第03話
(あ……あああ……)
言葉が出ない。
いや、喉に膨れ上がった叫びがあまりに大きすぎて、声に出来ないのだ。
叫んだ瞬間、自分はプツリと壊れてしまうに違いない。
(私のカラダ……カラダが……カラダが……カラダが……)
ブルブル震えながら立ち上がった聖美は、壊れたあやつり人形のようにギクシャクと、壁に掛けられた大きな鏡に近付く。
顔を背け、いやいやながらも歩みを止められないその姿は、まるで誘蛾灯に惹かれる蛾――いや、断頭台に向かう哀れな囚人そのものである。ふらつく足の一歩一歩が、抗い難い『破滅』へと聖美を導く。
やがて顔を背けたまま鏡の正面に辿り着いた聖美は、何度も何度もためらいながら、オドオドした視線を鏡の方へとさ迷わせる。
(私が――私じゃないのに――私で――マー君が――私に――マー君の――)
鏡の中には、清楚で気品のある女性が映っている。*学生の子供を持つ母親とは到底思えない、少女のように可憐な容姿の持ち主である。
混乱し、追い詰められた表情で顔面を蒼白にしながらも、その美しさは一向に損なわれる事が無い――いや、怯え惑う様子がかえって淫靡な翳りを添え、美貌を一層際立たせている。
豊かな胸、キュッとくびれたウェスト、まろやかなヒップライン――小柄で一見華奢に見えるが、やたらなグラビアアイドル顔負けにメリハリの利いたボディラインは、今のようにごく普通のパジャマに包まれていても、ゴージャスに目を惹きつける。
(……あ)
パジャマのズボンのクロッチの部分が大きく濡れて染みになっている事に気付く。
さきほど床に座り込んだ際に下敷きになっていたせいだろう。愛液の洪水だった。
「どうして、こんなに溢れ……ああっ!?」
なぜ、今の今まで気付かなかったのだろう?
ぴったりと肌に貼り付いた夏向きの薄手のパジャマのズボンには、どこにも下着のラインが見あたらない。
(嘘、でしょ……)
慌てて自分の尻に手をやると、いつもならスベスベした肌触りのシルク素材に包まれてるはずの形の良いヒップが、少し硬い麻のパジャマ生地に直接触れているのが分かった。上着は上着で、誇らしげにグンと布地を押し上げている左右の豊かな胸の先端が、さらにポチリと小さく突き出ているのが見てとれる。
「そんな……そんな……」
遅まきながら聖美は、自分が朝目覚めた時からずっと、『パジャマの下に何も着ていない状態だった事』を認識する。
一体、誰がこのパジャマを着せたのだろう?
今、この場には自分達母子二人しかいない。
そして、『自分には着替えをした記憶が無い』となると――
「ダ、ダメよ。そんな……そんなの、ダメ……」
震える指先で、パジャマの上から、おそるおそる下腹部に触れる。
(……ひっ!!)
薄い布地を通して、熱く火照った指先の体温が直に伝わる。
ほんのわずかな違いだが、『自分が覚えている手触り』と違う。
昨日までそこには確かに、やわやわと指先を押し返す微かな手応えがあった。
大事な部分を覆い隠し、緩衝材となっていた手応えが。
「ああ……そんな。神様……どうか、お願い。そんなヒドい事――」
まるで親に叱られた幼い子供のように涙を浮かべ、イヤイヤと首を振りながら、聖美はパジャマのズボンを脱ぎ下ろす。
(――あああっ!)
途端に見えない衝撃に打ちのめされ、クラリと世界が揺れる。
降り注ぐ朝の日差しの中、なまめかしく艶やかな下半身が晒されている。
それはつい先程の映像とほぼ同じ光景だった。
スラリと伸びた脚線美に、ムッチリと程良い肉付きの太股、キュッとくびれたウェスト――成熟した『大人の女性の魅力』を凝縮させた美の中心に、極めて不釣合な、幼女のように慎ましいスリットがむき出しになっている。
真っ白く滑らかな肌が、うっすらとサーモンピンクの清楚な合わせ目に向けて、グラデーションを描くその様は、アンバランスさ故に、妖しくも蠱惑的だった。
聖美本人の美貌に加え、白磁のような肌と均整の取れたプロポーションも相まって、なんだか人形めいて見える。
まるで『淫らな悪戯をされた等身大フィギュア』といった風情である。
「ああ。どうしよう……どうしよう……どうしよう……」
広々した明るい寝室に独り、裸の下半身を晒した美母は呆然と立ち尽くす。
(『私』……なのね? 全部――『私のカラダ』だったのね? なにもかも全部――)
信じられない。信じたくない。信じられるはずがない。
自分は、一体、どこからこの『狂った世界』に足を踏み入れてしまったのだろう?
昨日までは、穏やかなごく普通の生活だった。
ほんの少し不満を覚える事はあっても、満ち足りた暮らし――そう信じていた。
それがたった一枚のDVDのせいで脆くも崩れ去ろうとしている。
濁流に押し流される木の葉のように、ほんの短い間に自分の築いてきた幸せの全てが、おぞましい悪夢の中に呑み込まれようとしている――いや、すでにすっかり呑み込まれた後だ、というのだ。
受け入れる事など、とても出来そうにない。
(……ハッ!)
不意に雅人が告げた最後の言葉を思い出す。
『これから証拠としてママのアソコにメッセージを残しておくから……』
(証拠!? メッセージ!?)
