キャッツ・アイ 第10章

第10章

~ZEUS ゼウス~

某所 使用人室 AM6:00――――――

「ぐぅ! んっ! ごっ! おっ、おっ、むぅ!」
 日の射してきた部屋に、異様な音が一定のリズムを刻んでいた。
 アケミは男のモノを咥え、赤い猫の目をギラつかせながら、頭を前後に揺さぶってしゃぶっていた。咥え始めてから、かれこれ1時間程になる。傍らには、その1時間前に、男に口内に精液を放たれたマナミが、身体を胎児のように丸めて横たわっていた。糸の切れた操り人形のように、床に全裸で横たわったままピクリとも動かない。うっすらと開いた目は、元のオレンジの目に戻っていた。同じく半開きになった小さな口からは、今しがた男から受け取った白い液が、ダラダラと流れ出ていた。

 マナミは、完全に失神していた。男の精子を口で受け取った瞬間、彼女は催眠で支配されたその意識さえもブツリと途絶え、そのまま正に人形の如く眠りに堕ちた。これは男の暗示による物だった。そしてアケミに命じて、マナミを横に退かせると、アケミの待ちに待った奉仕の時間が始まった。

 それから一時間。発射してすぐ、と言うのもあったが、それでも、アケミの奉仕によって男のモノは既に二度目の発射を迎えようとしていた。しかし、アケミの上手さなのか、その限界の状態で程良く保たれたまま、男への奉仕は更に続いていた。

 男はそのギリギリの心地よさを楽しんでいた。アケミは絶妙に男のモノをしゃぶるスピードに緩急をつけながら、男がイってしまわないように保ちながら、フェラを続ける。
「まったく、彼氏もいないってのに、お前のそのウマさは何なんだろうな・・・」
 幸せそうにしゃぶり続けるアケミを見ながら男は少し苦笑した。しかし、この娘は確かに素質があったに違いない。
「俺の目に狂いはなかった訳だな」

 男は呟き、フゥと一息吐いた。いつまでも楽しんでいたいが今日に限っては時間が厳しい。男はアケミに命じた。
「アケミ。終わらせろ」
 ゆっくりと舐めるようにしゃぶっていたアケミはその一言に反応して一瞬動きを止めると、またゆっくりと頭を揺らし始めたが、今度はそのままどんどん加速し始めた。

「くぅ、いいぞ、その調子だ・・・」
 一気に攻め上げて来る快感を感じながら、男はにやりとほくそ笑む。
「出すぞ。最高傑作のイキ顔、たっぷりと見せてくれ・・・!」

 アケミの頭の動きが止まった。ブシュウ、と、男が放つ精子を口に含むと、すぐに変化が現れた。

「あ・・・あぁぁ・・・」
 口内にあふれた精液を味わうと同時に、身体がビクビクと跳ねる。男のモノから口を離し、男のモノを掴んでベトベトになった小さな手がズルリと垂れさがると、アケミはガックリと項垂れ、正座するように跪いたまま完全に失神した。オレンジ色に戻った目はぼんやり床を見つめ、ポッカリ開いた口からは、ダラダラと白い唾液が溢れ、形良い白い乳房から、溶岩のようにドロリと奴隷猫の身体を伝い降りていく。

 ジョロジョロ・・・という音に下を向くと、失神して気が緩んだのか、アケミが漏らした小水が絨毯を濡らしていた。
「座ったままで・・・これは中々良いオブジェだ。やはりこいつは傑作だな」
 美少女のこの上ない痴態を間近で堪能すると、男は持っていたボタンを押した。ある者を呼び出すブザーを鳴らすボタンだ。

 しばらくすると、部屋の扉が開いて、一匹の奴隷猫が入って来た。眩しいほどに輝くルビーが、これでもかと言う位に散りばめられ、某歌劇団の衣装のように、オレンジの羽で縁が彩られた、情熱的な真っ赤なレオタードを着た奴隷猫だ。その紅い首輪に光る金のジュエリーは、「D」という文字を象っている。「DESIRE(ディザイア)と呼ばれる、キャッツの幹部で、「ティーチャー」、「チーフ」と同じく、男によって最初に洗脳された元女子大生だ。化学の分野に明るく、更に宝石の類にもかなりの知識がある。キャッツ・アイの生成にも大きく貢献した奴隷猫だ。

 また、奴隷猫へと堕ちた少女たちの健康、生活の管理も行っており、ティーチャーと競合して、奴隷猫達の「しつけ」、「暗示」の浸透度の統計も任されている。

「お呼びでしょうか、ご主人様」
 ディザイアは恭しく「猫の礼」をした。
「この二匹のテストが終わった。『仲間入り』の準備を仕立ててやれ」
 男はズボンを履きなおし、ベルトを締めながら、失神して眠っている二匹を顎で示しながら言った。

「かしこまりました。ご主人様」
 ディザイアは、二匹を愛おしげに見ると、ニコッと優しく微笑んで言った。ディザイアには、奴隷猫達に愛を持って接するという人格が植えつけられている。奴隷猫達の「しつけ」で、ティーチャーやチーフが厳しい「ムチ」の部分だとすれば、ディザイアはそれと対になる「アメ」の部分と言える。

「他の奴隷猫達の準備はどうだ」
 男が言うと、ディザイアは凛々しい表情に戻って応えた。
「はい。全て整っています。あとは、この二匹だけですわ」
 それを聞いて、男は満足げに数回頷いた。
「なら、早急にこの二匹の準備を進めてくれ。俺は少し仮眠をとる。儀式は3時間後だ」
「かしこまりました。ご主人様。お休みなさいませ」
 ディザイアの礼を背に男は部屋を後にした。男が出ると、ディザイアが鈴を鳴らす音が聞こえた。

