第八話 人形
眩しい。
照明の光に覚醒をうながされた俺は、まだまだ眠り足りないがこれから眠る気にもなれない、という中途半端な目覚め方をした。
なんだか眠った気がしない。疲れも身体に残っており、全身を蝕むだるさに身体を慣らす。
横で眠っている道子の姿に、目が自然と細まる。
だが、そこが開かずの間であって、どこに目を向けても視界に入る、部屋を占める調度品と言うにはあまりにも悪趣味なアイテムの数々に、陰鬱な嘆息がもれる。
俺はどうしてこんな場所で道子を抱いてしまったのだろう。
こんな、欲望の顕現としか言えないような場所で。
親父とは違う。俺と道子が一つになったのは、お互いの気持ちからは当然の成り行きだ。あんな欲望の赴くまま、ただ快楽に溺れるような行為とは絶対に違う。
あの時は道子しか見えていなかった。周囲を気にする余裕なんてなかった。
初めて一つになる二人の記念なのだから、もっと考えるべきだったよな。
「悪い」
眠っている道子の頭を撫でながら、謝る。
「すーっ……すーっ……」
静かな寝息を聞きながら、俺は道子を起こさないようにベッドから抜け出した。今は何時だろうか。この部屋には時計が無いので、時間を知りたいのならこの部屋から出るしかない。
体内時計は、まだ夜は明けていないと教えている。あまり眠れなかったから……3時過ぎ、といったところか。だが、昨日は何時に眠ったのかすら覚えていないので、普段の感覚で推測するのは無理がある。
今日は木曜で、祭日ではない。俺は学校を休んでもいい気分なのだが、どうするかは道子次第だ。道子が行くなら行くし、休むというなら喜んで付き合うつもりだった。
部屋から出ようとして、重要なことを思い出した。どうしてこんなことを忘れていたのか、自分の迂闊っぷりに後悔する。
「パウがいたんだった……」
同居人のことを、今の今まですっかり忘れてしまっていた。まだ一緒に過ごしている時間は短いからといって、こんな重要なことを忘れるなんてどうかしている。
パウの様子を見に行かなければ。だが、さすがに全裸はまずいと思い、脱ぎ散らかしていたパンツとズボンを履く。スーツなんて持ってなかったはずだが、どうして昨日の俺はこんな服を着ていたのだろう。
――まあ、いいか。
俺は静かにドアを開けて、音をたてないよう閉じた。
廊下は真っ暗で、少なくとも夜は明けていなさそうだ。……だが、これは暗すぎる。歩くのもままならない暗闇の中、ポツポツと光っている照明スイッチへと壁に手をついて近づき、明かりをつけた。
昨日の様子から考えるに、パウがこんな深夜に目覚めることはありえない。俺は足音を忍ばせたりはせず、堂々とリビングへと入っていった。
廊下の正面にある窓に目がいく。カーテン開けっぱなしの窓から見える外の風景は真っ暗だった。
「……いや、違う」
違う。何かが違う。
窓の外は、普段見なれている夜景とは違っている。ここは二十二階で、とても見晴らしが良い。電灯に彩られた気持ちのいい風景が見えるはずなのだ。
だが、この黒一色の夜景はどうだ。気持ちよくなんてならない。そら恐ろしい、まるで街が消えてしまったようだ。
ふと、親友である男の言葉が思い返される。
ああ、そうだ。この黒いのは『混沌』だ。触れると溶けて融合してしまうんだ。
窓は開けないようにしないとな。
……あれ、なにか変だ。
間違いがあると気付いているのに、その間違いが見つけられないもどかしさ。
――まあ、いいか。
「うーん……」
俺は考えることを諦めた。気になるが、今はそんなことよりもパウだ。昨日、パウはどうしていた? 道子が来たときにもう寝ていたのなら、このまま何もなかったことにすることができるんだが――あれ、どうだったんだ?
思い出せない。
どうして思い出せな――まあ、いいか。
「はあ……」
考えているうちにどうでも良くなっていき、窓を離れた。
廊下の照明はリビング全体を明るく照らせるほどの光源ではない。だが、部屋全体を把握するくらいなら薄暗くても充分だ。和室の障子が開け放たれていることもはっきりわかる。そこには布団も、眠っているパウも存在していなかった。
おかしい。こんな時間になってもまだ外を出歩いているのか?
そういえば何時だ?
時計に目を向ける。が、壁掛け時計がかけてあった場所には、何もなかった。
「あれ?」
それなら、と置時計に目をやる。だが、置時計もない。ならば、とビデオデッキの時計を見る。……時間が設定されていない。『0:00』という表示が点滅しているだけだった。
時計はどこへ行ったのだろうか。
時計をいじった記憶はない。ここまで徹底的に時間を把握できないってことは、誰かがそう仕向けたってことか?
ようやく間違いを一つはっきり認識することができて、少しすっきりする。
「…………」
おかしな所を見つけてすっきりする、っていうのは変だろ? と自問自答。そして、すぐに胸の中にもどかしさが満ちている。相変わらず、他にも間違いがあることがわかっているのに、どれと断定できないのだ。
心が警鐘を鳴らしている。何かに、誰かに、どこかに、「気をつけろ」と叫んでいる。
――まあ、いいか。
「いや……気のせいだ」
ここは俺の家だ。気をつける必要なんてあるだろうか?
ああ、そうだ。ここは俺の家ではない。俺の家そっくりに作られたジオラマだ。
俺の家じゃない。
俺の家じゃないから……なんなんだ?
俺の胸では危険を知らせるライトが点滅し続けている。
――まあ、いいか。
どうでもいいよな。
俺は開かずの間に戻ることにした。漠然とした不安に付き纏われている感覚に気が重くなってしまって、むしょうに道子の顔が見たくなった。何も考えずに道子の傍にいたい。
部屋に戻ると、ベッドで上半身を起こしている道子と目があった。
「どうかした……?」
まだ目覚めたばかりなのだろう。顔一杯に「寝不足」と書いてある顔を俺に向けている。
「時間を見に行ってただけだ」
すると、道子が怪訝そうな顔をする。
「ここで時間なんて気にしても意味ないよ」
その言葉に、今度は俺が眉を傾ける。
「どういうことだ?」
「どう、って……ひょっとして、拓真は何も知らない?」
「何が」
「あたし達はここにずっといるんだよ。あの方がいいと言うまで」
「あの方?」
「拓真と話をしていた方さ。拓真をこの部屋に連れてきた――」
そこまで説明されて、親友の笑顔を思い出した。
「ああ、あいつのことか。それにしたって、いつまでも出ないわけにもいかないだろ? 学校だってあるし、食う物だって買いに出ないといけない」
「だから、ここはそういうこととは無縁の場所なんだって。いいじゃん、ここにはあたしがいて、あんたがいる。あたしはそれだけで満足だけど?」
「俺だって、道子がいればいいけどさ……」
それにしたって腑に落ちない話だ。
ここから出られない? あの男がいいと言うまで?
数日くらいなら学校を休んだって気にしないが、さすがに卒業できなくなるまで、っていうのは困る。
道子だって卒業する気がないわけがないだろうに。
――まあ、いいか。
いや、ちょっと待て。本当にいいのか?
