3話
──草木も眠る丑三つ時。
山中にひっそりと立った小ぶりな豪邸の周りでは、数人の警備員たちが少し退屈そうな顔で欠伸を噛み殺しながら小声で話していた。
「なあ……本当に今夜、怪盗サイアミーズが現れるのか……?」
「俺に聞くなよ……ったく、こんな片田舎の屋敷に盗みになんて入っても話題にもならないだろうに……」
「駆り出される俺たちにとってもいい迷惑だよな……」
時折思い出したように周囲を懐中電灯で照らしたり、屋敷の周りをぐるりと見回ったりしているその姿勢は、お世辞にも謹直な勤務態度とは言えない。
警備員たちをちらほらと遠巻きに眺めるように並んでいるのは、数台のテレビカメラと、マスコミのレポーター。だが、彼らもまた、どこか醒めたような表情だ。そのさえない風体からも、一線級のプロではないことが伺える。
「センパイ……俺らここにいる意味あるんスかね?」
「……うるせえ、社の方針なんだよ。『怪盗からの予告状があれば必ず待ち構えろ』ってな」
「でも今まで怪盗サイアミーズって一度も──」
「わざわざ言うな、黙ってろ……俺が好きでこんな場所でカメラなんて構えてると思ってんのか?」
不機嫌さも露わに吐き捨てるその物言いに、後輩と思われるテレビ局員は諦めたように屋敷の屋根の辺りを向いた。
「ふぁ~……早く帰って酒飲みてえ……」
気の抜けた表情で大きな欠伸をしている警備員が、自分の背後で忍び足で屋敷へと侵入する人影に気付くはずもなかった。
……
──屋敷の内部、書斎入り口。
「なんで俺だけ屋敷の中で一人なんだよ……とんだ外れくじだぜ……」
コツコツと足音を響かせながら、書斎の前の廊下を巡回している警備員。
周辺を懐中電灯で照らしながら、侵入者の気配がないかと探る。
そんな彼が書斎の入り口のドアを通り過ぎたタイミングを見計らって、物陰から小さな人影が音もなく飛び出し、見つからないようにそっと書斎のドアを開けて忍び込む。
「……ふぅ」
書斎のドアをそっと背後で閉め、内部に人がいないことを確認して一息ついたのは、シンプルな黒いスポーツウェアに身を包んだ、ショートカットの少女。
その顔立ちも、決して人目を惹くような美貌や弾けるような可愛らしさなどといったものは感じられない。かといって、別に顔立ちが整っていない、というわけでもない。一言で言えば──『地味』だった。
少女は書斎に忍び込み、机の上に置いてあった宝石箱に手を伸ばす。
「これね……」
宝石箱の中を確認する。間違いなく、今回のターゲットの宝石だ。少女は宝石箱を懐にしまい込んで、代わりに小さなメモを取り出した。
『10カラットのルビーは頂いた──怪盗サイアミーズ』
ワープロ打ちでそれだけ書かれた簡素な犯行声明を、宝石箱があった机の上にそっと置く。
ちなみに、『10カラットのルビー』というのは別にこの宝石の異名でも何でもない。本当に、ただ大きさが10カラットあるだけのルビーなのだ。由緒ある品でもなければ美術的価値が高い訳でもない、単なる宝石。
市場価値せいぜい数百万のこの宝石を警備するために厳重な警戒態勢を敷けばそれだけで足が出る。だから、屋敷の周りに配置された警備員も、恐らくは近所の警備会社や知り合いから寄せ集めただけに過ぎないのだろう。
「ま……こっちとしてはやりやすくて助かるんだけどね」
怪盗サイアミーズは他の多くの怪盗のように、厳重な警備を掻い潜ったり、価値の高い芸術品を盗み出したりと言った挑戦に興味がなかった。ニュースで騒がれる必要もないから、わざわざ犯行後に姿を人前に現わして戦利品を見せびらかすようなこともしない。
彼女に言わせればそのような行為は全て、仕事の成功率を下げるだけの自己満足にすぎない。
本当は予告状や犯行声明も出したくなどないが、その辺りは怪盗として最低限のルールというやつだ。
目立たず騒がず、堅実に。それが、怪盗サイアミーズのモットーだった。当然、誰にも見つからない逃走経路も確保済みだ。マスコミの皆さんには申し訳ないが、今日も彼らには手ぶらで帰ってもらおう。
「さてと、警備の巡回ルートはもう把握してるからあとはマスコミのカメラを避けて……」
「──呆れた。聞きしに勝る……いえ、聞きしに劣る地味っぷりね」
「誰っ!?」
