第3話「ガツンの長い午後」《Aパート》
【10月14日[火]14時11分、U県・狭間大橋】
SUVとバンがそれぞれ2台ずつ、閑散とした橋の上を渡っていく。CGA(Counter Gatsun Agency=ガツン対策局)の特殊部隊・エンジェル(ANGEL=ANti Gatsun Especial Ladies)の車列である。
まもなく対岸にたどり着く寸前で速度を落とす。
S市側だけでなく、橋の北側にも車を並べて作った簡易のバリケードが設置されていた。
だが、恐らく大型のトラックか建設機械で無理やり車を押したのだろう──、脇の方に僅かな隙間ができている。午前中にN市側から橋を渡ってきたTVリポーターたちも、そこを使ったに違いなかった。
大型車一台が通るのにギリギリの隙間をSUVが先行し、後からバンが徐行してすり抜ける。
再び速度を上げ橋を渡りきったところで、姫野真琴(ひめのまこと)が本部に連絡を入れた。
「Gエリアに進入。これより調査に入る」
計画では、彼女が指揮する姫野班と、結城浩子(ゆうきひろこ)をリーダーとする結城班の二手に分かれ、N市を東西にわけて調査することになっている。それぞれ四名ずつ、SUVに二名、後続のバンに二名の編成だ。
右折して川沿いの道を進む結城たちに別れを告げ、姫野の班は道なりに西へと向かった。
姫野真琴は、もうひとりのチーフである結城浩子と共に、今回の作戦行動における現場の指揮を任されている。
強い意志を感じさせる目、細い顎のライン、すっきりとした鼻筋は、紛れもなく美人だ。長い髪はまとめてヘルメットの後ろから外に出し、背中に流している。スレンダーだがスーツの胸は大きく膨らみ、くびれた腰からヒップへと続くラインも見事なカーブを描いていた。そのボディラインや美貌からは想像しづらいが、警視庁・銃器対策レンジャー出身の27歳だ。
SUVに同乗するもう一人のエンジェルは一条夏希(いちじょうなつき)、21歳のクルーである。
広い額とよく動く大きな目が、聡明で活発な印象を与える。小柄で手足は細く、胸や尻も小さい。だが、その透き通った肌と性別を感じさせない少年のような容姿は、若々しい魅力を放っている。エンジェルの中では二番目に若いが、先輩に対しても臆することなく発言する率直さが、クルー全員に気に入られていた。
「ホントにいるんですかね、椎名亜由美(しいなあゆみ)……」
夏希がぼそっとつぶやいた。
二人ともヘルメットをかぶっているが、シールドは上げたままだ。
ハンドルを握る真琴が、前方を注視したまま静かに頷く。
「今回最初にガツン発生が報告されたのが阿武倉(あぶくら)駅周辺、そこでセーラー服姿の少女が目撃されている。他にもいくつか目撃情報が上がってきているし」
「──その少女が椎名亜由美である根拠は?」
「年齢や服装が一致してる。写真見せて、彼女だっていう証言も複数とれてるしね」
「……でも、椎名亜由美がSAPだっていうのもまだ推測に過ぎないんでしょう?」
「ガツンの荒れ狂う中にいて一人だけ何ともなかったらしい。……美少女だし、普通なら完全に餌食になっていてもおかしくないでしょ?」
「それだけで、SAPとは断定できないんじゃないですか?」
そうつぶやく夏希はどこか不満そうだった。
SAPは『Special Ability Person』の略でサップとも呼ばれている。──特殊能力者を意味するCGAでの呼称だ。
夏希の方をちらっと見て、真琴は苦笑を浮かべた。
「資料、見てないんでしょ? ……目を通しとけって言ったのに」
「すみません。昨日はよく眠れなくて、おかげで寝起きが最悪で……」
「椎名亜由美はこれまで何度もガツン発生現場にいながら、感染した形跡がない。それと、これは3年前の話だけど、彼女によってガツンが収まったという当時のクラスメイトの証言もある。今回の阿武倉でも、『何か不思議なことをしていた』と話す者がいたらしい」
「……結城さんが自宅を訪ねた時には、いなくなっていたんでしたよね?」
「結城が行ったのは10日の夕方、事件の後だからね。
同居する伯母の話では、スーパーガツンの始まった9日の朝、彼女はいつもより相当早く家を出たらしい。でも、前日にも変わった様子はなかったし、朝早くに学校へ行ったのだろうくらいに思っていた、とのこと。
ただし学校は無断欠席、その後の足取りはつかめていない。
……で、彼女が失踪したその日の夜に、遠く離れたこの町でスーパーガツンが発生。そして彼女と思われる少女が目撃されている、ってわけ」
「前もってガツンの発生を知りここまで来た、ってことですか?」
「あるいは彼女自身がガツンをばらまいているか。
──部屋を見た結城の話だと、かなりのオカルト趣味があったらしい。案外本物の魔術か何かで、意図的にガツンを起こしている、……とかね」
そう言って真琴は笑った。本気の発言ではなく、軽口のようだ。
だが、夏希は真剣な表情を崩さない。
「確か、最初に確認されたスーパースプレッダーも、G0出身でしたよね?」
「……実際に捕まっていないから、確認されたとは言えないけど」
ウイルスのキャリアとして長距離を移動し、大勢の人間と接触して感染を拡大させる者をスーパースプレッダーと呼ぶ。当人には自覚がないことも多いが、感染拡大を防ぐためには、早急にその身柄を拘束することが求められる。
ガツンはウイルスが原因ではないとされている。ただ、CGAの調査では過去のいくつかの事例でおおよその感染ルートが判明しており、スーパースプレッダーの存在が浮かび上がっていた。
──かつてガツンが大量発生したとある町。
ガツンが初めて報告されたその町を、CGAではガツンゼロ、あるいはグランドゼロ、略してG0と呼んでいる。そして、そこに住んでいた一人の少女が、スーパースプレッダーであったと考えられていた。
だがG0でのガツンは2年半前には収束し、その後は一切発生報告がない。スプレッダーとされた少女も、調査を開始した時にはすでに行方がわからなくなっていた。
交差点の赤信号でSUVが止まった。
夏希が再び口を開いた。
「同じ町出身のコが、数年後にまた同じように町を出て、離れた場所でスーパーガツンが起きた。……これってやっぱりG0が全ての発端ってことですか? あるいは椎名亜由美こそが本当のスプレッダーだったとか?」
「さあね。今はとにかく、この場所で起きていることの解明が先。あと、できれば椎名亜由美の確保ね。彼女を捕まえれば、G0との関連も明らかになるかもしれないし……」
「ってことは、SAPだからってことより、容疑者だからってのが確保の理由ですか?」
「どちらも、かな。まあ、ガツンが起こる場所にいて平気なヤツは、全員疑わしくはあるわけだし」
「……そういえば、今まで考えたこともなかったけど、私も疑われてた、とか?」
「ああ、疑ってた」
「え?」
「……だから私が直接、出張っていった、ってわけ」
「えええ?」
ハンドルを握る真琴の顔を、夏希がまじまじと見た。
そんな彼女に、真琴が笑いかける。
「……私だって、最初はスプレッダーだと思われていたみたいだし。仕方ないでしょ?」
信号が青に変わった。
真琴はにやにやしながら、車を発進させた。
