」
「くっ……」
 妙なヤツだ。
 天使をとらえ、手放したかと思えば今度は賭けだ、などと。
 だが――目的は知れないが――その妙なヤツに命を握られているのが今の自分であるらしい。
「……賭けの内容は?」
 深紅の唇が、にんまりと吊りあがった。
「何もないわ」
「なんだと?」
「何もする必要はない。石は石、土は土、山は山であることを止めはしない。それと同じように、アナタがアナタでいればいいだけ」
「ふん。つまり何があっても正気でいろと?」
「ウィ。理解が早くて助かるわ。ではさっそく第一ゲームとまいりましょう」
 そう言ってカベに近づき、そこに貼りついていた小さな歯車のようなものを回す。
 と、何もない空間から、ぼんやりと影が浮かび上がった。
 楕円形の枠を持った、それは人の身長ほどもある巨大な鏡だ。
「どうぞ。触れてみて」
「……」
「大丈夫よォ。とって食いはしないから」
 鏡の前に立ち、おそるおそる手を差し出してみる。鏡面に触れた途端、
「あっ……」
 指先が鏡の中に沈んだ。
 慌てて手を引く――と、波紋が立つように鏡面がゆらぐ。戻ってきた指には傷ひとつない。
「そこから先は別の空間。アナタには今からこの中に入ってもらうわ。そこで受ける試練に耐えられたなら、アナタの勝ち」
「……」
「さぁ、どうする? 生きることは選択すること。複雑に見えて、だけど単純。右か左か、行くか退がるか、生きるか死ぬか、ただそれだけ。ほら、聞かせて。アナタの決断。アナタの選択。コール(賭ける)・オア・ドロップ(降りる)? それこそが世界を回す、ただ一つの大きな針」
 私は鏡を見た。
 肩に落ちる草色の髪。純白の羽衣に身を包んだ天使が、息をつめてこちらを見つめている。その切れ長の瞳に、隠しようのない怯えと戸惑いが見える。
 先の見えない危険な賭け――しかし、どのみち答えは一つしかなかった。
「行ってやる」
「セ・ボン」
 『結構』と言って微笑むアン。
 私は鏡の前で一つ唾を飲み込み、そして振り向いた。
「ひとつだけ教えてくれ」
「ん?」
「なぜこんなことをする? 私を堕としめたところで、お前に何の得があると?」
「なぜ理由を求めるの?」
 アンの答えによどみは無かった。
「理由に理屈、それはとても大事なこと。でも世の中にはひとつくらい、アン・ロジカルがあってもいい。そう、たとえば――愛とか」
 言葉を失う。ふふ、と笑って、アンは私の背中を押した。
 いきおい、体は鏡の中に吸い込まれる――と同時に、深い闇と強烈な眠気が襲ってきた。
「そう、強いて言うならそれが理由。すべてはアナタを愛しているからよ、シェムハザイ」
 魔性の言葉が、意識の外へと溶けてゆく。

 閉じたまぶたの上から、白い光が透けてくる。
 目を開ける。
 途端、視界の限りに広がる草原。雲のない空、舞い散る花びら。彼方には白亜の神殿が横たわっていた。
「あれ……ここ、は……」
 と、突然、背後から両目をふさぐ手。
「だぁ~れ……きゃっ!」
 刹那、反射的に投げ飛ばしてしまった。
「いったぁ~……」
「ア、アゼル?」
 仰向けで、うらめしげに見上げてくるのは、よく見知った顔だった。
「もう。シェムったら、相変わらず冗談が通じないんだから……」
 ぱたぱたとローブの裾をはたきながら立ち上がる。波打つ乳の川のような長髪に、澄んだ青の瞳。四枚の羽を持つ天使。
「アゼル……なのか?」
「もう、昨日会ったばかりなのにもう忘れちゃったの?」
 唇をとがらせたかと思うと、一転けろりとした表情でこちらをのぞき込んでくる。
「どうしたの、ぼうっとして? とと様のところへ行っていたのではないの?」
「え……。あ……」
 ああ……そうだ。そうだった。
 思い出した。
 私は呼びつけを受けて、父上の……神のところに行ってきたところだった。
 一体どうして忘れていたのだろう。
「歩きましょうか」
 と、白い手が私の腕を引く。広い広い草原を二人、歩いてゆく。
 ――アゼル。
 私の姉で、同時に妹でもある。
 天使は神の意志によって産み出されるが、彼女とはいわゆる同期にあたり、百年前の天魔戦争では天軍の先鋒として共に戦った仲だ。