突然部屋の入り口から声をかけられ、怪盗サイアミーズは振り返る。そこには、クリスタル製と思われるネックレスを首にかけ、女性用のスーツに身を包んだすらりとした女性が佇んでいた。
警備員、という雰囲気ではない。かといって、この宝石を狙うライバル──という可能性はもっと低いだろう。
「あら、自己紹介が遅れましたわね。私は『始末屋ヒュプノ』──この業界で生きているなら、聞いたことくらいあるかしら?」
「──『始末屋ヒュプノ』っ!?」
その名を耳にして一瞬で目を見開き、警戒を露わにする怪盗サイアミーズ。
聞いたことがある……どころの話ではなかった。
始末屋ヒュプノ。
怪盗活動をしている者の前にある日突然現れる、神出鬼没の始末屋にして、女の子を辱めることが何よりの生き甲斐だという生粋のサディスト。
その能力の詳細については謎に包まれているものの……確実に言えることがある。
ヒュプノに目をつけられたが最後、人知を超えた摩訶不思議な術によって操られ、必ずや怪盗として──否、女の子として再起不能になるほどの恥辱に見舞われるのだという。
「ある被害者は毎晩マスコミのカメラの前に全裸で現れては『私の裸をいっぱい見てください!』って叫ぶ露出狂にさせられ……別の被害者は全裸登校させられた上に毎日のように学校中の男子の慰み者に……」
「……声に出てるわよ……というか噂にとんでもない尾ひれがついてるじゃない……」
ヒュプノはため息を吐く。あながち全てが嘘というわけではないのが困るところだが、あまりに悪いイメージが広まるのも考えものだ。
「と、とにかく! 私のこともきっと徹底的に凌辱したうえで、あられもない姿をマスコミの前で晒して人生終了させるつもりでしょう! えっちな小説みたいに! えっちな小説みたいに!」
「あのねえ、誤解してるようだから訂正しておくけど、私は別に好き好んで女の子を辱めてるわけじゃなくて、クライアントの依頼で──」
「嘘よっ! だったら、私のような目立たず活動してる怪盗のところに現れるなんておかしいじゃない!」
今にも噛みつかんばかりの勢いでまくし立てる怪盗サイアミーズ。
そう、自分は今までの怪盗活動の中で、同業者に迷惑をかけたり、あるいは表立って恨みを買うような真似はしたことがなかった。そんな真似をして目立つのはむしろ最も彼女が避けたいところだ。
だが意外にもそんな彼女を迎えたのは、ヒュプノの呆れたようなため息だった。
「はぁ……『だからこそ』よ。あなたね、怪盗稼業を何だと思ってるの。もしかして、誰にも見つからずに手頃な宝石を盗み出せればそれでいいなんて考えてる?」
「……は?」
「あのね……この際だから言っておくけどあなた、屋敷の周りの警備員の反応、見たことある? 警備員だけじゃないわよ。マスコミも、警察も、大衆も──みんなね、華麗な手管で警備を掻い潜り、マスコミの追跡を見事に欺き、警察による捜査を出し抜いて、視聴者をあっと驚かせるような──そんな、誰もを気持ちよく『騙してくれる』存在を期待しているのよ。あなたのやっていることは、怪盗じゃなくて単なるコソ泥」
「~~っ!」
ヒュプノの指摘に耳まで真っ赤になる怪盗サイアミーズ。何故、見ず知らずの人間に怪盗のなんたるかを諭された上に、コソ泥呼ばわりまでされなければならないのか。虚仮にしているにも程がある。
それでもヒュプノの言葉は止まらない。つかつかと歩み寄りながら畳みかけるように次々と言葉が投げかけられていく。
「そもそもが、何もかも地味なのよ。場所も、潜入方法も、服装も、犯行声明も、逃走方法も……何より、ターゲットに選んだ宝石!」
「な、何よ! 私が何をターゲットにしようが自由でしょ!」
「本気で言ってるの? 異名すらついていないただのルビーが──はぁ。じゃあ分かりやすく説明してあげるわよ。例えばこれを見て。」
いつの間にかサイアミーズの目の前まで距離を詰めていたヒュプノは、自らが首に掛けているネックレスのチェーンを外すと、サイアミーズの目の前、目線より少し上の高さに差し出す。
「そ、それがなんだって言うのよ……」
「これは、『睡魔のペンダント』。一見するとただのクリスタルにしか見えないかもしれないけど、ほら、見て。無色透明に見える石の中に、細かくきらきらと光ってる粒があるでしょう。ね、見て。」
