ドールメイカー・カンパニー2 (29)

(29)逆転の罠

 軽いクラクションの音で振り返ると、そこに見覚えのある車が止まっていた。

「こっち、こっちっ」

 冴えない中年の男にそう呼ばれてもちっとも嬉しくないのだが、“きつね”くんはちょっと肩を竦めてから素直にその男のところへ向った。

「どうもっ。明けましておめでとうございますっ」

 “きつね”くんは車に乗り込むと、思いっ切り不機嫌にそう言った。

「あぁ、どうも。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね、“きつね”くん」

 そう言ってニッコリ笑いかけたのは無論、“くらうん”だった。

「酷いじゃないですかぁ。正月休みは8日まででしょっ?せっかくマンションの皆さんと盛り上がろうって思ってたのにぃ」

 “きつね”くんはそう言って横目で睨んだ。
 しかし“くらうん”はスムーズに車を発進させながらも、とぼけた表情で言った。

「あぁ、そうだったんですか。それはまた、マンションの皆さんには思わぬお年玉でしたね」

「あっ、それ酷いっ!僕のこと何だと思ってます?ご近所付合いを率先している現代社会における稀有な若者ですよ」

「あはははっ。いやいや、確かに稀有な若者ですけどね。でも、それでしたら老若男女を問わず仲良くしてあげないとね」

「してますって。もう、そんな先入観で見ないでくれます?ただ・・・偶々僕のマンションには新婚夫婦か、一人暮らしの女性しか居ないってだけで・・・」

 最初の勢いに比べ語尾が多少トーンダウンしてきた“きつね”くんだった。
 “くらうん”は、しかしその答えはもう先刻承知とばかりに“はいはい、そうですねぇ”と言って軽くいなしていた。
 そしてその間にも車は意外にスピードを上げて、走っていた。

「で・・・何があったんです?電話では要領を得なかったけど」

 暫らくしてからようやく“きつね”くんが本題を切り出すと、“くらうん”は前を向いたままいつものトーンでこう切り出したのだった。

「30分ほど前に美紀さんから電話がありました。買主死亡により契約は終了したそうです」

 その言葉に“きつね”くんはきょとんとした顔で聞き返した。

「死亡・・・?あの高校生でしょ?いったいどうして・・・」

「ちょっと深刻なトラブルのようですよ。あのお坊ちゃん、元々の原因となっていた人妻をまだ諦めていなかったみたいで。それで今日2人で居るところを亭主に見つかって、ブスッと一突きみたい」

「うわぁ・・・。それちょっと拙いっすねぇ。警察沙汰かぁ」

「で、“きつね”くんの出番て訳。あの2人の回収もあるから来て貰ったんだけど、他の当事者達にも意識合わせをお願いね」

「へぇ~い。ま、しょうがないっすね」

 状況から言って、確かに自分が行く必要が有りそうだと“きつね”くんも納得した。
 そして、表情には出していなかったが、少しだけ“きつね”くん自身危惧していることがあったので、現場に行くのは好都合だった。
 車は更にスピードを上げて、黒岩邸へ向っていた。

 秦野は腕時計を覗き込んだ。
 予定時刻を過ぎること40分。
 そろそろ動きがあってもいい頃だと思った。

 秦野は皮のつなぎの上下を着込み、もう小一時間藪の中に潜んでいる。
 隣には同じスタイルで香が腹這いになり双眼鏡で正面に見える黒岩邸の重厚なゲートを見詰めていた。
 真冬とはいえ日差しもある今日のような日には寒さを感じることは無かったが、待たされる身には中の変化を窺い知ることが出来ないことが苦痛だった。

 (大丈夫だ。奴には俺が念入りに暗示をかけた。12時きっかりにこの屋敷を訪れたあの男、清水圭吾は、間違いなく12時25分に復讐暗示が発動している筈だ)

 秦野は迷いを吹っ切るように何度も圭吾の暗示シーンを回想していた。
 いくら鈍感とはいえ、やはり妻と健志の仲を疑っていた圭吾は、秦野の暗示にいとも簡単にのめり込んでいった。
 あの男を逆上させることなど雑作も無いことだった。
 そして12時25分をまわった頃に邸内がどんな騒ぎになっているか、秦野はありありと想像することが出来た。
 悪鬼の形相となった圭吾が、“きつね”くんのクライアントであるガキを追いかけ廻しぶっ殺している筈だった。

