第6話 ―粘土[後編]―
[-1]
形はなく不定形。
固い柔らかいも決まっていない。
それでも血は通っている心という存在不明な呼び名。
ある学者から言わせれば胸にあると言い、
とある医者に言わせれば頭にあると言う。
一体何処にあり、どうして人間に欠かせない存在になりえたのだろうか。
作り出せれば生命を生み出すことができ、
自身の名は未来永劫語り継がせることができる。
或る時は人体を解体し、心を探したが何処にも見つからず、
或る時は解剖実験と謳って心臓を隅々まで切り刻んだが、結局無意味な行動だった。
既に狂気に満ちた私の探究“診”に、誰も寄り付かなくなっていた。
こころがない、と誰かが言った。
確かにその通りだった。心を探した私自体、既に心を失っていたのかもしれない。
笑いが込み上げてくる。
心がないのに生きている私は、いったいどんな存在なのか、
“心臓”に生かされているだけの人間なのか?それとも、本当は死んでいる人間以外の存在となったのか。
――翌年、私の研究結果は死後に発表された。その結果は学会を注目させ、聴衆を動揺させた。火葬され、灰になった身体と同じく、粘土のように固まったココロが発見された。
心は外にあった。私はようやく、ココロを見つける事が出来たのだ。
[プロローグ]
硬い、柔らかい、大きい、小さい、
それが人のかたち、器の重さ。
粘土によって作られ、
粘土によって捏ねられ、
粘土によって形成される。
純粋な素材しか入っていない故に、
焼かれるまで完成するか分からない。
割れてしまえば全てが終わり。
単純ゆえに、簡潔なんだ。
それが人の生涯、現の軽さ。
頭が割れてしまえば監査しなくても分かる
焼かれてしまえば全てが終わり。
単純ゆえに、完結なんだ。
――どす黒く、淀んだ理念の柱。グレイヴはここに完成した。
[1]
人生とは後悔の連続である。幸せになろうとして様々なものに興味を持ち、性に合わないと分かるとピタッとやめて捨ててしまう。
熱が冷めやすい性格だったのだ。
いろいろ手をつけても長続きしない。飽きてしまう。
「趣味を見つけて、遊び尽くすことができたら、それは幸せなんだろうな」
私は幸せになれる方法を知っていながら、幸せにはなれないんだなと思った。
趣味とは頑張るものじゃない。仕事ではないのだから、嫌だと思ったらすぐにやめられる。誰にも文句は言われない。だからこそ私はすぐに逃げてしまうのだろう。誰も引きとめてはくれないから。
「あはは……」
ここまで分かっていながら逃げてしまう。私は、淋しいんだと思う。彼氏が欲しいんだろうなと思う。慰めてほしいと心から願う。
「……はっ」
でも、私はそれを望んではいけない。何故なら私はそれを体験したことがあるから。
かつて私は一人の男性と付き合った。一つ年下の大学の後輩だった。
向こうから付き合って下さいと言われた。実は何回か言われたことがあったけど、毎回断っていたのだ。面倒だと思ったし、異性に興味がなかったからだ。
だけどその時は、『たまたま』異性に興味を持ち始めていた時期だった。幸せになろうと模索し、様々なものに興味を持ち、その一つが異性で、彼だっただけの話だ。
動物で言えば猫。おもちゃで言えば起き上がりこぶし。
私は彼に興味があった。そして短い期間だけど付き合い始めたのだった。大学二年、雨の降る夏の話だ。
だけど、別れもまた唐突だった。私から切り出した。
「飽きた」
残酷なほど冷たい声だった。彼のその時の表情は今も私の脳裏に焼き付いている。笑っていた彼の顔が凍ってしまったように表面に張り付いていた。その後は彼と全く連絡を取っていない。連絡が来ても一切返事を還さない徹底ぶり。やがて彼からも連絡が来なくなった。
彼が幸せにしてくれないと思った訳じゃない。ただ、もっと先に彼よりも幸せにしてくれる人が現れてくれるんじゃないかと思っただけ。そしたら、彼は私の中の基準となった。プラスもマイナスもないのだから興味もなくなった。私は彼を捨ててしまったのだ。
大学二年、雪の降る冬の話だ。
それから私は誰とも付き合っていない。今の興味は友達に薦められて始めた同人誌のベタ塗り。人の考えたキャラを描いて何が面白いのかわからないが、ただ、ペタペタと線をはみ出さないように塗る作業が好きだった。
細かい事が好きというより、自分が集中していると気付くことができるからだ。線一本を描くのに、指先が震えていた自分の心の弱さが恥ずかしい。東京に出て発表会があるのも新鮮で、まるで本物の漫画家になった様な気分になれた。
