「よし、それじゃあ答案を回収するぞ。各自自分の答案を裏向きにして前の席に回すように」
化学の橋本先生の指示に従って生徒たちは黙って答案を提出する。
今日の三限は、実力テスト。いわゆる全教科一斉に行われる定期テストとは異なり、各科目によって不定期に開催される、これまでの授業で扱ってきた内容全体の理解度を測るためのテストだ。
キーン、コーン、カーン、コーン……。
授業の終了を報せるチャイムが教室に鳴り響く。
「うにゃぁ~、終わった……」
悠麻はお手上げするかのように両腕を広げて机の上で突っ伏した。
正直なところ、化学は悠麻の得意科目ではなかった。悠麻に得意科目などというものがあればの話だが。
「アンタねえ……普段からちゃんと勉強してないからこういう時に困るんでしょ」
悠麻をたしなめるように発言したのは、近くでその発言を耳にしていた美沙だ。
「むぅ……だってさあ、ボイルシャルルの法則とか六方最密構造とか、実社会で何の役にも立たないのに勉強なんてやる気になるわけないじゃん」
「社会に出た後のことなんて何も考えてないでしょ。やりたいものが明確にあるならともかく、何のビジョンもないのに学校の勉強を切り捨てるって、自分の将来の選択肢を狭めてるだけだって気付いてる?」
「ま、まあまあ美沙。私も、さっきの実力テストは難しかったと思うよ……それに実力テストって定期テストみたいに、事前にどの辺りが試験範囲になるかも分からないし」
険悪なムードになりそうな2人の横から割って入ったのはユキだった。
といっても彼女の場合そこまで試験結果に自信がないわけではない。もともとユキは理系科目は得意分野だからだ。
ただ、クラスメイトたちがこんなことで仲違いする必要はない。クラスの中で喧嘩に発展しそうな時、仲裁するのは概ね彼女の役割だった。
「意外と分かると思うけど……範囲」
ぽつりと小声で呟いたのは、会話を黙って聞いていた七海だった。
「……先々週辺りから橋本先生が授業中に何度か『この部分はちゃんと復習しておいた方がいい』とか、『大事だから覚えておくように』って言ってた箇所。
あれって多分、実力テストに出題する範囲のことだよ。ああやって、ちゃんと授業を聞いてる生徒と聞いてない生徒を振り分けてるんだと思う。
例えば、一昨日の化学の時間に、今やってる範囲と関係ないアボガドロ定数の話が出てきたの、覚えてる? ……あれ、今日の問7の問題だからだよ」
「……ふぇ? アボガドロ定数……って、何だっけ?」
「6.02×10の23乗……物質1モルを構成する分子数」
「あ……あー! そのアボガドロ定数ね!」
慌てて取り繕うように頷く悠麻。彼女が問7を落としていることは誰の目から見ても明白だった。
周囲の女子たちが呆れかえっているところに、不意に横から会話に参加してきた人物がいた。
「へえ、勉強になるなぁ……じゃあさ、『問11の答え』は何だった?」
「……は?」
突然会話に横入りしてきた男子に、女子たちは一瞬面食らったように停止する。
──そこには、何が面白いのかニヤついた笑みを浮かべる浩一が立っていた。
「何よアンタ、普段からろくに勉強もしてないくせに何か用?」
美沙が警戒心も露わに睨みつける。突然の闖入者を歓迎していないのは明らかだった。
しかし当の浩一はそんな彼女の反応に気付いていないのか平然と続ける。
「いや……実は僕もさっきの実力テスト、いくつか自信がないところがあってさ。
それでちょっと答え合わせしたかったんだけど、みんなの『問11の答え』がいくつだったか聞いてもいい?
──それとも、もしかして解けなかった?」
「ちゃ、ちゃんと解けたに決まってるでしょ!」
浩一の見え透いた挑発に食って掛かる美沙。無視するのが最善だと頭の中で分かっているはずなのに、浩一に話しかけられるとつい相手の思い通りに反応してしまうのだ。
そんな美沙の反応を見て浩一は満足そうに尋ねる。
「ふーん、本当かな? じゃあ、教えてもらってもいい?」
「そ、それは……」
美沙は答えあぐねる。勢いで反応したはいいものの、肝心の問11がどんな問題だったのかすら覚えていないのだ。だが、解いたことは間違いない。何故か美沙にはその確信があった。
したり顔の浩一の前で、美沙は必死に記憶を手繰る。
(浩一なんかにバカにされてたまるもんか……! 何でもいいから思い出せ、私……!)