――まあ、いいか。
その一言で片付けようとするな。将来のことだ、もう少しきちんと考え――まあ、いいか――いや、よくない――まあ、いいか――どうしていいって思えるんだ――まあ、いいか――考えろ――まあ、いいか――流されるな――まあ、いいか――俺は――まあ、いいか――あ――まあ、いいか――
まあ、いいか。
顔を上げると、道子は両腕を伸ばしてのびをしていた。そこで、上半身を隠していた布団が落ちてしまった。つい、視線が胸へ行ってしまう。道子の裸体はまだまだ見飽きることはなさそうだ。
俺の視線に気付いて、道子が眉を顰める。
「ちょっと。いつでもどこでも、なんてのはさすがに嫌だかんね。でさ、なんか服ない? なんでもいいから持ってきて」
「わかった。……というか、自分で探してくれ。服なら山ほどある」
物置部屋には各種様々な女性用の衣服が揃っている。遺産のことといい、服のことといい、最近親父に感謝することが多すぎだ。
なんとなく、面白くない。
それから、奇妙な共同生活が始まった。
行動範囲は俺の家のみ。
いるのは俺と道子のみ。
ビデオの時計はいくら設定しても『0:00』を繰り返し点滅させるだけで、外は『混沌』が覆い尽くす闇しか見えないため時刻を知る術も計る術もなく、眠くなるまで活動し、眠くなったら好きな時間に眠り、自然と目が覚めるのを待つ、という日々が続く。
当初はいちいちあれこれおかしな部分を見つけては考えこんでいたが、道子はむしろ疑問をおぼえる俺がおかしい、というような態度だ。この家から出られない理由は、道子が教えてくれた。想像していたことだが、ドアの外も『混沌』が生め尽くしているそうだ。
出られないとはいえ、心配はしていなかった。親友のあいつが俺を見捨てるはずがないからだ。それまでのんびりしていればいい。
どうしてあいつだけが『混沌』によって閉鎖されたこの空間から出ていけるのか、俺は当然知らないし、道子も知らないようだった。
とりあえず、生きていくことに困ることはなさそうだった。
冷蔵庫の中には常に各種食材が一杯に入っており、どれだけ使っても次に開いたときには食材が補充されている。電気ガス水道は当然生きていたが、テレビは故障してしまったのかどの局にチャンネルを合わせても白黒の砂嵐しか映らなかった。ラジオも聴けず、電話も繋がらない。携帯電話はアンテナが一本も立たないので通話できず、外に出られない俺達二人は世間から切り離された陸の孤島で生活をすることとなる。
俺達は生活をはじめてすぐに、最大の敵の存在を知る。
それは退屈だ。
時間は有り余っているのだが、とにかくやることがないのだ。
最初はどうやって時間を潰すかに四苦八苦していたが、それも次第に慣れていく。
食事は交替で作った。道子は俺よりは料理が上手かったが、頭一個分出ている程度でしかない。そのうち、どちらがより美味いものを作れるか、と競い合うようになり、食生活は日に日に充実した物になっている。
暇を潰せるものを探し、物置部屋で眠っていたオセロ、囲碁、将棋、チェスなどで延々とプレイしていたこともある。お互いにルールを知らなかった囲碁に関しては、ルールを覚えるのにてこずり、五目並べから卒業するのに随分と時間がかかった。
冷蔵庫には気が利くことにビールがストックされており、酒盛りも何度かした。道子は酒に弱かった。泣き上戸で、すぐに眠ってしまうので、いつも俺が介抱する羽目になった。
そんな中、二人が一番時間を費やしたのは会話だった。
お互いに色々なことを話した。昔話にはじまり、自分のこと、将来のこと、二人のこれからについてなど。
俺は自分が抱えていたあらゆる想いを道子に吐き出した。
母親のこと、父親のこと、義母のこと、桃口姉妹のこと。
怒り、憎しみ、哀しみ、不安、戸惑い、喜び、感謝。
秋さんを襲ってしまった罪も話したし、誰にも告げたことのない、親父に対する様々な感情も語った。
道子も自分のことを語り、知り合いに対する想いも教えてくれた。
園山奈緒のこと。相馬寛一のこと。以前付き合っていた彼のこと。死んでしまったという幼馴染――原田愛美のこと。
道子はその幼馴染のことになるや、泣きだしてしまう。あたしが殺したんだ、と何度も呟きながら。
永遠の別れとなったその日。
道子は愛美と共に下校中、踏み切りに捕まって列車の通過を待っていた。
その時、愛美は何が楽しいのか信号の赤い点滅をじっと眺めており、周囲のことに気が回らなくなっていた。普段からぼんやりと遠くを見ていることの多い愛美に対して悪戯心の湧いた道子は、遮断機をまたいで線路の向こう側まで一足先に行ってしまった。
そこからぼうっと信号機を見つめ続けていた愛美に、「じゃ、先に行くから~」と呼びかけてみた。
その呼びかけに、ようやく愛美は状況を理解する。置いて行かれると思った愛美は、慌てて道子を追いかけるべく遮断機を越えた。
道子に追いつくことしか考えていなかったのだろう。
左右の確認すらせずに線路へ飛びこんだ。
列車の走行音にすら気付かずに。
「愛美は昔から抜けてるところがあったから」
嗚咽をもらしながら、震える声で言う。
「ちょっとからかうだけのつもりだったのに……! あたしが馬鹿なことしたから、愛美は……!」
泣くばかりで言葉を紡げなくなった道子を、泣き止むまで優しく抱きしめていた。
当然、何度も身体を重ねた。
健全な男女が、時間を持て余しているのだ。そういうことだってする。おそらく、起きている時間のうち、上から数えて三番目くらい時間を費やしているだろう。
最初はベッドの上で行為にふけるだけだったが、そのうちに色々なことを試すようになる。
家の中のいたるところでした。居間で、廊下で、風呂場で、台所で。
そのうちにいくつか分かったことがある。どうやら道子は責められるのが苦手なようだ。自分が責めるときは随分と積極的なのだが、受けに回るや責めているときには平然と口にする過激な言葉が一切出て来ない。あと、どうも感じやすい身体のような気がする。愛撫だけで、何回でもイッてしまうのだ。他の人間と比べようもないので、あくまでもそんな気がする程度だが。
道子の癖もいくつか見つけた。一番わかりやすかったのが、恥ずかしいと視線を反らすこと。視線が泳いでいるときなんかは、かなり動揺している証拠だ。照れ隠しなのだろうが、そういうときには反抗的な言葉しか言わない。
そんな中でも、俺は道子が恥ずかしがっている姿が可愛くて好きだった。
ずっと前から、こういう生活を繰り返していたような気がするほど、二人きりの生活に慣れてしまったある日。
「ねえ……他のことなら何でもするから、別なことにしない?」
「しない」
俺はあっさり断って、道子の首に首輪をする。
「えーとさ、えーと……あ。ほら、あれ! 前にあんた「女体盛り、っていうのをしてみたい」とか言ってたじゃん! それにしよ、それ!」
「しない……いや、やっぱやろうか」
「ほんと!?」
「それもやればいいよな。悔いを残さないよう、普段道子が嫌がっていてできなかったことは全部やるぞ」
「うっわ、ヤブヘビ……」
手枷をはめ、床に置いていた足枷に手を伸ばす。
俺が淡々と作業を進めていくに連れて、道子は落ちつかなくなっていく。小刻みに貧乏揺すりをくりかしていた。
「ねえ、拓真ぁ……」
懇願するような声。
俺は嘆息して、足枷をつけていた手をとめて、道子の顔を見上げた。
「いい加減諦めろ。賭けに勝ったのは俺なんだから」
「……えー?」
「それから。俺のことは『ご主人様』って呼ぶんだろ。ほら、言ってみろ」
「…………ふん」
鼻を鳴らしてそっぽを向く。
むう、なんて反抗的な。
もしも服従させる喜びを感じてもらうために演技してるんだったら、良くわかっているのだが――ま、そんなことあるわけないか。
どうしてこんなことになっているのか。
それは、ついさっきまで対戦していた将棋で賭けをしたからだ。最近、ボードゲームで賭けをするのが流行っている。
お互いに対等と思われる命令を考え、その命令権をかけて勝負をする。負ければ相手の命令に絶対服従する、というわけだ。
今回賭けたチップは「一日道子のご主人様になる権利」「一日拓真を奴隷にする権利」である。ちなみに一日とは、俺達の基準では眠りにつくまでを指す。だから、俺が起きている限り続けることができるのだ。負ければ今ごろ、こうやって懇願していたのは俺だっただろう。
道子は受けに回るのが苦手だが、俺だって苦手だ。互いに責め気質というか。だから毎回エッチのたびに、どちらが主導権を握るか激しい争奪戦が行われている。
しかし、今回はそんな心配はない。
何故なら俺はご主人様だから!
思うさま道子を好きにできると思うと、楽しくて仕方がない。
毎度毎度思う。道子とのエッチは気持ちいいのだが、緊張感に満ちていてとてもじゃないけど落ちつけない。主導権を取られたら最後、いいようにもてあそばれる宿命が待っているからだ。いつだったか、隙をつかれて両手両足を縛られた挙句、道子が飽きるまでイカされ続けたことがあったな。あの時の俺を見る道子の瞳は、自分の知らなかった一面を教えてくれた瞬間だった。
……思い出すのはやめよう。癖になったら帰ってこれなさそうな世界だ。
足枷をはめた道子に、ベストを着させる。胸の部分が大きく開いたボンテージ服だ。こういう姿を見るのは、最初に抱き合ったとき以来だった。普段は道子が着るのを嫌がるのだ。
「なかなか似合ってるぞ」
「あのさあ……喜ぶとでも思ってんの?」
露出している胸と股間を隠しながら、どんよりとした瞳で俺をみつめてくる。
「隠すなって。せっかくなんだからちゃんと見せろよ」
「くそっ……次の賭けには絶対勝ってやる……っ!」
毒づきながら、腕をおろした。隠したいのを我慢しているのだろう、腕が震えている。
そうだ。せっかくこういう格好をさせているのだから、もっと好きなようにやろう。
「道子。両腕を後ろにまわして」
「まだなにかやんの?」
嫌そうな顔をして、道子は両腕を後ろにまわす。そこで、両手首についている手枷の金具を繋ぎ合わせた。
「えっ? ちょっと、何やってんのさ!?」
両腕を束縛されたことに気付いた道子は、手枷をガチャガチャ鳴らして抗議の声をあげる。
「ご主人様としては、もう少し素直になってもらいたくてさ」
道子の肩と腰を抱いて、足を払う。
「わあっ!?」
傾ぐ道子の身体をを支えながら、横に寝かせる。
「大丈夫だって。安心しろ」
「こんなことされて安心できるわけないだろっ!」
俺は足枷の金具も繋ぎ合わせてしまう。これでかなり道子の自由は奪われた。
圧倒的優位に立てたことで、自然と口元もほころぶ。
ようやく……ようやくっ、落ちついてエッチが出来る! 良かった、賭けに勝てて本当に良かった……!