「さあ、子猫ちゃん、起きましょうね・・・」
 文字通り、猫なで声でディザイアが言うと、「ミャ~ン・・・」と、二匹の子猫の可愛らしい声が聞こえてきた。
「フッ。10匹の『仲間入り』か・・・。今回は荘厳な儀式になりそうだ」
 そんなことを考えながら、男は朝日を取りこんだ屋敷の長い廊下を歩み始めた。

K大学 教授室 AM8:30――――――

「もしもし、ああ、春村プロデューサー。先日はどうも。いやぁ、あんな日本を代表するアイドルと番組で共演させていただいて、ありがとうございました。実は私も、あんな可愛い女の子達に囲まれて、この年で恥ずかしながら緊張してしまいましたよ・・・え、なんと・・・? それは本当ですか? まさか、全員そろって・・・? いえ、私には何とも。彼女たちと会ったのはあの一回きりですし・・・。このことはマスコミには? ・・・そうですか・・・ええ、確かに、マスコミにはまだ知らせない方がよいでしょうね・・・。ええ、もちろん。私でよければいつでも相談に乗りますよ。ええ、では・・・」

 K大学の老教授、奥山 重蔵(おくやま じゅうぞう)は、受話器を置くと、部屋から見える中庭を見下ろした。女子生徒が二人、並んで歩いているのが見える。一人は短いスカート。もう一人はピッチリとしたデニムを履いている。

「第一大講義室・・・いや、第三・・・だったかな・・・?」
 最近は物忘れがひどくて困る。そんなことを考えていると、教授室のドアがバン、と開き、一人の男が入って来た。助手の藤森だ。

「失礼します! 教授、あの・・・」
「藤森クン、『失礼します』はドア開けて、部屋に入る前に言うものだ。それと、そのドアは古くて痛んでいるから、ゆっくり開けておくれ」
 奥山が穏やかに諌めると、藤森はいつものようにアワアワとたじろいで、しかし急いで要件を告げた。

「す、すみません、でも、さっき、その、警察の方がいらっしゃっていると・・・」
 藤森の一言に、奥山は怪訝な顔をした。
「警察が? 何故?」
「ええと、教授に、お話を伺いたいと・・・あの、岡崎 直紀さんのことで・・・教授は、彼の恩師だということで・・・」
 岡崎 直紀という名を聞いて、奥山はアワアワと話す藤森をよそに、しばし考えを巡らせた。話し終えた藤森がその沈黙に困っていると、やがて奥山は「ああ」と一人納得した。

「藤森クン」奥山が口を開いた。
「は、はい」
「ハルカゼ・セブンって知ってる?」
「はい。・・・はい?」
 知ってるも何も、ハルカゼ・セブンは今や日本を代表するアイドルグループだ。10代後半の若い女の子で構成される7人のグループで、メンバーにはそれぞれ、リーダーの「さくら」をはじめ「なずな」など、春の花に因んだ名がつけられている。ファンの層は多様で、男はもちろん女子、女性からも絶大な人気を誇る。

「でも意外ですね。教授も今話題のアイドルは知ってるんですねぇ」
「失踪したらしいよ」
「は・・・え・・・?」
 奥山が穏やかに言った一言に、藤森は目と口をポカンと開いた。
「今朝、突然。7人全員」
 奥山は相も変わらず穏やかに続ける。
「でも、これ、まだ内緒ね」
 そして、穏やかに締めくくった。

某所 シャワー室 AM8:30――――――

 大理石張りの少々狭めの個室で、アケミは座っていた。裸で、そして更に今までシンプルに纏められていた髪が下ろされ、サラサラの黒い髪がその肩まで垂れている。それに、彼女はただ座っているわけではない。まるで幼児のすわる「おまる」のような小さなイスに、両足を一杯に広げてMの字で座っていた。両の手は後ろで指同士を絡ませるように固く組まれている。そんな淫らな格好でも、アケミは全くの無表情で、大理石の壁をボンヤリと見つめていた。しかし、口には胃カメラの時に口にはめ込むような器具を咥え、どうあっても口が閉じられないようにされている。

 隣の個室には、全く同じ格好で、マナミが座っている。彼女達は待っているのだ、これから始まる最後の「仕上げ」を・・・。

 これはディザイアの指示だった。ここは奴隷猫専用のシャワー室。いつもは各群れで決められた時間に、個室に「2匹づつ」の奴隷猫が入り、一日の仕事や奉仕で汚れたその身を「洗浄」するのだが、仲間入りを控えた奴隷猫候補の娘達には、少し変わった「洗浄」が施される。それが・・・

「お待たせ、子猫ちゃん・・・」
 アケミの個室の扉が開くと、ディザイアが入って来た。彼女もまた裸で、アケミやマナミとはまた違う、大人の女性の艶めかしい身体を晒していた。そしてその手には一本の透明な瓶があった。瓶の口の部分には、ゴムでできた、女の乳房を象った飲み口・・・哺乳瓶だ。中は白い液体で満たされている。

「さあ、可愛いお身体をキレイにしましょうね~」
 ディザイアはまるで赤ん坊に言うように囁くと、手に持っていた哺乳瓶を、アケミの「閉じられない」口に突っこんだ。通常の哺乳瓶は赤ん坊が自分で飲み口を吸わなければミルクは出ないが、この哺乳瓶は逆で、ディザイアが瓶をスポイトのように軽くつまむと、否応なくアケミの口内に液体が発射された。

「ン・・・グ・・・ンン・・・」
 容赦なく口内に出される「ミルク」を、アケミは必死に飲み込んでいく。ディザイアは、アケミがムセない程度に、止めどなく「ミルク」をアケミの口内に注いでいく。
 暫くの間、アケミが「ミルク」を飲み込む音と、ディザイアが哺乳瓶をつまむ音だけが、狭いシャワー室に響いた。