<オープニング・タイトル>
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深く、暗い身体の奥から脳天を目指してやって来る衝動、それを今私たちはガツンと呼ぼう。溢れ出る淫欲からの侵入者達。その目的は、エロスを我が物にする事にあるのだ。
中山和己はとある夜更け、仕事を済ませての帰り、いい気分でバイクを走らせていたが、通りすがった富士の樹海で彼らガツンに見舞われた人びとと遭遇した。この一瞬から、若き建築士の人生は大きく書き換えられたのである。
人間の理性を歪める異世界からの侵略・ガツンがこの世にある限り、中山和己はその恐るべき事実を、全身でアピールしなければならない運命を背負ったのだ。
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<オープニング・テーマ>
GGSD[ガツン・ゴールデン・スーパー・デラックス]
第3話「ガツンの長い午後」
※『ガツン』は、ジジさんの作品です
※この物語は、ジジさん、こばさん、みゃふさん、Panyanさん、一樹さん、パトリシアさん、bobyさん(発表順)が書かれた各『ガツン』を元に書かれていますが、一部設定が異なる部分があるかもしれません。ご了承ください。
※各ガツンは、「E=mC^2」サイト内に収録されています。
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<CM挿入>
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「ガツンが発生したここ数年に思春期を迎えた若者たちは、それより上の世代が当然とする規範が崩壊した社会に生きている。
さらに、ガツンによって妊娠した親から産まれた子どもたちはどうだろうか。彼らガツン世代、ポスト・ガツン世代は、責任能力を超えた不条理な性の奔流を、自己規定の前提とせざるを得ないだろう」
──社会学者、阿部公彦『Gジェネレーション』第三章《世代間格差を超えて》より
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【10月14日[火]14時28分、CGA本部】
「……彼女らは、全員がガツンに対抗し得る能力の持ち主なんですよ」
そう言って、CGA局長の坂崎浩介が周りを見回す。
だが、内閣府事務次官の神山は、その程度の説明では納得しようとしない。
「ガツンに対抗する? 一体どんな能力なんです?」
神山は、不服そうな表情を浮かべている。
そんな彼を、分析官の若槻恵が真っすぐに見つめ、静かに言った。
「神山さんも、ガツンの存在それ自体は納得されていらっしゃると思いますが?」
「もちろんです。非常識な現象ではあるが、実際に起きている以上、認めないわけにいかないでしょう」
「では、ESPはいかがです?」
そう言って、若槻恵は涼しげな微笑みを投げかけた。
神山は一瞬何を尋ねられたかわからぬように、口を閉ざす。
しばしの沈黙の後、恵が話を続けた。
「Extra Sensory Perception、超感覚知覚。つまりテレパシーや透視など、いわゆる超能力のことですが……」
驚いたのは神山一人ではなかった。危機管理センターの昭元泰二も、腕組みをして黙りこんでいる。
ごほん、と咳払いをしたのは寺児教授だ。
「えー、そういった特殊能力は全て、精神場理論において説明可能です。
こうした力は脳内の神経ネットワークがサイ粒子の波動を感知することで情報を受け取る、ないしは人が精神場に働きかけることで現実の物理的な力へと変換していると考えられるのであります」
「精神場理論」──暫定的にではあるが、CGAが採用している仮説である。
かつて某大学で教鞭をとり、現在はCGAの主任物理学者として研究を続ける寺児が提唱する理論だ。
精神エネルギーを帯びた「場」の存在について彼が考え始めたのは、高校時代にまで遡る。「もし実際に超能力というものが存在するのだとしたらどのような物理法則がそこに働いているのか」──思考実験の過程で辿り着いたのが精神場理論だった。
──光は粒子としての性質と、波動としての性質を合わせ持つ。
同じように、質量が存在しない、あるいは極端に質量の小さな「精神子」と呼ぶべき未知の粒子が存在し、それが「場」を形成するならば、いわゆる超能力と呼ばれるような現象を統合的に説明できる。──そう寺児は考えたのだ。
もちろん全ては思いつきにすぎず、検証や実験も不可能だった。大学に入り院へと進み、助手、助教を経て教授になった頃にはすっかり忘れていた。
だが、ガツンが起きた。
事件の概要や症例を耳にして、寺児はすぐに「変質した精神場」の可能性に思い至った。
彼はすぐさまガツン研究に着手し、学生に協力させて様々な実験を試みた。
中には犯罪すれすれ、いや、間違いなく重大な犯罪行為も含まれている。
無理やり研究材料にされ、地下に閉じこめられた学生や少女もいた。
だが寺児にとっては幸い、彼らにとっては不幸なことに、度重なるガツンの影響によるものか、被害者である彼ら自身が大したことだとは思わなくなり、告発には至っていない。
ガツン研究に手を染めた時点で、大学は寺児をマッドサイエンティスト扱いするようになっていった。誰からも相手にされなくなったが、逆に注意を払う者がいなくなったために、犯罪が発覚することもなかった。
そんな寺児をCGAが迎え入れたのは、たまたま以前からガツンを研究していたというだけの理由からだ。CGA設立以前から継続的な調査や研究を行なっていたのは、寺児を除けば他に「ガツン研究室」があるのみだった。
──ちなみに、とある町で設立された「ガツン特捜班」は、すぐに不倫調査機関へと変質、CGA設立時には名称も「不倫特捜隊」と変更されていたため、参入には至っていない。
もちろんCGAには他にも優秀な科学者が関わっていたし、いくつかの大学や研究機関にも秘密裏に協力を仰いでいる。
だが、ほとんどの研究者は、ガツンという現象の非常識さの前に殆ど何の成果も出せぬまま、ただ悪戯に時間ばかりが過ぎていた。
一方寺児は、元々温めていた自説を発展させ、独自の理論を構築していった。
ガツンのメカニズムを解明できない以上、彼の説に対する積極的な反論もまた意味を成さない。最初は一方的に提出されていた「精神場理論」は、いつの間にかそれを中心に据えた議論が増え、やがてその仮説を元に対策が考えられるようになっていった。
これには寺児の幼児性を帯びた才能だけでなく、若槻恵の直感とそれを元にしたデータ分析が大いに寄与している。
主に社会学を専門とする彼女が、自然科学的な観点から反論を行なうことはなかった。
逆に、当初から発生件数における男女差や症状の嗜好性に着目していた彼女は、寺児の理論を援用することで、おおまかな説明がつくと考えたのである。
仮説に沿ってデータ収集を行なったところ、推測と一致する結果が得られた。
そのことがさらに寺児の理論構築を前進させた。集めたデータから若槻恵が「意味」を読み取り、それを元に寺児が理論を発展させる、という循環が生まれていた。