「拓真。なんか浸ってるとこ悪いんだけど、そろそろほどいてくんない?」
道子の冷たい視線が、感動に震えている俺にザクザク刺さる。あ、なんか痛い。
「違うだろ、道子。俺のことはご主人様と呼ぶんだ。ほら」
「馬鹿?」
「違う。ご主人様だ、ご主人様」
「はいはい、大馬鹿様」
「お前……言う気ないだろ?」
「あるとでも思った?」
「くっ……! ずるいぞ道子! 賭けに負けたんだから大人しく言う通りにしろよ!」
「こんな格好してるんだからそれで十分だろ! ……自由にしてくれたらいくらでも気持ちよくしてあげるから……ね?」
う。
急に色目を使ってきやがった。
こういう目をしている道子はヤバい。主導権握る気満々だ。このまま道子の言うままになれば、結局は好きなようにいたぶられてしうまうに決まっている。それで今度は仕返しに俺が手枷足枷をはめられて自由を奪われて道子が「どう? ご主人様。気持ちいい?」なんて――
「…………だーっ!」
妄想を慌てて振り払う。
良くない! そういうのは絶対に良くない!
なすがままになるのもそれはそれで良いかも、なんて考えてしまう自分が恐い。かなり道子の影響を受けている。危険だ。
「とにかく! 俺はご主人様なんだ! 決めた。今日は眠るまで徹底的に道子をいじめてやる」
嫌な想像を振り払うように宣言する。
「え……マジで?」
その言葉が本気のものだと気付いたのだろう。半笑いになった道子が、恐る恐る訊いてくる。
「ああマジだ。マジだとも。もう道子がご主人様と言ってくれなくてもいいぞ。最初はご主人様の気分が味わえればいいくらいに思っていたんだけどな。明日になっても道子がご主人様、と呼びたくなるくたいのことをしてやる」
ふっふっふ、と低く笑っていると、道子の顔色がみるみる変わっていく。
「さて。道具は何を使おうか……」
呟きながら、壁に並んでいる鞭を眺める。
「謝るから! ご主人様って呼ぶから! 鞭は嫌だって!」
「うーん……そうだな。まずはアレだ」
壁にかかっていたパイプを一つ手に取る。
「……それは?」
やはり道具が何の用途に使われるものか気になるのだろう。
「こうする物」
俺は実際に使って教えてやる。
道子の足枷の結合を外して、左足の足枷とパイプの端を結合させる。そしてパイプの反対側と右足の足枷を繋げようとするところで、道子がうめいた。
「げっ、それって――」
「ああ、足が閉じられなくなるようにするものだ」
「イヤだっ!」
足を閉じて抵抗する道子に、俺は笑ってみせる。
「痛いのと気持ちいいの、どっちがいい?」
そして、壁にかかっている鞭に視線を送る。
「……どっちも嫌って言ったら?」
「両方する」
「はぁ……」
深いため息とともに、足の力が抜けていく。右足とパイプの金具を繋ぎ、道子の足は開脚したまま閉じられなくなる。
「よし、いい子だ」
「やめな。あたしは子供か」
撫でる俺の手を、首を振って払う。
やはり落ちつかないのだろう、あちこち身体を動かして、金具をカチャカチャいわしている。
「うーん……いい眺めだ」
「見るな! そういうことも言うな!」
顎に指をあてて、よく見えるようになった秘所を眺めていると、道子が反抗的な言葉をあげる。
「道子。ご主人様には敬語を使うんだ」
俺は少し厳しい口調で道子に告げる。この調子ではいつまでたってもご主人様を満喫することはできそうにもない。俺が一人でその気になっていても、道子がこのままじゃあせっかく賭けに勝った意味も半減だ。
「わかっ……わかりました」
不服そうに、とりあえず、といった風に敬語に直す。
さて。
身動きできなくしたまではいいが、これからどうしたものか。
「うーん」
部屋をぐるっと見まわし、どの道具を使おうか悩む。
普段のエッチでは開かずの間は使わない。俺があまりこの部屋に近づきたがらないのが理由だが、今日は気分を出す意味もあってこの部屋にいる。この一種異様な雰囲気に満ちた空間は、倒錯的な行為をするにはうってつけだろう。
この部屋を選んだ一番の理由は、道具に困らないからだが。
「ふむ」
じっくりと見るのは今回が初めてだ。こんなことでもなければこんな大人のおもちゃを使う機会は一生なかっただろう。……なんだか親父の行動をなぞっているようで、なくても良かった気がしないでもない。愛がある分、親父とは絶対に違う。
ローター一つとっても色々な種類があるものだ。スポイトのようなものがついているローターを見つけて、興味を惹かれる。
「ほお」
指に吸いつけてみながら、大体理解した。なるほど、こういう風に肌につける物なのか。一つのスイッチに2個ローターがついている。乳首につけろ、といわんばかりだな。
他にもスイッチが無線式のローターを手にすると、道子が何か物言いたげな視線を俺に向けていた。
「……最初はそれ?」
「敬語は?」
「それ、ですか」
ローターを持っている俺を不安げな顔で見上げている。その表情に、ちょっとゾクゾクする。だけど、道子に不安な顔をさせるのはあまり楽しくない。
傷つけるようなもの、例えば鞭やロウソク系は最初っから使う気はない。だから安心しろ――そう念じることで許してもらうことにしよう。……許されないだろうけど。
「さっそく実験してみるか……ほら、ローターつけるから乳首勃たせて」
「無茶を言うな――言わないでください」
すっかりへそを曲げてしまったみたいで、むすっと反論してくる。
俺だって言ってみたっだけだ。
「仕方がない、俺がやってやる」
「あっ」
人差し指で、乳首を乳房に押しこんでやる。グリグリと乳房の奥に押しつけるようにしていると。
「相変わらず感度がいいなあ」
感心してしまうほど、簡単に道子の乳首は勃ってしまう。
「反対側は舐めてみるか……って、もう勃ってるな。ひょっとして期待してたのか?」
「あーっ、さっきからうるさい! やるんだったらさっさとやれっ!」
羞恥が限界に来たのだろう。大声を出して、誤魔化しているようだ。ああ、分かってないなあ。反抗的な態度は気分を盛り上げるだけなのに。
「それでは期待に添わせてもらおうか」
吸盤付きのローターを、乳首の突起に吸いつかせる。
「くうっ」
「もう一個」
「はっ」
乳首をつけるたび、道子が敏感に反応する。
拘束されて両方の乳首にローターがぶら下げているなんて、とんでもなくエッチな光景だ。これでスイッチを入れるともっとエッチになるんだよな。
「…………」
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴ
「あわあっ!?」
道子がのけぞった。
「ちょっ、ちょっと! スイッチ入れる前になんか言うことはないのか!? ビックリするだろ!」
「あ、ああ。悪い」
道子の剣幕につい謝ってしまう。何やってんだ。謝らなくったっていい立場なんだぞ。
「道子。口の効き方がなってないな」
「うるさいっ! ここまで言う通りにしてんだから、その程度見逃しな!」
さすがは道子、というか。気が強いったらないな。このままではご主人様の気分に浸るどころではない。
「あ、そうだ」
ピンときた俺は、棚の中を漁り、中から目的のものを見つけた。
「……うげ」
道子はそれを見て、夕飯のおかずに嫌いな物を見つけた子供のような顔をした。
「これでよし」
「ふふうえ、うおうーっ!」
「悪い、何言ってんだかさっぱりわからねえ」
「おうお、おおえっえうっえうー!」
「なんだって?」
無線式ローターのスイッチを入れる。
「ふうっ!?」
ビクビクと身体を震わせて、静かになる。乳首には二つのローターをつけ、秘所の中にも無線式ローターを入れている。
「うう、んっ、ふっ……んう」
身体をねじり、刺激から逃れようとしているが、それくらいでなんとかなるはずがない。乳首についたローターが揺れ、視覚的により卑猥になっていくだけだ。
「最初っから素直にしていればこんなことにはならなかったんだぞ?」
俺は道子の頭を優しく撫でながらしゃがんで顔を覗くと、反抗的に俺を睨んでくる。嘆息して、乳首のローターの動きを一番強く設定する。
「ふうーっ!?」
「もっと色々しないと、道子は素直になってくれないみたいだな」
俺は部屋の中にある様々なアイテムの中から、次に何を使おうかと選ぶことにした。
静かな部屋には、モーター音と道子のうめき声がする。道子に背を向けて道具を選んでいても、意識の半分は音に集中していた。
のんびりと、時間をかけて道具を見ていく。
いくつか使ってみたい道具が揃った頃、棚の影にあったケースの中から怪しげな薬瓶の数々を見つけた。
ビンはどれも茶色いガラスで、手書きと思われるラベルにはその薬の効能が書かれていた。
「これは、いわゆる――」
――媚薬というやつだろうか。
内服、外用、錠剤、液体、軟膏、男性用、女性用、精力増強、性欲増加、性感拡大、などなど、様々なラベルの貼られたビンが並んでいるのだ。ご丁寧に、使用期限とおぼしき数年後の年月日まで書いてある。
親父……あんた、ほんと何やってんだ?