 やがて、アケミが「ミルク」を飲み干した。
「はい、良い子ね。ちゃんと全部飲みましたねぇ」
 ディザイアは相変わらずの猫なで声で言った。アケミはというと、少し様子がおかしい。やはりぼんやりと座っているのだが、その身体は小さく震え、時折「あ・・・あっ・・・」と蚊の鳴くような声を上げている。その様子を見て、ディザイアは小さく微笑んだ。

「もう少し我慢してね。これからあなたに『仕上げの暗示』を入れるから」
 ディザイアはそう言うと、アケミの額に自分の額をピッタリとくっつけるように顔を寄せ、囁いた。

「今からあなたの中の余計な物が、下のお口から出て行きます。あなたの中に残った、不必要な記憶、心の残骸が、下のお口から全部出て行きます。それはとっても気持ちいい。あなたの身体は内側からキレイになって、完璧な奴隷猫へと変わって行きます。空っぽ。真っ白。あなたの身体には、自分が奴隷猫であること。ご主人様にお仕えすること、そう、今日教えられたことだけが残されます。それだけがあなたに必要なことで、これから先も、それ以上の事は何一つ必要ではありません。ただ服従するのです。ただ従うのです・・・」

 ディザイアが言うと、アケミの身体の振動が大きくなってきた。その振動に応えるように、アケミの閉じられない口からは「ああっ・・・ああっ」と、絶え間なく声が漏れ始める。

「さあ、出てくる。いっぱい出てくる。そしてキレイになっていく。さあ・・・」
 ディザイアがはやし立てるように囁く。アケミの身体が激しく揺れる。そして・・・

 シャァァァァァァァ・・・・・・

 アケミは座っている容器の中に激しく放尿した。何度も放尿させられているせいか、透明な水のような液体が容器を満たして行く。
 アケミが飲まされた「ミルク」は利尿作用のある幼児用の薬液に、強力な催眠効果のある薬を混ぜたものだ。常人なら、たちまち意識が混濁し、昏倒するところだが、深い催眠状態にある彼女達には、更に深く安定したトランスをもたらす効果がある。さらに、麻薬や睡眠薬のように人体に大きな影響を与えることも殆どない。

 再び深く催眠をかけられたところで、もう一度ダメ押しの忘却暗示を与える。性行為と並び、人間に抗しがたい快楽をもたらし得るものは、排泄の快感である。その快感も相まって、彼女達は確実にその暗示に支配されていく。

「あぁぁぁぁぁ・・・・」
 アケミは幸せそうに喘ぐと、目を細め、脱力していった。ディザイアはアケミから離れると、優しく笑みを浮かべた。
「全部出たわね。これであなたは完全に空っぽ。もうあなたの中に余計な物は残ってはいないわ」

「はい・・・ぜんぶ・・・だしました・・・わたし・・・からっぽ・・・きれい・・・えへ・・・えへへ・・・」
 崩壊したように不気味な笑みを浮かべながら呟くアケミを見て、ディザイアは満足そうに頷いた。
「こっちに来なさい」
「はい、ママ・・・」
 ディザイアに従い、アケミは立ち上がる。彼女達奴隷猫にとって、ディザイアは母親なのだ。

 アケミが歩み寄ると、ディザイアは蛇口を捻る。壁に付けられたシャワーの口から、生温かい湯が降り注ぎ、アケミを濡らした。
「気持ちいいでしょう?」
「はい・・・ママ・・・」
 ぼんやりと笑みを浮かべながら、アケミはディザイアにされるがまま、その身体を濡らしていった。ディザイアも、自らシャワーに濡れながら、その身体をアケミに刷り寄せて行く。
「さあ、外側もキレイになりましょうね・・・」
「んあっ! あ・・い・・・ママぁ・・・」
 乳房を刷り合わせられ、喘ぎながら、アケミは従った。

 淫らな「洗浄」の最中にも、それは行われる。
「今から私が言うことを練習して、『仲間入り』の儀式の時にご主人様の前で言うのよ」
「はい・・・ママ・・・」
 シャワーに濡れるアケミの身体を後ろから抱きながら、ディザイアは今一度囁いた。
「私、アケミは、ご主人様の奴隷猫です」
「わたくし・・・アケミは・・・ごしゅじん・・・さまの・・・どれい・・・ねこ・・・です・・・」
 深い催眠と柔らかな興奮で、舌が回らないながらも、アケミはディザイアの言葉を復唱して行く。
「私はご主人様に、永遠の忠誠を、誓います」
 それは紛れも無く「猫の誓い」であった。男に忠実な奴隷となることを誓う言葉を、奴隷猫達はこの時に覚えさせられるのだ。
「わたくしは・・・ごしゅじんさま・・に・・・えいえん・・の・・・ちゅうせいを・・・ちかい・・・ます・・・」
 自分で口にしている言葉の意味も理解できなくなっているアケミは、ただただディザイアの言うままに復唱し続けた。

K大学 中央棟 応接間 AM9:00―――――――

 まるで高級ホテルの待合室のような、豪華で落ち着きのある部屋。その中央に、黒みのあるスケルトンテーブルを挟んで向かい合うように置かれた茶色い大きなソファに、山口は座っていた。かれこれ30分程待っているが、仕方がない。何しろ平日の早朝にアポイントメントも取らずに押しかけたのだ。しかも相手はこの大学を代表する名誉教授。対応に手間取るのも無理はない。そして、それこそが山口の、いや、岸田の狙いだった。

 これは岸田の指示だった。
―――このヤマはかなり大掛かりな組織が関わっているかもしれん。催眠で何人もの娘を失踪させるなんて、いくら天才精神医とはいえ、個人の行動レベルで出来る事じゃない。奴が犯人だったとして、必ずその後ろに、一連の件をバックアップしている存在があるはずだ。どこに敵がいるのか、誰が敵なのか、簡単には把握できないだろう。岡崎の関係者に会うときは、なるべく奇襲を仕掛けるようにするんだ―――

