件の里 第01話

第01話

「とにかく私は、帰らないったら帰りません!」

 インターホン越しに響く義姉の声はヒステリックで取り付く島もありません。
「……で、でも、京子義姉さん、麻紀子ちゃんはどうするの? ここで暮らすのがあの子のためになるとは思えないわ。せめて兄さんと話し合って――」
「親権は渡しませんっ! ここまで来てくれた美弥ちゃんには悪いけど、草介さんとはもう終ったの! 『顔も見たくない!』って、そう伝えてちょうだいっ!」

 ぶつん。

 小さな音を立て、インターホンの接続が途切れました。
「あの……義姉さん? もしもし、京子義姉さんっ!?」

(しまった! このタイミングで麻紀子ちゃんの話は逆効果だったかしら?!)

 後悔しても時はすでに遅く、幾ら呼びかけても返事はありません。
 むせかえるような草いきれの中、私はしばし呆然と立ち尽くしました。

 じーわ、じーわ、じーわ――

 蝉の声が喧しくて、頭がおかしくなりそうです。
 数匹ならまだしも、辺りに生い茂る木々の全てで大合唱を繰り広げられては騒音公害もいいところです。
 本当に、こんな深い山奥に好んで暮らす人の気が知れません。

「ああ、もう! 会ってもくれないなんて、一体どうすればいいのよっ!?」

 思わず、傍らの『寄り合い所』と書かれた木の札を平手でバンバン叩きます。
 正直、ここまで頑なな態度を取られるとは思ってもいませんでした。
 私が知っている京子さんは、いつもおっとりとした物腰の和風美人で、こんな激しい拒絶は全く予想外です。
 積もり積もった不満やら愚痴やらを聞いて、少しなだめて、なんとか兄と会ってもらう約束だけでも取り付ける――そんな甘い目論見は脆くも崩れ去りました。

(だいたい、何で私が兄さんの……しかも、不倫の尻拭いなんかしなきゃいけないのよ! 何が『ここまでこじれると女同士でないと話が通じないと思う』よ! オタオタした挙げ句、半年も放置しといたクセに! 夫婦の揉め事は当人同士で解決しなさいよ、もぉ!)

『夫の不倫のせいで出奔する妻』――世間的にはよくある話なのでしょうけれど、いざ、身内に起こってみると、どうしていいのかまるで分からないものです。
 昔からプライドだけは高い兄が、私に相談してきたのは驚きでしたが、京子さんが一人娘の麻紀子ちゃんを連れて家を出てから、すでに半年以上が経っていたのには驚きを通り越して、呆れるほかありませんでした。
 兄のため、というより、今年*歳になる可愛い姪っ子のため、こんな携帯も通じない山奥の村まで車を飛ばしてきましたが、出だしから躓いた私はすっかり途方にくれてしまいました。

「暑い……」
 口にすると余計に暑さが増すようです。
 容赦なく照りつける強烈な日差しが、私の肌をジリジリ焦がそうとしています。
 あんまり暑いからとタンクトップにホットパンツというラフな格好で出かけた自分の愚かさを呪いました。
 一応、日焼け止めを塗っているとは言え、こんな激しい紫外線にさらされ続けたら、顔も手足もじきに真っ黒でしょう。
 一瞬、目の前の低い木戸を乗り越えてやろうかとも思いましたが、門柱に監視カメラが付いている事に気付き、直前で諦めました。
 人里離れた山奥の村にしては、ずいぶん厳重な警備です。
 それもそのはずで、生け垣に四方を囲まれたこの大きな農家は『寄り合い所』という単語から連想されるより遥かに立派で、広い庭には奥座敷や水車まで有りました。
 これはもう『お屋敷』と呼んでもおかしくない規模です。
 以前、同じくここまで足を運んだものの、京子さん本人に取り次いでさえもらえなかった兄とは違い、一応、インターホンで会話は出来ましたが、結局、最後まで義姉は姿を見せませんでした。

(……どうしよう?)

