プロローグ
……人を好きになるということが、こんなに簡単に、自然に訪れるものだなんて、これまで知らなかった。
普通に、普通の人のことを好きになることなんて出来ないはずの、普通の人を好きになる『資格』なんて無いはずの、私だったのに。
きっかけとなった出来事は、本当にささいな、自分でも笑ってしまうほどに単純なものだった。恥ずかしくて、とてもじゃあ無いけれども、他人には話せない。
彼の姿は以前からよく見かけていたとはいえ、今まで私と彼が話をしたのは、たった二回だけ。その二回だって、会話と言うほど長いものではなかった。きっと彼の方では、私の事なんて、覚えてもいないだろう。
でも私にとっては、たったそれだけのことが、彼のことを好きになるのに十分な出来事だったのだ。
「…いやでも、何年やっても、数学はやっぱ苦手で」
「まあ、得意不得意はやっぱりあるけれどもね。
でも、稔(みのる)クン。理系の大学に入りたいのなら、数学はなんとか頑張らないと」
「まあ、それはそうなんだけど」
今日、駅で見かけた彼は、女の人と一緒だった。
長い、真っ直ぐな、うらやましいほど綺麗な黒髪をした女の人。顔もキレイだし、身長だって高め。間違いなく、美人だ。
歳はきっと彼と同じくらい……私よりも何歳か上だと思う。
彼がその彼女と一緒にいるのは、何度も見たことがある。
それと、今日はいないみたいだけど、もう一人、『スレンダー』って言葉がぴったりの、やっぱり綺麗な女の人も、彼と一緒にいるのを何度か見た。
すごく大胆なショートにまとめた髪の、やっぱり私よりは年上だろう女の人。
あんな髪型、よっぽど自信が無ければ出来ないし、実際にそんな髪型が似合ってしまうほどの美人だった。
……きっと、二人のうちどちらかが、彼の恋人なんじゃあないだろうか。
そう思うと、少し気分が沈んだ。
でも、今日はいいこともあった。
『……でも、ミノルくん………』
あの髪の長い女の人は、彼の事をそう呼んでいた。
“そっか、あのひとは、ミノルさん、っていうんだ”
彼の名前を知る。
ただそれだけのことで、こんなにも幸せな気分が沸き起こってくる。
彼にとっては、知ることもないだろう私なのに。
彼に話しかけるなど、出来るはずもない私なのに。
──────こんなに汚れきった、私なのに。
……それでも、この胸の中に芽を出した温もりは、確かにそこに存在した。
そっと、胸に手をやる。
そこには、小さな、硬い感触。
以前、道で拾った、小さな鍵だ。
何の鍵かは判らない。
小さな、古めかしい、くすんだような銀色に輝く、そんな鍵。
拾ったときからなぜか気になってしまって、今ではペンダントトップにして、いつも身につけるようにしている。
なぜかは判らないけれど、いつの日か、この鍵が私に幸せを運んでくれる、そんな予感がするのだ。
人が聞いたら、少女趣味と笑われるかも知れない。それでも私は、そんな予感にしがみつくように、この鍵を身につける。
そして今、胸の奥に灯った小さな幸せを、その鍵が確かなものとして主張してくれるような、そんな希望にも似た思いが、私の中に浮かんでいる。
私はその温もりを、消えてしまったりしないようそっと大事に抱えながら、家に向かって歩き出した──。
< プロローグ 了 >