くるり、くるり。ペンダントのチェーンの自然な捻れによって、ゆっくりとサイアミーズの目の前でクリスタルが回転し、室内灯の光を反射して虹色に光る。
「う、うん……」
「見て。これは水晶の中の特殊な構造によって周囲の光源からの光を反射して、一定の波長の光だけを外に逃がすようになってるの。よく見て。」
時折低い声を交えつつペンダントを少しだけサイアミーズの目に近づけるとともに、空いている左手をそっとサイアミーズの腰に添えて支える。そして、徐々に目線が上に向くようにペンダントをゆっくりと動かす。
「見て。ペンダントがゆっくり回転するだけで、粒の色が変化していくのが分かるでしょう。見て。本当に不思議で、綺麗な色よね。見て。」
ヒュプノがサイアミーズの腰を支える左手に力を込めつつ、また少しペンダントを動かす。上を見ようと視線を上げたサイアミーズは、自然とヒュプノに体重を預けるような形になる。
「見て。この水晶に入射した光は、10個の色に分散することが特徴なの。見て。中には何色が見える? 答えて。」
「あ……赤……?」
「そうね。いくつ色が見つかったか確認するために、色を答えるたびに数字を10から1つづつ減らしていくわね。9。」
「緑、黄色……青……紫……」
くるくる、くるくる。ゆっくりと回転する水晶の中に閉じ込められた色を観察しながら、必死で回答しようとするサイアミーズ。
ヒュプノはその度にカウントダウンを進めていく。
「8、7──それだけじゃないわよね? 6。見て。ほら、見て。5。もっと見て。」
「ぁ……オレ、ンジ……ピンク、黄緑……水色……灰色……」
ぼんやりとした表情のサイアミーズは、水晶の中を覗き込みながらゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。
その口調からははっきりとした意思を感じ取れず、上の方を向いた瞳を覆う瞼も、ピクピクと震えながら徐々に下がってきていた。
「見て。4──そう、いい子ね。3、2。もう少しよ、見て。1──ゼロ。はい、力が抜ける──落ちる」
カウントがゼロになると同時にヒュプノがサイアミーズの瞼に手を乗せて目を閉ざすと、瞼の向こう側で目がぐるんと上を向く感触が伝わってくる。同時にふっとサイアミーズの体から力が抜ける。
「ぁ……ぅ」
「お疲れ様……ゆっくり休んでね」
完全にヒュプノの腕に体重を預けるように脱力するサイアミーズ。ヒュプノはサイアミーズの体を受け止め、書斎の椅子に座らせた。
背もたれに体を預け、だらりと垂れ下がった腕からは一切の力が抜けている。もうサイアミーズは完全な催眠状態に陥っていた。念のため体がふらついたりしていないことを確認したヒュプノは軽く自分の汗を拭い、サイアミーズの目の前にもう一脚椅子を置いて腰かけた。
「ふぅ……落ち方まで地味な子ね。それにしても……私の印象、悪すぎない?」
ヒュプノは独り言ちながら活動方針を見直すべきなのかと少し思い悩みつつ、ちらりと催眠状態のサイアミーズに視線を投げかける。
「それはそれとして……あとはこの子をどう『始末』するかが問題ね。クライアントからは『怪盗の本分も弁えられないようだったら、もう二度と怪盗として活動できないようにしろ』と強く言われてるんだけど……
さっきこの子のことをとやかく言っちゃった手前、ただ裸にしてマスコミの前に放り出すような安易なことはあんまりしたくないのよね」
始末屋の仕事もある意味では怪盗と同じ、何でもいいから恥をかかせればいいというものではない。ターゲットに合わせて効果的な『始末』の方法を考えることこそが、始末屋としての美学であり、腕の見せ所なのだ。
暫し思い悩んでいたヒュプノだったが、不意に何かを思いついたように呟いた。
「……あ。そういえば久しぶりに、『あれ』……試してみる価値は、あるわね……」
始末屋ヒュプノの口の端に、意地悪い笑みが浮かんだ。どうやら、生粋のサディストという評価はあながち間違っていないようだ。
…
……
………
「ぅ、ん……」
書斎で、小さな声が漏れる。声の発生源は、椅子に座らされていた、怪盗サイアミーズの口だ。
そして、やがてその閉じた瞼がうっすらと開き、外光を取り入れる。続けて、2・3回の瞬きを繰り返す。