「……わ、私の……アソコ、に?」
恐ろしいモノを見つめる目で自分の下半身を見下ろす。
つきたての餅のように滑らかな白い肌――その先に、隠すべき全てを露わにされた秘所が見える。
無論、自分でも手入れを欠かした事の無い場所である。
だが、『全てを剃り落とす』事などありえない。
ガチガチガチガチガチガチガチガチガチ。
歯の根が合わない。
――そう。恐ろしいのだ。『真実を知る事』が。
“すでに九分九厘、『結末』を知っている真実”を認める事が。
だが、このまま“目をつぶって済ませる事”も、もはや出来そうに無い。
――そう。恐ろしいのだ。『真実を知らずにいる事』が。
二つの矛盾した思いの狭間で、震え慄きながら、聖美はゆっくりと爪先立ちで腰を降ろす。しっかり膝を閉じた、ちょうど、うさぎ飛びのような格好である。
そのまま片手を床につき、しばし荒い息を整える。
ごくり。
緊張で自然と喉が鳴る。
(外から見えない、って事は、つまり……つまり、ああ――)
恥ずかしさを必死に堪え、頬を紅く染めながら、閉ざしていた両膝を、鏡に向けてゆっくりと開いていく。
大股開きで隠すべき場所を余す所なく見せつけるポーズ――まるで洋物のヌード雑誌に出て来る安っぽいピンナップガールのような格好である。
「……どこ? どこなの?」
ほぼ百八十度近く足を大きく割り開いているのに、メッセージらしきものなど、どこにも見当たらない。
本来なら丁寧に処理され、品良く形を整えられているはずのつややかな茂みを失い、幼女のようにツルリと剃り上げられた花弁は、清楚なたたずまいで、慎ましく口を閉ざしている。
(――まさかっ!?)
聖美は唇を噛み、しばし躊躇する。だが、もう他の可能性は考えられなかった。
「ああ……」
左手を後ろについて、震える右手をゆっくりと秘裂へと伸ばす。
明るい日差しの降り注ぐ寝室で下半身を剥き出しにした美母は、大股開きのまま、鏡に向かって腰を突き出し、指先で花弁を大きく広げてみせる。
ぬちゃ。
一見、清楚に見えた秘所を押し開くと、先程までの興奮の名残りの熱い滴りが淫らな水音を立てた。両の花びらの内側は妖しくヌラヌラと輝き、爽やかな朝の景色に不似合いな『発情した雌の匂い』を漂わせる。
「――い、いやあああっ!」
ハラワタの奥まで覗かせるような特出しポーズのまま、聖美は叫ぶ。
『ママ』 『アイシテル』
細い油性マジックでも使ったのだろうか? 左右の花弁の奥深く――今のように、よほど恥ずかしげもなく両足を割り裂き、指先で大きく押し広げない限り、決して気付かれない位置に、確かに『メッセージ』は有った。縦書きで右と左に一行ずつ――しかも、あらかじめ聖美の行動を予想していたのか、ご丁寧にも左右を反転させた鏡文字になっている。
「そんな――そんな――そんな――」
一体、自分はどんな格好で『コレ』を書き込まれたのだろう?
どれほど恥ずかしいポーズをとらされ、どんないやらしい事をされたのだろう?
全く想像もつかない。
……いや、すでに自分は知っているではないか? そう。雅人は――
「いや……いやよ……そんなの……そんな……」
がたがたと全身を震わせながら、聖美は指先で『メッセージ』をこする。
まるで『ソレ』が全ての元凶であり、これさえ無くなればなんとかなると信じているかのように、必死に花弁の奥の『メッセージ』を消そうとする。
「……消えて! お願い、消えてっ!」
クチュ。クチュ。グチュ。ピチャ。
敏感な粘膜は異物の侵入を快く受け入れ、白魚のような指先が徐々に熱い潤滑液――淫らな雌の滴りでテラテラと輝き始める。
【僕の彼女ね、“キヨミ”って言うんだ】
【ふふ。……可愛いよ“キヨミ”】
【“認めて”くれるよね?】
「だ、ダメよ! いけないのっ! そんな――恐ろしい事!」
耳の中に甦る息子の甘い囁きに、涙を浮かべた美母は必死になって首を振る。
つい先程までDVDを見ながら、嫉妬に身を焦がし、雅人に抱かれる夢想に“女の部分”を熱く濡らしていた聖美だが、それはあくまでも『想像の世界』の事だった。
いざ、こうして『リアルな出来事』として、喉元に突き付けられてみると、たちまち『母』としての理性と良識が甦り、追い詰められた小動物のように怯え抗う。
だが、そんな矛盾だらけの抵抗を歓喜に満ちた『自分の声』が嘲笑う。
【このオ○ンチンはねぇ、きっと“まほうのかぎ”なのね】
【ママのいちばんふかぁいトコまでとどくの】
【んふぅ、おいひぃ】
「ああ。私……私、あんな……ケダモノみたいな事を――」
あまりの恥ずかしさに気が遠くなりそうだった。
アレらは全て『自分』がやった事、『自分』がしゃべった台詞なのだ。
【マーくぅん。ママのオッパイもナメナメしてぇ!】
【ママとマーくんはピッタリさんなのね】
【ママのココに……マーくんをちょうだい】
「いやよ。いや! いやあああ!」
グチュ! プチュ! チャプ! グチュグチュ!
聖美の指の動きが激しさを増す。
もどかしげに腰を揺すり、中指を根本まで突き入れる。
「消えてよっ! どうして消えないの? お願い、消えてえええええっ!」
【僕がオ○ンチンを突っ込んであげると、ヌルヌルなのにキュッて締めつけてきて】
【ママのオ○ンコは“魔法の鍵穴”だよ】
【ママ――可愛くて、すごくキレイだ……】
(ああ。私、もう、受け入れていたのね。あんなに大きくて、あんなにたくましくて、あんなに荒々しい――)
涙を浮かべ、必死に『メッセージ』を消そうとしている聖美の心の片隅で、小さな声が微かな喜びを込めて囁く。
――マー君……やっぱり『私』の事を――
【いじめるよっ! ママをめちゃくちゃにするよっ! いいねっ?!】
【マ、ママは僕のモノだあっ! 誰にも……誰にも渡さないよおおっ!】
「い、いけないわ、マー君! ダメよ! 私達、親子なのよ! 私……あなたのママなのに……あううっ!」
ジュブリ!