ただひたすら快楽のためだけにここまで努力できるのなら、その情熱をもっと別の方向に持っていくことはできなかったのか。情けなくなってくる。
それはそれとして、興味はそそられる。
あんな様子では飲み薬なんて飲ませられないので、性感拡大の軟膏のビンを取る。
「さて、道子」
「ふっ……ふぅっ……ふぅっ……」
少し見ないうちに、道子は随分と静かになっていた。頬を染めて息を荒げ、ぐったりと横に倒れている。それでも俺に向ける視線は強い。
「これはなんだと思う?」
手にいくつか持っていた道具の一つを見せる。すると道子は目を見開き、眉根を寄せて俺を見た。これは分からないというよりも「本気?」といった感じだ。
「分かるのか?」
俺の問いに、嫌そうな顔をする。分かりたくなかったのだろう。分からなくても使うことに変わりはないのだけれども。
手に持っていたのは、丸い玉がいくつも繋がっているアナルバイブだ。後ろの穴で本当に気持ち良くなるのかどうか、最近気になっていたことでもある。
ローションを使わなくても、道子の秘所から垂れた愛液でぬるぬるに濡れていた。
「んーっ! ふふうんーっ!」
アナルに触れた途端、道子が暴れ出した。やはり後ろの穴を使うには抵抗があるのだろう。
「大丈夫だって。これを使えば気持ち良くなるから。……多分」
「ううんっふ、ふんふーっ!?」
俺の持っていた怪しげなビンの存在に気付き、道子が足を動かしてなんとか触らせまいとする。だが、ポールを押さえてしまえば道子の動きはほとんど制限できる。
「ううー。うんううー」
道子が首を振って嫌がる。
「悪いな。ここまで来たらやめられねえって」
アナルバイブに軟膏を塗りたくり、準備完了。
「じゃ、行くぞ」
「んううー――んふっ!?」
力を軽く入れると、一個目のアナルバイブの玉がぬるりと入った。
そこから押しこむと、ぬるん、ぬるんと玉は次々に道子の後ろの穴へと飲みこまれていく。
「ふうっ! ……んふぅ! ……ふんっ!」
その度に道子は小さくうめいたが、アナルバイブが根本まで入りきるのに、そう時間はかからなかった。
「……結構簡単に入るもんだな」
「んううんう、ううー……」
ふうふうと、息も絶え絶えになりながら、なにか言いたげだった。
「道子。素直に俺をご主人様と呼ぶ気になったか? なったんなら、ギャグボールを外してやる」
「…………ふんっ」
そっぽを向かれてしまった。まだまだ抵抗する気力が有り余っているようだ。
「だったら――」
後ろだけではなく、前も攻めた方がいいだろう。俺は秘所から愛液でベトベトになったローターを取りだし、軟膏を道子の秘所の中に塗っていく。
「んんっ!? んふーっ! むうーっ!」
俺の指が動くたび、道子が身体を痙攣させる。どうやら見た目以上に道子の身体は快感に攻められていたようだ。そんな道子の秘所に、丹念に軟膏を塗る。入り口から、指が届く範囲に擦りこむように。指が中を擦るたび、道子の中が俺の指をきゅっ、きゅっと締めつけてくる。中から指を押し付けると、アナルバイブの振動が感じられた。
「んっ!? ふぅぅぅぅっぅぅぅぅぅぅ~~~~~~~!!」
クリトリスに軟膏を塗った瞬間、道子が身体を大きくのけぞらした。
「イッた?」
「ふう……ふう……ふう……」
俺の問いに首を縦にも横にも振らず、ぼんやりと俺の顔を見つめ返してくるだけだ。その無防備な表情が可愛いくて、思わずドキッとしてしまった。
サービスとして、クリトリスには軟膏を何度も擦りつけてやると、その度に道子はうめきながら痙攣を繰り返す。
「前の方はいい加減ローターに慣れただろ?」
と、道子にディルドーを見せてやる。小ぶりのものなので、何度も俺のモノを受け入れている道子の中なら余裕で入る大きさだ。そのディルドーにも軟膏を塗りたくり、道子の中に鎮めていく。
「んふうっ! んん~~~~~~~~~っ!?」
全身を硬直させて、またぐったりと脱力した。道子は感じやすいからな。考えてみれば、乳首と秘所を延々とローターで刺激していたのだから、快感は随分と高まっていたのだろう。
「もうそろそろ、ご主人様って言う気になったか?」
「…………」
力無く、だがはっきりと首を横に振った。
俺は嘆息して、持っていた最後のアイテムを取り出した。これは、乳首につけていたローターと同じタイプだ。ただし、こちらには一つのスイッチに一つのローターしかないが。
そのローターを、クリトリスに吸いつける。
「ふうっ!?」
その刺激に目を見開いた道子が、小刻みに首を横に振る。もうさっきから限界は突破しているのだろう。道子に首を振らせるのは、生来の気の強さだろう。
おそらく、これから媚薬が効いてくれば、今よりもっと大変なことになるはずだ。道子だって何を塗ったかくらいは察していただろうに、意地を張り続けるなんて強情だな。
「じゃ、俺は飯食ってくるから。適当に時間潰したら戻ってくる。その時にまた同じ質問をするから、ちゃんと考えておいてくれよ。じゃあな」
そうして、ローターのスイッチをいきなり強に入れる。
「んううううううううううううううっ!!」
体をガクガクと痙攣させる。一番大きく絶頂に達したようだ。
「んううっ! ううううっ!」
「なあ、行く前にもう一度訊くけど、ご主人様って言うか?」
「ううううっ! ふうっ――」
息を飲んで、小さく首を横に振る。俺が諦めるまで首を縦に振る気はなさそうだ。
「じゃあ、大人しく待ってろよ」
「うっう! うふ、うふんうっ!」
最後に頬を撫で、俺は道子の声を背に、部屋から出てドアを締めた。
昼食には、卵とウィンナー、タマネギを使ったチャーハン。味付けはシンプルに塩胡椒のみ。出来はまずまず。
使った食器を洗い、のんびりとコーヒーを一杯飲み終わってようやく、俺は開かずの間に戻ることにした。
ドアを開けると、さっきまでとは雰囲気が違っているように感じた。気のせいかもしれない。
部屋の中では、するべきはずのモーター音がしなかった。
そうか、ローターやバイブの中に入っていた電池は新品のはずがない。だから長く持たなかったのか。
道子はぐったりとしたまま動かなくなっている。さすがに不安になって、道子に駆け寄る。
「おい、道子?」
「…………」
道子の瞳が動いて、俺を見返す。涙の跡があって、目蓋が少し腫れている。口元には涎の跡が。これは見なかったことにしよう。
「うう――」
「今外してやるから」
ちょっと調子に乗りすぎたかもしれない。やり過ぎたことを反省しながら、ギャグのベルトを外してやる。もうご主人様ごっこもやめた方がいいな。
「ぷは……はあ、はあ、はあ……ね、ねえ、ご主人様ぁ」
ギャグを取るや、道子は予想外の言葉を紡いだ。てっきり俺はさっきの倍以上の勢いでなじられると思っていたのだが。
「もうダメなのぉ……し、刺激が、刺激が足りなくて、もう我慢できないんですぅ……お願いします、あたしの身体に触ってくださいぃ。ど、どこでもいいんです、乳首でもクリトリスでも、前でも後ろでもどっちの穴でもいいですからぁ……」
クラッときた。
好きな女にこんなお願いをされて、断れるような奴は馬鹿だ。
これは間違いなく、媚薬の効果だろう。本当に効果があるのか、半信半疑だったのが実際のところだが、この様子を見れば疑う余地はない。……癖になると大変だから、あまり使わない方がいいだろう。
それはそれとして。
「よしよし、ようやく言ってくれたな」
頬に触れ、そこから喉、鎖骨を撫で、乳首についているローターを指で弾いた。
「はぁっ! ね、ねえ、そこです。そこを早くいじって、下さ――あんっ!」
ローターのコードを引っ張って、一気に取ってしまう。そして、胸を思いっきり押しつぶした。
「あああああっ! それ! いい! いいっ! もっとしてぇっ!」
今までしたこともない乱暴な愛撫にも関わらず、道子は嬉しそうに声をあげる。
右手を胸から離し、股間のバイブを手にした。
「あっ! そこっ! いじって! お願いしますっ! ああああああああっ!」
バイブお往復一回出し入れしただけで、道子がイッてしまう。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……い、いいですぅ……もっと動かしてっ! 後ろも一緒に動かして下さい!」
今まで媚薬の効果に焦れながら俺が戻ってくるのを待っていたのだろう。
道子の今までにない乱れっぷりに興奮する。
興奮するのだが――
「…………」
――なんだか、興奮している自分が嫌になってきた。
媚薬で我を忘れている道子と俺の間に、愛情はあるのだろうか?