本来現実主義者である局長の坂崎も、この二人の働きに口を挟む余地はなかった。
指揮と決断、事態への対処が彼の任務であり、原因の究明や理論の構築・検証は専門外だ。他に採用すべき意見が見当たらず、有効な指針がなければ、たとえ突飛であっても専門家の意見を信じるしかなかった。
嘘か本当かはわからぬまま、しかしガツンを把握するために最も易しかったは、寺児の「精神場理論」だったのだ。
しかもCGAは秘密裏に組織された特務機関である。
命令系統は縦割りで、情報が外に漏れることがない。逆に言えば、外部からの批判に晒されることなく計画が進む。
寺児の理論を元に具体的な方針が立てられ、命令が下された。
──そして。
行動は、既成事実を生む。
たとえ仮説にすぎなくとも、それを前提として実際の活動が繰り返された結果、理論の妥当性を検証しようという動きはいつの間にか消えていた。根拠のない仮説が、伝播していく過程で「事実」と見做されるようになったのである。
いきおいカルト集団のごとき変遷を辿ったことは、皮肉としか言えないだろう。
「ガツンは精神的な力場を介した自然発生的なマインド・コントロールである」という寺児の説は、まさに企図なきマインド・コントロールのように、いつのまにか共通の理解となっていた。
今やCGAのスタッフやクルーに、その理論を疑う者は殆どいない。
「精神場理論」はCGAの、いや日本のガツン対策における論理的支柱となっていったのである。
◆ ◆ ◆ ◆
【10月14日[火]14時31分、N市南部・東阿武倉(ひがしあぶくら)】
市内は、予想していたよりも数段、穏やかだった。
確かに車の量は少ない。シャッターを降ろしている店も多い。
だが、コンビニやガソリンスタンドなど、平気で営業を続けているところもあったし、ちらほらと歩道を歩く人の姿もある。
午後の柔らかな日差しを浴びて、のんびりとした光景が広がっていた。
穏やかな町並を見るともなしに眺めながら、一条夏希がまた口を開く。
「だけど、ガツンを終わらせるなんて、……そんなこと本当にできるんですかね?」
「CGAはそのための組織なんだけど?」
「いえ、ウチらじゃなくて、……椎名亜由美のことです」
「ああ、そうか。……でも、私たちだって、ガツンに対抗するスキルをそれぞれ持っている。消すことができるヤツがいたって不思議じゃないでしょ」
そういって姫野真琴はヘルメットの内側で、笑みを浮かべる。
彼女の笑顔につられ、夏希も微笑を返した。
「チーフはともかく、私のは自分でコントロールできないし。……あ、信号二つ先を右折で阿武倉です」
SUVは次の交差点にさしかかったところだった。
横断歩道脇のスピーカーからは、歩行者用に「とおりゃんせ」のメロディが流れている。町は相変わらず平穏そのものに見えた。
──だが。
交差点を渡りきって間も無く、夏希が小さく叫んだ。
「止めてっ!」
真琴がすぐさまブレーキを踏む。
きしんだ音をたてて、車が停まった。
一瞬遅れて、後続のバンが急ブレーキをかける音が聞こえた。
車間距離を保っているため、衝突はしない。
車を停めた真琴が、隣の夏希をのぞき込む。
夏希は顔を上にのけぞらせ、固く目を閉じていた。だが瞼の下では、休むことなく眼球が動いている。
「桐野(きりの)、川嶋(かわしま)、その場で待機」
ヘルメットに内蔵された通信機で、真琴が指示を飛ばした。
後ろのバンに搭乗しているのは桐野祐子(きりのゆうこ)と川嶋桃佳(かわしまももか)だ。
すぐに祐子から返信が来た。
『了解。……状況は?』
「もう少し待て。今、一条が『視て』いる」
夏希の様子を確認し、真琴がそう答えた。
夏希は仰向けに顔をのけ反らせていた。
視線の先に、SUVの天井がある。
突然、女の顔がアップになった。
のぞきこむようにこちらを見ているのは姫野真琴だ。
真剣なその表情は、どこか心配そうにも見えた。
──わかったか?
そう尋ねられた。
だが、実際に起きていることではない。
人が夢を見る時、それはリアルな出来事として感じられる。目が醒めれば夢だとわかるが、見ている最中は実際に体験しているのと等しい。
しかし時には、自分が夢を見ていると自覚することもある。
今、夏希が見ているのは、「明晰夢」と呼ばれる自覚のある夢に似ていた。
次の瞬間、彼女はまったく別の場所にいた。
──ほら、やっぱり夢だ。
すぐ目の前に見知った女がいた。後続のバンに搭乗している筈のCGAエンジェルの一人、桐野祐子だった。
だが祐子は、普段の彼女からは信じられないような行動をしている。
衣服は身につけていない。全裸になっていた。しかも、立ったまま自身の乳房を揉み、激しく喘ぎながら腰を震わせている。
その腰の前にしゃがみこむ別の女の顔も見えた。──やはり同じ姫野班のクルー、川嶋桃佳だった。
明るい日差しが降り注いでいる。
外だ。
顔を上げると、ハンバーガーショップの赤い看板が見える。
その下で、仲間二人が痴態を繰り広げていた。
大きく足を開き大地を踏みしめるように立つ祐子の股間に、桃佳が顔を埋めている。細く尖った舌がちろちろと這わされていた。
祐子に淫靡な刺激を与えている桃佳の胸の谷間には、長い棒のようなものがあった。
それは滑らかに加工された木製の棒で、奇麗に塗られたニスが鈍い光を反射していた。
桃佳は自らそれを抱え、見事な半球型を描く乳房の谷間に挟むようにしている。
よく見ると、ただの真っすぐな棒ではなかった。
アルファベットの「J」の字のような形をしている。端でカーブした部分は下腹部から股間に向かって沿わされ、その先端が秘部に埋め込まれていた。
桃佳は自らの股間を持ち上げるように、その棒を上下に動かしている。
左右に足を開いて仁王立ちになった祐子が、白い背中を反らす。頭を振りながら甲高い声で喘いだ。
その声の震えに応えるように、桃佳がさらに激しく頭を動かす。同時に、木の棒を揺らす動きも速くなっている。
祐子の大腿がぶるぶる震えていた。大きく開いた膝が何度も力を失い、しゃがみかける。だが、すぐに膝を伸ばし、桃佳の顔を追って腰の位置をあわせた。
桃佳の股間では、「J」の下端がさらに激しく出入りを繰り返す。
棒の埋まった性器の間から、溢れた体液が滴り落ちる。
二人とも、大声で叫んでいた。
何とかしたい。──そう夏希は思った。
だが、自分の声が届かないこともわかっていた。
──これは夢だ。恐ろしくリアルではあるが、現実のことではない。
そう考えた次の瞬間、夏希は時計を見つめていた。
全裸の二人は消えている。
彼女は車のシートに座り、自分の腕時計を睨みつけていた。
正確な時刻はわからない。しかし、間も無くであることは経験上わかっている。
隣には姫野真琴がいる。
夢から覚めたのだと思った。
だがすぐに、真琴の姿が消えた。
夏希はまた突然、別の場所にいた。
明るい日差しの中を、3歳くらいの男児を乗せたベビーカーを押して、若い母親がこちらへ向かってくるのが見える。
道は緩い坂になっていた。そこを初老の男性がゆっくりと上っていく。
男が子連れの女とすれ違う寸前、鈍い打撃音が聞こえた。
彼女はよろめき、目の前の男に抱きついた。
そのまま男を押し倒し、若い母親が馬乗りになる。
