プロローグ
エントランスのインターホンが、一定のタイミングで3回鳴る。
主婦の早乙女沙雪は、直属の『上司』の姿を液晶画面越しに確認し、また嫌な予感が増したな、と思いつつ、生後3カ月になる、沙雪に似て既に美人の片鱗を見せている、赤ん坊の由紀を抱きながら、上司を自宅のマンションに招き入れた。
「2ヶ月振りです、みひろさん。前回お会いした時よりもキレイですね……。若返りましたか?」
沙雪が畏まって応対する。時間なさげに、手持ちのファイルを漁っているのが、赤作(あかさく)みひろである。
みひろは童顔で、身長153cmと低く、愛嬌のある丸顔と優しい笑顔で、実年齢から元々5歳は若く見えていた。しかし、今のみひろは30歳と言われても違和感がないほどになっていた。
実年齢はとうの昔に40を超えているのに未だに男性からの求婚がやまない。まあ独身だし、いい人でも見つけたのだろうと沙雪は無理に思った。
しかし、沙雪にとっては意外だった。なぜなら、誰とでも気兼ねなく話せるタイプのみひろだが、実は男嫌いなところがあるからだ
まぁ好きな人が出来れば変わるか、と思い込み、沙雪が続けざまに
「ラブラブそうでいいですね~。うちの夫なんかこの3日間メールの一つも寄越さないで!いくらお仕事が忙しいからって。今まで毎日欠かさず連絡をくれてたんですよ? ひどいと思いませんか!? 絶交ですよ絶交! 奏多が私と由紀に100回謝るまで、家にはいれさせてあげません! あ、みひろさんの結婚式には私も呼んでほしいなあ」
世間からは、冷静沈着、氷の女とまで言われた年上気質な沙雪も、みひろの前ではただのわがままな甘えん坊である。
沙雪は、あらん限りの愚痴をこの際こぼしてしまおうと、嫌な予感を吹っ飛ばしてもらおうと思っていた。いつもの、みひろなら受け止めてくれるはずである。
マシンガントークを延々とかまそうとした沙雪であったが、みひろはお世辞をどうも、という様子で次々に書類を沙雪に渡す。
沙雪は、むーっと不満を顔に出しながらも、すぐに仕事モードに切り替える。
書類が手渡しなのは情報が漏れることを防ぐためである。なぜそんなことを気にするのか?
それは彼女たちが、公安――公安警察官だからである。
通常、公安は顔を覚えられてはいけなく、目立った人間は公安には所属してはいけないはずなのだが、彼女達は特別である。沙雪とみひろの場合、一般人を対象とする捜査はしない。
では誰を対象にしているかというと、端的に言えば世界を牛耳っている人間たちだ。
特に沙雪は、世界中の有名人や政治家とパイプがつながっているので、世界の最先端の情報を仕入れるためには、彼女の存在が不可欠であった。
そして沙雪が公安所属であることが洩れないように義祖父は情報規制を敷いた。
沙雪が公安の人間だと知っているのは、愛する夫の奏多、上司のみひろ、義祖父、沙雪が入庁以降の警察庁長官などごく一部である。プライベートで知っているのは、親友の真希ぐらいである。
早乙女沙雪は10年前、彼女が14歳の頃、世界にその名を轟かせたスーパーモデルで、父が日本人、母がロシア人のハーフである。
14歳にして大人と見間違えるほどの美貌に、美しいブロンド髪、174cmの高身長、スタイル抜群のプロポーションで、文字通り世の男性は、突然現れたスーパーモデル『沙雪』に度肝を抜かれたのである。
そんな沙雪は今から6年前に電撃引退をした。表向きは当時の官房長官の孫である政治家と結婚を表明したという建前のため。
勿論、裏から愛する夫のサポートに専念するから、というのもあったが、義祖父である官房長官から公安警察官として働いてみないか? との誘いを受けたのが、表舞台から身を引いた本当の理由である。
沙雪は幼いころ、ハーフとして劣等感を持っていた。
周りの人たちは沙雪と違う顔。違う髪色。皆本当は沙雪を見下しているんじゃないか、沙雪を仲間外れにしたいんじゃないかと。
もちろんそんなことを思う人間は極々少数で、沙雪は少しずつ日本に住む人たちの温い気持ちを受け入れられるようになった。
そして沙雪はその感謝と恩返しの気持ちから、せめて日本に住む人だけでも、沙雪を見て、少しでも元気になってくれれば、と始めたモデル活動。
その思いは大人になるにつれ、更に直接日本の為になりたい、日本の平和に貢献したい、という思いが夢へと昇華していた沙雪にとって、公安はまさに天職であった。