差し込まれる指が二本に増える。
まるでそこだけ別の生き物のように、聖美の指先は自らの花園を蹂躙していく。
「あんっ! ダメ! そんな……大きすぎるわ! 激しすぎるの……あぁんっ!」
ジュブ! ジュボジュボッ! ジュプッ!
ダラダラと床に愛液を滴らせながら、聖美の指の動きはさらに激しさを増す。
もはや、当初の目的を完全に忘れ去り、聖美は陶酔の中にあった。
(ああ。イケナイ子。あんな事、ママにするなんて。あんな、エッチな事を――)
「あうぅ、イケナイ事なのぉ……ダメよおぉ……あぁ、マー君……マーくうぅっ!」
背筋をピンと反らせた聖美は、そのまま床にあおむけに倒れこむ。
パタン!
足元は爪先立ちで大きく両膝を割り開き、腰を宙に浮かせて突き出し、まるで見えない誰かに荒々しく貫かれているかのようなポーズで身悶える。
(ああ。本当に『アレ』が私の中で暴れたのね? うんと奥深くまで串刺しにされて、私、泣き叫んで、めちゃくちゃにされて、そして……そして……そして……)
【“種付け合宿”だよ。ママ】
「……はうぅっ!」
不意に耳に甦った言葉に、体の中心をゾクゾクと電気のようなモノが走り抜ける。
(種……付け?)
聖美は全身を凍りつかせる。
目を大きく見開き天井を見つめ、ピクリとも動かなくなった聖美の中で、ただ指先だけが単調なピストン運動を続ける。
グチュ。グチュ。グチュ。グチュ。グチュ。グチュ。グチュ。
「あ、ああ……ああああ――」
【“キヨミ”はね、早く僕の赤ちゃんが産みたいんだって】
【ママは誰の赤ちゃんが欲しいのかな?】
【あなたの! あなたのあかちゃんがほしいっ!】
(私と……マー君の……マー君の――)
DVDを見ている間はあくまで『他人事』だった。
それは単に『自分の息子を誘惑する淫乱女』の『ふしだらな欲求』に過ぎなかった。
雅人の『母』として決して認める事は出来ないが、『愛する人の子を身籠りたい』という『女としての気持ち』には共感しないでもない――そんな風に思っていた。
――だが、実際には“キヨミ”などいない。
「マー君の、赤……ちゃん?」
口にした瞬間、体の奥深くに差し込まれた指先が、キュウッ!ときつく締めつけられる。
それはとびきりの恐怖と、背筋を凍らせるおぞましさと――そして、なぜか、言いようのない甘美な刺激とを同時にもたらした。
「ひ……ヒイィ!」
悲鳴を上げ、背中をズリズリと床にこすりながら聖美は後ずさる。
だが、自分の指先からは逃れられない。
グチュ! グチュグチュ! ジュボッ! グジュッ!
まるで雅人の想いが乗り移ったかのように、激しく自らの蜜壷をこねまわす。
強烈な快感が津波のように押し寄せ、聖美の脳を、体を痺れさせる。
「いやっ! いやいや! いやあああああっ!」
【案外難しいもんだね。孕ませるのって】
【“キヨミ”の奴、なかなか妊娠してくれないんだ】
【一ヶ月半くらい、ヒマを見つけちゃ二人で一所懸命セックスしてるんだけど】
(“一ケ月半”……あんなに濃くて、ビュクビュク激しいのを……ああ――)
クラクラとめまいがする。
一番ホルモンの分泌が盛んで、無尽蔵の精力に満ち溢れた思春期の息子の射精を、幾度も幾度も膣奥に、子宮に受け止めた――というのだ。
DVDで見たように、自ら進んで『妊娠させて!』と熱烈に求め、ねだり、まるでさかりのついた雌犬のように腰を振り続けたのだ。
今まで“当たって”いなかったのが奇跡のように思える。
【ママね……あかちゃんがほしいの】
【ママはマーくんのあかちゃんがうみたいの】
【マーくんじゃなきゃダメなの。ママはマーくんのあかちゃんがほしいの】
「ダメよおおっ! そ、それだけは許されないの! そんな……恐ろしい事!」
【ママはねぇ、あしたから“きけんび”なの!】
【しっかり“たねつけ”して、こんどこそママをハラませてっ!】
「い……イヤああああっ! 許して、マー君! お願い……許してええぇ!」
グチャ! グチュ! グチュグチュ! グジュ!
口では必死に否定する聖美だが、体の方はすっかり快楽に呑み込まれていた。
胸元まで引き寄せた両足を宙に掲げ、二本の指を奥深くまで迎え入れる。
それは流し込まれる子種を子宮でしっかり受け止めるための無意識のポーズだった。
(気持ち……いい。ああ。どうしてこんなに……感じる、の? 私……私、もう――)
意識がトロリトロリととろけていくのが分かる。
『母』の理性が、『女』の喜びと『雌』の本能の前に屈していく。
【ま、ママはマーくんのモノなのっ! マーくんだけの“オンナのコ”なの!】
「ち、違うの、私は……ま、マー君の……あう……あうぅ――」
よだれをたらしながらあえぐ。
もう、すぐそこまで絶頂の波が押し寄せていた。
【マ、ママっ! 愛してる! ずっとずっと好きだったんだっ! ママああッ!】
「ううぅ。ダメよお……ダメなのぉ……わたしたち、わたしいぃ――」
もはや、快楽に涙しながら、うわごとのように繰り返すだけで、そこに否定の意志はカケラも残っていない。美しい『雌』は猛々しい妄想上の『若牡』に身も心も捧げようとしていた。
【マーくん! ちょうだい! ママのいちばんおくに、アツいミルクをちょうだい!】
【ママ! ママ! ママあああああっ!】
(ああ……出されちゃう、のね? 赤ちゃん……来ちゃうのね? 私――私、マー君に……マー君と――)
【イクよ! 一緒にイクよ!】
しなやかな全身を叩きつけるように荒腰を使っていた雅人の姿が、頭の中にハッキリと甦る。もはや、限界だった。
「い……イクわっ! イクイクイクイクイクイクうううっ!」
再び全身をのけぞらせ、ブリッジの姿勢で叫ぶ。
プシャッ! プシャアアァッ!