上になって、自分のシャツの前をはだけた。
彼女は身体を前に倒し、ブラに包まれた大きな乳房を男の顔に押し付けていた。
からんと乾いた音をたてて、男が手にしていた杖が路上に転がる。
道に投げ出された杖は、アルファベットの「J」の形をしていた。
男に覆いかぶさった女性の頭上に、看板が見えた。
赤地に黄色い「M」の文字。ハンバーガーショップのロゴマークだ。
その看板がぼやけた。
隣から心配そうにのぞき込む姫野真琴の顔が見えた。
瞬きをするが、その顔は消えなかった。
……どうやら、今度こそ本当に夢から覚めたようだった。
真剣な表情の姫野真琴が、こちらをのぞき込んでいた。
「わかったか?」
デジャヴだった。
夏希は少し前に、間違いなくその顔を見て、その声を聞いている。
また数回瞬きを繰り返し、それから慌てて身体を起こした。
フロントガラスぎりぎりまで身を乗り出し、前を見る。
SUVの前方150メートルほど先に、赤い看板が見える。黄色い「M」の文字は、記憶通りのファーストフード店だ。
道路は緩い上り坂になっている。
「……あれ、あそこ。ハンバーガー屋の前です」
そう言って夏希が指さしたその時、停車したSUVの脇を、杖をついた初老の男がゆっくりと通り過ぎていった。
その男の顔にも見覚えがある。
「今出てきた人が子連れの母親とすれ違って、……そこでガツンが起きます」
姫野真琴が低く尋ねる。
「我々は?」
「桐野さんと桃佳が被曝してました。チーフのことは見てません。でも現場はあそこですから、離れていれば平気な筈です」
真琴は頷き、インカムで後ろのバンと通信する。
「後ろの二人、聞いてるな? 川嶋、この距離で使えるか?」
『すみません、さすがに無理です。最低でも後50メートルは近づかないと』
川嶋桃佳がそう答えた。
「了解。では、前進する」
真琴がSUVを発進させながら、夏希に尋ねた。
「……まだ間に合うか?」
「大丈夫です。親子連れの姿も見えないし。
ただ、放っておけば間違いなく来ます。恐らく、桐野さんと桃佳はその後に。2人とも外に出てましたから。
でも、飽くまで《ビジョン》です。……今なら変更可能です」
そう答えて夏希は自分の腕時計を見る。
その途端、再びデジャヴに襲われた。
正確な時刻はわからない。しかし、間も無くであることは経験上わかっている。
──さっきもそう思った。
姫野が真剣な表情で指示を出す。
「状況開始。電磁シールド作動。各自、センサーを監視。桐野は周囲を警戒」
『……今のところ、異常なし』
桐野祐子からすぐに通信が返る。
SUVは、杖の男の少し後ろを静かについていく。後ろのバンもそれに続いている。
車が停まった時、男はハンバーガーショップまで後少しというところまで迫っていた。
夏希が小さく叫んだ。
「あれっ、あの親子です!」
坂の上の脇道から、ベビーカーを押した女が姿を現わした。ゆっくりとこちらに向かって来る。
川嶋桃佳から通信が入った。
『電磁場に微細な乱れが発生』
『ひどく不鮮明だけど、……弱い情念のようなものを感じる』
そう報告してくるのは桐野祐子だ。
モニターを睨みつけながら、夏希が答える。
「RNG(乱数発生器)の偏り、9.8%。小規模ながら電磁場の乱れも確認。左前方に薄く分布、徐々に拡大。……対象がすれ違うまでおよそ30秒」
「よし。桐野は準備に入れ。……川嶋、この距離でどうだ?」
『やってみます』
夏希はマイクをオフにして、軽口をこぼした。
「後ろの二人、いよいよですね」
「私たち全員が、だよ」
そう言って、真琴が小さく笑う。
エンジェルは、クルーの特性を最大限活かすように編成されている。夏希にとって、自分の見たビジョンを元に作戦を指揮する真琴は、一番頼りになる存在だ。
──私一人じゃ、ただガツンから逃げるのが精一杯だった。でも、このチームならできる。
夏希は、胸の内で静かな興奮と緊張が高まるのを感じていた。
◆ ◆ ◆ ◆
【10月14日[火]14時42分、CGA本部】
時折頭をぼりぼりと掻きながら、ESPと精神場の関連について説明を続けているのは寺児だ。
口角にかすかに泡のようなものが浮かんでいるが、そのことに気づいてはいない。
「精神場の微妙な変化を察知したり、そこから情報を受けとるのがテレパシーや透視、予知といった能力といえるでしょう。
最近のBMI=ブレイン・マシン・インターフェイスでは、脳に外科的な処置をすることなく、オブジェクトの選択や方向の制御、さらには人工音声による発話も可能となっております。
同様に脳から精神場へ働きかけることで、そこに存在する精神場の位置エネルギーを運動エネルギーに変換する、あるいはその力で別の力場をコントロールする、──これがサイコキネシスなどのフィジカルな能力であると思われます」
彼はそこで一端解説をやめ、ペットボトルの水で咽喉を潤す。
再び講釈を始めようとする寺児を制したのは坂崎だ。
「咄嗟には信じられないかもしれないが」と前置きをし、彼は柔和な笑みを浮かべた。
「エンジェルの特殊能力については、すでに確認済みです。彼女たちの多くが実際にガツンに被曝しながら、あるいは遭遇する前に、その特殊能力によってガツンの影響を避けることに成功した者たちです。
……超能力研究に関しては米国やロシアを始め、イギリス、ドイツなど、我が国に先行する国が多数ありますが、そもそもガツンのような現象に比べれば、特殊能力の存在など驚くに値しないでしょう。
……まあ、かくいう私も、自分の目で確認するまでは信じられませんでしたが」
神山が何か言いかける。
反論したくて仕方ないといった表情だった。
だが、何度か唇を動かそうとしてその度に再び口を閉ざす。
結局彼が言葉を発したのは、それから随分たってからだ。
「じゃあ、彼女たちはその、……超能力者ってことですか?」
涼しげな笑みを浮かべて、若槻恵が答える。
「ウチではもう少し範囲を広げて特殊能力とし、そういった力を持つ者たちを特殊能力者、Special Ability Person、──SAPと呼んでいます」
彼女は、苦々しげな表情を崩さない神山と目が合うと微かに眉間にしわを寄せ、局長へ視線を移す。
坂崎は小さく溜め息をつき、眉をひそめて言った。
「これは『特定秘密』に該当する情報なので、ここだけということで。
……たとえばエンジェルのクルーの一人は、数分先の未来を予知することができます。彼女はこの力を使い、何度かガツンを回避しています。
また、別のクルーは、ガツン発生の中心部にいながら一切被曝することなく助かっています。その能力は物質転送能力、アスポート、アポートと呼ばれるものです。……実験では、小さなパチンコ玉程度のものを移動するのがやっとでしたが」
いぶかしげな神山と昭元の顔をみつめ、坂崎は静かに頷いた。
そこへ寺児が話に割って入る。
「あきや……、あ、いや、彼女の物質転送能力は、一定の重量以上のものは移動できないようですな。
もちろん、質量が存在しない、あるいは限りなく0に近い素粒子であれば簡単に移動させることが可能なわけです。つまり、ガツンがサイ粒子の影響によるものだからこそ、彼女は被曝を免れたということですな。