そんな沙雪は、1年前に、愛する夫を日本に残し、(まあ夫は忙しい上にしょっちゅう海外に行っているのだが)ロシアの国家機密情報を入手している。
沙雪はただコネがあるだけでなく、世界の要人と渡り合えるほどの知性、勇気、直感、正義感、格闘能力を有しているのであった。
そしてこれが沙雪の、母になる前の最後の任務であり、以来、丸々1年、産休をもらっていたのである。
まさにエリート街道を邁進しつづけている沙雪であるが、この仕事、そして忙しくも愛おしい夫、奏多を支え、母として育児をしている今の生活に、大きな充実感と幸せを抱いていた。
さて、みひろは1年振りに沙雪と出会うにも関わらず、全くいつも通りに、今回の任務を伝える。
「今回の仕事はね、すぐに、この町に行くようにしてもらって、それで、次に――――」
――――
ここは、とある日本の閑静な住宅街。七月の初旬で、夕方ながらまだまだ、外は暑い。
汗を流しながら、沙雪はとても静かで住むにはいいところだと思った。沙雪は周囲の人間に怪しまれない程度に、自身の顔を隠しつつ、麦藁帽を付けてぼーっとしながら暢気に散歩をする振りをして、必死に策をめぐらしていた。
彼女は、夫と連絡が取れなくなって以来、ずっと感じ続けて来た、嫌な予感が的中した気がしてならなかった。
沙雪は今まで思考したことを整理する。
まず、任務の内容をまとめると、こうである。
不可解なことに、世界中の有名人、財界のトップ、政治家や、美しい女性が人目を忍んでこの町へ来るのを当局が感知したので、それらの情報を現地に行って調査してきて欲しい。
加えて、沙月の親友であり、モデル仲間でもあった、聖南 真希(せいなん まき)がその町に向かったという情報が入ったので、それも含めて調査しろ、である。
なるほど、有名人が相手ならば沙雪の出番であるし、たった今、人目を忍んでこの町に侵入しているのが本当に、沙雪の親友である真希ならば、現地に行かざるを得ないだろう。
(でも、あからさますぎる)
そう、沙雪は今までの経験から、あまりに自分にとって都合が良すぎると感じたのである。この場合の都合が良いとは、初手の段階から既に自由が消えている、ということだ。
(まるで、私が絶対に、この町へ来なければならないかのような、強制力が働いている、ような……)
アプローチの仕方なら他にいくらでもある。例えば、実際に現地に行った有名人から直接聞き出せばいいではないか。直接でなくてもあの手この手使えば必ずしっぽは出すし、出させる自信が沙雪にはあった。
確かに沙雪にとって、真希は心配ではあるが、命をとられるわけでもないし、町から帰ってきた者には一見して、異常が見当たらないという調査報告もある。
確か、みひろは『すぐに、この町に行くように』と沙雪に命令をした。今までは、情報を抜き出すにしても、少なくともここ2、3年はきちんと情報を抜き出せるのならば、という条件で自由にやらせてもらっていた。
実際に沙雪は、任務をすべて完璧にこなして見せたし、みひろからはそれなりに信頼を得ていると自負もしている。
いくら沙雪が産休明けだからといって、みひろが沙雪を軽んじている、だとか、体調を慮るようなタイプの女性ではないことを沙雪はよく分かっていた。
それはみひろが、こと仕事に関しては妥協を許さず、常にプロ意識を持って任務に当たっていた点から容易に想像できる。
(ということは)
沙雪は最悪のシナリオを考えていた。この仕事は常に危険と隣り合わせである。ありとあらゆる知識と知恵を振り絞り、勇気をもって正義を実現せんとする仕事だ。
特に沙雪の場合、自分が情報を抜き出したとばれては、もう警察には戻れない。彼女が余りにも有名人だからだ。
沙雪は、みひろのことを深く信頼していたし、この世で一番尊敬もしていた。
沙雪はみひろを、自分よりも賢くて、美しくて、強いと評価していて、沙雪は彼女に憧れていたのである。
(まさか……ね……)
裏切り。微かな情報と直感から敬愛する上司への疑念が湧いてくる。
色気づいたみひろ。普段の、みひろならばあり得ない指示。
沙雪の豊満な胸に隠された、みひろとの繋がり、特注の小型携帯電話、も普段の任務ならば、沙雪にとって、これほど心強いものはないのに、今は……。
同時に親友にも疑念が、ふつふつと湧いてきた。利用されている可能性の方が高いとはいえ、もしグルだったら?