 (ふふふっ。早く来い、“きつね”。お前のクライアントが死んだんだ。ドールを引き上げないとなぁ。それに圭吾達の記憶も改竄しないとなぁ。くくくくっ・・・お前しか出来ない仕事が待ってるんだぜぇ)

 秦野はいつの間にか小さな笑みを浮べていた。
 その時だった。

「来ました。車です・・・1台、国産車です」

 香が双眼鏡から目を離さずにそう言ったのだった。
 その言葉に秦野は反射的に身を低くし、藪に隠れた。
 すると意外なほど近くをグレイの国産車が通過していった。
 そしてゲート前で止まり、そのまま頑丈な門が開くのを待っていた。
 秦野も自分の双眼鏡を取り出し、じっと目を凝らして見詰めると、中に2人乗っていることが判った。
 1人は中年で、もう1人は若そうだった。
 しかし生憎後頭部しか見えないため、それ以上のことは判らなかった。
 若い男が携帯で電話しているようだった。
 そして程なく、ゲートがゆっくりと開いていった。
 秦野達の目にも綺麗に手入れされた芝生の庭と石造りのアプローチが見えた。
 車はその道をゆっくりと進んでいった。
 そして車が塀の陰に隠れた途端、秦野と香は一斉に立ち上がった。
 そしてヘルメットを急いで被ると、傍らに寝かせておいた1台のオフロード・バイクを引き起こしエンジンを掛けないまま藪から押し出し始めたのだった。
 まだ道路へは少し距離があるが水平な地面まで辿り着くとバイクを木立の陰に押していき、そこで香が運転席に跨った。秦野はタンデムシートの後ろに跨り香に密着した。
 そして再び双眼鏡を覗き込むと最後の確認をしたのだった。

 アプローチの形状から一旦視界から消えた車は、再び車止めに姿を現した。
 その向うには大きな屋敷が2棟みえる。
 そのうち1棟から1人の女が姿を現したのが見えた。
 そして、それに呼応するかのように車の扉が開き2人の男が降り立ったのだった。
 やはり若い男と中年の男の二人連れだった。
 秦野は食い入るように若い男に注目していた。
 双眼鏡をとおしてその後姿はハッキリと見えている。
 遂に“きつね”を射程に捉えたという興奮を感じていたが、しかし一方で奇妙な違和感も秦野は感じ始めていた。
 丁度その時、中年の男が何かを話し掛けたのか、上手い具合に若い男が振り返ったのだった。
 そしてその顔を見た途端、秦野の顔は驚愕に歪んだ。

 車が車止めに着くのを待っていたようなタイミングで玄関の扉が開き、中から輝くような美女が現れたのを“きつね”くんはビックリしたような表情で見ていた。

 諒子である。

 なんと表現すればいいのか・・・挑むような、そして自信に満ち溢れた真っ直ぐな視線が、車のウィンドウ越しにまともに“きつね”くんの目を見詰めていた。

「うわぁ・・・なんて目をしてるんだ。こりゃぁ・・・破られたのかなぁ、マジで」

 “きつね”くんは嫌な予感が実現したかのような困った表情でそう呟いたのだった。

「おや、お出迎えですね。さっ、“きつね”くん、早速出番ですよ」

 “きつね”くんのその表情に気付いていない“くらうん”はそう言って、気軽に車外に降り立った。
 “きつね”くんは、その言葉に促されえ仕方なく扉を開けたのだった。
 雲ひとつ無い快晴、1月の冷たい風を僅かに頬に感じながら、“きつね”くんは諒子と対峙した。

 諒子はそんな“きつね”くんを見るなり嫣然と微笑み、ゆっくりと歩み始めた。
 まるでご馳走を目の前にした虎のような圧倒的な迫力で・・・

「き・・・“きつね”くん。彼女・・・なんか変じゃない?」

 “くらうん”のちょっと痰が絡んだような声が“きつね”くんの耳に届いた。
 その声に“きつね”くんは鼻から息を抜いて、力なく答えたのだった。

「そうっすね・・・なんか、ヤバそうっす」

 その答えに“くらうん”はギョッとしたように“きつね”くんの顔をマジマジと見たが、しかし困った表情はしていても、焦った表情ではなかったため、少し安心したようだった。
 そしてなおも“くらうん”が何かを言いかけたその時、不意に遠くから声が聞こえてきたのだった。