少なくとも、道子は性欲さえ満たせればそれでいい、といった風情だ。俺に愛情があったところで、一方通行のまま性行為を結ぶのではレイプと同じだ。
「ね、ねえっ……! どうしたんですか? ご主人様って読んでるでしょ? ねえっ、だから手、手を動かして! 気持ち良くしてっ! もっと強くいじってぇっ!」
考え込んでいたため俺の手が止まっていたのだが、道子はそれが焦らされているとでも勘違いしたのか、大きな声で愛撫を求める。
違う。
こういうことじゃないんだ。
道子が俺を好きだというのは知っている。だが、道子は望んで乱れているわけではない。同意があって媚薬を使っているわけでもない。
このまま俺が欲望に身を任せてしまっても、後で謝れば道子は許してくれるかもしれない。
だが、俺自身が納得できなければこれ以上道子に触れることは出来なかった。
「触ってぇ……お尻、お尻の中がむずむずするんですっ! かき混ぜてっ! 拓真のチンチンであたしの奥まで掻き回してよぉっ! 前も! 前の方も一杯こすってっ! お願いっ! お願いだから、早く触って下さいぃ……」
何もしようとしない俺に対し、とうとう泣きながら懇願をはじめる。
心が痛い。胸がズキズキする。道子をこんな風にしてしまった責任に押しつぶされそうになる。
「道子……すまねえ……!」
こんなのは嫌だ。
ただ性欲を満たすためだけに抱き合うなんて嫌だ。
俺は馬鹿だ。よくよく考えもしないで媚薬なんて使ったりするからこんなことになるのだ。
どうすればいい? どうすれば普段の道子に戻すことが出来る? 解毒剤とかはないのか? 効果が切れるまでこのまま道子を放っておくことも出来ない。
とりあえず、道子を自由にして自分で慰めてもらおうか――
「やあ、盛りあがっているみたいだね」
「――――!?」
背後からの声に、俺は心臓が止まりそうになるほど驚いた。ほんの一瞬前まで、この部屋には俺と道子しかいなかった。ドアが開いた気配すらないのに、真後ろから声がすれば驚きもする。絶叫しなかっただけでも褒められるだろう。
振りかえり、それが親友の顔だと知ってほっとする。だが道子のこんな姿を俺以外の男に見られるのは、例え親友だとしてもあまり気持ちの良いものではない。
「悪い、ちょっとこっち見ないでくれ」
道子の痴態をじろじろと眺められては、声が少し刺々しくなるのも仕方がないだろう。
「何故? どうしてだい?」
俺の言葉が本当に理解できていないのか、男は不思議そうに聞き返してくる。
「おい、本気でそんなこと言ってんのか?」
男が見るのを止めるつもりがないことを理解し、俺はベッドのシーツを道子の身体にかけてやる。
「やれやれ。独占欲が強いなあ。いいじゃないか、見たって減るものじゃないし」
これがもし親友の言葉でなければ、俺はその台詞を吐いた人物を半殺しにしていただろう。
「その辺にしといてくれ」
「見た限りじゃ、肌はあまり傷つけてないみたいだね。ということは、性感開発に充填を置いたのかい? ああ、それとも拡張してフィストファックが出来るようにしたとか? 個人的にはあまり好きじゃないけどね。乳首ピアスとかクリトリスピアスとかはした方が色々とプレイに幅が出るからお奨めだよ。視覚的にもインパクトがある」
俺の言葉は流されてしまったようだ。
「……いや、お前の言ってる言葉の意味がわからない」
この男は何を言っているんだ?
「意味? 調教の話だよ。これだけ乱れるまで躾たんだから、当然だろ? ――ああ、ひょっとして今のは媚薬で素直にさせているとか? うーん、媚薬に頼っているといつまでたっても調教の腕が上がらないから、使用頻度は押さえた方がいいね」
「調教? 調教だと? ……そんなことするわけないだろ?」
よく我慢できている。俺ってこんなに気が長い方だっただろうか。自分でも驚くほど、怒りを押さえられていた。
「……どういうことだい?」
お互いの言葉の齟齬に、ようやく男が気付いたようだ。不思議そうに、シーツを被った道子と俺を見比べている。
「俺は一回だって調教なんてことはしてない。今、道子がこうなっているのは……俺が調子に乗りすぎたせいだ。道子が好きでなっているわけじゃない」
「はあ!? なんだいそれは? そんなのおかしいじゃないか!」
まるで信じられない、と髪を掻き揚げ男はわめいた。
「一ヶ月だよ? 一ヶ月も一緒にいたんなら自分の好きなように女を使うのが当然じゃないか!」
一ヶ月も俺達は一緒に過ごしていたのか。長かったような気もするし、短かったようなきもする。
「――ああそうか、放浪大図書館の記憶を消したのがマズかったのか。それじゃあ命令で自分好みの女に仕立てるのも難しいか」
合点がいった、と男は落ちついていくが、俺は即座に否定する。よく分からない単語を連呼されたが、不思議を俺は違和感を感じていなかった。
「違う。それは違うぞ。例え俺が道子に命令できる立場だったとしても、俺は道子に命令なんてしなかった。調教なんて絶対にしない。俺は、道子が好きだから。好きな奴を操っったって、嬉しくもなんともない」
「ははっ、はははっ!」
男が笑い出した。どこか、常軌を逸した笑い方だ。これまでの笑顔を消し、口元を怒りに歪める。
「馬鹿じゃないのか!? 人形遊びをするんなら、人形を動かすのは自分自身の手しかないだろう! 自分で動く操り人形があるとでも思うか? それを、自分で動かすのが嫌だと? 人形が好きだと!? ふざけるな!」
腹から出る男の張りのある大声に、耳の奥がビリビリする。
大声ごときにひるむ俺ではない。
好きな女を人形だと言われて黙っていられるか。
「取り消せ! 道子は人形なんかじゃない!」
「人形さ! 俺と拓真以外、放浪大図書館にいるのは全部人形だ! ――くそっ! 僕は認めないぞ! 欲望に流されないなんて、そんなわけがあるか! ……そうだよ、そんなわけがあるはずない。僕が失敗したに決まっている。最初から拓真の自意識を奪ってしまっておけばこんなことには……」
唐突に自分の思考に陥り、なにやら独り言を呟きはじめる。
「おい! そんなことよりも人形って言葉を取り消せ!」
「ああ、うるさいなあ。わかったよ、証拠を見せればいいんだろ」
先ほどまでヒートアップしていたのがまるで嘘のように、どうでもいい、とばかりに振った。
「接続――線路に残る悔恨。お前は俺だけを愛せ。切断――線路に残る悔恨」
……今の言葉。とてつもなく嫌な感じがする。
「それじゃ、道子に誰が好きか聞いてみようか。人形じゃなければ、俺の言葉くらいじゃどうにもならないだろう?」
男は道子に近づき、シーツをめくった。
その時、俺は道子を見ていたことを後悔する。
ただ、こみ上げてくる快感に耐えている道子。
呼吸を荒くして、俺の愛撫を待っていたはずだった。
道子は、熱い視線を俺の親友である男へ向けていた。
「お前が好きなのは誰だ?」
「それはもちろん、あなた様です」
何も考えられなかった。
声を、言葉として認識できない。音だ。そういう音なのだ。