「……。」
少しぼんやりとしたまま体を起こして周囲に目を配る。ここは、10カラットのルビーが保管してあった書斎。そして、正面に視線を移すと──
──そこには、目を閉じた状態でぐったりと椅子に座っている、始末屋ヒュプノの姿。わずかな呼吸の他、ほとんど動いていないその身体はまるで魂でも抜けたかのようだ。
目の前のその光景を確認した怪盗サイアミーズの口から、何が可笑しいのか笑いが漏れ始める。
「……ふっ……ふふ……あーっはっはっは!」
やがて高笑いを始めた怪盗サイアミーズは、すくりと立ち上がる。その表情は普段のサイアミーズのそれとは別人のように嗜虐的な笑みを湛えていた。
そして、自らの体を見下ろして、まるで試験操縦でもするかのように両手を開閉させたり、こきこきと首を鳴らす。
「一丁あがり、っと……ふふ、所詮は地味なコソ泥、この始末屋ヒュプノ様自慢の『睡魔のペンダント』の前ではちょろいもんね……」
──『睡魔のペンダント』はただの水晶のネックレスではない。始末屋ヒュプノが本物であることを証明する唯一無二のアイテムであると同時に、ターゲットを『始末』するための多くの機能を備えているのだ。
そして今回使ったのはその機能の一つである、『憑依』。文字通り、使い手の魂を肉体から切り離し──ターゲットに対して強制的に『憑りつかせる』ことが可能なのだ。これによって、憑りついた相手の肉体を乗っ取り、まるで自分の肉体であるかのように自在に操ることができることになる、というわけである。
ただしこの機能を使って魂を憑依させた場合の注意点としては、魂の抜けた本体の方は完全に無防備となることだ。特に警備体制が厳重だったりした場合、乗っ取った肉体がその場を離れている隙に本体が捕まっていた──などというリスクも十分にありうるため、使用の際は慎重な判断が求められる。
今回の場合であれば多少現場を離れたりしても問題はないだろう。
これからの自分の行為を想像して、にやり、と口の端を歪ませる怪盗サイアミーズ──いや、『始末屋ヒュプノ』と呼んだ方が適切かもしれない。
『始末屋ヒュプノ』は肩をぐるぐる回し、手で自分の体の感触を確かめるようにぱんぱんと叩く。
「体格差に少し違和感はあるけど、まあじきに慣れるでしょ──とりあえずお目当ての肉体も手に入ったことだし、このおバカさんをどんな風に虐めてあげようかしらね?」
『憑依』の利点は、単に相手の肉体に入り込んで、好きなように操れるだけにはとどまらない。最大の特徴は──『肉体の元の持ち主である怪盗サイアミーズの魂も、心の奥底に封じられている』ということだ。
「さあ、サイアミーズちゃん……お姉さんに曝け出してごらんなさい? あなたの心の中に隠している秘密を、隅から隅までね……」
『始末屋ヒュプノ』は優しく囁きかけながらサイアミーズの胸に軽く手を当てると、軽く目を閉じてゆっくりと呼吸を整える。これは、封じられている怪盗サイアミーズの心にアクセスするための、言わば儀式。
深く、深く──まるで海の奥底に潜るように、どこまでも意識を沈めていく。
こうして集中することで、心の奥底に眠る無防備な怪盗サイアミーズの心の中を覗き込むことが可能なのだ。もちろん、本人に拒否権など存在しない。生い立ちなどの個人情報、過去のトラウマ、心の内に秘めた想い──どれほど秘密にしておきたい情報であろうと、一切隠すことができない。
どうすれば、最も効果的に相手の心を抉ることができるのか。暴かれて最も困る秘密は何か。
まさに、相手を辱めることに至上の悦びを見出すヒュプノにうってつけの能力だった。
1分ほどもそうしていたであろうか。やがて、集中に耽っていた『始末屋ヒュプノ』はゆっくりと目を開ける。
「ふ──あははっ! 随分と地味な子だと思ってたら、なかなか面白いところもあるじゃない……ふふっ、決めたわ、この子にピッタリの『始末』。」
これでこそ、『憑依』を試した甲斐があったというものだ。『始末屋ヒュプノ』は心を躍らせる。
そうと決まれば、あまり時間をかけれはいられない。ある程度の準備が必要になるからだ。
事前にヒュプノが持ち込んだ荷物の中にもある程度の用意があったはずだが、それで間に合うだろうか。
──さあ子猫ちゃん、素敵な悲鳴を聞かせて頂戴?