盛大に潮を吹き上げ、ガクガクと激しく全身が震える。
「あおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
獣のような声を上げ、パジャマの上着のボタンを全て跳ね飛ばしながら、聖美はいまだかつて一度も経験した事のない激しい絶頂に達した。
■■■■
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。
ビクン、ビクン、と全身の痙攣が止まらない。
頭がおかしくなりそうなくらい激しい絶頂感だった。
こんな凄まじい快感は、これまで一度たりとも味わった事が無かった。
元々、自慰をする習慣など無く、自分は性に対して淡白な方だと思っていた聖美にとって、それは大げさでなく、まさに世界が一変するような衝撃の経験だった。
(私……私……ああ――)
悲しくもないのに涙がポロポロと溢れては落ちる。カラダが驚いているのだ。
床にあおむけに寝転んだまま、息を整えようとする聖美だったが――
カタン!
小さな物音に敏感に反応し、思わず跳ね起きる。
「……あ!」
いつのまに入ってきたのだろう? 寝室の入口のドアのところに呆然とした表情の雅人が立っていた。
数瞬、何の反応も出来ず、互いにただ見つめ合う。
「い、いやああああああああああああああああああっ!」
先に我に帰った聖美が胸と下半身を両手で隠し、金切り声で叫ぶ。
「来ないでっ! 来ないでっ! 来ないでっ! 来ないでええええっ!」
「ま、ママ……わわっ!」
リモコン、枕、トレイ、フォーク――おろおろと戸惑う雅人に向かって、手近な物を手当たり次第投げつける。
「出てってっ! 出ていきなさいっ! 今すぐっ!」
「あの……」
「出てってええええええええええええええっ!」
バタン。
ドアが閉まり、ようやく聖美は寝室に一人になる。
はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……。
激しい動悸が収まらない。
羞恥と動揺、恐怖と怒り、様々な感情が胸に渦を巻き、聖美はめまいを覚える。
(見られた……のね?)
雅人が身を翻した一瞬、ジーンズの股間が大きく盛り上がり、テントを張っているのが見えた。
間違いない。息子は今の自分の自慰シーンを見て勃起していたのだ。
「私の、あんなトコロを……私の――」
(ああ……)
上気した頬が、さらにまっ赤に染まる。
気付けばひどい格好だった。
ボタンを全て失ったパジャマの上着は大きく前面をはだけ、露わになった豊かな乳房が荒い呼吸に合わせてフルフルと揺れている。胸の谷間を伝う汗の滴が、なんともなまめかしい。下半身は剥き出しで、ヌラヌラと輝く愛液が太股を伝う。
一言で表せば『欲情した雌』そのもの、だった。
(一体、いつから、見てたのかしら? まさか、最初から? ……いいえ。きっと、ドアの外で聞き耳を立てて――)
「……あっ!」
ハッとした表情でドアに駆け寄り、急いで鍵をかける。
二階にあるこの寝室に入るためのドアは一つしかない。
とりあえず、ココさえ押さえておけば、まずは安心だった。
(私……『何か』をされたんだわ。何か、普通じゃない変な事を――)
唇を噛みしめ、今までの事を振り返る。
昨日の昼までの記憶は確かにある。
自分は別荘の門のところまで夫を見送りに行った――それは覚えている。
問題はその後だった。さきほど画面に表示された時刻は、洋三を送り出してから、せいぜい一、二時間程度しか経っていなかった。その短い間に『何か』が起こり、『自分』の意識が失われて、入れ代わりにあの“キヨミ”が現れたのだ。
(そういえば、あのDVD……最後の場面がちょっと不自然だったわ。“あの女”が急に目をつぶって、クタっと倒れこんで……あ!)
直前に雅人が何事かを囁いていたのを思い出す。
「まさか……催眠、術?」
にわかには信じ難いが、今の状況は『雅人が自分に催眠術をかけた』という解釈が一番しっくりくる気がする。おそらく、何かをきっかけにして『自分』の意識を無くし、あの“キヨミ”と入れ換えるのだ。
(私、知らない間に“あの女”になっていたのね? マー君の暗示か何かで――)
「――え? 待って、それじゃあ……」
トン、トン。
「あ、あの。……ねぇ、ママ?」
小さなノックの音と共に、雅人の控えめな声がドアの向こうから聞こえる。
(いけないっ!)
とっさに聖美はベッドサイドのオーディオセットの電源を入れ、CDのプレイボタンを押し、最大ボリュームで音楽を再生する。
洋三自慢のサラウンドスピーカーから、ベートーベンの『第九』が大音量で流れ、ビリビリと窓ガラスを震わせる。
「わ? わわっ? ま……ママ? もしもし!?」
ドアの向こうで雅人が驚き、ノックを繰り返すが、スピーカーから流れる音楽に邪魔され、何を喋っているかまでは聞き取れない。
(たぶん――これでいいはずよね?)
仮に何らかのキーワードで自分が『あんな風』になってしまうとしたら、雅人の声を聞くのは危険だった。
充分にドアから距離を取り、念には念を入れて両手で耳を塞ぐ。
ようやく、状況を振り返る余裕が少し出てきた。
(……私、知らない間に『抱かれて』いたのね?)
“キヨミ”の舌っ足らずな甘えた喋り方を思い出す。
具体的な方法はともあれ、自分の意志とは無関係に、“あんな女”に作り変えられ、おぞましくも恥ずかしい恥態を晒し続けてきたのだ。
ギリッ!
噛みしめられた歯が軋る。
「『抱かれた』? ……ううん、違うわ! 私……『犯された』んだわっ!」
(勝手に……あんな、“カラダだけのインラン女”にされて――)
「私の心とか、私の気持ちとか、全部無視して、勝手に……勝手に“二人”で――」
(――許せない!)