 奇襲。まさに今山口がいる状況はその表現がぴったり当てはまるだろう。催眠ドクターを育てた精神医療の神に、真正面からぶつかろうとしているのだ。たった一人で。いや、一人じゃない・・・。

 ガチャリとドアが開いて、しわの寄った細長い顔に、白い立派なヒゲを蓄えた、細身の老人が入って来た。山口は思考を中断して立ち上がり、一礼した。
「お待たせして申し訳ない」老教授は穏やかに詫びた。
「いえいえ。こちらこそ、突然押し掛けまして、申し訳ありません」
 山口は慌ただしく両手を振って言った。
「まぁ、電話の一本くらい下さってから、来て頂きたかったですな」
 老教授は山口の向かいのソファに腰かけながら言った。穏やかな物言いだったが、どこか厳格な空気があった。
「申し訳ありません」山口は改めて謝罪した。老教授が手で「座れ」と示したので、それに従った。

「奥山です」奥山はスーツの内ポケットから名刺を取り出してテーブルに差し出した。
「T市署の山口です」山口もそれに相反する動きで名刺を渡した。
「それで、この老いぼれにどのようなご用件ですかな?」奥山は優雅に手を組んで山口を見据えた。
「申し訳ないが、今日はこの後、大事な講義があるのでね。準備もしなければならんし、あまり長々と話している時間は無いのですが」
「すぐに済ませます」山口は即答した。常に自信と余裕のある態度で。迷った素振りは見せない。岸田から教わった、重要参考人と相対する時の極意だ。

「こちらの卒業生の、岡崎 直紀さんについてなのですが」
 岡崎の名を聞いて、奥山は、ああ、と息を漏らした。
「彼はとても優秀な学生だった」奥山は思い出すように視線を宙に漂わせて言った。
「警察にあれこれ嗅ぎ回られるような人間ではないんだがねぇ」
「彼の学生時代について、もっと詳しくお聞かせ願いたいのですが」
 山口は食い下がった。奥山は、ふう、と一息吐くと、話し始めた。
「成績は常にトップ。研究にも熱心で素養も完璧。何より医者になって、苦しんでいる患者を救いたいという情熱に溢れていた。人間の黒い部分を引っ掻き回す君達からすれば、実に面白味のない人物だろうね」
 老人の視線が挑発的に山口を射た。
「そして今も、その情熱は変わっていない。この瞬間にも何人もの患者に向きあっていることだろう」

某所 大広間 AM9:00――――――

 椅子に優雅に身を預ける男の目の前には、10匹もの奴隷猫達が整列している。皆真新しいベージュの薄いレオタードに身を包み、来るべき時を待っている。その中の一匹、今回の最年長、元大学生のトモミは、豊かな胸と尻が、薄いレオタードから大きくはみ出してしまっている。元々身体のラインが見えるレオタードではあるが、彼女にとっては、既に衣服として意味を成していない。だが、トモミ自信はそんなこと意にも介さず、ただ人形のように黙立しているだけだ。
 そんなセクシーな有様のトモミから、男は別の方向に目を向けた。そこにはアケミとマナミが立っていた。先程ディザイアの「仕上げ」を終えたばかりで、まだ興奮覚めやらぬといった様子で、やや足がヒク付いている。

 男は最後にロレックスの高級な腕時計に目をやった。そろそろ頃合いだ。男は立ち上がった。
「では、『仲間入り』の儀式を執り行う」
 男の声に合わせて、部屋の左右に並んでいた、屋敷中の奴隷猫達が、サッと新入りの奴隷猫達の列に近寄って来た。その中にはミキの姿もあった。
「まずはお前の群れからだな」男がいうと、右列の最前に立っていた奴隷猫が歩み出た。奴隷猫の中では最も大人っぽいが、トモミのようにムッチリとした身体ではなく、むしろマネキン人形のように細く白い手足の女性だった。首輪には金の文字で「1」と書かれている。彼女こそ、奴隷猫のトップに立つ「最初の奴隷猫」、ユキコだ。

 K大学を卒業したある女性は、大学で得た医療の知識を用いてメディカルカウンセラーの資格を取得すると、都内大手のバレエ学校の専属ドクターに就任した。以前は自らがバレリーナを目指して努力していた彼女だったが、度重なるケガと、その度に先生や親からかけられる重いプレッシャーに苦しみ、遂に夢を諦めてしまった。しかし、それまで培ったバレエの経験と知識に加え、メディカルカウンセラーの資格を持てば、医者としてバレエに関わることが出来る。そして、多感な少女たちの身体と心のケアをすることで、彼女達が自分のように理不尽な程の重圧に潰されることから救えるのではないか。そう思って進んできた、彼女の新たな夢が実現した瞬間だった。

 専属ドクターとして仕事をするうち、彼女は一人の少女と頻繁に関わることになる。高2ですでに数々のコンクールで入賞し、将来は素晴らしいバレリーナとなることを期待されている友紀子だ。毎週のようにコンクールで踊るため、毎日学校が終わった夕方から真夜中になるまで身体を酷使してレッスンに励む友紀子を、彼女は必死でサポートしていた。友紀子は小さいころからバレエ漬けで、友達ともろくに遊ぶ時間が無かった。他の皆は、もっと毎日を楽しそうに生きているのに、どうして自分はいつも同じ、何も変わらない生活を送っているのだろう。友紀子は彼女にそんな思いを打ち明けた。

「私、バレエ好きだけど、こんな人生はもう疲れちゃった・・・」友紀子は彼女にそう漏らした。
 ある夜、彼女の前に一人の男が現れる。それは「彼」だった。優秀だったにも関わらず、大学を追放になったという危険な男・・・。
 その後は何が起こったのか分からない。ただその時から、彼女は眠りに着いた。長い長い眠りに。恐らく、二度と目覚めることは無い・・・。そしてその瞬間から、もう一人の彼女が生れた。闇というステージで、思う存分に踊り続ける猫・・・。それが新しい彼女。盗賊「キャッツ」のリーダーだ。