自分の耳を疑う。目を疑う。
「う、嘘だろ、道子……?」
俺の呼び声に、視線を一瞬だけ向ける。そして男に視線を戻す。情熱の篭もった瞳を。
俺を見たのは、まるで温度の感じられない瞳だった。まるで風景の一部としか感じていないような、自分の名を呼ばれたから反応しただけで好きとも嫌いとも感じてはいない、そんな瞳。
「うっとうしいよ、拓真。たかだか人形ごときに本気になっちゃって、ほんと、つまらないことをしていたよね。もういいや。親友だと思って優しくしていたのに、そんなに俺の期待に応えてくれないんだったら、こっちにだって考えがあるよ」
……俺の名前を呼ばれたような気がする。理解しようという気力もない。
とにかく、絶望感で一杯だった。
そんな馬鹿なことがあってたまるか。あれだけお互いの気持ちを確かめ合ったのに、たった一言で――
「接続――反発する自我」
「もう手っ取り早く罪を犯してもらおう。こんな調子じゃ、拓真にあわせてなんていられない。俺はそんなに気が長い方でもないんだよ」
「……そうだな、どうせなら僕の役に立ってもらおう。親友なんだから、それぐらいは当然だよね」
「拓真。これからお前は俺の言葉に服従しろ。俺はお前の主君で、お前は俺の命令に従う忠実な兵だ。切断――反発する自我」
―――――――――――――
もう、何も言えない。
ただ「その考えは間違っています」という一言が喉の奥でかすれて消えていく。
言葉通り、道子は主の一言で俺への想いを忘れてしまったようだ。
感情的には反論したい。それではただの私情で動いているだけだ。俺は、主のために働かなければならない。俺は持っている力の全てを主のために使わなければならない。
「拓真。これから『朝日を呼ぶ書』を押さえに行くよ」
「わかりました」
首肯して、一礼する。
例え命令で俺のことがどうでもよくなったとしても、それまで俺と生活してきた一ヶ月は嘘ではないはずだ。その間、確かに道子は俺のことを好きだったと信じられる。
俺は忘れない。
道子が命令で俺への気持ちを忘れたとしても、俺はこの気持ちを忘れない。
例え無駄だとしても、俺はもう一度お前に告白をしよう。今はまだ落ちつくだけでも精一杯だで、道子に対してまともな言葉も紡げない。
だから、次に会う時に、必ず。
「これから放浪大図書館へ戻るけど、目を閉じて、俺がいいというまで開けないでくれよ」
「はい」
頬を流れた水を指で拭い去り、俺は目蓋を閉じた。
「もう目を開いていいよ」
目蓋を開くと、そこは見覚えのある場所だった。
どこかの屋敷だろうか、赤い絨毯がどこまでも続いている廊下。壁には等間隔にドアがいくつも並んで、どこのドアがどんな部屋に繋がっているのか、目印になるようなものすらない。
……なんだ? 俺は知っている。ここにあるドア全てがそれぞれ遠く離れた場所にあるどこかのドアと繋がっているということを。
放浪大図書館という名前も知っている。ここは現実ではないということを知っている。
『朝日を呼ぶ書』という本も知っている。世界を救うために作られた本だということも。
どうして俺は知っている?
「見つけた。こっちだ」
廊下に並ぶドアを睥睨していた主はそう言って廊下を歩き出し、俺は思考を中断して無言で付き従う。
何個目のドアだろうか、主は無造作にドアノブに手を伸ばし、開けて中に入っていく。適当に当たりをつけているとしか思えないが、おそらく主には分かるのだろう。
入っていった場所は、本棚が延々と並ぶ部屋だった。天井は廊下と比べれば随分と低く作られており、俺がジャンプすれば余裕で届くくらいの高さだ。天井一杯の高さの本棚が並んでおり、広いことは広いが、果てが見えない、というほど非常識に広いわけでもない。
「拓真、ついてきて。こっちだよ」
「すいません」
先に歩き出していた主に手招きされ、室内を見まわしていた俺は慌てて主に追いつく。
いくつもの本棚の間を通っていくが、どこにも人影を見つけることができない。
歩いていくうちに、遠くの本棚で作業をしている人影が見えた。本棚の本を台車に積んでいるらしい。黒いメイド服のようなものを着ていることから女性だと推測する。
不意に本を降ろす手を止め、こちらを向いた。
女性の顔を見て、俺は驚く。
「えっ、雪美ちゃん――」
どうしてこんな場所にいるんだ、と驚くが、すぐに納得した。『朝日を呼ぶ書』と雪美ちゃんとの繋がりを思い出したのだ。
「朝日よ!」
雪美ちゃんは両手を掲げ、一冊の本を虚空から取り出した。鎖を一気にほどいていき、書を閉じていた鍵を開けた。
「止まりなさい」
書を左手に、鎖を右手に、雪美ちゃんは向き直った。その視線は敵意に満ちている。
「雪美ちゃん、ちょっと待ってくれ!」
雪美ちゃんと主の間に割って入って呼びかけながら、俺は困惑する。どうして雪美ちゃんはこんなに敵対的なんだ? あの書で攻撃されたら、俺も主もひとたまりもない。
「山崎さま。お怪我はありませんか? すぐにその者に開放させますから、もう少し我慢していて下さい」
雪美ちゃんは主から視線を動かさずに言った。
「ふん。雪美の姿をした人形が、生意気な。その書のおかげで命令が無効になるからといって、いつまでも強気でいられるか?」
主が不愉快そうに吐き捨てる。
……どうして主は人形にこだわるのだろうか。例え自由に動かすことができるとしても、彼女たちが人形であるはずがないのに。
「まだ、私を抱き足りないんですか? 『朝日を呼ぶ書』を手に入れた私には命令が通じないから、山崎さまを連れてきたんですか? ゲス、ですね」
「は! 勘違いするな。お前みたいな人形なんぞ頼まれても抱きたいとは思わないさ。俺が欲しいのは、本物の雪美だ。形が似ているからといって、いい気になるな!」
「私は人形でありません。訂正してください」
「人形を人形と言って何が悪い。ああ――ああ! これだから人形は嫌いんだよ! 生意気で図々しくて、すぐに人間様に口出しする!」
主が、火がついたように喋りだした。後ろを盗み見ると、我慢ならない、という感情が表情からありありと見てとれる。
「本物そっくりに作られたからといって、自分は人間だと言う! 言うこと為すこと人間そっくりになれば、人形ではなくなるとでも思っているのか? 醜い! なんて醜い存在だ! それを抱き足りないだと? 思い上がるな! 気持ちが悪いよ。気持ちが悪いんだよ、お前の存在は。そんなお前に、そんな立派な本は似合わない。人間のために作られたその本は、人間である俺が持つべきなんだよ! 強大な力を持つのは人間であるべきなんだ! 人形なんかが俺以上の力を持つなんて許されないんだよ!」
絶叫する主の声を、冷静に聞き取る。
俺は、不思議だった。
主はどうして人形だと決めつけ、人形を嫌うのか。
俺には雪美ちゃんが――道子が、人形とはとても思えない。
例え人形だとしても。
俺は彼女たちには心があると感じられる。人間でなくとも、言葉を交わして分かり合えるのなら、必ず人間でなければならない必要はないのではないか?