でも、もうそろそろその趣味も終わるのだろう。
分かるのだ。心がそろそろ飽きたと言おうとしているのが。
その時に、彼の言葉を思い出す。
「いろいろなことに手を付けることは良い事だよ。これからきっと役に立つよ」
決してプロになれる訳じゃない。中途半端でもいいと言ってくれた。今にして思うと、その言葉の重みを感じることができる。
飽きる自分を愛してくれた人だと思う。もし彼を生涯で二番目に愛すことができたら――、
彼を基準と考えなければ、
――そこに幸せがあったのだろうと私は思う。
後悔だらけの人生だ。幸せは過去にしかない。振り返って初めて人は幸せだと感じることができるのだ。過去に戦争が起こったから現在が平和だと感じられることが幸せなのだ。
未来に幸せはない。現在に幸せはない。
未来も現在も過去に変わることが幸せなのだ。
[2]
「いいえ、現在に幸せはありますよ」
「えっ?」
突如声をかけられた。
「現在だけが遊べるんですよ。過去は振り返ることしかできない。未来は妄想することしかできない。現在だけが身体を動かし、脳をフル回転させて、一日を過ごせるのです。こんな楽しい事はありません。「今日は何をしようかな?」「昨日よりいい一日にしよう」そんなワクワク感は現在しか描けませんからね」
中年のおじさんだが私より生き生きとしており、見た目より若かった。別に一人言をつぶやいていた訳じゃない。心の中で人生を振り返っていただけなのに、彼は私の心をまるで聞いていたかのように話しかける。
「なんなんです、あなたは?」
「おや、失礼致しました。私、こういうものです」
彼が名刺を渡す。
握出 紋
「どうも」
読めない字だけど頭を下げた。エムシー販売店という聞いたことのない店でなにやら商品を扱っているみたいだった。
「現在を遊ぶ道具を用意しました。私たちが開発しましたグノー商品です。是非お使いください。貴方にはぜひ使って頂きたい」
彼は積極的に、私に鞄の中から取り出す商品を推してくる。
「例えばこれなんてどうです?グノー商品『電話』。あなたの妄想を相手に電波として直接送りこむことで相手に影響を与えます。また、電波を飛ばす訳ですから相手も思い通りにすることができますよ」
「へえ……」
「『人形』なんて如何です?そっくりな人形を作ることも、人形の感覚を本人にリンクさせることも出来ます。本人も知らない内にビクンビクンです」
「へぇ…………」
楽しそうに話す声に私の心は響かない。彼に対する警戒心が残っているのか分からないが、私は彼から目を合わせないようにしていた。でも、目を逸らした先にあった商品、土の塊なのか、ただ丸まっていた商品に、私は目を奪われた。
「これ……」
手に触って感触を確かめる。冷たく、重い土の塊。
「あ、それを触ってしまいましたか」
彼の言葉で私は我に返り、商品から手を放した。
「ごめんなさい。商品でしたね?」
慌てて商品を鞄の中へ戻す。彼は笑って許してくれた。
「いいえ。お気になさらずに。粘土は……まあ、見たまんまの商品ですからね」
説明にもなっていない扱い。グノー商品『粘土』の説明はこれが最初で最後だった。彼は一通り説明を終えると、御満悦だった。
「どうですか?グノー商品は素晴らしいでしょう」
彼にとってやり尽したのだろう。確かに分かりやすい説明と、気前の良い売り方は心を惹かれるものだった。商品を買う時にもうひと押しで買うと言う状況だったら、彼は間違いなく押してくれるだろう。でも、私は、
「いらないです」
彼を拒絶した。
「………いらない?」
彼はきょとんとしていた。
「ええ」
私は彼に言った。
「そんなもの使わなくても、人を裏切ることなんて簡単だから」
冷たく吐き捨てる言葉に流石の彼も表情を凍らせていた。それはそうだ。商品を売るのが営業の仕事なのに、ここまで冷たい言葉が返ってくれば、今までの努力がすべて無駄になる。
「あっ、そうですか。わかりました。また次回ご利用ください」
なんて締めの言葉が聞こえてきそうだ。
しかし、凍った表情が溶けだすように、彼はふつふつと肩を揺らして笑っていた。
「なんて格好良い事言うんですか。私はあなたを気に入ってしまうじゃないですか」
テンションの上がり様に私が面くらっていた。
「そうです。人の心は気分次第です。友達から連絡が来ても、行きたい気分なら一緒に行き、行きたくない気分だと断ってしまう。灼熱に焼けるハイテンションこそ全てを受け入れる媚薬となるのです」