お分かりにならないかもしれんが、これは驚くべきことですよ」
説明を聞きながら、神山は小さく足を揺らし、苛立ちを隠さない。
逆に昭元は腕組みを解き、身を乗りだしていた。
「ガツンそれ自体を移動させることができるのか?」
「そうそうそうそう、その通りですよ」
寺児が満面に笑みを浮かべて頷く様子を見て、昭元は一瞬目を輝かせる。
だが、すぐにその顔が曇った。
「予知ができたり、対抗できる者がいるのは心強いが、……しかし残念ながら我々のような普通の人間には不可能な話だな。しかも今回のガツンは範囲も頻度もケタ外れ、──特殊な能力を持つ者がいるとしても、それだけで対処可能とは言えないか」
そう言って、昭元は険しい表情を浮かべる。
再び寺児が答えた。
「すでにガツン測定のシステムは組み上がっています。
後はガツン発生時の彼女らの脳や身体の信号と反応、電磁場その他の変動を計測しデータを照合すれば、すぐにでも完成する筈です。
また、このデータを元に変異したサイ・フィールドを無効化する装置も完成させる手筈になっとります」
得意げな寺児をちらっと見て、神山がまた苦虫をかみつぶしたような表情になった。
「さっきから伺っていると、それなりに計画はあるようですが、あまりに仮定に基づき過ぎている。……ホントにそんなに上手くいくんでしょうか?」
「神山さんがおっしゃりたいのは、ネガティブケースについて考えたいということだと思いますが」
若槻恵が物静かにそう答えた。
神山は頷き、小さく「まあそうです」と答えた。
恵は再び笑みを返し、手元のタブレットを操作する。
だがその時、ヘッドセットに入った連絡に耳を傾けていた坂崎が言った。
「申し訳ありませんが、作戦行動が開始されておりますので、私はこれで失礼致します。質問は引き続き寺児教授と若槻君にお願いします」
彼は静かに立ち上がって若槻恵に小さく頷く。
憮然とした表情の神山に小さく会釈をし、しかし相手の反応を確認すること無く背を向け、坂崎は部屋を出ていった。
だが、彼を送りだしていったん閉まった自動ドアが、すぐにまた開く。
つかつかと硬質の足音をたてて入ってきたのは、白衣に身を包んだ長身の女だ。
彼女は席に着くと輝く髪をかきあげ、満面に笑みを浮かべて言った。
「皆さん、お待たせしましたわね」
流れるような金髪に青い目、白く整った顔──。
かつてのガツン研究室室長にしてCGAでも同じ役職に身を置く才媛、エリカ・フォーテルだった。
◆ ◆ ◆ ◆
【10月14日[火]14時49分、N市・東阿武倉】
CGAの特殊バンの内部で、川嶋桃佳が計器を睨みつけていた。
黒いスーツの胸は、丸く膨らんで光沢を放っている。僅かに垂れた目じりが、甘い印象を与える。愛らしいという言葉がピッタリの19歳、最年少クルーだ。
その外見やおっとりとした喋り方から、のんびりした性格だと思われがちだが、今は初めての任務に緊張している。
「大丈夫、上手く行く」
そう言って肩に手を置いてきたのは桐野祐子、25歳、きりっとした顔立ちのボーイッシュな美人だ。ショートの髪を明るい栗色に染めているが、今はヘルメットに隠れて見えない。桃佳にとって頼りになる先輩であると同時に、特にコンビを組んでいる相棒でもある。
ある日、桃佳の前にスカウトとして現れたのが彼女だった。
専門学校の帰り、道で突然声をかけられ、秘密にしていた筈の自分の能力のことを問われた。
桃佳が言葉を濁すと、彼女は自分にも能力があるのだと言った。
──私は人の心が読めるんだ。
そう告げられ、動揺した。人の感情や考えを察知する相手に、どう接していいかわからなかった。
だがすぐに、相当意識を集中しなければ読めないのだとも言われた。
それが本当のことなのかどうかは今もわからない。
しかし、CGAに入ると決めた時には、すでに気にならなくなっていた。
桐野祐子はいつでも同じ態度、同じ距離感で接してきたし、さりげないフォローが上手かった。何よりも桃佳の能力を恐れたり、過剰に評価したりすることなく、友人としても先輩としても信頼できる相手になっていた。
桃佳の能力は念動力=サイコキネシスである。手を触れずに、物を動かしたり変形させることができる。
だが、その力はスプーン一本を曲げたり空中に浮かすのがやっとだ。しかも、重いものや固い材質のものではかなり時間がかかる。
それで十分だと祐子は言った。
少なくともガツン対策においては、力の強さよりも、その使い方が大事なのだという。
寺児の精神場理論についても一通り聞かされ資料も読んだが、元々理系が苦手な彼女にはよくわかっていない。
しかし、学生時代にやっていたバレーボール同様、身体で覚えることに関しては飲み込みが早かった。
高く放り投げた一円玉を、念動力を使って空中で受け止める訓練を受けた。それが上手くこなせるようになった後は、祐子の指示に従って、広い範囲に散らばる小麦粉をいっせいに浮かせる練習をした。
練習の時は、必ず祐子が桃佳の肩に触れていた。
──触れることで、より明確に意識や感覚が伝わる。
祐子はそう言った。
ガツンの気配を感じ取ることのできる祐子と組み、念動力によってガツンを退ける。──それが寺児の理論を元にエリカ・フォーテルが考えた作戦である。
目に見えないガツンを感じ取りながら、同時に桃佳の意識の動きを把握し、どのように力を使えばいいかを指示するのが祐子の役目だ。
訓練を終えた桃佳はエンジェルとして正式に採用され、N市の作戦に参加することになった。
──そして今、初めての実践が迫っていた。
『RNG偏差、48.7%。異常な数値です!』
一条夏希から報告が入った。
RNG(Rsndom Number Generator)=乱数発生器とは、量子力学に基づき光子の動きを計測、それを「0」と「1」のどちらかに関連付ける装置である。
完全にランダムとなる光子の振るまいは、長時間モニターを続けるほど平均化する。「0」または「1」になる確率は2分の1、その割合は1対1へと限りなく近づく。理論的には、その結果に偏りなど生じない筈だった。
だが、同型の乱数発生装置を用いた米・プリンストン大学での実験によると、9.11の「アメリカ同時多発テロ事件」の後、世界各地の集計データでその比率が大きな偏りを見せたという。
さらに、人の密集する場所、祭りの会場などでも、この比率に逸脱が生じる場合があることが様々な研究者によって計測、報告されている。
人の感情や思念が粒子の動向に影響を与える。──このことは寺児の「精神場理論」の後押しにもなっていた。そして、エンジェルたちが搭乗する各車両には、ガツン発生を予測する試みとして、このRNGが搭載されている。
──そして今、その数値に大きな偏りが生じていた。
姫野真琴から指示が飛ぶ。
『対象がすれ違うまで約20秒……。桐野、川嶋、サイコバリア展開』
「了解。──いい? いくよ?」
祐子に軽く肩を叩かれ、桃佳は意識を集中させる。
おおよその方向は一条夏希からの報告でわかっている。バンの外、赤い看板の斜め上あたり、何もない空間に力を張り巡らせる。
ガツンの気配と桃佳の意識の両方を読み取り、祐子が指示を出す。
「少し下、右側……、よし、もう少しだけ上下に広げて」