『始末屋ヒュプノ』は鼻歌を歌いながら、部屋の隅に置いてある鞄を物色し始めたのだった──。
…
……
………
怪盗サイアミーズが屋敷に忍び込んだ、数十分後。
館の周辺では、相変わらず警備員たちが退屈そうに私語を交わしていた。
「……そろそろ怪盗サイアミーズ、現れたのか?」
「さあなあ……いつも、誰にも知られずに潜入して、ターゲットを盗んだ後は姿も見せずに帰るらしいしな」
「なあ、もしとっくに帰ってたならここに立ってる俺たちバカみたいじゃね……?」
そして、それはマスコミも同様──いや、曲がりなりにも警備という職務を果たしている警備員とは異なり、サイアミーズが姿を現さなければ完全な無駄足になることが分かっているだけに、その徒労感は彼らの方が上であろう。
「センパイ、そろそろ予告状に書いてあった深夜帯を過ぎますけど……」
「あー……そうだな、あと10分くらい待って何もなかったら撤収──ん?」
明らかに覇気のない様子でぼんやりと屋敷の方を眺めていたカメラマンだったが……ふと、屋敷の屋根の上で何かが動いているのを発見した。
「待て、何かいるぞ……照らせ!」
「誰だっ!」
いくつもの投光器が屋根の上を照らすと、夜空をバックに、屋根の上にいる人物が映し出される。その姿は──
「みんなー! 今日はアイドル怪盗SIAM(シャム)のライブを見に来てくれて、本当にありがとね☆ ちょっと恥ずかしいけど、たくさん集まってくれたみんなのためにいっぱいサービスしちゃうにゃん♪」
黒を基調とした露出度満点のセパレート衣装。そして、猫耳と猫の尻尾。首に巻かれたチョーカーの真ん中には、燦然と輝く10カラットのルビー。あまりにも場違いとしか思えない存在が、猫のような躍動感あふれるポーズを取っていた。
いつの間にか屋根の上にはこの屋敷の備品であろうスピーカーまで設置され、ポップなアイドルソングが軽快に鳴り響く。無数のサイリウムのように煌く星空の下で、投光器の光をスポットライトに、さながら屋根の上はアイドルのライブステージと化していた。
屋外でも良く通る綺麗な声で歌いながら、躍動的なダンスを披露する怪盗SIAMの姿に警備員たちはもちろん、カメラを構えたマスコミまでもが呆気に取られていた。
「ほ、本当に誰だ……?」
予告状を送ってきたのは怪盗サイアミーズではなかったのか。そもそもアイドル怪盗SIAMなど聞いたこともない。
屋根の上の人物は、そんな警備員たちを挑発するかのように見下ろして、満面の笑みで決めポーズとともにそのパッチリとした瞳でウインクをした。
「10カラットのルビー……ううん、『恋心のチョーカー』はこのボクが頂いたにゃん☆ 取り戻したかったら、ここまでおいで!」
完全に気が抜けたように呆けていた警備員たちだったが、怪盗SIAMに挑発されると自分たちの職務を思い出したかのようにはっとなり、慌てて周囲の仲間たちに指示を出す。
「屋根の上だ、急げっ! 何としてでも『恋心のチョーカー』を取り戻すのだ!」
「おい、カメラ回せ! 絶対に怪盗SIAMを撮り逃がすなよ!」
屋敷の壁に梯子を立てかけてわらわらと登る彼らの表情は、明らかに先ほどまでより活気にあふれていた。
……
──少しだけ時は遡る。
しばらく鞄の中を物色していた怪盗サイアミーズ──の肉体を借りた『始末屋ヒュプノ』だったが、やがて目当ての品を見つけて手を止める。
「ふふっ、見つけた──こんなこともあろうかと色んな衣装を準備しておいて良かったわ」
いくつかの圧縮された衣装に混じって詰められていた、アイドル衣装と猫耳衣装のセット。これこそが、今回の『始末』に必要な最重要アイテムだった。
怪盗サイアミーズが心の奥に隠していた、もう一つの顔──それは、『ネットアイドルSIAM(シャム)』。普段から引っ込み思案で自分を押し殺しているサイアミーズは、その鬱積した感情を晴らすかのように毎晩のようにネット上で動画配信を行っていた。