何を言っているのか分からない。でも、私は思った。彼の営業―しごと―を断ってはいけなかったのだと。
営業とは一対一。買うか買わないかのつばせり合い。闘いなのだ。
おじさんは商品の中から一つ、土の塊を取り出した。先程私が触れた、『粘土』という商品だ。それを見て彼はにやりと笑った。
「では、貴方の粘土を練り始めましょうかね」
ぐっと指に力を入れ粘土を握った瞬間、私の心はドクンと脈打った。
「ん?これは硬い。こんなに冷たくしていたら、全く火が通らないじゃないですか。私が捏ねて柔らかくしてあげますよ」
「ひゃあ!!」
彼が粘土に触る手つきが、私の心とリンクしている。強く触れたと思ったら、ゾクゾクと、背筋を震わす優しい接触に思わず声をあげてしまった。
「『粘土』は貴方の心です。心とは気分の在り方なのです。目に見えるものではないのですが、ひょっとしたら粘土のように丸いものなのかもしれませんね?」
「そんなことありえない。私の心は、胸に、きゃあ!!」
彼は粘土を舌で舐めたのだ。粘土が濡れていた。
「だから、それをどうやって証明するのです?開発者は、自分の命を犠牲にして人間の心とは外にあることを証明しました。グノー商品『粘土』。もう貴方の心は私のモノです」
私は『粘土』に触れた事を後悔した。彼のいいなりになりたくなくても、心は先程から熱くなっているのがわかる。
彼を許し始めている自分がいる。
「いや、やめて」
私が拒絶しても意味がない。『粘土』はぐにゃぐにゃと形を変えるまで柔らかくなっていた。
「ほらっ、もうこんなに柔らかくなりました。どうです。柔軟な発想が思い浮かびそうじゃありませんか?グノー商品『粘土』は使い方次第で百通りにもなります。『心とは人の在り方である』。私があなたを淫乱の雌奴隷にすることなど訳はありません」
彼は何を言っているのかわからない。私を雌奴隷にする?そんなの、同人の世界だけだと思っていた。女性が狂うほどの歓喜をあげることなんてない。イキっぱなしもアヘ顔も起こるはずがない。
でも何故だろう?本当に彼の言うことになりそうな気がする。私がアヘ顔をする姿が脳裏によぎる。それはとても怖い想像で、グノー商品と呼ばれる彼の売り物は、さしずめ悪魔の道具。
こんな会社が社会にあるなんて信じたくもなかった。
「素晴らしいです、課長」
誰かが彼に拍手をあげていた。課長と呼ぶということは社員だろうか。私は顔を上げると、頭を鈍器で殴られた衝撃が襲ってきた。
「た、たくや?」
社員は、今までの人生でたった一人の私の彼だった、千村拓也その人だった。会ってなくても全く変わってない、スーツを着こなせていても私には分かってしまった。
「おや、彼をご存知でしたか?へえ、千村くんは今私の配下にいます。所謂、部下ですね」
「なにをしてるの?拓也!?」
課長の声を無視して拓也と喋る。
「ええと、君は――?」
拓也は私を覚えていなかった。名刺の中で名前を探そうとしても、私は名刺を作ったことがないのだから分かるはずがない。
「千村くん、彼女の名刺を持ってないんですか?……そうですか、更に興味を湧きましたよ」
課長が私に笑いかける。捏ねていた『粘土』をさらに捏ね、素早い動きで形を作る。
「――心よ。姿となれ」
課長の呼びかけに答えたように、『粘土』が光るとそこには私と寸分変わらない私が立っていた。『粘土』と呼べない。透き通った肌色に、細いストレートパーマ黒髪。来ている服まで全く一緒なのはどういう原理なのか私にはわからない。でも、グノー商品『粘土』は、
「なによ、これ?わ、私?」
私に間違いなかった。
「君の名前は?」
『高橋由香です』
「えっ?」
「千村拓也さんを知っていますね?」
『はい。知っています』
私となった『粘土』は課長といわれたおじさんの質問に淡々と答えていく。
「なんで?」
「『粘土』は君の心、君の身体をすべて知っています。完成された一つの品です。この握出紋。そう簡単に壊しはしません。そう、『人形』と違って抱けないのが粘土の唯一欠点とする部分です。まあ、値段に見合った商品ではありますがね」
完成された品だから、壊す行為をさせない。課長は『粘土』に思い入れがあるのだろうか、大事に扱っていた。
「で、彼とはどういう関係だったんですか?」
課長が私の禁句に手を出す。「やめ――」の言葉を言う前に、
『私の元彼です』
『粘土』は私の心へ土足で踏み込んでいく。
「そうですか。そうだったんですか!アハハハハハ!!!」
課長が笑った。拓也はようやく思い出したかのように一度うなずいた。