 それが天軍の勝利に終わり悪魔どもが鳴りをひそめてからは、二人ともお役御免。今は地上の人間たちの行いを見張る監視団に所属している。
 アゼルが団長で私が副長。包容力のある彼女と、血の気の多い私の組み合わせは、なるほど客観的に見て実に正しい。主観的には不服だが。
「それで、とと様は何って?」
 相変わらずののんびりとした口調で、アゼルが聞いてくる。
 私はつい先ほどの対面を思い出し、ぶっきらぼうに答えた。
「無茶はするな。だそうだ」
「え、それだけ?」
「それだけをたっぷり二時間言われた」
 くすくすと笑うアゼル。
「とと様らしい……というか、貴方らしいわね」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 風がやわらかく頬をなでる。舞う花びらが空を彩る。
 父上が人間を創られてから、何千年が経っただろう。
 土の塊より生み出されたあの生き物は、いまや下界を我が物顔でのし歩き、大地を欲望で汚しつくしている。殺し、犯し、飽くまで喰らうあの連中はまさにこの宇宙の汚点だ。
 そのありさまに心を痛めた父上は、先日、ついに決断を下された。地上に大洪水を起こし、悪しき人間たちを一掃しようというのだ。
 そのことについて異論は無い。もともと私を含め、天使たちには人間創造に反対する者が多かった。
 が。
 『だから言わんこっちゃない』――全天会議にて、誰かがそうこぼしたのがきっかけだった。
 対して、神は悪びれもせず、こう仰せになったのだ。
 ――汝ら天使は、天界にいる故、汚れを知らぬ。汚れにまみれた地上にいれば、人間以上に欲におぼれていたであろう。
 これを聞いていきり立ったのが、他でもない、私だ。
 ――ならば! 私が地上に降り立って、堕落するかどうか試してごらんにいれましょう! 父上はどうか天界よりご照覧ありませい!
「もう……あのときのとと様の顔ったらなかったわ」
 同席していたアゼルが、口に手を当てて思い出し笑いをする。なにしろ熾天使四人を含む数千の天使たちの見ている前で啖呵を切ってみせたのだ。場は騒然となった。
「貴方個人が侮辱されたわけではないのに……昔から本当に意地っ張りね」
「正直なだけだ。自分にも他人にも。言っておくが私は微塵も後悔していないからな」
「でも、少しは要領よくしないとダメよ?」
「信念を曲げるのが要領であるなら、未来永劫不器用で結構。天使シェムハザイは曲刀にあらず、直刀なり」
 アゼルはもう一度微笑むと、頭の後ろで手を組んだ。
「あ~あ。これじゃわたしのほうも忙しくなりそうね。地上では」
「……なに?」
「わたしもね。ついさっき、とと様に言いつけられたの。貴方のお目付け役を頼むって。一番仲がいいのは私だから」
 しばしあぜんとした後、私はため息をついた。
「天魔戦争の名コンビ復活というわけか」
「ふふ、よろしくね」
「まったく誰が監視されているか分からんな」
「ふふふっ」
 アゼルは可憐な仕草で、私とお揃いのローブを翻した。あたたかい風が草原を駆け抜けてゆく。
「さて、相棒さん。地上に降りる準備をしましょうか」

 石造りの台の上に、私は仰向けになっている。
 ここは神殿の中。円形にくりぬかれた白壁の部屋にいるのは、私とアゼルだけ。
 緑の短髪に白いローブ。いつもの格好――しかし、実はいつもの私ではない。
 天使は霊体であるが、地上においてはそのままの姿では存在できない。よって、姿かたちを模した肉の器を用意し、その中に転移するのだ。アゼルはその器を作ることのできる数少ない天使だった。
 台のかたわらに立ち、アゼルが見下ろしてくる。
「どう? シェム。はじめての肉体は」
 私は口だけを動かして答えた。
「重い……」
「ふふ、それはそうよ」
 霊体には質量がない。それがいきなり、重さ数十kgの鎧の中に放り込まれるのだ。言うなれば、今まで手ぶらで歩いていたところへ、山一つ背負わされるようなもので、当然、指の先から髪の一本一本にいたるまで、ぴくりとも動かせなくなる。
「でも、まぁ、口を開けるところはさすがね。最初はみんな、舌の先を動かすのにも苦労するもの」
「難儀な……人間はみなこんな身体をひきずって生きているのか」
「彼らの背負った罪の重さだとも言われているわね」
「ふん、どうりで」