それも、ただの配信ではない。持ち前の高い歌唱力とダンスのセンスを活かしながらも、布面積の少ない服装を着用し、画面の前のファンに対してお色気要素の高いポーズなどの『サービス』を振りまくことによって、サイアミーズは溜まりに溜まった自己顕示欲を満たしていたのだ。
「くすくす……そんなに見られるのが大好きだったら、心行くまで見せてあげればいいじゃない──マスコミや、視聴者の皆さんにね」
これこそが、『始末屋ヒュプノ』の描いたシナリオだった。
ターゲットがひた隠しにしている裏の顔を引きずり出し、『アイドル怪盗SIAM』としてたっぷりと自分の存在をアピールさせた上で、大恥をかかせて怪盗としての引導を渡してやるのだ。
そして、『憑依』はまさにこういった場合にうってつけの方法だった。単純に操って例えば『屋根の上でライブを演じろ』と命じることは可能ではあるが、そういった命令では周囲の状況に応じた臨機応変な対応が難しい。
かといって、事前に多くの状況を想定して命令を刷り込んでおくというのは与えるべき指示が膨大になり、あまりにも非現実的。
その点、この『憑依』であれば全てが解決する。操っている『始末屋ヒュプノ』がその時の状況に応じてリアルタイムで判断すれば良いのだ。
10数分後、怪盗サイアミーズはヒュプノの用意した衣装を着こみ、顔にはしっかりとライブを意識した化粧を施していた。
できる限りをフリーサイズを用意していたとはいえ、デザインについては普段ネットアイドルSIAMが着ている衣装と異なっている。それはこの際目をつぶるしかない。
邪悪な笑みを浮かべて屋上へと足を進めた『始末屋ヒュプノ』は、屋根の上から警備員やマスコミの様子を観察する。
「良かった、まだ撤収はしてなかったわね……」
流石に肝心のギャラリーが撤収してしまえば計画はご破算になるところだった。
「ふふ、お待たせ──アイドル怪盗SIAM、一世一代のデビューライブの始まりよ」
『始末屋ヒュプノ』は再び目を閉ざし、自らの心の奥底へと意識を沈めていく。
これから始めるライブを演じる上では、歌や踊りはもちろんのこと、スピーカーなどのセットアップ、カメラ映えするメイクなど──多岐に渡るハイレベルな技量が必要となる。
当然だが、『始末屋ヒュプノ』にアイドルの知識や技能など存在しない。当然、普段ネットアイドルSIAMが演じているようなハイクオリティなライブを再現することなど到底不可能……というわけではない。
答えは簡単。『始末屋ヒュプノ』にライブを演じる能力がないのであれば、心の奥底に封じられているサイアミーズの持つ能力を借りればいいのだ。
可愛らしい声の出し方からさりげない目線の投げ方に至るまで、アイドルSIAMとしてのノウハウはサイアミーズの心が、そしてこの肉体が記憶している。
ならば、ライブの間はサイアミーズの心が記憶している『ネットアイドルSIAM』になりきり、『始末屋ヒュプノ』はただSIAMが演じるその動きに委ねればいい。
操っているのは『始末屋ヒュプノ』だが、実際にライブを演じるのはSIAMの肉体に、SIAMの能力。
誰一人として、屋根の上で踊っているのがSIAM本人であることを疑う者はいないだろう。
…
……
………
「追い詰めたぞっ、怪盗SIAM!」
歌と踊りを交えたアクロバティックな追いかけっこの末、警備員たちはようやく怪盗SIAMを屋根の端まで追い詰めていた。
実際には『始末屋ヒュプノ』がそうなるように誘導していたことなど、警備員たちに気付く由もない。
「へっへーん、ノロマの警備員さん、ボクとライブで共演するには10年早いんじゃない?」
べーっと舌を出す怪盗SIAM。その佇まいからは、完全にアイドル怪盗としての風格が漂っていた。