「あなたもなんだかんだ言って遊んでいるじゃないですか。恋愛なんて最大の娯楽ですからね。人生においてテレビゲームよりも意味がない」
課長にとっての恋愛論は「無駄」の一言で片づけられるくらいに冷たいものだった。
「でも、どうして別れちゃったんです?」
『飽きたから』
「へえ。それは利口です。結構さっぱりしていますね」
共感できるところは共感し、『粘土』に対して再びグノー商品を広げる。
「では、この道具はどうですか?」
『面白そう』
「そうでしょう、そうでしょう。使ってみません?」
『どうやって使うの?』
「これはね、こうして――」
『ああ!!なにこれ。おもしろい』
「そうでしょう?じゃあ私のことを今度からご主人様というのです。それもまた快感になるのです」
『ご主人様......っ!あああああ!すごい、気持ちいい』
「でしょう?今なら限定版、持ち運び出来る手鏡もつけちゃいますよ。これでたったの、9千8百円!!安いねええ!!!」
課長と『粘土』の私はグノー商品を片っ端から試していた。それはそうだ。興味を持った私はとことんのめり込んでしまう。つまり、本当の私はグノー商品という玩具に手を出したいほど惹かれていたのだ。
心が温かければ、ハイテンションの状態ならば、課長は喜んで私に商品を売り付け、私も喜んで買っただろう。
そうしてどちらも、Win-Winの関係で幸せになれたのだろう。
本当に、私は幸せになれないんだなと思った。
「たくや……こんなことがしたかったの?仕事が見つからないからって、なんでもやってみればそれでいいの?よくこんな陳腐な会社に入ったものね」
陳腐という言葉に課長が反応した。怒っているわけでもない、ただ訂正を促す。
「私たち、エムシー販売店は表立たないだけで大企業ですよ?あなたこそ何処に勤めているのです?」
『同人誌を書いてます』
「ぷはっ!ろくな仕事にもついてませんね?ニートが説教ですか?立場を弁えなきゃいけないのはあなたの方ですね」
「思ったことを言っちゃいけないの?あなたの会社は随分と縛っていらっしゃるのね」
「会社とはそういうものです。言いたいことを言えるのは役職がついてから。上下左右の関係を保つことが良い社員の条件です」
「なら私は社員じゃありません。拓也に言いたいことを言っても束縛はないでしょう」
グノー商品?エムシー販売店?課長?…………拓也!
そうなんだ。段々と分かってきた。今まで分からなかったこと。凍った心が氷解させるくらい熱くなってきた。
ハイテンションでもない、馬鹿な思考はしていない。ただ私は、この状況に怒っていたんだ。
他の誰でもない、理論ばっかりで上から押さえつける課長を慕う、この男に――!!
「拓也の馬鹿!格好良いことだけを並べて自分は上に良い顔してればいいの?ふざけないで!今のあなたは符抜けているわ!!」
「……」
拓也もまた面喰らって茫然としていた。当然だ。急に怒り出した私をヒステリックだと思ったのかもしれない。でも、もう一度言うけど、私は馬鹿な思考をしていない!
「美辞麗句を吐けば誰もが許されるの?なら私が許さない!私はそんなに綺麗じゃないし、心も汚れて穢れている。昔の私は喜んだかもしれない。でも、今の私は知ってしまったの。拓也が教えたのよ。あの一言さえ聞かなければよかった。後悔だらけの人生はそこから始まったのよ!」
『いろいろなことに手を付けることは良い事だよ。これからきっと役に立つよ』
その言葉さえ聞かなければ、私が中途半端だと自覚することもなかったのに。
「後悔こそ人生。迷いこそ生涯。良い道を歩んでいますねぇ」
「茨の道を歩んで何が良い人生よ。私は傷だらけになったのよ!」
飽きてまた違うことを始めて、また飽きてまた違うことを繰り返す無限ループ。
完成された人生。幸せな思考回路。
それがお花畑でメルヘンだったなんて気付きたくなかった。そこから私は何も出来なくなった。集中して時間と自我を忘れていたかった。逃げたかった。
「傷のない人は傷ついた人を慰めることなど出来ません。んふふ、純粋に生きようとしても、傷つかなければ生きられない矛盾。だから人は逃げるんです。人の為だと偽りで慰めて言葉で嘘を固めるのです。自己満足の喜者。誰も本当に人を慰めることなんて出来やしないのです!人が出来るたった一つの事は奈落の底に叩き落と
し、自分より不幸な人を見させて安心させてあげることなのです!!」
『飽きた』
その言葉がどれだけ人を傷つけるのかなんて知りたくなかった。私が奈落へ落とした。私が彼を殺したんだ。