「お前の仲間が必要だ。気に入った娘を連れてこい。ただし、誰にもバレないようにな」
 男に命じられ、彼女が最初に向かったのは、ある女子高生の家。友紀子の家だった。
「踊り続けることに疲れたんでしょう? なら、私が貴女を新しい人生に連れて行ってアゲル・・・・・・・」
 その日、優秀なドクターと、将来有望な一人の若いバレリーナが姿を消した。

 バレリーナの面影はそのままに、何年も男に仕える間にすっかり大人びたユキコと男の前に、10匹の中から最前列の猫が歩み出て、「猫のポーズ」で跪いた。
「よし、始めろ」
「はい、ご主人様」男の命令に、ユキコは透き通るような声で返事をすると、「51」と書かれた首輪を手に取り、再び跪く猫に向き直った。
「ミユキ、『猫の誓い』を」
 ユキコが言うと、跪いた奴隷猫、ミユキは弾かれたように言葉を紡ぎ出した。

「ワタクシ、ミユキはご主人様の奴隷猫です。ワタクシはご主人様に永遠の忠誠を誓います。ワタクシはご主人様に服従します。ワタクシはご主人様のご命令に必ず従います。ワタクシはご主人様にワタクシの身も心もお捧げします。ワタクシの全てはご主人様の物です」
 水道を捻ったように淡々と言うと、また蛇口を閉めたように静寂が訪れた。

「結構。ミユキは『仲間入り』だ」
 男が言うと、ユキコはミユキに首輪を付けてやった。
「あなたは私の『1群(ぐん)』に入ります。私に従いなさい」
「はい、リーダー。ミャ~ン」
 一声鳴き声をあげると、ユキコに連れられてミユキは横へ去って行った。

「次だ」
 男が言うと、今度は左列の最前の奴隷猫が歩み出た。首輪には金字で「2」と書かれている。そして新入りの中から次の猫が前に跪いた。そして猫の誓いを言うと、リーダーに連れられて横に退く。そして今度は、右列から「3」の金字の首輪のリーダーが現れた。ミキのいる「3群」のリーダー、ミカコだ。そしてまた猫の誓いをした新入りに首輪を付け、横に立ち去る。
 奴隷猫のグループ、「群れ」は全部で7つあり、7匹の新入りが「7群」まで振り分けられたところで、またユキコが前に出てきた。そして、残った3匹の新入りの中から、トモミが前に出た。

「トモミ、『猫』の誓いを・・・」
「待て」ユキコが言いかけたところを、男が制止した。
「はい、ご主人様」
 ユキコが黙ると、男はニヤニヤしながら、跪くトモミに近付いてきた。そして、「アッ・・・アッ・・・アアアァ」
 男はレオタードからはみ出すトモミの乳房と性器を、乱暴にイジリ出した。男に弄ばれ、トモミは無機質な声を上げたが、「猫のポーズ」は決して崩さなかった。

 しばらくして、跪いたまま息を荒げるトモミを残して、男は席に戻った。すっかり揉みくちゃにされたトモミのレオタードからは、最早乳首までもがしっかりと覗き、尻に食い込んで鍛えられた身体のラインが完全に露わになっていた。
「スマン、さっき見たときからこいつの身体で遊んでおきたかったんだ。始めてくれ」悠然と席につくと、男は言った。

「トモミ、『猫の誓い』を」
 ユキコが言うと、肩で息をしていたトモミは口を開いた。
「ワ・・・ワタクシ、トモミはご主人様の奴隷猫です。ワタクシはご主人様に永遠の忠誠を誓います。ワタクシはご主人様に服従します。ワタクシはご主人様のご命令に必ず従います。ワタクシはご主人様にワタクシの身も心もお捧げします。ワタクシの全てはご主人様の物です」

 トモミが「猫の誓い」を終えても、男は黙ったままだった。
「少し余興を見せて貰おうか」しばらくして男が言った。男はこの奴隷猫が気に入ったようだ・・・『悪い意味』で。
「ユキコ、お前の時は素晴らしいバレエを見せて貰った。そうだな?」
「はい。ご主人様。ワタクシのつまらない余興を見て頂きました」

 ユキコはここで奴隷猫となった後、「余興」と称し、男の前で奴隷猫の、殆ど裸の姿でバレエを踊らされた。それ以来、ユキコは今まで夢として追い続けてきたバレエを、男の目を楽しませる単なる余興へと落としめ、男の前でしか踊っていない。
「バレリーナにチアリーダー。そういえばマリにも体操を見せて貰ったな。どうやらお前の群れには余興の出来る者が集まるらしいな。これも縁というものか」
 男は感慨深げに言うと、ニヤリとしたまま邪悪な視線をトモミに移した。
「さて、トモミ。奴隷というからにはご主人様を愉しませるのが最大の存在意義なんだ。この余興はお前の奴隷としての資質を見せて貰う、いわば抜き打ちの最終テストだ。わかるな?」

「はい、ご主人様」
 トモミは男の勝手な言い分をあっさり認めると、男はゆっくりと暗示をかけ始める。ユキコやマリしたように・・・。
「お前の人間としての記憶は消えてしまったが、チアリーダーとしての技術は覚えている。それはご主人様にその身を捧げるために大切なものだ。これからは俺のためだけにその技術を見せるんだ。さあ、お前の中に、チアリーダーとしてのお前が湧きあがるように思い出される・・・」
 男の暗示にかかり、トモミは徐々に恍惚の表情を見せて行く。
「さあ『踊れ』」