「み・・・みつけたぁ~・・・見つけましたぁ~・・・」

 最初“くらうん”はその声を聞いても、全く自分達とは結び付けて考えなかった。
 偶々通りかかった誰かの声が聞こえてきたと思ったのだ。
 しかし、徐々に声が大きくなり、しかもそれと供に砂利を踏む音まで聞こえてくるに至って、訝しげに振り向いたのだった。
 そしてそれは“きつね”くんも同じだった。
 振り返り、そしてその人物が誰であるか気付いた途端、“きつね”くんは不思議そうな表情で言った。

「“くらうん”さん・・・彼、どうしたんです?なんでここに呼んだんですか?」

「えっ?私?知りませんよ。“きつね”くんが呼んだんじゃないんですね?」

 “くらうん”も、それこそ“きつねに摘まれた”ような表情で視線を向けたその先には、息をゼイゼイと切らしながら、ヨロヨロと駆け寄ってくる坂田勇作の姿が有ったのだった。

 2人が不思議そうに勇作を眺めているその時だった・・・遠くでバイクのエンジンが唸りを上げる音がしたのだった。

「なんなんだっ!いったい・・・どうなっているんだっ!」

 秦野は双眼鏡に目を押し当てながら、信じられないといった口調でそう言ったのだった。

「何で奴じゃねぇんだっ!あいつ等、いったい誰なんだぁっ!」

 双眼鏡の向うで振り向いた若い男・・・その顔は、秦野が見たことも無い男の顔だったのだっ!
 計画立案のプロを自認していた秦野だが、こんなことだけは予想していなかった。
 まさかこの緊急事態に“きつね”自身が現れないことだけは・・・

 (どうしたって言うんだっ。どこかで計画が狂ったのか?奴等は誰・・・ま、まさか、警察?)

 磐石だと思っていた計画に予想外の狂いを発見し、秦野は疑心暗鬼になっていた。

「ご主人様・・・どう致しましょうか」

 すっかり準備が整った香が訝しげに後を振り返り、秦野に訊いた。
 しかし、秦野はそんな問い掛けに気付きもせずに只管双眼鏡で男達を見詰め続けている。
 香は返事が無いため再び正面に視線を戻した。
 丁度その時だった。
 香のすぐ近く、開け放たれたゲートのなかに1人の男がヨタヨタと吸い込まれていったのだった。
 フルフェイスのメットのバイザー越しに一瞬だけその男を見た香は、計画外の登場人物に再び振り向いて指示を仰いだ。

「ご主人様・・・だれか来ました。計画外です」

 秦野はその言葉に驚き、一瞬双眼鏡から視線を外し香を見詰めた。
 そして香が指し示す方向に慌てて双眼鏡を向けなおし覗いたのだった。
 すぐに視界に若い男の後姿が映し出される。
 秦野は、しかしその背格好を一目見るなり、またしても驚きで目を真ん丸にした。

「いたっ!居た居た居たっ!奴だっ!現れやがったぁっ!」

 その姿はあの日秦野を投げ飛ばした男の姿そのものだったのだ。

「くそっ、驚かせやがって!貴様には今から纏めてお返ししてやるからなっ!」

 秦野はそう言い捨てると、上げていたバイザーを片手で下ろし双眼鏡をポケットに突っ込んだ。
 そして香に向けて遂に最後の指示を行ったのだった。

「香っ!突っ込め!あのガキに、“きつね”のガキに、突っかけるんだぁ、轢き殺せぇ!」

 その声を合図に香に指がセル・スイッチに躊躇い無く掛かった。
 250ccのエンジンに凶暴なパワーが一瞬にして蘇り、甲高い咆哮が木立の間から冬の空に響きわたった。
 そして総重量が200キロを軽く凌駕する有人ミサイルは、精密なコントロールのもと忽ちスピードを上げ一瞬にしてゲートを通過すると、視界に捉えたターゲットの背中に向けてアクセルを全開にしたのだった。

 その様子を“きつね”くんは夢の中の出来事のように現実感を持てずに見ていた。
 唐突に現れた勇作が何かを叫びながら駆け寄ってくる。

 (見つけた?何を言ってるんだ?・・・えっ、坂田くんが“見つけた”って言えば・・・まさか、あの・・・)