「ええ、そうね。私を奈落に叩き落としたのは彼だわ。でも拓也は、私と一緒に堕ちてくれた。元々決まっていた数学者の道を辞めて、全く知らない国語の先生になろうとした。いえ、いろいろなことに手を付ける私と同じ、拓也も色々なものに手を出した。その結果、自分が分からなくなって、パンクして、何もなくなっていた
。終いに私も拓也から離れた。彼には何も残ってなかった」
「………」
――理不尽に殺された。
理不尽は誰かが与えなければ絶対に起こらない。どんなに不条理だろうと、社会は闇に覆われていても死ぬわけじゃない。
でも、拓也は、死んだのだ。何も残っていない。なにもない。
――生きているのに死んだような人生。
そんな境遇を与えてしまったのは、他ならない私なのだ。もし拓也が私と出会わなければ、エムシー販売店なんて仕事を選んでいない。数ある有名企業に就職できたと私は信じている。だから拓也を救いだしたかった。人生をやり直すことはできないけど、償うことは出来るのだから。
「でも彼には残らなかったけど私には彼が残った。『男の元彼女は別ファイルに保存で、女の元彼は上書き保存』って誰かが言っていたわ。嘘じゃない!私には拓也が残った。そして、いつもあなたが邪魔をした。あなたより良い男なんていなかった!!」
「理論に怒鳴り、元彼のせいにするなんて面倒くさいですねえ。あなた、自分で言ったじゃありませんか?男のファイルは上書き保存ですよ。千村くんの中にあなたはいません。居るのはこの私、握出紋です!きゃっきゃっうふふっ」
「だからあなたは符抜けたのよ!男に興味あるの?最低!!あなたは私のことを思っていた!過去のあなたが支えになっていた!再会できたら伝えたいことがあったの!!」
勢いのままボロッと言ってしまいたい言葉を――
「あらっ?告白するんですか?よりを戻したいんですか?都合が良いですねえ!!人生は一期一会です。奇跡を信じて歩いていたあなたが偶然再会したから喜んでいるだけです。人生はそんな物語っぽくありません。ハッピーエンドは絵本の中にしかありません。振られるのが分かっているのにそれでも、言っちゃうんですか?」
悪魔が思考を邪魔する。振ることはあっても、振られたことは一度もなかったから。
「……ぁ」
結局、私は変われない。可愛い自分を捨てることが出来ない。振られるなんて最大の汚点。傷付く事実。
「もういいでしょう?あなたの言っていることは何もかも中途半端です。それがあなたの人生かもしれません。目指している場所が低いのですから仕方のない事ですが、これ以上千村くんに盾突くようなら、私とて容赦しませんよ?」
『粘土』の私まで見つめている。
変わらなければ、楽しいことだけをやり続けられる。グノー商品遊び放題だと。
既にグノー商品のトリコとなった『粘土―わたし―』は次の遊び道具を見つけたようだ。
でも、それは嫌!
「拓也……あなたが私を変えた。両極端な人生になりたかったのに、私をこんなに堕落させた。こんなに苦しめた。もう、楽になりたいの」
今言わなかったら後悔する。変わらない人生、後悔の連続を繰り返してしまう。そんなの、絶対いや。
「――私、拓也を趣味にする。拓也にずっと尽くしていきたい」
私は、生涯で初めて告白したのだった。
[3]
「うるさい女ですね!!」
握出が怒り狂う。
「そんなに千村くんのことを想うなら、その気持ちのまま私の道具にして差し上げますよ」
乱暴に『粘土』に抱きつくと、服を破いて上半身を露わにする。形の整った乳房。初々しい桃色の乳首に握出は吸いついた。
『あん』
『粘土』は怖がることはしないで握出を歓んで迎え入れた。
「可愛いねえ、その乳首。私が優しくいたわってあげますよ」
握出がチュウチュウ吸う度に由香にもリンクして身体をビクンと反応させる。
「いやっ!やめて!」
「心が歓んでいますでしょう?それがあなたの本当の気持ちです。心が私を許し始めているのです」
「いやあ!あなたなんか――」
「器など黙って私に犯されればいいのです。心は純粋なんですから丹念に撫で上げて差し上げます」
握出の右手が『粘土』の下半身に触れる。スカートの奥に隠れたパンティに触れると、爪を立ててカリッと引っ掻く。
「ひやああ!」
『ひぅっ!』
直に触れられるよりも痛みを緩和するため、絶妙な甘さを与える。
握出が下着ごとスカートを剥ぎとろうとする。
「あっ、そこは」
「みせてごらんなさい。恥ずかしがることはありませんよ」
『……はい』