桃佳の額に汗が浮かんでいた。
スプーンや一円玉を動かすのとは訳が違う。小麦粉をまんべんなく空中に広げて幕を作った時ですら、わずかな感覚があった。何もない空間に力を使うのは、何の抵抗も感触もないためひどく難しい。
そんな彼女の不安を読み取り、すかさず祐子が告げる。
「……大丈夫、ちゃんとできてる」
目の端に、ゆっくりと道を進む初老の男が見えた。ベビーカーを押す若い母親はこちらへ向かっている。
『……10秒』
一条夏希の声がヘルメットの中にこだました。
ほぼ同時に祐子が、小さい、だがはっきりした声で告げた。
「来るっ」
次の瞬間、はりめぐらした目に見えぬ力のベールに、小さな感触が生まれた。
強い力ではない。
しかし、僅かに押されるような感触がある。
ひとつひとつはごく微かな反発に過ぎない。
その感触は広範囲に散らばっていて、広げた布を均等に押し返すように力を使う必要があった。
だが、どうしても一ヶ所に意識が集中してしまう。その途端、布がたわみ、歪んだ場所からするっと感触が逃げていく。桃佳は慌てて力の反発を追い、均質にベールを広げて押し返すよう修正する。
慣れない操作に、ひどく神経を使う。
しかし、微かな感触が生まれたおかげで、どこに力を集中させればいいかを探ることはできる。
「その調子。下の方を押し返して。……大丈夫、上手くいってる」
祐子がすかさずフォローする。
突然、布を押す感触が数ヶ所で同時に消えた。
桃佳は慌てて、力を別の方向に向けて探った。
しかし彼女の能力では気配は掴めない。
不安が走った時、先程よりくだけた口調で祐子が言った。
「反応が消えた。……やったね」
すぐに夏希からも通信が入った。
『──電磁場の乱れ、消失してます。RNG偏差、8.2%まで減少』
『成功だな』
真琴が静かにそう告げてきた。
その声を聞いて、ようやく桃佳は力を止めた。
だが──。
次の瞬間、夏希が小さく叫ぶ声が響いた。
『チーフっ、あれっ!』
『桐野、周囲の《気》を読め』
すぐさま姫野真琴の指示が下った。
その時にはすでに祐子は目を閉じ、あたりの気配を探っていた。
「今のところ、第二波はなし」
『後ろの二人はその場で待機、何があっても表に出るな!』
真琴がそう指示を出すのと同時に、前方のSUVが動いていた。
20メートルほど進み、すぐにまた停車する。
真琴が外に飛びだすのが見えた。
夏希も続けて車から出てくる。
その先に、女が一人しゃがみこんでいた。
先程までベビーカーを押していた若い母親だった。
真琴はすぐに、女へ向かって走り出していた。
走りながら、ヘルメットのシールドを下ろす。
『体表温度が上昇。サイコバリアから漏れたガツンに被曝した可能性大。
意識は、あり。……距離が離れているので正確な計測は無理だが、心拍、脳波共に活性あり』
桐野祐子の報告を聞きながらも、足は止めない。
離れた場所に、ゆるい傾斜をゆっくりと車道へ向かって移動しているベビーカーが見えた。
後続の夏希を振り返って叫んだ。
「一条、乳母車を!」
夏希はすぐに踵を返し、ベビーカーへ向かって走り出す。
真琴がさらに指示を飛ばす。
「子どもを保護して一条は退避」
『え、でもっ!』
「私なら平気だ。──夏希がやられるとこっちが困る」
再び桐野祐子から通信が入った。
『新たな《気》が発生! 女性は明らかに発情中。このままではガツン連鎖が始まる可能性大』
『RNG49.2%!』
続けて川嶋桃佳が伝えてくる。
真琴は一瞬後ろを振り返り、夏希に叫んだ。
「一条、急げ!」
『了解!』
ベビーカーのハンドルを掴んだ夏希が、そのまま走り出した。
真琴はすでに女の目の前に立っていた。
初老の男が坂の上をゆっくりと去っていく姿も、目の端で確認済みだ。
「一条は赤ん坊と車へ。
本部、モニターしているか? 人身保護のため、市警への通報と協力を要請」
CGA本部から、すぐさま了解の通信が入った。
真琴は続けてチームに向け、指示を飛ばす。
「各車両、電磁シールドをチェック。後ろの二人はサイコバリアを展開」
真琴の手が腰につけたケースを探る。
地面に横たわった母親はその白い顔を微かに赤く染め、小さく唇を舐めていた。
祐子から再び報告が入った。
『数ヶ所に《気》の集中あり。全てを防御するのは無理かも』
「わかった。できる範囲でカバーを。こちらより自分たちを優先しろ」
それだけ言って、真琴は女の首筋に銃のような器具を当てる。
陶酔しきった顔で、女がぼんやりと見上げてくる。
真琴が引き金を絞ると、カシュッと小さな機械音がした。
同時に女が身体を震わせ、口を開いた。
「……な、何したのっ?」
「すみません、安定剤と麻酔です。ガツンに被曝したので、しばらく休んで貰います」
「子どもは!? タカフミはどこっ?」
「ご心配なく、警察です。お子さんは無事に保護しました」
真琴がそう答えると、母親はようやく安心したように穏やかな表情になった。
そして、その顔が突然、妖艶なものに変わる。
「うふふ、そう、よかった。……じゃあ、私といいことしない?」
ヘルメットの中で真琴が苦々しい顔を作る。だが次の瞬間、女の身体から力が抜けた。即効性の薬が効いたようだった。
彼女の頭をそっと地面に横たえた瞬間、切迫した桐野祐子の声が響いた。
『チーフっ、そっちに来るっ!』
『RNG74.8%』
桃佳の声を聞くより速く、真琴は瞬時に飛び跳ね、後ろへ下がった。
しなやかに着地する彼女の後頭部を、衝撃が襲った。
カンっ!
ヘルメットが、乾いた音をたてた。
だが、それは通常のガツンほど大きな音ではなく、衝撃も小さい。
真琴はよろめくこともなく、さらにその場から飛び退いた。
踵を返し、真っすぐにSUVを目指して走り出す。
しかし──。
再び打撃音が響いた。
カーンっ!
真琴の身体が僅かに前に傾いた。
だが右足を前に出して腰を落とし、すぐにまた左へジャンプする。
あと数メートルのところで、SUVがエンジンをふかしていた。
夏希はすでに運転席に戻っている。
「各車両、電磁シールド最大で退避!」
そう叫んだ真琴の頭に、再び新たな衝撃が走った。
ガツンッ!
先程よりも激しい衝撃と音が響く。
しかし、それでもなお、真琴の目には確かな意志の光が失われていない。
彼女は軽く瞼を閉じ、深く息を吐き、静かに吸う。
深呼吸の後、再び瞼を開いた時には、固かった表情が晴れやかなものに変わっていた。
目には不敵な笑みすら浮かんでいる。
繰り返しガツンに見舞われながら、真琴は平然とそこに立っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
【10月14日[火]14時39分、CGA本部ミーティングルーム】
誰かが紹介する暇もなく、エリカ・フォーテルが話し始めた。
もちろん自己紹介も無しに、いきなりだ。
「『スーパーガツン』っていうネーミング、あんまりだと思いません?」
場違いな発言に、神山や昭元はもちろんのこと、若槻恵も黙り込む。
唯一答を返したのは寺児だ。
「だったら『ハイパーガツン』なんてどうかね?」
「寺児センセともあろう人が何言ってるの。スーパーだってハイパーだって意味一緒じゃありませんか。
それより、『ガツンΩ』で!