聖美の瞳に怒りの炎がメラメラと燃え上がる。
(見損なったわ、マー君! 卑怯よ! そんな風にママ……女の人のココロとカラダを踏みにじるなんてっ! 許せない!)
「何よっ! 私をあんなバカみたいな“オンナ”に変えて、マー君はセ……セックスさえ出来れば、それでいいのね? 結局、『カラダ』だけが目的なんでしょっ!?」
(そうよ。『私』の気持ちなんて……どうでもいいのよっ! ううん。『私』が邪魔なのね? だから、催眠術なんか使って……こっそり“二人”で――)
「……ふ、不潔よっ! ああ、もぉ! 最低だわっ! バカ! バカ! バカ!」
耳を塞いだまま、床に転がっていた枕をジダジダと踏みつける。
自分でも訳の分からない激しい怒りがこみ上げていた。
(許せないわ! マー君のバカ! どうして、最初から素直に――)
「マー君なんて……マー君なんて……大っキライよおおおおおっ!」
大声で叫ぶと、少しスッキリして、頭が冴えてきた。
ここは山奥の別荘で、今は雅人と二人きり。一番近い町までは二十キロ以上離れており、携帯も使えない――自分が危うい状況に置かれている事を改めて認識する。
「……逃げなきゃ」
(ここにいたら、私、また、“あの女”にされちゃうわ)
知らない間に好き勝手に自分の体を弄ばれるのは、もう我慢ならなかった。
まして、その目的はと言えば――
「絶対、ダメよ……『妊娠』なんて。許されないわよ、そんな……恐ろしい事」
口を尖らせ、小さな声で呟く。
(だけど……)
下を向き、白く滑らかな下腹部にソッと手を当ててみる。
「ひょっとすると……マー君が気が付いてないだけで、もうとっくに“当たって”いて、“デキちゃってる”のかも知れないのよね?」
そう言いながら、ここ最近の体調を振り返ってみたが、つわりや味覚の変化など、該当しそうな兆候は特に思い当たらない。
(……でも、あんなにドロッと濃くて量も一杯で、すごい勢いでビュクビュクするのを、何度もナカに出されちゃったら――)
「妊娠……してない方が、おかしいわ。……そうでしょ?」
なんとも複雑な表情で下腹部を撫でる。
おぞましく恐ろしい事、決してあってはならない事なのに、何故だか、一向に嫌悪感が湧いてくれない。
いや。それどころか、なにかウズウズと期待に満ちた情感が胸に揺らめく。
「私と……マー君の、赤ちゃん」
(ああ――)
口にすると、また、キュンと得体の知れない甘い疼きが体の芯を痺れさせる。
知らぬ間に乳首が硬く尖り、トロリと熱いモノが花弁に溢れてくる。
まるで先程の絶頂が、貞淑で慎み深い聖美を、カラダの内側から狂わせてしまったかのようである。
「私、また……『ママ』になっちゃうのかしら?」
そっと自分に問いかけると、ゾクゾクと背筋が震え、鳥肌が立つ。
(……いけないわ。いけない事よ。そんな、恐ろしい……おぞましい――)
だが、本人も気付かぬうちに口元に不思議な微笑みが広がり、平らな下腹部をさする手にゆっくりと情感がこもり始める。
(ああ、困るわ。どうしよう? パパに……言い訳出来ない)
「きっと……離婚されちゃうわね?」
不吉な言葉を口にしながらも、今聖美を支配しているのは不安や恐怖よりも、遥かに強い感情だった。
まるで初産を告げられた新妻のように、ふんわりと喜びの笑みを浮かべ、呟く。
「赤ちゃん。可愛い……私の、赤ちゃん――」
(……ハッ!)
「な、何を言ってるのよ! バカねっ!」
我に返り、ブルブルと頭を振って陶酔感を追い払う。
(とんでもないっ! 万が一にもそんな事が起きないように、ここから逃げ出すのよ! 大体……もし、仮に“そうだった”としても、私、“出来た時の事”を、全然覚えてないじゃない!)
せっかく柔和な笑顔を浮かべていた聖美の顔が、強張りはじめる。
「……そうよね。覚えてるハズ無いわよね。だって……『私』じゃないんだもの!」
しばし、遠のいていた怒りが、またこみ上げてくる。
自分は常に『除け者』だったのだ。
雅人と“キヨミ”が乳繰り合うのに夢中な間、『自分』はどこにもいなかった。
“二人”の間で、すっかり『無価値』な存在に貶められていたのだ。
(……もう、イヤよ。許さないわ。二度とあんな事させるもんですか!)
雅人が“キヨミ”に向けていた視線、優しい声、仕草を思い返す度に『決して会わせてなるものか!』という意地悪な気持ちが胸に膨れ上がっていく。
(アナタになんか負けない! 『私』の体は『私』のものよ。絶対に渡さない!)