『粘土』は握出を受け入れた。パンティは剥ぎ取られ、シミのついたパンティは由香の前に放り出された。握出は『粘土』の濡れ具合を確認した。
「んん、ここまで行けば大丈夫ですね。では、――元の形に戻りなさい」
そう告げた瞬間、『粘土』は由香の姿から一瞬で土の塊に戻った。握出が『粘土』を拾うと素早く由香に近づいた。
「では、続きは器―あなた―で楽しませてもらいましょう」
大きく振りかぶり、そのまま粘土を由香の胸へ押し込む。ズブズブ……と沼のように胸の中に入っていく『粘土』。
「ああああああああ!!!……あっ、」
全てが入ると、由香の身体が途端に沸騰したように熱くなってくる。
「熱いでしょう。丹念に焼きつくしましたからね。うまく出来たと思いますよ?」
「ご主人様……っ!」
「もちろん、心に言ったことはすべて反映されます。ですので、私の命令はちゃんと聞いてもらいますよ。大丈夫、全ては快感になりますから」
「いやっ」
「さあ、はやく服を脱ぎ棄てなさい」
器が断っても心は握出に忠実に従う。下着にも手をかけ、足元へズルズルとおろしていく。
「いやあ!!」
「泣かないで。見せることは良い事ですよ?ほらっ、壁に手をついて四つん這いになりなさい」
泣きながら拒絶しても握出の言う通りに壁に手をつき、お尻を突き出す。スカートをはいていても、時々アンダーヘアーとおまんこが見え隠れする。
「中途半端もいいものですね。迷いがあるから助けを求め、その姿は捨てられた猫のように愛らしい。右にも行けず左にも行けない、ならず者の末路ではありますが、あなたの人生には丁度いい。心は完成しているのです、器が後は追いつくだけでいい」
握出がズボンを脱ぎ、パンツの上からでもわかるそそり立った逸物を見せつける。由香が歓喜と恐怖の表情をする。
「中途半端でもいいって、言ってくれたじゃない……」
――握出が由香のお尻に手を置く。
「全然知らない世界を見せてくれたじゃない」
――握出がパンツを脱いで逸物を入口にあてがった。
「拓也……」
「――やめろ」
[4]
ドックンと、俺の心は脈打った。
「今の声?」
握出が振り向いた瞬間、俺はグノー商品『粘土』を持って握出から由香を奪い取っていた。そして再び由香の胸へ押しつける。
「これ以上粘土を足すつもりですか?やめなさい!そんな硬い状態の粘土を入れれば、器どころか完成された心まで壊れてしまうじゃないですか!」
由香ではなく『粘土』の心配をするのか。
「粘土の吸着性は侮れないんだ。おまえにとって完成された心でも、それがお前の限界の心。由香はまだ先へ行ける。中途半端だから、まだ先があるんだ」
握出の完成した心―ねんど―も中途半端だから、俺はさらに『粘土』を足せる。そして、粘土同士がくっついた瞬間、俺は粘土を引っ張りだす。硬い粘土に柔らかい粘土もくっついている。二種類の粘土が由香の中から出てきたのを確認し、由香が助かったのだと安堵した。
握出がつまらなそうに見ている。
「完成は限界?ではその先にあるものとはなんなんです?」
「信念だよ。心の芯に立つ曲がらない支え。信じる心が折れない限り、俺は戦う」
握出と対峙する。何度だろうと俺は握出を倒すために立ちあがる。それが俺の信念だ。
「戦う?この平和な世界で戦うと言いますか?いったい誰と闘うのです?見えない敵とですか?くっ、くくく……滑稽だ。そして無能で愚かだ。敵は初めからいないのです。敵と思うのは、敵を作り出すあなたの心なのです。
――腹立つ、
――言うことを聞かない、
――自分勝手、
――辞めろ
仕事をしているのです。ぶつかっている間はまだまだ半人前です。しかし私のところまで行くと相手のことなど気にならないのです。
――会社を良くしよう
――客さまを喜ばせよう
ベクトルが違うのです。相手がどう思っていようが知ったことじゃありません。相手をどうこうするより自分が変わればいいのです」
「……なら」
「だが、人はそれが出来ないのです。悲しい事に人は意志を殺すことが出来ないから。だから私は救済としてグノー商品を用意しました。その結果は見ての通りです。戦争どころか闘争もなくなった。自分勝手に生きる世界が許された」
俺以外のところで平然と、罪を感じることもなくグノー商品は誰かに使われ、飛ぶように売れている。
それは確かに闘争もない。独占だ。
「そんなベクトルに進ませて、それで自分は正当化なの?なんて勝手なの!?」