 男はそういってスナップ(指をパチンと鳴らすこと)をした。
 その音に弾かれるように、トモミは立ち上がった。両足をピッタリと揃え、両手をヒザの横にピタリと付け、爪先から頭の頂点までが完全に真っ直ぐになった、完璧な「気を付け」の姿勢だ。その顔には、まるで貼りつけたような、口角を限界まで上げ、無理やり引き伸ばしたような狂気的な笑顔を浮かべている。逆に、その正気を失った虚ろなオレンジの目が、より一層その不気味さを掻き立てていた。

「ワン! ツー! スリー! フォォォ!!!」
 燃え盛る笑顔のまま、大広間中が揺れるような大声で叫ぶと、トモミの身体は棒立ちのままピョンと跳び上がり、そのまま大の字で着地した。
「ゴォ! ゴォ! レッツゴォォ!!」
 張り裂けそうな声で叫びながら、トモミは腕と足を千切れんばかりに振り回す。トモミの身体が跳んだり跳ねたりする度に、彼女の胸、尻、身体の全てがブルブルと躍動する。
「ハイ! ハイ! アイ! アム! スレイヴ(奴隷)!!」
「ヘイ! ヘイ! アイ! アム! キャァット(猫)!!」
 即興でメチャクチャな踊りをしながら、トモミは顔に着くまで足を振り上げ、身体を完全な「0」の形に反らせた。

 当然ながら、この狂った痴態は、実際のトモミのチアとは全く異なる。しかし、これが男の「余興」だった。ユキコとマリの時もそうだった。人間離れした跳躍、常識外れな回転。振り付けはメチャクチャ、声は限界まで大きく(恐らく、「歌え」と言われれば到底聞いていられない事態になるだろう)。それを彼女らは平然とやってのけた。皆同様に、この狂った笑顔を浮かべて。

 理性を失った彼女らが、意識の底から呼び起こされた特技は、「ご主人様を愉しませる」という概念のもと、このように全く元の形とは異なったパフォーマンスとして蘇る。彼女らは痛みも恥も感じない。ただご主人様の為に、ただ身体を目一杯に使って見せるだけ。催眠によって極限まで支配された者だけが見せる。この上なく恥ずかしく、この上なく美しい「余興」。

「アイ! ラヴ! マスタァァァ!!」
 最後の大声とともに、逆立ちで足を見事な180度まで開いたポーズで、トモミのチアダンスはフィニッシュを向かえた。最早すっかりとアソコを晒しているトモミに、男はパラパラと雑な拍手を送った。
「お見事。素晴らしい『ピエロ』だった。どうだトモミ、俺にそんな姿を見てもらえて嬉しいだろう?」
 トモミが再び「猫のポーズ」に跪いたのを見て、男は言った。

「ハ・・・ハヒ・・・ゴヒュヒン・・・ヒャマ・・・あ・・ぁぁ」
 トモミは「ピエロスマイル」のまま、息のあがったままやっと返事をすると、汗にまみれた脚に小水を滴らせた。
「ハハハ。そんなに嬉しいか。せっかくの衣装が汚れてしまったじゃないか。まぁいい。合格だ。お前は『仲間入り』だ」

 男が言うと、ユキコが首輪を持ってトモミに歩み寄った。そして首に「58」と書かれた首輪を巻かれると、ユキコに連れられ、他の奴隷猫の待つ集団の中へと歩いて行った。
「余興」の余韻が残っているのか、首輪を引かれて歩いているときも、トモミはまだ「ピエロスマイル」を浮かべたままだった。

「少し時間を食った。次に行こう」
 男が何もなかったかのように平然と言うと、トモミの放尿で湿ったカーペットに、マナミが跪いた。
「ゴールデンルーキーの一人目が登場だな」
 男はマナミを見てニヤリと呟いた。

 マナミが「仲間入り」を終えると、いよいよ最後の一人、アケミの番となった。
「ついに最高傑作のお出ましだな。前座はたっぷりと堪能したか?」
 男は未だに「ピエロスマイル」のまま座っているトモミを見やって言った。

「さあ、あまり無駄口を叩くと神聖な儀式が台無しになる。始めよう」
 アケミの元に歩み寄ったミカコの姿を認めると、男は言った。
「はい、ご主人様。アケミ、『猫の誓い』を」
 ミカコの言葉に反応して、可憐な奴隷猫は、その虚ろな瞳を男の元へ届けた。

「・・・ワタクシ、アケミはご主人様の奴隷猫です。ワタクシはご主人様に永遠の忠誠を誓います。ワタクシはご主人様に服従します。ワタクシはご主人様のご命令に必ず従います。ワタクシはご主人様にワタクシの身も心もお捧げします。ワタクシの全てはご主人様の物です・・・」
 歌うように紡がれていくアケミの誓い。その澄みきった声に、男は目を閉じて聞き入った。男が心待ちにしていた「完成品」の姿だった。

「この落ち着き。もう催眠が馴染んでいるのか。素晴らしい・・・申し分ない。合格だ。『仲間入り』だ・・・」
 ミカコがアケミに「60」の首輪を取り付けた。
「正に『60番目の奴隷猫』に相応しい。そういえば、お前はミキと同じ『群れ』に入るのか。ククク・・・やはり縁というものだな」
 男がケラケラと笑う横を、奴隷猫アケミはミカコに引かれて歩いて行った。

 こうして全ての奴隷猫が『仲間入り』を果たした。
「儀式は終わりだ。全員部屋に戻れ。ユキコはトモミにシャワーをしてやれ」
「はい、ご主人様」
 17匹の返事が響き渡ると、奴隷猫達は大広間を後にした。
「フッ・・・さて、全てはここからだ・・・」
 男はモニターのスイッチを入れた。そこには、一人の女性が映し出されている。
「乗り込もうか、『ノアの方舟』に。フフフフフ・・・・・・」
 大広間に、男の笑い声が静かに響いていた。