 “きつね”くんがそこまで考えた時、まるでその予感が現実化したように真っ黒い皮の上下に真っ黒いヘルメットを被った人物が乗ったバイクが悪夢のように現れたのだった。
 そして、そのバイクは疑いようも無く坂田くん目掛けて一直線に突っ込んでいっているのだった。

「あぶないっ!」

 “くらうん”の口から叫び声が上がった。
 しかし何の遮蔽物も無いアプローチにおいて、その声は虚しかった。
 爆音に気付いた勇作は背後を振り返り、顔を引き攣らせて一目散に逃げ出したが、無論バイクに敵う訳は無かった。
 “くらうん”が目を逸らそうとしたその一瞬、しかし“きつね”くんの大声が突然響きわたったのだった。

「敵だっ!『殲滅』しろっ」

 その声は命からがら逃げる勇作の耳にも、奇蹟のようにクリアに聞き取れた。
 そして、その途端、勇作の中で何かが目を覚ました。

 (せんめつ・・・殲滅、殲滅、殲滅、殲滅、殲滅っ!!倒すっ、倒す、倒す、倒すっ!)

 既に防御の意思は吹っ飛んでいた。
 一瞬にして振り返ると、そのまま背走しながらバイクに鋭い視線を向けた。

 2人乗り・・・バイク・・・バランス・・・

 一瞬の閃きのような思考が脳裏を掠めた途端、身体は既に反応していた。
 目前まで迫ったバイクのハンドル目掛け両足を揃えてジャンプしたのだった。
 体重60キロの勇作だったが、その力が全てハンドルの片側に掛かってはバイクは転倒するしかないはずだった。
 無論跳ね飛ばされる勇作自身もただでは済まないのだが・・・

 しかし、その勇作の捨て身の反撃を香は信じられない事に一瞬で察知していた。
 そして、いったい何処で身に付けたのか、一瞬にして体重を左に移すとバイクを斜めに傾けたまま勇作の横を通り過ぎたのだった。

「うわわわっ」

 堪らないのは秦野だった。
 まったく予想できない姿勢の変化とGに必死に香にしがみ付いた。
 その無理な力が香の奇蹟のような体重移動の妨げとなったのは言うまでもなかった。

「ちょっ、ご主人様ぁっ、だめぇ!」

 香の悲鳴と供に砂利道をドリフトしていたバイクは、遂に芝生に乗り上げコントロールを失ったのだった。
 しかし、全く悪運の強いというか・・・秦野は芝生に入ると同時に投げ出されていたため、バイクのダメージを全く受けていなかった。
 一方の香がうつ伏せに突っ伏したままピクリとも動かないのと対照的に・・・

 秦野は顔を上げた。
 すると丁度襲撃に失敗したターゲットも起き上がるところだった。
 射るような眼光が自分を見詰めていることに気付いたが、しかし秦野は混乱した視線を車の横に佇む男に注いだ。

 (なんだってぇ!どういう事だっ!あの声、あの張りのある声は、まさしく“きつね”の声じゃねえかっ!)

 あの一瞬に“きつね”くんの放った声を聞いてしまった秦野は、自分を投げ飛ばした男が“きつね”なのか、それとも違うのか判らなくなっていた。
 しかしその判断を待つことなく、勇作は命じられたワードに支配され、只管秦野目掛けて突っ込んでいった。

 (殲滅、殲滅、殲滅、殲滅、殲滅っ!)

 そしてその姿を目にした秦野も腹を決めると、第2段の攻撃に移っていったのだった。
 皮のつなぎの背中に右手を突っ込むと長さ70センチ程もある日本刀を抜き出したのだった。
 その途端、勇作の突進がピタリと止んだ。
 燃えるような視線を秦野に当てながらも、慎重に身構えたのだった。
 秦野はそうして勇作を牽制しながら、片手で取り出したガムテープで日本刀を右手にくっ付けてしまった。
 何が起きても日本刀を手放さないつもりのようだ。

「いったい・・・なんなんですか、あれは・・・」

 事態のまったく判っていない“くらうん”が、突然目の前で繰り広げられた死闘に呟いた。
 すると“きつね”くんは目の前に2人の動きから目を逸らさずに言った。

「判りませんか?あの男・・・“ぱんだ”ですよ、多分」

 “きつね”くんのその一言で、“くらうん”は目を見開いた。

「なっ!なんでっ!どうして、彼がっ!そんな・・・」

「偶然・・・な訳は無いですね。誘き出されたんでしょう・・・僕達は」

 “きつね”くんは厳しい目を前方へ注ぎながら言った。

「ただ・・・あの男は勘違いしてるみたいですね。多分、あの逃亡の日にやっつけられた男を僕と勘違いしてるんじゃないかなぁ」

 (最初から僕を目指してバイクが突っ掛けて来たら・・・避けられなかったよなぁ。ヤバイ、ヤバイ・・・)