 やはり人間などろくなものではない。
「でも早いうちに慣れてもらわないとね。まだ触覚も不完全だし。これはどう?」
 私の左手を掌で包み込むアゼル。頭の中に、温かい感触が流れてくる。
「感覚はある。が、ぼんやりとだ」
「訓練が必要なのよ。他人に触ってもらうことで感覚を研ぎ澄ませてゆくの。こうやって」
 白い手がそのまま指先を握る。ゆっくり折り曲げ、そしてまた伸ばす。親指から人差し指、そして中指へ、一本ずつ丁寧に。指から伝わってくる温もりは曖昧だが、それでも彼女の心が込められているのは分かった。
「大事なのは段階的にやること。今は未熟だけど、繰り返すことで慣れてゆくから。そうやって触覚を手にいれたら、今度は自分で体を動かしてゆくの。少しずつ、少しずつ」
 さらに丁寧に触れてゆくアゼル。私もそれに合わせて力を入れる。しかし、指はぴくりとも動かず、触られる感触もまだまだ十分ではない。
「上手くいかないな。どうしてなかなか難しい」
「そう……」
 すまないが気長につきあってくれ――そう言おうとした瞬間、アゼルが思いがけない行動に出た。
 私の親指をくわえたのだ。
「お、おい」
「あむ……ほぉひたの?」
「どうしたの、じゃない。何をしてる」
「ぷあっ。だって、このほうがよく感じるのよ。どう? ……あむ」
「ちょ……んっ」
 たしかに、感じが先ほどまでと違う。口の中に吸い込まれた指先、そこから感じる温度、ぬめり、圧迫感……
 さらに。
(し、舌が……)
 柔らかい粘膜が指の節をなぞっている。その繊細な感触――ぞわりと何かが背筋を走った。
 その間にも、アゼルは黙々と作業を続ける。くわえる指を替え、時に吸い付き、時に上下させて。伏せられた睫毛と桃色の唇が、やけにまぶたにまとわりつく。
「ア、アゼル」
「なぁに……?」
「何か……何か変な感じがする」
「変な、って?」
「むずむずする、というか、こう、もぞもぞする、というか……」
「慣れてないのよ」
「そう、かな……ふぅんっ!」
 舌が腕の内側を襲った。初めて感じる鋭い感触に思わず声が出て、私は赤面した。
「アゼル、アゼルっ」
「今度はなに?」
「そ、それ、やめてくれっ。その、腕を舐めるの」
「どうして?」
「だ、だから……」
「くすぐったい?」
「そ、そう……多分それだ」
「じゃあこれは?」
「ふあっ?」
 言う間に、舌はヒジの内側まで登ってきた。這いあがってくる不可思議な感触に、ますます混乱する。
「ねえ、シェム……どう? これもくすぐったい?」
「わ、わからない……くうっ」
 小さな虫のように、ねっとりと舌が上ってくる。二の腕へ、そして腋へ。
「はぁっ、ア、アゼル……今日はここまでにしよう、こ、これ以上は」
「ダメぇ……せっかくいい感じになってきたんじゃない」
「し、しかしだな」
 身をよじって逃げようとする。が、そこで指一本動かせないことに気づく。なんということだ。
「ん。これ、ジャマね」
「!」
 あろうことか、アゼルは私の胸をおおう衣をはがし始めた。
「待て! ちょっと待て!」
「だぁめ。もう聞かない」
「いいから待て! そこまでしなくていい!」
「でもぉ、手とか足より、こっちのほうが敏感なのよ?」
「し、しかし、しかしっ……」
「もう。大丈夫だから。まかせて」
 言うが早いか、薄布をひっぺがす。隠すものを失った私の肌が、外気に、そして親友の眼前にさらされた。
「あ……あ……」
 ひやりとした空気の感触が直接頭にひびき、それとうらはらに顔の表面は熱く焦げてゆく。
 我々天使が他者に肌を見せることはほとんどない。
 人間の言う風呂だとか寝巻だとかを使う必要がないのだから、当然といえば当然で、それに何より――はしたない。
 なのにアゼルは、獲物を見つけた蛇の目で笑うのだ。
「ふふっ、綺麗……。綺麗よ、シェム。白い肌も、かわいいふくらみも」
「そ、それはお前がそう作ったからだろう……」
「わたしは貴方のイメージを形にしただけよ。だから、これは全部貴方が考える貴方の姿。このピンクの先っぽも、ね」
 言って、私の乳首をついばんだ。
「ふああっ!」
 カン高い音が聞こえ、一瞬遅れてそれが自分の声だと分かった。
(私が出したのか。あんな声を……あんな乱れた声を?)