自分で自分に嫉妬しながら、自分から自分に宣戦布告――そんな奇妙な状況を気にも留めず、聖美は心に固く誓う。
■■■■
「やっぱり、ここもカラッポ。……やられたわね」
クローゼットの引出しを開けながら、聖美は唇を噛む。
両手が使えるようにヘッドホンで外音を遮断しながら、目下、必死に替えの服を捜索中である。
ここから逃げ出すには、まず何はともあれ、着替えなくてはならない。
緊急時とは言え、さすがにぐっしょりと愛液に濡れたパジャマのズボンと、ボタンが全部弾け飛んだパジャマの上着のみで外に出るのはためらわれた。
だが、悪魔のような息子は、そんな聖美の行動などとっくにお見通しだったようで、昨日トランクで持って来たはずの衣類がどこにも見当たらない。衣類は全て畳んで寝室のクローゼットにしまったのに、今見ると女性用のベルトが一本下がっているだけだった。
どうやら、昨日のうちに密かに全て持ち去られてしまったらしい。
それだけではなく、財布も携帯も、昨日洋三から受け取った車のキーも見当たらない。当然のように、寝室にある電話も通じなかった。身を守る武器になりそうなものと言えば、フォークとバターナイフくらいである。
つまり、今の状態を一言で表せば、ていの良い『軟禁状態』だった。
「我が子ながら、ホント、手回しがいいわねぇ」
なかば呆れながら、ため息をつく。
(……でもね、マー君。女のおしゃれの工夫を舐めないでちょうだい)
キングサイズのベッドに使われている特注の大きなシーツを古代ローマ人の着ていたトーガのように体に巻き付け、ベルトで止めて簡易ドレスにする。
布地が多すぎて少々動きにくいが、なんとか『ちょっと不自然』程度の見栄えにはなってくれた。
「これで服は良し、と」
改めて逃げ出す算段を考え始める。
ドアから出る案は最初から捨てた。出入口は一つだから、そこを待ち構えていないはずがない。
「……となると、ちょっと怖いけど、やっぱり――」
ベランダの外に目をやる。
大きな白樺の木の枝が手の届きそうなくらい近くまで伸びている。
枝も太いし、運動神経の無い自分でも、なんとか飛び移れそうだった。
靴がベランダにあったサンダルなのは少々不安だが、玄関まで取りに行くのはどう考えても危険過ぎる。
(さて。下に降りられたとして――どう逃げたらいいのかしら?)
徒歩で何キロも山道を下るのは仕方無いとして、雅人はサッカー部で鍛えた俊足である。どれほど先行しても、アッという間に追い付かれてしまうだろう。
(えーと……一旦逃げ出したと見せかけて、家のそばに隠れて、マー君が探しに出たら、家の中に戻って、車の鍵を探して――って、そんなにうまくいくハズないわよね)
これだけ用意周到な雅人が、そんな重要なものをすぐ見付かる場所に置くはずがない。それに、別荘の周りに聖美が簡単に隠れられそうな場所はほとんど無かった。
クモやらヤブ蚊やらがひしめく深い茂みの中に今の格好で潜り込むのは相当な勇気が必要――というか正直、聖美には無理だった。
(車のガラスを割って……も、映画みたいに、鍵無しでエンジンなんかかけられないし、マー君、きっと音で気が付くわね。ああ。こんな事なら、真面目に無線機の使い方を覚えておけば良かったわ。もっとも、マー君の事だから、アレだって、とっくに壊すか隠すかしてるんでしょうけど)
「むーーーーー」
難しい表情でベランダの外を見た聖美の目に、きらきらと光る美しい湖面が映る。
(……あっ! ボート!)
まだ雅人が小さかった頃、ボートを買った事を不意に思い出す。
結局、数回しか使った事は無いが、親子三人で乗っても沈まない、オール付きの本格的な手漕ぎボートだった。今も別荘の裏手に雨ざらしになっているはずである。
「そうよ……アレで、向こう岸まで行ければ――」
湖の向う側には、普段使っている『ふもとから別荘に至る道』とは、直接の繋がりの無い林道があった。
初めてこの別荘に来る時に、地図でルートを確認し『こっちの道は使えないわ!』と、残念がった記憶がある。確か、人里までの距離はこの林道の方が短かったはずだ。
湖の周りは大半が深い森に囲まれているため、湖の外周にそって陸路で対岸に到達するのは極めて困難だった。つまり、一隻しかないボートで湖を横断すれば、逃げ出せる可能性はかなり高くなる。
(マー君はあっちの道の事は知らないはずだわ。うまく見付からずに向こう岸まで行ければ万事OKだし、もし途中で見付かっても、泳いで渡るしか方法が無かったら諦めてくれるんじゃないかしら……ダメかな?)
かなり甘い見込みだと分かっているが、カナヅチでうまく泳げない聖美は無意識に『もし自分だったら?』と仮定し、なんだかうまくいきそうな気になっていた。
(――そうよ。向こう岸はあんなに遠いんですもの。きっと諦めてくれるわ)
実際のところ、『いつも使っている道』を脱出経路として選択するのに比べれば、幾らかマシなアイデアに思える。雅人の場合、ことによると車を運転して追って来る事さえ考えられる。
(よし! そうと決まったら早く出なきゃ!)
陽があるうちに人里までたどり着くためには、ぐずぐずしてはいられない。
聖美はさっそく行動を開始する。
■■■■
(そーっと、そーっと。音を立てないように……)
ボートは聖美の記憶通り、ロープで吊られ、別荘の裏手の木に立てかけられていた。
ロープの縄目を解き、急に倒れないよう手で支えながら、ゆっくりと地面にボートを横たえる。何年も野ざらしになっていたため表面のプラスチックが色褪せ、なんだか、やけにみすぼらしい。
(大丈夫……かしら?)
「……まぁ、乗れればいいのよ。乗れれば。うん」
心に浮かんだ不安を無理矢理ねじ伏せる。
(そうよ。もう、部屋にも戻れないんだし――)
木の枝を伝ってベランダから下まで降りるのは思ったより簡単だった。
後は雅人に気付かれる前に、一刻も早く湖に出なくてはならない。
もし、雅人が寝室に入ったら、どこから逃げ出たかはすぐに分かってしまうだろう。
幸い別荘の裏手にあたるこちら側に窓は少なく、直接見つかる可能性は少ないが、いつバレるかと思うと気が気ではなかった。
(……あ)
大音量で流れていた『第九』が、不意に止んだ。
「ま、マズいわっ!」
リピート再生にしておいたので自然に止まる事はありえない。雅人が寝室に入った証拠だった。もはや一刻の猶予もならない。
ほんの三メートルほど先の斜面を下るとすぐ湖である。もう、多少の物音を気にしている場合ではなかった。
(お願い! 気付かないで!)
必死で押し出すと、ボートは数回バウンドしながら斜面を下り、滑べるように湖面に着水した。角度が良かったのか、うまい具合にほとんど水音も立たなかった。
「大! ……せいこう」
思わず、叫びそうになった口元を慌てて押さえ、周りを見渡す。
(気付かれて……なさそうね?)