 踵を返した私は絶望と徒労感に満たされた重い足取りで、砂利道を歩き始めました。
 勢いでここまで来てしまいましたが、もはや何の手立ても残っていません。
 あの兄の事です、このまま帰れば、自分の責任や無能さを棚に上げて、さんざん私の無計画ぶりをなじるに決まっています。
 自分の置かれた状況の理不尽さに改めて腹が立ってきました。
「何が『白い天と地の里』よ! こんな何も無い山奥のどこがいいのっ?!」
 万が一にも村の人には聞こえないよう、小さな声で毒づきます。
(だいたい、こういう時の行き先って普通は実家でしょう? 何だって、こんな縁もゆかりも無いド田舎に引き籠るのよっ!)
 経緯は兄もよく知らないようですが、なんでも京子さんはここ――『白い天と地の里』にいる友達を頼って家出したらしいのです。
 恐らく、『出来ちゃった婚』という形で、少々強引に私の兄との結婚を両親に認めさせた手前、今更、実家にも戻れないのでしょう。
 そういった諸々を考え合わせると、実は私の義姉は見掛けによらず行動力のある大胆な人なのかもしれません。
 それにしても、いきなり子供連れで山奥の村に飛び込まなくてもいいと思うのですが――
(一体……何なのよ、ここ? 何がそんなに魅力的なわけ?)
 渓谷沿いの砂利道の両側に十数軒の民家が並んでいます。本当に小さな村です。
 ネットで検索しても、ほとんど情報が無いのでよく分かりませんが、廃村だったこの場所を何年か前に『酪農を基本に自給自足を営む集団』が譲り受け、『白い天と地の里』と名付けたそうなのです。なんだかやけに怪しい話です。
(宗教団体か何かなのかしら?)
 ふと、昔見たカルトな宗教団体の日常を追うドキュメンタリーを思い出しましたが、村のたたずまいや村の人の雰囲気はいたって普通です。
 少しだけ気になった……というか不思議に感じたのは、ここに来てから目にした男性は一人の例外も無くお洒落なスポーツキャップを被っていた事と、女性が皆ハッとするほどの美人だった事、そして、妙に子供が多い事くらいです。今もあちこちの民家の窓に数人の子供が張付き、こちらを興味津々といった表情で見つめています。
 初めの二つは単に私が『山奥の村にしては』と色眼鏡で見ているせいでしょうが、子供の数は本当に村の規模からするとずいぶん多い気がします。
(まぁ、田舎の家庭って都会に比べると子沢山なものよね)

“……めうし”

(なんですってっ?!)
 小さな声とクスクス笑いが聞こえた気がして、思わず私は立ち止まりました。

 ふるん!

 タンクトップの下で、普段から少し邪魔に感じている私の大きな胸が揺れます。
 声がした方向を振り返ると、一瞬、玄関のドアの隙間からこちらを覗く子供と眼が合い、すぐにパタンとドアが閉まりました。
『牝牛』――思い起こせば中学の頃からです、クラスの男子が私の事を陰でそう呼び始めたのは。気にしている様子を見せると付け込まれそうで、そしらぬ振りをしていましたが、内心では四六時中周囲から向けられるネットリとした視線がイヤでイヤでたまりませんでした。
 当時はなんとか胸が目立たないよう、だぶだぶの服ばかり着て過ごしたものです。
 大学生になった今では、そんなコンプレックスはすっかり影を潜め、これも親から授かった立派な『女の武器』なのだ、と思えるようになったのですが、小さな子供にまでそんな風に呼ばれたのかと思うと、久々に苦々しい想いがこみ上げ、カッと頭に血が上ってしまいました。
「全くっ!」
 私は少し荒くなった足取りで村の入口にある村長さんの家を目指しました。