 “きつね”くんはそのシーンを想像して顔を顰めたが、しかし相手が“ぱんだ”であればこの勝負はもうついたも同然だった。
 じりじりと間合いを詰める二人を見ながら“きつね”くんは再び大声を出したのだった。

「“ぱんだ”っ!」

 その声に秦野はハッとして“きつね”くんを見た。
 2人の視線が空中で火花を散らす。

「き・・・貴様かぁっ!“きつね”ぇえええええっ!」

 秦野が呪詛を込めて叫ぶ。
 しかし、その応えを聞いた“きつね”くんは、一転してニッコリと笑った。

「お返事ありがとうございます、“ぱんだ”先輩」

 その“きつね”くんの態度で秦野は自分の失態を悟った。
 フルフェイスのヘルメットで表情までは窺い知れないが、一瞬棒立ちとなったその動作で動揺は明らかだった。
 その秦野に“きつね”くんは良く通る声でこう言ったのだった。

「フリ~~ズ・・・マインドッ!」

 その瞬間・・・黒のライダースーツの男は片手に日本刀を持ったまま身体を硬直させた。
 逃げようと身体を捻ったその姿勢のまま、凍りついたのだった。
 そして一呼吸おいて、ゆっくりと身体を正面に向けると全身から力を抜いてその場で棒立ちになっていった。

 “きつね”くんは、その様子をじっと見詰めていた。
 表情が見えない分、慎重になっているのだ。
 しかし完全に脱力したままピクリとも動かないその姿に、“きつね”くんはやがて小さく息を吐くと体の緊張を解いたのだった。
 そして“ぱんだ”の傍で同じように男の動きを注意深く見守っていた勇作に声をかけた。

「坂田くん。その男のヘルメットを取って」

 “きつね”くんのその命令に、勇作は何の躊躇いも無く秦野に歩み寄った。
 そして恐れ気も無く日本刀を手にしている男の顎からヘルメットの紐を緩め、一気に取り去ったのだった。

「“ぱんだ”くん・・・」

 “くらうん”の口から感慨深げな声が溜息と供に漏れた。
 つい1ヶ月まえとは比べ物にならない程頬がこけていたが、その顔は紛れもなく“ぱんだ”のものだったのだ。
 そして“きつね”くんも、“くらうん”のその声に引き摺られるように“ぱんだ”のその顔をじっと見詰めていた。
 しかしサスペンド・ワードで完全に弛緩しているその表情からは、さすがに“きつね”くんでもその内面を窺い知ることは出来なかった。

 (完全にドールに・・・なっちゃったんだね、“ぱんだ”さん。悔しい?大丈夫、すぐに全てを忘れさせてあげるから・・・)

 “きつね”くんの目に、既に敵意は無かった。
 代わりに、かつて仲間だった男へ敬意を込めて一礼をしたのだった。
 そして最後の記憶封鎖を行うべくゆっくりと足を向けたのだった。

 しかし・・・

 一難去ったこの瞬間、不覚にも“きつね”くんは自分に迫る新たな危機にまるで気付いていなかったのだった。

 そしてシャンプーのい~い香がしたと思った時には、もう完全に手遅れだった。
 “きつね”くんは後から力一杯抱きしめられていたのだった。

「つ、か、ま、え、たっ」

 その声は熱い吐息と供に“きつね”くんの耳にそっと囁かれたのだった。

「やっ・・・やぁ、久しぶり。元気そうでなにより・・・っすね」

 “きつね”くんはちょっと顔を引き攣らせながら、しかしなんとか笑顔を作って諒子を見た。
 そんな“きつね”くんの瞳を諒子はじぃっと覗き込んだ。

「ふふふっ。どうしたのかしら?“きつねさま”。こんなにすぐに会うことになるとは思ってなかったのかしら?」

 諒子は余裕たっぷりにそう囁くと、今度は正面にまわり自分から“きつね”くんの口に口付けをした。
 積極的に舌を絡め、唾液を味わい、“きつね”くんの口を犯すようにじっくりと堪能した。
 しかし、長い長いその口付けが終わった途端、まるで精力を吸い取られたように腰が砕けたのは諒子の方だった。
 “きつね”くんの首に縋りついたままその胸に顔を埋めたのだ。
 そして大きく溜息を吐いた後、潤んだ瞳で“きつね”くんを見上げながら言ったのだった。