「ねぇ……ほらぁ……んっ……ちゅぷ……」
「あ……ああっ……んくうっ! ふっ、あううっ……」
 唇が、舌が突起をなぶるたび、頭の中を針でさされた気分になる。
 こんな感触が、こんな感情があったなんて。自分の中に眠っていたなんて。
「ふあぁ……だ、だめだ、くすぐったい……アゼル、くすぐったい……」
「それはね、くすぐったいんじゃないのよ、シェム。気持ちいい、の」
「き、気持ちいい……?」
「そう。気持ちいいの。気持ちいいの。気持ちいいの。気持ちいいの。気持ちいいの……」
 低く小さく、おだやかに繰り返されるアゼルの声。私の鼓膜にゆっくりと染み込んでゆく。毒薬を幾重にも塗りこむように、じわり、じわりと……。
「きもち、いい……」
「そうよ……ああ、シェム。すごくいやらしい顔……」
 アゼルの唇が乳房を離れた。
 白磁器のような顔が、目の前に近づいてくる。クリアブルーの瞳が、まっすぐ私を見つめている。
 いや、違う。
 青かった彼女の瞳が、いつの間にか色を変えている。深く暗いその赤は、まるで熟成したワインの――
「んん……っ?!」
 くちびるを、重ねられた。
「んっ……ん、ふふっ……あむ、ん……」
「むっ、んんっ……! あ、はっ、あう、むっ……」
 口の間から、水音が漏れる。唾液と空気と、口唇と舌と混乱とがまざり合ってドロドロになる。
 何がなんだかわからない。何かがおかしいという思いが頭の底から湧き、しかしたちまち水音にかき消されてしまう。
「あふっ……んっ、んんっ……シェムのおくち、おいしぃ……ん、ちゅっ」
「はっ、ひゃ、ひゃめ、あっ……ひゃうぅ……んあうっ」
「はぁ、うふふっ……ああ、かわいい。かわいいわ、シェムぅ……」
「あ、あぜ、る……んんっ、ぷあっ……あうぅ……ひゃ……あ……」
 一体どれほど、そうやって舌をからめていただろう。
 不意にアゼルが唇を離し――その次の瞬間だった。
「はっ……?」
 手が動いた。さっきまでぴくりとも動かなかった右手が。
 しかしそれは、私の意思ではない。
「な、なんだ……? 体が勝手に……」
「んふふっ……わたしが動かしてるのよ」
「な……」
「当たり前でしょ? この肉体を作ったのはわたしなんだから。――ねぇ、シェム」
 冷たい指が、私の顎を伝った。
「お人形あそび、しましょうか……」
 手が、指が勝手に動く。そしてそれは、ナメクジのようにじわじわと下腹部へとにじってゆく。
 へそを通り過ぎたところで、私は彼女の意図をはっきりと理解した。
「や、やめろ! やめてくれ、アゼル!」
「あら? シェム、わたしが何をしようとしてるのか分かるの? ふふっ、じゃあ知ってるのね。体の中で、イチバン感じる、と・こ・ろ」
 ぞっとなった。
 人間界の情報は守護天使を通じてときおり天界に入ってくる。それは、彼らがたわむれに仕入れてきた人間の秘め事だった。
「ふふふっ……楽しみねシェム。貴方がどんな声、出すのか」
「ひっ……」
 冗談ではない。これ以上『気持ちいい』感覚を叩き込まれたら、一体どうなってしまうのか。
 渾身の力をこめて押しとどめようとする――が、右手は一向に言うことをきかず、その淫らがましい指先で肌を撫でてゆく。
 やがて腰布の中にそれがもぐりこみ――
「! ひゃうぅっ!」
 電流が脊髄を通り抜けた。 
「あはぁっ、かわいい声ぇ……」
 嬉しくて仕方ないといったふうなアゼル。
 操り人形と化した私の手は、なおも布の下でおぞましく動き続ける。
「ね、気持ちいい? ねぇ、ねぇ?」
「あっ、あっ、くうぅっ……! い、言わない……言うものかぁ……」
「あぁん、もう、意地っ張り。じゃあ無理矢理見ちゃうから……」
 途端、今度はがばりと脚が開いた。必然、布がめくり上がり、秘核をなぶる指があらわになった。