オメガはギリシャ語の最後の一文字で『最終』っていう意味もあるし、絵文字としても頭に瘤ができる感じが出るし。……今回のようなガツンにはピッタリでしょ?」
「ううむ、確かに一理あるが、もしかしたらこれはオメガじゃなくてアルファなのかもしれんよ?」
「それは一理あるわね。──うふふ、でも残念。ついさっき、『ガツンΩ』に改名するよう、首相官邸宛にメール入れちゃいましたんで。後出しでアルファとか言っても、真似だと思われるだけだわ」
「いやしかし、『Ω』では時計のメーカーからクレームが来たりしないかね?」
勝ち誇ったような顔のエリカ・フォーテル。
渋い顔で納得が行かないといった様子の寺児。
その二人を見て、若槻恵が頭を抱えそうになる。
だが、小さく息を吐き、顔を上げた。
「あ、あのぅ……」
恵は恐る恐るといった感じで、口を挟んだ。
エリカの思考パターンは常人のそれとはかけ離れている。寺児は寺児で、やはりどこかのネジが二三本足りない。この二人を放って置いたら、どこまで脱線し続けるかわからない。
それに、恐らくこの二人は気づいていないし、たとえ気づいても意に介さないだろうが、神山の渋い顔がどんどん苛立ちを募らせていくのが気掛かりだった。
──局長の坂崎が席を外している以上、この場を取り仕切るのは自分の役目。
恵はそう考え、微笑みを浮かべつつエリカに目配せする。
意外にも、エリカ・フォーテルは小さく頷き、口を閉じた。
それを確認した恵は、ゆっくりと視線を神山に移した。
「……えっと、先程神山さんからご指摘頂いた疑問点は、CGAの対策の有効性についてだったと思います。……それでよろしいでしょうか?」
神山が小さく頷く。
彼はつい先程まで若槻恵のことを、荒唐無稽な寺児の仮説を盲信する馬鹿な女だと考えていた。
しかし、寺児に比べれば数段まともだとは思っている。さらにエリカ・フォーテルの登場で、今では逆にバランス感覚のある常識人に見えていた。
その美貌や笑顔の爽やかさに対しては、最初から好印象を抱いている。そんな彼女が自分の意見にきちんと耳を傾けているとわかり、悪い気はしなかった。
神山は雄弁に意見を述べ始める。
「たとえ特殊能力があっても、常にガツンを避けられるのかどうか、それが疑問の第一点です。
加えて、昭元さんの指摘通り、これだけ大規模な非常事態において、警察や自衛隊が対応できないというのでは、収束不可能と考えざるを得ないというのがもう一点。
さらに付け加えると、寺児先生は各種装置を開発するとおっしゃられましたが、実際にガツンの排除に有効な装置が完成するまでにどれくらいかかるんでしょうか?
もちろん研究や調査に最低限の時間が必要なことはわかってます。しかし、一刻の猶予もない事態であることもまた間違いない。
あなた方CGAを信頼していないわけではありませんが、これまで途方もない話ばかりを聞かされてきたこともあり、不安は拭えません。
国民に説明するにも、最低限の期限や方針は打ち出さねばならない。
リスク・マネージメントも含め、ぜひ包括的な対策についてお聞かせ願いたい」
若槻恵一人に視線を合わせながら、神山はそう発言した。
彼女は微かに困った顔で、全員を見回す。
すくっと立上ったのはエリカ・フォーテルだ。
神山に対して露骨に蔑んだ視線を送り、ワントーン高い声で言った。
「あなたバカなの? マヌケなの? 死ぬの?」
「……は、はあ?」
頬をひくひくさせながら、神山はそのまま黙り込んだ。
かわりに有無を言わさぬマシンガン・トークを繰り出したのは、エリカだ。
「ガツンもエンジェルの特殊能力も自然の摂理よ? 自然の摂理に学び、それを技術に転用するのが人類の叡知ってもんでしょう?
……まあ、バカには自然の摂理が理解できないし、マヌケだから技術へ転用することなんか思いつきもしないんでしょうけど。
ですが、どうぞご心配なく。こっちは当然ちゃんと考えていますから。
今回は寺児センセや恵ちゃんの協力もあるし、何より予算がケタ違い。素晴らしい成果が着々と上がってるし。
バカでマヌケで今すぐ死んだ方が人類のためなのに、無駄にプライド高くて生き意地のはった誰かさんにも理解できるように説明すると……。
──まずエンジェルたちが乗ってる車、あれには特殊な電磁シールドが装備されています。
ガツンを伝達する粒子の性質や質量、波動関数などがまだ確定されていないんで効果は未知数だけど、データが揃えば精度もグンと上がること間違いなし。そうなれば当然、特殊能力がない人たちのことも守ってくれるってわけ。
さらにエンジェルたちの着ているスーツ、──『GDS(=Gatsun Defense Suit)』とか『耐Gスーツ』って呼んでるけど──、内部に二層構造の特殊ゴムで包んだカーボンナノチューブを編み込んであるわけよ。弾力性と強度に優れ、しかも微弱な電磁場でガツンを拡散させる仕組み。
……これもまた、特殊能力のない一般ピープルが着用可能、……って、ここまでは理解できるかしら?」
一気にそう喋り、エリカが薄笑いを浮かべて神山を見つめる。
あからさまに馬鹿にしたその態度に、しかし神山は言葉を返すことができない。そもそも、技術畑の人間ではない上に、こうまで露骨に人から馬鹿にされることに慣れていなかった。
かわりに口を開いたのは寺児だ。
「まあ、ガツンを発生させるサイ粒子がまだ特定されていないので、電磁シールドが有効かどうかはまだ不明なのですが。
サイ粒子が電磁場を乱すことは恐らく間違いないとしても、……逆に電弱力の影響をほとんど受けない場合、こりゃやっかいですな」
そう言って難しい顔になった寺児に微笑みかけ、得意げに話し出すのは再びエリカだ。
「というわけでやっぱり、『ギア』こそがガツン対策の決定打ってことですわ。
『Gatsun Energy Absorbing Refuser』、略して『GEAR』。私が開発したガツン吸収装置です。
もちろん、ガツンの衝撃は物理的な力によるものではありません。あたかも後頭部を殴られたように感じるだけ。……でもね、脳がそういうふうに感知するなら、その衝撃を吸収してやればいいってわけ。
──ああ、やっぱり私って天才かもぉぉぉぉ」
そう言ってエリカは、オーガズムを感じた時そっくりの陶然とした表情を浮かべる。
だが、まわりの誰もが何も返さないことに気付き、再び説明を始めた。
「まったく、面倒くさい人たちねえ。
詳しい解説は省くけど、脳の信号と身体の反応を計測することによってガツンの発生を感知し、位相が逆になる衝撃を発生させ相殺する、──そう、それが『GEAR』!
100%の衝撃吸収は無理だけど、理論上では70%近く、実験値でも最低40~50%は衝撃を軽減することが可能。──長年ガツンを研究してきたこの私が、金属バットでの殴打実験を重ね、そのデータを元に改良に改良を重ねたスグレモノよ?
しかも今回は超小型化に成功──。NASAから引き抜いた技術者を中心にCGA技術班が総力を結集し、ヘルメットに内蔵しちゃいました。
ちなみに、今エンジェルたちがかぶってるヤツよ?
ヘルメット内部の緩衝材には立体構造ゲルを多層一体成型した新素材を採用、かぶり心地最高の上に衝撃吸収力は通常のヘルメットのなんと4.7倍! ──おまけに通気性も確保して、敏感肌の人でも気にならない! 一晩中ぐっすり眠っても安心サラサラ!