            ■■■■

「どうだったかね? お義姉さんとうまく話がついたかね?」
 人の良さそうな村長さんは私を居間に上げ、立派なソファーに座らせるとニコニコしながら尋ねます。
 義姉の名前を出したところ、最初に連れて来てもらったのがこの家でした。
 やはりこの村長さんも、家の中だというのに帽子を被ったままです。少し大きめのくたびれたヤンキースの帽子は、残念ながらあまり似合っていません。
(いっそ麦藁帽子にすれば、まだ雰囲気に合うのに……)
「いえ、駄目でした。インターホンで門前払いです」
「そうかね。まぁ、京子さんもアレでなかなか強情なところがあるからねぇ」
 のほほんとした調子で村長さんが言います。
「あの……村長さんから、なんとか説得していただけませんか?」
「いやいや、こればかりは本人の意志だからねぇ。それに村長と言っても名ばかりで、わしに出来るのは、あんたのようにここに不慣れな人の案内役くらいなんだよ」
「そうですか」
 どんよりと意気消沈する私を見かねたのか、村長さんは慌てた様子で声をかけます。
「ああ……ほら、とりあえず冷たいものでも飲みなさい。だいぶ喉が渇いたろう?」
「――はぁ」
 渡されたグラスに口を付け、ほんのお付き合い程度に一口飲んでみて驚きました。
「美味しいっ! 何のジュースですか、コレ?」
「おお、気にいったかね? これはこのへんで採れる山ぶどうやコケモモなんかを混ぜたジュースだよ」
 村長さんは自慢げに胸を張ります。
「すごく美味しいです! こんなの初めて!」
 お世辞抜きで感動するほどの美味しさです。清涼感のある酸味と自然な甘みのバランスが絶妙で、喉がカラカラに渇いていた私はあっと言う間に飲み干してしまいました。
(あー、生き返るっ!)
 ほどよくクーラーが効いた室内は、まるで天国のようです。
 初めはかなり警戒心を抱いていた私も、親身に相談にのってくれたこの小太りの朴訥なおじさんのおかげで、だいぶ『白い天と地の里』という場所に対する印象が変わっていました。
「良かったら、もう一杯どうだね?」
「はい! いただきますっ!」
 今度はじっくり味わいます。
 一口飲む毎に、スーッと全身に潤いが染みこんでいくようです。それと同時に何故か、体の芯がダルく、重くなっていくのを感じました。

(ああ……そうよね。今朝、早かったし――)

 炎天下から一転してクーラーの効いた快適な部屋に入り、早朝からの緊張の糸が切れたせいでしょうか? 急にトロンとまぶたが下がってきました。

「美味しいだろう? このジュースはここにいるおなご連中はみんな飲んでおってな。ここの暮らしとは切っても切り離せないものなんだよ。ビタミンだのミネラルだの、いろんなものが詰まっとる。昔は薬学の知識なんてものは無かったから、主に経験と勘で……」

 村長さんの声がだんだん遠くなっていきます。

(いけない、わ――)

 まるで昼食後に退屈な講義を聞いている時のように、眠るまいと必死なココロとは裏腹に、私のカラダはどんどん重くソファーに沈んでいきます。

「……そんなわけで、この里のおなご連中がみんな素直で献身的にわしらに尽くしてくれるのも、このジュースと、ここの名産の……」

 村長さんの声が遠のくのとは反対に、壁にかかった柱時計の振り子の音が大きくなってきました。

 カッチ、コッチ、カッチ、コッチ、カッチ、コッチ――

「……さて、そろそろいいかな? まぁ、大抵は二杯も飲めば充分なはずなんだが、体質の違いなのか、あんたら若い娘っ子の中にはだいぶ効き目の悪いのもおってな。昨日も一人、相当てこずった挙げ句、結局、地下牢に……」

 振り子の音に紛れて、ほんの囁き声にしか聞こえない村長さんの話を追うのは一苦労で、もう意味の無い音の羅列としか思えません。

(ダメよ。寝ちゃいけないわ……失礼よ)

『自分を起こそうとする私』と『このまま眠りたい私』の間に挟まれ、『私』の頭は次第にこっくりこっくりと揺れ始めました。

(ちゃんと……起きて、なきゃ)

 揺れはどんどん大きくなり、いつのまにか私は『自分をうまく揺らす事』に集中するようになっていました。

 カッチ、コッチ、カッチ、コッチ、カッチ、コッチ――

 振り子の音に合わせてゆらゆらと体を揺らすのはとても心地よく、全身がじんわりと幸せな気持ちで満たされていきます。

 カッチ……えているかね。わしの……コッチ……う事が……カッチ――

 ふと私は、柱時計が自分に話しかけている事に気付きました。
 どうやら、質問されているようです。
 その口調には逆らう事の出来ないおごそかな威厳があり、私は眼を閉じたまま素直に答えました。