「い、いやぁ……」
 脚の間からそれをのぞき込むと、アゼルはとろけるような笑みを見せた。
「ああ、もうこんなに濡らして……素敵よ、シェム」
「んっ、く……ぬ、濡れる……?」
「あら、それは知らないのね。あのね、『気持ちいい』のが高まると、ココからいやらしいお汁がいっぱい出てくるの。ほら、お尻まで垂れてきちゃってるわよ、シェム? ほらぁ」
「あうっ!」
 冷たい感触が秘唇を伝った。アゼルの指だ。
「くすっ、やわらかくて気持ちいい……もっとしてあげる」
「ふああっ! やめっ、アゼル! あ、ああっ、ひゃあっ、やああん!」
 ぐちゅっ、ぐちゅっ、と液体をかきまぜる音がする。これがアゼルの『いやらしいお汁』のためなのか――そう思うと恥ずかしさに心臓が潰れそうになり、しかしそれでも体は言うことをきかない。
 淫らな音が止まらない。指が止まってくれない。
「はっ、あっ、やっ、あんっ……! こんなっ、こんな……っ!」
「ねぇ、気づいてる、シェム?」
「は……ふぁ?」
「わたし、もう何もしていないのよ」
 意味が分からなかった。
「だから、ね。わたしはもう、貴方の体を操ってはいないの。とっくに」
 え、と声が出た。
 と同時に指が止まった。――私の、思うとおりに。
 なら、でも。それじゃあ、つまり……
「ふふ。今、貴方のあそこを弄っているのは、貴方の指。貴方の力。貴方の望むがまま」
「あ、あ、ああっ……」
 震える私の唇に、アゼルは今一度口付けた。
「おめでとう。こんなに早く肉体を制御できたのは貴方がはじめて。才能あるわよ」
 呆然と固まったのもつかの間。
 まるで泉のように、秘芯からどうしようもない疼きが湧いてきて――私は再び手を動かしはじめた。
「ウソだ、こんな……や、やめ……ああっ、やぁっ!」
 口から出る言葉を、体が裏切る。頭の命令に手が背く。
 何がなんだかわからない。この痴態を招いているのは、アゼルなのか、私の頭なのか、私の体なのか。分かるのはただ、脳髄をぐちゃぐちゃにかき乱す、この快感だけ。
「ああ、シェムったら……さっきよりも激しくなってるわよ。そんなにいじくり回したかったの? いやらしい……」
「ちがう、ちがうちがうちがうっ、ふやっ、あんっ、はっ、やっ、あああん!」
 屈辱と羞恥が全身をかけめぐり、しかし指は一向に止まらない。
 やがて飲み込まれるような大きな感触が来た。
「はっ、あ、あ、あっ、いやだ、いやだぁっ」
「なにがいやなの? ねぇ……ねぇ?」
「くる、なにかきちゃうっ、やっ、あっ、ああっ、こわい、こわいの!」
「大丈夫よシェム、さからわないで。流れにまかせて」
 アゼルは暴れる私の体を抱きしめた。
 聖女のようにやさしく、しかし痴女のように淫らに。
「そのまま動いて。可愛い顔をわたしに見せて!」
 白い手が秘所をなぶる。彼女の指の助けを借りて、私は一気に高みに昇ってゆく。
「きゃふうっ! あっ、やだっ、あっ、あっ、あっ、あっ!」
「イって、シェム! イくの! ほら、ほら、ほらぁ!」
 全身を貫く稲妻とともに、目の前が真っ白になった。
「あああああああああああああああああああああああ!!」

「はッ!」
 がばりと身を起こす。
 はたしてそこには草原も神殿もそしてアゼルもおらず、古ぼけた牢獄の壁と、私の座る石の床と。
「ボン・ソワァル」
 いたずらっぽく微笑むアンがいるばかりだった。
「げ、幻術……?」
「ウィ……でもあり、ノンでもあるわね」
 荒い息の私に、アンはあいまいな答えを吐いた。
「アナタの失われた記憶を呼び覚ましてあげたの。今見たものは、まぎれもない事実。アナタの過去よ」
「な……」
 あれが私の過去? そんなバカな。
(いや、しかし……)
 今や記憶の歯車はしっかりと噛み合っている。確かに私は神に食ってかかった。アゼルに肉体をもらって、地上に降りた。