自分を捕えようとする手を掻い潜り、挟み撃ちしてきた相手の同士討ちを誘発させ、時折わざと追手の目の前に現れては相手のズボンのベルトを抜き取ったり、耳元で息を吹きかけたりといった悪戯を繰り返す。
楽しい。大勢の注目を浴びながら追いかけっこすることが、こんなにもワクワクドキドキするなんて。警備員たちとの捕り物を繰り広げる中で、知らず知らずのうちに『始末屋ヒュプノ』の中で得も言われぬ高揚感が高まっていた。
大勢の大人たちを掌の上で転がし、たくさんのカメラが自分を見失うまいと必死で追いかけてくることが、こんなに快感だったなんて。
そして──何より、自分に翻弄されているはずの、警備員やマスコミたちの表情が、まるで怪盗SIAMに魅了されているかのように活き活きとしているのが最高に気持ちいいのだ。
「このっ──『恋心のチョーカー』を渡……あっ!」
眼前に迫った警備員が怪盗SIAMのチョーカーについたルビーを取り戻すために手を伸ばし──無理な体勢のためにバランスを崩した結果、重力に負けるように怪盗SIAMのトップスを掴んで、一気に引き摺り下ろす。
「ふぇ……きゃぁぁっ!?」
「お、おおおおっ……!」
「か……カメラっ! 絶対に撮り逃がすな!」
多くのテレビカメラが狙いをつける中で、可愛らしい悲鳴とともにトップスが脱げ落ち、その下の素肌が露わになる。
やや小ぶりながらも年相応に育った双丘がぷるんという擬音とともに夜空の下で曝け出され、その先端には──小さなハート型のニップレスが、乙女の秘密をいやらしい視線からガードしていた。
「……なーんちゃって☆ もしこの下が見たかったら、ボクを捕まえた時のお楽しみ☆」
「き……貴様ぁっ、大人をからかうんじゃないっ!」
顔を赤らめながらも、まるで挑発するかのようにアカンベーする怪盗SIAM。もはや警備員たちも、下のマスコミたちも、完全に怪盗SIAMの虜になっていた。
全身を駆け巡るぞくぞくとした快感に身を震わせる『始末屋ヒュプノ』。
──いけないいけない。つい気持ちよくて夢中になっていたけど、そろそろ怪盗サイアミーズを『始末』しないと。
こいつの裏の顔を暴くのはこれくらいで十分だろう。あとは自分が怪盗サイアミーズであることを明かした上で、カメラの前で全裸になって警備員たちにでも捕まればそれで怪盗サイアミーズは終わりだ。
できるだけ多くのカメラに映りやすい場所を求め、マスコミたちが一望できる屋根の端にひらりと飛び移って眼下を確認する『始末屋ヒュプノ』。
「うんうん、この辺りだったらバッチリ全てのカメラから──ん?」
眼下に立ち並ぶマスコミのカメラを眺めていた『始末屋ヒュプノ』だったが、ふとその目に映った光景に違和感を覚える。
おかしい。マスコミの関係者に混じって、明らかに『この場にいるはずのない人間』の姿が、そこにあった。
書斎で倒れているはずの始末屋ヒュプノ──『自分自身の本体』が、観客たちに混じって怪盗SIAMの姿を見上げているのだ。
ありえない。何故? 魂が抜けているはずなのだから動けるはずもないのに。だって、ここにいる怪盗SIAMこそが『始末屋ヒュプノ』なのだから──
完全に混乱している『始末屋ヒュプノ』の目の前で、眼下にいるもう一人の始末屋ヒュプノはにっこりと微笑みながら懐に手を突っ込み、きらりと光る何かを取り出す。
チェーンの先に水晶が結わえられたそれは、『睡魔のペンダント』──『始末屋ヒュプノが本物であることを証明する唯一無二のアイテム』。
『睡魔のペンダント』が目に入ると同時に、『始末屋ヒュプノ』の奥底に刺さっていた何かが、徐々に抜けていくのを感じる。
『本物の始末屋ヒュプノである証』を持っている……ということは、向こうこそが、本物の始末屋ヒュプノ。
──なら、私は一体誰?