「……『朝日を呼ぶ書』が目的だというわけですか。直接ぶつかれば勝ち目は無いから、山崎さまを巻きこんだんですね」
雪美ちゃんが悔しそうに歯噛みする。
「ふん、説明の手間がはぶけたな。拓真、そいつがなにか妙な動きをしたら、舌を噛み切って死ね。……ほら、人形。書を床に置いて下がれ」
主の言葉に、俺は愕然とした。俺を人質に、雪美ちゃんからその書を奪おうというのか。だが、それが主の考えなら、俺は従うしかない。
雪美ちゃんは鎖を右腕からほどいて、書を床に置いた。
すると、書の鎖が勝手に動き出す。鍵をかけ、書に巻き付いていき、そのまま動かなくなった。
俺は、書が動かなくなったのを見計らって、手に取った。見た目ほど、重くはない。鎖の重量だけでも結構な重さだと思っていたが。
「よし、拓真。早く持ってきてくれ」
いつの間にか普段の穏やかさを取り戻した声で、主が催促する。
俺が書を拾う様子をじっと見ていた雪美ちゃんに、目の動きだけで謝辞を伝える。声を大にして謝っては、主を否定しているようなものだ。伝わったかどうか確認しないまま、俺は『朝日を呼ぶ書』を主に渡した。
「ふふ、ははは、ははははは! やった! やったぞ! 『朝日を呼ぶ書』だ! ははは、最高だ! 素晴らしい力が俺のものになった! ははははは!」
書を高だかと掲げて、主が書を手に入れたことを喜んでいる。
「おめでとうございます」
そう言うものの、心中では素直に喜べないのが現状だ。人の物をこんな方法で奪い取るなんて、褒められることじゃない。
「……ん? なんだこれは?」
主は鎖に手をかけた姿勢のまま、眉をしかめている。鎖をほどこうとしているようだが、どうにもうまくいかないようだ。
「くっ、固いな……拓真、ほどいてみてくれ」
「はい」
書をぐるぐる巻きにしている鎖の先端を見つけ、そこから鎖を引っ張ってほどいていく。確かに固いが、ほどけないほどじゃない。
「えっ――?」
雪美ちゃんが驚いているみたいだった。
……鎖をほどくコツでもあるのだろうか。それを知らないとほどけないのに、知らないはずの俺がほどけているから驚いた、とか。
「ああ、そこまででいいよ。後は俺がやるから」
「わかりました」
書を差し出した瞬間、鎖がまたも勝手に動き、緩めた部分が書に巻き付いてしまった。
「なんだ? 俺を馬鹿にしているかな?」
主がどんなに力を入れて鎖を引っ張っても、鎖は少しもほどけない。もう一度手渡されるが、それほど苦もなくほどいていける。俺には鎖がそれほど固く締まっているとも思えない。主に渡そうとすると鎖の緩んでいる部分が書に巻きつき、やはりビクともしない。
「あああああ! 本ごときが俺をコケにするか!」
床へ『朝日を呼ぶ書』を叩きつけ、ヒステリックに叫ぶ。
「落ちついて下さい。せっかく手に入れた書なんですから、そんな扱いは――」
「うるさいっ! 誰が俺に意見しろと言った!」
「――申し訳ありません」
俺は頭を下げて、口を閉ざした。そう言われては、なだめることも諭すこともできない。
「くそっ! くそっ! くそっ! くそっ!」
書を何度も足蹴にして、苛立ちをぶつけている。
しばらくしてようやく落ちついたのか、書を手にとって汚れを払う。
「まあ、いい。書は目的通り手に入ったんだ。次は拓真の用事を済まそうか。――拓真、そこの人形を犯せ」
なんてことを命令するのだろう。
「…………」
俺は逡巡する。命令に従わなければいけないが、俺はそんな行為は絶対に――
「返事をしないか」
「は、い……」
主の命令は絶対だ。
ゆっくりと、雪美ちゃんに近づいていく。足取りは重い。当然だ、そんなことしたくないのだから。
雪美ちゃんは俺を見据えている。怒っているのか、嘆いているのか、その視線からは読み取れない。
「拓真、なにをのんびりしているんだい? 早く雪美の人形を抱きしめなよ」
楽しげな声だ。主の命令に従っているが、嗜好は一生理解できそうにもない。
「雪美ちゃん、すまない」
雪美ちゃんの肩と頭を腕の中に収めて、呟いた。
「わかっていますから」
いっそ、嫌ってくれた方が救われる。
それなのに、雪美ちゃんは怒りも嘆きも感じさせない、おだやかな声で告げた。
くそっ、こんないい子を抱かなきゃいけないなんて……!
不甲斐ない。俺がもっと上手く立ち回っていれば、主にこんな命令を受けずにすんだのではないだろうか。
「雪美ちゃん……ほんと、すまねえ……」
「わかっていますから」
雪美ちゃんの声を聴くだけで、胸が詰まる。
「やっぱりそんな愛想が無いよりも、本物そっくりになった方がいいね。接続――前方を見据える憧憬」
主の言葉の後、雪美ちゃんの身体が硬直する。
「……雪美ちゃん?」
呼びかけても、反応がない。それどころか、押しても引いても動かず、肌は固く体温も感じられない。まるで彫像のようだ。
「再設定モード起動。精神フォーマット設定――思考パターンにおける基準反映率を100%に変更。精神フォーマット設定終了。再設定モード終了。……うーん、どんな命令でいやらしくしようか。そうだな、雪美は五分置きに全身を針に刺されるような激痛に襲われることにしよう。その激痛は拓真の体液を飲めば次の時間まで収めることができる。体液は汗でも、涙でも、唾液でも、精液でもなんでもいい――そうだ、雪美は拓真の体液が大好物だ。舐めるととても美味しい味がする。拓真から出て来るものはなんでも好きだ。一度舐めてしまえば、もう拓真の体液を口にすることで頭が一杯になる。切断――前方を見据える憧れ」
「は――あっ!」
「雪美ちゃん!?」
両腕で自分の肩を抱いて、雪美ちゃんが膝から崩れ落ちる。床に額をつけて、ブルブルと震えはじめた。
「ほら、拓真。そいつにヨダレでもザーメンでもいいからあげなよ。そうしないと、いつまでも苦しむことになるよ? ふふ、体液ならなんでも美味しく感じられるようにしたから、後で小便も飲ませてあげるといいよ。きっと喜ぶから」
雪美ちゃんが苦しむ様子を、面白い見世物を見ているかのような態度だ。
もうこれ以上、主の暴挙を見過ごすわけにはいけない。主の間違いを正すのも、忠実な部下の役目だろう。
「主っ! もう止めて下さい!」
「……ん?」
「どうしてこんなことばかりするんですか? 人形なのかもしれませんが、この子はこうして苦しんでいるんです! お願いですから――」
「拓真、いったいどうしたんだい?」
俺の懇願をまるで取り合わず、質問を返された。
「どうした、とは?」
「いや……おかしいよ、拓真」
主の様子がおかしい。先ほどのようなヒステリーでもない。戸惑っているみたいだ。
「どうしてだい? どうして拓真が俺に意見できる? 俺はヨダレかザーメンをやれ、と言ったはずなのに。命令したはずだよね、絶対服従しろ、と。なのに、なぜだ? 拓真は俺に意見できないはずだよ?」
「いえ、そう言われましても……」
どう見ても主が間違っているなら、それを正して主の行く先を示すのが俺の役目だ。
「そうだ。津村道子に執着していたときだって、どうして俺にあんな強い調子で俺に反論できたんだ? 拓真には優しくしろ、って命令してあったはずなんだ。どうしてだい?」
「……わかりません。そんなことより、雪美ちゃんを――」
「うるさい! 人形のことなんか放っておけ!」
「ですが――」
「黙れ!」
どうしたのだろうか。主は顔を青ざめさせながら、じりじりと後ずさっていく。
「い、い、いいから、そいつを犯せ! これは命令だ! 後で見に戻るから、それまでここで雪美を犯し続けていろ! 絶対だからな!」
言い捨て、主は走り出してしまった。
「待って下さい!」
俺の呼びかけに振り向きもせず、本棚の角を曲がっていく。足音は遠ざかり、すぐに気配も感じられなくなる。
「くそっ……」
なんて主だ。眉を顰めて命令を思い出し、眉がさらに寄る。
あの様子では、追いかけて命令を撤回させることも無理だろう。
命令には逆らえない。雪美ちゃんを犯さねばならない。それなのに、雪美ちゃんの苦しみようを心配する。
きっと俺は偽善者なのだろう。
「雪美ちゃん、大丈夫か?」
「くぅ……ううう……」
俺は雪美ちゃんの横に立膝をついて、上半身を抱き寄せる。膝にもたれさせるような体勢をとらせた。額には脂汗をびっしりと浮かんでおり、両手は痛みを耐えるためかエプロンを強く握り締めていた。