 だが、途中からのあれは……。
 アンは緋色の目を細めると、鏡に近づき、その表面をつるりと撫でた。すると、そこに何かの像が浮かび上がった。
『くる、なにかきちゃうっ、やっ、あっ、ああっ、こわい、こわいの!』
「なっ?!」
 それはアゼルに愛撫され悶える私の姿だった。
『きゃふうっ! あっ、やだっ、あっ、あっ、あっ、あっ!』
 笑い転げるアン、
「アッハハハハハ! ああおかしい。アナタって、普段いさましいくせに、アノ時はとっても可愛い声を出すのね」
「うっ……うわあああああああ!」
 私は一も二もなく駆け出すと、鏡を木っ端微塵に割り砕いた。それを見て、悪魔はますます腹をかかえて笑う。
「笑うな、下衆めっ! 私はだまされんぞ、アゼルはあんなことはしなかった! あんなっ、あんなものが事実であってたまるか!」
「たしかに、途中からは事実じゃないわね」
 あっさりと認め、しかし、こう言葉を続ける。
「だけど、思い出して。ワタシの名前はアン・ネイムド。アナタの望みをかなえる、名前の無い召使い。すべてはアナタの望んだこと」
「私があれを望んでいたというのか」
「ウィ。心の底で。心の底から」
「戯言をぬかすな! 幻で私をたぶらかそうなどと……その手に乗るか!」
 怒声を放つ私の前で、アンの指が左右に揺れた。
「幻と現実。昼と夜。天使と悪魔。シェムハザイ、ああ、シェムハザイ。そんなことはね、どうでもいいのよ。何にでも境目をつけようとするのは理性の悪いクセ。ひとつはぜんぶ、ぜんぶはひとつ。確かなことは、そう――アナタが自分自身でなくなったこと」
 刹那、私は青ざめた。
「ちっ、ちがうっ、わ、私は」
「ちがわない」
 アンは一文字ずつ噛んで含むように言った。
「なにも、ちがわ、ない。アナタは、アナタの意思で、アナタの心と、アナタの体を、アナタ以外の者に差し出した。違うというのなら、もう一度見せてあげましょうか? アナタの淫らな姿」
 返す言葉もなかった。
 だまりこくる私に、アンはひどくやさしく笑った。
「約束通り、一枚もらいうけるわ」
 人差し指を宙に差し向ける。
 と、何もない空間から、突然巨大な手が現れた。
「なっ……」
 人の体をまるごとにぎり潰せそうな、その真っ黒な魔神の手が、私の左の翼をつかみ――
 引きちぎった。
「ぎゃああああああああああああ!!!」
 獣のような絶叫とともに、その場にはいつくばる。
「ぐっ……あ、かっ……うああああっ……!」
 羽が舞い散る。目蛍が飛ぶ。
 全身を駆ける痛みに、私は打ち上げられた魚のごとく転げ回った。
 肉の痛みだけではない。天使にとって羽をもがれるのは、魂の一部を奪われるのと等しい。存在そのものを断つような激痛に、のたうつことしかできなかった。
「ハイリ・ハイリフレ・ハイリホ~。見れば楽しき夢の果て。触れておそろし現(うつつ)の世。ああ、いいわ。その悶え方。豚の糞からはい出たウジムシみたいで」
「うぐ……あっ……こ、この……外道っ!」
「悪魔が外道と言われてもねぇ。メルシー・ボゥクー?」
「ただですむと思うなよ……必ず、必ず八つ裂きにしてくれる!」
 脂汗で垂れ下がった前髪の奥で、私は瞳を燃やした。
 対するアンは気おされたふうもなく、壁に近づき、歯車を回した。
 現れる第二の鏡。その枠にしなだれかかり、「ふふ」と、なまめかしく流し目を送る。
「怒らないで、マ・シェリ(愛しい人)。まだオードブルが出終わっただけ。そう――」
 空気が粘り気を増した。名前の無い悪魔の、それはそれは楽しそうな紅のまなざし。
「お楽しみはこれから、よ」

< 続く >

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