当然これも、一般ピーポーが着用可能。電磁場による相殺と併せて、ガツンの影響が半分以上減れば、強い意志や理性の持ち主、訓練を受けている人なら、異常行動を抑えることも十分期待できる筈。
……とはいえ、やっぱり気になるのはお値段ですわよね? これ、お高いんでしょう?」
そう言ってエリカが、突然若槻恵の方へ向き直る。
恵は困った顔になったが、満面に笑みを浮かべたエリカに凝視され続け、仕方なく小声で答えた。
「えっと、一個がおよそ9万8千ドルです。……もちろん開発費は別ですが」
「そうなんですっ! 今回限り、なんと10万ドルを切ってのご提供。
まあ、なんてお得なの!
……というわけで、エンジェルたちの特殊能力も凄いけど、私の発明で二重三重に守られているわけ。もちろんこっちは純粋なテクノロジーだからいずれは量産化も可能。一般ピーポーにも十分有効。
──どう? これでわかったかしら?」
エリカはそう言って、神山に軽蔑の混じった笑いを向けた。
神山は表情を固くしながらも、小さい声で反論する。
「……しかし、有効性は未確認なんでしょう?」
「ったく、自然の摂理を理解し、技術に転用するのが人類の叡知だって言ったでしょう? ……まあいいわ。さすがにこれを見れば、虫以下の脳ミソしかないあなたにもわかるでしょうよ」
エリカが手に持ったリモコンを操作する。
部屋の後ろの壁に埋め込まれた大型ディスプレイが点灯した。
小さく分割された画面の下側には脳画像や音声データの波形、サーモグラフの映像などが映し出されている。
メインで映っているのは、白いシャツに黒い細身のパンツ姿の女が、椅子に座っている記録映像だ。歳はまだ若い。端正な顔立ちとスタイルのよい身体つきは、アイドル顔負けの魅力を放っている。
だが彼女は、決して幸福そうではなかった。
頭には、たくさんのコードが繋がれたデバイスをのせ、手首と足は金属のプレートで椅子に固定されている。ウエストで絞られた白いシャツは大きくはだけられ、黒いブラと白い胸の谷間がのぞいていた。
彼女の頭が大きくのけぞり、荒い息とともに熱い声が上がる。
その顔には苦悶とも快楽ともとれる表情が浮かんでいた。
『ああっ……お父様のが欲しいっ』
女が身悶えしてそう叫ぶ。
画面の下に表示された波形が大きく振幅を描き、脳内の至るところで赤く光る部位が広がっていく。
そこで映像は止まった。
一同は声もなく息を呑み込む。
映像は消えたわけではなく、ポーズの状態で女の悲しげな顔が映っている。
エリカが金色に輝く髪をかき上げ、再びリモコンを操作する。映像は一番最初の画面に戻り、そこでストップした。
「堂島美貴子(どうじまみきこ)、数年前に確保した被験体です。
当時19歳、デザイン専門学校に通うかたわらバイトをしていた喫茶店でガツンに被曝しました。発症状態、さらには被曝する瞬間のデータを取ることに成功した貴重なケースです」
エリカがリモコンのスイッチを押し、同じ映像が最初から繰り返される。
だが、今度は途中でストップモーションになり、そこからはコマ送りで進む。音声はない。
モニターに映る女の目がゆっくりと大きく開き、何かに驚いたような表情を浮かべる。
それから女はがっくりと顔を伏せ、だがすぐにまた仰向けに首をのけ反らせる。
そこで映像がストップした。
「……おわかりになったかしら? 音声データには、ガツンという音は記録されていませんわよね? でも、記録を採取した際は、ちゃんと例の打撃音がしていたそうです。
……私自身も以前ガツンにやられたことがありますが、その時も激しい衝撃と同時にガツンという音を聞いてます。
寺児教授のサイ・フィールド説に説得力があるのはこのへんですわ。聞こえたのに、録音されない。物理的といっていい衝撃を受けているのに、何も見えない。少なくともガツンの衝撃や音が幻覚に近い体験であることは間違いないでしょう。何らかの刺激を受けた脳が、殴られたような感覚と、実際には存在しない音の情報を作りだす。──しかも当人だけでなく、まわりの者にまでね。
録画データでは聞こえないけど、リアルタイムならテレビ放送や通信などでも音が伝わるようです。皆さん、午前中のワイドショーのこと聞いたかしら? 見た人いますか?
残念ながら私は見ていませんでしたが、N市にいるTVリポーターが放送中にガツンに遭い、日本全国にあの音が響き渡ったそうです。
なぜそうなるのかはまだ不明ですけど、放送見てるだけでガツンって聞こえたのよ? 恐らくガツンが発生する瞬間の何らかの変化を、私たちが察知しているということで、これは非常に重要なポイントです。
……ええと、以上を踏まえてもう一度、今度は脳画像の継時変化に注目して見てくださる?」
そう言ってエリカがまたリモコンを操作する。
映像が最初のコマに戻り、再び同じシーンがスローモーションで再生される。
脳の前頭葉、側頭葉、扁桃体、それに視床下部が明るいオレンジ色で光っている。光る部位は時折その位置を変えながら、広がったり縮んだりを繰り返す。
モニターに映る堂島美貴子の顔に、スローモーションで驚きの表情が浮かんだ。ゆっくりと頭が前に倒され、揺れながら天井を見上げる形にのけ反る。
「お気づきになったでしょ?」
エリカが全員の顔を見回した。
だが、答はない。
エリカはもう一度映像を最初に戻し、再びコマ送りで再生する。
美貴子が驚きの表情を浮かべたところで、画像が停止された。
「……ここ。彼女の目が大きく開かれていますよね? その0.4秒後、ほら、ここです。……ここで突然頭が倒れる。ガツンの衝撃を受けてのことです。
でも順番が変でしょう? ご覧の通り、衝撃が後頭部を襲ったと思われる直前に、彼女は驚いた顔になってる。脳画像にも著しい変化が現れています。
つまり、頭をガツンとやられる前に、すでに何かを察知している……」
そういってエリカはミーティングルームを見回す。
それに対し、発言する者はいない。
不思議な静寂が場を支配する中、エリカが説明を続けた。
「まず何らかの刺激があり、それに遅れて衝撃を感じる……。時間差はおよそ0.3秒から長くても1秒弱。ですからほとんどの場合、当人には同時に起きたとしか認識できないのです。……私もガツンに遭遇した際、そうでした。でも、厳密には時間差がある。
先程、ガツンという音が実際に存在しないにもかかわらず、それを聞いているということが、重要なポイントだって言ったでしょ? つまり、私たちの脳がガツンの発生を感知しているということ。この音もまた、衝撃や驚愕の表情と同様、症状の発生以前に脳が反応している証拠です。
そしてこの発見が、技術開発の大きな助けとなったわけ。
『GEAR』=『ガツン・エナジー・アブソービング・リフューザー』はこのタイムラグを利用して機能するわけです」
「つまり……」と、それまで黙って聞いていた昭元が言った。
「ガツンと来る瞬間に、こちらからもガツンとやって衝撃を吸収する。……そういうことかな?」
エリカがその美貌に極上の笑みを浮かべ、昭元に向かって大きく頷く。
だがその表情は、視線が神山に移った途端、冷笑に替わった。
「あなたも一度、ガツンとやられてみない? ……人生、変わるわよ?」
神山は何か言い返そうとしていたが、開いた口から言葉は出てこなかった。
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<CM前アイキャッチ>
<CM挿入>
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< 「ガツンの長い午後」《Bパート》へ続く >