痛みに耐えるのにギュッと目を閉じていた目蓋をうっすらと開け、ぎこちなく笑う。
「気にしなくて、いいよ……。雪美、痛いの、には、書を扱う訓練で、慣れて、る、から……」
喋るのも辛そうな雪美ちゃんを見て、放っておけるはずがない。
俺は自分の人差し指を舐めて、その指を雪美ちゃんの口に近づける。
「雪美ちゃん、嫌かもしれないけど、これを舐めれば痛みが消えるんだ。だから――」
「いらない。舐めたら、雪美、我慢できなくなる。さっきの、命令、山崎さんも、聴いてた、よね? 命令には、逆らえないって、雪美、知っ、てるよ。山崎さんは、他の、誰とも、違うみたいだけど。もしかしたら、館長候補には、命令に耐性があるの、かっ」
痛みに言葉を途切れさせ、歯を食いしばって手が白くなるくらいエプロンを握りしめる。
どうする。
人を呼ぶにも、俺にはこの放浪大図書館の構造がわからない。第一、主の命令があるのだ。雪美ちゃんを犯せという命令。
命令――
「そうだ!」
思い出した。俺にも命令できるんだ。
「接続――牧原雪美。主の命令を全消去。切断――牧原雪美」
頼む、効いてくれ――
俺の願いも空しく、雪美ちゃんは変わらず苦しそうにあえいでいる。
「……無理、だ、よ。あいつの、命令の、方が、権限、が、上だから。山崎さんの、命令じゃ、こ、の、痛みは……消せないよ」
そんな。
どうにもすることはできないのか。
俺は、雪美ちゃんを抱かなければならない。俺の気持ちよりも大きななにかが、命令に従えと背中を押してくるのだ。
いいアイディアが浮かばない。
雪美ちゃんを苦しめることしか出来ない自分が許せない。
そんな想いと共に、俺は雪美ちゃんに最低な宣言をする。
「聞いてくれ。俺は、これから雪美ちゃんを犯す」
「…………」
痛みにうつろになった瞳で、俺を見つめてくる。
唾液が乾いてひんやりとする指をもう一度舐め、尋ねた。
「どうする? 今のまま犯されるか、せめて痛みを消して犯されるか。選んでくれ」
こんな幼い年頃の女の子に、俺はなんて選択を委ねているんだろう。罪悪感にさいなまれながら、俺は唾液で濡れた指を雪見ちゃんの口に近づける。
雪美ちゃんは、口を開いて俺の指を求めた。
俺は頷いて、雪美ちゃんの口に指を差し入れる。
「ちゅっ。……ちゅっちゅっちゅっちゅっ」
一度吸いつくと、まるで赤ん坊のように指を咥えて離さない。
「ちゅーっ、ちゅっちゅちゅちゅっ、ちゅちゅーっ」
「雪美ちゃん?」
止まる気配がないので声をかけてみる。
「あっ……ご、ごめんなさいっ」
俺の呼びかけに一瞬残念そうな顔をして、雪美ちゃんが口を離して飛び起きた。表情からはもう痛むところがあるようには見えないので、ほっとする。
「大丈夫か?」
「うん、もう平気。痛いところはないよ」
俺の言葉に笑顔で応えてくれる。さっきまでの冷めた雰囲気の雪美ちゃんとはまるで違う。いや、これが普段の雪美ちゃんではあるので、元に戻ったと言う方が正しいか。
笑いを収めると、雪美ちゃんは俺の顔を見つめてくる。ぼーっとしていて、心ここにあらず、といった様子だ。
「なに?」
「え?」
「俺の顔を見てただろ?」
「……うん」
顔を赤くして頷く様子を見て、俺は察した。ああ、そうか。俺の唾液が欲しいのか。
あんな命令のせいで雪美ちゃんは……ちくしょう。
「雪美ちゃん」
雪美ちゃんの腕を掴み、抱き寄せる。
「もし、俺が自由になったら、できる限りの償いをすると約束する」
「山崎さん……、山崎さんって優しいね。命令のせいにしないで、責任を取るなんて言う人……初めて見たよ」
「責めてくれていいんだぞ?」
物分りが良すぎて、それが一層俺の心を締めつける。こんな良い子に傷をつけなきゃいけないと思うと、やるせない。
「そんなことしないよ。山崎さんが辛いっていうのは、よくわかるから。いいよ、山崎さん優しいから、山崎さんなら雪美のこと好きにして。雪美、あいつに色んなことされたから、抱かれるのがどういうことなのか、よく知ってるよ? ……あっ、言っておくけど、雪美は雪美じゃないんだからね! ええと、そうじゃなくって、色々されたのは雪美だけで、現実の方の雪美は何も知らなくて、ええと、放浪大図書館の雪美は現実の雪美の影響を一方的に受けているだけだから、雪美が傷ついても現実の雪美に傷がなければ治っちゃうというか、あの、色々されてるって言ったけど、身体は綺麗なままで――違う! 違うの! 雪美はそういうことを言いたかったんじゃないの! 山崎さん、今のは聞かなかったことにしてっ!」
あせって何やら弁明している雪美ちゃんが可愛い。
それにしても、主はこんな女の子に性的な行為を強制していたのか。そうしておいて、あんな人とも思わない態度を取る。いや、人と思っていないからこそ、そんなことができたのかもしれないが。
「ねえ、山崎さん。ひとつお願いがあるの」
「なんだ?」
「もし、雪美のことを考えていてくれるんなら、雪美に命令しないで欲しいの。もう命令で雪美の身体がおかしくなるのがイヤなの。雪美はあいつの言う通り人形かもしれないけど、雪美は雪美のこと人形なんて思ってないもん。雪美を人形にしているのは、命令をするあいつの方だよ。……だから山崎さん、雪美が人形じゃないと思ってくれるんなら、命令しないで」
「ああ、分かった――うむっ!?」
俺が頷くと、雪美ちゃんが襲い掛かってきた。俺の唇を強引に奪い、舌を絡めさせてきた。
「ちゅちゅっ! ふむっ、んっ、んんっ、ちゅっ、じゅちゅっ、うむっ……んっ、ごめんなさいっ……が、我慢できなくなっちゃったの……や、山崎さんの……欲しくて……その、恥ずかしいんだけど………………………………………………ヨダレ、が」
唇を離すや、真っ赤になってうつむく雪美ちゃん。
「ああ、わかってるから」
仕方ないんだ。雪美ちゃんはそういう風にされてしまっているのだから。
俺だって同じようなものだが、やろうとしている事は比べようもない。俺にできるのは、できる限り痛みを減らしてやることだけだ。命令すればなんとでもなるが、雪美ちゃんと約束したので使わない。
「雪美ちゃんが欲しいんなら、いらなくなるまでやるよ」
できることならなんでもしてあげたい。それぐらい、お易い御用だ。
「ほんとっ!? ――あ」
満面の笑顔で喜び、我に返った雪美ちゃんは更に顔を赤める。唾液は欲しいが、そういう行為に対する羞恥心は残っているのだろう。
「山崎さん、恥ずかしいから目を閉じて」
「ああ」
言われるまま、目を閉じる。
「そ、それじゃ、いただき、ます……」
雪美ちゃんと、二度目の口付けをした。
閉じた目蓋の裏に映ったのは道子の顔で、だけどまるで感触の違う唇の感触に、道子の顔が掻き消えてしまう。
道子に対して罪悪感を覚える俺は、どうしようもなく滑稽なんだろう。
雪美ちゃんの舌にいいように口内を蹂躙されながら、俺は目蓋を開いた。目を閉じていると、すぐに道子を思い出してしまう自分が許せなかったから。
まるで雪美ちゃんを道子の代用にしているみたいではないか。
せめて。
この時、身体を重ねている間だけは、俺は雪美ちゃんを好きだと錯覚しよう。
自己満足なのかもしれないが、俺はそれが雪美ちゃんに対する誠意だと思った。
雪美ちゃんの舌に自分の舌を絡ませていく。驚いたのか舌の動きが一瞬止まるが、すぐに熱心に舌を絡ませてくる。
「ぷは……雪美ちゃん」
口付けを中断し、雪美ちゃんの耳元に囁く。
「この瞬間だけは、俺は雪美ちゃんを恋人だと思う」
「それじゃ、雪美も」
雪美ちゃんは一切躊躇をせずに言いきったことに、驚く。
「これで二人は恋人同士だね」
嬉しそうにくすくすと忍び笑いを漏らす雪美ちゃんの顔を、見る気にはとてもなれなかった。
もし見てしまったら、本当に雪美ちゃんに惚れてしまいそうだった。それくらい、俺は雪美ちゃんの優しさに心を打たれてしまっていた。
失恋直後に新しい恋をする、なんて都合が良すぎる。それこそ道子を失ってできた穴を埋める身代わりにしているようなものだ。
俺は頭を振って、今の気持ちを忘れるかのように乱暴に雪美ちゃんの口内を舌でまさぐった。
目蓋を閉じたままで。
道子の姿は映らなかった。
< つづく >