急いで、オールを抱え、斜面を降りる。
ボートに乗るのは数年振りだが、なんとかうまく漕ぎ出す事が出来た。
「早く! 早く!」
岸に近いうちに発見されるのではないかとヒヤヒヤしたが、ありがたい事にその心配は杞憂に終った。
(……よかった。マー君、あっちの道の方を探しに行ったのね?)
必死に漕いだおかげで、すぐに岸からかなり離れる事が出来た。仮に雅人が今から気付いても、もはや泳いで追い付く事は不可能だろう。
ホッと一息つき、恐ろしい企みから、まんまと逃げおおせた喜びに浸る。
「ふふん。残念ねー、マー君。もう“恋人”には会えないわよーだっ!」
徐々に遠く小さくなっていく別荘に、勝ち誇るように舌を出した聖美は、そこで初めて我に返る。
(……えと。どうしよう、これから?)
向こう岸の林道まで辿り着き、近くの町まで降りられたとして、それから自分はどうすればいいのだろう?
洋三に連絡して、迎えに来てもらい……それから?
「そうね。私達……もう、普通の親子じゃいられないのね?」
雅人の笑顔を思い浮かべる。
禁じられた想いを歪んだ形で叶えようとした息子はこれからどうなるのだろう?
こうなってはもはや、お互い顔を合わせる事さえ難しい。
洋三をこちらに呼んだとして、雅人を相手に何をどう話せるだろう?
諦めろ、と簡単に言えば済む話だろうか?
洋三なら、間違い無くそう言うだろう。だが、これほど愛を注いだ相手を奪われて、雅人は素直に言う事を聞くだろうか?
いや……そもそも、『たった今、目の前から自分がいなくなった事実』を、雅人はどのように受け止めたのだろう?
今頃、半狂乱になって探しているのではないだろうか?
このまま、自分がうまく逃げおおせたとして、独り取り残された雅人は一体どうするだろう?
(マー君、まさか――)
次第に募りゆく不安に、解放感がどんどんしぼんでいく。
「……でも、それじゃあ、私はどうしたら良かったって言うの!? 黙ってそのまま、マー君のしたいようにさせれば良かったの? 冗談じゃないっ! そんなの……そんなのおかしいわ!」
むりやり、怒りを掻き立てようとするのだが、どうもうまくいかない。
【マ、ママっ! 愛してる! ずっとずっと好きだったんだっ! ママああッ!】
雅人の叫び声が耳に谺する。
今思えば、あれはまさしく『自分』への愛の告白だったのではないだろうか?
仮に雅人が本当に人の心を自在に操れる能力を持っているとして、ただ性欲を満たすだけなら、わざわざ『自分』に『認めて』もらう必要などないではないか?
本当は“キヨミ”ではなく、『自分』を愛している、と伝えたかったのではないだろうか?
『ママに……僕の、“恋人”を紹介したいんだけど』
(……マー君、緊張してた)
いつもクールな雅人。用意周到に立ち回る雅人……だが、一体、どこまでが本当の姿なのだろう?
なまじ、簡単に人の心を操れる方法を手に入れてしまったために、息子は『相手の本当の気持ちを知るすべ』や、『自分の本当の気持ちを素直に表す方法』を失ってしまったのではないだろうか?
あのDVDを、『歪んだ純情の吐露』と受け止めるのは、愚か過ぎるだろうか?
「マー君の……バカ」
(もっと早く……もっと素直になってくれてたら……ううん、気が付かなかった私も私ね。私達、二人とも大バカなんだわ。だけど――)
全てはもはや手遅れだった。
今更、引き返す事も、留まる事も出来ない。
「もう……進むしか無い、のね――」
言いようの無い切なさが胸を締めつける。
広い湖面に独り、ぽつんと浮かんだ聖美は、急に全てが虚しく思えてきた。
これまで十*年間、何より愛し慈しんできた一人息子を置き去りにして、自分はどこに辿り着こうというのだろう?
一体、何から逃げ出し、何を求めているのだろう?
(ねぇ、マー君……ママ、一体、どうすれば良かったのかな? 何か他にもっと良い方法、有ったのかな? ごめんね……ママ、思い付かないの)
空を見上げ、ジワリと涙が浮かべた聖美は、そこでふと、足元に違和感を覚える。
ちゃぷ。ちゃぽ。ちゃぷん。
「……え?」
つま先が水に触れている。
いつのまにか、ボートの中に水溜りが出来ていた。
「あれ? 何で? 何で、水溜りが……」
――いや。すでにボートの底面の半分以上を占める“それ”は、もはや、“水溜り”
とは呼べないだろう。
(……嘘)
聖美は思わず、我が目を疑う。
ボートの側面に、大きなヒビが入っていた。
おそらく長年雨ざらしで経年変化で脆くなっていたところへ、斜面を滑り降る時に、岩にでもぶつかったのだろう。
今もそこからチョロチョロと水が染み出し続けている。
「う、嘘でしょ? ……ねぇ! 嘘でしょっ!?」
サーッと血の気が引くのが分かった。
(私、泳げないのに――)
もはや、ボートが沈むまでの猶予はあまり残されていない。
慌てて、岸の方に戻るため方向転換しようとするが、浸水して水の抵抗が増したボートは、なかなか言う事を聞いてくれない。
「……は、早く! 早くっ!」
焦りながらようやく百八十度進行方向を変え、岸に向かって漕ぎ出した聖美の背中に血を吐くような悲痛な叫び声が突き刺さる。
「ママあああッ!」
「……ヒッ!」
後ろを振り返ると、美しいフォームで湖に飛び込む雅人の姿が見えた。
(見付かった!!)