──そうだ、思い出した。正確な問題文までは思い出せないが、確か前半と後半に分かれた問題だ。前半が何かの融点のような2ケタくらいの数字を答えさせる数値問題で、後半部分はアルファベットの選択式の穴埋め。
そこまで思考が辿り着いた時、ようやく美沙は自分が何と答えたのかはっきりと思い出した。
「そうよ、確か……82の、Cよ!」
自信を持ってはっきりと美沙は、浩一の前でその数字を叫んだ。相変わらず問題はさっぱり思い出せないが、そんなことはどうでも良かった。要は、答えさえ合っていればいいのだ。
だが浩一はたじろぐ様子も見せずに震えながら笑いを押し殺している。
「くくっ……! そっか、美沙は82のCかぁ」
「そ、そうよ、何かおかしいって言うの!?」
美沙は再び浩一を睨みつける。美沙は、この答えが間違っていないと確信していた。何せ先週の身体測定で──ん?
美沙は自分の頭に思い浮かんだ奇妙な単語に首をかしげる。身体測定と化学の問題に何の関連性があるというのか。
しかし彼女が結論にたどり着く前に、浩一は他の女子たちに顔を向けて声をかけていった。
「まあ待ちなよ……ちゃんと全員分を確認しておかないと、『答え合わせ』にならないだろ? 例えば、七海ちゃんはどう?」
「え? ……えとっ」
不意に自分に飛んできた質問に、七海は一瞬答えに詰まる。彼女も問題文は思い出せないものの、回答はしっかり覚えていた。問題はそれが、先ほどの美沙の答えと明らかに異なっていることだ。
「私は……74のA、だった……」
逡巡の末に七海は答えた。自信がなかったわけではない。はっきりとこれが自分の回答だと記憶しているし、正しいことも間違いない。だが何故か、この数字を口に出すことがとても恥ずかしく思えたのだ。
「何よそれ……さっきはあんな偉そうなコト言って、二人とも全然ダメじゃない」
悠麻は口を尖らせる。美沙と七海の答えが一致しない以上、二人とも正しいということはありえない。
というより、二人とも間違っていた。何せ悠麻は、自分の答えこそが正しいと確信していたからだ。
「へえ……じゃあ悠麻は自信を持って答えられるの? ──『問11の答え』を、さ」
「あったりまえでしょ! 答えは『84のD』よ!」
自信満々に胸を張って答える悠麻。その表情は誇らしげだ。明確な理由があるわけではないが、前の2人に勝っているような気がしたからだ。
そんな悠麻の様子を見ながら、何故か浩一は満足気に頷いている。
「ふふふ、教えてくれてありがとね悠麻。さてと、最後の答え合わせだけど──ユキ、『問11の答え』は何だった?」
「あ……その……」
ユキは真っ赤になってうつむいた。そして、おずおずと自分の回答を口にする。
「90のE、だけど……」
「にゃぁっ!?」
先ほどまでどや顔を浮かべていた悠麻が、何故かその数字を聞いた途端に打ちひしがれたような顔でショックを受ける。
その隣で美沙が堪りかねて叫んだ。
「……ちょ、ちょっと待ちなさいよ! こんなのおかしいでしょ、数字どころかアルファベットまで全員バラバラじゃない!」
悠麻はともかく、他の3人の答えはある程度一致するだろうと考えていたのだ。これでは全く答え合わせにならない。
だが浩一は全く意に介する様子もなく、それどころかこの状況を見越していたかのように楽しそうな表情で美沙を制した。
「まあまあ美沙。別に他の人と違うからって、間違ってるってわけじゃないんだから。
みんな違って、みんないいと思うよ」
──実力テストの設問が10問しかないことに少女たちが気付いたのは、翌週の化学の時間に答案が返却された時だった。
<終>
読ませていただきましたでよ~。
リボンのネタバラシをするのかと思ったら全然違ったw
みんな違って、みんないい。
いい言葉でぅねw
別にないのが好きって訳でもないでぅけど(嫌いでもない)、昨今のとりあえず盛っておく傾向はあまり好きじゃないのでぅ。盛りすぎ気持ち悪い(お前の性癖などどうでもいい)
であ。
>みゃふりん
感想ありがとうございます!
自分は割と小さめの方が好きかも知れません。
リボンのやつが下半身なら、今回は上半身ということで。
読みました! 女の子たちが数字の意味することを表層意識ではわかっていないようになっているけれど、
深層心理ではわかりながらも暴露させられていて、そのせいで、
数字に自信を持って答えたり、躊躇いがちに答えたりしている、そのグラデーションが最高でしたっ。
>自信満々に胸を張って答える悠麻
うん。なぜか行動もシンクロしているのが、なお最高です。
今年も楽しみにしておりますっ。
ちょっとムズムズさせる範囲の悪戯でも、読んでいて得した感じになれるのは、
会話や女の子たちの日常が、サラッと自然に描写されているからですね。
>永慶さん
そこに言及していただけるのは嬉しいです!
そう、表層意識ではあくまで「実力テストの答え」に紐づけられている数値ですが、
深層意識ではしっかりと把握して答えているため、それが無意識レベルで言動に影響を与えております。
めっちゃ短い小ネタでしたが、これからもちまちま書いていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。