「ただいま・・・戻りました。あなたのもとへ」

 その声に“きつね”くんはちょっとだけ困ったような表情をしながら、しかし優しく抱きしめて言ったのだった。

「おかえり。ごくろうさまでした、諒子」

 その一言で、たった一言で諒子の顔に花が開くように笑顔が広がった。
 そしてようやく気が治まったのか、一旦“きつね”くんの胸から離れ頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。ご主人様に勝手に甘えてしまいました」

「え?あ、いや・・・。ん、別に・・その・・」

 どうも、そう真面目腐って言われるのは“きつね”くんは苦手なようで、なんとなく後ずさりしながらごにょごにょと口の中で何か言っていた。
 そんな“きつね”くんの様子を諒子は上目遣いにチラッと眺め、悪戯そうな表情で笑った。

「あ、くっ、“くらうん”さん。どうします?あの男。車を誰かに出してもらいます?」

 “きつね”くんは秦野の方にスタスタと歩きながら、わざとらしく大きな声で“くらうん”に話し掛ける。
 しかし“きつね”くんを開放する気など更々ない諒子は、その後をピッタリと付いて行った。
 そして秦野の目の前に辿り着きその催眠深度を注意深く観察している“きつね”くんを、諒子は興味深げに眺めていた。
 既に“きつね”くんにイニシアティブが移っているため、勇作も所在なげに近くに立ちボンヤリとその様子を見ている。
 “きつね”くんの表情からすると、特に問題が有るようには見えなかった。
 “くらうん”もゆっくりと秦野の方に足を向けながらも、もうすっかり収束した騒ぎの様子に自然と頬が緩んでいた。

「どうですか?このままトランクに入れときますか」

 “くらうん”が軽く問い掛け、それに“きつね”くんは何気なく振り返った・・・

 マインド・サーカスという特異な集団の中にいて、常に催眠という能力を肌に感じていた秦野、そしてそれでいながら肝心の催眠技能の面では常に最低ラインを彷徨っていた秦野。
 そんな秦野が、マインド・サーカスのホープである“きつね”くんに挑むためには唯一策略、知略の罠を仕掛けるしかなかった。
 しかも・・・相手の得意な心理作戦でその裏をかくことに、秦野の意地が掛かっていた。

 ― お前に勝つためには、俺は何も恐れない。お前に思い知らせてやれないなら、このまま生きていても仕方が無いっ! ―

 マインド・サーカスの男達にとって秦野の存在が既に終わってしまったこの瞬間、すでに1体のドールに過ぎなくなってしまったこの一瞬、これこそが秦野が待ち望んだ復讐の時であったっ!

“ジャックポット!”
 バイザー越しに“きつね”くん達の動きを目で追っていた香の脳裏で、秦野の血を吐くような言葉が蘇った。
 すると一瞬にして香の身体は弛緩の暗示から開放された。
 そして間髪を入れずに秦野の前にたむろする男達に向って大声を張り上げたのだった。

「メルトマインッ!!!」

 突然の絶叫・・・

 皆一瞬、その意味を理解するより先に香の方へ視線を走らせた。
 そして、その一瞬で秦野には充分だった。

 反復に反復を重ね極限まで脱催眠時の反応速度を高めていた秦野は、今、この本番でも最高のパフォーマンスで暗示から立ち上がっていった。
 そして手に巻きつけておいた日本刀の感触を確かめるより早く、目の前に居る人物を確かめるより先にっ、秦野は腕に力を込め、体重を前に掛け、思いっきり必殺の突きを目の前の人物に繰り出したのだったっ!

 そして“きつね”くんは・・・
 まるでスローモーションのように自分の腹に向って一直線に突き出されてくる日本刀を、凍りついたような表情で見詰めていた。

「きつねさまぁっ!」

 次の瞬間、諒子の絶叫が響きわたった。
 そしてまたも諒子の目の前で血飛沫が舞ったのだった。

< つづく >

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