A市 岸田低 AM10:00――――――

 携帯に電話がかかって来た時、岸田はベッドに横になっていた。眠っていた訳ではない。一度リビングで朝食を摂った後、再び部屋に戻ってベッドに寝転んだ。山口からの連絡を待つためだ。捜査の内容を妻に聞かれる訳にはいかない。彼女には気分がすぐれないから少し寝る。と言ってある。着メロが流れた途端、岸田はベッドから跳び起きて、ベッドの横のテーブルに置いてある携帯を掴み取った。予想より早いな・・・。画面に表示された着信相手の名前を見て、岸田は思った。

「もしもし?」
『もしもし、俺です』電話に出ると、聞き慣れた、しかし、心待ちにしていた声が聞こえてきた。
「もう『奇襲作戦』は終わったのか?」岸田は山口に気さくな口調で聞いた。受話器の向こうの相棒の声に、何か切迫したものを感じ取ったからだ。
『はい。今、大学の近くのコンビニに停まっています』山口は答えた。その声からはやはり焦りや混乱が感じられる。ただ単に疲れているだけなのかもしれないが。
「ご苦労さん。随分早かったじゃないか。成果はどうだ?」
 岸田は変わらずに気軽な雰囲気に努めた。しかし、山口の方はそんな雰囲気をかき消すように語りだした。
『あの、岸田さん』
「なんだ」
『あの、さっき、K大学の教授から、すごい話を・・・』
「すごい話? どんな?」緊張感を増していく山口の言葉に、岸田ももう軽い口調を止めていた。
『岡崎に・・・このヤマには、とんでもない秘密がありました』

K大学 中央棟 応接間 AM9:30――――――

「では、学生時代の岡崎さんは、表向きは何ら問題のある学生には見えなかったと」
 メモを取りながら質問をする山口に、奥山は声に不快感を含ませた。
「『表向き』なんて言い方はやめてほしいですな。ゼミまで担当した私から見れば、勤勉なのは勿論、友人からも大変信頼されていた素晴らしい青年だよ。彼は」
「申し訳ありません。言葉を誤りました」
 自分の失言に、山口はすぐに頭を下げた。奥山は溜め息を吐いた。
「確かに大学生活なんて、その人間の長い一日、一年、そして人生においてほんの僅かな時間でしかないと思われるだろうがね。長く色んな生徒を見てきた私には、そんな一部の人生を垣間見ることで、その人がどういう人間かが大体わかるんだよ。経験の賜物、とでもいうのかな。それに」奥山は一旦間を置くと、重く次の言葉を続けた。
「何の関係で調べているのか知りませんがね。私の生徒の暗部のようなものを引っ掻かれるのは耐えかねますな。岡崎君に限らず、どんな生徒であろうとね」
「本当に申し訳ありません」山口は改めて深く頭を下げた。さっきから謝ってばかりだ。しかし、山口には、この老教授がいかに素晴らしい教育者であるかが、少しわかったような気がした。

「まぁ、あなたも仕事なのだから、仕方ありませんがね。どうぞ続けて下さい」奥山は一変して柔らかい口調で言った。
「はい。では・・・」山口は気を引き締めた。そうだ。ここで引き下がっていては、何も得られない。
「岡崎さんは、在学中に論文や研究資料のようなものを残されていますか?」
 核心を突く質問だった。二人の読みが合っていれば、岡崎は催眠に関する研究をしていて、「人間の完全な支配」の研究論文が危険視され、学会を追放されている。だとしても、在学中に行った研究内容がまだ大学に残っていても不思議ではない。
「うん? いや、彼は優秀だったが、研究者を目指していた訳ではないからねぇ。この大学に来た時から、彼の目標は医者になることだったから、特に研究というものに携わってはいないし、論文も書いてはいませんよ。卒業論文くらいかねぇ」
 奥山の返答に、山口は眉をひそめた。岡崎は研究をしていなかった? いや、それ以前に、学会から追放され、大学を事実上の除籍処分となっているはずなら、岡崎が卒論を残していることはあり得ない。
 読みは外れなのか・・・。

「弟のほうの研究内容なら、山ほど残ってますがね」
 奥山の言葉に、山口は顔を上げた。
「弟?」
「ええ。岡崎君には一つ年下の弟がいましてね。彼もこの大学の学生だったんですよ。まぁ、彼はお兄さんとは逆に、研究の方に興味がありましてね。大学院に進んで色んな研究に打ち込んでいましたよ」
「それで、その弟さんは今何を?」山口は鳥肌が立つのを感じていた。
「さぁねぇ。私は彼の担当ではなかったし、それに・・・」
 奥山は再び間をあけた。

「彼は大学院を除名されていましてね。どこで何をやっているのか・・・」
 山口の心臓が鐘のようにゴン、と鳴った。

A市 岸田低 AM10:00――――――

「弟だと?」岸田は耳を疑った。
『はい。岡崎 直紀には一つ年下の弟がいました。名前は岡崎 有紀(おかざき ゆうき)。兄、直紀の一年後にK大学に入学。学部は兄と同じでしたが、選択する授業の傾向が兄と大きく異なっていたため、奥山教授とは面識はほとんどありません。その後、大学院に進み心理学と精神医療学を研究。数々の独自研究を発表しますが、注目を浴びることはありませんでした』
「そして最終的には・・・」
『大学を中退除名。ですが正式には、大学側からの除籍処分が成されたとのことです。理由についてはわかりませんでしたが・・・』