「――はい。聞こえて、います――」

 カッチ……名前は……コッチ……お義姉さんの事は――

「――片倉、美弥です。義姉の事は三日前までは全然――」

 カッチ……は、いるのかね……コッチ……出しの経験は――

「――はい。一度だけ有ります。彼が強引に……でも――」

 カッチ……出しはとてもいいものだよ……コッチ……白くて濃いミルク――

「――ミルク? それって――」

 カッチ……美味しいミルク……コッチ……何よりも美味しい――

「――そんなに、美味しい……んですか? 私――」

       ゴクリ。

 カッチ……飲みたいかね……コッチ……どうする――

「――はい。飲みたいです――」

 カッチ……では、よく覚えておきなさい……コッチ……***様のミルク――

「――***様の、ミルク――」

 カッチ……そうだよ……コッチ……何よりも美味しい、最高の――

「――わかり、ました――」

 ………………。
 …………。
 ……。

「あっ! 美弥お姉ちゃんだっ!」

 ハッ!

 小さな人影に勢い良く飛びつかれ、私は驚いて大きく目を見開きました。
「え? ……あ、麻紀子ちゃん!」

(うわぁ、大きくなったわねぇ!)

 久々に会った麻紀子ちゃんはびっくりするくらい大きく成長していました。フリルのワンピースとリボンがよく似合います。元々、可愛い子でしたが、今では将来が楽しみな、とびきりの美少女に変わろうとしています。

「お姉ちゃん、いつ来たの?! ねぇねぇ、もう牛さん見た?」
「……え? 牛?」

(あれ? 私、今何を……?)

 夢から急に醒めたようなふわふわした気分です。
 記憶が混乱して、少し眩暈がするのを、頭を振ってハッキリさせます。
(そうだわ。私、京子義姉さんと――)
「麻紀子ちゃん、お姉さんはまだここに来たばかりで何も見ていないみたいだよ。いつものところに案内してあげたらどうかな?」
 村長さんがにこにこしながら、麻紀子ちゃんの頭を撫でます。
「うん! 行こ、お姉ちゃんっ!」
「え? あ……うん」
(――いつもの、ところ?)
「ジュース、ご馳走さまでした」
 村長さんに小さく頭を下げると、私は麻紀子ちゃんに手を引かれるまま、家の外に出ました。

(うわ……)
 途端に肌にねばりつく激しい熱気と、クラクラするような蝉の声が全身を包みます。
 さっき飲んだジュースがすぐに毛穴から吹き出していくようです。
「行こっ! 牛さん、こっちだよ!」
「う……うん」
(牛さん――ねぇ)
 こんな寂れた小さな村の、しかも、『牛』になどわざわざ見物するような価値があるとは思えないのですが、麻紀子ちゃんは確信に満ちた足取りでぐいぐい力強く私の手を引いていきます。

「ねぇ。麻紀子ちゃん、最近、お母さんはどう?」
「ママ? ママはすごぉく元気だよ。毎日、ニコニコしてるの!」
「あ……そう」
 子供から情報を引きだそうとする自分を若干後ろめたく感じながら、麻紀子ちゃんが思ったより元気で幸せそうな事に、私は少しショックを受けていました。
 兄には悪いですが、母子共々ここの暮らしを気にいっているなら、わざわざ私が口出しするのは余計なお世話という気がします。

(――でも、学校とかどうするつもりなのかしら?)

            ■■■■

「ほら、ここだよ、お姉ちゃん!」
「え?」
 麻紀子ちゃんに連れて来られたのは、立ち並ぶ民家のうちの一つでした。
(でも確か、『牛さん』……て)
 今の今までてっきり牧場か牛舎にでも連れて行かれるものとばかり思いこんでいた私は、びっくりして尋ねました。
「あの――麻紀子ちゃん。ここは?」
「牛さんのお家!」
(え? まさか――この中で『牛』を?!)
 酪農の知識が全く無いのでよく分かりませんが、ごく普通の平屋建ての建物の中で牛が飼えるものなのでしょうか?
 外見は特にこれといった特徴のない一軒家です。唯一、目につく点と言えば、傍らにこんな場所には不釣合いなピンク色のお洒落なミニワゴンが停められている事ぐらいです。
(この家の車かしら? でも、さすがにこれじゃ『牛』は運べないわよね)
 車はどうやら若い女性のものらしく、内装もピンクで統一され、ダッシュボードの上にはディズニーキャラクターのぬいぐるみがぎっしり並んでいます。
「……えっ?」
 ついつい興味をそそられて車内を覗きこんだ私は、運転席のドアが半分開いたままになっている事に気付き、ギョッと目を見張りました。
 よく見るとドアに鍵がかかっていないどころか、運転席のキーまで差したままになっています。これでは、『不用心』というより――