「許したのはあなた達です。誰もブラックな会社で働きたくないでしょう?なら、自営業を経営して社長になるしかないのです。だが、そんなこと簡単に出来る筈がありません。もっと効率的に、そして経済的にも楽な方法。上司をうまく使えばいいのです。報告連絡相談を怠らずに、時々ちらっと小耳にはさんだように辛いこと
を告げれば、上司は環境を変えてくれる。上司がすべて責任を取ってくれる。そこには自分の意志はない。第三者になるのではなく、当事者になるのでもない、用は第三者になるような空間を作るとでも言いますか……グノー商品はそれを可能にする」
掌の上で操っておきながら自分は無関係を煽る。
仕事をさせておきながら自分には責任がないと部下を怒る。
それはどこにでもある光景。どこの会社もそうである。
それはどこにでもある現実―リアル―。
「待て!それを言ったら、おまえは――」
俺は気がついたのだ。現実と非現実で生きる握出の正体を。
「お察しの通り、私には意志がありません。千村くんの言うことに耳を傾け、やれと言われればたとえ下に言われようとやってしまうのでしょう。プライド?信念?そんなものありませんよ。私は遥か昔に柱を壊してしまったのですから」
現実離れしていながらも握出は俺を守った。そう、握出は心を壊しているに他ならない。怒ることをしない。常に笑っているのも、仕事かプライベートかで心を壊してしまったせい。
「だからお前は、『粘土』によって心を完成させたのか」
「御明察。私の心は『粘土』で作られております。さらに言うなら千村くん。身体は『人形』で出来ております。この身は全てグノー商品によって作られているいわば擬似新人類。グノー商品を作り出したのはオリジナルの私、しかし私もグノー商品に作られた。そしてこれからも私はグノー商品と生きていきます」
握出の真実はグノー商品をさらに悪魔の道具に変えた。道具が人を作りだす。
「おかしいぞ、握出。自分を作り出した?じゃあ、オリジナルの握出は何処に行った?」
目の前の握出を作り出した張本人は何処にいるんだ?
「んー。焼いたので今は土に還っております」
俺も由香も驚愕した。
「オリジナルは私を作り出した後、本当に壊れてしまったのです。どんなにオリジナルを作ったところで私はオリジナルにはならなかった。握出紋が作り出したのは本物に限りなく近い偽物だったのです。私はオリジナルの言うことを忠実に従ったが、オリジナル自体が人に従う生き方じゃありませんでした。私の行動言動はすべ
てオリジナルを苛立たせるものでした。そして、本物は壊れてしまった」
当然だ。偉業を成し遂げる時に己を観測しなければ意味がない。握出のやったことは、人間を作ろうとしたわけでもない。真逆のことだ。
「退屈な現世を楽しむために、無駄をしたかった」
自分がもう一人いれば、全てをもう一人の自分にやってもらえればよかったのだ。オリジナルに近い自分を作り出せれば、それこそ自由が手に入る。そのために、偽物を作ったのに、結局自分を信じられなかった。
「所詮、人間はそんなものです。自分すら信じられないのに、どうして他人を信じることができるのです?信じられないのならどうする?……信用を押しつければ良い。信頼を得れば恩恵を受けるのです。心は柔らかくなるのです。硬い心は全てを受け入れる様になるのです。そう、例えば――」
俺ははっとした。
「耳を塞ぐんだ!!」
由香の耳を塞がせた瞬間、
「『急に眠くなってきた』」
握出の声を聞いた住民がバタバタとその場に崩れ落ち、眠り込んでしまった。由香が信じられないような表情をしているが、握出はまさに悪魔の表情のように状況に笑っていた。
「私の声を素直に受け入れる様になるのです。如何ですか?これが事実です」
そう、握出の能力が、握出の誕生が全て矛盾しているからこそ、人類は矛盾することを証明させてしまった。
エコだ、自然を守るんだと叫んだところでゴミを捨て、山を削っている時点で全く説得力がない。ただの自己満足だ。快感を得たいだけなんだ。
「思い上がった人を裁く権利が、私にはあるのだよ!!休みたい?自由になりたい?そんなもの天国以外に何処もありはしない!!自由になりたいのなら私が叶えて差し上げます!全ての人類の根本が快感を得たいのなら、社会が休みたいのなら、私がその柱を建てさせてあげます。グノーグレイヴの力によって!!」
絶対の力、完成された理念によって『グノーグレイヴ』は此処に生まれた。今この瞬間、握出が「世界は滅ぶ」と望めば世界は滅ぶだろう。
嘘ではなく事実として、真実ではなく実態として握出の望むように世界は変わる。
それが営業部長、握出紋の力なんだ。誰も握出に勝てる訳がない。