そこまで考えた時、『始末屋ヒュプノ』の意識は霧散した。
「え……え?」
屋根の上、アイドル衣装のボトムスにニップレスという格好で、怪盗サイアミーズは全てを思い出す。
『目を覚ました時、あなたは私──「始末屋ヒュプノ」になっています。
そう、「睡魔のペンダント」の能力によって、あなたは怪盗サイアミーズの肉体を、そして心を乗っ取ることに成功しました。
生粋のサディストである「始末屋ヒュプノ」は、怪盗サイアミーズを虐めたくて仕方がない。だから、目を覚ました貴方は、怪盗サイアミーズの心の中を暴いて、サイアミーズが普段隠している裏の顔をたっぷりとマスコミの前で晒しましょう。
ただし、「睡魔のペンダント」は、始末屋ヒュプノが本物であることを証明する世界で一つのアイテムです。だからあなたは他の人間が「睡魔のペンダント」を持っている姿を見た時、全てを思い出して元の怪盗サイアミーズに戻ります……』
そうだ、私は一体何を考えていたのか。
最初から、『始末屋ヒュプノ』に憑依など、されていなかった。
そう、ヒュプノの怪しげな術によって、自分自身のことを『始末屋ヒュプノ』だと思い込まされていたのだ。
「あ……ああ……」
全身を襲う強烈な羞恥心と屈辱に、頭の先からつま先に至るまで真っ赤になるサイアミーズ。
こんな、人が秘密にしていた趣味を公衆の面前で暴露され。宝石を盗み出す上で何の意味もない追いかけっこの真似事をさせられ。あまつさえ、テレビカメラの前で女の子としてギリギリの格好を晒され。
……そして、その楽しさを心の奥底に刻み付けられてしまった。
未だに全身を巡る快楽から来る火照りが収まらぬまま、サイアミーズは眼下の始末屋ヒュプノを睨みつける。
恐らくサイアミーズが正気に戻ったことを認識したのであろうヒュプノは、にっこりと笑ってサイアミーズに手を振る。
「~~~っ!」
許せない。今すぐに掴みかかりたいが、流石にこの格好でマスコミの真ん中に突っ込んでいくのはそれこそ自殺行為でしかない。
「き……今日のところは、これくらいにしておいてあげるんだからっ! バイバイ!」
思わずアイドル声で捨て台詞を吐き、持ち前の身軽さを活かしてひらりと屋根の反対側から飛び降りると夜の闇に紛れて消える怪盗サイアミーズ……もとい、怪盗SIAM。
その胸の高鳴りは、警備員たちと追いかけっこを繰り広げてきた所為だろうか、それとも──。
<続く>
読ませていただきましたでよ~(ノクターンでw)
怪盗少女と催眠術・・・キャッツアイにはないらしい(原作もアニメも全部見てないから詳しくは知らない)
前2つとちょっとだけ空いて書かれたのできっとトーマスくんとかミリちゃん(リルさん)に感銘を受けたのではないだろうかと邪推してみる。siamちゃんの暗示とかそんな感じでぅしね。
でも地味だからっていう理由はひどすぎると思いましたまる
地味でもいいじゃないでぅか、怪盗を名乗るからには派手じゃないといけないとか逆恨みですらないw
三話読んで最終回はヒュプノちゃんが逆に始末されないかなぁとか思ったり思わなかったり。
次回も楽しみにしていますでよ~。
わー読んで頂いてありがとうございますー! 大好き!
>前2つとちょっとだけ空いて書かれたのできっとトーマスくんとかミリちゃん(リルさん)に感銘を受けたのではないだろうかと邪推してみる。siamちゃんの暗示とかそんな感じでぅしね。
そこに気付くとはやはり天才か……(気付くわ)
これはですね、ご推察の通り完全に某催眠小説のトーマス回の影響です。
暗示だけでなく、物語全体の構成も完全にトーマス回を意識しています。
もう少し言えば導入シーンも完全にあの小説で得た知識を取り込んで、普段であれば絶対しない細かい描写を入れていたりします。
怪盗はショービジネスですからね!
いや怪盗がビジネスってどんな世界だよ。どんな需要と供給が成り立ってるんだよ(自分突っ込み)
今更ながらみゃふさん逆転好きだな……知ってたけどさあ!
うまいなあどこぞのタイコクにのみこまれたのかもしれぬぞ。
しょせんどれほど揃えようと同じものをのぞまれつづけえるもの、だが、それを得た、それ和また、違うてあろうよと。
よみかたが、いつのまにか、赤いハレを呼ぶのわいいとして、けっこうべんきょうになりましたよ。