 岸田は全身を熱い血液が駆け巡るのを感じた。
「その研究内容が除籍の原因か」
『大学の書庫に、岡崎 有紀の研究が保管されていました。一部でしたけど。彼は人間の潜在意識への第三者の介入という視点から研究を進めていたようです』
「なんだかよくわからねぇが、それって・・・」
『そうです。その研究の中には催眠術に関することも言及されていました』
 岸田の中で、何かが確信に変わった。これもまた一方的なカンか? いや、違う。これは・・・
『岸田さん』山口が何かを訴えかけるように言った。岸田はそれに応える様に大きく頷いた。
「もう一度、岡崎 直紀に話を聞く必要がありそうだな」

K大学 西棟一階 第三大講義室前廊下 AM10:30――――――

「ねぇ、お昼どうする? 食堂?」
「次の時限空きだから、どっか食べに行こっか?」
「じゃあさ、駅前に新しく出来たイタリアンレストランは?」
「あ、私もそこ気になってた! ランチメニューのパスタセット!」
「決まり! じゃあ、レッツゴー!」
 二人の女子大生が和気あいあいと歩いていると、目の前に人影が立ち塞がった。見ると、二人の行く手を遮るように、もう二人の女子大生が立っている。一人は短いスカート。もう一人はピッチリとしたデニムを履いている。

「あ、ごめんなさい、邪魔になっちゃった」
 二人は慌てて脇へと避けて道を開けた。二人の女子大生はそんな二人には目もくれず、フラフラと歩き出した。その顔には不気味なほどに表情というものが抜け落ちていて、何か、空っぽ、という印象だった。
「な、何あれ・・・?」一人が言った。
「さあ・・・なんか、変わった人達ね」もう一人が言った。
「君達」
 突然背後から声が聞こえた。二人が振り返ると、そこには奥山名誉教授が立っていた。彼は優しく温厚で、どんな生徒からも慕われていた。二人も彼の授業を受けた事があった。
「あ、奥山先生!」
「こんにちは!」
 朗らかに挨拶する二人に、奥山は優しく微笑んでいた。

「次は授業無いのかい?」奥山が聞いた。
「はい。二人とも空きなんです。だから、駅前にランチに行こうと思って!」
「そうかい。ランチ。いいねぇ」
 そう言いながら、奥山は二人の後ろに視線をやった。そこには、さっきの二人の女子がまだフラフラと歩いていた。
「あの子たちは、これから方舟に乗るんだよ」

「えっ?」
 奥山の突然の一言に、二人は振り返って、「あの子たち」を見た。
「君たちも、私の授業を受けて見ないかい? 特別に許可しよう」
「え、でも、私達・・・」
 一人が何か言いかけた時には、奥山のシワの寄った手が、二人の額を包んでいた。
「あ・・・」
 何かを言おうと開かれた口からは言葉が発せられる事は無く、二人は驚きと警戒で身体を硬直させる。奥山の親指と人差し指が、二人の両のコメカミをグッと締め付ける。そして、まるで風船がしぼむように、ふたりの思考はその手の平に圧縮されていく・・・。
 驚きで二人の胸の前に持ち上げられた両腕が、ダランと落ちるのに時間はかからなかった。

K大学 西棟一階 第三大講義室 AM10:40――――――

 ガラリとドアが開けられると、厳かに奥山が講義室に入って来た。その後ろには二人の女子大生が付き従っている。二人の目には意思はなく、ただガラス玉のような眼球が前を向いているだけだ。ポカンと開けられた口からは一切の言葉が発せられることはない。
 彼女達は全ての思考を停止させられていた。何故、とか、どうやって、という理屈は全く通用しない。ただ絶対的に、その脳は「思考する」という行為を止めていた。

 その講義室は、全ての窓に黒いカーテンを引かれ、外からは全く見えないようになっていた。電灯は点いていないが、部屋のあちこちに置かれた燭台のロウソクに火が灯り、薄明かりを照らしていた。その薄暗い大講義室の机には、何十人、いや、何百人の人間が座っている。全て女性。そして、異様なのは、その全員が全くの裸であることだ。全ての全裸の女性が、この二人と同じく、完全に無の状態で、そこに座っている。

「お前たちも、脱ぎなさい」
 奥山が言うと、二人はすぐに自分の来ている洋服に手をかけ、脱ぎ捨てた。下着姿になると、片方の女性はすぐにブラジャーも外し始めたが、もう片方は動きが止まった。
「ウ・・・ア・・・」動きの止まった少女が低いうめき声をあげる。その顔はピクピクと痙攣している。何かに抵抗しているようだ。奥山は少女のコメカミを再び掴んだ。
「必要ないよ・・・委ねなさい・・・」
 奥山がそんな意味不明な事を呟くと、少女は再び沈黙し、顔もぼんやりとした無表情に戻った。
「良い子だね」
 奥山が手を離すと、少女はまたブラジャーを外し始めた。その横で、もう一人の少女が完全に裸になり、ダランと脱力した状態で立っていた。

「お前は浸かりやすいのだね。良い子だ・・・」
 奥山はそう言って少女の胸を一撫でした。
「セリ、サクラ、こちらへ」
 奥山が言うと、椅子から二人の小柄な女性が立ち上がり、奥山のところへ歩み寄って来た。
「この二人はまだ聖域に馴染んでいない。転ぶと危ないから、案内してあげなさい」
 奥山が言うと、何の反応も示さずに、セリとサクラは、裸になった二人の少女の手を引いて、後ろの方の席に座らせた。
 全員が着席した事を確認すると、奥山は教壇にたち、ロウソクに照らされた大講義室と、裸の少女達を眺めた。そしてスッと息を吸うと、
「皆さん。私の特別授業へようこそ。ここは聖域で、お前達は選ばれた人間だよ。さあ、準備にとりかかろう。『方舟』に乗るためのね・・・」
 奥山の一言で、全ての少女が立ち上がった。
「はい、ゼウス様」
「ハイ、ゼウス様」
「はい、ぜうすさま」
「ハイ、ゼウスサマ」

 講義室に、虚ろな少女たちの声が響き渡った。

< 続 >

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