「……完璧だよ、握出。お前の言っていることに間違いはないよ」
握出は納得したように頷いた。当然だ。否定など出来る筈がない。俺が出来るのは――
「でもな、俺はそれほど完璧になりたい訳じゃない。休みの日にはゲームをやりたいし、息抜きをしたい。論破だ。お前の完璧は机上の空論でしかないんだよ。グノーグレイヴ?完璧しか力を手に入れることが出来ないのなら、人間にグノーグレイヴは授からない。何故なら、人は未完成で完成なんだ。人間から未完成を取り除い
たら、完成ではなく欠陥になってしまう。わかるか、握出?人は矛盾した生き物なんだ。でも、それでいい。みんな違って、丁度いい。完璧など、この世の何処にもありはしない」
――俺が出来るのは、わがままを吐くしかない。握出は嬉しそうだった。
「けきゃきゃ、また面白い事を言いますね。未完成故に完成ですか?そういう捕え方、私、大好きです。でもね、それじゃあつまらないんですよ。力と力がぶつかり合うから試合に見応えがあるのです。完成されなきゃ、何時まで経っても面白くなれません。戦いが好きなら、最後は勝たなきゃ面白くないじゃないですか?一番に
なりたくないんですか?」
人を知り尽している握出の誘導。否定はできない。だが、
「わたしは、一番にならなくて良い」
「ウソです!」
あまりのわがまま振りに握出も冷静さを欠けてきた。思い通りに事を運んできた握出は、自分の対応できる部分にだけは完璧な予防線を引いていたんだ。
逃がさない。それはまさに握出の掌で弄ばれた俺自身の姿。だから、逃げるのならとことん逃げてしまえばいい。
「分からなくても良いんだ。秘密があってもいい。ただ、社会は淀んでいようが、俺たちは自分の道を歩く」
社会に対して反旗を翻す行為。自分勝手に全力を出し、その結果として社会が認めないなら俺は捨てられよう。捨てられる神がいれば、拾う神もいるのだから。
それが俺の信念。断固たる決意。握出との決別。社会を敵に回そうが、由香と供にいる。
「……失望した。ああ、つまらない」
握出はそれだけを呟いて背を向けて歩きだす。やがて俺の前から姿を消した。
[エピローグ]
翌日、俺が退職届を懐に忍ばせて会社に出社すると、エムシー販売店はもぬけの殻になっていた。誰もいない、机やいすは転がっているが、電気の消えた会社は、まるで夜逃げされた後のように静まり返っていた。
何があったのか知る術はない。握出に電話したところで電話は既に繋がることはなかった。一年間通った会社も、社会に勤めたという事実も、まるで夢だったように俺の前から消えた。
闇会社が本当の闇に帰った。そう思いたかった。
一年間という短い時間、まるで俺は催眠にかかったように忙しい毎日を繰り返したが、それでも楽しかったと言う記憶も残る。
なんだ、俺はなんだかんだ言っておきながら、仕事をしていたんだな……。辛かった、苦しかった、それでもやってきた一年は本当に価値のある――
「あっ、そうか……」
社会とは最高の催眠術師だったんだ。時には荒波に揉まれ、原石は磨かれて、やがて上司と同じ人生になるまで繰り返して還暦を迎えさせる。
「なんだよ。それじゃあ俺は将来――」
これは呪いだろうか。社会が残した呪いは強力で、一瞬にして希望をなくし絶望を与える。
外に出ると由香が待っていた。由香が俺を見ると、心配そうな顔をして近づいてきた。
「どうしたの、拓也?」
俺は今どういう顔をしているのだろうか?
泣いているのか、それとも笑っているのか、正直なところ分からない。
でも、由香は何も言わず俺の傍で歩いてくれる。この時間だけは本当に大事にしたい。
エムシー販売店が完全に見えなくなったのを狙って、由香が切りだす。
「ねえ、拓也。将来なにになりたい?」
終わりがあれば始まるがある。由香の声には希望に満ちた温かみがあった。二十歳超えて将来のことを考えるなんてメルヘンチックではあるけど、まるで子供に戻ったように純粋に由香の質問に答えようと思う。プロ野球選手なんて答えたら由香はなんて言うだろうか。
俺の集大成。由香を幸せにするために、俺は何にならなくちゃならないだろうか。悲しませないように、俺のモデルとなる人を模索しなくちゃいけない。
「ん……俺は――」
脳裏に『彼』の顔が巡り、過り、残り、依存する。
それでいいのだ。彼から良いところを残し、悪いところを切り捨て、『俺』を作り出す。
「……プ」
考えている途中で笑ってしまった。由香が怒っているから謝ることにしよう。
なんだ、やっぱ俺は、俺なんだ。
< 続く >