タイミング的に最悪だった。
向こう岸に到達するのはもはや不可能だが、これでは元来た岸に戻る事も出来ない。
「いや……いやよ、来ないで……お願い……来ないで――」
聖美はすっかりパニックに陥っていた。
不安定なボートの上で立ち上がり、おろおろと周りを見回す。
雅人はこちらを目指して一直線に泳いでくる。
もはやどこにも逃げ道は無い。
「ママッ! 待って! ママあぁッ!」
叫びながら、雅人は見事なクロールでぐんぐん距離を詰めてくる。
あとほんの十メートルほどで辿りつかれてしまう。
(どうしよう……どうしよう……どうしよう……)
思い余った聖美はオールを手に取り、ボートの縁を叩いて大声で叫ぶ。
「こ、来ないでっ! いい? 来たら……な、殴るわよっ!」
「……ママ」
前進を止めた雅人が、驚きの表情で聖美を見つめる。
(――マー君)
雅人の傷付いた表情が、聖美の心にチクリと罪悪感を呼び起こす。
見捨てられた迷子のように、ただただ必死なその様子は、悪魔のように邪悪で淫らな計略を巡らした張本人とはとても思えない。
(……何よ? どうして、そんな顔するのよ? 私が……悪いみたいじゃない?)
聖美は、心の中に渦巻く怒りと恐怖を手放さぬよう、必死で声を張り上げる。
「イヤよ! 絶対にイヤ! 近寄らないでっ!」
オールを振り上げた手が震える。『恐怖』でも『怒り』でもなく、『戸惑い』が心を大きく揺らす。
(でも、私……何が『イヤ』なんだろう?)
「ママ……どうして?」
あれは……涙だろうか? 雅人の顔が歪み、口元がわななく。その様子は、まるで幼い子供のようだった。
「ど、『どうして』ですって!? 当り前でしょ?! 私はあなたのママなのよ!」
(――ううん。ホントは私、そんな事を問題にしてるんじゃないわ)
「あんな……あんな事、許せるわけないじゃない! 人の体をなんだと思ってるの? バカにしないで! あなたは結局、私を性欲の捌け口にしたいだけでしょ!?」
(ああ。私、こんな事、言いたくないのに。ホントは……ホントは……)
「ママ……違うよ。僕は――」
「言い訳なんか聞きたくないわっ! あなたは卑怯よ! 私の知らないうちに勝手に『私』を“あの女”に変えて……何が『恋人』よ! カラダだけが目的じゃない! 『私の気持ち』なんかどうでもよくって――私、あんなにみじめで……悲しくて……悔しくて……」
(あ。やだ。私――)
「……ま、ママ?」
ポロポロと涙が溢れて落ちる。
もう押さえる事など出来なかった。
「マー君のバカッ! 大っ嫌い! 何が、“キヨミ”よ! 『私』が邪魔なんでしょ? いつでもセックス出来て、何でも言う事聞くお人形が欲しいだけじゃない! 自分勝手で『私』の気持ちなんか知ろうともしない――あなたは結局、パパと同じだわ!」
「そ、そんな――」
激しいショックを受け、雅人が固まる。
(私、気付きたくなんかなかった……自分がこんなに孤独で、みじめだなんて。誰も『私』の事なんか要らない。もう、マー君にも必要とされていない。『カラダ』を使われるだけなんて……思い出さえも残らないなんて――そんなの、イヤよ!)
「……どうしてなの?」
恨みがましい視線でキッ!と雅人を睨みつける。
(どうして、『私』を選んでくれなかったの!? そんなに『私』が嫌い? あんな女のどこがいいの? 顔だって体だって、全部同じなのに……それなのに――)
「え? な、何が?」
いきなり問われても、皆目見当のつかない雅人はただ問い返す事しか出来ない。
キョトンとしたその顔が、たまらなく憎たらしく思える。
「マー君のバカああぁ!」
(こんな気持ち、知りたくなかった。今だってホントは嬉しいの。見つけてくれて、追いかけてくれて……喜んでるの。ドキドキしてる。ときめいてる。――でも、そんな自分が許せない! マー君が欲しいのは……追いかけてるのは『私』じゃないわ。“あの女”なんでしょ? “二人”でこれから愛しあうつもりなのね? ……イヤよ! そんなの絶対にイヤ!)
「わ、私だって……私だって……私……」
(抱かれたいのよっ! あなたにっ!)
嫉妬、怒り、恐怖、羞恥、不安、孤独、切なさ――言葉にならない様々な思いが、後から後から涙の滴になって落ちる。
聖美は顔を覆い、ただ子供のように大声で泣きじゃくる。
「うっく、うぅ……うあ、うああああああああああぁぁ!」
「……ママ」
激しく泣き出した聖美を雅人はどうしてよいか分からず、おろおろと散々迷った挙げ句、静かに泳いで近寄ろうとする。
「こ……来ないでって! 言ってるっ! でしょおおおおっ!」
近付いてくる雅人に気付いた聖美は、かんしゃくを爆発させ、オールを振り廻す。
「あ! ママ、あぶないっ!」
(……あ)
世界がグラリと傾ぐ。
ザッパーン!!
途端に刺すように冷たい水が全身に襲いかかる。
一瞬、上下感覚を失った聖美は、パニックに陥る。
(――溺れるっ!)
光の射す方向へ出ようと必死にもがくが、シーツで出来た即席ドレスの布地の多さが災いしてうまく動けない。水に濡れた生地が両足にまとわりつき、バタ足で必死に浮きあがろうとする聖美の労力の大半を吸収してしまう。
「げふっ! げほっ! げぶっ!」
両手で死にもの狂いで水を掻き、水面に上がろうとするのだが、ほんの一瞬、顔を上げてはまた沈むの繰り返しで、大量に水を呑んでしまう。
半狂乱になればなるほど、事態は悪化していく。
布地に足が絡まり、ついに完全に動きが止まる。
(いやよっ! いやっ! 助けて!)
「ま、マーく……がはっ!」
「ママああああああっ!」
雅人の悲痛な叫び声が、意識を失う前の最後の記憶だった。
< 続く >