「お姉ちゃん、ほら、こっちだよ!」
「……え? あ、ちょっと待って! 麻紀子ちゃん!」
 玄関の戸を開けた麻紀子ちゃんが、素早く靴を脱ぎ捨て、パタパタと身軽に家の中に走りこみました。どうやら最初から玄関に鍵はかかっていないようです。
「ね……ねぇ、麻紀子ちゃん?!」
 玄関から中に呼びかけても答えは返りません。
(――しょうがないわね)
「すいません。お邪魔……します」
 こわごわと家の中に入りました。
 中は薄暗く、ムッとするような熱気が籠っています。
(でも、別にそんなに臭くはないわね)
 狭い家の中に糞尿まみれの牛が閉じ込められているところを想像して、ゾッとしていたのですが、今のところ、少しカビ臭いくらいでこれといった悪臭は感じません。
 壁に電気のスイッチを見つけ、ためしに入れてみましたが、ブレーカーが落ちているらしく、明かりは点きませんでした。
 玄関からまっすぐ伸びた廊下は思ったより長く、雨戸の隙間から差し込む細い陽の光に照らされた家の中は、妙に薄気味悪く思えました。
 子供の頃に見た悪夢のように、何か恐ろしい化け物が待ち構えているような気さえします。
「あの……麻紀子、ちゃん?」
「お姉ちゃん、こっちこっち!」
 廊下の突き当たりから麻紀子ちゃんの声が聞こえました。ホッとした私は少し怯えた自分を恥じるように、わざとドカドカ足音を立て、廊下を進みました。
(全くもぉ!)
「遅いよ、お姉ちゃん! 早く早く!」
 突き当たりのドアからひょっこりと顔を出した麻紀子ちゃんが、もどかしげに私を手招きします。
「ダメよ、麻紀子ちゃん、黙って他人のお家に上がっちゃ。だいたい、こんな家の中に――」

 キィ。

 ドアを開け、奥の部屋に一歩、足を踏み入れた私は――

「――あ」

 一瞬、世界がグニャリと歪んだような眩暈を感じて、思わず壁に手を突きました。

(え? 何……“これ”?)

「ね? 牛さんでしょ? お姉ちゃん、【これは『牛』さんだよね?】」
 弾んだ声を上げ、麻紀子ちゃんが指を差します。
「そ……そう、ね。これは――」

(……『牛』?)

 薄暗い部屋の真ん中――染みと黄ばみで汚れた布団の上に『牛』がいました。
 丸々太ったお腹、額の両脇の丸い角、四つんばいで、鼻輪をつけ、体のあちこちには黒いぶちが――

(えと……あれ? 『牛』って、こんなサイズだったかしら? それに――)

 私は何故か、目の前の“生き物”に激しい違和感を感じました。
 何かが決定的に間違っている気がします。なのに――

【んもおーーーーーーー】

 間延びした声で『牛』が鳴き声を上げました。
「あは! 『牛』さん、お姉ちゃんに会えて嬉しいって! 良かったね、『牛』さん!」

【んもおおおおーーーーーーー】

 むき出しの肌色のお尻をたぷたぷ揺らしながら、嬉しげに『牛』が鳴きます。
 そう。確かにこれは『牛』の鳴き声です。でも――

「ほらほら、見て! この『牛』さん、とっても人に慣れてるんだよ。お姉ちゃん!」
 麻紀子ちゃんが差し出す手を、ベロベロと『牛』が舐め回します。

(う……)

『牛』の肉厚の唇の間から飛び出した短いピンク色の舌が、麻紀子ちゃんの細い指先を舐め回す様に、私は言い様の無い嫌悪感を覚えました。

(そうだわ、眼よ。この眼が――)

 単なる思い込みかも知れませんが、だらしなく伸びた不揃いな前髪の間からこちらを窺う『牛』の眼は、家畜にしてはやけに狡猾な光を放っているように思えます。まるで、こちらを値踏みしているような――

(ああ、思い出したっ! あの眼だわ! 中学の頃の男子の……眼)

 ぶるっ!