大切な人達が、自分を裏切る推論はしたくないが、最悪のケースを、常に考えつづけ、正解を選び続けなくてはならない。それが、みひろからの教えでもある。
公共機関を乗り代え続けて、2時間ほど。目的地の町に到着したが、沙雪は答えの見えない答えを探しながらずっと今回の任務をどうこなそうか苦慮していた。
任務が始まるときには、すでに任務の完了のストーリーを描いているのが沙雪の必勝パターンであったが、今回ばかりは時間が少なすぎる。
娘の由紀は、既に義祖父に預けてきた。みひろに任せるのは、余りに危険だと沙雪の直感が警告したからである。
みひろが、沙雪の家から出て行った後の、沙雪の行動は速かった。
目的地に着く時間を遅らせるために、遠回りして義祖父の家に自ら出向き、快く由紀を預かってくれた義祖父に違和感を覚えながらも、用心するようにと念を押して飛び出してきた。
沙雪は初めに調査しに行くようにと、みひろから命令を受けた屋敷に到着しようとしていた。
そして沙雪は、親友を、見つけた。後姿からでも沙雪にはすぐに真希であると気が付いた。たった一人で大きな、大きな屋敷の門の前で誰かと口論してるようだ。
沙雪は慎重に隠れながら近づいた。流石に少し緊張する、暑さと相まって汗が顔から滴り落ちる。
真希は怒っているようだった。沙雪は彼女が白だと思った。
彼女を疑ったことに恥を覚え、真希が怒っている相手の青年を見て絶望をした。
青年は大体、真希と同じ身長に見えるので162、3辺りだろうか。一見、普通のどこにでもいる20代前半の青年だ。
沙雪から見ても、顔がいいわけではないが、彼女から見れば好印象で、出会い方さえ違えば、深い信頼を寄せることが出来る、と沙雪は思った。
しかし沙雪の目はごまかされない。
一瞬、ほんの一瞬だけ青年は沙雪を見た。そして青年の口が動いた。つぶやいただけなので声は届かなかったが、唇の形で沙雪は理解した。
「ようやく沙雪さんが来た」
なぜ、青年は沙雪だと分かったのか。彼女は変装をしているはずだ。なぜ、沙雪を見て、なんの反応も示さないのか。なぜ……なぜ……。
その瞬間、沙雪の脳裏に思い浮かんだ正解。
それは、捜査官という地位を、親友という地位を、妻という地位を、そして母という地位を、全ての地位をかなぐり捨てて、ひっそりと身をひそめて暮らすことだった。
なぜか。それは、もう彼女は真相に辿り着こうとしていたから。
そして、義祖父と会った瞬間に持った違和感の正体が分かった。
もう、みひろも、義祖父も、下手をすれば夫の奏多も、青年の……男の言いなりになってしまっているんだと、沙雪は直感で分かってしまった。
どんな方法を使ったのかは沙雪には分からない。沙雪がはっきり分かるのは、もう、手遅れだということ。
夫は3日前から連絡が付かない。
みひろは、沙雪に考える暇を与えさせず、いきなり敵の本丸に侵入させた。そして携帯のGPSで彼女なら正確に沙雪の位置を青年に伝えられる。
義祖父に関しては理屈もへったくれもない、ただの勘だ。ただし、沙雪のこういう悪い勘は今まで外れたことがない。
沙雪は呆然と立ち尽くし、目の前の光景を見ることしかできなかった。
< 続 >