 不意に全身に鳥肌が立つのを感じました。
 そうです。私は今、見られています――この『牛』に。
 おぞましく、いやらしい、ネットリとした視線で。

「ま……麻紀子ちゃん」
 早くここを出よう――そう言いかけた瞬間でした。

「ねぇ、お姉ちゃん。【私、ミルクが飲みたいなぁ】」

 どくんっ!

 激しく、心臓が跳ね上がります。

「ミル……ク?」
「そう。【とってもとっても美味しい、絞り立てのミルク】」

 きゅうううっ!

 私の体の奥で何かが激しくうねりました。

(何!? 何なの……コレ!?)

 突然の自分の反応に驚く私に、麻紀子ちゃんが微笑みながら尋ねます。
「ねぇ。お姉ちゃんも欲しくない? 【白くて濃い新鮮なミルク】」

(白くて、濃くて、新鮮――ああああああああああああっ!)

 麻紀子ちゃんのその言葉で、まるで嵐に弄ばれる蝶のように、私は混乱の渦に叩きこまれてしまいました。
 そうです。たった今、やっと気が付きました。
 この喉の底から手が出そうなほどの激しい渇望は――

(欲しい……ミルク欲しいっ! 欲しい欲しい欲しい欲しい欲しいっ!)

 ゴクリ。

 喉を鳴らした私は小さく首を縦に振りました。
 不思議です。自分の体がこんなにも欲しているものを、どうして今の今まで、気付かずにいられたのでしょう?
 けれど、一度こうして気付いてしまった以上、もう、自分が抑えられません。
【白くて濃い新鮮なミルク】――頭の中が、その言葉で埋め尽くされます。
 一刻も早くここを出て、新鮮なミルクを飲まなくては――

「そっか! じゃあ、お姉ちゃんも一緒に『牛』さんにお願いしよ!」
「え? お願い?」
「そうだよ。『どうか私達にミルクをお授け下さい』って、お願いするんだよ」
「あの……ちょっと待って、麻紀子ちゃん。“これ”って――乳牛なの?」

 少なくとも“これ”が私が知っている乳牛でない事は確かです。
 だいたい、ミルクを絞るためのおっぱいは――

「違うよ、“これ”じゃないよ! 【男牛様(おうしさま)】だよ、お姉ちゃん!」

 どきんっ!

 またしても、心臓が大きく跳ね上がりました。

(ああ――変だわ。私、どうしてしまったの?!)

 まるで憧れ続けた人のそばにいるように、激しく胸がときめいています。
 頬が赤く染まり、知らず知らずのうちに、膝が小さく震えます。
 その原因と言えば――

「おうし……さま?」
「そうだよ。【男牛様のミルク】――とってもとっても美味しいんだよ」

(ああああああああああああっ!)

「みるく……おうしさまのみるくっ?!」
「うん! お姉ちゃんも飲みたいでしょ? 【男牛様のミルク】」

(飲みたい――飲みたいわっ!! そうよ! 絶対、飲まなくちゃ!)

 まるで水の中で空気を求めてもがくように、カラダの奥底から震えが走ります。
 それは一切抗う事の出来ない激しすぎる欲求でした。
 そうです。ただのミルクではないのです。
【男牛様のミルク】――ああ、それが本当に飲めるなんて!

「それじゃ、一緒に【男牛様】にお願いしようね、お姉ちゃん」
 私は壊れた人形のようにガクガクと首を縦に振りました。
「ね、ねぇ……どうすればいいの、麻紀子ちゃん?!」
「簡単だよ。まず、服を脱いで」
「――え?」
 瞬間、言われた事が理解できず、私はぽかんと口を開けて固まりました。
「よいしょ!」
 そんな私に構わず、麻紀子ちゃんはふわりとワンピースを脱ぎ捨てると、いきなり何も着ていない丸裸になってしまいました。
「ま、麻紀子ちゃん! あなた……パンツはっ?!」
「ん? はいてないよ。ジャマだもん」
 悲鳴にも似た私の問いかけに振り向いた麻紀子ちゃんは、ニッコリと天使のような微笑みを浮かべました。

「さ。お姉ちゃんも脱いで!」

< 続く >

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